後の業平文治
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著者名:三遊亭円朝 

後の業平文治三遊亭圓朝鈴木行三校訂編纂  一 えゝ此の度(たび)は誉(ほま)れ高き時事新報社より、何か新作物を口演致すようとの御註文でございますから、嘗(かつ)て師匠の圓朝(えんちょう)が喝采(かっさい)を博しました業平文治(なりひらぶんじ)の後篇を申上げます。圓朝師が在世中、数百の人情噺(にんじょうばなし)を新作いたしました事は皆様が御承知であります。本篇は師が存生中(ぞんしょうちゅう)、筋々(すじ/\)を私(わたくし)にお話しになりました記憶の儘(まゝ)を申上ぐる次第であります。そも私(わたくし)が師匠の門に入(い)りましたのは御維新前(まえ)で、それから圓橘(えんきつ)となりましたのが明治二年の五月でございます。まだ其の頃は圓朝師も芝居掛り大道具というので、所謂(いわゆる)落語と申しましては一夜限り或(あるい)は二日続きぐらいのもの、其の内で永く続きましたのが新皿屋敷(しんさらやしき)、下谷義賊(したやぎぞく)の隠家(かくれが)、かさねヶ淵(ふち)の三種などでございます。それより素話(すばなし)になりましてからは沢(さわ)の紫(むらさき)(粟田口(あわだぐち))に次(つい)では此の業平文治でございます。その新作の都度(つど)私(わたくし)どもにも多少相談もありましたが、その作意の力には毎度ながら敬服して居ります。師匠は皆様が御存じの通り、業平文治は前篇だけしか世に公(おおやけ)にいたしませぬが、その当時私(わたくし)は後(のち)の文治の筋々を親しく小耳に挟(はさ)んで居りました。即(すなわ)ち本篇が師匠の遺稿にかゝる後の業平文治でございまする。さて師匠存生中府下の各寄席(よせ)で演じ、または雑誌にて御存じの業平文治は、安永の頃下谷(したや)御成街道(おなりかいどう)の角に堀丹波守(ほりたんばのかみ)殿家来、三百八十石浪島文吾(なみしまぶんご)という者の忰(せがれ)でございまして、故(ゆえ)あって父文吾の代より浪人となり、久しく本所(ほんじょ)業平橋(なりひらばし)に住居(すまい)いたして居りましたが、浪人でこそあれ町地面(まちじめん)屋敷等もありまして、相応の暮しをして居りました。で、業平橋に住居して居りました処から業平文治といいますか、乃至(ないし)浪島を誤って業平と申しましたか、但(たゞ)しは男の好(よ)いところから斯(か)く綽名(あだな)いたしたものかは確(しか)と分りませぬ。併(しか)し天性弱きを助け強きを挫(ひし)ぐの資性に富み、善人と見れば身代(しんだい)は申すに及ばず、一命(いちめい)を擲(なげう)ってもこれを助け、また悪人と認むれば聊(いさゝ)か容赦なく飛蒐(とびかゝ)って殴り殺すという七人力(にんりき)の侠客(きょうかく)でございます。平生(へいぜい)荒々しき事ばかり致しますので、母親も見兼て度々(たび/\)意見を加えましたが、強情なる文治は一向肯入(きゝい)れませぬ。情深(なさけぶか)き母親も終(つい)には呆れ返って、「これほど意見しても肯かぬ気性の其方(そち)、行(ゆ)く/\は親の首へ縄を掛けるに相違ない、長生(ながいき)して死恥(しにはじ)を掻こうより寧(いっ)そのこと食事を絶って死ぬに越したことはない」と涙を流しての切諫(せっかん)、それを藤原喜代之助(ふじわらきよのすけ)が見兼て母に詫入(わびい)れ、母は手ずから文治の左の腕に母という字を彫付(ほりつ)け、「以来は其の身を母の身体と思って大切にいたせよ」と申付けまして、それからというものは一切表へ出しませぬ。さア今まで表歩きばかりしていた者が、俄(にわか)に家(うち)にばかり居(お)るようになりましたから、少しく身体の具合が悪くなりました。母も心配して、気晴しに参詣(さんけい)でもするが宜(よ)いと云われて、母と同道で本所の五つ目の五百羅漢(らかん)へ参詣の帰り途(みち)、紀伊國屋友之助(きのくにやとものすけ)の大難を見掛け、日頃の気性直(す)ぐに助けようとは思いましたが、母の手前そういう訳にもまいりませぬから、渋々(しぶ/\)我家(わがや)へ帰り、様子を尋ねますると、友之助という者が大伴蟠龍軒(おおともばんりゅうけん)と賭碁(かけご)を打って負けましたので、女房お村を奪(と)られた上に、百両の証文が三百両になっているという、友之助は斯(か)くと聞いて大いに怒り、大伴に向って悪口(あっこう)いたしましたので、蟠龍軒は友之助を取って押え、高手小手(たかてこて)に縛り上げて割下水(わりげすい)の溝(どぶ)へ打込んだという話を聞き、義憤むら/\と発して抑え難く、ついに蟠龍軒の道場へ踏込(ふみこ)み、一味加担の奴ばらを打殺し、大伴だけ打漏(うちもら)して、窃(ひそ)かに自宅へ帰ったという処までが、故圓朝師の話でございます。これより私(わたくし)が予(かね)て聞きおぼえたる記憶を喚起(よびおこ)して、後の文治の伝記を伺います。さて其の翌日は安永五年の六月三十日でございます、蟠龍軒の道場にて何者にか数多(あまた)の者が殺されたという届出(とゞけいで)がありますから早速北割下水蟠龍軒の道場へ御検視が御出張になりまして吟味いたしましたが、誰が殺したのか一向分りませぬ。其の頃八丁堀の町与力小林藤十郎(こばやしとうじゅうろう)という人は、「これは多分蟠龍軒のためさん/″\恥辱を受けた友之助の仕事であろう」と疑いましたが、誰(たれ)あって文治の仕事と心付く者はございませぬ。まして百日あまり外出いたしませず、また近所の者は日頃文治を蔭(かげ)でさえ呼棄てにする者はないくらいな人望家(じんぼうか)、子供に至るまで、業平の旦那、業平の旦那。と敬って居(お)るのでありますから、文治と疑う者のないのも道理でございます。その明(あく)る日、小林藤十郎殿は本所の名主の家(うち)へ出役(しゅつやく)いたし、また其の頃八丁堀にて捕者(とりて)の名人と聞えたる手先二人(ににん)は業平橋の料理屋にまいりました。  二 手先の林藏(りんぞう)と申します者が立花屋(たちばなや)へ参りまして、 林「親方ア宅(うち)かえ」 主「これは親分さん、さアどうぞ此方(こちら)へお上りなさいまし、おい、お火を持って来い」 林「親方、今日来たのは外(ほか)じゃアねえ、少し大切(だいじ)な事があって来たのだから不都合のねえように云ってくんなよ」 主「へえ大切な御用と云うのは何事ですか」 林「奥に友之助が隠れているな」 主「えっ」 林「やい親爺(おやじ)、とぼけるな、それだから予(あらかじ)め不都合のないようにしろと云ったんだ、二三日(ち)前から緑町(みどりちょう)の医者が出入(でいり)をしているが、ありゃア誰が医者にかゝっているのだ」 主「えっ……」 林「この親爺、何処(どこ)までとぼける積りだ、えゝ面倒だ、金藏(きんぞう)踏ん込(ご)め」 金「やい友之助、御用だ」 主「もし/\親分え、そんな無慈悲な事を為すっちゃア困るじゃアございませんか、友之助は身体中疵(きず)だらけでございますぜ」 林「うむ、少しは疵も付いたろう、自業自得(じごうじとく)だ、誰を怨(うら)むところがあるか、神妙にお縄を頂戴しろえ、これ友之助、大切(たいせつ)な御用だぞ、上(かみ)へお手数(てすう)の掛らねえように有体(ありてい)に申上げろよ」 友之助は何(なん)の為か更に合点(がてん)が行(ゆ)かず、呆気(あっけ)に取られて居りますと、林藏は屹(きっ)と睨(にら)み付けて、 林「やい友之助、貴様は十五日の晩には何処(どこ)にいた」 主人は横合(よこあい)から、 主「親方、大切な御用とは何(ど)ういう筋かは知りませぬが、友さんは十四日の夕景、蟠龍軒一味の者にさん/″\な目に遇いましてな、可愛相(かわいそう)に身体も自由にならないで、私方(わたくしかた)へ泊りました、で、十五日には外へも出ませず、終日(いちんち)此処(こゝ)にうむ/\呻(うな)りながら寝て居りました」 林「黙れ、貴様に尋ねるのじゃアねえ、これ友之助、貴様は十四日は割下水の蟠龍軒の屋敷で、少しばかり打擲(ちょうちゃく)されたのを遺恨に思って、十五日の晩に其の仕返しを為(し)ようと云う了簡(りょうけん)で、蟠龍軒の屋敷へ切込(きりこ)んだろうな」 友之助は恟(びっく)り首を擡(もた)げて、 友「なゝなゝ何を云いなさる」 林「いやさ友之助、どうせ天の網を免(のが)れる訳にゃアいかねえ、あの手際(てぎわ)は貴様一人の仕業じゃアあるめえの、相手は何者だ、男らしく有体に申上げた其の上でお慈悲を願うが宜(よ)いぞ、己(おれ)たちも悪くは計らわねえ、ぐず/\すると却(かえ)って貴様の為にならねえぞ」 友之助は怪訝(けゞん)な面持(おももち)にて、 友「へえ、あの蟠龍軒めが何(ど)うぞしましたか」 林「友、しらばっくれるな、あの時アたしか三人だったなア」 友「あなたの仰しゃることは何が何(なん)だか一向分りませんが」 林「ふむゝ、貴様は往生際(おうじょうぎわ)の悪い奴だな、よし此の上は手前(てめえ)の身体に聞くより外(ほか)はねえ」 主「えゝ親分、一体これは何ういう訳ですか」 林「汝(われ)の知った事じゃアねえや」 主「それでも斯様(こん)な大病人(たいびょうにん)を何うなさる積りで」 林「おい金藏、この親爺も腰縄(こしなわ)にしてくれえ、兎(と)も角(かく)も玄関まで引いて往(い)くから……」 この玄関と申しますのは、其の頃名主の邸(やしき)を通称玄関と申したのでございます。 主「親分、なんで其様(そん)な足腰の立たないものをお縛りなさるのです、私(わたくし)ア名主様へ引かれるような罪を犯した覚えはございません」 林「往(い)く処へ往けば分らア、黙っていろ、金藏、この近所に駕籠屋(かごや)があるだろう、一挺(いっちょう)雇って来い」 やがて友之助と立花屋の主人(あるじ)を召捕(めしと)って相生町(あいおいちょう)の名主方へ引立(ひきた)てゝまいりました。玄関には予(かね)て待受(まちう)けて居りました小林藤十郎、左右に手先を侍(はべ)らせ、友之助を駕籠から引出して敷台に打倒(うちたお)し、 小「京橋銀座三丁目紀伊國屋友之助、業平橋立花屋源太郎(たちばなやげんたろう)、町役人」 一同「はゝア」 小「友之助、其の方は去る十五日の夜(よ)、大伴蟠龍軒の屋敷へ踏込(ふんご)み、家内の者四人、蟠龍軒舎弟(しゃてい)蟠作(ばんさく)を殺害(せつがい)いたしたな、何(なん)らの遺恨あって、何者を語らって左様な無慙(むざん)なる事を致したか、さア後(あと)で不都合のなきよう有体に申立てろ」 立「まア怪(け)しからぬ仰せでございます、余計な事を申すようでございますが、友之助は御覧の通り疵だらけ、十四日夜はさん/″\打(ぶ)たれて動きが取れませず、私方(わたくしかた)へ泊り込んだのでございます」 小「黙れ」 林「さア友之助、とても免(のが)れるものじゃアない、只今旦那のお尋ねの通り有体に申上げろ」 友之助は暫(しばら)く考えて居りましたが、 友「へえ、大伴の屋敷へ切込みまして、家内四人の者を殺害(せつがい)いたしましたるは全く私(わたくし)に相違ございません、へえ遺恨あって切込みました」 立「これ/\友さん、血迷っちゃアいかねえ、お前は十四日に……」 林「黙れ、其の方の口を出すべき場合でない、さア友之助、貴様一人の仕業(しわざ)でないと云うことは分って居(お)る、何者を同道してまいったか、一つ白状して後(あと)を隠しては何(なん)にもならんぞ」友「どの様な御吟味を受けましても、外(ほか)に頼んだ者はございませぬ」  三 林藏は少しく気を焦立(いらだ)ちて、 林「これ汝(われ)がな、私(わたくし)一人の仕事でございますなどとしら[#「しら」に傍点]を切っても、うむそうかと云って済ますような盲目(めくら)じゃア無(ね)え、よく考えて見ろよ、手前(てめえ)のような痩男(やせおとこ)に、剣術遣(つか)いの屋敷へ踏込(ふんご)み三四人の人殺しが出来る仕事かえ、さアいよ/\申上げねえか、旦那に申上げて少し叩いて見ようか」 友「何(なん)と云われても私(わたくし)一人の仕業に相違ございません」 立「もし/\友さん、お前何(ど)うしたんだ、気が違やアしねえか、旦那様え、なか/\此の人一人でそんな事の出来る訳はございません、全く大疵のために気が違ったに相違ございません…おい友さん、確(しっ)かりしなよ」 林「えゝ黙れ、旦那様、此奴(こいつ)はなか/\一筋縄じゃア白状しませんぜ、一つ叩きましょうか」 小「まア林藏待て、下手人(げしゅにん)は友之助と決って居(お)るから追って又取調べるであろう、何しろ三四(さんし)の番屋へ送って置け」 この三四の番屋と申しますのは本材木町(ほんざいもくちょう)三四丁目の町番屋にて、この番屋には二階があって常の自身番とは違い、余程厳しく出来て居ります。町番屋とは申しながら重(おも)に公用に使ったものでございます。尚(な)お小林藤十郎殿は林藏に向いまして、 小「これ林藏、立花屋源太郎の縄を解いて家主(いえぬし)へ引渡せ」 林「はゝア、おい差配人(さはいにん)、不都合のないように預かり置け、友之助立てえ」 其の儘(まゝ)駕籠に乗せて本材木町の番屋を指(さ)して出て往(ゆ)きました。お話別れて、此方(こちら)は文治の宅、母は九死一生で、家内の心配一方(ひとかた)ならず、折(おり)から訪れ来(きた)る者があります。 「えゝ頼む」 森松「やアこれは/\何方(どなた)かと思ったら藤原様、どうも大層お立派で……お萓(かや)様も御一緒ですか宜(よ)うおいでゝございます」 藤「お母様(ふくろさま)は」 森「いやもう、お悪いの何(なん)のじゃアございません、何(ど)うも今の様子じゃおむずかしゅうございますな」 藤「なに、むずかしい、そんなら少しも早く奥へ」 森「どうか此方(こちら)へ……旦那え、藤原様と御新造(ごしんぞ)様がおいでになりました」 文「おゝそうか、さア此方へ、やア何(ど)うも暫く、お萓か、よくおいでだ」 両人「お母様が大層お悪いそうで、さぞ御心配でございましょう」 文「はい/\有難う、今度は些(ち)とむずかしかろうよ」 藤「それは何(ど)うも、併(しか)し私(わたくし)どもの顔が分りましょうか」 文「いや少しは分りそうだ、兎も角も此方へ……お母様(っかさま)、藤原氏(うじ)がまいりました、お母様、分りましたか、お萓も一緒に……」 藤「伯母様、藤原喜代之助でござる、お萓も一緒に、分りましたか、大層お瘁(やつ)れ……」 と申しますと、病人に通じたものと見えて、「おゝ」と少し起上ろうと致しますから、 藤「どうか其の儘にして」 母「永いことお世話になりました、此の度(たび)はもうこれがお訣(わか)れで、お萓は御存じの通り外(ほか)に身寄もなき不束者(ふつゝかもの)、何(ど)うぞ幾久しゅう、お萓や見棄てられぬように気を付けなよ、それでも文治の嫁が思ったより優しいので、何(ど)の位安心したか知れません、もう是で思い残すことはありません」 此の時台所の方に当って頻(しき)りに水を汲んでは浴(あび)せる音が聞えまする何事か知らぬと一同耳をそばだてますると、 「南無大聖不動明(なむだいしょうふどうみょう)……のうまく……む……だあ……」 文治はそれと心付きまして、手燭(てしょく)を持って台所の戸を明けますと、表は霙(みぞれ)まじりに降(ふり)しきる寒風に手燭は消えて真黒闇(まっくらやみ)。 文「誰だえ」 一向答えがありませぬ。一生懸命ざあ/\と寒水を浴びては「南無大聖不……」 文「おい、誰か提灯(ちょうちん)を持って来てくれ」 藤原が提灯を持ちまして袖(そで)に隠し、燈火の隙間(すきま)から井戸端(いどばた)を見ますると、お浪(なみ)が単物(ひとえもの)一枚に襷(たすき)を掛け、どんどん水を汲(くん)では夫國藏(くにぞう)に浴せて居ります。國藏は一心不乱に眼(まなこ)を閉じ合掌して、 「南無大聖不動尊、今一度お母上様(はゝうえさま)の御病気をお助け下さりませ」 文「これ其処(そこ)に居(お)るのはお浪じゃないか、國藏待て、その親切は千万(せんばん)辱(かたじ)けないが、まア/\此処(こゝ)へ来い、お浪や早く國藏に着物を着せてやれ、森松、國藏夫婦は何時(いつ)の間(ま)に来たのだ」 森「へえ、藤原様のおいでの少し前、いつもは蔵前の不動様へまいるんですが、今夜は御門が締りましたそうで」 文「うむ、毎夜此の通りか、寒中といい況(ま)して今夜は此の大雨に……國藏、お前の親切は千万辱けないがな、命数は人の持って生れたものじゃ、寿命ばかりは神にも仏にも自由になるものじゃアない、神様や仏様は人の苦しむのを見て悦びなさる筈(はず)はないが、人が物を頼むにも無理力(むりぢから)を入れて頼んだからって肯(き)くものではない、お前も同じ人に生れていながら、この寒空(さむぞら)に垢離(こり)など取って、万一身体に障(さわ)ったら、それこそ此の上もない不孝じゃないか、お前の親切は届いて居(お)る、もう/\止してくれよ」  四 文治は國藏夫婦の水垢離(みずごり)を諫(いさ)めて居りますると、妻のお町が泣声にて、 町「旦那様ア、お早く/\」 文「なに、お母様(っかさま)が息を…」 と病間に駈戻り、 文「お母様、お母様、ほい、もういかんか」 町「お母様ア、お母様ア」 文「これ/\お町、そう泣悲(なきかなし)んでも仕方がない、もう諦めろ」 萓「伯母様(おばさま)え、伯母様え、もう是がお別れか、伯母様え」 藤「お萓、そう呼ぶものではない、文治殿、さぞ/\御愁傷(ごしゅうしょう)でござりましょう」 文「いや永い御苦労を掛けました、あゝ何(ど)うも、思えば私(わたくし)も不孝を尽しましたなア」 お町を始め一同顔を揃(そろ)えて言葉もなく、鼻詰らして俯向(うつむ)く折から、表の方(かた)で慌(あわた)だしく、 「森松々々」 森「おうい、豊島町(としまちょう)の棟梁(とうりょう)か」 これは亥太郎(いたろう)という豊島町の棟梁でございます。 亥「おゝ亥太郎だ」 森松が立って戸を明けますると亥太郎は息急(いきせ)きながら、 亥「森松、お母様(ふくろさま)は」 森「たった今……」 亥「えッ、亡(なくな)りなすったか、道理で新しい草鞋(わらじ)が切れて変だと思った、えゝ間に合わなかったな」 森「昨日(きのう)からむずかしいから、お前さんの所へ知らせに往(い)くとな、今朝早く成田へ立ったと云うことだから、こいつア必定(てっきり)お百度だろうと後(あと)から往こうか知らんと思ったが、家(うち)が無人(ぶにん)で困っているのに何(なん)ぼ信心だからと云って、出先から成田へ往ったら又旦那に叱られるだろうと、こう思って止したのが結句幸いであった、今も國藏兄(あにい)が成田様の一件で小言まじりに一本やられたところだ」 亥「己(おら)アな、昨夜(ゆうべ)の内にお百度を済まして、何(ど)うやら気が急(せ)かれるから、今朝早立(はやだち)にして、十八里の道を急ぎ急いでもう些(ちっ)と早くと思ったが、生憎(あいにく)の大雨で道も捗取(はかど)らず、到頭(とうとう)夜半(よなか)になっちまった、あゝ何うも胸がドキ/\して気が落着かねえ、水を一杯(いっぺえ)くれねえか」 森「おゝ気の付かねえ事をした」 文「やア亥太郎殿か、成田へお出で下すったそうで、母のために毎(いつ)も変らぬ御親切、千万辱けのう存じます、母も只(たっ)た今往生いたしました、さア何(ど)うか直(す)ぐに奥へ往って見てやって下さい」 亥「えゝ皆様御免なせえ、えゝお母様(ふくろさま)、なぜ私(わっち)が……旦那御免なせえよ、こんな時にゃア何(なん)と挨拶(あいさつ)して宜(い)いのか私にゃア分んねえ」 藤「これは亥太郎殿、藤原喜代之助でござる、あなたの御親切で伯母も誠に宜(よ)い往生を致しました、人の寿命ばかりは何(なん)とも致し方がありません」 亥「旦那御免なせえ、私(わっち)やア物心をおぼえて此の方(かた)、涙というものア流したことが無(ね)えんですが、いつぞや親子てえものは斯(こ)う/\いうもんだと、此方(こちら)の旦那に意見されてから、此の間親父の死んだ時にゃア思わず泣きました、今日で二度目でござんす、御免ねえ」 とわッ/\と泣出しました。時に文治は、 文「いつも変らぬ御親切、有難う存じます、さぞお腹(なか)が減りましたろう」 亥「なアに、さしたる事もありません」 文「お昼食(ちゅうじき)は何方(どちら)でやって来なすったね」 亥「なアに昼食なんざア、実は十八里おっ通しで」 文「やッ、それは/\昼食も喰(た)べずに十八里日着(ひづき)とは、何(ど)うも恐入りましたなア」 亥「云われて始めて腹が減った、そんなら森松、握飯(むすび)でも呉れや」 森「さア大変だ、昼間からの騒ぎで飯を炊くのを忘れたア」 町「いゝえ、私が炊いて置きましたよ、さア亥太郎さん召上れ」 亥「こりゃア勿体(もったい)ねえな、やい森公、貴様は相変らず馬鹿だな」 森「こりゃア己の十七番だ」 亥「それも違ってらア、馬鹿野郎」 それから手を分けて仏の取片付(とりかたづけ)をいたしまして、葬式はいよ/\明後日と取極めました。藤原喜代之助は明日御登城のお供がありますから、夜(よ)の中(うち)に屋敷へ帰りまして、翌朝重役へ、 藤「明日お供を致します筈でござりますが、親戚(しんせき)に忌中これあり、如何(いかゞ)致しましょうや」 と伺い出でますると、何(ど)ういう都合でござりますか、藤原は明後日葬式を菩提寺(ぼだいじ)まで見送ることが出来ませんので、その翌晩通夜(つや)をいたし、翌早朝葬式を途中まで見送って、自分は西丸下へ帰り、お葬式(とむらい)は愛宕下(あたごした)青松寺(せいしょうじ)で営みまして、やがて式も済みましたから、文治は※※(かみしも)のまゝ愛宕下を出まして、亥太郎、國藏、森松の三人を伴い、其の他の見送り人は散り/″\に立帰りました。丁度江戸橋へ掛ってまいりますと、朝の巳刻(よつ)頃でございますが、向うから友之助が余程の重罪を犯したものと見えて、引廻しになってまいります様子、これは友之助の罪状が定(きま)って、小伝馬町(こでんまちょう)の牢屋の裏門を立出(たちい)で、大門通(おおもんどおり)から江戸橋へ掛ってまいりましたので、角の町番屋にて小休みの後(のち)、仕置場へ送られるのでございます。  五 文治が先に立って江戸橋へ向って参りますと、真先(まっさき)に紙幟(かみのぼり)を立て、続いて捨札(すてふだ)を持ってまいりますのは、云わずと知れた大罪人をお仕置場へ送るのでございます。文治は何気なく正面から罪人を見ますと、紛(まご)う方(かた)なき友之助ですから、はて不思議と捨札を見ると、「京橋銀座三丁目当時無宿友之助二十三歳」と記してありまして、「右の者去(さ)んぬる六月十五日本所北割下水大伴蟠龍軒方へ忍び込み、同人舎弟を始め外(ほか)四人の者を殺害(せつがい)致し候者也(そうろうものなり)」と読むより、左(さ)なきだに義気に富みたる文治、血相を変えて引廻しの馬の前に寄付(よりつ)き、罪人の顔を見ますと、今度は俯向(うつむ)いていまして少しも顔が見えませんけれども、友之助に相違ありませんから、文治は麻※※(あさがみしも)長大小(ながだいしょう)のまゝ馬の轡(くつわ)に飛付く体(てい)を見るより附添(つきそい)の非人(ひにん)ども、 「やい/\何を為(し)やがる、御用だ/\」 亥「やい乞食(こじき)めら、静かにしろえ」 非「やア豊島町のがむしゃら[#「がむしゃら」に傍点]だぜ」 と怯(ひる)んで居りますところへ、与力が馬上にて乗付けまして、 与「これ/\其の方(ほう)は何をするのか、御用だ、控えろ」 と制する言葉に勢(いきおい)を得て、非人どもが文治を突退(つきの)けようと致しますると、國藏、森松の両人が向う鉢巻、片肌脱(かたはだぬ)ぎ、 両人「この乞食め、何を小癪(こしゃく)なことを為(し)やがる、ふざけた事をすると片ッ端(ぱし)から打殺(ぶちころ)すぞ」 さア江戸橋魚市(うおいち)の込合(こみあい)の真最中(まっさいちゅう)、まして物見高いのは江戸の習い、引廻しの見物山の如き中に裃(かみしも)着けたる立派な侍が、馬の轡に左手(ゆんで)を掛け、刀の柄(つか)へ右手(めて)を掛けて、 文「さア一歩も動かすことは成らぬ、無法かは知らぬが、此の友之助は決して罪人ではない、その罪人は此の文治だア」 与「これ/\何(なん)であろうと此の通り当人が白状の上、罪の次第が極(きま)ったのじゃ、今となっては致し方がないわ、其処(そこ)退(の)けッ」 文「いかさま無法ではござるが、狂人ではござらぬ、一寸(ちょっと)も放すことは出来ませぬ」 と七人力の文治が引留めたのでございますから、如何(いかん)とも致し方がございませぬ。馬上なる友之助は何事か夢中で居りましたが、暫くして漸(ようや)く我に返りまして、 友「えゝ旦那様でござりますか、お久しくござります」 文「友之助、よく生きていてくれたなア、貴様が此の様な目に逢うとは夢にも知らなんだ、さぞ難儀したろうな、此の文治は自分の罪を人に塗付け、のめ/\生きて居(お)るような者ではないぞよ、目指す相手の蟠龍軒を討洩らし、心当りを捜す内、母の大病に心を引かれ、今日(きょう)まで惜(おし)からぬ命を存(なが)らえていたが、もうお母様(っかさま)を見送ったからにゃア後(あと)に少しも思い残すことはない、此の上は罪に罪を重ねても貴様を助けにゃア己(おれ)の義理が立たない、さアお役人衆(やくにんしゅ)、お手数(てかず)ながら此の文治に縄を打って、友之助と共に奉行所へお引立て下せえ、それとも乱暴者と見做(みな)し此の場に切捨てるというお覚悟なら、遺憾ながら腕の続く限り根(こん)限りお相手致します、如何(いか)に御処分下さるか」 と詰寄せまする。橋の上から四辺(あたり)は一面の人立(ひとだち)で、往来が止ってしまいました。 甲「こゝは往来だ、何を立っていやがるのだえ、さア/\歩け歩け」 時に亥太郎國藏の両人口を揃えて、 「静かにしろ、ぐず/\すると打殺(ぶちころ)すぞ」 野次馬「やア豊島町の乱暴棟梁だ、久しく見掛けなかったが、また始めたぞ」 流石(さすが)の与力も文治と聞いて怖気付(おじけつ)き、一先(ひとま)ず文治と友之助の両人を江戸橋の番屋へ締込みましたが、弥次馬連は黒山のようでございます。表に居りました亥太郎、森松、國藏は躍起(やっき)となって、 「此奴(こいつ)ら何が面白くって見に来やがった、片ッ端から将棋倒しにしてしまうぞ」 と有合(ありあわ)せたる六尺棒をぐん/\と押振廻(おっぷりまわ)して居ります。飯の上の蠅(はい)同然、蜘蛛(くも)の子を散らしたように逃げたかと思うと、また集ってまいります。其の中(うち)に与力の家来は斯(か)くと八丁堀へ知らせ、また一方は奉行所へ訴えますと、諸役人も驚いて早速駈付けました。時に表に居りました亥太郎、國藏、森松の三人は自身番へ這入りまして、 亥「えゝお役人様、蟠龍軒の屋敷へ踏込(ふんご)んで四五人の者を殺したのは私(わっち)です、何(ど)うぞ私を縛っておくんなせえ」 森「亥太郎兄(あにい)か、そんな事を云っちゃア困るじゃねえか、お役人様、そりゃア私(わっち)の仕業で」 國「馬鹿をいうな、お前(めえ)たちは此の騒ぎで血迷うたか、己がやッつけたんだ」 文「一同静かにしろ、兎も角も御用の馬を引留めました乱暴者は私(わたくし)でござります、お手数(てかず)ながらお引立(ひきたて)の上、その次第を御吟味下さいまし」 出張の役人は文治を駕籠に乗せ、外(ほか)一同は腰縄にて、町奉行石川土佐守(いしかわとさのかみ)役宅へ引立て、其の夜(よ)は一同仮牢(かりろう)に止(とゞ)め、翌日一人々々に呼出して吟味いたしますると、何(いず)れも私(わたくし)が下手人でござる、いや私(わたくし)が殺したのでござると強情を云いますので、誰が殺したのかさっぱり分らぬように成りました。取敢(とりあ)えず文治には乱暴者として揚屋入(あがりやいり)を仰付(おおせつ)け、其の他(た)の者は当分仮牢留置(とめおき)を申付けられました。  六 さて明治のお方様は、昔の裁判所の模様は御存じありますまいが、今の呉服橋内(うち)にありまして、表から見ますと只の屋敷と少しも変った処はありませぬ。只だ窓々に鉄網(かなあみ)が張ってあるだけの事、また屋敷の向う側の土手に添うて折曲(おりまが)った腰掛がありまして、丁度白洲(しらす)の模様は今の芝居のよう、奉行の後(うしろ)には襖(ふすま)でなく障子が箝(はま)っていまして、今の揚弓場(ようきゅうば)のように、横に細く透いている所があります。これは後(うしろ)から奥の女中方が覗(のぞ)く処だと申しますが、如何(いかゞ)でございましょうか。白洲には砂利が敷いてあって、其の上は廂(ひさし)を以(もっ)て蔽(おお)い、真中(まんなか)は屋根無しでございます。正面に蓆(むしろ)の敷いてある処は家主(いえぬし)、組合、名主其の外(ほか)引合(ひきあい)の者が坐(すわ)る処でございます。文治は今日お呼出しになりまして、奉行石川土佐守御自身の御吟味、やがてシッ/\という警蹕(けいひつ)の声が聞えますと、正面に石川土佐守肩衣(かたぎぬ)を着けて御出座、その後(うしろ)にお刀を捧(さゝ)げて居りますのはお小姓でございます。少しく下(さが)って公用人が麻裃で控えて居ります。奉行の前なる畳の上に控えて居りますのは目安方(めやすかた)の役人でありまして、武士は其の下の敷台の上に麻裃大小なしで坐るのが其の頃の扱いでございます。一座定まって目安方が名前を読上げますと、奉行もまた其の通り、 奉「本所業平橋当時浪人浪島文治郎、神田豊島町惣兵衞店(そうべえたな)亥太郎、本所松倉町源六店(げんろくたな)國藏、浪人浪島方同居森松、並(ならび)に町役人、組合名主ども」 と、一々呼立てゝ後(のち)、 奉「浪島文治郎、其の方儀去(さん)ぬる十二月二十一日、江戸橋に於て罪人友之助引廻しの際、一行を差止め、我こそ罪人なりと名告(なの)り出(い)で候う由なるが、全く其の方は数人の人殺しを致しながら、今日(きょう)まで隠れいるとは卑怯(ひきょう)な奴じゃぞ、併(しか)し上(かみ)に於ては吟味の末、友之助が自身白状致したに依って、仕置を申付けた次第であるぞ、上の裁判に一点の曇りは無いわ、何故(なぜ)今日となって左様な事を申出(もうしい)でたか、徒(いたず)らに上を弄(もてあそ)ぶに於ては其の分(ぶん)には捨置かんぞ」 文「恐れながら文治申上げます、不肖なれども理非の弁(わきま)えはございます、お上様(かみさま)を弄ぶなどとは以(もっ)ての外(ほか)の仰せでございます、かく申す文治、捨置きがたい仔細あって蟠龍軒を殺害(せつがい)いたすの覚悟にて、同人屋敷へ踏込(ふみこ)み候ところ、折悪(おりあ)しく同人を討洩らし、如何(いか)にも心外に存じ候ゆえ、一時其の場を遁(のが)れ、たとい何処(いずく)の果(はて)に潜むとも、汝(おのれ)生かして置くべきや、無念を霽(は)らして後(のち)訴え出でようと思い居ります内、母の大病、めゝしくも一日々々と看病に其の日を送り、命数尽きて母は歿(みまか)りましたゆえ、今日(こんにち)母の葬式を済まし、一七日(ひとなのか)経ちたる上は卑怯未練なる彼(か)の蟠龍軒を捜し出して、只一打(ひとうち)と思い詰めたる時こそあれ、どういう了簡で濡衣(ぬれぎぬ)を着たかは存じませぬが、江戸橋にて友之助の引廻し捨札を見れば、斯(こ)う/\云々(うんぬん)、よしや目指す敵は討ち得ずとも、我に代って死罪の言渡しを受けたる友之助を助けずば、武士の一分(いちぶん)相立ち申さず、お上へ対し恐多(おそれおお)い事とは存じながら、かく狼藉(ろうぜき)いたし候段、重々恐入り奉(たてまつ)ります、此の上は無実の罪に伏(ふく)したる友之助をお助け下され、文治に重罪を仰付(おおせつ)け下さいますよう願い奉ります」 奉「フウム、然(しか)らば其の方が……」 時に横合(よこあい)より亥太郎「恐れながら申上げます」 役人「控えろ」 亥「えゝ、こりゃア私(わっち)の……」 役「黙れ」 亥「控えろたって残らず私の仕業で」 役「控えろと申すに何を寝言を申す」 亥「だって皆(みん)な己が為(し)たんでえ、お奉行様、この亥太郎を御処分下せえ」 國「恐れながら國藏申上げます、その六月十五日夜は私(わし)が切込みまして殺したのでござんす、何(ど)うぞお仕置き下さいますよう」 森「兄イ、何を云うんだ、蟠龍軒の家(うち)へ切込んだのは誰でもねえ、この森松がやッつけたんで」 亥「やい、森松、國藏、何を云やがる、お奉行様、此奴(こいつ)らア気が違ったんです、私に相違ございません」 役「其の方ども控えろ控えろ」 つくばいの同心は赤房(あかぶさ)の十手(じゅって)を持って皆々の肩を突きましたが一向に聞入れませぬ。お取上げがないので三人とも立上って頻(しき)りに罪を背負(しょ)おうと焦(あせ)って居ります。時に文治が、「これ一同静かにしろ」と睨(にら)み付けられてピタリと止って、平蜘蛛(ひらぐも)のようになって居ります。 文「恐れながら文治申上げます、此の者どもが御場所柄をも弁(わきま)えず大声(おおごえ)に罪を争います為態(ていたらく)、見るに忍びず、かく申す文治までがお奉行職の御面前にて高声(こうせい)を発したる段重々恐れ入ります、尚(な)お此の上一言(いちごん)申し聞けとう存じます故、御免を願い奉ります」 奉「ウム」 文「これ一同よく承まわれ一人(いちにん)ならず三四人を一時(いちじ)に殺すというは剣法の極意(ごくい)を心得て居らんければ出来ぬことじゃぞ、技倆(わざ)ばかりではなく、工夫もせねばならぬ、まして夏の夜(よ)の開放(あけはな)し、寝たというでもなし、さア貴様たちは何(ど)うして切込んだか、その申し口によっては御検視に御吟味をお願い申そうが、何うじゃ」 森「何うでも斯(こ)うでも其の時ア夢中でやッつけた」 と臆面(おくめん)もなく自分の身に罪を引受けようと云う志は殊勝(しゅしょう)なものでございます。  七 文治は少しく声を荒(あら)らげ、 文「これ森松、夢中で人が殺せるか、貴様の親切は辱(かたじ)けないが、人に罪を背負(しょ)うて貰(もろ)うては此の文治の義理が立たない、控えてくれ、お役人様、恐れながら申上げます、全く此の文治の仕業に相違ございませぬ、お疑いが有りますなら誰(たれ)と誰を切りましたのか、一々御吟味の程を願い奉ります」 奉「亥太郎、森松、國藏、其の方どもが上(かみ)を偽る段不届であるぞ、五十日間手錠組合預(あずけ)を申付ける、文治郎其の方ことは吟味中揚屋入(あがりやいり)を申付ける」 左右に居ります縄取(なわとり)の同心が右三人へ早縄を打ち、役所まで連れ行(ゆ)きまして、一先(ひとま)ず縄を取り、手錠を箝(は)め、附添(つきそい)の家主(やぬし)五人組へ引渡しました。手錠と申しますと始終箝めて居(お)るように思召(おぼしめ)す方もあるか知れませぬが、そうではございませぬ。錠の封印へ紙を捲(ま)き、手に油を塗ってこれを外(はず)し、只吟味に出ます時分又自分で箝めてまいりますだけの事でございます。こゝに松平右京殿、御下城の折柄(おりから)駕籠訴(かごそ)を致した者があります。これは御登城の節よりかお退(さが)りを待って訴える方が手続が宜しいからであります。お駕籠先の左右に立ちましたのはお簾先(すだれさき)と申します御家来、または駕籠の両側に附添うて居りますがお駕籠脇(かごわき)、その後(あと)がお刀番でございます、これは殿中(でんちゅう)には御老中と雖(いえど)もお刀を佩(さ)すことは出来ませぬ、只脇差ばかりでございます。それ故お刀番がお玄関口にてお刀を預り、御退出の折に又これを差上げます為にまいりますので、事によるとお増供(ましども)と申して一二人余計連れてまいる事もございます。其の昔、駕籠訴をいたします者は何(いず)れも身軽に出立(いでた)ちまして、お駕籠脇の隙(すき)を窺(うかゞ)い、右の手に願書を捧げ、左手(ゆんで)でお駕籠に縋(すが)るのでございますから、時に依ると簾を突破(つきやぶ)ることがございます。大概お簾先が取押えて、押えの者を呼んで引渡してしまいますが、屋敷へ帰りましてから其の書面は封の儘に焼棄(やきす)て、当人は町人百姓なれば町奉行へ引渡すのでありますが、実は願書は中を入替えて焼棄るのでございますから、御老中へ駕籠訴をするのが一番利目(きゝめ)があったそうでございます。右京殿が御下城の折に駕籠訴を致しましたのは、料理店立花屋源太郎でございます。さて源太郎は隙を覘(うかゞ)って右手(めて)に願書を捧げ、 源「お願いでござい、お願いでござい」 と呼(よば)わりながらお駕籠の簾に飛付きました。 供「それ乱心者が、願いの筋あらば順序を経て来い」 と寄ってたかって源太郎を取押え、押えの侍に引渡してしまいました。右京殿は御帰邸の後(のち)、内々(ない/\)その願書を御覧になりまして、 右京「これ、喜代之助を呼べ」 近習「はゝア、喜代之助殿、御前のお召(めし)でござる」 喜「はゝア」 右「喜代之助、近(ちこ)う進め」 喜「はゝア」 右京殿は四辺(あたり)を見廻し、近習(きんじゅ)に向い、 右「暫く遠慮いたせ」 お人払いの上、喜代之助にお向いなされ、 右「喜代之助、そちを呼んだのは別儀ではないが、今日予が下城の節、駕籠訴いたした者がある、それは本所業平橋の料理屋立花屋源太郎と申す者であるが、そちは浪人中業平橋辺に居ったそうじゃのうあの辺の事はよう存じて居ろう、いつぞや閑(ひま)の折に文治という当世に珍らしい侠客があると云ったのう、その文治と申す者は一体何(ど)ういう人間か」 喜「申上げます、彼は母の命の親とも申すべきもので、近年稀(まれ)な侠客でござります」 右「フーム、侠客か、一体文治の平生(へいぜい)の行状は何(ど)んなものじゃ」 喜「御意にございます、先ず本所にて面前にては申すに及ばず、蔭にても文治と呼棄(よびずて)にする者は一人(いちにん)もござりませぬ、皆文治様々々々と敬(うやも)うて居ります、これにて文治の人となりを御推察を願います」 右「して、そちの母の命の恩人と申すは」 喜「左様でござります、手前が浪人中、別に一文の貯(たくわ)えあるでは無し、朝から晩まで内職をして其の日/\の煙を立てゝ居りました、それが為に手前は始終不在勝でございまして、家内の事は一切女房に任せて置きましたのが手前の生涯の過失(あやまち)でございます、女房のお淺と申します者が、手前の居ります時はちやほや母に世辞をつかいます故、左程邪慳(じゃけん)な女とも思いませなんだが、不在を幸いに只(たっ)た一人(いちにん)の老母に少しも食事を与えませず、ついには母を乾殺(ほしころ)そうという悪心を起して、三日半程湯茶さえ与えず、母を苦しめました」 右「フーム、世には恐ろしい奴もあるものじゃの、そちは何か、内職から帰ってそれを知らなかったのか」 喜「何(なん)とも恐入った次第でございますが、母は当年七十四歳、手前などと違い余程覚悟の宜(よ)い母でございまして、食を絶って死のうという覚悟と見えまして、只病気とのみ申し打臥(うちふ)したまゝ一言(いちごん)も女房の邪慳なことを口外致しませぬ故、一向心付かんで居りました」 右「そちも不覚であったの、それから何(ど)う致した」 と膝を突付(つきつ)け、耳を欹(そばだ)てゝ居ります。  八 喜代之助は其の当時の事を想い起したものと見えまして、口惜(くや)し涙に暮れながら、 喜「悪事というものは隠す事の出来ぬものと見えます、母は手前にさえ一言も話さぬ位ですから勿論(もちろん)隣家の者などに話す気遣いはございませぬが、何時(いつ)しか隣家の者が聞付けて、お淺さんも邪慳な事をなさる人だ、あのような辛抱強い年寄を、何が憎くって乾殺そうという了簡になったのだろう、お気の毒な事だ。と云ってお淺の不在を窺(うかゞ)い、親切にも粥(かゆ)か何かを持参致しました所へ、生憎(あいにく)お淺が帰ってまいりまして、烈火の如く憤(いきどお)り、いきなり其の食器を取って母の眉間(みけん)に打付け、傷を負わせました、其の時文治殿は何処(どこ)で聞付けましたか其の場に駈付けてまいりまして、義理ある親を乾殺そうとは人間業でない、此の様な者を生かして置いては此の上どんな邪慳な事を仕出来(しでか)すかも知れぬと云って、お淺を取って押えて口を引っ裂き……いや私(わたくし)が其処(そこ)へ帰ってまいって手討にいたしました」 右「ふうむ、文治が其の毒婦を殺したのか」 喜「いゝえ私が……」 右「おゝ其方(そち)か、それは何方(どちら)でも宜(よ)い、文治という奴は余程義侠の心に富んだ奴と見えるな、定めし剣術の心得もあろうな」 喜「はい、真影流(しんかげりゅう)の奥許(おくゆる)しを得て居りまして、なか/\の腕利(うできゝ)でございます」 右「天晴(あっぱれ)な腕前じゃの、それで七人力あるのか」 喜「御意にございます」 右「以前(もと)は堀家の浪人と申すが左様であるか」 喜「御意にございます」 右「よし/\、それで文治の素性(すじょう)並びに日頃の行状は能く相分った、少し思う仔細があるから、内々(ない/\)にて蟠龍軒と申す者の素性及び行状を吟味いたすよう取計らえ」 喜「畏(かしこ)まりました」 それから段々蟠龍軒の身の上を取調べますると、法外な悪党という事が分りましたので、事細かに右京殿へ言上(ごんじょう)いたしました。それと同時に此方(こなた)は文治の身の上、石川土佐守殿は再応文治をお取調べの上、口証爪印(こうしょうつめいん)も相済みまして、いよ/\切腹を仰せ渡されました。併(しか)し其の申渡し書には御老中お月番(つきばん)の御印形が据(すわ)らなければ、切腹させる訳にはまいりませぬ。町奉行石川土佐守殿は文治の口供(こうきょう)ばかりではございませぬ、幾枚も一度に持参いたしますると、正面に松平右京殿その外(ほか)公用人御着席、それより余程下(さが)って町奉行が組下(くみした)与力を従え、その口証を一々読上げて、公用人の手許(てもと)迄差出します。御老中はお手ずから印形の紐(ひも)を解くのが例でございます。其の紐の長さは一丈余もありまして、紐の先を御老中が持って居りますと、公用人が静かに印形を取出して奉行に渡し、奉行がこれを請取(うけと)って捺(お)すという掟(おきて)ですから中々暇が取れます。其の内にお退(ひけ)の時計が鳴りますと、直ぐ印形の紐を引きますから、捺しかけても後(あと)は次のお月番へ廻さなければなりませぬ。それが為に命の助かった例(ためし)もございます。だん/\捺してまいりまして愈々(いよ/\)文治の口供に移りますと、まだ公用人が手を掛けませぬ内に御老中が頻(しき)りに紐を引きますので、奉行は捺すことが出来ませぬ。再びお印形をと心の中(うち)に促しながら公用人の顔を見ますと、公用人も不思議に思いまして御老中のお顔を見上げました。けれどもお駕籠訴の一件がありますから、右京殿は不興気(ふきょうげ)に顔を反(そむ)けて居りますので、何が何(なん)だか一向訳が分りませぬ。暫く無言で睨(にら)み合って居ります内に、ちん/\とお退のお時計が鳴りました。右京殿は待っていたと云わぬばかりのお顔にて印形を手許に引寄せ、其の儘すっとお立ちに相成り、続いてお附添一同もお立ちになりました。余儀なく奉行も渋々立帰りましたが、何故(なにゆえ)に御老中が斯様(かよう)な計らいをするのか一向分りませぬ。何か仔細ある事と土佐守殿も智者(ちしゃ)でございますから、其の後(ご)外(ほか)御老中のお月番の時は、文治の口供を持ってまいるのを見合せまして、又々右京殿お月番の時に、前の如く文治の口供を持参いたしますると、矢張前の通り手間取って居りますので、到頭(とうとう)印形を捺すことが出来ませぬ。はて不思議な事と処分に困って居りますと、時のお月番右京殿より、「浪島文治郎事(こと)業平文治儀は尚(な)お篤(とく)と取調ぶる仔細あり、評定所(ひょうじょうしょ)に於(おい)て再吟味仰付(おおせつ)くる」という御沙汰になりました。この評定所と申しますのは、竜(たつ)の口の壕(ほり)に沿うて海鼠壁(なまこかべ)になって居(お)る処でございますが、普通のお屋敷と格別の違いはありませぬ。これは天下の評定所でございますから、御老中は勿論将軍家も年に二度ぐらいはお成(なり)になるという定例(じょうれい)でございます、即(すなわ)ち正面の高座敷(たかざしき)が将軍家の御座所でございまして、御老中、若年寄(わかどしより)、寺社奉行、大目附(おおめつけ)、御勘定(ごかんじょう)奉行、郡(こおり)奉行、御代官並びに手代(てだい)其の外与力に至るまで、それ/″\席を設けてあります。業平文治が数人の者を殺しながら、評定所に於て再吟味になると云うのは全く義侠の徳でございます。  九 月番御老中を始め諸役人一同列座の上、町奉行石川土佐守殿がお係でございまして、文治を評定所へ呼込めという。 同心「当時浪人浪島文治郎、這入りましょう」 と白洲の戸を明けて、当人の這入るを合図に又大きな錠を卸(おろ)しました。文治は砂上に畏(かしこ)まって居りますと、町奉行は少し進み出でまして、 奉「本所業平橋当時浪人浪島文治郎、去(さん)ぬる六月十五日の夜同所北割下水大伴蟠龍軒の屋敷へ忍び込み、同人舎弟なる蟠作並びに門弟安兵衞(やすべえ)、友之助妻村(むら)、同人母崎(さき)を殺害(せつがい)いたし、今日(こんにち)まで隠れ居りしところ、友之助が引廻しの節、自分の罪を人に嫁(か)するに忍びず、引廻しの馬を止め、蟠龍軒の屋敷に於て数人の家人を殺害いたしたるは全く自分の仕業なりと、自訴に及びたる次第は前回の吟味によって明白であるが確(しか)と左様か」 文「恐れながら申上げます、再応自白いたしましたる通り全く文治の仕業に相違ございませぬ」 奉「うむ、何(なん)らの遺恨あって切殺したか其の仔細を申立てえ」 文「申上げ奉ります、大伴蟠龍軒なる者が舎弟蟠作と申し合せ、出入(でいり)町人友之助を語らい、百金の賭碁を打ち候由、然(しか)るに其の勝負は予(かね)て阿部忠五郎と申す碁打と共謀して企(たく)みたる碁でございますから、友之助は忽(たちま)ち失敗いたしました、然(しか)し百両というは大金、即座に調達(ちょうだつ)も出来兼(できかね)ます処から、予ての約束通り百両の金の抵当(かた)に一時女房お村を預けて置きました、それから漸(ようや)く百両の金を算段して持参いたし、女房と証文を返してくれと申入れました処、その証文面(めん)の百という字の上に三の字を加筆いたし、いや百両ではない、三百両だ、もう二百両持って来なければ女房を返す訳には行(ゆ)かぬと云って、只百両の金を捲上(まきあ)げてしまいました、余りの事に友之助が騙(かた)りめ泥坊めと大声を放って罵(のゝし)りますと、門弟どもが一同取ってかゝり、友之助を捕縛(ほばく)して表へ引出し、さん/″\打擲(ちょうちゃく)した揚句(あげく)の果(はて)、割下水の大溝(おおどぶ)へ打込(うちこ)み、木刀を以(も)って打つやら突くやら無慙至極(むざんしごく)な扱い、その折柄(おりから)何十人という多くの人立でございましたが、只気の毒だ、可愛相だというばかりで、もとより蟠龍軒の悪人なことは界隈(かいわい)で誰(たれ)知らぬ者もございませぬ故、係り合って後難(こうなん)を招いてはと皆逡巡(しりごみ)して誰(たれ)一人(いちにん)止める者もございませぬ、ところへ丁度私(わたくし)が通りかゝりましたから、直ぐさま飛懸って止めようかとは存じましたが。予て左様な処へ口出しは一切いたしませぬと誓いました母と同道のこと故、急立(せきた)つ胸を押鎮(おししず)め、急ぎ宅へ帰って宅の者を見届に遣(つか)わしましたる所、以前に弥(いや)増す友之助の大難、最早棄置(すてお)き難しと心得、早速蟠龍軒の屋敷へ駈付け、只管(ひたすら)詫入り、せめて金だけ返してやってくれと申入れましたる所、私に対して聞くに忍びぬ悪口雑言(あっこうぞうごん)、其の上門弟ども一同寄って群(たか)って手当り次第に打擲いたし、今でも此の通り痕(あと)がございますが、眉間(みけん)に打疵(うちきず)を受けました、其の時私は蟠龍軒を始め一同の者を打果(うちはた)そうかとは思いましたが、予て母の意見もあります事ゆえ、無念を忍んで其の儘帰宅いたしました、然(しか)る処母が私の眉間の疵を見まして、日頃其方(そち)の身体は母の身体同様に思えと、二の腕に母という字を入墨(いれずみ)して、あれ程戒めたのに、何故(なぜ)眉間に疵を負うて来たかと問詰められて一言(いちごん)の申訳もございませぬ、母の身体同様の此の身に疵を付けては第一母に対して申訳なく、二つには彼(あ)のような悪漢を生け置く時は、此の後(のち)どのようなる悪事を仕出来(しでか)すかも知れぬ、さぞ町人方が難渋するであろうと思いますと、矢も楯(たて)も堪(たま)らず、彼等の命を絶って世間の難儀を救うに若(し)かずと決心いたし、去(さん)ぬる十五日の夜(よ)、御法度(ごはっと)をも顧(かえりみ)ず、蟠龍軒の屋敷へ踏込(ふんご)み、数人の者を殺害(せつがい)いたし候段重々恐入り奉ります」 奉「蟠龍軒が悪人ならば上(かみ)に於て成敗いたす、悪人だから切殺したと申すは言訳にはならぬぞ」 文「恐入ります、言訳にならぬは承知の上、如何様(いかよう)とも御処分を願います」 奉「其の夜(よ)如何(いかゞ)致して忍び込み、如何(いか)にして殺害いたしたか、詳しゅう申立てえ」 文「其の夜の丑刻(こゝのつ)頃庭口の塀(へい)に飛上(とびあが)り、内庭の様子を窺(うかゞ)いますると、夏の夜とてまだ寝もやらず、庭の縁台には村と婆(ばゞ)の両人、縁側には舎弟の蟠作と安兵衞の両人、蚊遣(かやり)の下(もと)に碁を打って居りました、よって私は突然(いきなり)女ども両人を切らば、二人の奴らが逃げるであろうと斯(こ)う思いまして、心中(しんちゅう)手順を定(さだ)め、塀より下り立ち、先ず庭に涼んで居りました村と婆を後(うしろ)へ引倒し、逃げられぬように手早く二人の足に一刀を切付け、それから縁側の両人を目がけて其の場に切伏せ、当の敵たる蟠龍軒は何処(いずく)にありやと間毎(まごと)々々を尋ねますと、目指す敵(かたき)の蟠龍軒は生憎(あいにく)不在と承知いたし、無念遣(や)る方(かた)なく手向う門人二三を打懲(うちこ)らし、庭に残して置きました村と婆を切殺して其の儘帰宅致しました、このお村という奴は顔に似合わぬ毒婦にて、二世(にせ)を契った夫友之助を振捨てゝ、蟠龍軒と情(じょう)を通じて、友之助を亡(な)き者にせんと企(たく)みたる女でございます、いつぞや私を取って押え、痰(たん)まで吐きかけた恩知らず、私の遺恨とは申しながら、今に残念に思うて居ります」 と、一点の澱(よど)みもなく滔々(とう/\)と申立てました。  十 時に石川土佐守殿、 「其の方の心底(しんてい)はよう相分ったが、左様の義侠心を持ちながら何故其の場を逃退(にげの)きしぞ」 文「恐れながら申上げます、逃げたとはお情ないお言葉でござります、たとい敵(かたき)の片割(かたわれ)数人を切殺すとも、目指す敵の蟠龍軒を討洩らし、其の儘相果て申すも残念至極でござります故、瓦をめくり草の根を分けても彼を尋ね出(いだ)し、遺恨を霽(はら)した其の上にて潔(いさぎよ)く切腹いたそうか、斯(か)くては卑怯(ひきょう)と云われようか、寧(いっ)そ此の場で切腹いたそうかと思案にくれて居りますところへ、何処(どこ)で聞付けましたか下男森松が駈付けまして、母の大病直ぐ帰るようにと急立(せきた)てられて、思わず帰宅仕(つかまつ)りました、ところが案外の大病、母の看護に心を奪われ、思わず今日(こんにち)まで日を送りましたる次第、心から女々しき仕打を致しました訳ではございませぬ、文治の心底、御推量下さらば有難き次第に存じ奉ります」 奉「ふうむ、確(しか)と左様か」 文「恐れながら一言半句(いちごんはんく)たりとも上(かみ)を偽るような文治ではございませぬ、御推察を願います」 奉「うむ、同心、源太郎を引け」 同心「はゝっ、業平橋三右衞門店(さんうえもんたな)源太郎、這入りませえ」 奉「源太郎、其の方儀、去る十四日御老中松平右京殿御下城の折、手続きも履(ふ)まずお駕籠訴申上げ候段不届であるぞ」 源「恐入ります、併(しか)し手前は町人の事にて何(なん)の弁(わきま)えもございませぬが、何の罪もない者に重罪を申付くるという御法(ごほう)がございましょうか」 奉「黙れ今日(こんにち)其の方に尋ぬるは余の儀ではない、友之助が北割下水にて重傷を負い、其の方宅へ持込まれたと云うは何月何日じゃ」 源「御意にございます、それは六月十四日の夕刻とおぼえて居ります」 奉「確(しか)と左様か」 源「はい」 奉「其の時浪島文治郎は其の方宅へまいったか」 源「はい、もう其の日の暮方(くれがた)でございましたが、急いで手前の宅へまいりまして、友之助は何処(どこ)に居(お)るかと申しますから、奥に寝たきり正体もございませんと申上げますと、誠に気の毒な事をしたと申しながら奥へまいって、何(ど)ういう訳で今日(こんにち)あのような目に遇(あ)ったか、事の概略(あらまし)は聞いて来たが、一通りお前の口から聞かしてくれと申しまして、あの悪党の蟠龍軒が無慈悲な為され方を聞いて居りました、そう云う訳では聞棄(きゝずて)にならぬ、これから蟠龍軒の処へ往って掛合(かけお)うて来ると申しますから、手前は彼(あ)のような悪人にお構いなさるなと強(た)って止めましたが、日頃の御気象、お肯入(きゝい)れもなく其の儘おいでになりました、其の時は何ういうお掛合をなすったか知りませんが、遇ったら聞こうと思って居りますと、其の翌晩、蟠龍軒の屋敷に四人の人殺しがあったという評判、只今承われば文治様の仕業だと申す事ですが、全く蟠龍軒の屋敷の者を斬殺(ざんさつ)しましたのは、諸人(しょにん)の為でございます、何卒(なにとぞ)お命だけはお助け下さいますよう願い奉ります」 と文治のあさましき姿を見ては水洟(みずっぱな)を啜(すゝ)って居ります。 奉「それに相違ないな」 源「御意にございます」 奉「文治郎、源太郎、追って呼出すゆえ神妙に控え居(お)ろうぞ」 同心「立ちませえ」 是にて吟味落着致しまして、諸役人評定の上、文治儀は死罪一等を減じて、改めて遠島を申付けるという事に決定いたしました。総じて罪人に仕置を申し渡しますのは朝に限ったものですが、尤(もっと)も牢名主へは其の前夜、明日(あす)は誰々が御年貢(ごねんぐ)ということを知らしたものでございます、そうすると牢名主の指図で、甲の者がお召(めし)になります時は、外(ほか)の罪人二人(ににん)と共に髪を結わせ湯を使わせますから、事実誰(たれ)がお召出しになるのか分りませぬ。銘々慾がありますから自分ではあるまいと思って居ります。さア其の日の朝になりますと、当人へ今日お年貢という事を申し聞けるや否や、すぐ切縄(きりなわ)と申しまして荒縄で縛って連れて行(ゆ)かれるのでございます。此の時は何様(どん)な悪人でも、是が此の世の見納めかと萎(しお)れ返らぬ者はありませぬ。其の昔罪人は日本橋を中央として、東国(とうごく)の者ならば小塚原(こづかっぱら)へ、西国(さいこく)の者ならば鈴ヶ森でお仕置になりますのが例でございます。で、鈴ヶ森へ往(ゆ)く罪人ならば南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)、また小塚原へ往く罪人ならば牢内の者が異口同音(いくどうおん)に南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)を唱(とな)えて見送ったそうでございます。さて文治遠島の次第は重役は勿論、右京殿家来藤原喜代之助も其の前日聞知りましたが、当番の都合にて直ぐ様文治の留守宅へ知らせる事が出来ませぬ。漸(ようや)く其の日の夕方文治の宅へまいりまして、 喜「えゝ頼みます」 町「はい……おや藤原様でございますか、さア何(ど)うぞお上(あが)り下さいまし、まア暫(しばら)くでございました、何うぞ此方(こちら)へ」 喜「存外御無沙汰いたしました」 町「手前の方でも御存じの通り種々(いろ/\)心配がございますので、思いながら御無沙汰いたしました」 という声も涙声、母には死なれ、頼みに思う夫は揚屋入(あがりやい)り、後(あと)に残るのは其の身一人ですから、思えばお町の身の上は気の毒なものでございます。  十一 喜代之助は云い出しにくそうに、 喜「さて、今日(きょう)参りましたのは、えゝ……いや、どうも誠に御無沙汰いたした、就(つ)きましては……」 町「もし藤原様、あなたは文治の事でお出(い)で下すったのではございませんか」 喜「さゝ左様」 町「さア何(ど)うなりました藤原様え……藤原様、文治が命に別状でもありはしませぬか、ねえ藤原様」 喜「いえ、お命に別条はござらぬが、只(たゞ)……」 町「藤原様、何(ど)うぞお早く仰しゃって下さいまし、もし文治が遠島にでも……」 喜「左様、これが愈々(いよ/\)明日(みょうにち)になりました」 町「えッ、いよ/\……」 喜「はい」 と暫く二人は俯向(うつむ)いたまゝ思案に暮れて居りましたが、やがてお町は心を取直しまして、 町「藤原様え、明日(みょうにち)は何時頃(いつごろ)出帆(しゅっぱん)いたすのでございましょう、たしか万年橋(まんねんばし)から船が出るとか承わりましたが左様でございますか」 喜「左様、あなたも嘸(さぞ)御心配なすったでしょうが、明日こそはお目に懸れます、併(しか)し私(わたくし)はお役柄の御近習(ごきんじゅ)ゆえ、役目に対して残念ながらお目に懸ることが出来ませぬ、あなたはお名残(なごり)のためお出でなさいまし、御近所まで私が御案内いたしましょう」 町「はい、何(ど)うも致し方がございません、一目(ひとめ)……えゝ、もう止しましょうよ」 喜「そりゃまた何故(なぜ)ですか」 町「何故って貴方(あなた)、叱られますもの」 喜「あゝ成程日頃の御気性をよく御存じでございますな、併(しか)し是が一生の……」 町「左様でございますね、会って話は出来ませんでも、せめては……いや思い切りましょう、事に依(よ)ると生涯離縁するなどと……もう/\諦めましょう」 と云う声さえも涙でございます。
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