念珠集
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著者名:斎藤茂吉 

    1 八十吉

 僕は維也納(ウインナ)の教室を引上げ、笈(きふ)を負うて二たび目差すバヴアリアの首府民顕(ミユンヘン)に行つた。そこで何や彼や未だ苦労の多かつたときに、故郷の山形県金瓶村(かなかめむら)で僕の父が歿(ぼつ)した。真夏の暑い日ざかりに畑(はたけ)の雑草を取つてゐて、それから発熱(ほつねつ)してつひに歿した。それは大正十二年七月すゑで、日本の関東に大(おほ)地震のおこる約一ヶ月ばかり前のことである。
 僕は父の歿したことを知つてひどく寂しくおもつた。そして昼のうちも床のうへに仰向に寝たりすると、僕の少年のころの父の想出(おもひで)が一種の哀調を帯びて幾つも意識のうへに浮上つてくるのを常とした。或る時はそれを書きとどめておきたいなどと思つたこともあつて、ここに記入する『八十吉(やそきち)』の話も父に関するその想出の一つである。かういふ想出は、例へば念珠(ねんじゆ)の珠(たま)の一つ一つのやうにはならぬものであらうか。
 八十吉は父の『お師匠様』の孫で、僕よりも一つ年上の童(わらべ)であつたが、八十吉が僕のところに遊びに来ると父はひどく八十吉を大切にしたものである。読書(よみかき)がよく出来て、遊びでは根木(ねつき)を能(よ)く打つた。その八十吉は明治廿五年旧暦六月二十六日の午(ひる)すぎに、村の西方をながれてゐる川の深淵(しんえん)で溺死(できし)した。
 そのときのことを僕はいまだに想浮(おもひうか)べることが出来る。その日は村人の謂(い)ふ『酢川落(すかお)ち』の日で、水嵩(みづかさ)が大分ふえてゐた。川上の方から瀬をなしてながれて来る水が一たび岩石と粘土からなる地層に衝(つき)当つてそこに一つの淵(ふち)をなしてゐたのを『葦谷地(よしやぢ)』と村人が称(とな)へて、それは幾代(いくだい)も幾代も前からの呼名になつてゐた。目をつぶつておもふと、日本の東北の山村であつても、徳川の世を超え、豊臣、織田、足利から遠く鎌倉の世までも溯(さかのぼ)ることが出来るであらう。『葦谷地』といふから、そのあたり一面に蘆荻(ろてき)の類が繁(しげ)つてゐて、そこをいろいろの獣類が恣(ほしいまま)に子を連れたりなんかして歩いてゐる有様をも想像することが出来た。明治廿五年ごろには山川の鋭い水の為めにその葦原が侵蝕(しんしよく)されて、もとの面影がなくなつてゐたのであらうが、それでもその片隅の方には高い葦が未だに繁つてゐて、そこに葦切(よしきり)がかしましく啼(な)いてゐるこゑが今僕の心に蘇(よみがへ)つて来ることも出来た。その広々とした淵はいつも黝(くろ)ずんだ青い水を湛(たた)へて幾何(いくばく)深いか分からぬやうな面持(おももち)をして居つた。
 瞳(ひとみ)を定めてよく見るとその奥の方にはゆつくりまはる渦があつて、そのうへを不断の白い水泡(みなわ)が流れてゐる。その渦の奥の奥が竜宮まで届いて居るといつて童どもの話し合ふのは、彼等の親たちからさう聞かされてゐるためであつて、それであるから縦(たと)ひ大人であつてもそこから余程川下(かはしも)の橋を渡るときに、信心ふかい者はいつもこの淵に向つて掌(てのひら)を合せたものである。その淵も瀬に移るところは浅くなつてその底は透き徹(とほ)るやうな砂であるから、水遊(みづあそび)する童幼(どうえう)は白い小石などを投げ入れて水中で目を明いてそれの拾競(ひろひくら)をしたりするのであつた。
 旧暦の六月廿六日は『酢川落(すかお)ち』の日であつたけれども、もう午過ぎであるから多くの人は散じてしまつて、恰(あたか)も祭礼のあとの様な静かさが川の一帯を領して居た。弱くて小さい魚は死骸(しがい)となつて川の底に沈み、なかには浮いて流れてゐるのもある。割合に身が大きく命を取留めた魚は川下に下れる限り下つたのもあり、あるものは真水の出(い)づるところにかたまつて喘(あへ)いでゐるのもある。さういふ午過ぎに十四ぐらゐを頭(かしら)に十又は九つ八つぐらゐまでの童が淵の隅の割合浅いところに水遊をしてゐた。水遊と云つてもふだんの日の水遊とは違つて、一方には底に潜つて行つて死んだ小魚を拾ふのもその楽みの一つなのである。間(ま)が好(よ)くば弱つて喘いでゐる大きな魚をつかまへることが出来たりするので、童らは何時(いつ)までも陸に上らうとはしない。
 泳げるものは最も気味の悪い深いところまで泳いで行つて、渦のところを二まはり三まはりぐらゐ廻つて来るのが自慢の一番と謂(い)つてよかつた。すると淵の向う岸に八十吉がたつたひとり浅瀬のところで何かしてゐるのが見えた。向う岸と云ふと童らの居るところからは平らな光つてゐる水面を中に置いて可なりの距(へだた)りがある。八十吉は唯一人で小魚でも見つけて居るのかも知れんと思つてから五分間位も経つた頃であらうか。岸から少し淵に入つた鏡のやうな水面に人の両方の手が五寸ぐらゐひよいと出たのが見えた。童らの驚く間もなく、人の両方の手が二たび水面から五寸ばかり出た。ほんの刹那(せつな)である。
 そのとき十四になる童が水中に飛込んで泳ぎ出した。稍(やや)しばらく泳いでゐたが人の両手が水面から出たあたりに行著(ゆきつ)くと、頭の方を下にして水中ふかく潜(くぐ)つて行つた。その童の両の足の活溌な運動も見えなくなつて、いよいよ水中ふかく潜つて行つたことを観念すると、こんどはみんな息を屏(つ)めて、小さい心臓の鼓動をせはしくしてそこの水面を見てゐた。水面は全く水の動揺を収めてこの事件を毫(すこ)しも暗指(あんじ)してゐる様な気色(けはひ)がない。やや暫(しばら)くすると、童はつひに空(むな)しく水面に浮上つて来て、しきりに手掌(てのひら)で顔を撫(な)でた。その時である、はじめて事の軽々しくないといふ一種の不安が僕らの心を圧して来て、そこに居たたまらないやうな気がした。童は二たび身を逆(さかし)まにして水中に潜つて行つた。けれども暫くののちまた手を空しうして水面に浮上つたとき、水面にあつて、人を呼べとこゑを立てた。それから童らはひた走りに走つて田畑に働いてゐる大人を呼びに行つた。
 村の人々が数十人集つて、かはるがはる淵の中に飛込んだのは、人の両手が見えてから三十分ぐらゐも経つてゐたであらうか。大人が息こんで水中に潜るのであるが、八十吉はなかなか見つからない。入りかはり立かはり水中にもぐつて、また三十分間ぐらゐも経つた頃であつたらうか。一人の若者がたうとう八十吉を肩にかついで水面に浮上つて来た。若者は何か鋭く叫んで、その肩には生白い人の体がぶらさがつて、首の方がだらりとして腕などは日にからびた葱(ねぎ)の白いところを見るやうな、さういふ光景が電光のごとくに僕に見えた。
『お関の婿だ。あれあ』
『お関の婿あ八十吉を見つけた』
 かういふこゑが聞こえた。お関は村はづれに小さい店を開いてそこで揚物だの蒟蒻(こんにやく)煮などを売つてゐた。八十吉を引上げたお関の婿といふのはそこへ他村から入婿に来た若者のことであつた。この若者は其(そ)の数年後隣村の火事に消防に行つて身を挺(ぬき)んじて働いたとき倉の鉢巻が落ちてつひに死んだ。八十吉が水の中からやうやく上つてから暫くは、人間の重苦しい鋭い一種の叫びごゑがそのあたり一帯にきこえて居たが、間もなく元の静寂に帰つた。
 蔵王山(ざわうさん)の麓(ふもと)に湧出(わきで)る硫黄泉の湯尻(ゆじり)が、一つの大きい滝瀬をなして流れてゐる。それが西に向つて里へ里へと流れ下つて、金瓶村の東境(ひがしざかひ)に出るとそこから急に折れて北へ向つて流れる。此(こ)の川の川原(かはら)の石はいつも白い様な色合を帯びてゐて水苔(みづごけ)一つ生えない。清く澄んだ流であるが味が酸いので魚も住まず虫のたぐひも卵一つ生むことをしない。又この水を田に引くと稲作(いなさく)に害があるので、百姓にとつて此の川は一つの毒川だと謂(い)つてよい。これを酢川(すかは)と何時(いつ)の頃からか名づけて来た。それから、金瓶村の西方を流れる川は米沢境(よねざはさかひ)の分水嶺から出てくるもので、山形の平野に出てから遂に最上川に入るのであるが、これは淡水であつて多くの魚類を住まはせてゐる。然(しか)るに昔、雨降の後に洪水(おほみづ)が出た時、村の東境まで西へ向つて流れて来た酢川が、北へ折れる処で北へ折れずにそこを突破したから、村の西方を北へ流れてゐる淡水の川に、酢川の水が混つてしまつた。いはば西洋文字のHの様な恰好(かつかう)になつたのである。すると其の川に住んでゐる魚族が一度にむらがり死ぬといふ現象が起つた。さういふ害のある水が淡水の川に混つては困るから、村では破れたところに堤防を築いてその混入を防いだのである。然るにいつの頃からであらうか。時代はずつとずつと溯(さかのぼ)るであらう。深夜人無きに乗じてその堤防を破つて、故意に酸い水を淡水の川に灑(そそ)いだものがあつた。その酸い水が混じると、魚の族は真黒になるほど群がつて川下へ川下へとくだる。それを梁(やな)で取れるだけ取つて、暁にならぬうちに家に帰つて知らんふりしてゐるのである。これを『酢川落(すかお)ち』と唱へる。
 暁に先立つて草刈(くさかり)に行く農夫の一人二人がそれを見つけて、村役場へ届ける。村役場では人足(にんそく)を出して堤防の修理をする。然るに一方では村の老若男女童男童女が我先にと川へ出かけて行つて、弱り切つてゐる魚を捕まへるので、つまり余得(よとく)にありつくのである。この『酢川落ち』はさうたびたびは無い。また村人も一種の楽みとおもふので、役場がそれを大目に見て、罪人を発見しようと努めるやうなことはない。『酢川(すか)おとし』の行為は法に触れるべきものであるが、『酢川おち』の現象は村民にとつては無くてはならぬ、謂(い)はば一つの年中行事の如き観を呈するに至つた。それがずつとずつと古い代から続いて来たのである。泳(およぎ)を知らない、常には川遊などをしない八十吉が、この『酢川おち』の日に、ただのひとりで川に遊びに来てゐたのである。
 八十吉は終(つひ)に蘇らなかつたことを下男が来て話して呉れた。八十吉のこの事があつた時父は他村に用足しに行つて、日暮時に入つてやうやく帰つて来た。父の顔を見るや否や、あわてて僕は父の側に行き、八十吉の溺(おぼ)れる有様、それから八十吉を水から揚げてから、藁火(わらび)をどんどん焚(た)いて、身の皮のあぶれる程八十吉を温めたこと、八十吉の肛門(かうもん)から煙管(きせる)を入れて煙草(たばこ)のけむりを骨折つて吹き込んだこと、さういふことを息をはずませながら話をした。
『八十吉の尻(けつ)の穴さ煙管が五本も六本もずぼずぼ這入(はひ)つたどつす。ほして、煙草の煙(けむ)が口からもうもう出るまで吹いたどつす』
 かういふ僕の話を聞いてゐた父は、どうしたのか一ことも云はずにいきなりと僕をにらめつけるやうな顔をして、僕は予期しない父の此の行為に驚愕(きやうがく)するいとまもなく、父はあたふたと著物(きもの)を著換へて出て行つてしまつた。祖母も母もみんな八十吉の家につめ切つてゐた時である。
 僕は父の歿した時、民顕(ミユンヘン)の仮寓(かぐう)にあつてこのことを想出(おもひだ)して、その時の父の顔容を出来るだけおもひ浮べて見ようと努めたことがあつた。帰国以来僕は心に創痍(きず)を得て、いまだ父の墓参をも果(はた)さずにゐる。家兄の書信に拠(よ)ると八十吉は十二で死んでゐるから僕の十一のときであつた。八十吉は金瓶村宝泉寺に葬られてあつて、円阿香彩童子といふ戒名をもつてゐる。(大正十四年九月記)

    2 痰

 父は長い間、痰(たん)を煩つてゐた。小男で痩(や)せた父が咳込(せきこ)んで来ると、少し前かがみになつて、何だかお腹(なか)の皮でも捩(よぢ)れるやうに咳込むのがいかにも苦しさうであつた。ところが、その苦しさうな咳が一とほり済むと、イツヘ、イツヘ、イツヘ、イツヘといふ咳が幾つか続いて、それから、イツシ、イツシ、イツシ、イツシといふ咳になる。その工合がどうもをかしいので、幼童の僕がその真似(まね)をしたものであつた。仏壇の勤めなどがまだ終らぬうちに父が咳込んで来てさういふ異様な咳になると、勝手元で働く母の傍にくつついてゐながら僕がイツシ、イツシ、イツシ、イツシといふ真似をして、母から睨(にら)まれたりするけれども、母もたうとう笑つてしまふのであつた。
 年に一度、多くは冬を利用して人形芝居が村にかかつた。夕飯を終へてから、翁媼(をうあう)も、婦(をんな)も孫も、みんな、深く積つた雪がかんかんと氷る道を踏んでその人形芝居を見に行つた。時にはひどい吹雪の夜のことなどもあつた。その人形芝居には、美しい娘をさらつてゐる大猿を一人の侍(さむらひ)が来て退治したり、松前屋五郎兵衛(ごろべゑ)が折檻(せつかん)されて血を吐いたり、若い女房がひとりの伴を連れて峠を上つて行くと、そこに山賊(さんぞく)が出て来たりした。杉の木立の向うは暗闇(くらやみ)で星が輝いてゐるやうにも拵(こしら)へてあつた。ある晩に父は僕を背中に負つてその人形芝居を見に行つたときにも、父はひどく咳込んでいかにも困つた様子であつたが、僕がまたそれの真似して、それでも穉(をさな)ごころに悪いことをしたやうな気持でゐたことをおぼえてゐる。
 父の痰持(たんもち)は僕の生れる前からであつた。祖父が隠居してから楽みに飼つた鯉(こひ)が、水が好いので非常に殖え、大きな奴がいつも沢山泳いでゐた。雪がもう二三度降つてからのことであつたさうである。大雪にならぬ前に、その鯉池の浚(さら)ひをする方がいいといふので、寒さの厳しい日に父は若者を督促して働いたのが本(もと)で、たうとう痰になつてしまつたといふことであつた。痰になつてからも父はやはり働いてゐた。僕の生れたのは父が痰になつてから後のことである。僕は小さい時は腺病質(せんびやうしつ)でひよろひよろしてゐた。父が痰でなやんでゐたときの子だからだなぞと祖母の云ふのを聞いたことがある。
 父は痰持であつたから、水飴(みづあめ)だの生薑(しやうが)の砂糖漬(さたうづけ)などを買つてしまつて置いた。水飴は隣の宝泉寺からよく貰(もら)つて来たやうである。宝泉寺では村人が餅(もち)を搗(つ)くたびに持つて行くので、餅の食べきれないときにはそれを水飴に作つた。いつか宝泉寺では、琥珀(こはく)色の透とほる水飴が甕(かめ)に一ぱいあるのを持つて来て分けて呉れたことを僕は覚えてゐる。父の居ないときに時折兄と僕とがその水飴を盗んで嘗(な)めた。
 或る時僕は生薑の砂糖漬をも盗んで来たことがあつた。そして砂糖だけを嘗めて生薑を外に棄(す)てた。外には雪が一めんに降(ふり)積つて居る。生薑が雪の上におちると三四の雀(すずめ)が勢よく飛んで来てそれを争つたことをおぼえてゐる。痰と生薑とに何かの因縁(いんねん)があるやうにも思へたがそれが穉(をさな)い僕には分からない。それから大分(だいぶ)経(た)つて僕は東京にのぼるやうになり、好んで浪花節(なにはぶし)を聞いた。浪花節かたりは、『せめて生薑の一へげも』といふことをうたふ。その度ごとに僕は父の痰のことを追憶した。医学を学んでから僕は漢方(かんぱう)または民間医方(いはう)に興味をもつたこともある。さて生薑のことを注意するに、『思□(しばく)の云(いは)く。八九月に多く食へば、春にいたりて眼を病む。寿(いのち)を損じ筋力を減らす。妊婦(はらみをんな)これを食へばその子六指(むつゆび)ならしむ』なんぞと説明したのもあつて僕を驚かしたが、多くの漢医方には、生薑に開痰(かいたん)の作用あることが説いてある。痰火(たんくわ)の条(くだり)に薑汁を用ゐることもあり、治二寒痰咳嗽一といふ句もあり、導痰丸(だうたんぐわん)、導痰湯(たう)などの処方もあるので、父が砂糖生薑をしまつてゐたことが、何だか一種の哀(あはれ)ふかいやうな気持で僕の心に浮んでくることもあつたのである。
 父は三山(さんざん)や蔵王山(ざわうさん)あたりを信心して一生四足(しそく)を食はずにしまつた。僕の寝小便がなかなか直らぬので、牛(ぎう)が好い、馬(ば)が好い、犬(いぬ)が好いなどと教へて呉れるものがあつたが、父はわざわざ町まで行つて、朝鮮人蔘(にんじん)二三本買つて来てくれたことをおぼえて居る。それであるから、兄が十五になつて、若者仲間に入つてから間もなく、大雪が降つてそれの固まつた或る晩に、鮭(さけ)の頭に爆発する為掛(しかけ)をして、狐(きつね)六疋(ぴき)を殺した。六疋の狐は銘々行くところに行つて死んでゐたさうである。垂れてゐる血を辿(たど)つて行くと其処(そこ)に狐が死んでゐるので、一つなどはそれでも、林の中の泉の傍まで行つてゐたさうである。兄達五六人の若者は夜業の藁為事(わらしごと)が済んでからそれを煮て食つた。兄は爆発為掛の旨(うま)く行つたことを得意に話しながら、どうも少し臭くて駄目だな。牛(ぎう)よりも旨くないな。こんなことを話した。それを次の日父が聞きつけて非常に怒り、何でも狐のことをひどく勿体無(もつたいな)がつたことをおぼえてゐる。
 父は痰を病んでから、いつのまにか何かの神に願(ぐわん)を掛けて好きなものを断つことを盟(ちか)つた。ただ、酒も飲まず煙草(たばこ)も吸はぬ父は、つひに納豆(なつとう)を食ふことを罷(や)めた。幾十年も納豆を食ふことを罷めて、もう年寄になつてから或る日納豆を食つたが、どうも痰に好くない。また痰がおこりさうだなどと云つたことがある。父はその時から命のをはるまで納豆を食はずにしまつただらうと僕はおもふ。父は食べものの精進(しやうじん)もした。併(しか)しさういふ普通の精進の魚肉(ぎよにく)を食はぬほかに穀断(ごくだち)、塩断(しほだち)などもした。みんなが大根を味噌(みそ)で煮たり、鮭の卵の汁などを拵(こしら)へて食べてゐるのに、父はただ飯に白砂糖をかけて食べることなどもあつた。併し僕には何のために父がそんな真似を為(す)るかが分からなかつた。

    3 新道

 六歳ぐらゐになつた僕を背負つて、父は早坂新道(はやさかしんだう)を越えて上山(かみのやま)へ向つて歩いた。雨あがりの道はよく固まつて、天がよく晴れても塵(ちり)の立ちのぼるやうなことはない。両側に密生した松林がしばらくの間続いてゐて寂しいやうである。人どほりの尠(すくな)い朝のうちで、街道は曲折のなるべく無いやうについてゐるから、遙(はる)か向うから人の来るのが見えてその人に逢(あ)ふまでには大分かかる。それからその人が後の林の角に見えなくなるまでも大分かかる。さういふ街道(かいだう)を父はいい気持で歩いて行つた。時節は初夏の頃ではなかつたらうかと思はれる。さういふ記憶は朦朧(もうろう)としてゐるが、松蝉(まつぜみ)でも鳴いてゐたやうな気持もする。
 上山(かみのやま)は温泉場で、松平藩主の居城(きよじやう)のあつたところである。御一新(ごいつしん)後はその城をこはして、今では月岡(つきをか)神社の鎮座になつてゐる。後年俳人の碧梧桐(へきごどう)がここを旅して、『出羽(では)で最上(もがみ)の上山(かみのやま)の夜寒かな』といふ句を残した。僕の村からこの広い新道を通つて上山まで小一里ある。そこまで村の人が大概買物などに行つた。
 さういふ街道を父は独占したやうなつもりで街道の真中(まんなか)を歩いて行つた。然るに稍(やや)しばらくすると、僕のうしろの方で人力車(じんりきしや)の車輪の軌(きし)る音がした。さうしてヘエ、ヘエ、といふ懸声(かけごゑ)がした。これは避(よ)けろといふ合図に相違ないから、父は当然避けるだらうとおもつてゐると依然として避けない。その刹那(せつな)にどしんといふ音がして人力(じんりき)の梶棒(かぢぼう)がいきなり僕の尻のところに突当つた。父は前にのめりさうになつた。
 すると父は突嗟(とつさ)に振向きしなに人力車夫の項(うなじ)のところをつかまへて、ぐいぐい横の方に引いたから人力車がくつがへりさうになつた。人力車夫は慌しく梶棒をおろさうとしたが父はなほ攻勢をゆるめない。人力車夫はつひに左方になつて倒れた。父は人力車夫の咽(のど)のあたり項のあたりを二三度こづいたが、それでも人力車夫は再び起き上つて父と争はうとした。そのとき乗つてゐた老翁が頻(しき)りにそれを止め父に詫(わび)をした。
 父は威張つた恰好(かつかう)で尻を高くはしより再び街道の真中を歩いた。その老翁を乗せて後から来た人力車は今度は僕らを避(よ)けて追越して行つた。追越すときに車夫は何か口の中で云つてゐたが父はそれにはかまはなかつた。僕は事件のあつた時父の背中で声を立てて泣いたことをおぼえてゐる。
 僕は明治四十二年に熱を病んで、赤十字病院の分病室にゐたときに、終日少年の頃の回想に耽(ふけ)つたことがある。そしてなぜあの時、人力車夫が梶棒をあんなにひどく突当てたであらうと考へたことがある。この文章を書いてゐる現在の僕がやはりそのことを思ふのと同じであつた。
 この街道の開通されるまでは、小山を幾つも越えて漸(やうや)く上山(かみのやま)に行著(ゆきつ)くのであつた。そこは如何(いか)にも寂しい山道で、夜遊(よあそび)に上山まで行く若者が時々道が分からなくなつて終夜そのあたりをさまよふといふやうなことがあつた。上山から魚を買つて夜道すると屹度(きつと)道が分からなくなるといふこともいはれた。夜更けてから、ほうい、ほうい、といふこゑがその山道あたりから聞こえるのはさう稀(まれ)なことではなかつた。
 一つの小山の中腹に大きな石が今でもある。それを狼石(おほかみいし)と称(とな)へてゐるのはそこには狼が住んでゐて子を生むと、村の人が食べ物を持つて行つてやる。小さい狼の子が出て来て遊ぶといふやうなことがあつて、夜半などに鋭い狼のこゑがよく聞こえたものださうである。その石の近くを上山へ行く山道が通つてゐた。この山道には狐狸(こり)の変化(へんげ)に関する事件がなかなか多く、母も度々さういふ話をした。
 そこへ御一新(ごいつしん)が来、開化のこゑがかういふ山の中にも這入(はひ)つて来るやうになつた。三島(みしま)県令が赴任するとたうとう小山の中腹を鑿開(きりひら)いて山形から上山を経て米沢(よねざは)の方へ通ずる大街道が出来た。早坂新道と村の人が称(とな)へたのはこの新道である。この新道は僕の生れるずつと前に開通されたものだが、連日の人足(にんそく)で村の人々の間にも不平の声が高かつた。ある時、県令の臨場(りんぢやう)の際に人足に寝そべつてゐる者のあるのを役人が咎(とが)めると、『人としてねぶたきことはあるものを吾(われ)にはゆるせ三島県令』といふ一首を差上げたなどといふ逸話も伝へられた。その男は僕が東京に来てからも年取つて未だ存命して居つたが余程前に亡くなつた。
 さて新道が出来ると人力(じんりき)が通る。荷車は干魚(ほしうを)などを積んで通る。郵便脚夫(きやくふ)が走る。後には乗合馬車(のりあひばしや)が通り、新発田(しばた)の第十六聯隊(れんたい)も通つた。たまには二頭馬車などの通ることもあり、騎馬の人の通ることもある。珍らしいものの通るときには、宝泉寺まで走つていつて遠目鏡(とほめがね)でそれを見た。
 人力車夫が此(こ)の大街道を勢づいて走つてゐるときには心中に一種の誇(ほこり)があつただらう。恰(あたか)もヴアチカノの宮殿を歩いてゐるときに何か胸が開くやうに感ずるが如きものである。僕の父にしてもさうである。父がこの大街道を独占したやうにして歩いてゐたときには、そこにやはり不意識の矜尚(きようしやう)があつたに相違ない。父の剛愎(がうふく)な態度は人力車夫の矜尚の過程に邪魔をしたから、梶棒をどしんと僕の尻に突当てたのである。その不意打(ふいうち)の行為が僕の父の矜尚の過程に著しい礙(さまたげ)を加へたから父は忽然(こつぜん)として攻勢に出(い)でたのではなかつたらうか。

    4 仁兵衛。スペクトラ

 仁兵衛(にへゑ)は謡(うたひ)の上手で、それに話上手であつた。仁兵衛はいつも日の暮方になると丘陵にのぼつて川に沿うた村だの山ふところに点在してゐる村だのを眺める。村の家から豊かに煙の立ちのぼるのを見極めると、仁兵衛はいつも著換(きがへ)してその家に行く。その家には必ず婚礼があつた。祝言(しうげん)の座に請(しやう)ぜられぬ仁兵衛ではあるが、いつも厚く饗(きやう)せられ調法におもはれた。仁兵衛は持前の謡をうたひ、目出度(めでた)や目出度を諧謔(かいぎやく)で収めて結構な振舞(ふるまひ)を土産に提げて家へ帰るのであつた。村の人々はその男を『煙仁兵衛(けむりにへゑ)』と云つた。
 その仁兵衛が或る夜上等の魚を土産に持つて帰途に著くと、すつかり狐に騙(だま)されてしまふところを父はよく話した。どろどろの深田に仁兵衛が這入(はひ)つて酒風呂(さかぶろ)のつもりでゐる。そして、『あ、上燗(じやうかん)だあ、上燗だあ』と云つてゐるところを父は話した。そこのところまで来ると父のこゑに一種の勢(いきほひ)が加はつて子供等は目を大きくして父の顔を見たものである。父は奇蹟を信じ妖怪変化(えうくわいへんげ)の出現を信じて、七十歳を過ぎて此世を去つた。
 寺小屋が無くなつて形ばかりの小学校が村にも出来るやうになつた。教員は概(おほむ)ね士族の若者であつた、なかには中年ものも居た。『窮理の学』といふことがそれらの教員の口から云はれた。父は冬の藁為事(わらしごと)の暇に教員のところに遊びに行くと、今しがた届いたばかりだといふ三稜鏡(さんりようきやう)を見せられた。さうして日光といふものは斯(か)うして七色の光から出来て居る。虹(にじ)の立つのはつまりそれだ。洋語ではこれをスペクトラと謂(い)つて七つの綾(あや)の光といふことである。旧弊ものは来迎(らいがう)の光だの何のと謂ふが、あれは木偶法印(でくほふいん)に食はされてゐるのだ。教員は信心ぶかい父のまへにかう云つて気焔(きえん)を吐いた。
 父は切(しき)りにその三稜鏡をいぢつてゐたが、特別に為掛(しかけ)も無く、からくりも見つからない。しかしそれで太陽を透(すか)して見ると、なるほど七綾(りよう)の光があらはれる。
 父は暫(しばら)く三稜鏡をいぢつてゐたが、ふと其(それ)を以(もつ)て炉の火を覗(のぞ)いた。すると意外にも炉の炎がやはり七つの綾になつて見える。父は忽(たちま)ち胸に動悸(どうき)をさせながら、これは、きりしたん伴天連(ばてれん)の為業(しわざ)であるから念力で片付けようと思つた。
 教師様。お前はきりしたん伴天連に騙(だま)されて居るんではあんまいな。これを見さつしやい。お天道(てんたう)さまも、ほれから囲炉裏のおきも、同じに見えるのがどうか。からくりが無いやうにして此の中に有るに違ひないな。きりしたん伴天連おれの念力でなくなれ。
 かういつて、父は三稜鏡をいきなり炉の炎の中に投げた。教員は驚き慌ててそれを拾つたが、忿怒(ふんど)することを罷(や)めて、やはり父がしたやうに炉の炎をしばらくの間三稜鏡で眺めてゐた。教員は日光と炉の焚火(たきび)と同じであるか違ふものであるかの判断はつかなかつた。教員の窮理の学はここで動揺した。父は威張つてそこを引きあげた。
 後年父は屡(しばしば)その話をした。文明開化の学問をした教員を負かしたといふところになかなか得意な気持があつた。けれども単にそれのみではなかつたであらう。神を念じて穀断(ごくだち)塩断(しほだち)してゐたやうな父は、すぐさまスペクトラの実験の腑(ふ)におちよう筈(はず)はないのである。腑に落ちるなどと謂(い)ふより反撥(はんぱつ)したといつた方がいいかも知れない。
 それからずつと月日が立つて、父は還暦を過ぎ古稀(こき)をも過ぎた。父は上山町のとある店先で、感に堪へたといふ風で、蓄音機の喇叭(ラツパ)から伝つてくる雲右衛門(くもゑもん)の浪花節を聞いてゐたことがある。けれども、父はその蓄音機は窮理の学に本づくものだといふことなどは追尋(つゐじん)しようともしなかつた。スペクトラを退治した写象なども無論意識のうへにのぼつて来なかつたのである。

    5 漆瘡

 村の学校が隣村(りんそん)の学校に合併されて、そこに尋常高等小学校の建つたのは、森文部大臣が殺されて、一二年も経つたころであつただらう。
 学校まで小(こ)一里あつた。雪の深い朝などには、せいぜい炭つけ馬が一つ二つ通るぐらゐなところで、道がまだ附いてゐない。雪が腰を没すといふやうなことは稀(まれ)でなかつた。子供等は五六人固まつてその深雪を冒して行くのであるが、ひどく難儀をしたものである。途中で泣出して学校に行著くまで黙らなかつた子などもゐた。
 けれどもそこを辛抱すれば、柳に銀色の花が咲くころから早春が来て、雪の降るのがだんだん少くなつて来る。それから一月も立てば、麗(うらら)かな天気が幾日も続いて、雪がおのづと解けてくる。道は『雪解(ゆきどけ)みち』になつて、朝のうちは氷つても午(ひる)過ぎからは全くの泥道で、歩くのにまた難儀なのが幾日も幾日も続く。さういふ時には草鞋(わらぢ)は毎日一足ぐらゐづつ切れた。八つか九つになつた僕はかうして毎日学校へ通つた。
 それを通越すと、道の片隅の方などに乾いたところが見え初めてくる。それが日一日と大きくなり、向うの方に見えてゐた乾いたところと連続してしまふ。さういふ土の乾いたところを、子ども達は『草履道』と云つて、そこを踏んで躍上(をどりあ)がつて喜んだ。
 街道の雪が消え、日あたりの林の雪が消え、遠山を除いて、近在の山の雪が消えると、春が一時に来てしまふ気持である。太陽はまばゆいやうに耀(かがや)く。木の芽がぐんぐん萌(も)えはじめる。苞(つと)をやうやく破つたばかりの、白つぽいやうな芽だの、赤味を帯びたやうなものだの、紫がかつたものだの、子供等は道ぐさ食ひながらさういふ木の芽をぽきりと摘んで口の中で弄(もてあそ)ぶものもゐる。雲雀(ひばり)は空気を震動させて上天の方にゐるかとおもふと、閑古鳥(かんこどり)は向うの谿間(たにま)から聞こえる。楢(なら)、櫟(くぬぎ)の若葉が、風に裏がへるころになれば、そこに山蚕(やまこ)が生れて、道の上に黒く小さい糞(ふん)を沢山おとすのであつた。
 五六人総勢十人ぐらゐの子供等が、さういふ日に恣(ほしいまま)に道草を食つて毎日おなじ道を往反(わうへん)する。蟻(あり)の穴に小便をしたり、蛇を殺してその口中(こうちゆう)に蛙(かへる)を無理におし込んだり、さういふ悪戯(いたづら)をしながら、時間が迫つてくると皆学校まで駈出して行つた。
 然(しか)るにそれらの子供を威圧してゐる童子がひとりゐた。年はそのころ十一ぐらゐであつた。年かさも大きいし猛烈なところがあつて、村の学校の子供等を征服してゐた。周囲の子供等を引率して学校の授業も何もかまはずに山や沢に出掛けるので、そのやり方が何処(どこ)か猛烈なところがあつた。一度教員は忿怒(ふんど)して学校の梁木(はりき)にその童子をつるして折檻(せつかん)したことがある。それは森文部大臣が東北の学校を視察して、山形から上山に行くために早坂新道を通られるといふ日であつた。僕らは文部大臣を敬礼するために四五日の間その稽古(けいこ)をし、滅多に穿(は)くことのない袴(はかま)を穿き、中にはこれも滅多には著(き)ぬ襯衣(しやつ)を著たりなどして学校に行つたのであつたが、童子は何時(いつ)の間にかさういふ子供等を引率して山に遊びに行つてしまつた。それであるから、文部大臣を敬礼する時がだんだん近づいてくるのに子供等が帰つて来ないといふのであつた。併し文部大臣の敬礼がどうにか間に合つて、僕等は早坂新道に整列し、人力車で通つた文部大臣森有礼に小さいかうべをさげた。教員はその日は平穏な風をしてゐた。が、次の日にその童子を学校の梁木に吊(つる)して、鞭(むち)で続けざまに打つてみんなに見せたのであつた。それから間もなく森文部大臣が殺されたのだといふやうな気がする。さういふことは総(すべ)てまだ学校の合併されない前のことである。学校が合併されてからは、その童子もやはり学校に通つて、おのづから周囲の子供どもを威圧してゐた。
 美しく晴れた朝、その童子は僕らを合せた七八人の中心になり、思ふ存分道ぐさを食ひながら学校へ出掛けて行つた。硫黄泉を源とする酢川(すかは)の橋から石を投げたりなんぞして、しばらく歩くと、道端に五六本の漆(うるし)の木がある。これは秋には真赤(まつか)に紅葉したのであつたが、今は小さい芽が枝の尖端(せんたん)のところから萌えいでてゐる。
 その漆の木のところに行くと、童子はみんなに列(なら)ぶやうに言附けた。そして自分で漆の芽を摘み取ると芽の摘口(つみぐち)から白い汁が出て来た。童子はみんなに腕をまくらせて、前膊(ぜんはく)の内面のところに漆の汁で女陰と男根とを画(ゑが)いた。女陰などといふとすさまじく聞こえるが、実は支那の古篆(こてん)の『日』の字のやうな恰好(かつかう)をしてゐるものに過ぎない。男根でもさうである。皆 Pr□putium などが無く思ひきり単純化されたものである。中江兆民は癌(がん)に罹(かか)つて余命いくばくもないといふとき、「一年有半」といふ随筆を書いた。そのなかに慥(たし)か、『陰陽二物』の何のと云つて日本国を貶(けな)してゐたとおもふが、あれは無理だ。羅馬(ロオマ)は無論巴里(パリ)に行つても、倫敦(ロンドン)、伯林(ベルリン)に行つても、さういふ邪気の無い絵はいくつも描いてある。この童子もただ邪気の無い絵をかいたに過ぎない。童子はそれでも漆の芽を幾つか取換へたりなどしてそれを描いた。描いて貰(もら)ふと皆(みんな)が声を挙げて笑つた。そして汁の乾くのを促すために息を吹きかけたりなどした。
 大小いろいろと描いて来て、僕の腕に小さいのを描いてくれた。それは今からおもへば降誕八日めに割礼(かつれい)した耶蘇(ヤソ)の男根のやうな恰好であつたとおもへばいい。童子は最後に自分の腕に思ひ切り大きいのを描いておしまひにした。
 次の日の朝みんなが集まつて腕の絵を見せ合つて大声で笑つた。絵のところだけが黒くなつて乾いたから、きのふに較(くら)べてはつきりして来てゐる。然るに僕のだけは絵のところが黒くならずに赤くなつて少し腫(は)れあがつてゐる。
 その次の朝もみんなが絵を見せあふと、絵のところが益□(ますます)黒くなつて乾いてゐるのに、ただ僕のだけはゆうべから癢味(かゆみ)が増して来、それに痛味(いたみ)が加はつて絵のところから汁が出はじめた。僕は授業をうける時にも癢いのと痛いのとでなやんで居た。さうすると、沢蟹(さはがに)をつぶしてつけると直るといふものがあつた。学校の裏は直ぐ沢になつてゐて、石を一寸(ちよつと)避(よ)けると小さい蟹を幾つも捕へることが出来る。僕はそれをつぶして臓腑(ざうふ)をかぶれかかつてゐる腕になすりつけたけれども、赤く腫(は)れて汁の出て来たところは今度は結痂(けつか)して行つた。
 絵のところだけが黒く結痂したから、直つたのかといふとさうでない。それだから風呂(ふろ)に入つた時などに、秘(ひそ)かにその痂(かさぶた)を除いてみると、その下は依然として爛(ただ)れて居つて深い溝(みぞ)のやうになつてゐる。そして次の日には二たびそこに結痂(けつか)するといふ具合でなかなか直らない。ほかの子供等は、さういふ女陰・男根図のことなどはいつのまにか忘れて行つた。それはその筈で描いて貰つてからすでに一ヶ月余も経過したのであるから剥(は)げて取れてしまつたのが多かつた。縦(たと)ひ残つてゐてもそんなものはもう珍らしくはなかつた。ただ僕ひとりは毎日そのことで苦しんだ。そして痛いのを我慢して痂を除いてはそこに蟹の臓腑をつけてゐるに過ぎなかつた。痂を取つたところの溝がだんだん深くなるのに気付いてもそれを母や父に打明けることが出来ない。僕は空(むな)しく二月を過ごした。
 けれども、或時たうとうそれを母から見付けられその成行を一々白状してしまつた。母は僕を父のところに連れて行つた。僕は恐る恐るすでに結痂した男根図を父に見せた。父も母も共に笑つた。叱(しか)られるつもりのところ叱られなかつたので僕も大きなこゑを立てて笑つた。その晩に父はどろどろした油薬(あぶらぐすり)のやうなものを拵(こしら)へて来て塗つて呉れた。さうすると二三日で痂が取れて行つた。そこへまた油薬のやうなものを塗つて呉れた。ひどく苦んだ漆瘡(しつさう)の男根図はかくのごとくにしてつひに直つた。瘡(かさ)は極く『平凡』に癒(い)えた。
『はじめは脱兎(だつと)の如く』と云つておいて、そして、『をはりは処女(しよぢよ)のごとし』と云ふあたりは、味(あぢは)つてみるとどうも旨(うま)いところがある。ただ余り陳腐になつてゐるから、今までそれを味はぬのであつた。その陳腐さは、レオナルド・ダ・ヴインチの画(ゑが)いた、モナ・リザ・ジヨコンダの像のやうなものであつた。そして僕の漆瘡(しつさう)物語の結末が消えるやうにして無くなつてしまつたときに、この諺(ことわざ)、警句をおもひ起したのであつた。おもひ起して味つてみるとどうも言方に旨いところがあつた。僕は心中ひそかに満足をおぼえた。レオナルド・ダ・ヴインチをおもひ起したのはかういふ訣(わけ)である。
『凡(およ)そ児童はその父の能力に就いてどう思惟してゐるか』といふことに就いて、ある時期には児童は父の万能を信ずることがある。さて時が経つと、児童のまへには父は追々と平凡化されて行く。僕の父もその数に漏れなかつた。僕が少しづつ大きくなるに連れて僕の父も益□平凡化されたから、父が三稜鏡を炎のなかに投じた話などをしても僕は心中感服したことはない。然るに僕が漆瘡(しつさう)であれほど苦しんだ時に、父は極めて平凡にそれを直して呉れた。僕はその時、父には何か知らんやはり特殊の『能力』があるのではあるまいかと思つたのである。ここで父の平凡化は別な色合(いろあひ)を以て姿を変へたのであつた。それから『平凡治癒』といふ概念である。これは実地医家は必ず思当(おもひあた)るに違ひない。疾(やまひ)は幾ら骨折つても癒えぬときがある。さうしてゐて癒ゆるときには極めて平凡に癒えてしまふ。即ち疾を『平凡治癒』の機転に導くのが名医である。
 彼の童子から漆の汁で描いて貰つた絵がかぶれて二月も苦しんだけれどもそれは癒えた。癒えたが痂(かさぶた)を結んだところが瘢痕(ばんこん)組織で補はれたと見えてそこに痕(あと)が残つた。その小さい男根図の痕は、小学校を出て中学校に入り中学校を出て高等学校に入るころまでは残つてゐた。僕は風呂に入つたりするとその痕を凝視して追憶にふけることもあつた。然るにその痕はいつのまにかおぼろになつて行き今ではもはやその形を認めることが出来なくなつた。僕もそろそろ初老期へ近づいて来た。南独逸(ドイツ)の客舎で父の死報に接した時も僕は忽然(こつぜん)として漆瘡のことを想出(おもひだ)し、床のなかで前膊の内面を凝視したけれども形はすでになくなつてゐた。
 漆瘡に、生蟹黄調塗とか、蟹沫塗之とか、または蟹殻滑石研細※[#「てへん+參」、121-下-9]之乾者蜜和塗などといふ療方のあるのは漢医方に本づくのであつた。和文に漆まけを癒(いや)しとあるのも亦(また)さうである。父の拵(こしら)へて呉れたものはそんなものではなかつた。油薬のやうなどろどろしたものであつたが、その薬の色やなんかはどうしてもおもひ起すことが出来ない。そのあたりの父の顔も分からない。努めておもひ浮べようとすると、晩年の老いた父の顔のみが浮んでくるのである。

    6 初詣

 明治二十九年に丁度僕が十五になつたので、父は湯殿(ゆどの)山の初詣(はつまうで)に連れて行つた。その時父は四十五六であつただらうから現在の僕ぐらゐの年であるがもう腰が屈(まが)つてゐた。これは田畑に体を使つたためであつた。しかしそれまで幾度となく湯殿山に参詣(さんけい)し道中(だうちゆう)自慢(じまん)であつた。
 僕も父もしばらくの間毎朝水を浴びて精進し、その間に喧嘩(けんくわ)などを避(さ)け魚介虫類のやうなものでも殺さぬやうにし、多くの一厘銭を一つ一つ塩で磨いて賽銭(さいせん)に用意した。参詣というても今時のやうに途中まで汽車で行くのではない。夜半にならぬ頃に出立して夜の明けぬうち五六里は歩くのである。第一日は本道寺(ほんだうじ)といふところに泊つた。そこまでは村から行程(かうてい)十四里である。第二日は、まだ暁にならぬうちに志津(しづ)といふ村に著いて、そこで先達(せんだつ)を頼んだ。それからの山道は雪解(ゆきどけ)の水を渡るといふやうなところが度々あつた。まだ午前であつたが、湯殿山の谿合(たにあひ)にかかると風の工合があやしくなつてきてたうとう『御山(おやま)』は荒れ出して来た。豪雨が全山を撫(な)でて降つてくるので、笠(かさ)は飛んでしまひ、蓙(ござ)もちぎれさうである。大木の枝が目前でいくつも折れた。それでも先達(せんだつ)はひるまずに六根清浄御山繁盛(ろくこんしやうじやうおやまはんじやう)と唱へて行つた。さうするうち、渡るべき前方の谿は一めんの氷でうづめられてそれが雨で洗はれてすべすべになつてゐる。下手(しもて)の方は深い谿に続いてひどくあぶないところである。僕は恐る恐るその上を渡つて行つたが、そこへ猛風が何ともいへぬ音をさせて吹いて来た。僕は転倒しかけた。うしろから歩いて来た父は、茂吉(もきち)匍(は)へ。べたつと匍へ。鋭い声でさういつたから僕は氷のうへに匍つた。やつとのことでしがみ付いてゐたといふ方が好いかも知れない。さういふことを僕はおぼえてゐる。
『語られぬ湯殿(ゆどの)にぬらす袂(たもと)かな』といふ芭蕉の吟のあるその湯殿の山に僕は参拝して、『初まゐり』の願(ねがひ)を遂げた。鉄(かね)の鎖で辛うじて谿底の方へくだつて行つたことだの、それから、谿間の巌(いは)から湯が威勢よく湧(わ)いてながれてゐるところだのをおぼえてゐる。もどりに志津(しづ)に一泊して、びしよぬれの衣服をほした。この日の行程十六里と称へられてゐる。
 第三日は、麗(うらら)かな天気に帰路に就いた。七八里も来たころ、父は茶屋に寄つてぬた餅(もち)を註文した。ぬた餅と謂(い)ふのは枝豆を擂鉢(すりばち)で擂(す)つて砂糖と塩で塩梅(あんばい)をつけて餅にまびつたものである。父は茂吉なんぼでも食べろと云つた。それから道中をするには腹を拵(こしら)へなければ駄目である。山を越す時などには、麓(ふもと)で腹を拵へ、頂上で腹を拵へて、少し物を持つて出懸けるといいなどといつてなかなか上機嫌であつた。
 もう山形(やまがた)の街(まち)も近くなつたころ、当時の中学校で歴史を担任してゐる教諭の撰した日本歴史が欲しくなり、しきりにそれを父にせがんだ。その日本歴史は表の様に出来てゐて工面のいい家の子弟は必ず持つてゐたし小学校でも先生がそれを教場に持つて来たりするので、僕は欲しくて欲しくて溜(た)まらなかつたものである。然るに父はどうしてもそれを買つて呉れない。僕らは山形の街に入つた。僕は幾たびも頼むが父は承諾しない。そのうち、書物の発行書店のまへを通りすぎてしまつた。僕はなぜ父はそんなに吝嗇(りんしよく)だらうかなどと思ひながら父の後ろを歩いたのであつた。

    7 日露の役

 日露戦役のあつたときには、僕はもう高等学校の学生になつてゐた。日露の役には長兄も次兄も出征した。長兄は秋田の第十七聯隊から出征し、黒溝台(こくこうだい)から奉天(ほうてん)の方に転戦してそこで負傷した。その頃は、あの村では誰彼(だれかれ)が戦死した。この村では誰彼が負傷したといふ噂(うはさ)が毎日のやうにあつた。恰(あたか)も奉天の包囲戦が酣(たけなは)になつた時であつただらう。夜半を過ぎて秋田の聯隊司令部から電報がとどいた。そのとき兄嫁などはぶるぶるふるへて口が利けなかつたさうであつた。父は家人の騒ぐのを制して、袴(はかま)を穿(は)きそれから羽織を著(き)た。それから弓張(ゆみはり)を灯(とも)し、仏壇のまへに据わつて電報をひらいたさうである。そのことを僕が偶□(たまたま)帰省したりすると嫂(あね)などがよく話して聞かせたものである。
 父は若いころ、田植をどりといふのを習つてその女形(をんながた)になつたり、堀田(ほつた)の陣屋があつた時に、農兵になつて砲術を習つたり、おいとこ。しよがいな。三さがり。おばこ。木挽(こびき)ぶし。何でもうたふし、祖父以来進歩党時代からの国会議員に力※(ちからこぶ)[#「やまいだれ+(「堊」の「王」に代えて「田」)」、124-下-1]いれて、□応(りゆうおう)和尚から草稿をかいてもらつて政談演説をしたり、剣術に凝り、植木に凝り、和讃に凝り、念仏に凝り、また穀断(ごくだち)、塩断(しほだち)などをもした。
 僕のやうな、物に臆し、ひとを恐れ、心の競ひの尠(すくな)いものが、たまたま父の一生をおもひ起すと、そこにはあまり似寄(により)の無いことに気付くのであつたが、けれども是(これ)は自ら斯(か)う思ふといい。僕は父が痰(たん)を煩つたときの子である。生薑(しやうが)の砂糖漬などを舐(ねぶ)つてゐたときの子である。さういふ時に生れた子である。ただ、どちらにしても馬胎(ばたい)を出(い)でて驢胎(ろたい)に生じたぐらゐに過ぎぬとは僕もおもふ。

    8 青根温泉

 父は五つになる僕を背負ひ、母は入用(いりよう)の荷物を負うて、青根(あをね)温泉に湯治(たうぢ)に行つたことがある。青根温泉は蔵王山を越えて行くことも出来るが、その麓(ふもと)を縫うて迂回(うくわい)して行くことも出来る。
 父の日記を繰つて見ると、明治十九年のくだりに、『八月七日。雨降。熊次郎、おいく、茂吉、青根入湯に行(ゆく)。八月十三日、大雨降り大川の橋ながれ。八月十四日。天気吉(よし)。熊次郎、おいく、茂吉三人青根入湯返(がへ)り。八月廿三日。天気吉。伝右衛門(でんゑもん)、おひで、広吉、赤湯(あかゆ)入湯に行。九月朔(ついたち)。伝右衛門、おひで、広吉、赤湯入湯かへる』。ここでは、父母が僕を連れて青根温泉に行つたことを記し、ついで、祖父母が僕の長兄を連れて、赤湯温泉に行つたことを記してゐる。父の日記は概(おほむ)ね農業日記であるが、かういふ事も漏らさず、極く簡単に記してある。青根温泉に行つたときのことを僕は極めて幽(かす)かにおぼえてゐる。父を追慕してゐると、おのづとその幽微になつた記憶が浮いてくるのである。
 父は小田原提灯(ちやうちん)か何かをつけて先へ立つて行くし、母はその後からついて行くのである。山の麓の道には高低いろいろの石が地面から露出してゐる。石道であるから、提灯の光が揺いで行くたびにその石の影がひよいひよいと動く。その石の影は一つ二つではなく沢山にある。僕が父の背なかで其(それ)を非常に不思議に思つたことをおぼえてゐる。
 まだ夜中にもならぬうちに家を出て夜通(よどほ)し歩いた。あけがたに強雨(がうう)が降つて合羽(かつぱ)まで透した。道は山中に入つて、小川は水嵩(みづかさ)が増し、濁つた水がいきほひづいて流れてゐる。川幅が大きくなつて橋はもう流されてゐる。山中のこの激流を父は一度難儀してわたつた。それからもどつてこんどは母の手を引(ひ)かへて二人して用心しながら渡つたところを僕はおぼえてゐる。それから宿へ著くとそこの庭に四角な箱のやうなものが地にいけてある。清い水がそこに不断にながれおちて鰻(うなぎ)が一ぱい泳(およ)いでゐる。そんなに沢山に鰻のゐるところは今まで見たことはなかつた。
 帳場のやうなところにゐる女は、いつも愛想よく莞爾(にこにこ)してゐるが、母などよりもいい著物(きもの)を著てゐる。僕が恐る恐るその女のところに寄つて行くと女は僕に菓子を呉れたりする。母は家に居るときには終日忙(せは)しく働くのにその女は決して働かない。それが童子の僕には不思議のやうに思はれたことをおぼえてゐる。
 僕は入湯してゐても毎晩夜尿(ねねう)をした。それは父にも母にも、もはや当りまへの事のやうに思はれたのであつたけれども、布団のことを気にかけずには居られなかつた。雨の降る日にはそつとして置いたが、天気になると直ぐ父は屋根のうへに布団を干した。器械体操をするやうな恰好(かつかう)をして父が布団を屋根のうへに運んだのを僕はおぼえてゐる。
 或る日に、多分雨の降つてゐた日ででもあつたか、湯治客(たうぢきやく)がみんなして芝居の真似(まね)をした。何でも僕らは土戸(つちど)のところで見物してゐたとおもふから、舞台は倉座敷であつたらしい。仙台から湯治に来てゐる媼(おうな)なども交つて芝居をした。その時父はひよつとこになつた。それから、そのひよつとこの面(めん)をはづして、囃子手(はやして)のところで笛を吹いてゐたことをおぼえてゐる。
 父の日記に拠(よ)ると、青根温泉に七日ゐた訣(わけ)である。それから、明治二十丁亥(ひのとゐ)年六月二日。晴天。夜おいく安産。と父の日記にあつて、僕の弟が生れてゐるから、青根温泉湯治中に母は懐妊(くわいにん)したのではないかと僕は今おもふのである。

    9 奇蹟。日記鈔

 不思議奇蹟などいふことは中江兆民には無かつた。それは開化を輸入するには物質窮理の学を先づ輸入せねばならぬから、兆民は当時『理学』と謂(い)つてゐる哲学をも輸入したが、いきほひ『奇蹟』を対治(たいぢ)する立場にあつた。けれども僕のやうな気の弱いものには、『奇蹟』は幾つもある。
 大正十三年の暮に火事があつて、僕の書籍なんどもあんなに焼け果ててしまつたのに、僕が郷里から持つて来て、新聞紙に一包にしてゐた祖父と父の覚帳(おぼえちやう)が煙にこげたまま焼けずにゐた。びしよぬれになつてゐた日本紙で綴(つづ)つた帳面を一枚一枚火鉢の火で乾かしながら、僕は実に強い不思議を感じてゐた。僕の甥(をひ)は、紙を乾かすのを手伝ひながら、『軽いものですから、二階の焼落ちるときに跳ね飛ばされたんでせう』などと云つた。また『被服廠(ひふくしやう)の時のやうにつむじ風が起つて吹き飛ばしたのかも知れませんね』『併(しか)しあんなぺらぺらな紙の帳面ですから、直ぐ焼けてもいい筈(はず)ですがね』などとも云つた。甥はなるべく物理学の理屈で説明をつけようとするのであるがそれでは分からない点が幾らもあつた。
 祖父のものは、俳諧(はいかい)連歌(れんが)か何かを記入したものであつたが、父のものには、『品々万書留帳(しなじなよろづかきとめちやう)』といふ、明治七甲戌(きのえいぬ)年二月吉日に拵(こしら)へたものである。これは長兄が生れたとき、祝(いはひ)に貰(もら)つた品々などの記入から始まり、法事の時の献立(こんだて)、病気見舞の品々、婚礼のときの献立など、こまごまと記(しる)してあるので、僕は珍しいと思つて貰ひ受けたのであつた。例へば、明治廿三年二月廿三日夜より廿四日。盛華院清阿妙浄善大姉三回忌仏事献立控の廿四日十二人前(まへ)の条(くだり)に、平(かんぴよう。いも。油あげ。こんにやく。むきたけ)。手しほ皿(奈良漬。なんばん)。ひたし(韮(にら))。皿(糸こん。くるみ合)。巻ずし(黒のり、ゆば)。吸物(包ゆば二つ。しひたけ。うど)。あげ物(牛蒡(ごばう)。いも。かやのみ。くわい。柿)。煮染(にしめ)(くわい。氷こん。にんじん。竹の子。しひたけ)。手しほ皿(焼とうふ。くづかけ。牛蒡黒煮)。皿(うこぎ。わらび漬)。下あげもの(くわい。牛蒡。柿。かやのみ。赤いも)。大平(おほひら)(くわい。しひたけ。ゆづ)。汁(とうふ。ふのり)。茶くわし(せんべい)。引くわし(うんどん五わ但(ただし)四十めたば。まんぢゆう七つ但(ただし)一つに付四厘づつ)。こんなことが書いてある。これで思起(おもひおこ)すのは、陰暦の二月すゑには、既に韮が萌(も)え、木の新芽が饌(せん)に供し得る程になつてゐるといふことである。それから、『わらび漬』などとあるのも少年の頃をしのばしめるのであつた。
 その父の帳面に、僕が生れた時祝に貰つた品々を記した個所があるから一寸(ちよつと)書とどめておきたいと思ふ。明治十五壬午(みづのえうま)年三月廿七日出生(しゆつしやう)。守谷(もりや)茂吉義豊。安産見舞受帳(あんざんみまひうけちやう)。小王余魚七枚、菅野弥五右衛門(やごゑもん)。金二十銭外に味噌一重、金沢治右衛門。金十銭、鈴木庄右衛門。金十銭、鈴木作兵衛(さくべゑ)。金十銭、斎藤三郎右衛門。鰹(かつを)ぶし一本外に味噌一重、永沢清左衛門。焼かれい三枚、松原村山本善十郎。金五銭、斎藤富右衛門。金十銭、大沢才兵衛。以上である。同じ村から八軒祝を貰つてをり、他村から一軒貰つて居る。他村の松原村と記してあるのは、母の姉が嫁入つたところである。それから最後に、大沢才兵衛とあるのは、父の弟で、漆の芽で僕の腕に小男根を描いてくれた童子の父である。明治十五年頃の東北の村ではこんな程度であつた。
 僕は留学から帰つて来て、家兄に頼んで少しばかり父の日記から手抄して貰つたのであつた。そのうちに僕に銭(ぜに)を呉れたのを記したところが処々に見つかる。明治十九年十月十五日曇り。二銭柿代富太郎、茂吉え遣(つかは)し。明治二十年七月十五日。四銭茂吉え遣し。明治廿三年正月七日。十八銭、茂吉授業料正二二ヶ月分。三銭茂吉え遣し。十日休日。三銭茂吉え遣し。十五日休日。一銭茂吉え遣し。七月二日。五銭茂吉書物代(しよもつだい)。十二日。四銭茂吉え遣し。十二月廿四日。二十二銭茂吉薬代(くすりだい)。こんな工合である。ここに二十二銭茂吉薬代とあるのは、僕が絵具に中毒して黄疸(わうだん)になつたとき、父は何処(どこ)からか家伝の民間薬を買つて来てくれた。それを云ふのである。
 明治廿四年。二月十五日。一銭直吉笛代。五銭富太郎え遣し。三銭茂吉え遣し。三月三日。二十銭茂吉書物代画学紙共。十五日。一銭茂吉え遣し、廿八日。二銭茂吉え遣し。八月十四日。天気吉(よし)。茂吉直吉おみゑ上山(かみのやま)行。九銭茂吉筆代。十月廿一日。天気吉(よし)。七銭茂吉下駄代(げただい)。廿二日。天気吉。広吉茂吉は半郷学校え天子(てんし)様のシヤシン下るに付而行(ついてゆく)。熊次郎紙つき。富太郎金三郎深田の葦刈(よしかり)。女中三人は午前菜(な)つけ。午後裏畑(うらはた)草取(くさとり)。伝太郎を頼(たのん)で十一俵買。
 合併になつた隣村の学校に、御真影(ごしんえい)がはじめて御さがりになつた時の趣で、それは明治廿四年十月廿二日だつたことが分かるが、これはすべて陰暦の日附である。大雪にならぬ前に深田の葦を刈り、菜を漬け、畑の草を取つて播(ま)くべきものは播き、冬ごもりの準備をする光景である。父の日記は、大凡(おほよそ)農業日記であつて、そのなかに、ぽつりぽつり、僕に呉れた小遣銭(こづかひせん)の記入などがあるのである。明治廿二年の条(くだり)に、宝泉寺え泥ぼう入(はひり)、伝右衛門下男(げなん)刀持(もち)て表より行(ゆく)。熊次郎槍(やり)持(もち)て裏より行、などといふ事件の記事もある。これは、宝泉寺住職□応(りゆうおう)和尚が上京して留守中、泥棒が入らうとして日本刀で戸をずたずたに切つた。倔強(くつきやう)の若者が二人ばかり宿(とま)つてゐたが、恐れてしまつて何の役にも立たなかつた時の話である。伝右衛門は祖父の名で未だ存命中であつた。熊次郎は父の名である。
 一時剣術に凝つたり、砲術を習つたりした名残(なごり)で、どちらかといへば、さういふ時に槍など持つことを好んでゐた。父はさういふとき『得手(えて)まへ』といふ言葉を好(よ)く使つた。

    10[#「10」は縦中横] 念珠集跋

「念珠集」は、所詮(しよせん)『わたくしごと』の記に過ぎないから、これは『秘録』にすべきものであつた。それであるから、僕の友よ、どうぞ怒(いか)らずに欲しい。
 ミユンヘンに留学中は、主に実験脳病理学のことをやつた。少い暇に読む書物も、それから考へることもさういふことが主(おも)になつてゐた。isch□mische Zellver□nderung といふやうなこと、Kolliquations-Nekrose とか、koagulierende Nekrose とか、例へばさういふ概念が頭を領してゐるのであつた。そのまた暇に僕は心理書を読んでみた。Hylopsychismus といふことだの、Zerlegung der Gignomene とか、Unbewusstheit der Reduktionsbestandteile とかいふことだの、さういふことが頭を悩ましたのであつた。
 ところが、僕の下宿に馬琴(ばきん)のものが置いてあつた。もう古びて、何代(なんだい)もの留学生が異郷の寂しさをそれで紛らしたといふことを証拠立ててゐた。馬琴のものなどはこれまで読んだことのない僕が、ある時ふとそれを読んでみた。久遠(くをん)のむかしに、天竺(てんぢく)の国にひとりの若い修行(しゆぎやう)僧が居り、野にいでて、感ずるところありてその精(せい)を泄(もら)しつ、その精草の葉にかかれり。などといふやうなことが書いてあつた。僕は計らずも洋臭を遠離(をんり)して、東方の国土の情調に浸つたのであつた。さういふ心の交錯のあつたときに、僕は父の訃音(ふおん)を受取つた。七十を越した齢(よはひ)であるから、もはや定命(ぢやうみやう)と看(み)ても好(よ)いとおもふが、それでもやはり寂しい心が連日湧(わ)いた。夜の暁方(あけがた)などに意識の未だ清明(せいめい)にならぬ状態で、父の死は夢か何かではなからうかなどと思つたこともある。併(しか)し目の覚めて居るときには、いろいろと父の事を追慕した。それは尽(ことごと)く東海(とうかい)の生れ故郷の場面であつた。「念珠集」は所詮、貧しい記録に過ぎぬ。けれどもさういふ悲しい背景をもつてゐるのである。僕を思つてくれる友よ。どうぞ怒(いか)らずに欲しい。
 大正十四年八月に、比叡山(ひえいざん)のアララギ安居会(あんごくわい)に出席して、それから先輩、友人五人の同行(どうぎやう)で高野山(かうやさん)にのぼつた。登山自動車の終点で駕籠(かご)に乗らうとした時に、男が来て北室院といふ宿坊(しゆくばう)を紹介してくれた。それから豪雨の降るなかを駕籠で登つて宿坊へ著いた。そこに二晩宿(とま)り、貧しい精進(しやうじん)料理を食つた。
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