家なき子
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著者名:マロエクトール・アンリ 

     生い立ち

 わたしは捨(す)て子(ご)だった。
 でも八つの年まではほかの子どもと同じように、母親があると思っていた。それは、わたしが泣(な)けばきっと一人の女が来て、優(やさ)しくだきしめてくれたからだ。
 その女がねかしつけに来てくれるまで、わたしはけっしてねどこにははいらなかった。冬のあらしがだんごのような雪をふきつけて窓(まど)ガラスを白くするじぶんになると、この女の人は両手の間にわたしの足をおさえて、歌を歌いながら暖(あたた)めてくれた。その歌の節(ふし)も文句(もんく)も、いまに忘(わす)れずにいる。
 わたしが外へ出て雌牛(めうし)の世話をしているうち、急に夕立がやって来ると、この女はわたしを探(さが)しに来て、麻(あさ)の前かけで頭からすっぽりくるんでくれた。
 ときどきわたしは遊(あそ)び仲間(なかま)とけんかをする。そういうとき、この女の人はじゅうぶんわたしの言い分を聞いてくれて、たいていの場合、優(やさ)しいことばでなぐさめてくれるか、わたしの肩(かた)をもってくれた。
 それやこれやで、わたしに物を言う調子、わたしを見る目つき、あまやかしてくれて、しかるにしても優(やさ)しくしかる様子から見て、この女の人はほんとうの母親にちがいないと思っていた。
 ところでそれがひょんな事情(じじょう)から、この女の人が、じつは養(やしな)い親(おや)でしかなかったということがわかったのだ。
 わたしの村、もっと正しく言えばわたしの育てられた村は――というのが、わたしには父親や母親という者がないと同様に、自分の生まれた村というものがなかったのだから――で、とにかくわたしが子どもの時代を過(す)ごした村は、シャヴァノンという村で、それはフランスの中部地方でもいちばんびんぼうな村の一つであった。
 なにしろ土地がいたってやせていて、どうにもしようのない場所であった。どこを歩いてみても、すきくわのはいった田畑というものは少なくて、見わたすかぎりヒースやえにしだのほか、ろくにしげるもののない草原で、そのあれ地を行きつくすと、がさがさした砂地(すなじ)の高原で、風にふきたわめられたやせ木立ちが、所どころひょろひょろと、いじけてよじくれたえだをのばしているありさまだった。
 そんなわけで、木らしい木を見ようとすると、丘(おか)を見捨(みす)てて谷間へと下りて行かねばならぬ。その谷川にのぞんだ川べりにはちょっとした牧草(ぼくそう)もあり、空をつくようなかしの木や、ごつごつしたくりの木がしげっていた。
 その谷川の早い瀬(せ)の末(すえ)がロアール川の支流(しりゅう)の一つへ流れこんで行く、その岸の小さな家で、わたしは子どもの時代を送った。
 八つの年まで、わたしはこの家で男の姿(すがた)というものを見なかった。そのくせ、『おっかあ』と呼(よ)んでいた人はやもめではなかった。夫(おっと)というのは石工(いしく)であったが、このへんのたいていの労働者(ろうどうしゃ)と同様パリへ仕事に行っていて、わたしが物心(ものごころ)ついてこのかた、つい一度も帰って来たことはなかった。ただおりふしこの村へ帰って来る仲間(なかま)の者に、便(たよ)りをことづけては来た。
「バルブレンのおっかあ、こっちのもたっしゃだよ。相変(あいか)わらずかせいでいる、よろしく言ってくれと言って、このお金を預(あず)けてよこした。数えてみてください」
 これだけのことであった。おっかあも、それだけの便(たよ)りで満足(まんぞく)していた。ご亭主(ていしゅ)がたっしゃでいる、仕事もある、お金がもうかる――と、それだけ聞いて、満足(まんぞく)していた。
 このご亭主(ていしゅ)のバルブレンがいつまでもパリへ行っているというので、おかみさんと仲(なか)が悪いのだと思ってはならない。こうやって留守(るす)にしているのは、なにも気まずいことがあるためではない。パリに滞在(たいざい)しているのは仕事に引き留(と)められているためで、やがて年を取ればまた村へ帰って来て、たんまりかせいで来たお金で、おかみさんと気楽にくらすつもりであった。
 十一月のある日のこと、もう日のくれに、見知らない一人の男がかきねの前に立ち止まった。そのときわたしは、門口(かどぐち)でそだを折(お)っていた。中にはいろうともしないで、かきねの上からぬっと頭を出してのぞきながら、その男はわたしに、「バルブレンのおっかあのうちはここかね」とたずねた。
 わたしは、「おはいんなさい」と言った。
 男は門(かど)の戸をきいきい言わせながらはいって来て、のっそり、うちの前につっ立った。
 こんなよごれくさった男を見たことがなかった。なにしろ、頭のてっぺんから足のつま先まで板を張(は)ったようにどろをかぶっていた。それも半分まだかわききらずにいた。よほど長いあいだ、悪い道をやって来たにちがいない。
 話し声を聞いて、バルブレンのおっかあはかけだして来た。そして、この男がしきいに足をかけようとするところへ、ひょっこり顔を出した。
「パリからことづかって来たが」と男は言った。
 それはごくなんでもないことばだったし、もうこれまでも何べんとなく、それこそ耳にたこのできるほど聞き慣(な)れたものだったが、どうもそれが『ご亭主(ていしゅ)はたっしゃでいるよ。相変(あいか)わらずかせいでいるよ』という、いつものことばとは、なんだかちがっていた。
「おやおや。ジェロームがどうかしましたね」
 と、おっかあは両手をもみながら声を立てた。
「ああ、ああ、どうもとんだことでね。ご亭主(ていしゅ)はけがをしてね。だが気を落としなさんなよ。けがはけがだが命には別状(べつじょう)がない。だが、かたわぐらいにはなるかもしれない。いまのところ病院にはいっている。わたしはちょうど病室でとなり合わせて、今度国へ帰るについて、ついでにこれだけの事をことづけてくれとたのまれたのさ。ところで、ゆっくりしてはいられない。まだこれから三里(約十二キロ)も歩かなくてはならないし、もうおそくもなっているからね」
 でもおっかあは、もっとくわしい話が開きたいので、ぜひ夕飯(ゆうはん)を食べて行くようにと言ってたのんだ。道は悪いし、森の中にはおおかみが出るといううわさもある。あしたの朝立つことにしたほうがいい。
 男は承知(しょうち)してくれた。そこで炉(ろ)のすみにすわりこんで、腹(はら)いっぱい食べながら、事件(じけん)のくわしい話をした。バルブレンはくずれた足場の下にしかれて大けがをした。そのくせ、そこはだれも行く用事のない場所であったという証言(しょうげん)があったので、建物(たてもの)の請負人(うけおいにん)は一文の賠償金(ばいしょうきん)もしはらわないというのである。
「ご亭主(ていしゅ)も気(き)のどくな。運が悪かったのよ」
 と、男は言った。
「まったく、運が悪かったのよ。世間にはわざとこんなことを種(たね)に、しこたませしめるずるい連中(れんちゅう)もあるのだが、おまえさんのご亭主(ていしゅ)ときては、一文にもならないのだからな」
「まったく運が悪い」と男はこのことばをくり返しながら、どろでつっぱり返っているズボンをかわかしていた。その口ぶりでは、手足の一本ぐらいたたきつぶされても、お金になればいいというらしかった。
「なんでもこれは、請負人(うけおいにん)を相手(あいて)どって裁判所(さいばんしょ)へ持ち出さなければうそだと、おれは勧(すす)めておいたよ」
 男は話のしまいに、こう言った。
「まあ。でも裁判(さいばん)なんということは、ずいぶんお金の要(い)ることでしょう」
「そうだよ。だが勝てばいいさ」
 バルブレンのおっかあは、パリまで出かけて行こうかと思った。でも、それはずいぶんたいへんなことだった。道は遠いし、お金がかかる。
 そのあくる朝、わたしは村へ行ってぼうさんに相談(そうだん)した。ぼうさんは、まあ向こうへ行って役に立つかどうか、それがよくわかったうえにしないと、つまらないと言った。それでぼうさんが代筆(だいひつ)をして、バルブレンのはいっている慈恵(じけい)病院の司祭(しさい)にあてて、手紙を出すことにした。その返事は二、三日して着いたが、バルブレンのおっかあは来るにはおよばない、だが、ご亭主(ていしゅ)が災難(さいなん)を受けた相手(あいて)にかけ合うについて、入費(にゅうひ)のお金を送ってもらいたいというのであった。
 それからいく日もいく週間もたった。ときおり手紙が届いて、そのたんびにもっと金を送れ金を送れと言って来る。いちばんおしまいには、これまでの手紙よりまたひどくなって、もう金がないなら、雌牛(めうし)のルセットを売っても、ぜひ金をこしらえろと言って来た。
 いなかで百姓(ひゃくしょう)の仲間(なかま)にはいってくらした者でなければ、『雌牛を売れ』というこのことばに、どんなにつらい、悲しい思いがこもっているかわからない。百姓にとって、雌牛のありがたさは、一とおりのものではなかった。いかほどびんぼうでも、家内(かない)が多くても、ともかくも雌牛(めうし)が飼(か)ってあるあいだは、飢(う)えて死ぬことはないはずだ。
 それにうちの雌牛は、なにより仲(なか)よしのお友だちであった。わたしたちが話をしたり、その背中(せなか)をさすってキッスをしてやったりすると、それはよく聞き分けて、優(やさ)しい目でじっと見た。つまりわたしたちはおたがいに愛(あい)し合っていたと言えば、それでじゅうぶんだ。
 けれどもいまはその雌牛(めうし)とも、わたしたちは別(わか)れなければならなかった。『雌牛を売る』それでなければ、もうご亭主(ていしゅ)を満足(まんぞく)させることはできなかった。
 そこでばくろう(馬売買の商人)がやって来て、細かく雌牛のルセットをいじくり回した。いじくり回しながらしじゅう首をふって、これはまるで役に立たない。乳(ちち)も出ないしバターも取れないと、さんざんなんくせをつけておいて、つまり引き取るには引き取るが、それもおっかあが正直な、いい人で気のどくだから、引き取ってやるのだというのであった。
 かわいそうに、ルセットも、自分がどうされるかさとったもののように、牛小屋から出るのをいやがって鳴き始めた。
「後ろへ回って、たたき出せ」とばくろうはわたしに言って、首の回りにかけていたむちをわたした。
「いいえ、そんなことをしてはいけない」とおっかあはさけんだ。
 それでルセットのはづな(馬の口につけて引くつな)をつかまえながら、優(やさ)しく言った。
「さあ、おまえ出ておくれ。ねえ、いいかい」
 ルセットはそれをこばむことができなかった。それで往来(おうらい)へ出ると、ばくろうはルセットを車の後ろにしばりつけた。馬がとことこかけだすと、ルセットはいやでもあとからついて行かなければならなかった。
 わたしたちはうちの中にはいったが、しばらくのあいだまだルセットの鳴き声が聞こえていた。
 もう乳(ちち)もなければバターもない。朝は一きれのパン、晩(ばん)は塩(しお)をつけたじゃがいものごちそうであった。
 雌牛(めうし)を売ってから四、五日すると、謝肉祭(しゃにくさい)が来た。一年まえのこの日には、バルブレンのおっかあが、わたしにどら焼(や)きと揚(あ)げりんごのごちそうをこしらえてくれた。それでたくさんわたしが食べると、おっかあはごきげんで、にこにこしてくれた。
 けれどそのときは揚(あ)げ物(もの)の衣(ころも)がパン粉(こ)をとかす乳(ちち)や、揚げ物の油のバターをくれるルセットがいた。
 もうルセットもいない、乳(ちち)もない、バターもない、これでは、謝肉祭(しゃにくさい)もなにもないと、わたしはつまらなそうに独(ひと)り言(ごと)を言った。
 ところがおっかあはわたしをびっくりさせた。おっかあはいつも人から物を借(か)りることをしない人ではあったが、おとなりへ行って乳(ちち)を一ぱいもらい、もう一けんからバターを一かたまりもらって来て、わたしがお昼ごろうちへ帰って来ると、おっかあは大きな土(ど)なべにパン粉(こ)をあけていた。
「おや、パン粉」とわたしはそばへ寄(よ)って言った。
「ああ、そうだよ」と、おっかあはにっこりしながら答えた。「上等なパン粉だよ、ご覧(らん)、ルミ、いいかおりだろう」
 わたしはこのパン粉(こ)をなんにするのか知りたいと思ったが、それをおしてたずねる勇気(ゆうき)がなかった。それにきょうが謝肉祭(しゃにくさい)だということを思い出させて、おっかあをふゆかいにさせたくなかった。
「パン粉(こ)でなにをこさえるのだったけね」とおっかあはわたしの顔を見ながら聞いた。
「パンさ」
「それからほかには」
「パンがゆ」
「それからまだあるだろう」
「だって……ぼく知らないや」
「なあに、おまえは知っていても、かしこい子だからそれを言おうとしないのだよ。きょうが謝肉祭(しゃにくさい)で、どら焼(や)きをこしらえる日だということを知っていても、バターとお乳(ちち)がないと思って、言いださずにいるのだよ。ねえ、そうだろう」
「だって、おっかあ」
「まあとにかく、きょうのせっかくの謝肉祭(しゃにくさい)を、そんなにつまらなくないようにしたつもりだよ。このはこの中をご覧(らん)」
 わたしはさっそくふたをあけると、乳(ちち)とバターと卵(たまど)と、おまけにりんごが三つ、中にはいっていた。
 わたしがりんごをそぐ(小さく切る)と、おっかあは卵(たまご)を粉(こな)に混(ま)ぜて衣(ころも)をしらえ、乳(ちち)を少しずつ混ぜていた。
 衣がすっかり練(ね)れると、土(ど)なべのまま、熱灰(あつばい)の上にのせた。それでどら焼(や)きが焼け、揚(あ)げりんごが揚がるまでには、晩食(ばんしょく)のときまで待たなければならなかった。正直に言うと、わたしはそれからの一日が、それはそれは待ち遠しくって、何度も、何度も、おさらにかけた布(ぬの)を取ってみた。
「おまえ、衣(ころも)にかぜをひかしてしまうよ。そうするとうまくふくれないからね」とかの女はさけんだ。けれど、言うそばからそれはずんずんふくれて、小さなあわが上に立ち始めた。卵(たまご)と乳(ちち)がぷんとうまそうなにおいを立てた。
「そだを少し持っておいで」とおっかあが言った。「いい火をこしらえよう」
 とうとう明かりがついた。
「まきを炉(ろ)の中へお入れ」
 かの女がこのことばを二度とくり返すまでもなく、わたしはさっきからこのことばの出るのをいまかいまかと待ちかまえていたのであった。さっそく赤いほのおがどんどん炉(ろ)の中に燃(も)え上がり、この光が台所じゅうを明るくした。
 そのときおっかあは、揚(あ)げなべをくぎから外(はず)して火の上にのせた。
「バターをお出し」
 ナイフの先でかの女はバターをくるみくらいの大きさに一きれ切ってなべの中へ入れると、じりじりとけ出してあわを立てた。
 もうしばらくこのにおいもかがなかった。まあ、そのバターのいいにおいといったら。
 わたしがそのじりじりこげるあまい音楽にむちゅうで聞きほれていたとき、裏庭(うらにわ)でこつこつ人の歩く足音がした。
 せっかくのときにだれがじゃまに来たのだろう。きっとおとなりからまきをもらいに来たのだ。
 わたしはそんなことに気を取られるどころではなかった。ちょうどそのときバルブレンのおっかあが、大きな木のさじをはちに入れて、衣(ころも)を一さじ、おなべの中にあけていたのだもの。
 するとだれかつえでことことドアをたたいた。ばたんと戸が開け放された。
「どなただね」とおっかあはふり向きもしないでたずねた。
 一人の男がぬっとはいって来た。明るい火の光で、わたしはその男が大きなつえを片(かた)わきについているのを見つけた。
「やれやれ、祭りのごちそうか。まあ、やるがいい」とその男はがさつな声で言った。
「おやおやまあ」とバルブレンのおっかあが、あわててさげなべを下に置(お)いてさけんだ。
「まあジェローム、おまえさんだったの」
 そのときおっかあはわたしのうでを引(ひ)っ張(ぱ)って、戸口に立ちはだかったままでいた男の前へ連(つ)れて行った。
「おまえのとっつぁんだよ」


     養父(ようふ)

 おっかあはご亭主(ていしゅ)にだきついた。わたしもそのあとから同じことをしようとすると、かれはつえをつき出してわたしを止めた。
「なんだ、こいつは……おめえいまなんとか言ったっけな」
「ええ、そう、でも……ほんとうはそうではないけれど……そのわけは……」
「ふん、ほんとうなものか。ほんとうなものか」
 かれはつえをふり上げたままわたしのほうへ向かって来た。思わずわたしは後じさりをした。
 なにをわたしがしたろう。なんの罪(つみ)があるというのだ。わたしはただだきつこうとしたのだ。
 わたしはおずおずかれの顔を見上げたが、かれはおっかあのほうをふり向いて話をしていた。
「じゃあ感心に謝肉祭(しゃにくさい)のお祝(いわ)いをするのだな、まあけっこうよ。おれは腹(はら)が減(へ)っているのだ。晩飯(ばんめし)はなんのごちそうだ」とかれは言った。
「どら焼(や)きとりんごの揚(あ)げ物(もの)をこしらえているところですよ」
「そうらしいて。だが何里も遠道(とおみち)をかけて来た者に、まさかどら焼(や)きでごめんをこうむるつもりではあるまい」
「ほかになんにもないんですよ。なにしろおまえさんが帰るとは思わなかったからね」
「なんだ、なんにもない。夕飯(ゆうはん)にはなにもないのか」とかれは台所を見回した。
「バターがあるぞ」
 かれは天井(てんじょう)をあお向いて見た。いつも塩(しお)ぶたがかかっていたかぎが目にはいったが、そこにはもう長らくなんにもかかってはいなかった。ただねぎとにんにくが二、三本なわでしばってつるしてあるだけであった。
「ねぎがある」とかれは言って、大きなつえでなわをたたき落とした。「ねぎが四、五本にバターが少しあれば、けっこうなスープができるだろう。どら焼(や)きなぞは下ろして、ねぎをなべでいためろ」
 どら焼きをなべから出してしまえというのだ。
 でも一言も言わずにバルブレンのおっかあはご亭主(ていしゅ)の言うとおりに、急いで仕事に取りかかった。ご亭主は炉(ろ)のすみのいすにこしをかけていた。
 わたしはかれがつえの先で追い立てた場所から、そのまま動き得(え)なかった。食卓(しょくたく)に背中(なか)を向けたまま、わたしはかれの顔を見た。
 かれは五十ばかりの意地悪らしい顔つきをした、ごつごつした様子の男であった。その頭はけがをしたため、少し右の肩(かた)のほうへ曲がっていた。かたわになったので、よけいこの男の人相(にんそう)を悪くした。
 バルブレンのおっかあはまたおなべを火の上にのせた。
「おめえ、それっぱかりのバターでスープをこしらえるつもりか」とかれは言いながら、バターのはいったさらをつかんで、それをみんななべの中へあけてしまった。もうバターはなくなった……それで、もうどら焼(や)きもなくなったのだ。
 これがほかの場合だったら、こんな災難(さいなん)に会えば、どんなにくやしかったかしれない。だが、わたしはもうどら焼(や)きもりんごの揚(あ)げ物(もの)も思わなかった。わたしの心の中にいっぱいになっている考えは、こんなに意地の悪い男が、いったいどうしてわたしの父親だろうかということであった。
「ぼくのとっつぁん」――うっとりとわたしはこのことばを心の中でくり返した。
 いったい父親というものはどんなものだろう、それをはっきりと考えたことはなかった。ただぼんやり、それはつまり、母親の声の大きいのくらいに考えていた。ところが、いま天から降(ふ)って来たこの男を見ると、わたしはひじょうにいやだったし、こわらしかった(おそろしかった)。
 わたしがかれにだきつこうとすると、かれはつえでわたしをつきのけた。なぜだ。これがおっかあなら、だきつこうとする者をつきのけるようなことはしなかった。どうして、おっかあはいつだってわたしをしっかりとだきしめてくれた。
「これ、でくのぼうのようにそんな所につっ立っていないで、来て、さらでもならべろ」とかれは言った。
 わたしはあわててそのとおりにしようとして、危(あぶ)なくたおれそこなった。スープはでき上がった。バルブレンのおっかあはそれをさらに入れた。
 するとかれは炉(ろ)ばたから立ち上がって、食卓(しょくたく)の前にこしをかけて食べ始めた。合い間合い間には、じろじろわたしの顔を見るのであった。わたしはそれが気味が悪くって、食事がのどに通らなかった。わたしも横目でかれを見たが、向こうの目と出会うと、あわてて目をそらしてしまった。
「こいつはいつもこのくらいしか食わないのか」とかれはふいにこうたずねた。
「きっとおなかがいいんですよ」
「しょうがねえやつだなあ。こればかりしかはいらないようじゃあ」
 バルブレンのおっかあは話をしたがらない様子であった。あちらこちらと働(はたら)き回って、ご亭主(ていしゅ)のお給仕(きゅうじ)ばかりしていた。
「てめえ、腹(はら)は減(へ)らねえのか」
「ええ」
「うん、じゃあすぐとこへはいってねろ。ねたらすぐねつけよ。早くしないとひどいぞ」
 おっかあはわたしに、なにも言わずに言うとおりにしろと目で知らせた。しかしこの警告(けいこく)を待つまでもなかった。わたしはひと言も口答えをしようとは思わなかった。
 たいていのびんぼう人の家がそうであるように、わたしたちの家の台所も、やはり寝部屋(ねべや)をかねていた。炉(ろ)のそばには食事の道具が残(のこ)らずあった。食卓(しょくたく)もパンのはこもなべも食器(しょっき)だなもあった。そうして、部屋(へや)の向こうの角(かど)が寝部屋であった。一方の角にバルブレンのおっかあの大きな寝台(ねだい)があった。その向こうの角のくぼんだおし入れのような所にわたしの寝台があって、赤い模様(もよう)のカーテンがかかっていた。
 わたしは急いでねまきに着かえて、ねどこにもぐりこんだ。けれど、とても目がくっつくものではなかった。わたしはひどくおどかされて、ひじょうにふゆかいであった。
 どうしてこの男がわたしのとっつぁんだろう。ほんとうにそうだったら、なぜ人をこんなにひどくあつかうのだろう。
 わたしは鼻をかべにつけたまま、こんなことを考えるのはきれいにやめて、言いつかったとおり、すぐねむろうと骨(ほね)を折(お)ったがだめだった。まるで目がさえてねつかれない。こんなに目のさえたことはなかった。
 どのくらいたったかわからないが、しばらくしてだれかがわたしの寝台(ねだい)のそばに寄(よ)って来た。そろそろと引きずるような重苦しい足音で、それがおっかあでないということはすぐにわかった。
 わたしはほおの上に温かい息を感じた。
「てめえ、もうねむったのか」とするどい声が言った。
 わたしは返事をしないようにした。「ひどいぞ」と言ったおそろしいことばが、まだ耳の中でがんがん聞こえていた。
「ねむっているんですよ」とおっかあが言った。「あの子はとこにはいるとすぐに目がくっつくのだから、だいじょうぶなにを言っても聞こえやしませんよ」
 わたしはむろん、「いいえ、ねむっていません」と言わねばならないはずであったが、言えなかった。わたしはねむれと言いつけられた。それをまだねむらずにいた。わたしが悪かった。
「それでおまえさん、裁判(さいばん)のほうはどうなったの」とおっかあが言った。
「だめよ。裁判所ではおれが足場の下にいたのが悪いと言うのだ」そう言ってかれはこぶしで食卓(しょくたく)をごつんと打って、なんだかわけのわからないことを言って、しきりにののしっていた。
「裁判(さいばん)には負けるし、金はなくなるし、かたわにはなるし、びんぼうがじろじろ面(つら)をねめつけて(にらみつけて)いる。それだけでもまだ足りねえつもりか、うちへ帰って来ればがきがいる。なぜおれが言ったとおりにしなかったのだ」
「でもできなかったもの」
「孤児院(こじいん)へ連(つ)れて行くことができなかったのか」
「だってあんな小さな子を捨(す)てることはできないよ。自分の乳(ちち)で育ててかわいくなっているのだもの」
「あいつはてめえの子じゃあねえのだ」
「そうさ。わたしもおまえさんの言うとおりにしようと思ったのだけれど、ちょうどそのとき、あの子が加減(かげん)が悪くなったので」
「加減が悪く」
「ああ、だからどうにもあすこへ連(つ)れては行けなかったのだよ。死んだかもしれないからねえ」
「だがよくなってから、どうした」
「ええ、すぐにはよくならなかったしね、やっといいと思うと、また病気になったりしたものだから。かわいそうにそれはひどくせきをして、聞いていられないようだった。うちのニコラぼうもそんなふうにして死んだのだからねえ。わたしがこの子を孤児院(こじいん)に送ればやっぱり死んだかもしれないよ」
「だが……あとでは」
「ああ、だんだんそのうちに時がたって、延(の)び延びになってしまったのだよ」
「いったいいくつになったのだ」
「八つさ」
「うん、そうか。じやあ、これからでもいいや。どうせもっと早く行くはずだったのだ。だが、いまじゃあ行くのもいやがるだろう」
「まあ、ジェローム、おまえさん、いけない……そんなことはしないでおくれ」
「いけない、なにがいけないのだ。いつまでもああしてうちに置(お)けると思うか」
 しばらく二人ともだまり返った。わたしは息もできなかった。のどの中にかたまりができたようであった。
 しばらくして.バルブレンのおっかあが言った。
「まあ、パリへ出て、おまえさんもずいぶん人が変(か)わったねえ。おまえさん、行くまえにはそんなことは言わない人だったがねえ」
「そうだったかもしれない。だが、パリへ行っておれの人が変わったかしれないが、そこはおれを半殺(はんごろ)しにもした。おれはもう働(はたら)くことはできない。もう金はない。牛は売ってしまった。おれたちの口をぬらすことさえおぼつかないのに、おたがいの子でもないがきを養(やしな)うことができるか」
「あの子はわたしの子だよ」
「あいつはおれの子でもないが、きさまの子でもないぞ。それにぜんたい百姓(ひゃくしょう)の子どもじゃあない。びんぼう人の子どもじゃあない。きゃしゃすぎて物もろくに食えないし、手足もあれじゃあ働(はたら)けない」
「あの子は村でいちばん器量(きりょう)よしの子どもだよ」
「器量がよくないとは言いやしない。だがじょうぶな子ではないと言うのだ。あんなひょろひょろした肩(かた)をしたこぞうが労働者(ろうどうしゃ)になれると思うか。ありゃあ町の子どもだ。町の子どもを置(お)く席(せき)はないのだ」
「いいえ、あの子はいい子ですよ。りこうで、物がわかって、それで優(やさ)しいのだから、あの子はわたしたちのために働(はたら)いてくれますよ」
「だが、さし当たりは、おれたちがあいつのために働いてやらなければならない。それはまっぴらだ」
「もしかあの子のふた親が引き取りに来たらどうします」
「あいつのふた親だと。いったいあいつにはふた親があったのか。あればいままでに訪(たず)ねて来そうなものだ。あいつのふた親が訪ねて来て、これまでの養育料(よういくりょう)をはらって行くなどと考えたのが、ずいぶんばかげきっていた。気ちがいじみていた。あの子がレースのへりつきのやわらかい産着(うぶき)を着ていたからといって、ふた親があいつを訪ねに来ると思うことができるか。それに、もう死んでいるのだ。きっと」
「いいや、そんなことはない。いつか訪(たず)ねて来るかもしれない……」
「女というやつはなかなか強情(ごうじょう)なものだなあ」
「でも訪ねて来たら」
「ふん、そうなりゃ孤児院(こじいん)へ差(さ)し向けてやる。だがもう話はたくさんだ。おれはあしたは村長さんの所へあいつを連(つ)れて行って相談(そうだん)する。今夜はこれからフランスアの所へ行って来る。一時間ばかりしたら帰って来るからな」
 そのあいだにわたしはさっそく寝台(ねだい)の上で起き上がって、おっかあを呼(よ)んだ。
「ねえ、おっかあ」
 かの女はわたしの寝台のほうへかけてやって来た。
「ぼくを孤児院(こじいん)へやるの」
「いいえ、ルミぼう、そんなことはないよ」
 かの女はわたしにキッスをして、しっかりとうでにだきしめた。そうするとわたしもうれしくなって、ほおの上のなみだがかわいた。
「じゃあおまえ、ねむってはいなかったのだね」とかの女は優(やさ)しくたずねた。
「ぼく、わざとしたんじゃないから」
「わたしは、おまえをしかっているのではない。じゃあ、あの人の言ったことを聞いたろうねえ」
「ええ、あなたはぼくのおっかあではないんだって……そしてあの人もぼくのとっつぁんではないんだって」
 このあとのことばを、わたしは同じ調子では言わなかった。なぜというと、この婦人(ふじん)がわたしの母親でないことを知ったのは情(なさ)けなかったが、同時にあの男が父親でないことがわかったのは、なんだか得意(とくい)でうれしかった。このわたしの心の中の矛盾(むじゅん)はおのずと声に現(あらわ)れたが、おっかあはそれに気がつかないらしかった。
「まあわたしはおまえにほんとうのことを言わなければならないはずであったけれど、おまえがあまりわたしの子どもになりすぎたものだから、ついほんとうの母親でないとは言いだしにくかったのだよ。おまえ、ジェロームの言ったことをお聞きだったろう。あの人がおまえをある日パリのブルチュイー町の並木通(なみきどお)りで拾って来たのだよ。二月の朝早くのことで、あの人が仕事に出かけようとするとちゅうで、赤んぼうの泣(な)き声(ごえ)を聞いて、おまえをある庭の門口(かどぐち)で拾って来たのだ。あの人はだれか人を呼(よ)ぼうと思って見回しながら、声をかけると、一人の男が木のかげから出て来て、あわててにげ出したそうだよ。おまえ[#「おまえ」は底本では「おえ」]を捨(す)てた男が、だれか拾うか見届(みとど)けていたとみえる。おまえがそのとき、だれか拾ってくれる人が来たと感じたものか、あんまりひどく泣(な)くものだから、ジェロームもそのまま捨てても帰れなかった。それでどうしようかとあの人も困(こま)っていると、ほかの職人(しょくにん)たちも寄(よ)って来て、みんなはおまえを警察(けいさつ)へ届(とど)けることに相談(そうだん)を決めた。おまえはいつまでも泣きやまなかった。かわいそうに寒かったにちがいない。けれど、それから警察へ連(つ)れて行って、暖(あたた)かくしてあげてもまだ泣(な)いていた。それで今度はおなかが減(へ)っているのだろうというので、近所のおかみさんをたのんで乳(ちち)を飲ました。まあ、まったくおなかが減っていたのだよ。
 やっとおなかがいっぱいになると、みんなは炉(ろ)の前へ連れて行って、着物をぬがしてみると、なにしろきれいなうすもも色をした子どもで、りっぱな産着(うぶぎ)にくるまっていた。警部(けいぶ)さんは、こりゃありっぱなうちの子をぬすんで捨(す)てたものだと言って、その着物の細かいこと、子どもの様子などをいちいち書き留(と)めて、いつどういうふうにして拾い上げたかということまで書き入れた。それでだれか世話をする者がなければ、さしずめ孤児院(こじいん)へやらなければなるまいが、こんなりっぱなしっかりした子どもだ、これを育てるのはむずかしくはない。両親もそのうちきっと探(さが)しに来るだろう。探し当てればじゅうぶんのお礼もするだろうから、と署長(しょちょう)さんがお言いなすった。このことばにひかれて、ジェロームはわたしが引き取りましょうと言ったのだよ。ちょうどそのじぶん、わたしは同い年の赤んぼうを持っていたから、二人の子どもを楽に育てることができた。ねえ、そういうわけで、わたしがおまえのおっかあになったのだよ」
「まあ、おっかあ」
「ああ、ああ、それで三月(みつき)目の末(すえ)にわたしは自分の子どもを亡(な)くした。そこでわたしはいよいよおまえがかわいくなって、もう他人の子だなんという気がしなくなりました。でもジェロームは相変(あいか)わらずそれを忘(わす)れないでいて、三年目の末になっても、両親が引き取りに来ないというので、もうおまえを孤児院(こじいん)へやると言って聞かないので困(こま)ったよ。だからなぜわたしがあの人の言うとおりにしなかった、と言われていたのをお聞きだったろう」
「まあ、ぼくを孤児院(こじいん)へなんかやらないでください」とわたしはさけんで、かの女にかじりついた。
「どうぞどうぞおっかあ、後生(ごしょう)だから孤児院へやらないでください」
「いいえ、おまえ、どうしてやるものか、わたしがよくするからね。ジェロームはそんなにいけない人ではないのだよ。あの人はあんまり苦労(くろう)をたくさんして、気むずかしくなっているだけなのだからね。まあ、わたしたちはせっせと働(はたら)きましょう。おまえも働くのだよ」
「ええ、ええ、ぼくはしろということはなんでもきっとしますから、孤児院(こいじん)へだけはやらないでください」
「おお、おお、それはやりはしないから、その代わりすぐねむると言ってやくそくをおし。あの人が帰って来て、おまえの起きているところを見るといけないからね」
 おっかあはわたしにキッスして、かべのほうへわたしの顔を向けた。
 わたしはねむろうと思ったけれども、あんまりひどく感動させられたので、静(しず)かにねむりの国にはいることができなかった。
 じゃあ、あれほど優(やさ)しいバルブレンのおっかあは、わたしのほんとうの母さんではなかったのか。するといったいほんとうの母さんはだれだろう。いまの母さんよりもっと優しい人かしら。どうしてそんなはずがありそうもない。
 だがほんとうの父さんなら、あのバルブレンのように、こわい目でにらみつけたり、わたしにつえをふり上げたりしやしないだろうと思った……。
 あの男はわたしを孤児院(こじいん)へやろうとしている。母さんにはほんとうにそれを引き止める力があるだろうか。
 この村に二人、孤児院から来た子どもがあった。この子たちは、『孤児院の子』と呼(よ)ばれていた。首の回りに番号のはいった鉛(なまり)の札(ふだ)をぶら下げていた。ひどいみなりをして、よごれくさっていた。ほかの子たちがみんなでからかって、石をぶつけたり、迷(まよ)い犬(いぬ)を追って遊ぶように追い回したりした。迷い犬にだれも加勢(かせい)する者がないのだ。
 ああ、わたしはそういう子どものようになりたくない。首の回りに番号札を下げられたくない。わたしの歩いて行くあとから、『やいやい孤児院(こじいん)のがき、やいやい捨(す)て子(ご)』と言ってののしられたくない。
 それを考えただけでも、ぞっと寒気(さむけ)がして、歯ががたがた鳴りだす。わたしはねむることができなかった。やがてバルブレンも、また帰って来るだろう。
 でも幸せと、ずっとおそくまでかれは帰って来なかった。そのうちにわたしもとろろとねむ気(け)がさして来た。


     ヴィタリス親方の一座(いちざ)

 その晩(ばん)一晩、きっと孤児院(こじいん)へ連(つ)れて行かれたゆめばかりを見ていたにちがいない。朝早く目を開いても、自分がいつもの寝台(ねだい)にねているような気がしなかった。わたしは目が覚(さ)めるとさっそく寝台にさわったり、そこらを見回したり、いろいろ試(ため)してみた。ああ、そうだ、わたしはやはりバルブレンのおっかあのうちにいた。
 バルブレンはその朝じゅう、なにもわたしに言わなかった。わたしはかれがもう孤児院(こじいん)へやる考えを捨(す)てたのだと思うようになった。きっとバルブレンのおっかあが、あくまでわたしをうちに置(お)くことに決めたのであろう。
 けれどもお昼ごろになると、バルブレンがわたしに、ぼうしをかぶってついて来いと言った。
 わたしは目つきで母さんに救(すく)いを求(もと)めてみた。かの女もご亭主(ていしゅ)に気がつかないようにして、いっしょに行けと目くばせした。わたしは従(したが)った。かの女は行きがけにわたしの肩(かた)をたたいて、なにも心配することはないからと知らせた。
 なにも言わずにわたしはかれについて行った。
 うちから村まではちょっと一時間の道であった。そのとちゅう、バルブレンはひと言もわたしに口をきかなかった。かれはびっこ引き引き歩いて行った。おりふしふり返って、わたしがついて来るかどうか見ようとした。
 どこへいったいわたしを連(つ)れて行くつもりであろう。
 わたしは心の中でたびたびこの疑問(ぎもん)をくり返してみた。バルブレンのおっかあがいくらだいじょうぶだと目くばせして見せてくれても、わたしにはなにか一大事が起こりそうな気がしてならないので、どうしてにげ出そうかと考えた。
 わたしはわざとのろのろ歩いて、バルブレンにつかまらないようにはなれていて、いざとなればほりの中にでもとびこもうと思った。
 はじめはかれも、あとからわたしがとことこついて来るのて、安心していたらしかった。けれどもまもなく、かれはわたしの心の中を見破(みやぶ)ったらしく、いきなりわたしのうで首をとらえた。
 わたしはいやでもいっしょにくっついて歩かなければならなかった。
 そんなふうにして、わたしたちは村にはいった。すれちがう人がみんなふり返って目を丸(まる)くした。それはまるで、山犬がつなで引かれて行くていさいであった。
 わたしたちが村の居酒屋(いざかや)の前を通ると、入口に立っていた男がバルブレンに声をかけて、中にはいれと言った。バルブレンはわたしの耳を引(ひ)っ張(ぱ)って、先にわたしを中へつっこんでおいて、自分もあとからはいって、ドアをぴしゃりと立てた。
 わたしはほっとした。
 そこは危険(きけん)な場所とは思われなかった。それに先(せん)からわたしは、この中がいったいどんな様子になっているのだろうと思っていた。
 旅館(りょかん)御料理(おんりょうり)カフェー・ノートルダーム。中はどんなにきれいだろう。よく赤い顔をした人がよろよろ中から出て来るのをわたしは見た。表のガラス戸は歌を歌う声や話し声で、いつもがたがたふるえていた。この赤いカーテンの後ろにはどんなものがあるのだろうと、いつもふしぎに思っていた。それをいま見ようというのである……
 バルブレンはいま声をかけた亭主(ていしゅ)と、食卓(しょくたく)に向かい合ってこしをかけた。わたしは炉(ろ)ばたにこしをかけてそこらを見回した。
 わたしのいたすぐ向こうのすみには、白いひげを長く生やした背(せい)の高い老人(ろうじん)がいた。かれはきみょうな着物を着ていた。わたしはまだこんな様子の人を見たことがなかった。
 長い髪(かみ)の毛(け)をふっさりと肩(かた)まで垂(た)らして、緑と赤の羽根(はね)でかざったねずみ色の高いフェルト帽(ぼう)をかぶっていた。ひつじの毛皮の毛のほうを中に返して、すっかりからだに着こんでいた。その毛皮服にはそではなかったが、肩(かた)の所に二つ大きな穴(あな)をあけて、そこから、もとは録色だったはずのビロードのそでをぬっと出していた。ひつじの毛のゲートルをひざまでつけて、それをおさえるために、赤いリボンをぐるぐる足に巻きつけていた。
 かれは長ながといすの上に横になって、下あごを左の手に支(ささ)えて、そのひじを曲げたひざの上にのせていた。
 わたしは生きた人で、こんな静(しず)かな落ち着いた様子の人を見たことがなかった。まるで村のお寺の聖徒(せいと)の像(ぞう)のようであった。
 老人(ろうじん)の回りには三びきの犬が、固(かた)まってねていた。白いちぢれ毛のむく犬と、黒い毛深いむく犬、それにおとなしそうなくりくりした様子の灰(はい)色の雌犬(めすいぬ)が一ぴき。白いむく犬は巡査(じゅんさ)のかぶる古いかぶと帽(ぼう)をかぶって、皮のひもをあごの下に結(ゆわ)えつけていた。
 わたしがふしぎそうな顔をしてこの老人(ろうじん)を見つめているあいだに、バルブレンと居酒屋(いざかや)の亭主(ていしゅ)は低(ひく)い声でこそこそ話をしていた。わたしのことを話しているのだということがわかった。
 バルブレンはわたしをこれから村長のうちへ連(つ)れて行って、村長から孤児院(こじいん)に向かって、わたしをうちへ置(お)く代わりに養育料(よういくりょう)が請求(せいきゅう)してもらうつもりだと言った。
 これだけを、やっとあの気のどくなバルブレンのおっかあが夫(おっと)に説(と)いて承諾(しょうだく)させたのであった。けれどわたしは、そうしてバルブレンがいくらかでも金がもらえれば、もうなにも心配することはないと思っていた。
 その老人(ろうじん)はいつかすっかりわきで聞いていたとみえて、いきなりわたしのほうに指さしして、耳立つほどの外国なまりでバルブレンに話しかけた。
「その子どもがおまえさんのやっかい者なのかね」
「そうだよ」
「それでおまえさんは孤児院(こじいん)が養育料(よういくりょう)をしはらうと思っているのかね」
「そうとも。この子は両親がなくって、そのためにおれはずいぶん金を使わされた。お上(かみ)からいくらでもはらってもらうのは当たり前だ」
「それはそうでないとは言わない。だが、物は正しいからといってきっとそれが通るものとはかぎらない」
「それはそうさ」
「それそのとおり。だからおまえさんが望(のぞ)んでおいでのものも、すらすらと手にはいろうとはわたしには思えないのだ」
「じゃあ孤児院(こじいん)へやってしまうだけだ。こちらで養(やしな)いたくないものを、なんでも養えという法律(ほうりつ)はないのだ」
「でもおまえさんははじめにあの子を養いますといって引き受けたのだから、そのやくそくは守らなければならない」
「ふん、おれはこの子を養(やしな)いたくないのだ。だからどのみちどこへでもやっかいばらいをするつもりでいる」
「さあ、そこで話だが、やっかいばらいをするにも、手近なしかたがあると思う」老人(ろうじん)はしばらく考えて、「おまけに少しは金にもなるしかたがある」と言った。
「そのしかたを教えてくれれば、おれは一ぱい買うよ」
「じゃあさっそく一ぱい買うさ。もう相談(そうだん)は決まったから」
「だいじょうぶかえ」
「だいじょうぶよ」
 老人(ろうじん)は立ち上がって、バルブレンの向こうに席(せき)をしめた。ふしぎなことには、老人が立ち上がると、ひつじの毛皮服がむずむず動いて、むっくり高くなった。たぶん、もう一ぴき犬をうでの下にかかえているのだとわたしは思った。
 この人たちは、いったいわたしをどうしようというのだろう。わたしの心臓(しんぞう)がまたはげしく打ち始めた。わたしはちっとも老人(ろうじん)から目をはなすことができなかった。
「おまえさんはこの子のためにだれか金を出さない以上(いじょう)、自分のうちに置(お)いて養(やしな)っていることはいやだという、それにちがいないのだろう」
「それはそのとおりだ……そのわけは……」
「いや、わけはどうでもよろしい。それはわたしにかかわったことではない。それでもうこの子が要(い)らないというのなら、すぐわたしにください。わたしが引き受けようじゃないか」
「おや、おまえさんはこの子を引き受けると言うのかね」
「だっておまえさんはこの子をほうり出したいんだろう」
「おまえさんにこんなきれいな子をやるのかえ。この子は村でもいちばんかわいい子だ。よく見てくれ」
「よく見ているよ」
「ルミ、ここへ来い」
 わたしは食卓(しょくたく)に進み寄(よ)った。ひざはふるえていた。
「これこれぼうや、こわがることはないよ」と老人(ろうじん)は言った。
「さあ、よく見てくれ」とバルブレンは言った。
「わたしはこの子をいやな子だとは言いやしない。またそれならば欲(ほ)しいとも言わない。こっちは化け物は欲しくはないのだ」
「いやはや、こいつがいっそ二つ頭の化け物か、または一寸法師(いっすんぼうし)ででもあったなら……」
「だいじにして孤児院(こじいん)にやりはしないだろう。香具師(やし)に売っても見世物に出しても、その化け物のおかげでお金もうけができようさ。だが子どもは一寸法師でもなければ、化け物でもない。だから見世物にすることはできない。この子はほかの子どもと同じようにできている。なんの役にも立たない」
「仕事はできるよ」
「いや、あまりじょうぶではないからなあ」
「じょうぶでないと、とんでもない話だ。……だれにだって負けはしないのだ。あの足を見なさい。あのとおりしっかりしている。あれよりすらりとした足を見たことがあるかい……」
 バルブレンはわたしのズボンをまくり上げた。
「やせすぎている」と老人(ろうじん)は言った。
「それからうでを見ろ」とバルブレンは続(つづ)けた。
「うでも同様だ。――まあこれでもいいが、苦しいことや、つらいことにはたえられそうもない」
「なに、たえられない。ふん、手でさわって調べてみるがいい」
 老人(ろうじん)はやせこけた手で、わたしの足にさわってみながら、頭をふったり、顔をしかめたりした。
 このまえ、ばくろうが来たときも、こんなふうであったことを、わたしは見て知っていた。その男もやはり牛のからだを手でさわったりつねったりしてみて、頭をふった。この牛はろくでもない牛だ、とても売り物にはならない、などと言ったが、でも牛を買って連(つ)れて行った。
 この老人(ろうじん)もたぶんわたしを買って連れて行くだろう。ああバルブレンのおっかあ。バルブレンのおっかあ。
 不幸にもここにはおっかあはいなかった。だれもわたしの味方になってくれる者がなかった。
 わたしが思い切った子なら、なあにきのうはバルブレンも、わたしを弱い子で、手足がか細くて役に立たぬと非難(ひなん)したのではないかと言ってやるところであった。でもそんなことを言ったら、どなりつけられて、げんこをいただくに決まっているから、わたしはなにも言わなかった。
「まあつまり当たり前の子どもさね。それはそうだが、やはり町の子だよ。百姓(ひゃくしょう)仕事にはたしかに向いてはいないようだ。試(ため)しに畑をやらしてごらん、どれほど続(つづ)くかさ」
「十年は続くよ」
「なあにひと月も続(つづ)くものか」
「まあ、このとおりだ。よく見てくれ」
 わたしは食卓(しょくたく)のはしの、ちょうどバルブレンと老人(ろうじん)の間にすわっていたものだから、あっちへつかれ、こっちへおされて、いいようにこづき回された。
「さあ、まずこれだけの子どもとして」と老人(ろうじん)は最後(さいご)に言った。「つまりわたしが引き受けることにしよう。もちろん買い切るのではない、ただ借(か)りるのだ。その借(か)り賃(ちん)に年に二十フラン出すことにしよう」
「たった二十フラン」
「どうして高すぎると思うよ。それも前ばらいにするからね。ほんとうの金貨(きんか)を四枚(まい)にぎったうえに、やっかいばらいができるのだからね」と老人(ろうじん)は言った。
「だがこの子をうちに置(お)けば、孤児院(こじいん)から毎月十フランずつくれるからな」
「まあくれてもせいぜい七フランか十フランだね。それはよくわかっているよ。だがその代わり食べさせなければならないからね」
「その代わり働(はたら)きもするさ」
「おまえさんがほんとにこの子が働けると思うなら、なにも追い出したがることはないだろう。ぜんたい捨(す)て子(ご)を引き取るというのは、その養育料(よういくりょう)をはらってもらうためではない、働(はたら)かせるためなのだ。それから金を取り上げこそすれ、給金(きゅうきん)なしの下男(げなん)下女(げじょ)に使うのだ。だからそれだけの役に立つものなら、おまえさんはこの子をうちに置(お)くところなのだ」
「とにかく、毎月十フランはもらえるのだから」
「だが孤児院(こじいん)で、いや、そんならこの子はおまえさんには預(あず)けない、ほかへ預けると言ったらどうします。つまりなんにもおまえさんは取れないではないか。わたしのほうにすればそこは確(たし)かだ。おまえさんの苦労(くろう)はただ金を受け取るために、手を出しさえすればいいのだ」
 老人(ろうじん)はかくしを探(さぐ)って、なめし皮の財布(さいふ)を引き出した。その中から四枚(まい)、金貨(きんか)をつかみ出して、食卓(しょくたく)の上にならべ、わざとらしくチャラチャラ音をさせた。
「だが待てよ」とバルブレンが言った。「いつかこの子のふた親が出てくるかもしれない」
「それはかまわないじゃないか」
「いや、育てた者の身になればなにもかまわなくはないさ。またそれを思わなければ、初(はじ)めっからだれが世話をするものか」
「それを思わなければ初(はじ)めっからだれが世話をするものか」――このことばで、わたしはいよいよバルブレンがきらいになった。なんという悪い人間だろう。
「なるほど、だがこの子のふた親がもう出て来ないだろうとあきらめたからこそ、おまえさんもこの子をほうり出そうと言うのだろう。ところで、どうかしたひょうしでこののちそのふた親が出て来たとして、それはおまえさんの所へこそまっすぐに行こうが、わたしの所へは来ないだろう。だれもわたしを知らないのだから」と老人(ろうじん)は言った。
「でもおまえさんがそのふた親を見つけ出したらどうする」
「なるほどそういう場合には、わたしたちで利益(りえき)を分けるのだね。ところで、ひとつ、きばってさしあたり三十フラン分けてあげようよ」
「四十フランにしてもらおう」
「いいや、この子の使い道はそこいらが相応(そうおう)な値段(ねだん)だ」
「おまえさん、この子をなんに使おうというのだ。足といえばこのとおりしっかりしたいい足をしているし、うでといえばこのとおりりっぱないいうでをしている。いま言ったことをどこまでもくり返して言うが、この子をいったいどうしようというのだ」
 そのとき老人(ろうじん)はあざけるようにバルブレンの顔を見て、それからちびちびコップを干(ほ)した。
「つまりわたしの相手(あいて)になってもらうのだ。わたしは年を取ってきたし、夜なんぞはまことにさびしくなった。くたびれたときなんぞ、子どもがそばにいてくれるといいおとぎになるのだ」
「なるほど、それにはこの子の足はじゅうぶんたっしゃだから」
「おお、それだけではだめだ。この子はまたおどりをおどって、はね回って、遠い道を歩かなければならない。つまりこの子はヴィタリス親方の一座(いちざ)の役者になるのだ」
「その一座はどこにある」
「もうご推察(すいさつ)あろうが、そのヴィタリス親方はわたしだ。さっそくここで一座をお目にかけよう」
 こう言ってかれはひつじの毛皮服のふところを開けて、左のうでにおさえていたきみょうな動物を引き出した。それが、さっきからたびたび毛皮を下から持ち上げた動物であったのだ。だがそれは想像(そうぞう)したように、犬ではなかった。
 わたしはこのきみょうな動物を生まれて初(はじ)めて見たとき、なんと名のつけようもなかった。
 わたしはびっくりしてながめていた。
 それは金筋(きんすじ)をぬいつけた赤い服を着ていたが、うでと足はむき出しのままであった。実際(じっさい)それは人間と同じうでと足で、前足ではなかった。黒い毛むくじゃらの皮をかぶっていて、白くももも色でもなかった。にぎりこぶしぐらいの大きさの黒い頭をして、縦(たて)につまった顔をしていた。横へ向いた鼻の穴(あな)が開いていて、くちびるが黄色かった。けれどもとりわけわたしをおどろかしたのは、くちゃくちゃとくっついている二つの目で、それは鏡(かがみ)のようにぴかぴかと光った。
「いやあ、みっともないさるだな」とバルブレンがさけんだ。
 ああ、さるか。わたしはいよいよ大きな目を開いた。それではこれがさるであったのか。わたしはまださるを見たことはなかったが、話には聞いていた。じゃあこの子どものようなちっぽけな動物が、さるだったのか。
「さあ、これが一座(いちざ)の花形(はながた)で」とヴィタリス親方が言った。「すなわちジョリクール君であります。さあさあジョリクール君」と動物のほうを向いて、「お客さまにおじぎをしないか」
 さるは指をくちびるに当てて、わたしたちに一人一人キッスをあたえるまねをした。
「さて」とヴィタリスはことばを続(つづ)けて、白のむく犬のほうに手をさしのべた。「つぎはカピ親方が、ご臨席(りんせき)の貴賓諸君(きひんしょくん)に一座(いちざ)のものをご紹介(しょうかい)申しあげる光栄(こうえい)を有せられるでしょう」
 このまぎわまでぴくりとも動かなかった白のむく犬が、さっそくとび上がって、後足で立ちながら、前足を胸(むね)の上で十文字に組んで、まず主人に向かってていねいにおじきをすると、かぶっている巡査(じゅんさ)のかぶと帽(ぼう)が地べたについた。
 敬礼(けいれい)がすむとかれは仲間(なかま)のほうを向いて、かたっぽの前足でやはり胸をおさえながら、片足(かたあし)をさしのべて、みんなそばに寄(よ)るように合図をした。
 白犬のすることをじっと見つめていた二ひきの犬は、すぐに立ち上がって、おたがいに前足を取り合って、交際社会(社交界)の人たちがするように厳(おごそ)かに六歩前へ進み、また三足あとへもどつて、代わりばんこにご臨席(りんせき)の貴賓諸君(きひんしょくん)に向かっておじぎをした。
 そのときヴィタリス親方が言った。
「この犬の名をカピと言うのは、イタリア語のカピターノをつめたので、犬の中の頭(かしら)ということです。いちばんかしこくって、わたしの命令(めいれい)を代わってほかのものに伝(つた)えます。その黒いむく毛の若(わか)いハイカラさんは、ゼルビノ侯(こう)ですが、これは優美(ゆうび)という意味で、よく様子をご覧(らん)なさい、いかにもその名前のとおりだ。さてあのおしとやかなふうをした歌い雌犬(めすいぬ)はドルス夫人(ふじん)です。あの子はイギリス種(だね)で、名前はあの子の優(やさ)しい気だてにちなんだものだ。こういうりっぱな芸人(げいにん)ぞろいで、わたしは国じゅうを流して回ってくらしを立てている。いいこともあれば悪いこともある、まあ何事もそのときどきの回り合わせさ。おおカピ……」
 カピと呼(よ)ばれた犬は前足を十文字に組んだ。
「カピ、あなた、ここへ来て、ぎょうぎのいいところをお目にかけてください。わたしはこの貴人(きじん)たちにいつもていねいなことばを使っています――さあ、この玉のような丸(まる)い目をしてあなたを見てござる小さいお子さんに、いまは何時だか教えてあげてください」
 カピは前足をほどいて、主人のそばへ行って、ひつじの毛皮服のふところを開け、そのかくしを探(さぐ)って大きな銀時計を取り出した。かれはしばらく時計をながめて、それから二声しっかり高く、ワンワンとほえた。それから、今度は三つ小声でちょいとほえた。時間は二時四十五分であった。
「はいはい、よくできました」とヴィタリスは言った。「ありがとうございます、カピさん。それで今度は、ドルス夫人(ふじん)になわとびおどりをお願いしてもらいましょうか」
 カピはまた主人のかくしを探(さぐ)って一本のつなを出し、軽くゼルビノに合図をすると、ゼルビノはすぐにかれの真向(まむ)かいに座(ざ)をしめた。カピがなわのはしをほうってやると、二ひきの犬はひどくまじめくさって、それを回し始めた。
 つなの運動が規則(きそく)正しくなったとき、ドルスは輪(わ)の中にとびこんで、優(やさ)しい目で主人を見ながら軽快(けいかい)にとんだ。
「このとおりずいぶんりこうです」と老人(ろうじん)は言った。「それも比(くら)べるものができるとなおさらりこうが目立って見える。たとえばここにあれらと仲間(なかま)になって、ばかの役を務(つと)める者があれば、いっそうそれらの値打(ねう)ちがわかるのだ。そこでわたしはおまえさんのこの子どもが欲(ほ)しいというのだ。あの子にばかの役を務めてもらって、いよいよ犬たちのりこうを目立たせるようにするのだ」
「へえ、この子がばかを務(つと)めるのかね」とバルブレンが口を入れた。
 老人(ろうじん)は言った。「ばかの役を務めるには、それだけりこうな人間が入りようなのだ。この子なら少ししこめばやってのけよう。さっそく試(ため)してみることにします。この子がじゅうぶんりこうな子なら、わたしといっしょにいればこの国ばかりか、ほかの国ぐにまで見て歩けることがわかるはずだ。だがこのままこの村にいたのでは、せいぜい朝から晩(ばん)まで同じ牧場(ぼくじょう)で牛やひつじの番人をするだけだ。この子がわからない子だったら、泣(な)いてじだんだをふむだろう。そうすればわたしは連(つ)れては行かない。それで孤児院(こじいん)に送られて、ひどく働(はたら)かされて、ろくろく食べる物も食べられないだろう」
 わたしも、そのくらいのことがわかるだけにはかしこかった。それにこの親方のお弟子(でし)たちはとぼけていてなかなかおもしろい。
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