家康
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著者名:坂口安吾 

 徳川家康は狸オヤヂと相場がきまつてゐる。関ヶ原から大坂の陣まで豊臣家を亡すための小細工、嫁をいぢめる姑婆アもよくよく不埒な大狸でないとかほど見えすいた無理難題の言ひがかりはつけないもので、神君だの権現様だの東照公だのと言ひはやす裏側で民衆の口は狸オヤヂといふ。手口が狸婆アの親類筋であるからで、民衆のかういふ勘はたしかなものだ。
 けれども家康が三河生来の狸かといふと、さうは言へない。晩年の家康は誰の目にも大狸で、それまで家康は化けてゐたといふのだが、五十何年も化けおほせてゐた大狸なら最後の仕上げももうすこしスッキリとあかぬけてゐさうなものだ。関ヶ原から大坂の役まで十年以上の時日があり、その間家康はすでに天下の実権を握つてをり、諸侯の動きもほぼ家康に傾いてゐて、彼が大狸ならもつとスッキリやれた筈だ。十年余の長い時間がありながら彼のやり方は如何にも露骨で不手際で、まつたく初犯の手口であり、犯罪の常習者、あるひは生来の犯罪者の手口ではなかつたのである。
 十三の年に伊豆へ流されてそれから三十年、中年に至るまで一介の流人で、田舎豪族の娘へ恋文でもつけるほかに先の希望もなかつた頼朝だが、挙兵以来の手腕は水際立つたもので、自分は鎌倉の地を動かず専ら人を手先に戦争をやる、兵隊の失敗、文化人との摩擦など遠く離れて眺めてゐて、自分の直接の責任にならないばかりか、改めて己れの命令によつて修正したり禁令したり、失敗まで利用してゐる。かうして一度も京都へ行かないうちに天下の権が京都から鎌倉へ自然に流れてくるやうな巧みな工作を施したものだ。
 もつとも頼朝の場合は京都を尊敬するといふ形式を売つて実権を買つたので大義名分があり、京都の方に敵もあつたが味方も多い。藤原一門の対立の如きものもあり、九条兼実(かねざね)の如く頼朝から関白氏の長者を貰つて、頼朝に天下の実権を引渡すやうな、いつの世にも絶えまのないエゴイストの存在が巧みに利用せられてゐるのである。
 家康の場合は先づ根本が違つてゐて、豊臣徳川は同一線上に並立するものであり、朝廷と武家といふぐあひに虚名を与へて実をとるといふことができない。亡ぼすか、さもなければ四五十万石を与へて自分の家来にするか、どつちみちその一方が名も実権も共にとらざるを得なかつた。彼は征夷大将軍を称し頼朝の後裔たることを看板にしたが、幕府の経営方針などにも多分に頼朝を学んだ跡があり、義経だ行家だとバッタバッタ近親功臣を殺してまで波立つ元を絶つていつた血なまぐさいやり口まで頼朝に習つた感がある。昔はさうでなかつたのだが初犯以来は別人で、だんだん慾がでてきたのである。豊臣家乗取りの方策などでも出来れば頼朝の故智を習つて綺麗にやりたかつたであらうが、何と云つても両家対立の事情と朝廷武家対立の事情とは根本が違ふので綺麗ごとといふわけに行かない。元来が保守的な性癖で事を好まぬ家康で、狸どころか番犬のやうな気の良いところもあるのだが、ええママヨとふてくされて齧りつくと忽ち狂犬の如くになつたので、アラレもなくエゲツないやり口が寧ろ家康の初々しさを表してゐると見てもよい。
 信長が横死する。いちはやく秀吉が光秀を退治して天下は秀吉のものとなつたが、同時に世人は家康を目して天下の副将軍といふやうになつた。小牧山で戦闘の上では秀吉をたたきつけてゐることが評価せられた意味もあるし、信長とは旧来の同盟国の家柄で成上りの秀吉とは違ふといふやうなその不遇に対する同情もあつた。然し、家柄への同情といつても本人に貫禄がなければ仕方がないので、織田信雄が信長の子供だと云つても実力がなければ仕方がない。万事実力が物を言ふ戦国時代であつた。
 ところが実力といつても各人各様で、人物評価の規準といふものは時代により流行によつて変化する。陰謀政治家が崇拝せられる時期もあれば平凡な常識円満な事務家の手腕が謳歌せられる時期もある。家康がおのづから天下の副将軍などと許されるやうになつたのは、たまたま時代思潮が彼の如き性格をもとめるやうになつたので、彼は策を施さず、居ながらにして時代が彼を祭りあげて行つた。
 当時の時代思潮は何かといへば、つまり平和を愛し一身の安穏和楽をもとめるやうになつたといふことだ。一般庶民が平和を愛するのはいつの世も変りはないが、槍一筋で立身出世をし、戦争を飯よりも愛した連中が戦争に疲れてきた。
 日本の戦争は武士道の戦争だなどと考へると大きな間違ひで、日本の戦史は権謀術数の戦史である。同盟だの神明に誓つた血判などと紙の上の約束が三文の値打もなく踏みにじられ、昨日の味方は今日の敵、さうかと思ふと昨日の敵は今日の味方で、共通する利害をめぐつてただ無限の如く離合する。一身の利害のためには主を売り友を売り妻子を売り、掠奪暴行、盗賊野武士から身を起して天下を望むのが自然であるから時代の道徳も良識もその線に沿うてゐるのは自然である。
 親類縁者といへども信用できず、又、信用してをらず、常時八方に間者を派し、秘密外交、術策、陰謀は日常茶飯事だ。ルールといふものはなく、ルールといふものがありとすれば、力量や器量にまかせて何をやつてでも勝てば良い、勝つた者に全ての正義があるといふルールなのである。力量に自信ある者、野心家、夢想児にとつて、力づくの人生は面白い遊戯場だ。ところが力にも限度があつて、昨日の大関、関脇などが幕下へ落ち遂には三段目へ落ちて引退するといふやうなことにもなり、限度は力業(ちからわざ)には限らない。智力にも限度があり年齢があるものだ。気力とてもさうである。
 芸術の仕事はそれ自体がいはば常に戦場で、本来各人の力量が全部であるべきものである。力量次第どんな新手をあみだしても良く、むしろ人の気附かぬ新手をあみだすところに身上があり、それが芸術の生命で、芸術家の一生は常に発展創造の歴史でなければならないものだ。けれども終生芸に捧げ殉ずるといふやうな激しい精進は得難いもので、ツボとかコツを心得てそれで一応の評価や声名が得られると、そのツボで小ジンマリと安易な仕事をすることになれてより高きものへよぢ登る心掛けを失つてしまふ。別段間者がゐるわけでもなく寝首をかかれるわけでもなく生命の不安があるわけでもない芸術の世界ですらさうなので、自由の天地へつきはなされ、昨日の作品よりは今日の作品がより良くより高く、明日の作品は更に今日よりもより高く、と汝の力量手腕を存分にふるへと許されると始めは面白いやつてみようといふ気でゐても次第に自分の手腕力量の限度も分つてきて、いざ自分がやるとなると人の仕事を横から批評して高く止つてゐたやうには行かないことが分つてくる。それで始めの鼻息はどこへやら、今度は人のつまらぬ仕事までほめたりおだてたりするのは、自分の仕事もそのへんで甘く見逃して貰ひたいといふ意味だ。
 本当に自由を許されてみると、自由ほどもてあつかひにヤッカイなものはなくなる。芸術は自由の花園であるが、本当にこの自由を享受し存分に腕をふるひ得る者は稀な天才ばかり、秀才だの半分天才などといふものはもう無限の自由の怖しさに堪へかねて一定の標準のやうなもので束縛される安逸を欲するやうになるのである。
 戦国時代の権謀術数といふものはこれ又自由の天地で、力量次第といふのであるが、かうなると小者は息がつづかない。薬屋の息子だの野武士だの桶屋の倅(せがれ)から身を起して国持ちの大名になつたが、なんとかこのへんで天下泰平、寝首を掻かれる心配なしに、親から子へ身代を渡し、よその者だの自分の番頭に乗ッ取られるやうな気風をなくしたいといふことを考へるやうになつた。
 信長が天下統一らしき形態をととのへ得たころから諸侯の気持はだいたい権謀術数の荒ッポイ生活に疲れて、秩序にしばられ君臣の分をハッキリさせて偉くもならぬ代りに落ぶれも殺されもしない方がいいと思ふやうになつてきた。秀吉の朝鮮征伐に至つて諸侯の戦争を厭ふ気持はもうハッキリした。そこでそれまでは松永弾正だの明智光秀のやうな生き方がまだ通用してゐたのだが、その頃からはかういふ陰謀政治家やクーデタ派は一向に尊重せられない気風となり、諸侯は別に相談したわけでもなく家康を副将軍と祭り上げ、それにつづく人物は前田利家だときまつてしまつた。これが三十年前、信長青年頃の世相であつたら家康だの利家が人物などと言はれる筈はない。黒田如水とか島左近などといふのがむしろ人物と言はれたであらう。
 家康の出処進退といふものは戦国時代には異例であつた。彼は信長と同盟二十年間、ついぞ同盟を破らなかつた。同盟を破らないのは当り前ぢやないか、と今日は誰しも思ふであらうが、当時は凡そ同盟をまもるといふことが行はれてをらぬので、利害得失のために同盟を破るのが普通であり、損を承知で同盟をまもり義をまもるなどとは愚かであり、笑ふべきことであり、決して美談だとは考へられてをらなかつた。家康はその愚かにして笑ふべきことを二十年間まもりつづけ、信長の乞ひに応じて勝つ筈のない信玄相手の戦争もやる。この戦争のときは家来が全部反対で、絶対に勝ちみがないのだから同盟の約を破つて信玄に降伏する方がいいと主張したものだ。戦争を主張し同盟を守ることを固執した唯一の人物が家康であつた。そして予想せられた如く完膚なく敗北し、家康は血にそまつて、ともかく城へ逃げ帰ることができたのである。さうかと思ふと姉川の戦には乞ひにまかせて取る物もとりあへず駈けつける。金ヶ崎で退却となり、退却の殿(しんが)りのいのちがけの貧乏籤(くじ)を木下藤吉郎と二人で引受ける。家康はかういふ気風の人で、打算をぬきに義をまもるといふ異例の愚かしいことをやり通した。
 前田利家といふ人は、秀吉が木下藤吉郎といふ足軽時代からの親友で、その頃から女房をとりもつたりとりもたれたりの間柄。ともども出世して友情に変りはないが、同時に正義のためには友情とても容赦はしないといふのが利家で、彼は正義派だ。その正義とは義であり忠であり、これ又秘密外交陰謀政治の当時には異例で、秀吉の天下になつてのちは豊臣家といふものを日本の中心と心得、自分の天下といふやうな野心はもたない。
 かういふ御両人であるから信長以前の戦国乱世では大人物どころか三流四流の小者であり、大馬鹿野郎の律義者で笑はれてもほめられることはない筈だが、天下の気風が変つてきたから、自然に諸侯の許す大人物となつた。芸術の仕事は書き残しておけば他日認められて正当の評価を受けることも有りうるけれども、政治家などは現実に機会にめぐり合はなければそれまでで、家康や利家ぐらゐの人物はいつの時代にもゐたであらうが、ちやうど時代に相応する、機会にあふといふことで力量手腕を全的に発揮して歴史に名を残すこととなる。力量手腕を存分に発揮する機会を得れば十人並以上の人なら相当のことは誰でもやれる。時代の支持があるかどうか、といふことが問題で、家康の場合は時代の方が先に買ひ被(かぶ)つてでてきた。家康は十人並よりはよつぽど偉い人で、公平に判断しても当代随一の人傑であつたが、時代が先についてきたのでむしろ時代に押されて自分自身を発見して行つたやうなお人好しで鈍感でお目出度いところのある人であつた。
 家康が副将軍だなどと言はれて大変な人望があるものだから、秀吉の側近の連中は家康の変に鄭重慇懃な律義ぶりを信用せず、三河の古狸には用心しなければといふやうな疑心をいだいてそれとなく秀吉にほのめかす。そのたびに秀吉は、家康といふ人は案外あれだけの人で、温和な人だ、と言ひきかせてゐた。家康は温和な人だといふ評言は秀吉の家康についての極り文句のやうであつた。秀吉は知つてゐたのである。然し、怖れてゐた。秀吉自身、彼は今こそ天下者であつたが、信長の家来のころは天下などは考へない。彼の野心の限界は信長第一の家来といふことで、その信長のあとをついで天下をといふ野望はなかつた。たまたま信長が横死して自然に道がひらかれたから天下を狙つて動きだしたにすぎなかつた。彼もいはば温和な野心家、節度のある夢想児であつたのだ。家康も温和な人だ。けれどもいつの日かその眼前に天下に通じる道が自然にひらかれたとき、そのときを思ふと家康といふ人は怖しい。いつたん道がひらかれた時、そのかみの彼自身が俄に天下をめざす獰猛な野心鬼に変じた如く、家康も亦いのちを張つて天下か死かテコでも動かぬ野心鬼となる怖れがある。さういふ怖れをいだくのも、家康自体にその危さが横溢してゐるためよりも、時代の人気があまり家康に有利でありすぎたせゐだつた。信長の下の秀吉などは凡そ世評はただ有能な家来の一人といふだけのこと、柴田も丹羽も同じことで、信長と肩を並べるぐらゐに副将軍などと言はれるやうな人物はゐなかつたものだ。そこで秀吉は家康の温和さを疑ることはなかつたが、世評の高さのために彼の心中ひそかに圧迫せられるものを堆積するやうになつてゐた。それも彼が気力旺盛のころは、別に家康を怖れるといふほどでもなかつたのだ。
 家康は子供の時から親を離れて人質ぐらし、他人の飯をくひながら育つた人である。彼の生家は東海道の小豪族で、今川と織田にはさまれ、一本立の自衛ができず、強国にたよつて生きる以外に術がない。家康の父広忠は今川にたより家康を人質として送つたが、今川の手にとどく前に織田の手に奪はれてしまつた。このとき家康は六ツであつた。
 織田信秀(信長の父)は家康を奪つたから広忠に使者をたて、今川との同盟を破つて自分の一味につくやうに、さもないと子供を殺すと言はせたが、広忠は屈せず、子供の命は勝手にするがいい、同盟はすてられない、とキッパリ返答した。信秀はせつかくの計も失敗したが別段家康を殺しもせず、むしろ鄭重に養つてやつたといふことで、二年間織田のもとに養はれてゐた。八ツの年に信秀が死に、これにつけこんで今川勢は織田を攻めて、家康は助けだされたが、このとき父広忠はすでに死んでゐた。改めて今川の人質となつてお寺住ひ、坊主から教育を受けて十五まで他人の飯をくつて育つたのである。
 八ツの年に、人質にでてゐる間に父を失つたのであるから、家康には父の記憶がなかつた。広忠は二十四の若さで死んだが、聡明な人だが病弱で神経質で短慮であつたといふ。家康にとつて父の記憶といへば父の風貌面影に就ては殆ど何も残つてゐない。ただ、今川へ人質に送られる途中、織田家の者に奪ひとられ、その彼自身を種にして織田から徳川へ一味をせまつたとき、子供ぐらゐ勝手にするがいいさ、同盟は破られぬ、とキッパリ答へてきたといふ父、これぐらゐハッキリと記憶に残つてゐる父はないのである。殺されるべき六歳の家康は殺されもせず、むしろ鄭重に育てられた。それは今川家に於けるお寺暮しの八年間よりもむしろもてなされ、いたはられたほどで、したがつて家康の織田に対する記憶は元来悪くない。しかしながら、幼少年期の数奇な運命を規定した一つの原理、原理といふ言葉は異様な用法に見えるかも知れないけれども、幼少の家康にとつて、それは恰(あたか)も原理の如きものであつたと思はれる。なぜなら少年にとつては最も強烈な印象、強烈な信仰が原理なのであり、それは家康にとつて最も強烈な印象であり信仰に外ならなかつたからである。
 その原理とは、父は自分をすてても同盟に忠実であつた、といふ正義である。家康はその正義を信仰し、その父を心中ひそかに英雄化してはぐくんだ。父は自分をすてたにも拘らず、自分はむしろ織田の厚遇を受けた、そのことすらも父の正義の当然の報酬の如く感じた、或ひは感じたがらうとした。かうして彼の環境をつらぬく原理が、やがて彼自身の偶像たる独自な英雄像を育てあげたので、彼が後年信長との二十余年の同盟に忠実であつた当代異例の独自の個性がかうして生れつつあつたのである。
 彼の父が彼を棄てた如く、家康も亦自分の子供を人質にだし、煮られやうと焼かれやうと平気であつた。家康を人質にだして勝手に殺すがいいさとうそぶいた広忠のまことの心事はどうであつたか、これをたづねるよしもないが、わが子わが孫を人質にだした家康の場合は冷然たるもので、子供や孫ぐらゐ、彼は平然たるものであつた。従つて、彼は秀吉が小牧山の合戦のあとで母を人質によこしたり妹を嫁にくれたりして上洛をうながしたときにも、母や妹の人質などといふことにはなんの感動もなかつたので、ただ時の勢ひといふものに冷静に耳をすまし目を定めてゐただけのことであつた。
 一般に野心家といふものはわが子の一人や二人犠牲にしても野心のためには平然たるもののやうに見えるけれども、案外野心家には肉親的な感情の強い人が多いもので、祖先とか家といふものと同化した動物のやうな保守家の方が却つて肉親的に不感症で、家のためには子供の一人や二人煮られようと焼かれようとと本能的なつめたさを持つてゐるものなのである。家名のためだなどと云つて我が子を冷酷に追ひだしたり、中には肺病の子供を家名のために早く死んでくれと願つたりする、さういふ冷酷な特異性がもはや特に鋭く訴へてこないほど我々の身辺には家名の虫のつめたさが横溢してゐるのだ。その御当人が自分のつめたさに気附かずに、甘つたるい家庭小説か何かに涙を流してゐるのだから笑はせる。人は涙といふものを何かマジメに考へがちだが、笑ひの裏と表にすぎないので、笑ひが単なる風とその音にすぎなければ、涙などは愚かしい水にすぎない。妙に深刻に思はれるだけむしろバカげたものである。
 家康も保守家であつた。そして彼は子供だの孫だのの二人三人はどうならうと平気の平左の人であつた。律義者で、温和な考への人だ。そして、自分に致命傷の危険がなければ人が何をしようと、どんなに威張らうと、朝鮮へ遠征しようと、親類の小田原を亡ぼさうと、我関せずでゐる人だ。時世時節なら何事も仕方がないといふ考へで、秀吉の幕下に参じて関白太閤などと拝賀することぐらゐ蠅が頭にとまつたほどにしか考へてゐない。
 このままいつ死んでもそれでよし、さういふ肚の非常にハッキリした家康で、さういふ太々(ふてぶて)しい処世の骨があつたから、野心家のやうにあくせくしないが、底の知れないやうなところがある。それで古狸などと思はれるが、根は律儀で、ただいつ死んでもいいといふ度胸の生みだした怪物的な影がにじんでゐるだけである。
 いつ死んでもいいといふ最後の度胸はすわつてゐたが、平常の家康はお人好しで、小心な男であつた。彼は五十ぐらゐの年配になつても、まだ、たとへば近臣が何かの変事を告げ知らせると、忽ち顔色青ざめて暫く物が言へなくなるたちであつたといふ。秀吉の死後、三成一派が家康を夜襲するといふ噂の時にも彼は顔色を変へてしまつたといふことで、いい年配になつてもさういふ素直な人だ。素直といふ意味は、たとへば我々のやうな凡人でも、四十五十になれば事に処して顔色を変へないぐらゐの稽古はできる。我々は内心ビクついてをりながら顔色だけはゴマかすぐらゐの習練はできるのである。それは形の上の習練で内容的には一向に習練されてはゐないのだが、家康といふ人は、つまりさういふ虚勢の、上ッ面だけのお上手が下手であつた証拠だ。彼は顔色を変へしばしは声もでなくなるぐらゐ顛倒するが、やがて考へ、そして考へ終ると度胸をきめる。さうするとテコでも動かない度胸の男になるので、負けると分つた信玄との一戦にも断々乎として出陣する、秀吉と小牧山で戦ひ、さうかと思へばアッサリ上洛し拝賀もする。彼の家来の目には薄氷を踏むやうな危険にみちた道を、主たる彼のみが常に自信をもつて踏み渡つてゐた。その自信とは、ままよ、死んでもいいや、といふことだ。彼は命をはる人であつた。そのくせ彼は命をはつて天下を望んでゐたわけではない。命をはつて、ただ現在の生存を完(まつと)うしてゐたといふだけのことなのである。
 秀吉が死ぬ。すると家康が意志するよりも、世間の方が先に意志し、彼は世間の意志に押されて自分自身を発見し、意志するやうな有様だつた。加藤清正などといふ秀吉子飼ひの荒武者まで三成を憎むのあまり家康支持に傾くといふのだから家康とても思ひの外であつたらう。福島正則の如きまで禁を承知で家康と婚を結ばうとする、いはんや黒田如水などはわざわざ九州から出ばつてきて家康を護衛する、名目は三成の天下の野望を封ずるためとあるのだが、それはうはべだけのことで内実は家康の天下を見越してすこしも先に忠勤を見せようといふさもしい心掛けだ。
 前田利家が死んだ夜、黒田、浅野、加藤などといふ朝鮮以来三成に遺恨を含む連中が三成を襲撃しようとした。三成は女の籠に乗つて浮田の邸へ逃げこんだが、更に家康の邸へ逃げこんできた。追跡してきた面々が騒いでゐるのを家康が玄関へ出て行つて、諸君の顔も立つやうにする、三成は政界から引退させるから助命させてやつてくれと頼んで引きとらせた。その夜更けに本多正信が家康の寝所へでかけて行つて、三成のことはどうお考へで、と尋ねると、家康は、アア今それを考へてゐるところだ、左様ですか、お考へ中となら別に申上げることもありますまい、と引下つてきたといふ。正信の考へでは三成を生かしておけば今に徒党を結んで反乱を起す。なまじひに今殺してしまふと、反家康党の反乱といふ一とまとめに敵を平げる火口を失ふことになるから、ここは生かしておいて反乱を起させる方がよいといふ考へ、それを家康に上申するつもりであつたが、家康が思案中だといふから、家康の思案なら自分の考へと同じところへ落ちる筈だと呑みこみよろしく引下つたのだといふ。こんな話は無論後世の作り話で、家康一代の浮沈を決する大問題を禅問答の要領で呑みこんでくるなどといふバカげた筈があるべきものではない。特に家康正信はしつこいほど慎重なたちで、かりそめにもかかる軽率なやりとりですませるやうな人柄ではなかつたのである。
 然し三成をかくまひ、翌朝は護衛までつけて佐和山へ送つてやつた家康の肚は、三成を生かしておけばやがて反乱のあげく三成党を一挙に亡しうるといふ、家康がその肚であるばかりでなく、三成がその肚を見抜きここへ逃げれば必ず助けられると見越して逃げこんだのだといふ。両々ゆづらず、神謀鬼策、蛇の道は蛇、火花をちらす両雄の腹芸といふところだが、話が出来すぎてゐるやうだ。
 家康は温和な人だといふ秀吉の口癖は見る人には共通の真実であり、三成もそれを知つてゐたのだと思ふ。家康とてもこの微妙な時代に先の見透しなどがあるべき筈はない。結果に於て関ヶ原で勝つてゐるから、まるでそれを見越した上での芸当だつたと片づけてゐるのだが、関ヶ原は一大苦戦で、秀秋の裏切りまでは、家康はすでに自らの敗北を信じてゐた。彼は無我夢中で爪を噛んで、小倅めにだまされたか、口惜しや口惜しやと歯がみをしてゐたといふ。彼は不利の境地に立つと夢中で爪を噛む癖があつたさうで、小倅めといふのは金吾中納言秀秋のことだ。この小倅は元来秀吉の甥で、秀吉の養子となつて育つたのだが、黒田如水らのとりもちで小早川隆景の養子となつた。朝鮮役では秀吉の名代格で黒田如水を参謀に出陣したが生来の暗愚で、朝鮮の戦争でも失策をやり秀吉の怒りにふれて筑前七十余万石から越前十五万石へ移封を命ぜられたのである。ところがまだ越前へ移らぬうちに秀吉が死に代つて政務を見るやうになつた家康のはからひで移封は有耶無耶(うやむや)に立消えてしまつた。如水とは深い関係があり家康には恩義があるから、関ヶ原へ出陣のため九州を立つ時から如水のすすめで裏切りの約束を結んでゐた。この裏切りがなければ、まさしく家康は爪を噛み噛み関ヶ原の露と消えてゐたのであつた。
 三成は四面楚歌であるとはいへその背後には豊臣家があり、家康の党類は多いと云つても、その中のある者は反三成の故に家康に結ぶだけで、豊臣徳川となればハッキリ豊臣につく連中だつた。さういふ微妙な関係にあつて、三成にことさら反乱を起させてまとめて平げやうなどといふ利いた風な細工が自信満々でつちあげられるものではないので、家康には利いた風な見透しなどといふものはなかつた。彼はただ肚をきめてゐた。なるやうになれ、死ぬか生きるか。そして彼はともかく自分をたよつて逃げこんできた三成を殺すやうな小細工はできないのだ。うられた喧嘩は買ふが、逃げこんだ敵は殺すことができない。家康はまさしく温和で、モグリのできない人であつた。
 関ヶ原で勝つまでは何が何やら目算の立てやうもなかつたらうと思はれる。淀君派と政所(まんどころ)派の対立だの、反三成党の発生だの、それらは曾て目算に入れやうもなかつたことで、まつたく目新しい現実であり、彼は現実に直面して一つ一つ処理するだけで精一杯であつたらう。そしてそれらの現実の勢ひといふものを嗅ぎわけて、その勢ひに乗れるところまでは乗らうとする。副将軍むしろ摂政といふやうな格式で諸侯の拝賀まで要求する、どこまで勢ひに乗つて行けるか、ともかく最後は戦争だ。それだけは分つてゐた。全てをその一戦に賭ける肚だけはきまつてゐたが、そこから先の目算はなかつた筈だ。
 彼が始めて天下をハッキリ意識したのは関ヶ原に勝つてからだ。ここで始めて慾といふものがでてきた。其時までは肚をきめて一々の現実に対処するのが精一杯といふだけのことであつた。
 保守家で温和で律儀な男が、はからずも自然に天下を望む最前面へ押しだされてしまつたので、保守家で事なかれの小心者でも往々にして野心を起して投機などにひつかかるのは世の中に良くある例だが、かういふてあひが慾にからみ我を失ふとあくどいことをする。家康は持つて生れた用心深さでウ※[#小書き片仮名ヰ、374-22]リアム・アダムスから外国事情をきき、自身幾何学の初歩の講義をうけたりして外国といふものを知らうとしたが、又、間者を外地へ派して外国の風俗文化宗教などを探らせ、このやり方は言ふまでもなく内地の諸侯に対しては一層綿密であつたのは言ふまでもない。
 けれども豊臣を亡すといふ最大眼目のこととなると、駄目なので、どうせ奪ひとる天下なら有無を言はさず取つてしまへばよいものを、何がなそれらしい名目なしに事を起すといふことがやりにくい。三好松永流のクーデタができない性分なのである。
 かう慾がでてしまふと彼はもう凡人で、この頃から変事にあつても顔色を変へなくなつたさうだが、つまり大人になつたのだ。その代り肚をすゑ命をすててかかるといふ太々しさ純潔さは失はれて、勢ひに乗じて自我の抑制もつつしみも忘れただ慾の皮の仕上げをたのしむだけの老獪(ろうかい)な古狸になつてしまつた。彼は齢をとつてきた。クーデタがきらひだなどといふうちにいつ死ぬかも知れない怖れもまじつてきて、恥も外聞もなく狸婆アの嫁いぢめのやうな泥くさいことを平然とやつてのけたが、古今東西、天下をとつた男の中でこれぐらゐ不手際のとり方はめつたにない。こんな下手クソな見えすいた口実をつけるぐらゐなら始めからアッサリ武力に訴へて然るべきであらうに、それが出来ずにかういふ泥くさい不手際でかすめとつたといふのは、彼はつまり凡そ人の天下をとるにふさはしくない場違ひ者であつた証拠である。
 時代といふものは奇妙なもので、決してその時代の最大最高とは限らない人物が、時の流行の思潮によつて最大最高の位置につく。その下役の参謀などに却つて人物がゐても、時代は識見と相応せずに人柄と取引するやうな場合が多いので、柄が時代に合はないと、どうにもならないものである。
 芸術などは思潮自体流行的なものだから別してさうで、流行作家といふものは時代思潮を血肉化して永遠の足跡を残す人は案外少くむしろ歴史的には埋没する性質の多いものなのである。
 家康といふ人は力づくで人の天下をとるべき性質の人ではないので、よい番頭、よい公僕、さういふ人で、議会政治の政治家としては保守党の領袖などにまア似合ふ人だ。そして新聞から優柔不断だの新味がないだのと年中コッピドクたたかれてゐる人だ。それが戦国時代に生れて奇妙に衆に押されて前面へでて、最後にはファッショの御大のやうなクーデタをやらざるを得なくなつたから何とも珍無類な古狸の化けそこなひのやうな不手際な天下のとり方をしたのである。
 政治家としては新味もなく政策も平凡な保守家で、ただ間違ひがないといふ点で結局保守党の領袖にはなる人であつたらう。然し、いざといふ時に際して、いのちを賭けて乗りだしてくる気魄だけは稀であり、その賭博が野心に賭けられてゐるのでなく、ただ現実を完うするだけの小さな現実の誠意にかかつてゐる点で、珍重すべきものであつたと思はれる。
 アメリカの軍陣医学によると、爪を噛む癖の男は戦争にでると恐怖のあまり発狂するのが通例だといふことである。すると家康も一兵卒で戦場へでると、臆病者で物の役に立たないやうな男であつたかも知れぬ。実際彼は小心で、驚くたびに顔色を変へるといふ人物でもあつたのである。幸ひ彼は桶屋の倅や百姓の二男坊や足軽の家などに生れずに、大将の家に生れて、始めからさういふ教育を受け、戦争を自主的に行ふ立場であつたから、兵卒なら発狂する線を踏み越えて意慾的な行動をすることができたのかも知れない。彼の足跡をつぶさにふりかへると、この想像も必ずしも奇矯ではないやうである。古狸よりは、むしろお人好しの然し図太いところもある平凡な偉人であつたやうだ。




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