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著者名:斎藤茂吉 

 私のところに只今孫が二人居る。一人は昭和二十一年四月生れ、次ぎは昭和二十三年二月生れである。それゆゑ大きい方は今年数へ年五つになるわけだが、満で算(かぞ)へると年が減つて三つになり、小さい方は一つといふことになる。(この満で算へる新しい約束は、万国同等で、まことに結構である)。
 この満で算へる計算の方法は、まだ馴(な)れないので、ここしばらくは不便のやうにおもふだらう。一般の人の心になじむまでには、五年や十年はかかるのではあるまいかとさへおもはれる。
 明治十四年の初秋に、明治天皇が東北に巡幸あらせられた。その時、私の次兄も奉迎したが、そのとき明治九年生れの兄は六歳で、小さい袴(はかま)など穿(は)かせられ、三島県令の計画によつて成つた早坂新道といふところに整列して奉迎したと、追憶文に書いて居るが、六歳とすると大体私らの腑(ふ)にも落ちるのである。然(しか)るに満の計算によると、四歳といふことになる。従来の計算による常識だと、五歳以前の幼童は未(ま)だまことに小さい感じである。五歳になつてはじめてキンテイサマ、テンシサマの記憶がよみがへつてくる、といふ従来の習慣が残つて居り、四歳ではまだその記憶が残らないといふ従来の習慣に本づき、兄のその時の年齢を満で算へて直ぐ腑に落ちるやうになるまでには、五年や十年はかかるだらうといふのは、そんな事柄にも関聯(くわんれん)してゐるのである。
 私の長男(つまり孫の父)が長崎に遊びに来たのは、四歳の暮であつた。そのとき大浦のホテルに洋食を食べさせに連れて行つたとき、小さなずぼんにおしつこを引かけた記憶がある。そして五歳の春に東京に帰つたのであるが、只今になつてみると、諏訪(すは)神社の鶴(つる)がかすかに記憶に残つてゐるだけで、長崎の港の記憶は殆(ほとん)ど無いくらゐである。満にして算へれば三歳といふことであるから、先(ま)づそんなものであらうから、我々は五歳を標準としてさういふ経験などをも考へて居たものである。それが無理なく調和がとれるやうになるまでは、時間がかかるだらうといふのはそんなわけ合ひがあるのである。
 孫の生れた昭和二十一年四月は、私が山形県の大石田といふところにゐた。孫の母が時たま孫の絵をかいてよこしたり、写真を送つてくれたり、生長の様子をかいてよこしたりするので、私は想像して孫のことをいろいろに思つてゐた。
 私は二十二年の十一月に東京に帰つて来た。そのとき、大石田の友人いふに、『まあお孫さんが先生になじむ迄(まで)は四五日はかかりませうな』云々。然るに私はその友人と二人で東京に来てみると、孫は、来た次の日にはもう私に抱かれるやうになつた。食べものを与へるとよろこんて食べる、請求もするといふありさまである。友人は笑つて、
『先生、やはり血筋ですべえな』云々。
 この『血筋』といふことは元から云はれたことである。この孫の父、つまり私の長男が小さかつたとき、私の親友が抱いても泣きさけぶのに、偶□(たまたま)上京してゐた私の長兄には平然として抱かれてゐた。そこで『血筋』の問題が出たのであるが、そのとき長兄がいふに『やはりおれは父親にどこか似てゐるところがあるんだ。子どもは動物みたいなもんだからそれを勘づくんだ。それは血筋といへば血筋なんだが』云々。兄貴の動物説もまんざら誤ではあるまいと思つて、いまだに忘れずに居る。『孫は子よりも可愛いと申しますね』と人にいはれる。これは実際そのやうである。併(しか)し、何のためにさういふものであるのか、私にもよく分からない。私が二階に臥(ね)てゐると、二人の孫が下の廊下を駆(か)ける音がする。その音を聞いてゐると、何ともいへぬ可愛い感じである。私は、これが孫の可愛い感じといふものだらう、理窟(りくつ)はいろいろあるかも知れんが、吉士が佳女のこゑに心牽(ひ)かれるやうなものかも知れん、私が医科大学一年生のとき、独逸(ドイツ)のヴエルヴオルン教授の生理学汎論を読み、タクシスの説を学んだことがある、孫が可愛いなどといふのは、煎(せん)じつめれば、何か知らんあんなものでもあるのかも知れないなどと思ふことがある。
 私の祖父は一面は酒客でデカダン気味のところのあつた人だが、孫の私なども可愛がつてくれた、木苺(きいちご)の熟す時分になると、七歳ぐらゐになる私を連れて、山の谿流に沿(そ)うて上下し、木苺を籠(かご)に丹念に採つて、それを私にも食べさせてくれたのをおぼえて居る。
 本居宣長は子ども等が邪魔になると云つて、二階の勉強部屋との遮断(しやだん)を工夫して居るが、私も孫が二階にのぼつて来て邪魔をするので板障子を作り、遮断をするやうにした。それでも日に幾度となくのぼつて来て板障子を叩(たた)く、知らん振をして居ると、孫はしばらく黙つてそこに居るが、到頭あきらめて降りて行く。その気持は何とも『あはれ』である。
 この祖父が小用を足して居ると、孫が来てそれをのぞく、世の中の一つの不思議としてのぞいてゐるやうなおもむきである。家族の者は、そんなことをさせないで、叱(しか)りなさいなどと云つたものだが、うつちやつて居るうち、孫はいつのまにか興味が無くなつたと見え、もうのぞかなくなつた。稚童といへども興味などといふものはそんなにつづくものでないものと見える。
 近所に根津山といふ丘陵がある。根津家の持山であつたが、戦時中荒れたし、大部分が畑になつた。そこに孫を連れて行くと、孫は通る小田急電車を見て居る。パンタグラフなどといふ語もおぼえて、実に熱心に見て居る。レンケツデンシヤ、キユウコウ、シンチユウグンなどといふことをもおぼえた。
 家に居ると、物差し、箸(はし)箱などを電車に見たて、デデンデデンなどといふ音頭を取つて遊んでをる。新宿、代田二丁め、下北沢などといふこともいふ。
 さういふことが児童精神発育の階梯(かいてい)となる。弟の方の孫が一々その模倣をする。兄の方が、おぢいちやま、二階にいつちやいけないといふと、弟の方が、すぐそれをおぼえて私に同じことをうつたへる。本邦でも、石川貞吉博士とか、榊保三郎博士とかが、児童精神の発育状態をしらべ、外国の文献にも載つたことがある。
 私は元来、食事するときには孤独で食べるのが好きである。猫が物食ふのを見るに、やはり茶ぶ台などの下に隠れて物を食べて居るが、私もあのやうなのが好きである。旅して旅館に行つても、女中に給仕して貰(もら)はない食事が好きである。これはもつと若い時分からであつて、年寄つてからはますますさういふ傾向になつた。さうであるから、孫どもが私の食事に寄つて来て、何の彼(か)のと要求されるとうるさくて敵(かな)はない。うるさいのに、先づ兄が寄つてくる、つづいて弟が寄つてくる。背にかじりついて食べ物を要求する。私の膳から食べものを盗んで食べる。叱つても叱り甲斐(がひ)がない。そこで私は二階に膳を運んで錠をおろし、孤独で食べる。可愛い孫の所做(しよさ)がこんなにうるさいのだから、私はよほど孤独の食事が好きと見える。美女の給仕などを毫(がう)も要求しないのは寧(むし)ろ先天的といはなければならない。
 私の孫が幾つぐらゐのとき、私はこの世から暇乞(いとまご)ひせなければならないだらうか。人間の小さい時には親に死なれても、涙など出ないものである。即(すなは)ち、大人のやうに強い悲しみが無いものである。明治二十四年、私の祖父が歿した。夜半過ぎて息を引きとり、そのとき祖母も母も泣いてゐたが、私(即ち孫)は、涙がすこしも出なかつた。炬燵(こたつ)の布団の中にもぐりながら、祖母なんかがどうしてあんなに泣くかと思つたことがある。そのとき私は既に小学校に入つてゐたのであるが、祖父の死に際してそんなに悲しくなかつたといふ、追憶が浮んでくるのである。
 私が死んだなら、小さい孫どもはさぞ歎くだらうなどとおもふのは、ほしいままな自己的な想像に過ぎない。孫どもはかういふ老翁の死などには悲歎することなく、蜜柑(みかん)一つ奪はれたよりも感じないのである。そこですくすくと育つて行く。この老翁には毫末(がうまつ)の心配も要(い)らぬのである。
 村の鎮守の丁寧に均(な)らされた砂上などには、殆(ほとん)ど極(き)まつて老媼が孫の相手をして遊んで居るのが見あたる。それをよく観察すると、老媼のその一挙手一投足が、いかにも無理がなくて、神からさづけられた為事(しごと)のやうに見える。私の孫相手もまさにその如くであるだらう。この年をしていまだに和歌などを弄(もてあそ)んでをるのは重荷の筈(はず)であるのに、ひとはさうは思はぬであらうか。
 今、二人は低い食卓に対(むか)ひあつて、食事をして居る。ときどき小さな争ひをして泣くが、また直ぐ仲直りをして、片ことの日本語をいふ。日本語の初歩で、『むつみ合』つて居る。日本語は極めて面倒な国語だと云はれるが、彼等もそれを使ふ運命に置かれてゐる。




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