三つの挿話
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著者名:堀辰雄 

     墓畔の家

 これは私が小学三四年のころの話である。
 私の家からその小学校へ通う道筋にあたって、常泉寺(じょうせんじ)(註一)という、かなり大きな、古い寺があった。非常に奥ゆきの深い寺で、その正門から奥の門まで約三四町ほどの間、石甃(いしだたみ)が長々と続いていた。そしてその石甃の両側には、それに沿うて、かなり広い空地が、往来から茨垣(いばらがき)に仕切られながら、細長く横(よこた)わっていた。その空地は子供たちの好い遊び場になっていた。そしてその空地で遊んでいる分には、誰にも叱(しか)られなかったが、若し私たちがその奥の門から更に寺の境内に侵入して、其処(そこ)のいつも箒目(ほうきめ)の見えるほど綺麗(きれい)に掃除されている松の木の周(まわ)りや、鐘楼の中、墓地の間などを荒し廻っているところを寺の爺(じいや)にでも見つかろうものなら、私たちはたちまち追い出されてしまうのだった。疳癖(かんぺき)らしかった爺の一人なんぞは、手にしていた竹箒を私たちに投げつけることさえあった。だが、そうなると一層その寺の境内や墓地を荒すことが面白いことのように思われ、私たちは爺に見つかるのを恐れながら、それでも決してその中へ侵入することを止(や)めなかった。その寺には爺が二人いた。一人は正門の横で線香や樒(しきみ)などを売っており、もう一人はよく竹箒を手にして境内や墓地の中を掃除していた。私たちは彼等(ら)を顔色から「赤鬼」「青鬼」と呼んでいた。
 たしか秋の学期のはじまった最初の日だったと思う。学校の帰り途(みち)、五六人でその夏の思い出話などをしながら一しょに来ると、そのうちの一人が数日前に常泉寺の裏を抜ける、まだ誰も知らなかった抜け道をみつけたといって得意そうに話した。そこで私たちはすぐそのまま、一人の異議もなく、その抜け道を通ってみることにした。
 そのころ常泉寺の裏手にあたって、小さな尼寺があった。円通庵(えんつうあん)とか云った。丁度その尼寺の筋向うに、ちょっと通り抜けられそうもない路地があったが、その中へ私たちの小案内者が、ずんずん得意そうに入って行くので、私たちもさも面白いことでもするようにその汚(きたな)い路地の中へ入って行った。最初のうちは何んだかゴミゴミした汚らしい小家の台所の前などを右へ折れたり左へ折れたりしていたが、そのうち半ばこわれかかった一つの柴折戸(しおりど)のあるのを先頭のものがそっと押して中へはいって行った。と、いままで何か言いあっていたものたちが、そのとき急にばったりと話しやめた。不意に意外な場所に出たものと見える。やっと自分の番になって、その中へはいって見ると、私たちの目の前には、いまにも崩(くず)れそうな小さな溝(みぞ)を隔てて、目のあらい竹垣の向うに、まだ見たこともないような怪奇な庭が横(よこた)わっていた。そこには無気味に感じられる恰好(かっこう)の巌石がそば立ち、緑青(ろくしょう)いろをした古い池があり、その池の端には松の木ばかりが何本も煙のように這(は)いまわっていた。そしてそれが常泉寺の奥の院の庭であるのを知った時、私たちは一層驚かずにはいられなかった。……それから私たちは急にひっそりとなって、その崩れ落ちそうな溝づたいに一列にならんで歩き出したが、その道のもう一方の側はどうなっていたのか今はっきり思い出せない。そこまで来てしまうと、どっちを向いてももう殆(ほと)んどさっきの人家らしいものが目に入らなかったようだが、ことによると私たちのまわりには私たちよりも丈高(たけたか)く雑草が生(お)い茂っていたのか知れぬ。そう云えばそこいらが一面の薄(すすき)だったような気もする。
 私たちは何時(いつ)の間にかとんでもない場所へ来てしまったような不安な気持になって、お互に無言のまま、おっかなびっくりそんな場所を歩き続けて行ったが、そのうち再び驚かされたのは、そんな寺の裏なんぞの、恐らく四方から墓ばかりに取り囲まれているであろうようなところに、一軒ぽつんと小さな家が見え始めたことだった。さっきの雑草もその小家のあたりだけは綺麗に取除かれ、その代りそこら一面に、その小家を殆んど埋めるくらいにして、黄や白だのの見知らぬ花が美しく咲きみだれていた。その見なれない小家の前を私たちがこっそり通り抜けようとしたとき、その家のなかの様子は少しも見えなかったけれど、私はふとその閉め切った障子の奥に誰かが居るような気配を感じ、その瞬間私にはその人が何んだか私の母をもうすこし若くしたくらいの年恰好の美しい婦人であるように思われてならないのだった。(が、今考えてみると、そういうようなすべては、その小家を埋めるようにしていた、それらの黄だの白だのの見知らぬ花々の微妙な影響に過ぎなかったのかも知れない。……)
 その小家のあたりから、道は両側とも竹垣に挾(はさ)まれながら、真直(まっすぐ)に寺の庫裡(くり)の方に通じているらしかった。その竹垣の一方はまださっきから見え隠れしている庭の続きであったが、もう一方はいつのまにか大小さまざまな墓の立ち並んだ墓地になっていた。私たちはその墓地の方へ抜け出ようとして、その竹垣を乗り越すのにいろいろな苦心をした。
 私たちがそんな寺の裏の、いかにも秘密に充(み)ちたような抜け道(?)をたった一遍きりしか通ったことのないのは、その時まだその竹垣をみんなで乗り越してしまわないうちに、寺の爺たちに見つかって、散々な目に遇(あ)ったからだ。その時くらい爺たちが私たちに向って腹を立てたことは今までにもなかった。爺たちは二人がかりで、何処までも私たちを追いかけて来た。――そのときは私たちも何んだか興奮(こうふん)して、墓と墓の間をまるで栗鼠(りす)のように逃げ廻りながら、口々に叫んでいた。
「赤鬼やあい……青鬼やあい……」


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     昼顔

 その小さな路地の奥には、唯(ただ)、四軒ばかり、小ぢんまりした家があるきりなのである。ちょうど水戸(みと)様の下屋敷の裏になっていて、いたって物静かなところである。
 その路地をはいって右側には、彫金師の一家が住んでいる。そのお向うは二軒長屋になっていて、その一方には七十ぐらいの老人が一人で住んでいる。五六年前に老妻を亡(な)くなしてから、そのままたった一人きりで淋(さび)しいやもめ暮らしをしているのである。その隣りには、お向うの彫金師の細君のいもうと夫婦が住んでいる。亭主は、河向うの鋳物(いもの)工場へ勤めているので、大抵毎日その細君は一人で留守居をしている。その路地の突きあたりの家は、そこ一軒だけが二階建になっていて、主人はやはり河向うの麦酒(ビール)会社に勤めている。あとにはその老母とまだ若い細君が静かに留守居をしているきりである。そんな寂しいくらいの路地のなかに、いつも生気を与えているように見えるのは、彫金師の一家だけである。ずっと奥の、別棟になった細工場からは、数人の職人がいつもこつこつと金物を彫っている仕事の音が絶え間なしに聞えて来るのであった。……
 その年の春頃から、その彫金師の、それまでは家人だけの出入り口になっていた、蔦(つた)などのからんだ潜(くぐ)り戸に「古流生花教授」という看板がかかるようになった。その数カ月前から立派な白髯(はくぜん)の老人がいつも大きな花束をかかえて屡□(しばしば)その家に出はいりしていたが、そんなことを好きな一面のあるこの家の夫婦をおだてて、そこをとうとう自分の出張所にしたのである。それからやがて木曜日ごとに、町内の娘たちが五六人それを習いに来るようになった。そうしてその午後になると、その路地には、いままでに聞いたことのない、花やかな、若い娘たちの笑い声が起るようになった。……
 その日だけは、息子(むすこ)の弘は、中学校から帰ってくると、自分の勉強間にしている奥座敷が娘たちに占領されているので、いつもお向うの、おばさんの家へ追いやられてしまう。おばさんの家は狭かったが、格子戸(こうしど)を開けて入ったすぐ横の三畳が茶の間になっていて、そこの長火鉢(ながひばち)の前でおばさんはいつも手内職をしているきりなので、弘は奥の八畳の間を一人で占領して、茶ぶ台を机の代りにして、その上で夢中になって帳面に何やら円だの線だのばかりを描いている。……

        □

 その日は、二三日うちに牛島神社のお祭りが始ろうとする日のことである。九月も半ばに近かった。
 弘はさっきからおばさんの家の八畳の間で、しきりに勉強をやっている。相変らず帳面に円だの線だのを引張っているのである。その日はおばさんが、中洲(なかす)の待合の女中をしているその姉のところに頼まれてあった縫物を持って出かけていったので、一人で留守番をさせられている。自分の家からは、職人たちの金物を彫っている metallique な音に雑(ま)じって、ときおり若い娘たちの笑い声が聞えてくる。今度のお祭りには、弘の父のきもいりで、町内に屋台をこしらえて、そこに娘たちの生花を並べようというので、さっきから白髯の師匠や代稽古格(だいげいこかく)の弘の母などに見てもらいながら、娘たちは大騒ぎをして花を活(い)けているのである。――弘はときどき足を投げ出して、仰向けに寝ころんでは、娘たちの笑い声にじっと耳をすます。そうしてその五六人の笑い声の中から或る一つの笑い声だけを聞き分けようとしている。やっとそれがかすかに他から区別されて聞えることがある。するとその笑い声だけが急に一瞬間高くなって、他の声が見る見る低くなっていくような気がする。そうしてその笑いは、少年の目の前に、晴れやかに笑っている、一つの可愛らしい娘の顔の image を喚起させる。が、その笑いは再び他の笑いに消されがちになっていって、それと一緒にその可愛らしい image もだんだん暈(ぼや)けていく。少年はそれだけでも満足して、再び起き上って、茶ぶ台に向うのであった。……
 すると路地のうちに小きざみな足音がして、格子ががらりと開いたので、もうおばさんが帰ってきたのかしらと思って、弘がふりむいてみると、おばさんではない。半分開いた格子戸に手をかけたまま、派手な銀杏(いちょう)がえしに結った若い娘が、大きな目をして、彼の方を見つめている。
「なあんだ、照ちゃんか。おばさんかと思ったら……」弘はちらっとそっちを見たきり、いそいで目を伏せながら、そうつぶやいた。
「母さんは?」
「中洲のおばさんのところへ行っているんだ。」
 お照という娘は、そのままちょっと格子に手をかけて、どうしようかと言ったように突立っていたが、とうとう中へはいってきた。
「構わずに上ってよ。……勉強のお邪魔にはならなくて?」
「うん……」いいんだか、悪いんだか分らないような返事をしたきりである。
 そんな従弟(いとこ)の方をお照はとりつくしまがなさそうに見ながら、茶の間へは上ったものの、何処(どこ)へ坐ったらいいかと躊躇(ちゅうちょ)しているようだったが、とうとう三畳の長火鉢の、いつもおばさんの坐っている場所へ、そうっと坐った。弘もまた弘で、自分の背後にそういうお照を意識し出してからは、茶ぶ台には向っていても、もう帳面の上に円や線を描くことは中止して、ぼんやりと頬杖(ほおづえ)をしているきりである。しかし、お照の方へは目をやろうとも、声をかけようともしない。この頃向島(むこうじま)から芸妓(げいぎ)に出るようになったお照がまたときどきこのおばさん(――お照にとっても実の叔母なのだが、彼女が両親に死にわかれてから一時この家へ養女になっていたので、そのうちに折合が悪くなってこの家を飛び出してしまっている今でも、彼女はこの叔母のことを「母(かあ)さん」と呼んでいるのである。)の家へ遊びにくるようになっているのは知ってもいたし、二三度顔を合わせたこともあるが、さて、こんな風に二人きりで差し向いになって見ると、相手がいかにも芸妓らしくなりすましているだけ、昔のように口を利(き)くのが弘には何となく気まりが悪いのである。しかし、そういうお照に対して、弘の好奇心はかなり烈(はげ)しく動いている。
 しばらくの間、二人はちょいと気づまりな沈黙を続けていた。
「母さんは何時頃から出かけて?」
 遠慮がちにではあったが、持ち前のすこししゃがれたような声で、お照がやっとそれを破った。
「お午(ひる)頃。」弘は矢張り背中を向けたまま、ぶっきら棒に返事をした。
「もう三時過ぎだから、もう帰ってきそうなもんね?」と半ばひとりごとのように、お照はつぶやいた。そうしてそのまま、又、二人はちょっと黙り合っている。
「あああ……」と弘はとうとう溜(たま)らなくなったように、欠伸(あくび)をわざと大きくしながら、足を投げ出した。そうしてくるりと横になった。と、その途端に、さっきからちっとも娘たちの騒ぎが聞えて来ないでいることに弘ははじめて気がついた。なんだかひっそりしている。何をしているんだろう、と弘はしばらくお照を忘れて、そっちの方へ気をとられていた。……
「お茶でも淹(い)れましょうか?」膝(ひざ)の上で何やら本を読み出していたお照が、ふいとその本から目を上げて、弘に言った。
「こっちへいらっしゃらない?」
「うん。」
 弘はやっと渋々と起き上って、長火鉢のそばへ行った。そしてお照の反対の側にどかりと坐りながら、うしろの障子に背中をもたらせながら、立膝をしたまま、お照の顔をまぶしそうに見つめた。
「そんな風に人の顔を見るものじゃなくってよ。」
「だって、ずいぶん変な顔だもの。」
 少年は、精いっぱいの皮肉を言ったつもりでいるらしい。そう言って、さも嘲(あざ)けるように笑っている。事実、顔の浅黒い娘が頸(くび)にだけ真白にお白粉(しろい)をつけているのが変てこだと思っているのである。
「まあ、ご挨拶(あいさつ)ね、……弘ちゃんにはかなわないわ。」
 娘は目を伏せたまま、いままで膝にのせていた洋綴(ようとじ)の本を下に置いた。そうしてその表紙を無意味に見ている。
「何を読んでいるんだい? 小説?」それを少年は覗(のぞ)き込むようにして見た。
「ええ、弘ちゃんも小説読むの?」
「僕だって小説ぐらいは読むさあ……それは何んの小説だい?」
「モオパスサンよ……でも、こんなのは弘ちゃんは読まない方がいいわ……」
「そんなのは知らないや……僕は探偵小説の方がいい。」
 少年だってモオパスサンがどんな外国の作家だぐらいはこっそり聞き噛(かじ)っている。しかし、わざと娘にそんな返事をしてやった。だから、少年は大した皮肉を言ってやったつもりでいる。そうして、ふと、昔、自分が十ぐらいで、この娘がまだ十三四でこの家に養女分でいた時分、ただもうこの年上の娘をいじめるのが面白くっていじめたりしていた時のような、子供らしい残酷な心もちが、現在の自分の心のうちにも蘇(よみがえ)って来るように感ずる。なんでもないことに腹を立てて、この年上の娘を撲(なぐ)ったり、足蹴(あしげ)にしたりしたが、娘の方では一度も自分にはむかって来ようとはしない。ただ、少年にされるがままになっている。そこに他の者が居合わせても別に留めようともしない。少年はしまいには、ただ面白ずくでそんな風に娘をいじめるようになっていた。……ところが、一度、どうしたのか娘は顔を真青にして、いきなり少年にむしゃぶりついてきた。少年はびっくりして、それっきりもう娘に手出しをしなくなった。……娘がそのおばさんの家を最初に飛び出したのは、それから間もないことであった。……
 そんな風にやっと二人が打ち解けて話し合いだした時分に、がらりと格子のあく音がした。二人がふりむいて見ると、それは弘の母であった。
「おや、照ちゃんもいたのかい?」
 少年は自分の母を見ると、長火鉢からすこし居退(いざ)るようにして、障子に出来るだけぴったりと体を押しつけるようにしている。お照とこんな風に差し向いで話をしているところを母に見つかって、いかにも気まりが悪そうである。
「こんちは。……そこの髪結さんまで来たんでちょっと寄ってみたの。……なんだかすこし根がつまりすぎて……」そんなことをお照はしゃあしゃあと答えながら、それが気になるように結い立ての銀杏がえしへ手をやっている。
 弘の母はそっちをちらっと見て、
「よく結えたよ」と愛想よく言って、それから弘に向って「弘ちゃん、ちょっと御供所(おみきしょ)までいって、お父さんを呼んできておくれでないか。お花の先生がちょっとお呼びですからって。……いったらいったきりで、ちょっとやそっとでは帰って来ないんだからね。……ほんとに困っちまう。」
 それを聞くと、弘はいそいで立ち上って、まるで逃げ出しでもするようにして、下駄を突っかけたまま、おもてへ飛び出していった。
 それから、弘の母は二言三言お照と立ち話をしていたが、いそがしそうに再び自分の家へ帰って行ってしまった。あとには、お照が一人だけ長火鉢の傍(そば)に取り残された。
 お照は、それから暫(しばら)くぼんやりと、いましがた弘の勉強していた茶ぶ台の方を眺(なが)めていた。茶ぶ台の上には、まだ何やらわけのわからぬ図形や記号の一ぱい描きちらされている帳面が、開けたまんまになっている。――そんなお照の心にはいつか、よくその同じ場所で、ひとりで落語の稽古(けいこ)をしていた死んだ清ちゃんの後姿が蘇ってきている。清ちゃんもずいぶん不幸な人だったらしいけれど、――と、お照はそれからしばらく、自分にも、弘にも叔父にあたる、かつ若という落語家だった、その清ちゃんの不幸な身の上を考えるともなく考えている。……若い時から落語家の円三さんの弟子になっていたが、中途でぐれ出して、旅廻りの浪花節(なにわぶし)語りにまで身を堕(おと)していたが、そのうち再び落語家の小かつさんに拾われ、それからは心をいれかえて一しょう懸命に高座を勤めていたので、小かつさんにも可愛がられ、真打(しんうち)になったら自分の名を襲(つ)がせてやろうとまで言われるようになったのに、若いとき身を持ち崩した祟(たた)りで、悪い病気がとうとう脳にきて、その頃同棲(どうせい)していた、下座(げざ)の三味線弾(ひ)きのお玉さんの根岸の家で死んだのは、つい一咋年のことだったが、なんだか随分昔のような気もする。その間に、あんまり私も苦労をしすぎたせいかも知れない。そう云や、清ちゃんと私とは同じような性分なのかも知れないな。……と、そんなことやら、あそこで壁を向いてひとり稽古に夢中になっている清ちゃんの後姿を見ながら聞いていると、可笑(おか)しな落語もちっとも可笑しくなかったことやらを、思い浮べて、お照は何気なしにふと淋(さび)しい微笑を誘われていた。……
 弘はあれっきりまだ帰って来ないのである。親ゆずりでお祭りなんぞも好きな性分だから、父と一しょになって、神輿(みこし)の世話を手つだいだしているのかも知れない。そうして、そんな弘よりも先きに、中洲へ出かけていたおばさんの方がかえって来てしまったのである。
「誰かと思ったらお照だったのかい?……弘ちゃんは……」
「いましがたお向うのおばさんがいらっしって、お使いにやられたわ。」
 おばさんは長火鉢の向うの、さっきまで弘の坐っていた場所へ、
「ああ草臥(くたび)れたこと。」と言いながら、どっかと坐った。
「あたし、そこまで髪を結いにきたの。……ちょっと寄ったら留守番をおおせつかっちゃった。……でも、もうこうしちゃいられないわ。また、来ますわ。」
「まあお茶でも飲んでおいでよ。」
「お茶なら、ほんとにあたし、もう沢山。……なんだかきょうの髪、すこし根がつまりすぎて……」お照はさっきと同じようなことを言って、まだ気になってしようがないように自分の髪へちょっと手をやっていたが、そのとき急に、向うの家のなかからどっと若い娘たちの笑いくずれる声が起った。――「お向うは大へんね。……」
「姉さんも、この頃はお花にばかり夢中でね。……それでも、五六人、どうやらお弟子(でし)が出来たのさ。」
「そうだそうですね。」
「でも、おかしいんだよ。……そのお師匠さんがさ、お弟子のことを一々私に話すんだがね。……どうもこの娘は器量はいいがすこしお転婆(てんば)のようだとか。……性質はよさそうだけれど、すこし器量がよくなくってとか。……何のことはない、まるで弘ちゃんのお嫁さん捜しをしているようなもんだからね。」
「ふ、ふ、今からそんな心配をされてた日にゃ、弘ちゃんもやりきれないわね。」
「姉さんたら、本当にそんな心配ばかりしているんだよ。……面白いったらありぁしない。……あんなにおとなしい子だから、女にでも欺(だま)されて、清ちゃんみたいになりぁしないかってさ……」
「まさか。」
 お照は笑いながら何ということなしにちらりと顔を赧(あか)らめた。
「でもね、弘ちゃんがあそこで、ああして勉強している後姿を見ているとね、なんだか清ちゃんのことが思い出されてならないんだよ。……面(おも)うつりがするんだろうね。……だけど、そんなことを姉さんに言おうものなら、気にしそうだから、あたしゃ黙っているのさ。」
「あら、あたしもさっきそんな気がしたわ。……やっぱり血筋なのね。……」そう言いかけながら、お照は急に気がついたかのように、「ああ、こうしちゃいられないわ。……また、来ますわ。……じゃ、左様なら。」と言って、性急そうに立ち上ると、すこし蓮葉(はすは)に下駄を突っかけながら、がらりと格子を開けて出ていった。――

「あら、何か忘れものをしていったよ。……何て、まあ、そそっかしやさんなんだろう。……」おばさんはそう口のうちで呟(つぶや)きながら、長火鉢の傍に置き忘れられてある黄いろい表紙の本を取り上げた。字のよく読めないおばさんには、モオパスサンという片仮名だけはわかったが、それがどんな題の、どんなことを書いた本だかは、すこしもわからないのである。……


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     秋

 私は震災後、しばらく父と二人きりで、東京から一里ばかり離れたY村で暮らしていた。その小さな、汚(きたな)い、湿気の多い村は、A川に沿っていた。その川向うは、すぐその沿岸まで、場末のさわがしい工場地帯が延びてきていた。私の父方の親類の家がその村にあったので、私は幼い頃、ときどき父に連れられて写真機などを肩にしては、この辺へも遊びに来たものだった。が、それっきり、その地震の時まで、私は殆(ほと)んどこの村を訪れたことがなかった。――そんなに足場の悪い、貧弱な村も、その地震の直後は、避難民たちで一ぱいになり、そのひっそりした隅々(すみずみ)まで引っくり返されたように見えたが、二週間たち、三週間たちしているうちに、それらの人々も、或るものは焼跡へ帰って行ったり、又、他のものは田舎(いなか)の、それぞれに縁故のある村へ立ち退(の)いて行ったりして、この村も、丁度コスモスの咲き出した頃には、漸(ようや)くその本来のもの静かな性質を取り戻しつつあった。
 私は父とその村に小さな家を借りて、しばらく落着いていることにしたのだが、その頃私はと言えば、何んとも言いようのない、可笑(おか)しな矛盾に苦しめられていた。私は私の母を、その地震によって失ったばかりであった。それにもかかわらず、私には自分がその事からさほど大きな打撃を受けているとはどうしても信じられなかったのだ。私自身にもそれが意外な位であった。そうしてそれは、その村で私の出遇(であ)った昔の知人どもが、「まあ、お可哀そうに……」と言いたげな顔つきで私を見ながら、私に何か優しい言葉をかけてくれたりすると、その度毎(たびごと)に、私は殆んど気づまりなような思いをした位であった。――しかし、そのための打撃はその頃私の信じていたほど、決して軽いものではなかったのだ。その本当の結果は、唯(ただ)、私の意識の閾(しきい)の下で徐々に形づくられつつあったのだ。そして村全体が平穏になり、私の心の状態も漸く落着いて、殆んど平生どおりになったと思えるような時分になってから、突然、その苦痛ははっきりした形をとり出して来たのである。

 この小さな物語の始まる頃には、その村はいま言ったように、漸く静かな呼吸をしだしていた。
 といってまだ、それはすっかり旧に復していたとも言えなかった。その村には以前には無かったものが附け加えられているように見えた。丁度洪水の引いた跡にいつまでもあちこちに水溜(みずたま)りが残っているように、この村にはまだ何処(どこ)ということなしに悲劇的な雰囲気(ふんいき)が漂っていたのだ。……
 例(たと)えば、村の人々の間にはこんな噂(うわさ)がされ出していた。この頃、この村へ地震のために気ちがいになった一人の女が流れ込んできている。その女は、地震の際にその一人娘からはぐれてしまい、それきりその娘が見つからないのでもう死んだものと思い込んでいた矢先き、焼跡でひょっくりその娘に出会い、その言いようのない嬉(うれ)しさのあまり、其処(そこ)にあった瓦(かわら)でその娘を撲(なぐ)り殺してしまったと言うことだった。――その噂は私をどきりとさせた。「母親というのはそんなものかなあ……」とそれから私はそれを胸を一ぱいにさせながら考え出していた。――或る日、私はその小さな村を真ん中から二等分している一すじの掘割に、いくつとなく架けられている古い木の橋の一つの袂(たもと)に、学校帰りらしい村の子供たちが一塊(ひとかたま)りになっているのを認めた。私が何気なくそれに近づいて行くと、環(わ)のようになっていた子供たちがさっと道を開いた。見ると、その子供たちに取り囲まれているのは、襤褸(ぼろ)をまとった、一人の五十ぐらいの女だった。髪をふりみだし、竹で出来ている手籠(てかご)のようなものを腕にぶらさげていた。その中には何んだかカンナ屑(くず)のようなものが一ぱい詰まっているきりだったが、それがその女には綺麗(きれい)な花にでも見えているのかも知れないと思えるほど、大事そうにそれを抱(かか)えているのが私を悲しませた。のみならず、その籠には何処か孔(あな)でもあいていると見えて、その女の歩いてきた跡には細かいカンナ屑がちらほらと二三片ずつ落ち散っていた。その女はしかし、そんなものも、それから自分を取り囲んでいる村の子供たちをすら殆んど認めていないような、空虚な目つきで、じっと自分の前ばかり見まもりながら、いかにも上機嫌(じょうきげん)そうに、ふらりふらりと歩いていた。――私は村びとの噂にばかり聞いていたその気ちがいの女をこうして目(ま)のあたりに見、そしてそれが私の死んだ母と殆んど同じ年輩で、そのせいか、どこやら私の母と似通っているような気もされてくるや否や、急に私の胸ははげしく動悸(どうき)しだして、どうにもこうにもしようがなくなった。私は暫(しばら)くじっとその場に立ちすくんだきりでいた。そうして、母の死が私に与えた創痍(そうい)も殆んどもう癒(いや)されたように思い慣れていたこんな時分になって、突然、そんな工合にひょっくり私のうちに蘇(よみがえ)ったその苦痛が、今までのよりずっとその輪廓(りんかく)がはっきりしていて、そしてその苦痛の度も数層倍烈(はげ)しいものであることを知って私は愕(おどろ)いたのであった。
 私はその村で、それきりその気ちがいの女を見かけなかった。あのような苦痛を私に与えたその女に再び出会うことはどうも恐ろしいような気がしていたが、一方では又、その時の苦痛くらい生き生きと母の俤(おもかげ)を私のうちに蘇らせたものがないので、私は妙にその気ちがいの女を見たいような気もしていたのだった。……

 私たちのしばらく借りて住んでいた田舎家は、赤茶けた色をした小さな沼を背にしていた。私の父は本所に小さな護謨(ゴム)工場を持っていた。それが今度すっかり焼けてしまったので、その善後策を講ずるために、殆んど毎日のように父は出歩いていたので、私はいつも一人で留守番をしていた。私は僅(わず)かな本を相手に暮らしていた。「猟人日記」が好きになったのも、この時であった。私の部屋の窓からは、いまにも崩(くず)れそうな生墻(いけがき)を透かして、一棟(ひとむね)の貧しげな長屋の裏側と、それに附属した一つの古い井戸とが眺(なが)められた。しかし、井戸端(いどばた)と私の窓との間には、数本、石榴(ざくろ)の木やなんかがあったり、コスモスなどが折から一ぱい花を咲かせながら茂るがままになっていたので、その井戸に水を汲(く)みに来る女たちのむさくるしい姿はどうにか見ずにすんだが、彼女等が濁った声で喋舌(しゃべ)り合っているのは絶えず聞えてきた。その話し声は気になりだすと、どうもうるさくて仕方がなかったが、それでいて何を話しているのか聞いてやろうとすると、いくら耳を傾けても、はっきり聞きとれないほどの、それは遠さであった。それが私にはなんだか解(わか)りにくい田舎訛(いなかなま)りで喋舌られているかのように思えた。
 或る日、私の父は私に、いつまでこうしていてもしようがないから、私の学校の始まるまで、ひとつ田舎でも旅行して来ようかという相談を持ちかけた。何んでも父の話では、二三の地方のお得意先きに貸し放しになっている所があるから、それを取り立てながら田舎へ旅をして廻ろうと言うのであった。その旅行の計画は私をすっかり有頂天にさせた。それらの見知らない地方、見知らない風景、その行く先き先きで私の出会うかも知れないさまざまな冒険、それらのものが私の心を奪ったのだ。私はまだ、真の人生というものは、そんな遠い見知らない土地にばかりあるものと思っていた年頃だったから。
 が、その旅行の計画は、そのうち急に焼跡にバラックを建てることになり、父はその監督をしなければならなくなったので、中止になった。私の子供らしい夢は根こそぎにされた。そればかりでなしに、それは前よりも一層私の田舎暮らしの惨(みじ)めさを掻(か)き立てるような結果にさえなった。
 私の父は、大抵日の暮れる時分に焼跡から帰ってきた。もう薄暗くなり出しているのに、電燈もつけないで、読みさしの本を伏せたまま、私がぼんやり横になっているのを見ると、私の父は気づかわしそうな目つきで私を見下ろしながら、しかしその優しい感情を強(し)いて隠そうとするような、乾(かわ)いた声で私を叱(しか)るのだった。

 十月になった。村はますます静かになって行った。そうしてその頃までまだ何処かしらに漂っているように見えた悲劇的な雰囲気がだんだん稀薄(きはく)になればなるほど、その村に於(お)ける私の悲しい存在はますますそのなかで目立って来そうに思えた。そして私自身にとっても、日が経(た)てば経つほど、あべこべに、私の周囲はますます見知らない場所のように思われて来てならない位であった。
 私は或る日、同じ村の、おじさんの家へ遊びに行って、その物置小屋に古い空気銃が埃(ほこ)りまみれになっているのを見つけた。私はそれを携えて、近所の雑木林の中へぶらつきにいった。私は、「猟人日記」の作者の真似をしようとした。私は林のなかで、それが何んという名前の小鳥だかも如らずに、見つけ次第、出たらめに打った。一羽もあたらなかったが、そんなことは私にはどうでもよかったのだ。そうしてひさしぶりに快く疲れて、日の暮れ方、私は空気銃を肩にしながら、掘割づたいに、小さなきたない農家のならんでいる、でこぼこした村道を帰ってきた。その途中、私はそれらの家の一つの前を通り過ぎながら、ふと、それだけが他の家からその家を区別している緑色にペンキを塗った窓から、十七八の、小さく髪を束ねたひとりの少女が、ぼんやりおもての方を見ているのを認めた。窓枠(まどわく)を丁度いい額縁(がくぶち)にして、鼠(ねずみ)がかった背景の奥からくっきりとその白い顔の浮び出ているのが非常に美しく見えたので、私はおもわず眼を伏せた。
「この村にもこんな娘がいたのかなあ……」
 私はこの日頃、父との旅行の計画を立てながら、あんなにも夢みていた、そしてそれは遠い見知らないところにのみあると思っていた「人生」が、私からつい数歩向うの窓に倚(よ)りかかっているのを、こんなに思いがけず発見して、私はなんだかどぎまぎしていた。そして私は、その娘のもの珍らしげな視線をいつまでも自分の背中に感じながら、其処を通り過ぎていった。その日は、私は二三日前或る友人の送ってくれた、そのお古の、すこし小さくて私の体によく合わない、高等学校の制服をちょこんと着ていたし、おまけに空気銃などを肩にしていたので、そんな私の後姿がいかにもその娘に滑稽(こっけい)に見えそうでならなかった。
 自分の家へ帰って来てからも、私は何もしないで、窓のすぐ向うの井戸端で、鶏が騒いだり、水を汲みに来ている女たちが口々にしゃべっているのをぼんやりと聞いていた。いつもは私の聞きづらがっている、それらの田舎言葉さえ、何んだか遠い見知らない土地に来てそれを聞いてでもいるかのように、私にはなつかしく思われた。……
 父が帰って来ると、私はいつになく、元気よく父と一しょに台所へ行って、さも面白いことでもするように、茶碗(ちゃわん)や皿を洗ったりした。
 その日から、私は空気銃を肩にしては、毎日のように近くの林の中をぶらつき、日の暮れ方、その窓の前を少しおどおどしながら通った。それは村に一軒しかない医者の家だった。空気銃は、そんなものを子供らしく自分が肩にしているのをその娘に見られたくはないと思いながら、しかもそれはそんな私の散歩の唯一の口実にさえなっていた。――が、その後、私はその「窓の少女」をついぞ一ぺんも見かけなかった。

 そのうちに、夏休みのまま、地震のために延ばされていた秋の学期がそろそろ始まりかけた。私は寄宿舎へ帰らなければならなかった。で、私はこれがもうこの村の最後の散歩かと思って、いつものように窮屈な服をつけ、空気銃を肩にして、何処に行ってもコスモスの咲いているその村をあちらこちらと歩き廻っていた。
 そうしていると、秋ながら、汗の出てくるほどの好い天気だった。……すこし草臥(くたび)れたので、私はとある小さな林の中にはいって、一本の松の木の根に腰をかけながら、足を休めていた。私は暫く其処にそうして、ときどき自分の頭上の木と木の間を透いて見える水のような空を見上げながら、ぼんやりと煙草をふかしていた。
 そのとき私は向うから草の中を押し分けながら、すこし急ぎ足で、こっちへ近づいてくる一人の娘に気がついた。私はそれが村医者の娘であることを認めた。どうも私のいる林を目あてに近づいて来るらしい。だが、こんなところに不意に私を発見して、なんだか私が彼女を待ち伏せてでもいたようにとられはしないかと気を廻して、私はいきなり立ちあがった。そうして空気銃を肩にあてがって、何にもいやしないのに、そこに小鳥でも見つけたかのように、一本の木の梢(こずえ)を覗(ねら)って、引金を引いた。乾いた銃声があたりのしっとりとした沈黙を破った。
 私はその間も横目でこっそりと娘の方を窺(うかが)いながら、自分の臆病(おくびょう)な気持と闘っていた。その銃声でもってそこに私が居ることにやっと気がついて、彼女はちょっと逃げようとするような身振りをしたが、その瞬間、私は惶(あわ)てて振りかえって、お辞儀をした。彼女は気まり悪そうに笑いながら、私の方に近づいてきた。
「ああ、逃がしちゃった。」私は再び頭を上げながら、すこし上(うわ)ずった声でひとりごちた。
 すると娘も私の見上げている木の梢を見上げながら、
「何をお打ちですの?」と私に応(こた)えた。
 私たちの見上げている木の枝からは木の葉がひらひらと二三枚静かに落ちてきた。しかし、そこには小鳥なんぞの飛び立ったような気配はない。私のトリックは曝(ば)れそうだった。そのとき私は目ざとく、彼女の肩に一枚の木の葉がくっついているのを見つけて、
「やあ、肩に葉っぱがくっついてらあ!」と頓狂(とんきょう)な声を出した。
 気味のわるい虫でも肩についているのを見つけたような、私の大げさな言い方は、彼女の目を梢の先きから離れさせるには十分だった。しかし、ふり向いた途端に、その木の葉は彼女の肩から地面に落ちてしまった。私はさも困ったような顔をしていた。
 このような娘と二人きりの林のなかでの出会は、私のあんなにも夢みていたものであったのに、さて、こうしてその娘と二人きりになってみると私はもう彼女から逃げることばかりしか考えなかった。何んと! その口実に私はこの娘はどうも自分の好きなタイプじゃないなどと唐突に考え出していた。そうしてそのまま二人は気づまりそうに黙り合っていた。そのうち娘の方でちらりと顔をしかめた。誰かが私の背後の灌木(かんぼく)の茂みの向うの草の中をごそごそ云わせて近づいてくるのを私より先きに認めたからだった。……
 数分後、私は以前のように一人きりになって、再び松の木にぼんやり靠(もた)れかかりながら、私の背後の灌木の茂みの向うで、この村特有の訛(なま)りのある若者らしい声でこんなことを言っているのを、聞くともなく聞いていた。
「ずいぶん捜していたんだよ。」
「そう……」娘の返事はいかにも気がなさそうに見えた。
 それっきり彼等は無言で、草をごそごそ踏み分ける音だけを立てながら、私からだんだん遠ざかって行った。

 夕方、家へ帰ってくると、私は窓をすっかり開けて、その窓の近くに負傷をした小さな獣のように転(ころ)がっていた。そうしてその窓のそとからはいってくる、井戸端の女等の話し声や、子供の叫びや、土の匂(にお)いや、それからそれに混っている、コスモスのらしい匂いだのが、痛いほど私の傷に沁(し)みて来るのを私はそのままにさせておいた。
 父の帰りが私をそんな麻痺(まひ)したような状態から蘇らせた。
「おい、そんなことをしていると風邪(かぜ)をひくぞ。」
 父はいつもの、その優しい感情を強いて私に見せまいとするような、乾いた声で私を叱った。しかし私は前よりもっと小さくなって転がっていた。私の父は私がまた母のことを思い出してそんな風に悲しそうにしているのだと信じているらしかった。それが私には羞(はず)かしかった。……

 私はこういうY村に於ける私の悲歌(エレジイ)をいつか一ぺん書いて置きたいと思っていた。それから数年後の、或る秋晴れの日だった。私は自転車に乗って、その村を一周(ひとまわ)りして来ることを思いついた。私は地震のとき、跣足(はだし)になって逃げて行った道筋のとおりに、うすぎたない場末の町のなかを抜けて行った。多くの工場が、入れかわり立ちかわり、同じようなモオタアの音をさせながら遠くまで私について来た。とうとう私は川に架(かか)っている一つの長い木の橋の上へ出た。Y村がやっとその川向うに見え出した。
 私はその橋に差しかかりながら、その橋の真ん中近くに人立ちのしているのを認めた。橋の欄干がそこだけ折れていて、その代りに一本の縄(なわ)が張られていた。私も自転車から降りて、人々の見下ろしている川の中を覗(のぞ)いて見た。数日前、そこから一台の貨物自動車が墜落したものらしかった。しかし、その橋の下には一面に葦(あし)が茂り、それが一部分折られているだけで、その他にはもう其処には何も見えなかった。それだのに、人々は何かが其処にまだ見えでもするかのように、その惨事の痕(あと)をじっと見入っていた。
 私は再びペダルを踏みながら、やっとその長い橋を渡りきり、そしてそのままY村にはいって行った。遠くからその全体を見渡したときは、なんだか此処(ここ)もこの数年間にすっかり変ってしまっているように思えた。それほど見知らない大きな工場が、沢山出来てしまっているのだ。が、その村を二等分している真っ黒な掘割に沿うてすこし行き出すや否や、ことにその上に架っている多くの小さな木の橋と橋との間に、いまを盛りにコスモスが咲きみだれ、そしてその側に誰もいないのに四つ手網だけがかかっているのを見出した時には、突然、その村でのさまざまな思い出が私のうちに一どきに蘇(よみがえ)って来て、私は心臓がしめつけられるような気がした。そうして私は自転車ごと殆(ほと)んど倒れそうになった。私にはとてもこれ以上先きへ進むことは出来そうもないように思えた。……そのとき、その道ばたの一軒の茅葺(かやぶき)小屋の中から、襤褸(ぼろ)をきた小さな子供が走り出してきて、その四つ手網を重そうに一人で持ち上げだした。その網の中には、きらきらと光りながら跳(は)ねているのでそれと分るような、小さな魚が二三匹ひっかかっていた……
 私はやっと決心しながら、自転車を反対の方向に廻して、その村からずんずん引っ返していった。

註一 「わたくしは幼い時向島(むこうじま)小梅村に住んでいた。初の家は今須崎町になり、後の家は今小梅町になっている。その後の家から土手へ往くには、いつも常泉寺の裏から水戸邸の北のはずれに出た。常泉寺はなじみのある寺である。    わたくしは常泉寺に往った。今は新小梅町の内になっている。枕橋(まくらばし)を北へ渡って徳川家の邸の南側を行くと、同じ側に常泉寺の大きい門がある。わたくしは本堂の周囲にある墓をも、境内の末寺の庭にある墓をも一つ一つ検した。日蓮宗の事だから、江戸の市人(いちびと)の墓が多い。……」    これは鴎外の『澀江抽斎』の一節で、抽斎の師となるべき池田京水の墓を探(さが)し歩いたときの記事である。大正四年の暮のことだそうで、そのころ私は十二三になっていた。丁度毎日のようにその常泉寺のほとりで遊んでいたので、此処(ここ)を読んだときは云い知れずなつかしい気がした。



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