二流の人
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著者名:坂口安吾 

   第一話 小田原にて


       一

 天正十八年、真夏のひざかりであつた。小田原は北条征伐の最中で、秀吉二十六万の大軍が箱根足柄の山、相模の平野、海上一面に包囲陣をしいてゐる。その徳川陣屋で、家康と黒田如水が会談した。この二人が顔を合せたのはこの日が始まり。いはゞ豊臣家滅亡の楔が一本打たれたのだが、石垣山で淀君と遊んでゐた秀吉はそんなことゝは知らなかつた。
 秀吉が最も怖れた人物は言ふまでもなく家康だ。その貫禄は天下万人の認めるところ、天下万人以上に秀吉自身が認めてゐたが、その次に黒田如水を怖れてゐた。黒田のカサ頭(如水の頭一面に白雲のやうな頑疾があつた)は気が許せぬと秀吉は日頃放言したが、あのチンバ奴(め)(如水は片足も悪かつた)何を企むか油断のならぬ奴だと思つてゐる。
 如水はひどく義理堅くて、主に対しては忠、臣節のためには強いて死地に赴くやうなことをやる。カサ頭ビッコになつたのもそのせゐで、彼がまだ小寺政職といふ中国の小豪族の家老のとき、小寺氏は織田と毛利の両雄にはさまれて去就に迷つてゐた。そのとき逸早(いちはや)く信長の天下を見抜いたのが官兵衛(如水)で、小寺家の大勢は毛利に就くことを自然としてゐたが、官兵衛は主人を説いて屈服させる。即座に自らは岐阜に赴き、木下藤吉郎を通して信長に謁見、中国征伐を要請して、小寺家がその先鋒たるべしと買つてでた。このとき官兵衛は二十を越して幾つでもない若さであつたが、一生の浮沈をこの日に賭け、いはゞ有金全部を信長にかけて賭博をはつた。持つて生れた雄弁で、中国の情勢、地理風俗にまでわたつて数万言、信長の大軍に出陣を乞ひ自ら手引して中国に攻め入るなら平定容易であると言つて快弁を弄する。頗る信長の御意にかなつた。
 ところが、秀吉が兵を率ゐて中国に来てみると、小寺政職は俄に変心して、毛利に就いてしまつた。官兵衛は自分の見透しに頼りすぎ、一身の賭博に思ひつめて、主家の思惑といふものを軽く見すぎたのだ。世の中は己れを心棒に廻転すると安易に思ひこんでゐるのが野心的な青年の常であるが、世間は左様に甘くない。この自信は必ず崩れ、又いくたびか崩れる性質のものであるが、崩れる自信と共に老いたる駄馬の如くに衰へるのは落第生で、自信の崩れるところから新らたに生ひ立ち独自の針路を築く者が優等生。官兵衛も足もとが崩れてきたから驚いたが、独特の方法によつて難関に対処した。
 官兵衛にはまだ父親が健在であつた。そこで一族郎党を父につけて、之(これ)を秀吉の陣に送り約をまもる。自分は単身小寺の城へ登城して、強いて臣節を全うした。殺されるかも知れぬ。それを覚悟で、敢て主人の城へ戻つた。いはゞ之も亦(また)一身をはつた賭博であるが、かゝる賭博は野心児の特権であり、又、生命だ。そして賭博の勝者だけが、人生の勝者にもなる。
 官兵衛は単身主家の籠城に加入して臣節をつくした。世は青年の夢の如くに甘々と廻転してくれぬから、此奴裏切り者であると土牢の中にこめられる。一刀両断を免がれたのが彼の開運の元であつた。この開運は一命をはつて得たもの、生命をはる時ほど美しい人の姿はない。当然天の恩寵を受くべくして受けたけれども、悲しい哉、この賭博美を再び敢て行ふことが無かつたのだ。こゝに彼の悲劇があつた。
 この暗黒の入牢(じゅろう)中にカサ頭になり、ビッコになつた。滑稽なる姿を終生負はねばならなかつたが、又、雄渾なる記念碑を負ふ栄光をもつたのだ。かういふ義理堅いことをやる。
 主に対しては忠、命をすてゝ義をまもる。そのくせ、どうも油断がならぬ。戦争の巧いこと、戦略の狡猾なこと、外交かけひきの妙なこと、臨機応変、奇策縦横、行動の速力的なこと、見透しの的確なこと、話の外である。
 中国征伐の最中に本能寺の変が起つた。牢の中から助けだされた官兵衛は秀吉の帷幕(いばく)に加はり軍議に献策してゐたが、京から来た使者は先づ官兵衛の門を叩いて本能寺の変をつげ、取次をたのんだ。六月三日深夜のことで、使者はたつた一日半で七十里の道を飛んできた。官兵衛は使者に酒食を与へ、堅く口止めしておいて、直ちに秀吉にこの由を告げる。
 秀吉は茫然自失、うなだれたと思ふと、ギャッといふ声を立てゝ泣きだした、五分間ぐらゐ、天地を忘れて悲嘆にくれてゐる。いくらか涙のおさまつた頃を見はからひ、官兵衛は膝すりよせて、さゝやいた。天下はあなたの物です。使者が一日半で駈けつけたのは、正に天の使者。
 丁度その日の昼のこと、毛利と和睦ができてゐた。その翌日には毛利の人質がくる筈になつてゐたから、本能寺の変が伝はらぬうちと官兵衛は夜明けを待たず人質を受取りに行き、理窟をこねて手品の如くにまきあげやうとしたけれども、もう遅い。金井坊といふ山伏が之も亦風の如く駈けつけて敵に報告をもたらしてゐる。官兵衛はそこで度胸をきめた。敵方随一の智将、小早川隆景を訪ね、楽屋をぶちまけて談判に及んだ。
「あなたは毛利輝元と秀吉を比べて、どういふ風に判断しますか。輝元は可もなく不可もない平凡な旧家の坊ちやんで、せゐぜゐ親ゆづりの領地を守り、それもあなたのやうな智者のおかげで大過なしといふ人物です。天下を握る人物ではない。然るに、秀吉は当代の風雲児です。戦略家としても、政治家としても、外交家としても、信長公なき後は天下の唯一人者で、之に比肩し得る人物は先づゐない。たま/\本能寺の飛報が二日のうちにとゞいたのも秀吉の為には天の使者で、直ちに踵(きびす)をめぐらせて馳せ戻るなら光秀は虚をつかれ、天下は自ら秀吉の物です。柴田あり徳川ありとは云へ、秀吉を選び得る者のみが又選ばれたる者でせう。信長との和睦を秀吉との和睦にかへることです。損の賭のやうですが、この賭をやりうる人物はあなたの外には先づゐない。あなたにも之が賭博に見えますか。否々。これは自然天然の理といふものです。よろしいか。秀吉の出陣が早ければ、天下は秀吉の物になる。この幸運を秀吉に与へる力はあなたの掌中にあるのです。だが、あなた自身の幸運も、この中にある。毛利家の幸運も、天下の和平も、挙げてこの中にあり、ですな」
 隆景は温厚、然し明敏果断な政治家だから官兵衛の説くところは真実だと思つた。輝元では天下は取れぬ。所詮人の天下に生きることが毛利家の宿命だから、秀吉にはつてサイコロをふる。外れても、元金の損はない。そこで秀吉に人質をだして、赤心を示した。
 けれども、官兵衛は邪推深い。和睦もできた。いざ光秀征伐に廻れ右といふ時に、堤の水を切り落し、満目一面の湖水、毛利の追撃を不可能にして出発した。人は後悔するものだ。然して、特に、去る者の姿を見ると逃したことを悔ゆる心が騒ぎだす。
 官兵衛は堤を切り、満目の湖を見てふりむいた。それから馬を急がせて秀吉の馬に追ひつき、さゝやいた。毛利の人質を返してやりなさい。なぜ? 官兵衛はドングリ眼をギロリとむいて秀吉を見つめてゐる。なぜだ! 秀吉は癇癪を起して怒鳴つたが、官兵衛は知らぬ顔の官兵衛で、ハイ、ドウ/\、馬を走らせてゐるばかり。もとより秀吉は万人の心理を見ぬく天才だ。逃げる者の姿を見れば人は追ふ。光秀と苦戦をすれば、毛利の悔いはかきたてられ、燃えあがる。人質が燃えた火を消しとめる力になるか。燃えた火はもはや消されぬ。燃えぬ先、水をまけ。まだしも、いくらか脈はある。之も賭博だ。否々。光秀との一戦。天下浮沈の大賭博が今彼らの宿命そのものではないか。
 アッハッハ。人質か。よからう。返してやれ。秀吉は高らかに笑つた。だが、カサ頭は食へない奴だ。頭から爪先まで策略で出来た奴だ、と、要心の心が生れた。官兵衛は馬を並べて走り、高らかな哄笑、ヒヤリと妖気を覚えて、シマッタと思つた。
 山崎の合戦には秀吉も死を賭した。俺が死んだら、と言つて、楽天家も死後の指図を残したほど、思ひつめてもゐたし、張りきつてもゐたのだ。
 ところが兵庫へ到着し、愈々決戦近しといふので、山上へ馬を走らせ山下の軍容を一望に眺めてみると、奇妙である。先頭の陣に、毛利と浮田の旗が数十旒(りゅう)、風に吹き流れてゐるではないか。毛利と浮田はたつた今和睦してきたばかり、援兵を頼んだ覚えはないから、驚いて官兵衛をよんだ。
「お前か。援兵をつれてきたのは」
 官兵衛はニヤリともしない。ドングリ眼をむいて、大さうもなく愛嬌のない声ムニャ/\とかう返事をした。小早川隆景と和睦のときついでに毛利の旗を二十旒だけ借用に及んだのである。隆景は意中を察して笑ひだして、私の手兵もそつくりお借ししますから御遠慮なく、と言つたが、イエ、旗だけで結構です、軍兵の方は断つた。浮田の旗は十旒で、之も浮田の家老から借用に及んで来たものだ。光秀は沿道間者を出してゐるに相違ない。間者地帯へはいつてきたから、先頭の目につくところへ毛利と浮田の旗をだし、中国軍の反乱を待望してゐる光秀をガッカリさせるのだ、と言つた。
 秀吉は呆れ返つて、左右の侍臣をふりかへり、オイ、きいたか、戦争といふものは、第一が謀略だ。このチンバの奴、楠正成の次に戦争の上手な奴だ、と、唸つてしまつた。
 けれども、唸り終つて官兵衛をジロリと見た秀吉の目に敵意があつた。又、官兵衛はシマッタと思つた。

 中国征伐、山崎合戦、四国征伐、抜群の偉功があつた如水だが、貰つた恩賞はたつた三万石。小早川隆景が三十五万石。仙石権兵衛といふ無類のドングリが十二万石の大名に取りたてられたのに、割が合はぬ。秀吉は如水の策略を憎んだので故意に冷遇したが、如水の親友で、秀吉の智恵袋であつた竹中半兵衛に対しても同断であつた。半兵衛は秀吉の敵意を怖れて引退し、如水にも忠告して、秀吉に狎れるな、出すぎると、身を亡す、と言つた。如水は自らを称して賭博師と言つたが、機至る時には天下を的に一命をはる天来の性根が終生カサ頭にうづまいてゐる。尤も、この性根は戦国の諸豪に共通の肚の底だが、如水には薄気味の悪い実力がある。家康は実力第一の人ではあるが温和である。ところが黒田のカサ頭は常に心の許しがたい奴だ、と秀吉は人に洩した。如水は半兵衛の忠告を思ひ出して、ウッカリすると命が危い、といふことを忘れる日がなくなつた。
 九州征伐の時、如水と仙石権兵衛は軍監で、今日の参謀総長といふところ、戦後には九州一ヶ国の大名になる約束で数多(あまた)の武功をたてた。如水は城攻めの名人で、櫓をつくり、高所へ大砲をあげて城中へ落す、その頃の大砲は打つといふほど飛ばないのだから仕方がない、かういふ珍手もあみだした。事に当つて策略縦横、戦へば常に勝つたが、一方の仙石権兵衛は単純な腕力主義で、猪突一方、石川五右衛門をねぢふせるには向くけれども、参謀長は荷が重い。大敗北を蒙り、領地を召しあげられる始末であつた。けれども秀吉は毒気のない権兵衛が好きなので、後日再び然るべき大名に復活した。如水は大いに武功があつたが、一国を与へる約束が豊前のうち六郡、たつた十二万石。小早川隆景が七十万石、佐々成政が五十万石、いさゝか相違が甚しい。
 見透しは如水の特技であるから、之は引退の時だと決断した。伊達につけたるかカサ頭、宿昔青雲の志、小寺の城中へ乗りこんだ青年官兵衛は今いづこ。
 秀吉自身、智略にまかせて随分出すぎたことをやり、再三信長を怒らせたものだ。如水も一緒に怒られて、二人並べて首が飛びさうな時もあつた。中国征伐の時、秀吉と如水の一存で浮田と和平停戦した。之が信長の気に入らぬ。信長は浮田を亡して、領地を部将に与へるつもりでゐたのである。二人は危く首の飛ぶところであつたが、猿面冠者(さるめんかじゃ)は悪びれぬ。シャア/\と再三やらかして平気なものだ。それだけ信長を頼りもし信じてもゐたのであるが如水は後悔警戒した。傾倒の度も不足であるが、自恃(じじ)の念も弱いのだ。
 如水は律義であるけれども、天衣無縫の律義でなかつた。律義といふ天然の砦がなければ支へることの不可能な身に余る野望の化け者だ。彼も亦一個の英雄であり、すぐれた策師であるけれども、不相応な野望ほど偉くないのが悲劇であり、それゆゑ滑稽笑止である。秀吉は如水の肚を怖れたが、同時に彼を軽蔑した。
 ある日、近臣を集めて四方山話の果に、どうだな、俺の死後に天下をとる奴は誰だと思ふ、遠慮はいらぬ、腹蔵なく言ふがよい、と秀吉が言つた。徳川、前田、蒲生(がもう)、上杉、各人各説、色々と説のでるのを秀吉は笑つてきいてゐたが、よろし、先づそのへんが当つてもをる、当つてもをらぬ。然し、乃公(だいこう)の見るところは又違ふ。誰も名前をあげなかつたが、黒田のビッコが爆弾小僧といふ奴だ。俺の戦功はビッコの智略によるところが随分とあつて、俺が寝もやらず思案にくれて編みだした戦略をビッコの奴にそれとなく問ひかけてみると、言下にピタリと同じことを答へをる。分別の良いこと話の外だ。狡智無類、行動は天下一品速力的で、心の許されぬ曲者だ、と言つた。
 この話を山名禅高が如水に伝へたから、如水は引退の時だと思つた。家督を倅(せがれ)長政に譲りたいと請願に及んだが、秀吉は許さぬ。アッハッハ、ビッコ奴、要心深い奴だ、困らしてやれ。然し、又、実際秀吉は如水の智恵がまだ必要でもあつたのだ。四十の隠居奇ッ怪千万、秀吉はかうあしらひ、人を介して何回となく頼んでみたが秀吉は許してくれぬ。ところが、如水も執拗だ。倅の長政が人質の時、政所(まんどころ)の愛顧を蒙つた、石田三成が淀君党で、之に対する政所派といふ大名があり、長政などは政所派の重鎮、さういふ深い縁があるから、政所の手を通して執念深く願ひでる。執念の根比べでは如水に勝つ者はめつたにゐない。秀吉も折れて、四十そこ/\の若さなのだから、隠居して楽をするつもりなら許してやらぬ、返事はどうぢや。申すまでもありませぬ。私が隠居致しますのは子を思ふ一念からで、隠居して身軽になれば日夜伺候し、益々御奉公の考へです。厭になるほど律義であるから、秀吉も苦笑して、その言葉を忘れるな、よし、許してやる。そこで黒田如水といふ初老の隠居が出来上つた。天正十七年、小田原攻めの前年で、如水は四十四であつた。
 ある日のこと、秀吉から茶の湯の招待を受けた。如水は野人気質であるから、茶の湯を甚だ嫌つてゐた。狭い席に無刀で坐るのは武人の心得でないなどゝ堅苦しいことを言つて軽蔑し、持つて廻つた礼式作法の阿呆らしさ、嘲笑して茶席に現れたことがない。
 秀吉の招待にウンザリした。又、いやがらせかな、と出掛けてみると、茶席の中には相客がをらぬ。秀吉がたつた一人。侍臣の影すらもない。差向ひだが、秀吉は茶をたてる様子もなかつた。
 秀吉のきりだした話は小田原征伐の軍略だ。小田原は早雲苦心の名城で、謙信、信玄両名の大戦術家が各一度は小田原城下へ攻めこみながら、結局失敗、敗戦してゐる。けれども、秀吉は自信満々、城攻めなどは苦にしてをらぬ。徴募の兵力、物資の輸送、数時間にわたつて軍議をとげたが、秀吉の心痛事は別のところにある。小田原へ攻めるためには尾張、三河、駿河を通つて行かねばならぬ。尾張は織田信雄(のぶかつ)、三河駿河遠江は家康の所領で、この両名は秀吉と干戈(かんか)を交へた敵手であり、現在は秀吉の麾下(きか)に属してゐるが、いつ異心を現すか、天下万人の風説であり、関心だ。家康の娘は北条氏直の奥方で、秀吉と対峙の時代、家康は保身のために北条の歓心をもとめて与国の如く頭を下げた。両家の関係はかく密接であるから、同盟して反旗をひるがへすといふ怖れがあり、家康が立てば、信雄がつく、信雄は信長の子供であるから、大義名分が敵方にあり諸将の動向分裂も必至だ。
 さて、チンバ。尾張と三河、この三河に古狸が住んでゐるて。お主は巧者だが、この古狸めを化かしおはして小田原へ行きつく手だてを訊きたいものだ。古狸の妖力を封じる手だてが小田原退治の勝負どころといふものだ。ワッハッハ。さうですな、如水はアッサリ言下に答へた。先づ家康と信雄を先発させて、小田原へ先着させることですな。之といふ奇策も外にはありますまい。先発の仲間に前田、上杉、などゝいふ古狸の煙たいところを御指名なさるのが一策でござらう。殿下はゆる/\と御出発、途中駿府の城などで数日のお泊りも一興でござらう。しくじる時はどう石橋を叩いてみてもしくじるものでござらうて。
 このチンバめ! と、秀吉は叫んだ。彼が寝もやらず思案にくれて編みだした策を、言下に如水が答へたからだ。お主は腹黒い奴ぢやのう。骨の髄まで策略だ。その手で天下がとりたからう。ワッハッハ。秀吉は頗るの御機嫌だ。
 ニヤリと如水の顔を見て、どうだな、チンバ、茶の湯の効能といふものが分らぬかな。お主はきつい茶の湯ぎらひといふことだが、ワッハッハ。お主も存外窮屈な男だ。俺とお主が他の席で密談する。人にも知れ、憶測がうるさからう。こゝが茶の湯の一徳といふものだ。なるほど、と、如水は思つた。茶の湯の一徳は屁理窟かも知れないが、自在奔放な生活をみんな自我流に組みたてゝゐる秀吉に比べると、なるほど俺は窮屈だ、と悟るところがあつた。
 ところが愈小田原包囲の陣となり、三ヶ月が空しくすぎて、夏のさかり、秀吉の命をうけて如水は家康を訪問した。このとき、はからざる大人物の存在を如水は見た。頭から爪先まで弓矢の金言で出来てゐるやうな男だと思ひ、秀吉が小牧山で敗戦したのも無理がない、あのとき俺がついてゐても戦さは負けたかも知れぬ、之は天下の曲者だ、と、ひそかに驚嘆の心がわいた。丁度小牧山合戦の時、折から毛利と浮田に境界争ひの乱戦が始まりさうになつたから、如水は秀吉の命を受け、紛争和解のため中国に出張して安国寺坊主と折衝中であつた。親父に代つて長政が小牧山に戦つたが、秀吉方無残の敗北、秀吉の一生に唯一の黒星を印した。なるほど、ふとりすぎた蕗(ふき)みたい、此奴は食へない化け者だ、と家康も亦律義なカサ頭ビッコの怪物を眺めて肚裡(とり)に呟いた。然し、与(くみ)し易いところがある、と判断した。

       二

 温和な家康よりも黒田のカサ頭が心が許されぬ、と言ふのは、単なる放言で、秀吉が別格最大の敵手と見たのは言ふまでもなく家康だ。
 名をすてゝ実をとる、といふのが家康の持つて生れた根性で、ドングリ共が名誉だ意地だと騒いでゐるとき、土百姓の精神で悠々実質をかせいでゐた。変な例だが、愛妾に就て之を見ても、生活の全部に徹底した彼の根性はよく分る。秀吉はお嬢さん好き、名流好きで、淀君は信長の妹お市の方の長女であり、加賀局は前田利家の三女、松の丸殿は京極高吉の娘、三条局は蒲生氏郷(うじさと)の娘、三丸殿は信長の第五女、姫路殿は信長の弟信包(のぶかね)の娘、主筋の令嬢をズラリと妾に並べてゐる。たま/\千利休といふ町人の娘にふられた。
 ところが、家康ときた日には、阿茶局が遠州金谷の鍛冶屋の女房で前夫に二人の子供があり、阿亀の方が石清水八幡宮の修験者の娘、西郷局は戸塚某の女房で一男一女の子持ちの女、その他神尾某の子持ちの後家だの、甲州武士三井某の女房(之も子持ち)だの、阿松の方がたゞ一人武田信玄の一族で、之だけは素性がよかつた。妾の半数が子持ちの後家で、家康は素性など眼中にない。ジュリヤおたあといふ朝鮮人の侍女にも惚れたが、之は切支丹(キリシタン)で妾にならぬから、島流しにした。伊豆大島、波浮(はぶ)の近くのオタイネ明神といふのがこの侍女の碑であると云ふ。徹底した実質主義者で、夢想児の甘さが微塵もない人であつた。
 秀吉は夢想家の甘さがあつたが、事に処しては唐突に一大飛躍、家康のお株を奪ふ地味な実質策をとる。家康は小牧山の合戦に勝つた、とたんに秀吉は織田信雄と単独和を結んで家康を孤立させ、結果として、秀吉が一足天下統一に近づいてゐる。降参して実利を占めた。
 和談の席で、秀吉は主人の息子に背かれ疑られ攻められて戦はねばならぬ苦衷を訴へて、手放しでワア/\と泣いた。長い戦乱のために人民は塗炭の苦に喘いでゐる。私闘はいかぬ。一日も早く天下の戦乱を根絶して平和な日本にしなければならぬ。秀吉は滂沱(ぼうだ)たる涙の中で狂ふが如くに叫んだといふが、肚の中では大明遠征を考へてゐた。まんまと秀吉の涙に瞞着された信雄が家康を説いて、天下の平和のためです、秀吉の受売りをして、御子息於義丸を秀吉の養子にくれて和睦しては、と使者をやると、家康は考へもせず、アヽ、よからう、天下の為です。家康は子供の一人や二人、煮られても焼かれても平気であつた。秀吉は光秀を亡してゐるのだから、時世は秀吉のものだ。信雄は主人の息子、一緒なら秀吉と争ふことも出来るけれども、大義名分のない私闘を敢て求める家康ではない。あせることはない。人質ぐらゐ、何人でもくれてやる。
 秀吉は関白となり、日に増し盛運に乗じてゐた。諸国の豪族に上洛朝礼をうながし、応ぜぬ者を朝敵として打ち亡して、着々天下は統一に近づいてゐる。一方家康は真田昌幸に背かれて攻めあぐみ、三方ヶ原以来の敗戦をする。重臣石川数正が背いて秀吉に投じ、水野忠重、小笠原貞慶、彼を去り、秀吉についた。家康落目の時で、実質主義の大達人もこの時ばかりは青年の如くふてくされた。
 秀吉のうながす上洛に応ぜず、攻めるなら来い、蹴ちらしてやる、ヤケを起して目算も立てぬ、どうともなれ、と命をはつて、自負、血気、壮んなること甚だしい。連日野に山に狩りくらして秀吉の使者を迎へて野原のまんなかで応接、信長公存命のころ上洛して名所旧蹟みんな見たから都見物の慾もないね。於義丸は秀吉にくれた子だから対面したい気持もないヨ。秀吉が攻めてくるなら美濃路に待つてゐるぜ、と言つて追ひ返した。
 けれども、金持喧嘩せず、盛運に乗る秀吉は一向腹を立てない。この古狸が自分につけば天下の統一疑ひなし。大事な鴨で、この古狸が天下をしよつて美濃路にふてくされて、力んでゐる。秀吉は適当に食慾を制し、落付払ふこと、まことに天晴れな貫禄であつた。天下統一といふ事業のためなら、家康に頭を下げて頼むぐらゐ、お安いことだと考へてゐる。そこで家康の足もとをさらふ実質的な奇策を案出したのであるが、かういふ放れ業ができるのも、一面夢想家ゆゑの特技でもあり、秀吉は外交の天才であつた。
 先づ家康に自分の妹を与へてまげて女房にして貰ひ、その次に、自分の実母を人質に送り、まげて上洛してくれ、と頭を下げた。皆の者、よく聞くがよい、秀吉は群臣の前で又機嫌よく泣いてゐた。俺は今天下のため先例のないことを歴史に残してみようと思ふ。関白の母なる人を殺しても、天下の平和には代へられぬものだ。
 ふてくされてゐた家康も悟るところがあつた。秀吉は時代の寵児である。天の時には、我を通しても始らぬ。だまされて、殺されても、落目の命ならいらない。覚悟をきめて上洛した。
 家康は天の時を知る人だ。然し妥協の人ではない。この人ぐらゐ図太い肚、命をすてゝ乗りだしてくる人はすくない、彼は人生三十一、武田信玄に三方ヶ原で大敗北を喫した。当時の徳川氏は微々たるもの、海内(かいだい)随一の称を得た甲州の大軍をまともに受けて勝つ自信は鼻柱の強い三河武士にも全くない。家康の好戦的な家臣達に唯一人の主戦論者もなかつたのだ。たつた一人の主戦論者が家康であつた。
 彼は信長の同盟者だ。然し、同盟、必ずしも忠実に守るべき道義性のなかつたのが当時の例で、弱肉強食、一々が必死を賭けた保身だから、同盟もその裏切りも慾得づくと命がけで、生き延びた者が勝者である。信玄の目当の敵は信長で家康ではなかつたから、負けるときまつた戦争を敢て戦ふ必要はなかつたのだが、家康たゞ一人群臣をしりぞけて主戦論を主張、断行した。彼もこのとき賭博者だ。信長との同盟に忠実だつたわけではない。極めて少数の天才達には最後の勝負が彼らの不断の人生である。そこでは、理智の計算をはなれ、自分をつき放したところから、自分自身の運命を、否、自分自身の発見を、自分自身の創造を見出す以外に生存の原理がないといふことを彼らは知つてゐる。自己の発見、創造、之のみが天才の道だ。家康は同盟といふボロ縄で敢て己れを縛り、己れの理知を縛り、突き放されたところに自己の発見と創造を賭けた。之は常に天才のみが選び得る火花の道。さうして彼は見事に負けた。生きてゐたのが不思議であつた。
 大敗北、味方はバラバラに斬りくづされ、入り乱れ前後も分らぬ苦戦であるが、家康は阿修羅であつた。家康が危くなると家来が駈けつけて之を助け、家来の急を見ると、家康が血刀ふりかぶり助けるために一散に駈けた。夏目次郎左衛門が之を見て眼血走り歯がみをした。大将が雑兵を助けてどうなさる、目に涙をため、家康の馬の轡(くつわ)を浜松の方にグイと向けて、槍の柄で力一杯馬の尻を殴りつけ、追ひせまる敵を突き落して討死をとげた。
 逃げる家康は総勢五騎であつた。敵が後にせまるたびに、自ら馬上にふりむいて、弓によつて打ち落した。顔も鎧も血で真ッ赤、やうやく浜松の城に辿りつき、門をしめるな、開け放しておけ、庭中に篝(かがり)をたけ、言ひすてゝ奥の間に入り、久野といふ女房に給仕をさせて茶漬を三杯、それから枕をもたせて、ゴロリとひつくり返つて前後不覚にねてしまつた。堂々たる敗北振りは日本戦史の圧巻で、家康は石橋を叩いて渡る男ではない。武将でもなければ、政治家でもない。蓋し稀有なる天才の一人であつた。天才とは何ぞや。自己を突き放すところに自己の創造と発見を賭るところの人である。
 秀吉の母を人質にとり、秀吉と対等の格で上洛した家康であつたが、太刀、馬、黄金を献じ、主君に対する臣家の礼をもつて畳に平伏、敬礼した。居並ぶ大小名、呆気にとられる。秀吉に至つては、仰天、狂喜して家康を徳としたが、秀吉を怒らせて一服もられては話にならぬ。まだ先に楽しみのある人生だから、家康は頭を畳にすりつけるぐらゐ、屁とも思つてゐなかつた。
 秀吉は別室で家康の手をとり、おしいたゞいて、家康殿、何事も天下の為ぢや。よくぞやつて下された。一生恩にきますぞ、と、感極まつて泣きだしてしまつたが、家康はその手をおしいたゞいて畳におかせて、殿下、御もつたいもない、家康は殿下のため犬馬の労を惜む者でございませぬ。ホロリともせずかう言つた。アッハッハ。たうとう三河の古狸めを退治てやつた、と、秀吉は寝室で二次会の酒宴をひらき、ポルトガルの船から買ひもとめた豪華なベッドの上にひつくり返つて、サア、日本がおさまると、今度は之だ、之だ、と、ベッドを叩いて、酔つ払つて、ねむつてしまつた。
 小田原の北条氏は全関東の統領、東国随一の豪族だが、すでに早雲の遺風なく、君臣共にドングリの背くらべ、家門を知つて天下を知らぬ平々凡々たる旧家であつた。時代に就て見識が欠けてゐたから、秀吉から上洛をうながされても、成上り者の関白などは、と相手にしない。秀吉は又辛抱した。この辛抱が三年間。この頃の秀吉はよく辛抱し、あせらず、怒らず、なるべく干戈を動かさず天下を統一の意向である。北条の旧領、沼田八万石を還してくれゝば朝礼する、と言つてきたので、真田昌幸に因果を含めて沼田城を還させたが、沼田城を貰つておいて、上洛しない。北条の思ひ上ること甚しく、成上りの関白が見事なぐらゐカラカハれた。我慢しかねて北条征伐となつたのだ。
 秀吉は予定の如く、家康、信雄、前田利家、上杉景勝らを先発着陣せしめ、自身は三月一日、参内して節刀を拝受、十七万の大軍を率ゐて出発した。駿府へ着いたのが十九日で、家康は長久保の陣から駈けつけて拝謁、秀吉を駿府城に泊らせて饗応至らざるところがない。本多重次がたまりかねて、秀吉の家臣の居ならぶ前で自分の主人家康を罵つた。これは又、あつぱれ不思議な振舞をなさるものですな。国を保つ者が、城を開け渡して人に貸すとは何事です。この様子では、女房を貸せと言はれても、さだめしお貸しのことでせうな、と青筋をたてゝ地団駄ふんだ。
 小田原へ着いた秀吉は石垣山に陣取り、一夜のうちに白紙を用ひて贋城をつくるといふ小細工を弄したが、ある日、家康を山上の楼に招き、関八州の大平野を遥か東方に指して言つた。といふのは昔の本にあるところだが、実際は箱根丹沢にさへぎられてさうは見晴らしがきかないのである。ごらんなさい。関八州は私の掌中にあるが、小田原平定後は之をそつくりあなたに進ぜよう。ところで、あなたは小田原を居城となさるつもりかな。左様、まづ、その考へです。いや/\と秀吉は制して、山を控へた小田原の地はもはや時世の城ではない。二十里東方に江戸といふ城下がある。海と河川を控へ、広大な沃野の中央に位して物資と交通の要地だから、こゝに居られる方がよい、と教へてくれた。さうですか。万事お言葉の通りに致しませう、と答へたが、今は秀吉の御意のまゝ、言ひなり放題に振舞ふ時と考へて、家康はこだはらぬ。秀吉の好機嫌の言葉には悪意がなく、好意と、聡明な判断に富んでゐることを家康は知つてもゐた。
 二十六万の陸軍、加藤、脇坂、九鬼等の水軍十重二十重に小田原城を包囲したが、小田原は早雲苦心の名城で、この時一人の名将もなしとは言へ、関東の豪族が手兵を率ゐてあらかた参集籠城したから、兵力は強大、簡単に陥す見込みはつかない。小早川隆景の献策を用ひて、持久策をとり、糧道を絶つことにした。
 秀吉自身は淀君をよびよせ、諸将各妻妾をよばせ、館をつくらせ、連日の酒宴、茶の湯、小田原城下は戦場変じて日本一の歓楽地帯だ。四方の往還は物資を運ぶ人馬の往来絶えることなく、商人は雲集して、小屋がけし、市をたて、海運も亦日に日に何百何千艘、物資の豊富なこと、諸国の名物はみんな集る、見世物がかゝる、遊女屋が八方に立ち、絹布を売る店、舶来の品々を売る店、戦争に無縁の品が羽が生えて売れて行く。大名達は豪華な居館をつくつて書院、数寄屋、庭に草花を植ゑ、招いたり招かれたり、宴会つゞきだ。
 この陣中の徒然(つれづれ)に、如水が茶の湯をやりはじめた。ところが如水といふ人は気骨にまかせて茶の湯を嘲笑してゐたが、元来が洒落な男で、文事にもたけ、和歌なども巧みな人だ。彼が茶の湯をやりだしたのは保身のため、秀吉への迎合といふ意味があつたが、やりだしてみると、秀吉などとはケタ違ひに茶の湯が板につく男だ。小田原陣が終つて京都に帰つた頃はいつぱしの茶の湯好きで、利休や紹巴(じょうは)などゝ往来し、その晩年は唯一の趣味の如き耽溺ぶりですらあつた。一つには彼の棲む博多の町に、宗室、宗湛、宗九などといふ朱印船貿易の気宇遠大な豪商がゐて茶の湯の友であつたからで、茶の湯を通じて豪商達と結ぶことが必要だつたせゐもある。
 如水は高山右近のすゝめで洗礼を受け切支丹であつたが、之も秀吉への迎合から、禁教令後は必ずしも切支丹に忠実ではなかつた。カトリックは天主以外の礼拝を禁じ、この掟は最も厳重に守るべきであつたが、如水は菅公廟を修理したり、箱崎、志賀両神社を再興し、又、春屋和尚について参禅し、その高弟雲英禅師を崇福寺に迎へて尊敬厚く、さりとて切支丹の信教も終生捨てゝはゐなかつた。彼の葬儀は切支丹教会と仏寺との両方で行はれたが、世子長政の意志のみではなく、彼自身の処世の跡の偽らざる表れでもあつた。
 元々切支丹の韜晦(とうかい)といふ世渡りの手段に始めた参禅だつたが、之が又、如水の性に合つてゐた。忠義に対する冷遇、出る杭は打たれ、一見豪放磊落(らいらく)でも天衣無縫に縁がなく、律義と反骨と、誠意と野心と、虚心と企みと背中合せの如水にとつて、禅のひねくれた虚心坦懐はウマが合つてゐたのである。彼の文事の教養は野性的洒脱といふ性格を彼に与へたが、茶の湯と禅はこの性格に適合し、特に文章をひねくる時には極めてイタについてゐた。青年の如水は何故に茶の湯を軽蔑したか。世紀の流行に対する反感だ。王侯貴人の業であつてもその流行を潔しとせぬ彼の反骨の表れである。反骨は尚腐血となつて彼の血管をめぐつてゐるが、稜々たる青春の気骨はすでにない。反骨と野望はすでに彼の老ひ腐つた血で、その悪霊にすぎなかつた。
 ある日、秀吉は石垣山の楼上から小田原包囲の軍兵二十六万の軍容を眺め下して至極好機嫌だつた。自讃は秀吉の天性で、侍臣を顧て大威張りした。どうだ者共。昔の話はいざ知らず、今の世に二十六万の大軍を操る者が俺の外に見当るかな。先づなからう、ワッハッハ。その傍に如水がドングリ眼をむいてゐる。之を見ると秀吉は俄に奇声を発して叫んだ。ワッハッハ。チンバ、そこにゐたか。なるほど、貴様は二十六万の大軍がさぞ操つてみたからう。チンバなら、さだめし、出来るであらう。者共きけ、チンバはこの世に俺を除いて二十六万の大軍を操るたつた一人の人物だ。
 如水はニコリともしない。彼は秀吉に怖れられ、然し、甘く見くびられてゐることを知つてゐた。如水は歯のない番犬だ。主人を噛む歯が抜けてゐる、と。
 だが、かういふ時に、なぜ、いつも、自分の名前がひきあひにでゝくるのだらう。二十六万の大軍を操る者は俺のみだと壮語して、それだけで済むことではないか。それは如水の名の裏に別の名前が隠されてゐるからである。歯のある番犬の名が隠されて、その不安が常に心中にあるからだ。それを如水は知つてゐた。その犬が家康であることも知つてゐた。その犬に会つてみたいといふ思ひが、肚底(とてい)に逞しく育つてゐたのだ。

       三

 小田原包囲百余日、管絃のざわめきの中にも造言の飛び交ふのはどこの戦場も変りがない。話題の主は家康と信雄で、北条と通謀して夜襲をかける、奥州からは伊達政宗が駈けつける手筈になつてゐるなどゝ、流言必ずしも根のないことではない。当の家康の家来共が流言の渦にむせびながら腕を撫(ぶ)し、いつ夜襲の主命下るか、猿めを退治て、あとはこつちの天下だと小狸共の胸算用で憶測最も逞しい。
 ところが、家康は温和であつた。之は秀吉の用ひた表現であるが、家康は温和な人だから宜しいが、黒田のカサ頭は油断のできない奴だ、といふことを言つてゐた。
 秀吉は山崎合戦で光秀を退治て天下を自分の物としたが、光秀退治が秀吉一人の手によらず織田遺臣聯合軍といふものによつて為されたならば、天下の順は秀吉のところへは廻つてこない。信長には子供もあるし、柴田といふ天下万人の許した重臣もあり、之を覆す大義名分がないからである。秀吉は柴田と丹羽にあやかりたいといふので羽柴といふ姓を名乗つた。然しながら、柴田といへども信長の家臣だ。ところが、家康は家臣ではない。駿遠三の領主で、小なりといへども一王国の主人、信長の同盟国で、同盟国も格が下なら家臣と似たやうなものではあるが、ともかく独自の外交策によつて信長と相結んだ立場であつた。
 信長と信玄の中間に介在して武田の西上を食ひとめ信長の天下を招来した縁の下の力持が家康で、専ら田舎廻りの奔走、頼まれゝば姉川へも駈けつけて急を救ふ、越後の米つき百姓の如き精神を一貫、行動した。下剋上は当時の自然で、保身、利得、立身のために同盟を裏切ることは天下公認の合理であつたが、家康の同盟二十年、全く裏切ることがなく、専ら利得の香(かんば)しからぬ奔命に終始して、信長の長大をはかるために犬馬の労を致したのである。土百姓の律義であつた。素町人の貯金精神といふものだ。けれども一身一王国の存亡を賭けてニコ/\貯金に加入する、百姓商人に似て最も然からざるもの、天下に賭けて命をはつた賭博者は多いけれども、ニコ/\貯金に命をはつた家康は独特だつた。
 本能寺の変が起つたとき、家康は堺にゐた。武田勝頼退治の戦功で駿河を分けて貰つたから、その御礼挨拶のために穴山梅雪と上洛して、六月二日といふ日には堺に宿泊したのである。平時の旅行であるから近臣数十人をつれてゐるだけ、兵力がないから、本能寺の変と共に驚くべき速力をもつて堺を逃げだし、逃げ足の早いこと、あの道この道と逃げ方の巧妙なこと、さすが戦争の名人である。穴山梅雪は逃げる途中に捕はれて横死をとげたが、家康は無事岡崎に帰着して、軍兵を催し、イザ改めて出陣といふ時には、光秀退治に及び候といふ秀吉の使者が来たのである。家康は不運であつたが、然し、秀吉も家康も、四囲の情況によつて自然に天下を望む自分の姿を見出すまで、不当に天下を狙ひ、野望のために身が痩せるといふことがなかつた。木下藤吉郎は柴田と丹羽にあやかるために羽柴秀吉と改名したが、秀吉の御謙遜だといふのは後日の太閤で判断しての話で、改名の当時は全く額面通りの理由であつたに相違ない。彼の夢は地位の上昇と共に育ちはしたが、信長存命の限りは信長の臣、これが夢の限界で、信長第一の臣、それから信長の後継者、さういふ夢はあつたにしても、本能寺の変、光秀退治、自然の通路がひらかれるまで、それを狙ひはしなかつた。
 家康の夢は一さう地道だ。親代々の今川に見切をつけて信長と結んだ家康は、同盟二十年、約を守り義にたがはず、信長保険の利息だけで他意なく暮し、しかも零細な利息のために彼の為した辛労は甚大で、信玄との一戦に一身一国を賭して戦ふ。蟷螂(とうろう)の斧、このとき万一の僥倖(ぎょうこう)すらも考へられぬ戦争で、死屍累々、家康は朱にそまり、傲然斧をふりあげて竜車の横ッ面をひつかいたが、手の爪をはがした。目先の利かないこと夥しく、みすみす負ける戦争に命をかけ義をまもる、小利巧な奴に及びもつかぬ芸当で、時に際し、利害、打算を念頭になく一身の運命を賭けることを知らない奴にいはゞ『芸術的』な栄光は有り得ない。芸術的とは宇宙的、絶対の世界に於けるといふことである。
 信長の横死。天下が俺にくるかも知れぬ、と考へたのは家康も亦、このときだ。けれども天運に恵まれず、堺に旅行中であつたから這々(ほうほう)の体(てい)で逃げて帰る、秀吉にしてやられて、天下は彼から遠退いた。けれども、織田信雄と結んで秀吉と戦ふことになつて、俄に情熱は爆発する、天下を想ふ亢奮は身のうちをたぎり狂つて、家康時に四十の青春、始めて天下の恋を知つた。
 破竹の秀吉を小牧山で叩きつけて、戦争に勝つたが、外交に負けた。上昇期の秀吉はまさに破竹であつた。滾々(こんこん)尽きず、善謀鬼略の打出の小槌に恵まれてゐたのだ。秀吉はアッサリ信雄に降伏して単独和議を結び、家康の戦争目的、大義名分といふものを失はせたから、負けて勝つた。家康も負けたやうな気がしない。秀吉信雄両名の和議成立に祝福の使者を送つて、小策我関せず、落付払つてゐたけれども、信濃あたりに反乱があつて田舎廻りの奔走にかけづらふうち、秀吉は着々天下統一の足場をかためて、二人の位の距りが誰の目にもハッキリしたから、家康も一代の焦りをみせた。四十の恋といふのがあるが、之も四十の初恋で、家康遂に青春を知り、千々に乱れ、ふてくされて、喧嘩を売らう、喧嘩を買はふ、規格に大小違ひはあつても恋の闇路に変りはない。
 けれども飜然として目覚めた。上洛に応じ、臣下の礼を以て秀吉の前に平伏したが、四十の初恋、このまぼろしを忘れ得るであらうか。けれども、ひとたび目覚めたとき、彼の肚裡を測りうる一人の人もゐなかつた。
 秀吉は彼に大納言を与へ、つゞいて内大臣を与へる。時人は彼を目して副将軍の如くに認めたが、その貫禄を与へることが彼を温和ならしめる手段であると秀吉は信じた。雄心未だ勃々たる秀吉は死後の社稷(しゃしょく)のことなどは霞をへだてた話であつたし、思ひのまゝに廻りはじめたパノラマのハンドルをまはす手加減に有頂天になつてゐた。家康といふ人はおだてゝおけば温和な人だ。俺の膝の上にのせてみせるから黙つて見てをれ、かう侍臣に言ふ秀吉だ。小田原陣でも、家康を陣屋に招いて群臣の居並ぶところでおだてあげて、大納言、貴公は海内一の弓取だから、この戦争では策戦万事御指南をたのむ、皆の者も戦略は徳川殿にきくがよい、臆面もなくわめきたてゝ好機嫌。ところが或日のことである。秀吉は列座の大名共に腹蔵なく威張りはじめてゐたのである。古に楠氏あり、当今は豊臣秀吉こゝにあり、日本一の兵法の達者とは俺のことだ。戦へば必ず勝つ。負けたためしは一度もない。古今東西天下無敵、ワッハッハ。すると家康が俄に気色(けしき)ばみ、居ずまひを正して一膝のりだした。之は不思議、いさゝかお言葉が過ぎてござる。殿下は小牧山で拙者に負けたではござらぬか。余人は知らず、拙者の控える目の前で日本一の兵法家はやめにしていたゞきたい。開き直つて、かう言つた。膝元からいきなり袴に火がついたとはこのこと、秀吉満面に朱をそゝぎ、皺だらけの小さな顔に癇癪の青筋だらけ、喉がつまつて声が出ぬ。プイと立ち荒々しく奥へ消えた。この始末や如何に。暫時して、元の陽気な猿面郎、機嫌を直してニコニコ現れたのが秀吉で、イヤハヤ、大失敗、猿公木より墜落ぢや。小牧山で三河の狸に負けたことがあつたとは残念千万。
 大名共は呆れ返つた。自慢のし返し、子供みたいに臆面もなく開き直つて食つてかゝる、古狸の家康もとより酒席のざれ言の分らぬ男であらう筈はないのだから、開き直る方が結局秀吉を安心させるといふことを心得た上での芝居だらうと判断した。家康は老獪(ろうかい)だから、と言つて、侍臣達も家康の手のこんだ芝居を秀吉にほのめかしたが、秀吉は笑つて、お前たちはさう思ふか。一応は当つてゐるかも知れぬ。然し、家康は案外あれだけの気のよいところもある仁ぢや、お前たちにはまだ分らぬ、アッハッハ、と言つた。
 小田原包囲百日、流言などはどこ吹く風で、ある日、秀吉はたつた数人の侍臣をつれ、家康の陣へ遊びに行つた。井伊直政がにぢり寄つて、目の玉を怪しく光らせて、家康にさゝやいた。殿、猿めを殺すのは今でござる。夢をみて寝ぼけるな、隠し芸でも披露して関白を慰め申せ。家康とりあはぬ。
 秀吉は腹蔵なく酔つ払つた。梯子酒といふわけで、家康をうながし、連立つて信雄の陣へ押掛ける。小田原は箱根の山々がクッキリと、晴れた日は空気に靄が少くて、道はかゞやき、影黒し、非常に空の澄んだところだ。馬上から野良に働く鄙(ひな)には稀な娘を見つけて、オウイ、俺は関白秀吉だ、俺のウチへ遊びにこいよウ。待つてるゾウ。胸毛を風になぶらせて、怒鳴つてゐる。
 然しながら、秀吉は一人立ちのできない信雄を、一人立ちの出来ない故に、警戒した。彼の主人信長はその終生足利義昭になやまされた。この十五代将軍は一人立ちのできない策士の見本である。三好松永を覆滅して足利家再興のため、終生他力本願、専ら人の褌を当にして陰謀小策を終生の業としたのである。佐々木承禎にたより、武田にたより、朝倉に、上杉に、北条に、最後に信長にたよつて目的を達し、十五代将軍となることができた。そこで年下の信長を臆面もなく「父信長」などゝ尊敬して大いに徳としながら、さつそく裏では父信長を殺すことを考へて、本願寺に密使を送り、信玄と結び、朝倉、浅井、上杉、毛利、信長と兄弟分の徳川家康、手当り次第に密使を差向けて信長退治のふれを廻す。一応の大義名分のあるところ、本人自体が無力なほど始末が悪く、不断に陰謀の策源地である。信長の困却ぶりをウンザリするほど見てきた秀吉であるから、小田原陣が終り己れの足場が固定したのを見定めると、信雄の領地を没収して、秋田に配流、温和な狸の動きだす根を絶やしてしまつた。
 当時、中部日本、西日本は全く平定、帰順せぬのは関東の北条と奥州だつた。この奥州で、自ら奥州探題を以て任じ、井戸の中から北国の雪空を見上げて、力み返つてゐたのが伊達政宗といふ田舎豪傑である。この豪傑に片目の無いのは有名であるが、時に二十四才、ザンギリ髪といふ異形な姿を故意に愛用し、西に東に隣り近所の小豪族を攻めたてゝ領地をひろげ、北の片隅でまるで天下に怖るゝ者もない気になつてゐた。
 政宗は田舎者ではあるけれども野心と狡智にかけては黒田如水と好一対、前田利家や徳川家康から小田原陣に参加するやうにといふ秀吉の旨を受けた招請のくるのを口先だけで有耶無耶(うやむや)にして、この時とばかり近隣の豪族を攻め立て領地をひろげるに寧日(ねいじつ)もない。家康が北条と通謀して秀吉を亡すだらうといふ流言をまともに受けて、そのドサクサに一気に京都へ攻めこんで天下を取る算段まで空想、むやみに亢奮して近隣をなぎ倒してゐた。
 ところへ家康から手紙が来た。待ちかねた手紙であるが、甚だ冷静なる文面、思ひもよらぬ手紙である。秀吉への帰順、小田原攻めの加勢をすゝめ、天下の赴く勢といふものを説き、遠からざる北条の滅亡を断じ、北の片隅の孤独な思索には測りきれぬ天下の大が妖怪の如く滲み出てをり、反乱どころの話ではない。百年このかた秀吉の番頭をつとめてゐるかのやうな家康の手紙であつた。政宗の背筋を俄に恐怖が走つた。野心と狡智の凝りかたまつた田舎豪傑、思ひもよらぬ天下の妖気を感得して、果もなく不安に沈み、混乱する。遠からずして北条が滅亡する、二十六万の大軍が余勢をかつて奥州へ攻めこんでは身も蓋もない。目先はくもらぬ男であるから、即刻小田原へ駈けつけて秀吉の機嫌をとりむすばぬと命が危いといふことを一途に思ひ当てゝゐた。
 火急の陣ぶれ、夜に日をつぎ、慌てふためいて箱根に到着、陳弁だら/\加勢を申出る。秀吉は石田三成を差向けて先づ存分に不信をなじらせたが、この三成が全身才智と胆力、冷水の如き観察力、批判力で腸(はらわた)にえぐりこむ言葉の鋭いこと、言訳、陳弁、三拝九拝、蒸気のカマの如き奥州弁で、豆の汗を流した。才能の限度に就て根柢から自信がぐらつき、秀吉の威力の前に身心のすくみ消える思ひである。
 その翌日が謁見の日で、登る石垣山一里の道、屠所にひかれる牛の心で、生きた心持もなく広間にへいつくばつてゐると、ガラリと襖があいて、秀吉が真夏のことゝは言ひながら素肌に陣羽織、前ぶれもなくチョロ/\現れてきた。ヤア、御苦労々々々、よくぞ来てくれたな。遠路大変だつたらう。何はおいても先づ一献ぢや。これよ、仕度を致せといふので、政宗の夢にも知らぬ珍味佳肴、豪華つくせる大宴会、之が野戦の陣地とは夢又夢の不思議である。石垣山の崖上へ政宗をつれだして小田原城包囲の陣形を指し、田舎の小競合(こぜりあい)が身上のお前にはこの大陣立の見当がつくまいな。それ、そこが早川口、伊豆の通路がこゝでふさがれてゐるから、こつちの浜辺を水軍でかためると伊豆からの連絡はもう出来ぬ、小田原の地形、関八州の交通網を指摘して二十六万の陣立を解説してきかせる。如何なる仕置かと思ひつめてきた二十四の田舎豪傑、ザンギリ頭の見栄などは忘れ果てゝたゞ/\茫然、素肌に陣羽織、猿芝居の猿のやうな小男が箱根の山よりも大きく見えてしまふのだつた。この人のためならば水火をいとはず、といふ感動の極に達した。
 とはいへ奥州探題を自任する政宗の威力必ずしも小ならず、彼を待望せる北条の失望落胆如何ばかり。之もひとへに家康の尽力である。
 家康は北条氏勝に使者をさしむけて氏政の陣から離脱させたり、小田原城内へ地下道を掘り之をくゞつて城内へ侵入、モグラ戦術によつて敵城の一角をくづしたり、神謀鬼策の一端を披露に及んで、□群の一鶴、忠実無私の番頭ぶり、頼まれもせぬ米をついて大汗を流してゐる。

 早春はじめた包囲陣に真夏がきてもまだ落ちぬ。石田三成、羽柴雄利に命じて降伏を勧告させたが徒労に終つた。十万余の大軍をもち兵糧弾薬に不足を感ぜぬ籠城軍は四囲の情勢に不利を見ても籠城自体にさしたる不安がないのであつた。
 浮田秀家の陣所の前が北条十郎氏房の持口に当つてゐた。そこで秀家に命じ氏房を介して降伏を勧告させる。秀家から氏房の陣へ使者を送つて、長々の防戦御見事、軽少ながら籠城の積鬱を慰めていたゞきたいと云つて、南部酒と鮮鯛(せんたい)を持たせてやつた。氏房からは返礼に江川酒を送つてよこし、之を機会に交りの手蔓をつくつて、秀家氏房両名が各々の櫓へでゝ言葉を交すといふことにもなり、氏政父子に降伏をすゝめてくれぬか、武蔵、相模、伊豆三国の領有は認めるからと取次がせる。氏房自身に和睦の心が動いて、この旨を氏政父子に取次いだが、三国ぐらゐで猿の下風に立つなどゝは話の外だと受つけぬ。
 北条随一の重臣に松田憲秀といふ執権がをつた。松田家は早雲以来股肱閥閲(ここうばつえつ)の名家で、枢機にあづかり勢威をふるつてゐたが、憲秀に三人の子供があつて、長男が新六郎、次男が左馬助、末男が弾三郎と云つた。古来、上は蘇我、藤原の大臣家から下は呉服屋の白鼠共に至るまで、股肱閥閲の名家に限つて子弟が自然主家を売るに至る、門閥政治のまぬがれ難い通弊であるが、新六郎は先に武田勝頼に通じて主家に弓をひき、討手に負けて降参、累代の名家であるからといふので命だけは助けられたといふ代者(しろもの)であつた。父憲秀と相談して裏切の心をかため、秀吉方に密使を送つて、伊豆、相模の恩賞、子々孫々違背あるべからず、といふ証状を貰つた。六月十五日を期し、堀秀治の軍兵を城内へ引入れて、一挙に攻め落すといふ手筈をたてた。
 ところが次男の左馬助は容色美麗で年少の時から氏直の小姓にでゝ寵を蒙り日夜側近を離れず奉公励んでゐる。遇々(たまたま)父の館へ帰つてきて裏切の話を耳にとめ父兄を諫めたが容れられる段ではない。父を裏切り一門を亡す奸賊であるといふので父と兄が刀の柄に手をかけ青ざめて殺気立つから、私の間違ひでありました、父上、兄上の御決意でありますなら私も違背は致しませぬ、と言つて一時をごまかした。けれども必死の裏切であるから憲秀新六郎も油断はない。氏直に訴へられては破滅であるから、左馬助の寝室に見張の者を立てゝおいたが、左馬助は具足櫃(ぐそくびつ)に身をひそめ、具足を本丸へとゞけるからと称して小姓に担ぎださせ、無事氏直の前に立戻ることができた。父兄の陰謀を訴へ、密告の恩賞には父兄の命を助けてくれと懇願する、憲秀新六郎は時を移さず捕はれて、左馬助の苦衷憐むべしといふので、首をはねず、牢舎にこめる、寸前のところで陰謀は泡と消えた。
 この裏切に最も喜んだのは秀吉で、大いに心を打込み、小田原落城眼前にありとホクソ笑んでゐたのであるが、案に相違の失敗、心憎い奴は左馬助といふ小僧であると怒髪天をついて歯がみをした。
 百計失敗に帰して暫時の空白状態、何がな工夫をめぐらして打開の方策を立てねばならぬ。秀吉はクスリと笑つて如水を召寄せた。如水は小田原陣の頃からめつきり差出口を控えてしまつたが、表向き隠居したせゐでもあり、同時に、秀吉の帷幕では石田三成が頭をもたげて一切の相談にあづかり、如水の影は薄くなつてゐたのである。三成の小僧の如き、如水は眼中に入れてゐないが、流れる時代、人才も亦常に流れ、澱みの中に川の姿はないのである。目の玉をむき、黙々天下を横睨みに控えてゐるが、如水はすでに川の澱みに落ちたことをさとらない。尚満々たる色気、万策つきたら俺にたのめ、といふ意気込の衰へることのない男、秀吉は苦笑して、これよ、即刻チンバ奴を連れて参れ、深夜であつた。
 改めて如水の方寸をたづね手段をもとめる。腹中常に策をひそめて怠りのない如水であるが、処女の含羞、少々は熟慮の風もして慎みのあるところを見せればいゝに、サラバと膝をのりだして、待つてゐました、と言下に答へる。
 徳川殿をわづらはす一手でござらう。あの仁以外に人はござらぬ。北条の縁者であるし、関東の事情に精通し、和談の使者のあらゆる条件を具備してござる。三成など青二才の差出る幕ではないのに、この人を差しおいて三成だ秀家だと手間のかゝつたこと、これぐらゐの道理がお分りにならぬか、といふ鼻息であつた。
 秀吉は心得てゐるから、好機嫌、よからう、万事まかせるから大納言の陣屋へ出向いて然るべく運んで参れ。万事まかせてしまへば何かしら手ミヤゲを持つて戻つてくる如水。
 その翌日は焼けるやうな炎天だつた。如水は徳川家康の陣屋へでかける。家康と如水、この日まで顔を見たことがない。顔ぐらゐは見たかも知れぬが、膝つき合せて語り合ふのは始めてゞ、温和な狸と律義な策師と暗々裡に相許したから、遠く関ヶ原へつゞく妖雲のひとひらがこのとき生れてしまつた。頭から爪先まで弓矢の金言で出来てゐる大将だと如水はたつた一日で最大級に家康を買ひかぶる。家康は四十の初恋、如水は四ツ年少の弟だつたが、この道にかけては日本一の苦労人、下世話に言ふ十五六から色気づくとは彼のこと、律義な顔はしてゐるが、仇姿ねたまも忘れ難し、思ふはたゞ一人の人、まさしくこの恋人はかけがへのない天下たゞ一人、いはゞ恋仇同志であるが、仕方がなければ百万石で間に合せるといふ手もあるし、恋仇同志は妙に親近感にひかれるもので、まして振られた同志ではあり、ふられた同志といふものは労はりあつた挙句の果に、結局実力の足りない方が恋の手引をするやうな妙な巡り合せになりがちなものだ。
 家康は如水の口上をきゝ終つて頷き、なるほど、御説の通り私の娘は氏直の女房で、私と北条は数年前まで同盟国、昵懇(じっこん)を重ねた間柄です。ところが、昵懇とか縁辺は平時のもので、いつたん敵味方に分れてしまふと、之が又、甚だ具合のよからぬものです。色々と含む気持が育つて、ない角もたち、和議の使者として之ぐらゐ不利な条件はないのですね、と言つて拒絶した。如水が家康を見込んで依頼した口上とあべこべの理窟で逆をつかれたのであるが、理窟をまくしたてると際限を知らぬ口達者の如水、ところが、この時に限つて、アッハッハ、左様ですか、とアッサリ呑みこんでしまつた。
 如水は家康に惚れたから、持前のツムジをまげることも省略して、呑込みよろしく引上げてきた。秀吉に対する忿懣の意識せざる噴出であつた。否、秀吉に対する秘密の宣戦布告であつた。如水は邪恋に憑かれた救はれ難い妄執の男、家康の四十の恋を目にとめたが、その実力秀吉に頡頏(けっこう)する大人物と評価して、俄に複雑な構想を得た。この人物に親睦すれば、再び天下は面白く廻りだしてくる時期があるかも知れぬ。天命は人事を以てはかり難し。天命果して徳川家康に幸するや否や。俄に眼前青空ひらけて、如水は思はず百尺の溜息を吹き、猿めの前には隠居したが、又、人生は蒔き直し。
 何食はぬ顔、秀吉の前に立戻り、徳川大納言の口上は之々、駄目でござつた。然し、ナニ、北条を手なづけるぐらゐ、人の力はいり申さぬ。拙者一人でたくさん、吉報お待ち下されい。屁でもない顔付、自らかう力んで大役を買つてでた。壮んな血気は持前の如水であつたが、人生蒔直しの構想を得た大亢奮に行きがゝりを忘れ、ムク/\と性根が動いて、大役を買つてしまつた。

       四

 如水は城中へ矢文を送つて和睦をすゝめる第一段の工作にかゝり、ついで井上平兵衛を使者に立てゝ酒二樽、糟漬(かすづけ)の魴(ほう)十尾を進物として籠城の積鬱を慰問せしめる。氏政からはこの返礼に鉛と火薬各十貫目を届けて城攻めの節の御用に、といふ挨拶。城中の弾薬貯蔵をほのめかす手段でもあつたが、実際、鉄砲弾薬の貯蔵は豊富であつた。之は先代氏康の用意で、彼は信玄、謙信と争ひ譲るところのなかつた良将であり、当代氏政は単に先代の豊富な遺産を受けついだといふだけだつた。
 そこで如水は更にこの答礼と称し、単身小田原城中へ乗りこんだ。肩衣に袴の軽装、身に寸鉄を帯びず、立ち姿は立派であるが、之がビッコをひいて、たつた一人グラリクラリと乗込んで行く。存分用意の名調子、熱演まさに二時間、説き去り説き来る。時機がよかつた。伊達政宗の敵陣参加で城中の意気に動揺のあつたところへ、松田憲秀の裏切発見、随一の重臣、執権の反逆であるから将兵に与へた打撃深刻を極めてゐる。氏政も和睦の心が動いてゐた。
 如水は四国中国九州の例をひき、長曾我部、毛利、島津等、和談に応じた者はいづれも家名を存してをる。師匠の信長は刃向ふ者は必ず子々孫々根絶せしめる政策の人であつたが、その後継者秀吉は和戦政策に限つて全くその為すところ逆である。武田勝頼が天目山に自刃のとき、秀吉は中国征伐の陣中でこの報告をきいたが、思はず長大息、あたら良将を殺したものよ、甲斐信濃二ヶ国を与へて北方探題、長く犬馬の労をつくさせるものを、と嘆いた。同じ陣中にゐた如水はまのあたりこの長大息を見て、秀吉の偽らぬ心事を知つたのである。これのみではない。秀吉と如水は二人合作の上で、浮田と和議をむすび、信長の怒りにあつて危く命を失ひかけたこともある。蓋し、信長はあくまで浮田を亡して、領地を部下の諸将に与へるつもり、然し、秀吉は木下藤吉郎の昔から和交を以て第一とすること誰よりも如水が良く知つてゐる。今や日本六十余州、庶民はもとより武将に至るまで長々の戦乱に倦み和平をもとめて自ら秀吉の天下を希んでゐる。之を天下の勢ひと言ふ。過去の盟約、累代の情義の如きも、この大勢の赴く前では水の泡に異ならぬ。しかも天下の大勢は益々滔々(とうとう)たる大流となつて秀吉の統一をのぞむ形勢にあるのだから、この大流に逆ふことや最も愚。秀吉の内意は和平降伏の賞与として、武蔵、相模、伊豆三国を存続せしめるといふのだから、和議に応じ、祖先の祭祀を絶さぬ分別が大切である。和平条約の実行については、万違背のないこと、自分が神明に誓ふから、と言つて、懇々説いた。
 如水の熱弁真情あふれ、和談の使者の口上を遠く外れて惻々(そくそく)たるものがあるから、かねて和平の心が動いてゐた氏政は思はず厚情にホロリとした。そこで日光一文字の銘刀と東鑑(あずまかがみ)一部を贈つて厚く労をねぎらひ、その日は即答をさけて、如水を帰した。この報告をうけた秀吉は大いに喜び、如水の言ふまゝに、武蔵、相模、伊豆三国の領有を許す旨を誓紙に書いて直判を捺した。
 如水は之をたづさへて小田原城中にとつて返し、重ねて氏政を説く。氏政の心も定まつて、家臣一同の助命を乞ふ、いはゞ無条件降伏である。和談は成立、如水の労を徳として、氏直からは時鳥(ほととぎす)の琵琶といふ宝物などが届けられたが、一族率ゐて軍門に降つたのが七月六日であつた。
 ところが、降伏に先立つて、松田憲秀をひきだして、首をはねた。之は一応尤もな人情。裏切りを憎むは兵家の常道で、落城、城を枕に、といふ時には、押込みの裏切者をひきだして首をはね、それから城に火をかけて自刃する。けれども、北条の場合は、城を枕にと話が違つて、降伏開城といふのである。しかも尚裏切者を血祭にあげる、人情まことに憐むべしであるけれども、いはゞ降伏に対する不満の意、不服従の表現と認められても仕方がない。北条方には智者がなく何事につけてもカドがとれぬ。かういふことに敏感で、特に根に持つ秀吉だから、関白を怖れぬ不届きな奴原(やつばら)、と腹をたてた。
 そこで秀吉は誓約を裏切り、武蔵、相模、伊豆三国を与へるどころか、領地は全部没収、氏政氏照に死を命じる。蓋し、織田信雄の存在が徳川家康の動きだす根に当るなら、北条氏の存在は火勢を煽る油のやうな危険物。特別秀吉の神経は鋭い。そこで誓約を無視して、北条氏を断絶せしめてしまつた。
 顔をつぶしたのは如水である。

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