小公女
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著者名:バーネットフランシス・ホジソン・エリザ 

     はしがき(父兄へ)

 この『小公女』という物語は、『小公子』を書いた米国のバァネット女史が、その『小公子』の姉妹篇として書いたもので、少年少女読物としては、世界有数のものであります。
『小公子』は、貧乏な少年が、一躍イギリスの貴族の子になるのにひきかえて、この『小公女』は、金持の少女が、ふいに無一物の孤児(みなしご)になることを書いています。しかし、強い正しい心を持っている少年少女は、どんな境遇にいても、敢然(かんぜん)としてその正しさを枉(ま)げない、ということを、バァネット女史は両面から書いて見せたに過ぎないのです。
『小公子』を読んで、何物かを感得された皆さんは、この『小公女』を読んで、また別な何物かを得られる事と信じます。

   昭和二年十二月菊池 寛[#改丁]

      一 印度(いんど)からロンドンへ

 ある陰気な冬の日のことでした。ロンドンの市中は、非常な霧のために、街筋(まちすじ)には街燈が点り、商店の飾窓(かざりまど)は瓦斯(ガス)の光に輝いて、まるで夜が来たかと思われるようでした。その中を、風変りなどこか変った様子の少女が、父親と一緒に辻馬車に乗って、さして急ぐともなく、揺られて行きました。父の腕に抱かれた少女は、脚を縮めて坐り、窓越しに往来の人々を眺めていました。
 セエラ・クルウはまだやっと七歳なのに、十二にしてもませすぎた眼付をしていました。彼女は年中大人の世界のことを空想してばかりいましたので、自然顔付もませてきたのでしょう。彼女自身も、もう永い永い生涯を生きて来たような気持でいました。
 セエラは今、父のクルウ大尉と一緒に、ボムベイからロンドンに着いたばかりのところなのです。あの暑い印度のこと、大きな船のこと、甲板(かんぱん)のこと、船の上で知り合いになった小母(おば)さん達のことなど思い起しますと、今この霧の町を妙な馬車で通っていることさえ、不思議に思われてなりませんでした。セエラは父の方にぴたりと身を寄せて、
「お父様。」と囀(ささや)きました。
「何だえ、嬢や?」クルウ大尉はセエラをひしと抱きしめて、娘の顔を覗きこみました。「何を考えているの?」
「ねえ、これがあそこなの?」
「うむ、そうだよ。とうとう来たのだよ。」
 セエラはほんの七歳でしたが、そういった時の父が、悲しい思い出に打たれていることを悟りました。
 父がセエラの口癖の「あそこ」のことを話し出したのは、ずっと前のことでした。母はセエラの生れた時亡くなってしまいましたので、セエラは母のことは何も知らず、したがって恋しいとも思いませんでした。若くて、風采(ふうさい)の立派な、情愛の深い父こそは、セエラにとってたった一人の肉親でした。父子(ふたり)はいつも一緒に遊び、お互にまたなきものと思っていました。セエラは皆が彼女に聞えないつもりで話しているのを耳にして、父は裕福なのだと知りました。それで、彼女も大きくなれば裕福になるのだと知りました。裕福とはどんなことか、それはセエラには解りませんでした。が、セエラは美しい平屋建(バンガロー)に住んでいましたし、召使はたくさんいましたし、何でもセエラの自由にならないものはありませんので、こんなのが裕福というのかなと彼女は思っていました。
 七歳(ななつ)になるまでの間にセエラの気がかりになっていたことは、いつか伴(つ)れて行かれる「あそこ」のことだけでありました。印度の気候は子供達の体によくなかったので、印度で生れた子供達は出来るだけ早く英国へ送られ、英国の学校に入れられるのでした。セエラはよその子供達が英国へ帰って行くのを見たり、親達が子供から受けとった手紙の話をしているのを、聞いたりしました。で、セエラもいつかは印度を去ることになるのだろうと思っていました。父が時々してくれる航海の話、新しいお国の話には惹きつけられないでもありませんでした。が、あそこに行けば、父と一緒にいることが出来ないのだと思うと、セエラの胸は痛むのでした。
「パパさんは、あそこへ一緒に行って下さらないの?」そう尋ねたのは五歳(いつつ)の時でした。
「一緒に学校へいらっしゃらない? 私、お父さんのおさらいしてあげてよ。」
「でもセエラや、別れているのはそんなに永いことじゃァないのだよ。それにお前は、小さいお嬢さんのたくさんいる素敵なお家(うち)へ行くのだよ。そして、みんなと遊ぶのだよ。お父さんはたくさん御本を送って上げる、お前はどしどし大きくなって、一年も経つかたたないうちにすっかり大人になって、利口になって帰ってくる。そうして、お[#「、お」は底本では「お、」]父さんの世話をしてくれる――。」
 その時のことを考えると、セエラはうれしくなりました。父のために家の中を片付けたり、父と一緒に馬に乗ったり、父が宴会を催す時には食卓の上座(しょうざ)に坐ったり、父の話相手になったり、父に本を読んであげたり、――そんなことを覚えるためだったら、よろこんで英国へ行こう、とセエラは思いました。セエラは学校でお友達がたくさん出来ることなどは、うれしいとも思いませんでしたが、御本をたくさん送ってもらえるのは、うれしいに違いありませんでした。セエラは本が何より好きでした。本さえあれば寂しいとも思いませんでした。それにセエラは、美しい物語を自分で作って、自分で語り聞かせるのが好きでした。時には、それを父に話して聞かせることもありました。父もセエラ同様、その物語を喜んで聞きました。
「ねえ、お父様。」セエラは馬車の中でそっといい出しました。「もうここに来たのなら、諦めなければならないわねエ。」
 父はセエラがあまりませたことをいうので、笑って、そして彼女に接吻(キス)しました。父はその実ちっとも諦めてはいなかったのでしたが、セエラにそうと知らしてはならないと思いました。妙におどけた小さいセエラは、父にとってこそ、なくてはならぬ伴侶(みちづれ)だったのです。印度の家へ帰っても、セエラがあの白い上衣(うわぎ)を着て迎えに出て来ないのだとしたら、どんなに寂しいだろう、とクルウ大尉は思わずにはいられませんでした。父は娘をしかと抱き寄せました。馬車はその時陰気な街筋へがらがらと入って行きました。そこに二人の目ざす家があったのでした。
 その街並は、皆大きな陰鬱(いんうつ)な煉瓦建(れんがだて)でした。その一つの家の、正面の扉の上に、真鍮(しんちゅう)の名札が輝いていました。そこに黒でこう彫ってありました。

     ミス・ミンチン女子模範学校

「さあここだよ、セエラ。」とクルウ大尉は出来るだけ機嫌よさそうにいって、セエラを馬車から抱き下ろしました。セエラはあとになってよく思い合せたことでしたが、この家はどことなくミンチン先生にそっくりでした。かなりきちんとしていて、造作(ぞうさく)などもよく出来てはいましたが、家にあるものは何もかもぶざまでした。椅子(いす)も、絨氈(じゅうたん)の模様も、真四角で、柱時計まできびしい顔つきをしていました。
「あたし、何だかいやになったわ。」とセエラは父にいいました。「兵隊さんだって、いざとなったら、ほんとうは戦争に行くのが、いやになりはしないだろうかしら。」
 その妙ないいかたを聞くと、クルウ大尉はからからと笑い出しました。
「ほんとに、セエラ! お前のように真面目に物をいってくれるものがなくなると、わたしも困るね。」
「じゃア、なぜ真面目なことをお笑いになるの?」
「だって、お前が真顔でいうと、それがまた莫迦(ばか)に面白く聞えるからさ。」
 そこへ、ミンチン先生が入ってきました。ミス・ミンチンは魚のような冷(つめた)い大きな眼をして、魚のような微笑みかたをしました。先生はこの学校をクルウ大尉に推薦したメレディス夫人の口から、クルウ大尉が金持で、わけてもセエラのためなら何万金も惜しまないということを聞いていました。先生にとっては願ってもない話だったのです。
「こんなお綺麗(きれい)なお子さんをおひきうけ申しますのは、ほんとうに嬉しゅうございます。メレディス夫人のお話では、大変御利発なそうで――」
 セエラはミス・ミンチンの顔を見つめたまま、静かに立っていました。
「私はやせっぽちで、毛は黒くて短いし、眼は緑色だし、ちっとも綺麗なんかじゃないのに、あの方は嘘(うそ)ばっかしいっている。」とセエラは思いました。後々セエラは、ミンチン先生がどの子供の親にでも[#「親にでも」は底本では「で親にも」]同じようなお世辞をいうのを知りました。そうはいっても、セエラは自分が思っているほど醜い子では決してありませんでした。ほっそりして、しとやかな身体つきで、人好きのする顔立をしていました。黒い髪も、緑色の眼も、見る眼には見事に映るくらいだったのです。
 セエラは寄宿生は寄宿生でも、普通の生徒と違って、特別に美しい寝室と居間とをあてがわれることになりました。それから、子馬を一頭と、馬車を一台と、乳母代りの女中一人とがあてがわれるはずでした。
「この子の教育については、少しも心配はありませんが。」と、父はセエラの手を撫でながら、愉快そうに笑っていいました。「ただ、あまり勉強をさせすぎないようにして頂きたいと思います。今まででさえ、この子は鼻の先を本の中に埋(うず)めるようにして坐っているのですからねエ。読むんじゃアないのですよ、ミス・ミンチン。狼の子みたいに、本を貪り食っちまうんですからね。それに、大人の本を欲しがっているんですから。歴史であれ、伝記であれ、詩であれ――それに、フランスやドイツのものまで。ですから、なるべく本から引離して、小馬に乗せたり、町へ人形を買いに伴れてってやったりして下さい。」
「でもお父様、町へ出るたびにお人形を買ってたら、とても仲よしになりきれないほどの数になってしまうでしょう。エミリイちゃんは、私の親友になるはずですけど。」
「エミリイさんて、どなた?」とミス・ミンチンが訊(たず)ねました。
「お話しておあげ、セエラ。」
 父にいわれると、セエラは大変気高く、物優しい眼になって、話し出しました。
「エミリイちゃんは、まだ買ってないけど、お父様が私に買って下さるはずのお人形ですの。お父様がいらっしゃらなくなったら、私エミリイちゃんとお父様のことをいろいろお噂するつもり。」
「まア、何て御利発な――」
「ええ。」と父はセエラをひきよせて、「この子はまったく可愛い子です。どうか私に代って、よく面倒をみてやって下さい。」とミス・ミンチンにいいました。
 それから五六日、セエラは父とホテルに滞在しました。二人は毎日町へ出ては、夥(おびただ)しい買物をしました。高価な毛皮で縁どった天鵞絨(びろうど)の服や、レエスの着物や、刺繍のある衣服や、駝鳥(だちょう)の羽根で飾った帽子――貂(てん)の皮の外套(がいとう)、それから小さな手袋、手巾(ハンケチ)、絹の靴下――帳場の後方(うしろ)に坐っていた婦人達は、あまり贅沢な買物をするので、セエラはどこかの姫宮(プリンセス)じゃアないかと囁(ささや)き合ったくらいでした。
「私は、あの子を生きているように見せたいの。でも、お人形ってものは、何だかいくらお話しても聞いてないような顔しているから、私気になってしょうがないの。」
 二人は方々の人形屋に馬車を走らせ、黒眼の人形、青眼の人形、茶色の髪の人形、金色の髪を編んだ人形、衣裳をつけた人形、裸人形などいちいち覗いて歩きましたが、どれもセエラの『エミリイ』ではありませんでした。失望を重ねたあげく、二人は馬車を降りて、軒並に陳列窓を覗いて歩くことにしました。二三の店を通りすぎて、とある小さな店の前に来かかった時でした。セエラは突然飛び上って、父の腕にひしと縋(すが)りつきました。
「あそこに、エミリイちゃんが!」
 セエラの顔にはさっと紅(べに)が刷(は)かれました。青鼠色(あおねずみいろ)の眼には、たった今、大好きなお友達を認めたというような表情が浮びました。
「あの子は、ほんとうに私を待ってるのよ。さ、あの子の所へ行きましょう。」
「おやおや、誰かに紹介してもらわないでもいいのかね。」
「お父様が私を紹介して下さるの。そしたら、私もお父様を紹介してあげるわ。でも、私はあの子を見た時すぐわかったんですもの、あの子だってきっと私を知っててよ。」
 エミリイもきっとセエラだとわかっていたのでしょう。セエラが抱きかかえると、エミリイはほんとうに利口そうな眼つきをしていました。大きな人形でしたが、大きすぎて持ち運びが出来ぬというほどではありませんでした。癖のない金色の巻毛が、マントのようにふさふさと垂れ、眼は深い、澄みきった藍鼠色(あいねずみいろ)でした。そして、そのふちには、ほんものの睫(まつげ)が生えていました。
 二人は、エミリイを子供衣裳屋(こどもいしょうや)に伴れて行き、セエラの通りに立派な衣裳を整えました。
「私は、誰がみてもこの子はいいお母様を持っていると思うようにしておきたいの。私はこの子のお友達で、そしてお母さんなのよ。」
 父はセエラと一緒にこの買物をよろこびました。が、この可愛い、愛嬌のある娘から、じきに別れなければならないのを想い出すと、たまらなく悲しくなりました。
 クルウ大尉は、真夜中に自分の床を出て、立ってセエラを見下ろしていました。セエラはエミリイを抱いて眠っていました。乱れた黒い髪が枕の上で、エミリイの金髪と縺(もつ)れ合っていました。二人ともレエスの襞(ひだ)をとった寝衣(ねまき)を着、二人とも長い、先のそり上った睫を頬(ほお)の上に落していました。エミリイは真実生きた子供のようでした。
 翌日、大尉はセエラをミス・ミンチンのもとに連れて行きました。彼は次の日印度へ立つことになっていましたので、先生にいろいろ後の事を頼みました。彼は一週に二度セエラに手紙を書くことを約束しました。それから、セエラの望みなら何でも叶えてやってくれといいました。
「この子は感じやすい子でして、自分でこれと思ったもの以外には、何も欲しがらないのですよ。」
 それから、彼はセエラと一緒に彼女の小さな部屋に行き、お互にさよならをいい合いました。セエラは父の膝(ひざ)に乗り、上衣の折返しの所を小さな手で握って、永いことじっと父の顔を見つめていました。父はセエラの髪を撫でて、
「私の顔をそらで覚えこむつもりなのかい? セエラ。」といいました。
「いいえ、私ちゃんともうそらで知ってるわ。お父様は私の胸の内側にいらっしゃるのよ。」
 二人は抱き合って、もう離さないというような接吻(キス)をしました。
 辻馬車が戸口から駈け出すと、セエラはエミリイと一緒に二階の部屋の床の上に坐り、顎(あご)を両手の上にのせて、馬車が角を曲るまで、窓から見送っていました。
 ミンチン先生が心配して、妹のアメリア嬢を見にやると、扉には中から錠がおりていました。セエラは中から、
「あたし、一人で静かにしていとうございますから。」と、慎ましい小声でいいました。
 アメリア嬢は肥(ふと)っちょの背の低い婦人で、姉をひどく怖がっていました。彼女はセエラのしうちに吃驚(びっくり)して、階下(した)に降りて行きました。
「お姉さん、ませた変な子ね。あの子はまア、錠をかけて閉じこもっているのですよ。ことりとも音をさせずに。」
「他の子のように、暴れたり、泣いたりするより、その方がましさ。あんなに甘やかされているから、家中がひっくりかえるような騒ぎをするかと、私は思っていたんだよ。」
「あの子のトランクには大変なものが入っていますのね。黒貂皮(セエブル)や、貂皮(アアミン)を縫いつけた上衣や、それに下着には本場のレエスがついているのですよ。」
「まったく莫迦げてるね。でも、教会へ行く時、あれを生徒の先頭にすると立派でいい。」
 二階ではまだセエラとエミリイとが、馬車の消えて行く町角を見つめていました。馬車の中のクルウ大尉も、ふり返っては手を振り、もうたまらなくなったというように振った自分の手を接吻(キス)していました。

      二 フランス語の課業

 次の朝、セエラが教室へ入って行きますと、生徒は皆眼を見張って、物珍しそうに彼女を見つめました。生徒達はもうセエラのことをいろいろ聞いて知っていました。前の晩到着したセエラ附(つき)の女中、フランス人のマリエットをちらと見たものさえありました。すっかり大人顔をしているラヴィニア・ハアバアトなどは、開きかけた扉(ドア)の間から、マリエットがどこかの店から着いた箱を開けているのを見たくらいでした。
「レエスの縁飾(フリル)[#ルビの「フリル」は底本では「フルリ」]のついた下袴(ペティコート)で一杯だってよ。」ラヴィニアは身をこごめて地理の本の上から、ジェッシイに囁(ささや)きました。「あの方、今もあの下袴(ペティコート)を着けてるのよ。腰をかける時ちょっと見えたわ。」
「まあ、あの方の靴下絹ね。」ジェッシイも地理書越しに小声でいいました。「それに、可愛い足ね。」
「でも、足なんて靴次第で小さく見えるものよ。それにあの方、ちっとも綺麗じゃアないのね。眼だって変な色だわ。」
「綺麗さがちょっと違うのよ。なんだか振り返って見たくなるような顔よ。そして睫の長いこと!」
 セエラは静かにミス・ミンチンの机のそばの、自分の席につきました。セエラは皆に見られても別に羞らう様子もありませんでした。かえって、自分を見つめている子供達が珍しいので、静かに皆の方を見返すのでした。皆は何を考えているのかしら? 皆はミンチン先生が好きなのかしら? めいめいの課業に精を出しているのかしら? みんな私のパパさんみたいなパパさんを持っているのかしら? などと思ってもみました。セエラはその朝、エミリイと永いこと父の噂をして来たのでした。
「エミリイ、お父様は今頃もうお船の上よ。仲よくして何でも話し合いましょうね。私の顔をごらんなさい。まアお前は、何て綺麗なお眼々をしているんでしょう。ほんとに、お前お口がきけたらいいのにね。」
 セエラは空想や気まぐれな考えを一杯持っていました。エミリイを生きたものと考えて、そこに限りないよろこびを感じるのも、その空想の一つでした。セエラは女中に紺の学校服を着せてもらい、同じ色のリボンを結んでもらってから、椅子の上のエミリイに本を一冊持って行ってやりました。
「私が教室へ行っている間、それを読んでらっしゃい。」
 女中のマリエットが怪訝(けげん)そうな顔をしたので、セエラは真面目くさっていいました。
「私達にはわからないけど、お人形には読んだり、歩いたり、いろんなことが出来るんじゃアないかと、あたし思うのよ。ただそれは誰もいない時だけなの。なぜって、お人形にも何でも出来るとわかれば、お仕事やなんかをおしつけるようになるでしょう。だからきっと、お人形さん達の間には、何にも出来ないような顔をしていようというお約束があるのよ。マリエットが見ているうちは、そこにじっとしているけど、外へ出かけでもすると、きっと本を読んだり、窓の外を見に行ったりするのよ。そして、私達の足音が聞えるや否や、その椅子の中に飛び帰って、さっきからそこに坐っていたような顔してすましているのよ。」
 マリエットは、「おかしなお嬢さん。」とひとりごとをいいました。彼女はこの風変りな御主人がすっかり好きになりかけていました。彼女はこれまでに、セエラ程たしなみのいい子の世話をしたことはありませんでした。セエラはやさしくて、わかりよい口のきき方をしました。「どうぞ、マリエット」とか、「ありがとうよ、マリエット」とか、ひどく人を惹きつけるようにいうのでした。マリエットは階下(した)に降りると、早速女中頭にセエラの話をしました。お嬢様はまるで貴婦人に対するように丁寧に私に頭をおさげになる、と自慢しました。そしてから、こういいました。
「あの小さい方は、まるで宮様(プリンセス)ですわ。」
 セエラが教室に入って二三分間もした頃、ミンチン先生はおごそかに立って、自分の机をとんと叩きました。
「皆さん! 今日は、皆さんに新しいお友達をご紹介したいと思います。」少女達はめいめいの席から立ち上りました。セエラも立ち上がりました。「皆さん! クルウさんと仲よくして下さいますね。クルウさんは大変遠いところから――ええ、印度からお着きになったばかりなのです。課業がすんだら、お互にお近づきにならなければなりませんよ。」
 少女達は改まって目礼しました。セエラはちょっと袴(はかま)をつまんで礼を返しました。それから、皆腰を下して、またまじまじと見つめあうのでした。
「セエラさん、ここへお出でなさい。」
 ミンチン先生は机から本を取りあげ、ページをめくっていました。セエラは行儀よく先生のところへ出て行きました。
「お父さんが、あなたにフランス人の女中を傭(やと)って下すったのは、あなたにフランス語の勉強を特にさせたいお考えからだと思いますが。」
 セエラは少しもじもじしました。
「あの、お父様があの方を傭って下すったのは――あの、お父様が、私あの方が好きとお考えだったからでしょう。ミンチン先生。」
「どうも、あなたは‥‥」とミンチン先生は少し意地の悪い薄笑いを浮べました。「大変甘やかされていたとみえて、何でも好きだから人がして下さると考えているようですね。私の考えでは、お父様はあなたにフランス語を勉強させたいのだと思いますがね。」
 セエラはただ黙って頬を紅らめました。かたくなな先生は、セエラなどはフランス語を何一つ知っているはずがないと思いこんでいるらしいのでした。が、実はセエラは、フランス語を知らない時はなかったようなものでした。セエラの母はフランス人でした。父は母の国の言葉が好きでしたので、母がセエラを生んで亡くなってしまった後も、よく赤ん坊のセエラにフランス語で話しかけたものでした。で、セエラも自然幼い時からフランス語は聞きなれていたのでした。が、ミンチン先生にそういわれると、先生の思い違いを矯(ただ)すのは失礼なように思えて、申し開きも思うようには出来ないのでした。
「私――私、ほんとにフランス語の勉強をしたことはないのですけど、でも――でも。」
 ミス・ミンチンの人知れぬ悩みの重なるものは、自分にフランス語の出来ないということでした。で、彼女はこの苦しい事実をなるべく匿(かく)し終(おお)そうとしていました。ですから先生は、セエラに何か問われて、ぼろを出してはならないと思ったのでした。
「それでよろしい。まだ習わないのなら、早速始めなければなりません。もうじきフランス語の先生のジフアジさんが見えるはずですから。見えるまでこの本を持って行って、下読をしてお置きなさい。」
 セエラは席へ戻って、第一ページを開いてみました。この場合、笑っては失礼だと思ったのですが、「ル・ペール」は「父」、「ラ・メール」は「母」などということを、今更教わらなければならないのかと思うと、どうしてもおかしくなるのでした。
 ミンチン先生は、セエラの方をちらと探るような眼で見て、
「何をふくれているのです。セエラさん。」といいました。
「フランス語を勉強するのが、いやなのですか?」
「私、大すきなのです。でも――」
「何か物をいいつけられた時、『でも』などというものではありません。さ、御本を見るのですよ。」
 セエラは本を見ました。「ル・フィス」は「むすこ」、「ル・フレエル」は「兄弟」。わかりきったことでしたが、セエラはおかしさを耐(こら)えつづけました。セエラは心の中で、
「ジュフアジ先生がいらしったら、わかって下さるでしょう。」と思っていました。
 ジュフラアジ先生はじき来られました。大変立派な、賢そうな中年のフランス人でした。彼は熟語読本に身を入れようとしているセエラのしとやかな姿に眼をとめますと、心を惹かれたような様子をしました。
「これが、私の方の新入生ですか?」と、彼はミンチン女史の方へ振り向きました。「うまく行けばいいですがね。」
「この子のお父さんは、大変フランス語を習わせがっているのですが、この子は何だか勉強したくなさそうなのです。」
「それはいけませんね、お嬢さん(マドモアゼール)。」彼は親切そうにいいました。
「一緒にお始めになりさえすれば、きっと面白くなりますよ。」
 セエラは辱められでもしたかのような気持で、立上りました。彼女は大きな青鼠色の眼で、ジュフラアジ氏の顔をじっと見ました。話しさえすれば、先生はわかって下さるのだと彼女は思いました。で、セエラは何の飾りけもなしに、美しい流暢なフランス語で話し出しました。女先生(マダム)にはもちろん何をいっているのだかわかりませんでした。が、セエラはこういったのでした。「先生(ムシュー)が教えて下さるのなら、何でもよろこんで勉強します。しかし、この本にあることはとうに知っているということを、女先生(マダム)に申し開きしたいのです。」
 ミンチン先生はセエラが語り出したのを聞くと、飛び立つばかりに驚いて、眼鏡越しに、何か忌々しそうに、セエラを見つめました。ジュフラアジ先生は微笑みはじめました。先生の微笑は非常に喜んでいるしるしでした。セエラの子供らしい美しい声が、自分の母国語をこうまで率直に、可愛らしく語るのを聞いていると、まるで故郷にでもいるような気がするのでした。暗い霧のロンドンにいると、いつもは故郷が世界のはてのように遠く思われるのでしたが。‥‥セエラが語り終えると、彼は情愛の深い顔付で、熟語読本を取り上げ、ミンチン女史にいいかけました。
「ねエ先生(マダム)、もう教えるほどのものはありませんよ。この子はフランス語を覚えたのじゃアない、この子自身がフランス語ですよ。アクセントなんぞ素敵なものだ。」
「なぜ、私にいわなかったのです。」ミンチン女史はひどく感情を害して、セエラに向き直るのでした。
「私――私、お話ししようと思ったのですけど、私、切り出しが拙(まず)かったんでしょう。」
 ミンチン女史にはセエラのいい出そうとしていたことが解っていました。またセエラがいい出し得なかったのは、ミンチン女史に恥をかかさないためだったということも解りました。けれども、女史は、生徒達がセエラの話を聞き、仏語文法書のかげで忍び笑いをしているのを見ると、急にむらむらして来ました。
「静かになさい、皆さん。」女史は机を叩いて、きびしい声を出しました。「静かになさいったら?」
 その時以来、女史はセエラに対して、いくらか敵意を感じたようでした。

      三 アアミンガアド

 その最初の朝、セエラは、室内の生徒全体が自分を熱心に見守っているのを感じながら、ミンチン女史のそばに坐った時、自分と同じ年頃の少女が一人、明るい、懶(ものう)げな青い眼でセエラをじっと見ているのにじき気が付きました。肥った、唇のつき出たその子は、あまり怜悧(りこう)そうではありませんでしたが、気質(きだて)は大変よさそうに見えました。亜麻色の髪をかたく結び、リボンをつけていました。ジュフラアジ氏がセエラに話しかけた時、その少女はちょっと怯えた眼をしました。が、セエラがいきなりフランス語で答えると、少女は吃驚(びっくり)して飛び上り、真紅(まっか)になりました。何週間も何週間も、仏語の「父(ペール)、母(メール)」さえ覚えられずに泣いていたところへ、ふいに自分の知らぬ単語まで造作なく動詞でつなぎ合せて話しているのを見ると、少女はたまらなくなったのでした。
 彼女は夢中で見つめながら、思わずリボンを噛んだので、ミンチン女史に見つかってしまいました。女史はちょうどむしゃくしゃしているところだったので、たちまち少女に喰ってかかりました。
「セント・ジョン! そのお行儀は何ですか。肱(ひじ)をお直しなさい。口からリボンをお出しなさい。すぐお立ちなさい!」
 セエラはそれを見ると、その子がひどく可哀そうになり、お友達にでもなってあげたいような気持になりました。他人(ひと)が悩んでいたり、不幸であったりすると、すぐその諍(いさか)いの中に飛びこんで行きたくなる性癖(くせ)のセエラでした。
「もしセエラが男の子で、二三百年前に生れていたら。」と、よくお父さんはいったものです。
「抜身(ぬきみ)をひっさげて、苦しんでいる人なら、誰でも助けたり庇(かば)ったりしながら、諸国を遍歴(へんれき)しただろうになア。この子は困っている人達を見ると、いつでも戦いたくなるのだから。」
 課業が終ると、セエラは肥った少女を探しに出ました。少女はしょんぼり窓の下の席に蹲(うずくま)っていました。セエラはこんな場合誰でもいうようなことを云っただけなのでしたが、セエラがいうと、それは何かしら情が籠(こも)っていて、気持よく聞えるのでした。
「お名前、何て仰(おっ)しゃるの?」
 肥った少女は吃驚(びっくり)しました。新入生は初め妙に近づきにくいものである上、セエラは前の晩から皆の間でいろいろ噂の出た新入生で、馬車や、小馬や、おつきの女中や、身のまわりのものから考えても、ちょっとよりつきにくい少女なのでした。
「私、アアミンガアド・セント・ジョンって名なのよ。」
「私はセエラ・クルウ。あなたのお名前、ほんとに綺麗ね。まるでお伽噺(とぎばなし)の名みたいに聞えるわ。」
「あなた、お好き?」とアアミンガアドは飛び上りそうになっていいました。「私――私はあなたの名前大好き。」
 セント・ジョンは、学者の父を持っているために、いつも苦しめられていました。父は七八ヶ国語に通じ、何千巻の蔵書を暗記しているというような人でした。ですから、父は娘が、簡単な歴史やフランス語ぐらい覚えるのがあたりまえだと思っているのでした。ところが、セント・ジョンは学校の中でも一番頭が悪いほどだったのです。
「こいつは、無理にも覚えさせるようにして下さらなければ駄目です。」と、父はミンチン女史に頼んだのでした。
 こういう訳で、アアミンガアドは、いつでも恥しめられたり、泣かされたりしていました。彼女は覚えたかと思うと、すぐ忘れてしまいました。覚えこんでも、何のことだか一向解らないという風でした。で、彼女は、セエラを感嘆の眼で見るより他ありませんでした。
「あなた、フランス語お上手なのね。」
 セエラは大きな、奥の深い窓際席(ウィンドウシイト)に坐り、両手で縮めた足の膝を抱いていました。
「自家(うち)でしょっちゅう聞いていたから話せるのよ。あなただって、聞きつければ、きっと話せるようになってよ。」
「まア、私なんか駄目よ。私、どうしても話せないの。」
「なアぜ?」
 アアミンガアドは頭を振りました。下髪(おさげ)がぶらぶら揺れました。
「あなたは、お利口なのね。」
 セエラは窓越しに暗い街を眺めやりました。濡れた鉄の欄干(らんかん)や、煤(すす)けた樹の枝などに、雀(すずめ)が飛びかいながら、囀(さえず)っていました。セエラはちょっとの間心の中(うち)で考えてみました。自分は何度となく「お利口だ」といわれたことがある。ほんとにそうなのかしら? ――もしそうだとしたら、全体どういう訳でお怜悧(りこう)なのだろう。――
「私、わからないわ。」
 セエラは相手の丸ぽちゃな、むっくりした顔の上に、悲しげな眼付を見ると、かすかに笑いながら話を変えました。
「あなた、エミリイちゃん御覧になって?」
「エミリイちゃんて、どなた?」
 アアミンガアドは、さっきのミンチン女史のように聞き返しました。
「私のお部屋に入らっしゃいな。見せてあげるわ。」
 二人は一緒に窓席(まどいす)から飛び降りて、二階へ上って行きました。
「ほんと?」客間を通り抜ける時、アアミンガアドは囁きました。「あなた一人の遊び部屋があるってほんと?」
「ええ。父様(とうさま)がミンチン先生にお願いして下すったの。だって――ねえ、私、おあそびする時、自分でお話をこしらえて、自分に話してきかすからなの。ひとに聞かれるのはいやでしょう? それに、人が聞いてると思うと、お話が駄目になってしまうんですもの。」
 その時二人は、もうセエラの部屋の前の廊下に来ていました。アアミンガアドはふと立ち止って眼をみはり、息を呑んで、
「お話を拵(こしら)えるんですって?」と喘(あえ)ぐようにいいました。「そんなこと、あなたに出来るの?――フランス語みたいに? ほんとに出来て?」
 セエラは驚いて、少女を見返しました。
「誰にだって出来るんじゃないの? あなたやってみたことないの?」
 セエラは何か前ぶれするように少女の手を握りました。
「そうっと扉(ドア)のところへ行きましょう。それからさっと戸をあけるわ。そうすれば、きっと捕まるから。」
 セエラは笑っていましたが、その眼には神秘な望みが動いていました。アアミンガアドは、なぜどうして何を捕えるのだか、さっぱりわかりませんでしたが、セエラの眼付にはすっかり魅せられてしまいました。何でもいい、きっと面白いことに違いない――アアミンガアドは胸を躍らせながら、爪先立ってセエラの後から戸口に近づきました。不意に扉(ドア)が開くと、小綺麗に片づいた静かな部屋が眼に入りました。炉には穏やかに火が燃えていました。椅子の上には見事な人形が、ちゃんと本を読んでいました。
「あら、もう席にかえっているわ。」とセエラが叫びました。「いつだってああなのよ。稲妻(いなずま)みたいに早いんですもの。」
 アアミンガアドは、セエラから人形へ、人形からセエラへ眼を移しました。
「あのお人形――歩けるの?」
「ええ。どうしても歩けるはずだと思うの。歩けると思ってるつもりなのよ。そう思うとほんとにそう見えるんですもの。あなた、いろんなことのつもりになってみたことある?」
「いいえ、ちっともないわ。私――ね、お話してちょうだいな。」
 エミリイは、少女が今まで見たこともない見事な人形でしたが、少女はセエラにすっかり魅せられてしまったので、風変りなこの新しいお友達の方へ眼を向けました。
「まア、腰をかけましょうよ。」セエラはいいました。「お話を作るなんて、ほんとに造作もないことよ。そして、始めたらとても止められないの。エミリイ、あなたも聞いてなくちゃアいけないことよ。この方はアアミンガアド・セント・ジョンさんなの。アアミンガアドさん、こちらはエミリイと申します。あなた、抱いてやって下さいましな?」
「抱いてもいい? ほんとによくって? まア、綺麗だこと。」
 それから一時間は、セント・ジョンにとって、今まで考えたこともないような楽しい時間でした。午餐(おひる)の鈴(ベル)が鳴って、食堂に降りて行くのもしぶしぶなくらいでした。
 その一時間の間、セエラは炉の前に身をちぢめて坐り、様々の不思議な話をしました。緑色の目は輝き、頬には紅がさしてきました。航海の話、印度の話――しかし、アアミンガアドを一番恍惚(うっとり)させたのは、お人形についてのセエラの空想でした。お人形が皆のいない間に歩いたり、物をいったりする事、だがそれを秘(かく)す必要から、人の気配がすると、「稲妻のように」自分の席に飛び戻るのだという事などでした。
「私達には真似も出来ないわねエ。まア、魔術(てじな)みたいなものね。」
 一度セエラがエミリイを探し廻った話をした時、ふいにセエラの顔色が変りました。暗い雲が面(おもて)をよぎり、眼に充(み)ちた輝きを消してしまったように思われました。セエラは激しく息を吸いこんだので、声も妙に悲しく、低くなりました。それから口を閉じ、何かをしようか、しまいか、どっちにしようかと思いまどうように、きりりと脣(くちびる)を引きしぼりました。アアミンガアドは、たいていの子なら声をあげて泣き出すところだが、と思いました。セエラは、しかし、泣きませんでした。
「あなた、どこかお痛いの?」
「ええ。」セエラはちょっと黙って、それからいいました。「でも、体が痛いのじゃアないのよ。」それから何事かをしっかり言おうとして、つい小声になりました。「あなただって、世の中の何よりも、お父様がお好きでしょう。」
 アアミンガアドは微かに口を開けたままでした。彼女は父を愛し得るなどと思ったことは、一度もありませんでした。のみならず、ほんの十分間でも父と二人きり向き合っていることを避けるためには、どんなすてばちな事でもしかねない彼女でした。が、そんなことを口に出すのは、模範学校の生徒らしくないと思いました。で、彼女はひどく当惑して、
「私――私めったにお父様と会うことなんかないのよ。」といいました。「お父様は年中お書斎にいらしって――何か読んでばかりいらっしゃるんですもの。」
「私は世界を十倍したよりかも、お父様の方が好き。だから、私悲しいのよ。お父様は、もう行ってしまいになったんですもの。」
 セエラは頭を静かに膝の上にのせ、しばらくは身動きもしませんでした。アアミンガアドは、セエラが今にも泣き出すかと思いましたが、セエラはやはり泣きませんでした。彼女はやがて顔を上げずにいい出しました。
「私お父様に、悲しくても耐(こら)えるってお約束したの。まだ私もきっと耐え通すつもりよ。誰でも耐えなければならないのね。兵隊さんたちの我慢なんか大変なものだわ。私のお父様は軍人なのよ。戦争でもあると、お父様は喉(のど)のひりつくようなこともあるし、深傷(ふかで)を負うことだってないとはいえないでしょう。でも、お父様は一言だって、苦しいと仰しゃったことはないわ。」
 アアミンガアドは、セエラを見つめるばかりでした。この少女の胸には、セエラを憬(あこが)れる気持が湧き始めていました。
 ふと、セエラは顔を上げて、妙な微笑を見せながら、黒い髪を背後(うしろ)に振り上げました。
「でも、こうしてつもりになるお話なんかしていると、私いくらか楽なのよ。苦しいことは忘れられないにしても、いくらか耐えやすくなるでしょう。」
 アアミンガアドは我知らず喉がつまって、涙のこみ上げて来そうな気がしました。
「ラヴィニアとジェッシイは仲よしなのよ。私達も仲よしになれればいいと思うの。あなた、私のお友達になって下すって? あなたはお利口で、私は学校中で一番出来ないのですけど、私はあなたがほんとに好きなのよ。」
「私も嬉しいわ。好かれていると思うと、うれしいものね。ほんとうに、これからお友達になりましょうね。」不意にセエラの顔は輝き出しました。「あたし、あなたのフランス語のおさらいをしてあげましょうね。」

      四 ロッティ

 セエラが普通の子供だったら、次の十年間ミス・ミンチンの学校で送った生活は、ちっとも彼女のためにならなかったかもしれません。セエラは、生徒というよりは、大事なお客ででもあるように待遇されていました。ミンチン女史は、心ではセエラを嫌っていましたが、こんな金持の娘を失ってはならないという慾から、事ごとにセエラをほめそやして、学校生活をあかすまいとしました。セエラは幸い利発なよい頭脳(あたま)を持っていましたので、甘やかされてつけ上るような事はありませんでした。彼女は時々アアミンガアドにこんな事を打ちあけるようになりました。
「人はふとしたはずみで、いろいろになるものね。私はふとしたはずみから、あんないいお父様の子に生れたのね。ほんとうは私、ちっともいい気質(きだて)じゃアないのでしょうけど、お父様は何でも下さるし、皆さんは親切にして下さるんですもの、気質がよくなるより他ないじゃアありませんか。私がほんとうによい子なのか、いやな子なのか、どうしたらわかるでしょうね。きっと私は身ぶるいの出るほどいやな子なのよ。でも、私は一度もひどい目にあわなかったものだから、どなたも私のわるい所がわからないのだわね。」
「ラヴィニアだって、ひどい目になんかあわないけど‥‥」アアミンガアドはのろのろといいました。「でもあの人は、ほんとうにいやな人だわ。」
 セエラは小さな鼻先を擦って、何かを思い出そうとしました。
「きっとあの人は、大人になりかけているからなのよ。」
 いつかアメリア嬢が、ラヴィニアに、あまり育ち方が早いので、気質(きだて)まで変り出しているのだろう、といっていたことがありました。セエラはそれを思い出して、こう云ったのでした。
 ラヴィニアはまったく不快な娘でした。彼女は一方(ひとかた)ならずセエラを嫉んでいました。セエラが来るまでは、彼女こそこの学校の首領だと思っていました。彼女は他の生徒達がいうことをきかないと、意地悪く当り散らすので、皆怖がって、仕方なく彼女に従っていたのでした。ラヴィニアはどちらかというと綺麗な方で、生徒が二列に並んで散歩に出る時などには、中で一番よい着物を着ていたのでしたが、今はセエラの贅沢な衣裳に押されている形でした。天鵞絨の服や、貂皮(てんがわ)の手套(マッフ)を着けたセエラは、いつもミンチン女史と並んで先頭に歩かされることになりました。セエラは初めはそれがいやでなりませんでしたが、いつかセエラは、事実上皆の上に立つようになりました。それももちろん、ラヴィニアのように意地悪をするからではなく、かえって決して意地悪などしなかったために、皆から敬われるようになったのでした。
「でも、セエラ・クルウには一つこんな事があってよ。」と、ある時ジェッシイは正直にいったために、かえって仲よしのラヴィニアを怒らせたことがありました。「それは、セエラはちっとも偉がらないということなの。私がセエラなら、威張らずにはいられないけど。でも、ミンチン先生が、父兄にセエラを見せびらかすのを見ていると、胸がむかむかするわ。」
『さ、セエラさん、応接室へ行ってマスグレエヴの奥さんに印度のお話をして上げるのですよ。』ラヴィニアは、得意なミンチン女史の口真似を始めました。「『さ、セエラさん、ピトキン夫人にフランス語を聞かしてさし上げるのですよ。この子のアクセントは、それは確かなものでございますよ。』ですって、フランス語を学校で習ったわけでもないのにね。ただお父さんの喋ってるのを聞いてたから話せるというまでのことよ。それに、お父さんが印度の軍人だからって、ちっとも偉いことなんかありゃしないわ。」
「それはそうね。そのお父さんの殺した虎の皮が、セエラの部屋にあるのよ。セエラは毛皮の上に寝ては、頭の所を撫でたり、猫に話すように何かいいかけたりしているのよ。」
「あの子は、いつでも何かしら莫迦げた事をしているのね。」ラヴィニアは、声を高くしていいました。「うちのお母さんがいってたわ。あの子みたいに、ありもせぬことをありそうに考えるのは莫迦げているって。そういう女は大きくなってから変物(エクセンドリック)になるんですって。」
 セエラの『偉がらなかった』のは真実(ほんとう)でした。彼女は思いやりがあって、慎(つつま)しやかな少女でした。で、持っているものは、惜気(おしげ)もなく分けてやりました。いじめられている小さい子供達は、よく劬(いたわ)って[#「よく劬って」は底本では「よく※[#「旬+力」、38-4]って」]やりました。転んで膝小僧をすりむいたりしていると、母らしく駈け寄って助け起し、ポケットからボンボンを出してやるという風でした。
 だから、年下の少女達はセエラを崇拝していました。彼女は幾度も嫌われている少女達を自分の部屋に招いて、お茶の会をしました。そんな時にはエミリイも一緒に遊(あそび)の相手をしました。そして、エミリイもやはりお茶の仲間入りをするのでした。エミリイのお茶は、青い花模様のあるお茶碗に、うすめて注がれるのでした。少女達は、人形用の茶道具など見たこともありませんでした。で、それ以来初級の少女達は、セエラを女神か女王様のように崇めはじめました。
 ロッティ・レエなどは、しつこいほどセエラにつきまとうていました。セエラは母らしい気持を持っていましたので、別にうるさいとも感じませんでしたが、ロッティも早く母を失った一人でした。彼女は誰かが、母のない子は特別可愛がらなければならないといっているのを聞き、いい気になって我儘(わがまま)をつのらせました。若い父親は彼女をもてあましたあげく、学校にでも入れるより他ないと思って、ここに伴れて来たのでした。
 セエラが初めてロッティの面倒をみてやったのは、ある朝のことでした。セエラがある部屋の前を通ると、誰かが怒って泣き喚く声と、それをおし鎮めようとしているミス・ミンチンと、アメリア嬢との声を聞きました。少女はなだめられるとよけい武者(むしゃ)ぶりついて泣き立てるのでした。さすがのミス・ミンチンもそれにはたまりかね、室外に聞えるほどの声で喚きはじめました。
「何で、泣くんです。」
「うわア、うわア、うわア、わたい――おおお母ちゃんがないイ!」
「まア、ロッティったら!」アメリア嬢は金切声を上げました。「泣くのはやめてちょうだいね。いい子だから、泣かないでね。後生だから。」
「うわア、うわア、うわア」ロッティは嵐のように吠え立てました。「おおおおおかあちゃん――い――いないィ!」
「この子は、鞭打ってやる。」とミス・ミンチンは宣告しました。「鞭で打ってやる。我儘者め。」
 ロッティは更に大きな声を立てました。ミンチン女史の声も雷(らい)のようでした。とふいに、女史は裾を蹴って廊下に飛び出して来ました。女史はセエラを見ると、困った顔をしました。あの声を聞かれて困ったのでした。
「あら、セエラさん。」と、女史はつくり笑いをしました。
「私あのロッティちゃんだと思いましたので、立ち止って居りましたの。――それに、私あの、きっと――きっと、あの子なら鎮めてさし上げられるだろうと思いまして、行ってみてあげてもよろしゅうございますか? 先生。」
「出来るならやって御覧なさい。あなたは利口だから」先生は口を尖らしましたが、セエラが自分の剣幕に、おどおどしているのを見ると、急に顔をやわらげていいそえました。「あなたは何でもお出来になるから、きっとあの子の世話も出来るでしょう。お入んなさい。」
 ロッティは床に転って、ひいひいいいながら、小さな肥った脚で猛烈に蹴り立てていました。アメリア嬢は真紅(まっか)になって、ロッティの上にのしかかっていました。
「まア、可哀そうね、お母ちゃんのないことも知っててよ。可哀そうにねエ――」というかと思うと、今度は調子をがらりと変えて、「黙らないと振り廻してやるぞ! そら、そら、また!この根性曲りの憎まれっ子。打(ぶ)ってやるから!」
 セエラは静かに二人のそばへ行きました。
「アメリアさん。」と、セエラは低声(こごえ)でいいました。「あのミンチン先生が、とめてみてもいいと仰しゃいましたので。」
 アメリア嬢はふり返って、
「あなたにとめられるつもりなの?」とおぼつかなさそうに喘ぎました。
「出来るかどうか、判りませんけど、まアやってみますわ。」
 アメリア嬢はほっと嘆息して、膝を立て直しました。ロッティはむくむくした脚を、またはげしく、じたばたやり出しました。
 セエラはアメリア嬢を送り出すと、しばらく吠え立てるロッティのそばに、黙って立っていました。喚き声の他には何の音もしませんでした。ロッティにとってこんな事は初めてでした。涙の眼を開いて見ると、そこに立っているのはあのセエラでした。ロッティはセエラを認(みとめ)るまで、ちょっとの間泣きやんでいましたが、すぐまた泣きはじめなければなるまいと、思ったようでした。が、そこらはあまり静かだし、セエラは黙って立っているので、泣くのにも気がのりませんでした。
「わたい――お――お――おかあちゃんが――ないイ!」
「あたしだって、ないわ。」
 思いがけないセエラの言葉に、ロッティはたちまちじたばたするのをやめて、寝たままセエラの方をじっと見はじめました。ロッティはまだ泣き足りない気持でしたが、やっと少し拗ね泣きが出来ただけでした。
「お母ちゃん、どこ?」
「お母様は天国へいらしったのよ。でも、きっと時々私達に逢いにいらっしゃるのだわ。私達の眼には見えないけど、あなたのお母様だって、きっとそうなのよ。お二人は今頃、私達を見ていらっしゃるかもしれないわ。お二人とも、きっとこの部屋にいらっしゃるのよ。」
 ロッティはいきなりしゃんと坐って、あたりを見廻しました。彼女は美しい巻毛を持っていました。円(つぶ)らな彼女の眼は、濡れしとった忘勿草(わすれなぐさ)のようでした。
 セエラは、母のことをいろいろに話しつづけました。
「天国は花の咲いた野原ばかりなのよ。微風(そよかぜ)が吹くと、百合(ゆり)の匂いが青空に昇って行くのよ。そして、皆いつでもその匂いを吸っているのよ。小さい子達は花の中を駈け廻って、笑ったり、花輪を造ったりしているの。街はぴかぴか光ってるの。いくら歩いても疲れるなんてことはないの。どこにでも行きたいところへ飛んで行けるの。それから町のまわりには、真珠や金で出来た壁が立っているの。でも、みんなが行って寄りかかれるように低く出来ているのよ。みんなそこから下界を覗いては、にっこり笑って、そしていいお便りを送って下さるのよ。」
 セエラがどんな話をしたにしても、ロッティはきっと泣きやんで、うっとりと聞きとれたことでしょう。ましてこの話は、他のどんな話よりも美しいものでした。ロッティはセエラの方にすり寄って、一言々々に夢中になっているうち、いつの間にかもうおしまいになってしまいました。ロッティはあまりの残り惜しさに、またしても泣き出しそうな口の尖らせ方をしました。
「わたいも、そこへ行きたいわ。わたい――学校、お母ちゃんいないイ!」
 セエラはロッティがまた泣き出しそうなのを知ると、自分の夢からさめて、ロッティのむっちりした手をとり、自分のそばへひきよせました。
「私、あなたのお母ちゃんになってあげてよ。あなたは私の娘、エミリイはあなたの妹よ。」
 ロッティの泣顔に、えくぼが湧いて来ました。
「ほんと?」
「ええ」セエラは飛び起きました。「さ、行って、エミリイちゃんにも、[#「も、」は底本では「、も」]お姉さんが出来たって話してあげましょう。それから、あなたのお顔を洗って、髪を結ってあげるわ。」
 ロッティはすっかり元気になって肯きました。彼女は今まで小一時間も騒いでいたのは、昼飯前(ちゅうはんまえ)に顔を洗ったり、髪を梳(す)いたりするのがいやだったからだということも、けろりと忘れているようでした。彼女はセエラと一緒にちょこちょこと部屋を出て、二階へ上って行きました。
 その時以来、セエラは養母(かあ)さまになったのであります。

      五 ベッキイ

 セエラは贅沢な持物や、学校の『看板生徒』である事実によっても、たくさんの崇拝者を造りましたが、それにもまして人を惹きつけたのは、お話が上手だということでした。セエラが話すと、どんなくだらない事でも、立派なお話になってしまうのでした。ラヴィニアなどはセエラのその力を大変羨ましがっていましたが、多少の反感を持って近づいて行っても、セエラの話の巧(うま)さには、つい酔わされてしまうのでした。
 あなた方も学校で、皆が夢中になって、話の巧い人を取りかこむ所を見たことがあるでしょう。セエラはお話が巧いばかりでなく、彼女自身お話をするのが大好きでした。皆にとりまかれて自分でつくったお話をする時、セエラの緑色の眼は輝き、頬は紅をさすのでした。彼女は話しているうちに知らず識らず物語にふさわしい声色や身振を始めるのが常でした。セエラは少女達が耳を澄ましていることなど、いつの間かに忘れてしまいました。セエラの眼に見えるのは、お話の中の妖精達や、王様、女王様、美しい貴婦人達などなのでした。語り終った時、セエラは興奮のあまり息を切らしてしまうこともありました。そんな時、セエラはどきどきする胸に手を当て、自分を嘲笑うかのようにこういうのでした。
「私、お話をしていると、あなた方や、この教室よりも、話していることの方が、ずっとほんとらしく思えてくるのよ。私はお話の中の人になっているような気がするの、何だか変ね。」
 セエラがミンチン先生の塾に入ってから、二年目の冬でした。ある薄霧の日の午後、セエラが厚い天鵞絨や毛皮にくるまって馬車から降りると、みすぼらしい小娘が、地下室の入口に立っていました。少女は首を長くして、一生懸命にセエラを見ていました。セエラはおどおどしている少女にふと目を惹かれました。眼が合うとセエラはいつものように、にっこり笑いました。
 が少女の方は、有名なセエラを竊(ぬす)み見たりしたら、きっと叱られるとでも思ったらしく、まるでびっくり函(ばこ)の中の人形のように、ひょこりと台所の中へ隠れてしまいました。ふいにひょこりと消えてなくなったので、セエラは危(あぶな)く笑い出すところでした。が、その少女はあまりみすぼらしく、あまり寂しそうなので、笑うことも出来ませんでした。その晩のことでした。セエラが教室でいつものお話をしているところへ、その少女は重そうな石炭函を持って、こそこそと入って来ました。少女は炉の前に跪き、火をおこしたり、灰をかき取ったりしていました。
 少女はさっきよりはきちんとしていましたが、相変らずおどおどしていました。話を聞きに来たのだと思われてはならないとでも思っているらしく、音を立てないように手でそっと石炭を入れたり、火箸(ひばし)を動かしたり[#「たり」は底本では「たた」]していました。しかしセエラはすぐ、少女がセエラの話に気を取られていること、セエラの言葉を聞き洩すまいと、休み休み火をおこしていることなどを、見てとりましたので、セエラは声をはり上げては、はっきりと話しつづけました。
「人魚達は、真珠で編んだ綱を曳いて、青水晶のような水の中を静かに泳ぎ廻りました。お姫様は白い岩の上に坐って、それを見守っていらっしゃいました。」
 それは、人魚の王子様に愛されたお姫様の面白いお話でした。姫は海の底の眩(まぶ)しいような洞穴の中に王子と住んでいたのでした。
 少女は一度炉を掃き清めてしまうと、同じ事を二度も三度も繰り返しました。三度目の掃除が終ると、跪いていた踵(かかと)の上にぺたりと腰を落して、酔ったようにセエラの話に聞き入りました。彼女は、いつか海の底の立派な御殿に引きこまれていました。身の廻りには珍しい海草がなびき、遠くの方から美しい音楽が聞えて来るような気がしました。
 箒が少女の荒れた手からことりと落ちました。ラヴィニアは少女の方へ振り向きました。
「あの娘(こ)、聞いてたのよ。」
 とがめられた少女は、いきなり箒(ほうき)を取り上げ、石炭函を抱えて、怯えた野兎(のうさぎ)のようにそそくさと出て行きました。
 それを見ると、セエラはむらむらして来ました。
「私、あの娘が聞いているのを知っていたのよ、なぜ聞いてちゃアいけないの?」
 ラヴィニアは大気取りで頭を振り上げました。
「そりゃア、あなたのお母さんは、女中にお話をしてやってもいいと仰しゃるかもしれませんさ。だけど、私のお母さんは、そんなことしちゃアいけないと仰しゃってよ。」
「私のお母さんですって?」セエラは吃驚(びっくり)したようにいいました。「ママはきっといけないなんて仰しゃらないと思うわ。ママは、お嬢さんであれ、女中であれ、誰であれ、同じようにお話を聞いていいとお思いになってるわ。」
「でも、あなたのママは、もうお亡くなりになったんでしょう。亡くなった方に、どうしてそんなことが解るの?」
「じゃア、ママにそれが解らな[#「らな」は底本では「なら」]いって仰しゃるの?」セエラは低い、きびしい声でいいました。すると、ロッティがそこへ口を出しました。
「セエラのママは、何でも知ってるのよ。あたいのママもよ。――ここでは、セエラがあたいのママだけど、もう一人のママには何でも解るのよ。往来はぴかぴか光っててどこもかしこも百合の原で、皆百合を摘んでるの。いつだったか、あたいが寝る時、セエラちゃんが話してくれたわ。」
「まア悪い人。」ラヴィニアは、セエラの方に向き直っていいました。「天国のことを、お伽噺にして話すなんて。」
「でも、聖書の黙示録(もくじろく)の中には、もっと素敵なことが書いてあってよ。ちょっと開けて読んで御覧なさい。私のお話がお伽噺だか、お伽噺でないか、どうして解るの? もう少しお友達に対して親切な心持を持ってごらんなさい。そうすれば、私のお話がお伽噺じゃないことも解るでしょう。さ、ロッティ向うへ行きましょう。」
 セエラはロッティと伴れ立って歩いて行く間も、そこらを見廻してみましたが、あの小娘はどこにも姿を見せませんでした。
 その晩、セエラは女中のマリエットに、
「あの火をおこしに来る子は、何ていうの?」
と訊ねてみました。マリエットは、その子についていろいろのことを話してくれました。
 いかにも、セエラの嬢様のお訊きになりそうなことだと、マリエットは思いました。あの寂しそうな小娘は、ついこの間日働きに雇われたばかりなのでしたが、台所に限らず、どこにでも追い使われているのでした。靴や金具を磨かされたり、重い石炭函の上げ下しをさせられたり、床や窓の雑巾がけをさせられたり。――身体の発育が悪いので、十四なのに十二くらいにしか見えませんでした。マリエットも、少女が可哀そうでならないと思っているところでした。ひどく内気で、人から物をいいかけられたりすると、眼が顔から飛び出しそうに怯えるのでした。
 セエラはテエブルに頬杖(ほおづえ)をついて、マリエットの話を聞いていましたが、そこまで来ると
「何て名前なの?」とまた訊ねました。
 名前はベッキイでした。マリエットは台所で、五分と間をおかず、「ベッキイ、これをおし。」とか「ベッキイ、あれをおし。」とかいう声を聞くのでした。
セエラは一人になってからしばらくの間、炉の火を見つめながら、ベッキイの事ばかり考えていました。
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