家なき子 (作品データ)
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タイトルデータ
・作品名
  家なき子
・作品名読み
  いえなきこ
・原題
  SANS FAMILLE
・副題
  01 (上)
・副題読み
  01 (じょう)
・著者名
  マロ エクトール・アンリ 

作品データ
・作品について
  原作は1878(明治11)年エクトル・アンリ・マロが書いた "Sans Famille"。発売から一年ほどの間に十七回も版を刷られ、欧米各国でも翻訳されて、広く読まれた本である。フランスの地理を描き、また社会・人生の様々な面を描き出したこの作品は、長くフランスで学校の教科書としても使われたという。日本で最初に紹介されたのは1903(明治36)年のことで、読売新聞記者の五来素川が「未だ見ぬ親」と題し、翻案として警醒社書店から出版した。この本は小学生であった宮沢賢治が教師に読み聞かされ、感銘を受けたという点でも有名である。その後、1911(明治44)年には「大阪毎日新聞」で菊池幽芳が「家なき児」という題名で訳出、以後、この題が定着する。翌年には春陽堂から単行本として出され、うまく整理された翻案は、新聞小説・家庭小説の流行も相まって好評を博した。大正時代に入り、翻案ではない形で出版される海外文芸が多くなる中、"Sans Famille" も1914(大正3)年、教育学者・野口援太郎による訳「教育小説サンフアミーユ」(目黒書店)が出され、続いて1924(大正13)年に武藤直治訳「みなしご」(誠文堂)、1928(昭和3)年、小学生全集のひとつとして菊池寛のずいぶんコンパクトにまとめた「家なき子」が出る。そういった流れの中で、この楠山版「家なき子」のもととなった「家の無い児」が1921(大正10)年に家庭読物刊行会から、おそらく同内容の「少年ルミと母親」が1931(昭和6)年、冨山房模範家庭文庫の一冊として出版された。この「少年ルミと母親」は当時刊行された際、外箱に「全訳」と表記されたり、あるいは日本語で初めての完訳本と紹介されたりしたため、今でも「原作を忠実になぞった初めての翻訳本」などと言われることもあるが、それは間違いである。実際には前述のように翻案ではない翻訳は数冊出ているし、また原典を半分ほどに刈り込んだ抄訳であることは、翌年春陽堂少年文庫に再録されたときの「はじめに」の中で訳者本人が述べている。この楠山訳のあと、鈴木三重吉が「赤い鳥」に「ルミイ」という題で連載し、日本で初めての完訳を目指したが第二部を少し進んだところで絶筆となってしまう。日本における完訳の登場は、1939(昭和14)年、津田穣訳「サン・ファミーユ――家なき児」(岩波文庫)を待たねばならなかった。この楠山正雄訳の「家なき子」は、筋やセリフ・地の文などほぼ原文通りに進んでいくが、一字一句洩らさず訳されたというものではなく、いくつかの会話やいくつかのエピソードが削られている。そのため、つじつまを合わせようと楠山自身の創作による部分がちらほらと見られる。いくぶん消化不良のところを残すものの、全体としての完成度は高い。また、楠山が児童文学の道へ乗り出すことになった、そして大正期に児童文芸が盛んになっていくことになった、きっかけのひとつともなる一冊である。(大久保ゆう)「家なき子
・仮名遣い種別
  新字新仮名
・備考
  この作品には、今日からみれば、不適切と受け取られる可能性のある表現がみられます。その旨をここに記載した上で、そのままの形で作品を公開します。(青空文庫)

作家データ
・分類
  著者
・作家名
  マロ エクトール・アンリ
・作家名読み
  マロ エクトール・アンリ
・ローマ字表記
  Malot, Hector Henri
・生年
  1830-05-20
・没年
  1907-07-17
・人物について
  フランス、ノルマンディー地方ラ・ブイユ生まれ。話上手な母親の子に生まれ、昔話や海外の珍しい話をよく聞かされながら育つ。中学生のときには読書に熱中し、友人と雑誌を作るほどだった。治安判事である父の仕事を手伝ううち、庶民の生活や心に触れ、文学を志すようになり、1858年に出した処女作「恋人たち」が好評をもって迎えられる。元来子ども好きだったマロは子どものための本を書くようになり、「家なき子」の執筆も始めるが、普仏戦争やパリ・コミューンに巻き込まれ、原稿は散逸してしまう。しかし再度書き上げ、出版された本はベストセラーになった。他の代表作は「家なき娘(少女)」など。(大久保ゆう)「エクトール・アンリ・マロ
・分類
  翻訳者
・作家名
  楠山 正雄
・作家名読み
  くすやま まさお
・ローマ字表記
  Kusuyama, Masao
・生年
  1884-11-04
・没年
  1950-11-26
・人物について
  東京銀座生まれ。家は印刷業を営んでいたが、父が急逝し、また母の再婚がうまく行かず、家業は没落してしまう。そのため親戚を転々とし、多難な少年時代を送った。だが芝居好きの祖母や、学問熱心な伯父、また早稲田大学時代に師事した坪内逍遙や島村抱月など、周囲の人に恵まれ、彼の基礎がはぐくまれていった。大学卒業後の1907(明治40)年早稲田文学社に入り、編集者としてのキャリアを始める。そして読売新聞社を経て、1910(明治43)年冨山房に入社、そこで「新日本」の編集主任として励むかたわら、一方で逍遙の「文芸協会」に参加し、評論あるいは翻訳劇脚本家として活躍する。文芸協会解散後も抱月の芸術座に続いて参加し、しばらく編集者と演劇人の二足のわらじを履いていたが、1915(大正4)年冨山房社長の命を受け、「模範家庭文庫」の担当となる。親交のあった岡本帰一にヴィジュアル面を託し、他人の原稿を編集するうち、児童文芸への意識が高まっていく。やがて自らも文庫の執筆に手を出し、また児童向けの創作や翻訳も意欲的に行った。ちょうどその頃、抱月の死によって芸術座は崩壊し、その騒動に巻き込まれ、事態の収拾に奔走するうち、しぜん演劇界から足が遠のいていったこともそれに拍車をかけることになったのだろう。語ること・魅せること・まとめることを意識した正雄の仕事は一種の創造的編集ともいえ、この時期に成した「世界童話宝玉集」(1919

底本データ
・底本
  家なき子(上)
・出版社
  春陽堂少年少女文庫、春陽堂
・初版発行日
  1978(昭和53)年1月30日
・入力に使用
  1978(昭和53)年1月30日

工作員データ
・入力
  京都大学電子テクスト研究会入力班
・校正
  京都大学電子テクスト研究会校正班


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