こがね丸
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著者名:巌谷小波 

     少年文学序

 奇獄小説に読む人の胸のみ傷(いた)めむとする世に、一巻の穉(おさな)物語を著す。これも人真似(まね)せぬ一流のこころなるべし。欧羅巴(ヨーロッパ)の穉物語も多くは波斯(ペルシア)の鸚鵡冊子(おうむさっし)より伝はり、その本源は印度の古文にありといへば、東洋は実にこの可愛らしき詩形の家元なり。あはれ、ここに染出す新暖簾(のれん)、本家再興の大望を達して、子々孫々までも巻をかさねて栄へよかしと祷(いの)るものは、
本郷千駄木町(ほんごうせんだぎちょう)の鴎外(おうがい)漁史なり

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     凡  例

一 この書題して「少年文学」といへるは、少年用文学との意味にて、独逸(ドイツ)語の Jugendschrift (juvenile literature) より来れるなれど、我邦に適当の熟語なければ、仮にかくは名付けつ。鴎外兄がいはゆる穉物語も、同じ心なるべしと思ふ。一 されば文章に修飾を勉(つと)めず、趣向に新奇を索(もと)めず、ひたすら少年の読みやすからんを願ふてわざと例の言文一致も廃しつ。時に五七の句調など用ひて、趣向も文章も天晴(あっぱ)れ時代ぶりたれど、これかへつて少年には、誦(しょう)しやすく解しやすからんか。一 作者この『こがね丸』を編むに当りて、彼のゲーテーの Reineke Fuchs(狐の裁判)その他グリム、アンデルゼン等の Maerchen(奇異談)また我邦には桃太郎かちかち山を初めとし、古きは『今昔(こんじゃく)物語』、『宇治拾遺(うじしゅうい)』などより、天明ぶりの黄表紙(きびょうし)類など、種々思ひ出して、立案の助けとなせしが。されば引用書として、名記するほどにもあらず。一 ちと手前味噌(てまえみそ)に似たれど、かかる種の物語現代の文学界には、先づ稀有(けう)のものなるべく、威張(いばり)ていへば一の新現象なり。されば大方の詞友諸君、縦令(たとい)わが作の取るに足らずとも、この後諸先輩の続々討て出で賜ふなれば、とかくこの少年文学といふものにつきて、充分論(あげつ)らひ賜ひてよト、これも予(あらかじ)め願ふて置く。一 詞友われを目(もく)して文壇の少年家といふ、そはわがものしたる小説の、多く少年を主人公にしたればなるべし。さるにこの度また少年文学の前坐を務む、思へば争はれぬものなりかし。庚寅(かのえとら)の臘月(ろうげつ)。もう八ツ寝るとお正月といふ日
昔桜亭において  漣山人(さざなみさんじん)誌(しるす)

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   上巻

     第一回

 むかし或(あ)る深山(みやま)の奥に、一匹の虎住みけり。幾星霜(いくとしつき)をや経たりけん、躯(からだ)尋常(よのつね)の犢(こうし)よりも大(おおき)く、眼(まなこ)は百錬の鏡を欺き、鬚(ひげ)は一束(ひとつか)の針に似て、一度(ひとたび)吼(ほ)ゆれば声山谷(さんこく)を轟(とどろ)かして、梢(こずえ)の鳥も落ちなんばかり。一山(さん)の豺狼(さいろう)麋鹿(びろく)畏(おそ)れ従はぬものとてなかりしかば、虎はますます猛威を逞(たくまし)うして、自ら金眸(きんぼう)大王と名乗り、数多(あまた)の獣類(けもの)を眼下に見下(みくだ)して、一山万獣(ばんじゅう)の君とはなりけり。
 頃(ころ)しも一月の初(はじめ)つ方(かた)、春とはいへど名のみにて、昨日(きのう)からの大雪に、野も山も岩も木も、冷(つめた)き綿(わた)に包まれて、寒風坐(そぞ)ろに堪えがたきに。金眸は朝より洞(ほら)に籠(こも)りて、独(ひと)り蹲(うずく)まりゐる処へ、兼(かね)てより称心(きにいり)の、聴水(ちょうすい)といふ古狐(ふるぎつね)、岨(そば)伝ひに雪踏み分(わげ)て、漸(ようや)く洞の入口まで来たり。雪を払ひてにじり入り、まづ慇懃(いんぎん)に前足をつかへ、「昨日よりの大雪に、外面(そとも)に出(いず)る事もならず、洞にのみ籠り給ひて、さぞかし徒然(つれづれ)におはしつらん」トいへば。金眸は身を起こして、「□(オー)聴水なりしか、よくこそ来りつれ。実(まこと)に爾(なんじ)がいふ如く、この大雪にて他出(そとで)もならねば、独り洞に眠りゐたるに、食物(かて)漸く空(むな)しくなりて、やや空腹(ものほし)う覚ゆるぞ。何ぞ好(よ)き獲物はなきや、……この大雪なればなきも宜(むべ)なり」ト嘆息するを。聴水は打消し、「いやとよ大王。大王もし実(まこと)に空腹(ものほし)くて、食物(かて)を求め給ふならば、僕(やつがれ)好き獲物を進(まいら)せん」「なに好き獲物とや。……そは何処(いずこ)に持来りしぞ」「否(いな)。此処(ここ)には持ち侍(はべ)らねど、大王些(ちと)の骨を惜まずして、この雪路(ゆきみち)を歩みたまはば、僕よき処へ東道(あんない)せん。怎麼(いか)に」トいへば。金眸呵々(からから)と打笑ひ、「やよ聴水。縦令(たと)ひわれ老いたりとて、焉(いずく)ンぞこれしきの雪を恐れん。かく洞にのみ垂籠(たれこ)めしも、決して寒気を厭(いと)ふにあらず、獲物あるまじと思へばなり。今爾がいふ処偽(いつわり)ならずば、速(すみやか)に東道(あんない)せよ、われ往(ゆ)きてその獲物を取らんに、什麼(そも)そは何処(いずく)ぞ」トいへば。聴水はしたり顔にて、「大王速かに承引(うけがい)たまひて、僕(やつがれ)も実(まこと)に喜ばしく候。されば暫く心を静め給ひて、わがいふ事を聞き給へ。そもその獲物と申すは、この山の麓(ふもと)の里なる、荘官(しょうや)が家の飼犬にて、僕他(かれ)には浅からぬ意恨(うらみ)あり。今大王往(ゆき)て他(かれ)を打取たまはば、これわがための復讐(あだがえし)、僕が欣喜(よろこび)これに如(し)かず候」トいふに金眸訝(いぶか)りて、「こは怪(け)しからず。その意恨(うらみ)とは怎麼(いか)なる仔細(しさい)ぞ、苦しからずば語れかし」「さん候。一昨日(おとつい)の事なりし、僕かの荘官が家の辺(ほとり)を過(よぎ)りしに、納屋(なや)と覚(おぼし)き方(かた)に当りて、鶏の鳴く声す。こは好き獲物よと思ひしかば、即(すなわ)ち裏の垣より忍び入りて□宿(とや)近く往かんとする時、他(かれ)目慧(めざと)くも僕を見付(みつけ)て、驀地(まっしぐら)に飛(とん)で掛(かか)るに、不意の事なれば僕は狼狽(うろた)へ、急ぎ元入りし垣の穴より、走り抜けんとする処を、他(かれ)わが尻尾(しりお)を咬(くわ)へて引きもどさんとす、われは払(はらっ)て出でんとす。その勢にこれ見そなはせ、尾の先少し齧(か)み取られて、痛きこと太(はなはだ)しく、生れも付かぬ不具にされたり。かくては大切なるこの尻尾も、老人(としより)の襟巻(えりまき)にさへ成らねば、いと口惜しく思ひ侍れど。他は犬われは狐、とても適(かな)はぬ処なれば、復讐(あだがえし)も思ひ止(とど)まりて、意恨(うらみ)を呑(のん)で過ごせしが。大王、僕(やつがれ)不憫(ふびん)と思召(おぼしめ)さば、わがために仇(あだ)を返してたべ。さきに獲物を進(まいら)せんといひしも、実(まこと)はこの事願はんためなり」ト、いと哀れげに訴(うったう)れば。金眸は打点頭(うちうなず)き、「憎き犬の挙動(ふるまい)かな。よしよし今に一攫(ひとつか)み、目に物見せてくれんずほどに、心安く思ふべし」ト、かつ慰めかつ怒り、やがて聴水を前(さき)に立てて、脛(すね)にあまる雪を踏み分けつつ、山を越え渓(たに)を渉(わた)り、ほどなく麓に出でけるに、前(さき)に立ちし聴水は立止まり、「大王、彼処(かしこ)に見ゆる森の陰に、今煙の立昇(たちのぼ)る処は、即ち荘官(しょうや)が邸(やしき)にて候が、大王自ら踏み込み給ふては、徒(いたず)らに人間(ひと)を驚かすのみにて、敵(かたき)の犬は逃げんも知れず。これには僕よき計策(はかりごと)あり」とて、金眸の耳に口よせ、何やらん耳語(ささやき)しが、また金眸が前(さき)に立ちて、高慢顔にぞ進みける。

     第二回

 ここにこの里の荘官(しょうや)の家に、月丸(つきまる)花瀬(はなせ)とて雌雄(ふうふ)の犬ありけり。年頃情(なさけ)を掛(かけ)て飼ひけるほどに、よくその恩に感じてや、いとも忠実(まめやか)に事(つか)ふれば、年久しく盗人(ぬすびと)といふ者這入(はい)らず、家は増々(ますます)栄えけり。
 降り続く大雪に、伯母(おば)に逢ひたる心地(ここち)にや、月丸は雌(つま)諸共(もろとも)に、奥なる広庭に戯れゐしが。折から裏の□宿(とや)の方(かた)に当りて、鶏の叫ぶ声切(しき)りなるに、哮々(こうこう)と狐の声さへ聞えければ。「さては彼の狐めが、また今日も忍入りしよ。いぬる日あれほど懲(こら)しつるに、はや忘(わすれ)しと覚えたり。憎き奴め用捨はならじ、此度(こたび)こそは打ち取りてん」ト、雪を蹴立(けだ)てて真一文字に、□宿の方へ走り往(ゆけ)ば、狐はかくと見(みる)よりも、周章狼狽(あわてふためき)逃げ行くを、なほ逃(のが)さじと追駆(おっか)けて、表門を出(いで)んとする時、一声※(おう)[#「口+翁」、66-5]と哮(たけ)りつつ、横間(よこあい)より飛(とん)で掛るものあり。何者ならんと打見やれば、こはそも怎麼(いか)にわれよりは、二層(まわり)も大(おおい)なる虎の、眼(まなこ)を怒らし牙(きば)をならし、爪(つめ)を反(そ)らしたるその状態(ありさま)、恐しなんどいはん方(かた)なし。尋常(よのつね)の犬なりせば、その場に腰をも抜(ぬか)すべきに。月丸は原来心猛(たけ)き犬なれば、そのまま虎に□(くっ)てかかり、喚(おめき)叫んで暫時(しばし)がほどは、力の限り闘(たたか)ひしが。元より強弱敵しがたく、無残や肉裂け皮破れて、悲鳴の中(うち)に息絶(たえ)たる。その死骸(なきがら)を嘴(くち)に咬(くわ)へ、あと白雪を蹴立(けたて)つつ、虎は洞(ほら)へと帰り行く。あとには流るる鮮血(ちしお)のみ、雪に紅梅の花を散らせり。
 雌(つま)の花瀬は最前より、物陰にありて件(くだん)の様子を、残りなく詠(なが)めゐしが。身は軟弱(かよわ)き雌犬(めいぬ)なり。かつはこのほどより乳房垂(た)れて、常ならぬ身にしあれば、雄(おっと)が非業(ひごう)の最期(さいご)をば、目前(まのあたり)見ながらも、救(たす)くることさへ成りがたく、独(ひと)り心を悶(もだ)へつつ、いとも哀れなる声張上げて、頻(しき)りに吠(ほ)え立つるにぞ、人々漸く聞きつけて、凡事(ただごと)ならずと立出でて見れば。門前の雪八方に蹴散らしたる上に、血夥(おびただ)しく流れたるが、只(と)見れば遙(はるか)の山陰(やまかげ)に、一匹の大虎が、嘴に咬へて持て行くものこそ、正(まさ)しく月丸が死骸(なきがら)なれば、「さては彼の虎めに喰(く)はれしか、今一足早かりせば、阿容々々(おめおめ)他(かれ)は殺さじものを」ト、主人(あるじ)は悶蹈(あしずり)して悔(くや)めども、さて詮術(せんすべ)もあらざれば、悲しみ狂ふ花瀬を賺(す)かして、その場は漸くに済ませしが。済まぬは花瀬が胸の中(うち)、その日よりして物狂はしく。旦暮(あけくれ)小屋にのみ入りて、与ふる食物(かて)も果敢々々敷(はかばかしく)は喰(くら)はず。怪しき声して啼(なき)狂ひ、門(かど)を守ることだにせざれば、物の用にも立(たた)ぬなれど、主人は事の由来(おこり)を知れば、不憫さいとど増さりつつ、心を籠めて介抱なせど。花瀬は次第に窶(やつ)るるのみにて、今は肉落ち骨秀(ひい)で、鼻頭(はなかしら)全く乾(かわ)きて、この世の犬とも思はれず、頼み少なき身となりけり。かかる折から月満ちけん、俄(にわ)かに産の気萌(きざ)しつつ、苦痛の中に産み落せしは、いとも麗はしき茶色毛の、雄犬ただ一匹なるが。背のあたりに金色の毛混りて、妙(たえ)なる光を放つにぞ、名をばそのまま黄金丸(こがねまる)と呼びぬ。
 さなきだに病(やみ)疲れし上に、嬰児(みどりご)を産み落せし事なれば、今まで張りつめし気の、一時に弛(ゆる)み出でて、重き枕いよいよ上らず、明日(あす)をも知れぬ命となりしが。臨終(いまわ)の際(きわ)に、兼てより懇意(こころやすく)せし、裏の牧場(まきば)に飼はれたる、牡丹(ぼたん)といふ牝牛(めうし)をば、わが枕辺(べ)に乞(こ)ひよせ。苦しき息を喘(ほっ)ト吻(つ)き、「さて牡丹ぬし。見そなはす如き妾(わらわ)が容体(ありさま)、とても在命(ながらえ)る身にしあらねば、臨終の際にただ一事(こと)、阿姐(あねご)に頼み置きたき件(こと)あり。妾が雄(おっと)月丸ぬしは、いぬる日猛虎金眸(きんぼう)がために、非業の最期を遂げしとは、阿姐も知り給ふ処なるが。彼(かの)時妾目前(まのあた)り、雄が横死(おうし)を見ながらに、これを救(たす)けんともせざりしは、見下げ果てたる不貞の犬よと、思ひし獣もありつらんが。元より犬の雌(つま)たる身の、たとひその身は亡(ほろ)ぶとも、雄が危急を救ふべきは、いふまでもなき事にして、義を知る獣の本分なれば、妾とて心付かぬにはあらねど、彼(かの)時命を惜みしは、妾が常ならぬ身なればなり。もし妾も彼処(かしこ)に出でて、虎と争ひたらんには。雄と共に殺されてん。さる時は誰(たれ)か仇をば討つべきぞ。結句(つまり)は親子三匹して、命を捨(すつ)るに異ならねば、これ貞に似て貞にあらず、真(まこと)の犬死とはこの事なり。かくと心に思ひしかば、忍びがたき処を忍び、堪(こら)えがたきを漸(ようや)く堪えて、見在(みすみす)雄を殺せしが。これも偏(ひと)へに胎(はら)の児(こ)を、産み落したるその上にて。仇を討たせんと思へばなり。さるに妾不幸にして、いひ甲斐(がい)なくも病に打ち臥(ふ)し、已(すで)に絶えなん玉の緒を、辛(から)く繋(つな)ぎて漸くに、今この児は産み落せしか。これを養育(はぐく)むこと叶(かな)はず、折角頼みし仇討ちも、仇になりなん口惜しさ、推量なして給はらば、何卒(なにとぞ)この児を阿姐(あねご)の児となし、阿姐が乳(ち)もて育てあげ。他(かれ)もし一匹前(まえ)の雄犬となりなば、その時こそは妾が今の、この言葉をば伝へ給ひて、妾がためには雄の仇、他(かれ)がためには父の仇なる、彼の金眸めを打ち取るやう、力に成(なっ)て給はれかし。頼みといふはこの件(こと)のみ。頼む/\」トいふ声も、次第に細る冬の虫草葉の露のいと脆(もろ)き、命は犬も同じことなり。

     第三回

 悼(いた)はしや花瀬は、夫の行衛(ゆくえ)追ひ駆けて、後(あと)より急ぐ死出(しで)の山、その日の夕暮に没(みまか)りしかば。主人(あるじ)はいとど不憫(ふびん)さに、その死骸(なきがら)を棺(ひつぎ)に納め、家の裏なる小山の蔭に、これを埋(うず)めて石を置き、月丸の名も共に彫(え)り付けて、形(かた)ばかりの比翼塚、跡(あと)懇切(ねんごろ)にぞ弔(とぶら)ひける。
 かくて孤児(みなしご)の黄金丸(こがねまる)は、西東だにまだ知らぬ、藁(わら)の上より牧場なる、牡丹(ぼたん)が許(もと)に養ひ取られ、それより牛の乳を呑(の)み、牛の小屋にて生立(おいた)ちしが。次第に成長するにつけ、骨格(ほねぐみ)尋常(よのつね)の犬に勝(すぐ)れ、性質(こころばせ)も雄々(おお)しくて、天晴(あっぱ)れ頼もしき犬となりけり。
 さてまた牡丹が雄(おっと)文角(ぶんかく)といへるは、性来(うまれえて)義気深き牛なりければ、花瀬が遺言を堅く守りて、黄金丸の養育に、旦暮(あけくれ)心を傾けつつ、数多(あまた)の犢(こうし)の群(むれ)に入れて。或時は角闘(すもう)を取らせ、または競争(はしりくら)などさせて、ひたすら力業(ちからわざ)を勉めしむるほどに。その甲斐ありて黄金丸も、力量(ちから)あくまで強くなりて、大概(おおかた)の犬と噬(か)み合ふても、打ち勝つべう覚えしかば。文角も斜(ななめ)ならず喜び、今は時節もよかるべしと、或時黄金丸を膝(ひざ)近くまねき、さて其方(そなた)は実(まこと)の児にあらず、斯様々々云々(かようかようしかじか)なりと、一伍一什(いちぶしじゅう)を語り聞かせば。黄金丸聞きもあへず、初めて知るわが身の素性(すじょう)に、一度(ひとたび)は驚き一度は悲しみ、また一度は金眸(きんぼう)が非道を、切歯(はぎしり)して怒り罵(ののし)り、「かく聞く上は一日も早く、彼の山へ走(は)せ登り、仇敵(かたき)金眸を噬(か)み殺さん」ト、敦圉(いきまき)あらく立(たち)かかるを、文角は霎時(しばし)と押し止(とど)め、「然(しか)思ふは理(ことわり)なれど、暫くまづわが言葉を、心ろを静めて聞きねかし。原来其方(そなた)が親の仇敵(かたき)、ただに彼の金眸のみならず。他(かれ)が配下に聴水(ちょうすい)とて、いと獰悪(はらぐろ)き狐あり。此奴(こやつ)ある日鶏を盗みに入りて、端(はし)なく月丸ぬしに見付られ、他(かれ)が尻尾を噛み取られしを、深く意恨に思ひけん。自己(おのれ)の力に及ばぬより、彼の虎が威を仮りて、さてはかかる事に及びぬ。然(しか)れば真(まこと)の仇敵(かたき)とするは、虎よりもまづ狐なり。さるに今其方(そなた)が、徒らに猛り狂ふて、金眸が洞に駆入り、他(かれ)と雌雄を争ふて、万一誤つて其方負けなば、当の仇敵の狐も殺さず、その身は虎の餌(えじき)とならん。これこそわれから死を求むる、火取虫(ひとりむし)より愚(おろか)なる業(わざ)なれ。殊(こと)に対手(あいて)は年経し大虎、其方は犬の事なれば、縦令(たと)ひ怎麼(いか)なる力ありとも、尋常に噬(か)み合ふては、彼に勝(かた)んこといと難し。それよりは今霎時、牙(きば)を磨(みが)き爪を鍛へ、まづ彼の聴水めを噛み殺し、その上時節の到(いた)るを待(まっ)て、彼の金眸を打ち取るべし。今匹夫の勇を恃(たの)んで、世の胡慮(ものわらい)を招かんより、無念を堪(こら)えて英気を養ひ以(もっ)て時節を待つには如(し)かじ」ト、事を分けたる文角が言葉に、実(げに)もと心に暁得(さと)りしものから。黄金丸はややありて、「かかる義理ある中なりとは、今日まで露知(しら)ず、真(まこと)の父君(ちちぎみ)母君と思ひて、我儘(わがまま)気儘に過(すご)したる、無礼の罪は幾重(いくえ)にも、許したまへ」ト、数度(あまたたび)養育の恩を謝し。さて更(あらた)めていへるやう、「知らぬ疇昔(むかし)は是非もなけれど、かくわが親に仇敵あること、承はりて知る上は、黙(もだ)して過すは本意ならず、それにつき、爰(ここ)に一件(ひとつ)の願ひあり、聞入れてたびてんや」「願ひとは何事ぞ、聞し上にて許しもせん」「そは余の事にも候はず、某(それがし)に暇(いとま)を賜はれかし。某これより諸国を巡(め)ぐり、あまねく強き犬と噬(か)み合ふて、まづわが牙を鍛へ。傍(かたわ)ら仇敵の挙動(ふるまい)に心をつけ、機会(おり)もあらば名乗りかけて、父の讐(あだ)を復(かえ)してん。年頃受けし御恩をば、返しも敢(あ)へずこれよりまた、御暇(おんいとま)を取らんとは、義を弁へぬに似たれども、親のためなり許し給へ。もし某(それがし)幸ひにして、見事父の讐を復し、なほこの命恙(つつが)なくば、その時こそは心のまま、御恩に報ゆることあるべし。まづそれまでは文角ぬし、霎時(しばし)の暇賜はりて……」ト、涙ながらに掻口説(かきくど)けば、文角は微笑(ほほえみ)て、「さもこそあらめ、よくぞいひし。其方がいはずば此方(こなた)より、強(しい)ても勧めんと思ひしなり。思(おもい)のままに武者修行して、天晴れ父の仇敵(かたき)を討ちね」ト、いふに黄金丸も勇み立ち。善は急げと支度(したく)して、「見事金眸が首取らでは、再び主家(しゅうか)には帰るまじ」ト、殊勝(けなげ)にも言葉を盟(ちか)ひ文角牡丹に別(わかれ)を告げ、行衛定めぬ草枕、われから野良犬(のらいぬ)の群(むれ)に入りぬ。

     第四回

 昨日(きのう)は富家(ふうか)の門を守りて、頸(くび)に真鍮の輪を掛(かけ)し身の、今日は喪家(そうか)の狗(く)となり果(はて)て、寝(いぬ)るに□(とや)なく食するに肉なく、夜(よ)は辻堂の床下(ゆかした)に雨露を凌(しの)いで、無躾(ぶしつけ)なる土豚(もぐら)に驚かされ。昼は肴屋(さかなや)の店頭(みせさき)に魚骨(ぎょこつ)を求めて、情(なさけ)知らぬ人の杖(しもと)に追立(おいたて)られ。或時は村童(さとのこら)に曳(ひ)かれて、大路(おおじ)に他(あだ)し犬と争ひ、或時は撲犬師(いぬころし)に襲はれて、藪蔭(やぶかげ)に危き命を拾(ひら)ふ。さるほどに黄金丸は、主家を出でて幾日か、山に暮らし里に明かしけるに。或る日いと広やかなる原野(のはら)にさし掛りて、行けども行けども里へは出でず。日さへはや暮れなんとするに、宿るべき木陰だになければ、有繋(さすが)に心細きままに、ひたすら路を急げども。今日は朝より、一滴の水も飲まず、一塊の食も喰(くら)はねば、肚饑(ひだる)きこといはん方(かた)なく。苦しさに堪えかねて、暫時(しばし)路傍(みちのべ)に蹲(うずく)まるほどに、夕風肌膚(はだえ)を侵し、地気(じき)骨に徹(とお)りて、心地(ここち)死ぬべう覚えしかば。黄金丸は心細さいやまして、「われ主家を出でしより、到る処の犬と争(あらそい)しが、かつて屑(もののかず)ともせざりしに。饑(うえ)てふ敵には勝ちがたく、かくてはこの原の露と消(きえ)て、鴉(からす)の餌(えじき)となりなんも知られず。……里まで出づれば食物(くいもの)もあらんに、それさへ四足疲れはてて、今は怎麼(いか)にともすべきやうなし。ああいひ甲斐なき事哉(かな)」ト、途方に打(うち)くれゐたる折しも。何処(いずく)よりか来りけん、忽(たちま)ち一団の燐火(おにび)眼前(めのまえ)に現れて、高く揚(あが)り低く照らし、娑々(ふわふわ)と宙を飛び行くさま、われを招くに等しければ。黄金丸はやや暁得(さと)りて、「さてはわが亡親(なきおや)の魂魄(たま)、仮に此処(ここ)に現はれて、わが危急を救ひ給ふか。阿那(あな)感謝(かたじけな)し」ト伏し拝みつつ、その燐火の行くがまにまに、路四、五町も来ると覚しき頃、忽ち鉄砲の音耳近く聞えつ、燐火は消えて見えずなりぬ。こはそも怎麼なる処ぞと、四辺(あたり)を見廻はせば、此処は大(おおい)なる寺の門前なり。訝(いぶか)しと思ふものから、門の中(うち)に入りて見れば。こは大なる古刹(ふるでら)にして、今は住む人もなきにや、床(ゆか)は落ち柱斜めに、破れたる壁は蔓蘿(つたかずら)に縫はれ、朽ちたる軒は蜘蛛(くも)の網(す)に張られて、物凄(ものすご)きまでに荒れたるが。折しも秋の末なれば、屋根に生(お)ひたる芽生(めばえ)の楓(かえで)、時を得顔(えがお)に色付きたる、その隙(ひま)より、鬼瓦(おにがわら)の傾きて見ゆるなんぞ、戸隠(とがく)し山(やま)の故事(ふること)も思はれ。尾花丈(せ)高(たか)く生茂(おいしげ)れる中に、斜めにたてる石仏(いしぼとけ)は、雪山(せつざん)に悩む釈迦仏(しゃかぶつ)かと忍ばる。――只(と)見れば苔(こけ)蒸したる石畳の上に。一羽の雉子(きぎす)身体(みうち)に弾丸(たま)を受けしと覚しく、飛ぶこともならで苦(くるし)みをるに。こは好(よ)き獲物よと、急ぎ走り寄(よっ)て足に押へ、已(すで)に喰はんとなせしほどに。忽ち後(うしろ)に声ありて、「憎き野良犬、其処(そこ)動きそ」ト、大喝(だいかつ)一声(せい)吠(ほ)えかかるに。黄金丸は打驚き、後(しりえ)を顧(ふりかえ)りて見れば、真白なる猟犬(かりいぬ)の、われを噛まんと身構(みがまえ)たるに、黄金丸も少し焦燥(いら)つて、「無礼なり何奴(なにやつ)なれば、われを野良犬と詈(ののし)るぞ」「無礼なりとは爾(なんじ)が事なり。わが飼主の打取りたまひし、雉子(きぎす)を爾盗まんとするは、言語に断えし無神狗(やまいぬ)かな」「否(いな)、こはわれ此処にて拾ひしなり」「否、爾が盗みしなり。見れば頸筋に輪もあらず、爾曹(ら)如き奴あればこそ、撲犬師(いぬころし)が世に殖(ふ)えて、わが們(ともがら)まで迷惑するなれ」「許しておけば無礼な雑言(ぞうごん)、重ねていはば手は見せまじ」「そはわれよりこそいふことなれ、爾曹如きと問答無益(むやく)し。怪我(けが)せぬ中(うち)にその鳥を、われに渡して疾(と)く逃げずや」「返す返すも舌長し、折角拾ひしこの鳥を、阿容々々(おめおめ)爾に得させんや」「這(しゃ)ツ面倒なりかうしてくれん」ト、飛(とん)でかかれば黄金丸も、稜威(ものもの)しやと振り払(はらっ)て、また噬(か)み付くを丁(ちょう)と蹴返(けかえ)し、その咽喉(のどぶえ)を噬(かま)んとすれば、彼方(あなた)も去る者身を沈めて、黄金丸の股(もも)を噬む。黄金丸は饑渇(うえ)に疲れて、勇気日頃に劣れども、また尋常(なみなみ)の犬にあらぬに、彼方(かなた)もなかなかこれに劣らず、互ひに挑闘(いどみたたか)ふさま、彼の花和尚(かおしょう)が赤松林(せきしょうりん)に、九紋竜(くもんりゅう)と争ひけるも、かくやと思ふ斗(ばか)りなり。
 先きのほどより、彼方(かなた)の木陰に身を忍ばせ、二匹の問答を聞(きき)ゐたる、一匹の黒猫ありしが。今二匹が噬合ひはじめて、互ひに負けじと争ひたる、その間隙(すき)を見すまして、静かに忍び寄るよと見えしが、やにはに捨てたる雉子(きぎす)を咬(くわ)へて、脱兎の如く逃げ行くを、ややありて二匹は心付き。南無三(なむさん)してやられしと思ひしかども今更追ふても及びもせずと、雉子を咬へて磚※(ついじ)[#「片+嗇」、75-7]をば、越え行く猫の後姿、打ち見やりつつ茫然(ぼうぜん)と、噬み合ふ嘴(くち)も開(あ)いたままなり。

     第五回

 鷸蚌(いつぼう)互ひに争ふ時は遂(つい)に猟師の獲(えもの)となる。それとこれとは異なれども、われ曹(ら)二匹争はずば、彼の猫如きに侮られて、阿容々々(おめおめ)雉子は取られまじきにト、黄金丸も彼の猟犬(かりいぬ)も、これかれ斉(ひと)しく左右に分れて、ひたすら嘆息なせしかども。今更に悔いても詮(せん)なしト、漸(ようや)くに思ひ定めつ。ややありて猟犬は、黄金丸にうち向ひ、「さるにても御身(おんみ)は、什麼(そも)何処(いずこ)の犬なれば、かかる処にに漂泊(さまよ)ひ給ふぞ。最前より噬(かみ)あひ見るに、世にも鋭き御身が牙尖(きばさき)、某(それがし)如きが及ぶ処ならず。もし彼の鳥猫に取られずして、なほも御身と争ひなば、わが身は遂に噬斃(かみたお)されて、雉子は御身が有(もの)となりてん。……これを思へば彼の猫も、わがためには救死の恩あり。ああ、危ふかりし危ふかりし」ト、数度(あまたたび)嘆賞するに。黄金丸も言葉を改め、「こは過分なる賛詞(ほめこと)かな。さいふ御身が本事(てなみ)こそ。なかなか及(およ)ばぬ処なれト、心私(ひそ)かに敬服せり。今は何をか裹(つつ)むべき、某が名は黄金丸とて、以前は去る人間に事(つか)へて、守門の役を勤めしが、宿願ありて暇(いとま)を乞(こ)ひ、今かく失主狗(はなれいぬ)となれども、決して怪しき犬ならず。さてまた御身が尊名怎麼(いか)に。苦しからずば名乗り給へ」ト、いへば猟犬(かりいぬ)は打点頭(うちうなず)き、「さもありなんさもこそと、某も疾(と)く猜(すい)したり。さらば御身が言葉にまかせて、某が名も名乗るべし。見らるる如く某は、この辺(あたり)の猟師(かりうど)に事ふる、猟犬にて候が。ある時鷲(わし)を捉(とっ)て押へしより、名をば鷲郎(わしろう)と呼ばれぬ。こは鷲を捉(と)りし白犬(しろいぬ)なれば、鷲白(わししろ)といふ心なるよし。元より屑(かず)ならぬ犬なれども、猟(かり)には得たる処あれば、近所の犬ども皆恐れて、某が前に尾を垂(た)れぬ者もなければ、天下にわれより強き犬は、多くあるまじと誇りつれど。今しも御身が本事(てなみ)を見て、わが慢心を太(いた)く恥ぢたり。そはともあれ、今御身が語られし、宿願の仔細(しさい)は怎麼にぞや」ト、問ふに黄金丸は四辺(あたり)を見かへり、「さらば委敷(くわしく)語り侍(はべ)らん……」とて、父が非業の死を遂げし事、わが身は牛に養はれし事、それより虎と狐を仇敵(かたき)とねらひ、主家(しゅうか)を出でて諸国を遍歴せし事など、落ちなく語り聞かすほどに。鷲郎はしばしば感嘆の声を発せしが、ややありていへるやう、「その事なれば及ばずながら、某一肢の力を添へん。われ彼の金眸(きんぼう)に意恨(うらみ)はなけれど、彼奴(きゃつ)猛威を逞(たくまし)うして、余の獣類(けもの)を濫(みだ)りに虐(しいた)げ。あまつさへ饑(うゆ)る時は、市(いち)に走りて人間(ひと)を騒がすなんど、片腹痛き事のみなるに、機会(おり)もあらば挫(とりひし)がんと、常より思ひゐたりしが。名に負ふ金眸は年経し大虎、われ怎麼(いか)に猟(かり)に長(た)けたりとも、互角の勝負なりがたければ、虫を殺して無法なる、他(かれ)が挙動(ふるまい)を見過せしが。今御身が言葉を聞けば、符(わりふ)を合(あわ)す互ひの胸中。これより両犬心を通じ、力を合せて彼奴(きゃつ)を狙(ねら)はば、いづれの時か討たざらん」ト。いふに黄金丸も勇み立ちて、「頼もしし頼もしし、御身已(すで)にその意(こころ)ならば、某また何をか恐れん。これより両犬義を結び、親こそ異(かわ)れこの後(のち)は、兄となり弟(おとと)となりて、共に力を尽すべし。某この年頃諸所を巡りて、数多(あまた)の犬と噬(か)み合ひたれども、一匹だにわが牙に立つものなく、いと本意(ほい)なく思ひゐしに。今日不意(ゆくりな)く御身に出逢(であい)て、かく頼もしき伴侶(とも)を得ること、実(まこと)に亡(なき)父の紹介(ひきあわせ)ならん。さきに路を照らせし燐火(おにび)も、今こそ思ひ合はしたれ」ト、独(ひと)り感涙にむせびしが。猟犬は霎時(しばし)ありて、「某今御身と契(ちぎり)を結びて、彼の金眸を討たんとすれど、飼主ありては心に任せず。今よりわれも頸輪(くびわ)を棄(すて)て、御身と共に失主狗(はなれいぬ)とならん」ト、いふを黄金丸は押止(おしとど)め、「こは漫(そぞろ)なり鷲郎ぬし、わがために主を棄(すつ)る、その志は感謝(かたじけな)けれど、これ義に似て義にあらず、かへつて不忠の犬とならん。この儀は思ひ止まり給へ」「いやとよ、その心配(こころづかい)は無用なり。某猟師(かりうど)の家に事(つか)へ、をさをさ猟の業(わざ)にも長(た)けて、朝夕(あけくれ)山野を走り巡り、数多の禽獣(とりけもの)を捕ふれども。熟(つらつ)ら思へば、これ実(まこと)に大(おおい)なる不義なり。縦令(たと)ひ主命とはいひながら、罪なき禽獣(もの)を徒(いたず)らに傷(いた)めんは、快き事にあらず。彼の金眸に比べては、その悪五十歩百歩なり。此(ここ)をもて某常よりこの生業(なりわい)を棄てんと、思ふこと切(しきり)なりき。今日この機会(おり)を得しこそ幸(さち)なれ、断然暇(いとま)を取るべし」ト。いひもあへず、頸輪を振切りて、その決心を示すにぞ。黄金丸も今は止むる術(すべ)なく、「かく御身の心定まる上は、某また何をかいはん。幸ひなる哉(かな)この寺は、荒果てて住む人なく、われ曹(ら)がためには好(よ)き棲居(すみか)なり。これより両犬此処(ここ)に棲みてん」ト、それより連立ちて寺の中(うち)に踏入り、方丈と覚しき所に、畳少し朽ち残りたるを撰(えら)びて、其処(そこ)をば棲居と定めける。

     第六回

 恁(かく)て黄金丸は鷲郎(わしろう)と義を結びて、兄弟の約をなし、この古刹(ふるでら)を棲居となせしが。元より養ふ人なければ、食物も思ふにまかせぬにぞ、心ならずも鷲郎は、慣(なれ)し業(わざ)とて野山に猟(かり)し、小鳥など捉(と)りきては、漸(ようや)くその日の糧(かて)となし、ここに幾日を送りけり。
 或日黄金丸は、用事ありて里に出でし帰途(かえるさ)、独り畠径(はたみち)を辿(たど)り往(ゆ)くに、只(と)見れば彼方(かなた)の山岸の、野菊あまた咲き乱れたる下(もと)に、黄なる獣(けもの)眠(ねぶ)りをれり。大(おおき)さ犬の如くなれど、何処(どこ)やらわが同種(みうち)の者とも見えず。近づくままになほよく見れば、耳立ち口尖(とが)りて、正(まさ)しくこれ狐なるが、その尾の尖(さき)の毛抜けて醜し。この時黄金丸思ふやう、「さきに文角(ぶんかく)ぬしが物語に、聴水(ちょうすい)といふ狐は、かつてわが父月丸(つきまる)ぬしのために、尾の尖咬(かみ)切られてなしと聞きぬ。今彼の狐を見るに、尾の尖断離(ちぎ)れたり。恐らくは聴水ならん。阿那(あな)、有難や感謝(かたじけな)や。此処にて逢ひしは天の恵みなり。将(いで)一噬(ひとか)みに……」ト思ひしが。有繋(さすが)義を知る獣なれば、眠込(ねご)みを噬まんは快からず。かつは誤りて他の狐ならんには、無益の殺生(せっしょう)なりと思ひ。やや近く忍びよりて、一声高く「聴水」ト呼べば、件(くだん)の狐は打ち驚き、眼(まなこ)も開かずそのままに、一間(けん)ばかり跌□(けしと)んで、慌(あわただ)しく逃(に)げんとするを。逃がしはせじと黄金丸は、※(おめき)[#「口+畫」、79-4]叫んで追駆(おっかく)るに。彼方(かなた)の狐も一生懸命、畠(はた)の作物を蹴散(けち)らして、里の方(かた)へ走りしが、只(と)ある人家の外面(そとべ)に、結ひ繞(めぐ)らしたる生垣(いけがき)を、閃(ひらり)と跳(おど)り越え、家の中(うち)に逃げ入りしにぞ。続いて黄金丸も垣を越え、家の中を走り抜けんとせし時。六才(むつ)ばかりなる稚児(おさなご)の、余念なく遊びゐたるを、過失(あやまち)て蹴倒せば、忽(たちま)ち唖(わっ)と泣き叫ぶ。その声を聞き付(つけ)て、稚児の親なるべし、三十ばかりなる大男、裏口より飛で入(いり)しが。今走り出でんとする、黄金丸を見るよりも、さては此奴(こやつ)が噬(か)みしならんト、思ひ僻(ひが)めつ大(おおい)に怒(いかっ)て、あり合ふ手頃の棒おつとり、黄金丸の真向(まっこう)より、骨も砕けと打ちおろすに、さしもの黄金丸肩を打たれて、「呀(あっ)」ト一声叫びもあへず、後に撲地(はた)と倒るるを、なほ続けさまに打ちたたかれしが。やがて太き麻縄(あさなわ)もて、犇々(ひしひし)と縛(いまし)められぬ。その間(ひま)に彼の聴水は、危き命助かりて、行衛(ゆくえ)も知らずなりけるに。黄金丸は、無念に堪へかね、切歯(はぎしり)して吠(ほ)え立つれば。「おのれ人間(ひと)の子を傷(きずつ)けながら、まだ飽きたらで猛(たけ)り狂ふか。憎き狂犬(やまいぬ)よ、今に目に物見せんず」ト、曳(ひき)立て曳立て裏手なる、槐(えんじゅ)の幹に繋(つな)ぎけり。
 倶不戴天(ぐふたいてん)の親の仇(あだ)、たまさか見付けて討たんとせしに、その仇は取り逃がし、あまつさへその身は僅少(わずか)の罪に縛められて邪見の杖(しもと)を受(うく)る悲しさ。さしもに猛き黄金丸も、人間(ひと)に牙向(はむか)ふこともならねば、ぢつと無念を圧(おさ)ゆれど、悔(くや)し涙に地は掘れて、悶踏(あしずり)に木も動揺(ゆら)ぐめり。
 却説(かへつてと)く鷲郎は、今朝(けさ)より黄金丸が用事ありとて里へ行きしまま、日暮れても帰り来ぬに、漸く心安からず。幾度(いくたび)か門に出でて、彼方此方(かなたこなた)を眺(ながむ)れども、それかと思ふ影だに見えねば。万一他(かれ)が身の上に、怪我(あやまち)はなきやと思ふものから。「他(かれ)元より尋常(なみなみ)の犬ならねば、無差(むざ)と撲犬師(いぬころし)に打たれもせまじ。さるにても心元なや」ト、頻(しき)りに案じ煩ひつつ。虚々(うかうか)とおのれも里の方(かた)へ呻吟(さまよ)ひ出でて、或る人家の傍(かたわら)を過(よぎ)りしに。ふと聞けば、垣の中(うち)にて怪(あやし)き呻(うめ)き声す。耳傾けて立聞けば、何処(どこ)やらん黄金丸の声音(こわね)に似たるに。今は少しも逡巡(ためら)はず。結ひ繞(めぐ)らしたる生垣の穴より、入らんとすれば生憎(あやにく)に、枳殻(からたち)の針腹を指すを、辛(かろ)うじてくぐりつ。声を知るべに忍びよれば。太き槐(えんじゅ)の樹(き)に括(くく)り付けられて、蠢動(うごめ)きゐるは正しくそれなり。鷲郎はつと走りよりて、黄金丸を抱(いだ)き起し、耳に口あてて「喃(のう)、黄金丸、気を確(たしか)に持ちねかし。われなり、鷲郎なり」ト、呼ぶ声耳に通じけん、黄金丸は苦しげに頭(こうべ)を擡(もた)げ、「こは鷲郎なりしか。嬉(うれ)しや」ト、いふさへ息も絶々(たえだえ)なるに、鷲郎は急ぎ縄を噬み切りて、身体(みうち)の痍(きず)を舐(ねぶ)りつつ、「怎麼(いか)にや黄金丸、苦しきか。什麼(そも)何としてこの状態(ありさま)ぞ」ト、かつ勦(いた)はりかつ尋ぬれば。黄金丸は身を震はせ、かく縛(いまし)められし事の由来(おこり)を言葉短に語り聞かせ。「とかくは此処を立ち退(の)かん見付けられなば命危し」ト、いふに鷲郎も心得て、深痍(ふかで)になやむ黄金丸をわが背に負ひつ、元入りし穴を抜け出でて、わが棲居(すみか)へと急ぎけり。

     第七回

 鷲郎に助けられて、黄金丸は漸く棲居へ帰りしかど、これより身体(みうち)痛みて堪えがたく。加之(しかのみならず)右の前足骨(ほね)挫(くじ)けて、物の用にも立ち兼ぬれば、口惜(くや)しきこと限りなく。「われこのままに不具の犬とならば、年頃の宿願いつか叶(かな)へん。この宿願叶はずば、養親(やしないおや)なる文角ぬしに、また合すべき面(おもて)なし」ト、切歯(はぎしり)して掻口説(かきくど)くに、鷲郎もその心中猜(すい)しやりて、共に無念の涙にくれしが。「さな嘆きそ。世は七顛八起(ななころびやおき)といはずや。心静かに養生せば、早晩(いつか)は癒(いえ)ざらん。某(それがし)身辺(かたわら)にあるからは、心丈夫に持つべし」ト、あるいは詈(ののし)りあるいは励まし、甲斐々々しく介抱なせど、果敢々々(はかばか)しき験(しるし)も見(みえ)ぬに、ひたすら心を焦燥(いら)ちけり。或日鷲郎は、食物を取らんために、午前(ひるまえ)より猟(かり)に出で、黄金丸のみ寺に残りてありしが。折しも小春の空長閑(のどけ)く、斜廡(ひさし)を洩(も)れてさす日影の、払々(ほかほか)と暖きに、黄金丸は床(とこ)をすべり出で、椽端(えんがわ)に端居(はしい)して、独り鬱陶(ものおもい)に打ちくれたるに。忽ち天井裏に物音して、救助(たすけ)を呼ぶ鼠(ねずみ)の声かしましく聞えしが。やがて黄金丸の傍(かたわら)に、一匹の雌(め)鼠走り来て、股(もも)の下に忍び入りつ、救助(たすけ)を乞ふものの如し。黄金丸はいと不憫(ふびん)に思ひ、件(くだん)の雌鼠を小脇(こわき)に蔽(かば)ひ、そも何者に追はれしにやと、彼方(かなた)を佶(きっ)ト見やれば、破(や)れたる板戸の陰に身を忍ばせて、此方(こなた)を窺(うかが)ふ一匹の黒猫あり。只(と)見れば去(いぬ)る日鷲郎と、かの雉子(きぎす)を争ひける時、間隙(すき)を狙ひて雉子をば、盗み去りし猫なりければ。黄金丸は大(おおい)に怒りて、一飛びに喰(くっ)てかかり、慌(あわ)てて柱に攀昇(よじのぼ)る黒猫の、尾を咬(くわ)へて曳きおろし。踏躙(ふみにじ)り噬(か)み裂きて、立在(たちどころ)に息の根止(とど)めぬ。
 この時雌鼠は恐る恐る黄金丸の前へ這(は)ひ寄りて、慇懃(いんぎん)に前足をつかへ、数度(あまたたび)頭(こうべ)を垂れて、再生の恩を謝すほどに、黄金丸は莞爾(にっこ)と打ち笑(え)み、「爾(なんじ)は何処(いずこ)に棲(す)む鼠ぞ。また彼の猫は怎麼(いか)なる故に、爾を傷(きずつ)けんとはなせしぞ」ト、尋ぬれば。鼠は少しく膝(ひざ)を進め、「さればよ殿(との)聞き給へ。妾(わらわ)が名は阿駒(おこま)と呼びて、この天井に棲む鼠にて侍(はべ)り。またこの猫は烏円(うばたま)とて、この辺(あたり)に棲む無頼猫(どらねこ)なるが。兼(かね)てより妾に懸想(けそう)し、道ならぬ戯(たわぶ)れなせど。妾は定まる雄(おっと)あれば、更に承引(うけひ)く色もなく、常に強面(つれな)き返辞もて、かへつて他(かれ)を窘(たしな)めしが。かくても思切れずやありけん、今しも妾が巣に忍び来て、無残にも妾が雄を噬みころし、妾を奪ひ去らんとするより、逃げ惑ふて遂にかく、殿の枕辺(まくらべ)を騒がせし、無礼の罪は許したまへ」ト、涙ながらに物語れば、黄金丸も不憫の者よト、件(くだん)の鼠を慰めつつ、彼の烏円を尻目(しりめ)にかけ、「さりとては憎き猫かな。這奴(しゃつ)はいぬる日わが鳥を、盗み去りしことあれば、われまた意恨(うらみ)なきにあらず。年頃なせし悪事の天罰、今報ひ来てかく成りしは、実(まこと)に気味よき事なりけり」ト、いふ折から彼の鷲郎は、小鳥二、三羽嘴(くち)に咬(く)はへて、猟(かり)より帰り来りしが。この体態(ていたらく)を見て、事の由来(おこり)を尋ぬるに、黄金丸はありし仕末を落ちなく語れば。鷲郎もその功労(てがら)を称賛しつ、「かくては御身が疾病(いたつき)も、遠ほからずして癒ゆべし」など、いひて共に打ち興じ。やがて持ち来りし小鳥と共に、烏円が肉を裂きて、思ひのままにこれを喰(くら)ひぬ。
 さてこの時より彼の阿駒は、再生の恩に感じけん、朝夕(あけくれ)黄金丸が傍に傅(かしず)きて、何くれとなく忠実(まめやか)に働くにぞ、黄金丸もその厚意(こころ)を嘉(よみ)し、情(なさけ)を掛(かけ)て使ひけるが、もとこの阿駒といふ鼠は、去る香具師(こうぐし)に飼はれて、種々(さまざま)の芸を仕込まれ、縁日の見世物(みせもの)に出(いで)し身なりしを、故(ゆえ)ありて小屋を忍出で、今この古刹(ふるでら)に住むものなれば。折々は黄金丸が枕辺にて、有漏覚(うろおぼ)えの舞の手振(てぶり)、または綱渡り籠抜(かごぬ)けなんど。古(むか)し取(とっ)たる杵柄(きねづか)の、覚束(おぼつか)なくも奏(かな)でけるに、黄金丸も興に入りて、病苦もために忘れけり。

     第八回

 黄金丸が病に伏してより、やや一月にも余りしほどに、身体(みうち)の痛みも失(う)せしかど、前足いまだ癒(い)えずして、歩行もいと苦しければ、心頻(しき)りに焦燥(いらち)つつ、「このままに打ち過ぎんには、遂に生れもつかぬ跛犬となりて、親の仇(あだ)さへ討ちがたけん。今の間(あいだ)によき薬を得て、足を癒(いや)さでは叶(かな)ふまじ」ト、その薬を索(たずね)るほどに。或日鷲郎は慌(あわただ)しく他より帰りて、黄金丸にいへるやう、「やよ黄金丸喜びね。某(それがし)今日好(よ)き医師(くすし)を聞得たり」トいふに。黄金丸は膝(ひざ)を進め、「こは耳寄りなることかな、その医師とは何処(いずこ)の誰(たれ)ぞ」ト、連忙(いそが)はしく問へば、鷲郎は荅(こた)へて、「さればよ。某今日里に遊びて、古き友達に邂逅(めぐりあ)ひけるが。その犬語るやう、此処を去ること南の方一里ばかりに、木賊(とくさ)が原といふ処ありて、其処に朱目(あかめ)の翁(おきな)とて、貴(とうと)き兎住めり。この翁若き時は、彼の柴刈(しばか)りの爺(じじ)がために、仇敵(かたき)狸(たぬき)を海に沈めしことありしが。その功によりて月宮殿(げっきゅうでん)より、霊杵(れいきょ)と霊臼(れいきゅう)とを賜はり、そをもて万(よろず)の薬を搗(つ)きて、今は豊(ゆたか)に世を送れるが。この翁が許(もと)にゆかば、大概(おおかた)の獣類(けもの)の疾病(やまい)は、癒えずといふことなしとかや。その犬も去(いぬ)る日村童(さとのこ)に石を打たれて、左の後足(あとあし)を破られしが、件(くだん)の翁が薬を得て、その痍(きず)とみに癒しとぞ。さればわれ直ちに往きて、薬を得て来んとは思ひしかど。御身自ら彼が許にゆきて、親しくその痍を見せなば、なほ便宜(たより)よからんと思ひて、われは行かでやみぬ。御身少しは苦しくとも、全く歩行出来ぬにはあらじ、明日(あす)にも心地よくば、試みに往きて見よ」ト、いふに黄金丸は打喜び、「そは実(まこと)に嬉しき事かな。さばれかく貴き医師(くすし)のあることを、今日まで知らざりし鈍(おぞ)ましさよ。とかくは明日往きて薬を求めん」ト、海月(くらげ)の骨を得し心地して、その翌日(あけのひ)朝未明(あさまだき)より立ち出で、教へられし路を辿(たど)りて、木賊(とくさ)が原に来て見るに。櫨(はじ)楓(かえで)なんどの色々に染めなしたる木立(こだち)の中(うち)に、柴垣結ひめぐらしたる草庵(いおり)あり。丸木の柱に木賊もて檐(のき)となし。竹椽(ちくえん)清らかに、筧(かけひ)の水も音澄みて、いかさま由緒(よし)ある獣の棲居(すみか)と覚し。黄金丸は柴門(しばのと)に立寄りて、丁々(ほとほと)と訪(おとな)へば。中より「誰(た)ぞ」ト声して、朱目(あかめ)自ら立出づるに。見れば耳長く毛は真白(ましろ)に、眼(まなこ)紅(くれない)に光ありて、一目(みるから)尋常(よのつね)の兎とも覚えぬに。黄金丸はまづ恭(うやうや)しく礼を施し、さて病の由を申聞(もうしきこ)えて、薬を賜はらんといふに、彼の翁心得て、まづその痍(きず)を打見やり、霎時(しばし)舐(ねぶ)りて後、何やらん薬をすりつけて。さていへるやう、「わがこの薬は、畏(かしこ)くも月宮殿(げっきゅうでん)の嫦娥(じょうが)、親(みずか)ら伝授したまひし霊法なれば、縦令(たとい)怎麼(いか)なる難症なりとも、とみに癒(いゆ)ること神(しん)の如し。今御身が痍を見るに、時期(とき)後(おく)れたればやや重けれど、今宵(こよい)の中(うち)には癒やして進ずべし。ともかくも明日(あす)再び来たまへ、聊(いささ)か御身に尋ねたき事もあれば……」ト、いふに黄金丸打よろこび、やがて別を告げて立帰りしが。途(みち)すがら只(と)ある森の木陰を過(よぎ)りしに、忽ち生茂(おいしげ)りたる木立の中(うち)より、兵(ひょう)ト音して飛び来る矢あり。心得たりと黄金丸は、身を捻(ひね)りてその矢をば、発止(はっし)ト牙に噬(か)みとめつ、矢の来し方(かた)を佶(きっ)ト見れば。二抱(ふたかか)へもある赤松の、幹両股(ふたまた)になりたる処に、一匹の黒猿昇りゐて、左手(ゆんで)に黒木の弓を持ち、右手(めて)に青竹の矢を採りて、なほ二の矢を注(つが)へんとせしが。黄金丸が睨(ね)め付(つけ)し、眼(まなこ)の光に恐れけん、その矢も得(え)放(はな)たで、慌(あわただ)しく枝に走り昇り、梢(こずえ)伝ひに木隠(こがく)れて、忽ち姿は見えずなりぬ。かくて次の日になりけるに、不思議なるかな萎(な)えたる足、朱目が言葉に露たがはず、全く癒えて常に異ならねば。黄金丸は雀躍(こおどり)して喜び。急ぎ礼にゆかんとて、些(ちと)ばかりの豆滓(きらず)を携へ、朱目が許(もと)に行きて、全快の由申聞(もうしきこ)え、言葉を尽して喜悦(よろこび)を陳(の)べつ。「失主狗(はなれいぬ)にて思ふに任せねど、心ばかりの薬礼なり。願(ねがわ)くは納め給へ」ト、彼の豆滓を差し出(いだ)せば。朱目も喜びてこれを納め。ややありていへるやう、「昨日(きのう)御身に聞きたきことありといひしが、余の事ならず」ト、いひさして容(かたち)をあらため、「某(それがし)幾歳(いくとせ)の劫量(こうろう)を歴(へ)て、やや神通を得てしかば、自(おのずか)ら獣の相を見ることを覚えて、十(とお)に一(ひとつ)も誤(あやまり)なし。今御身が相を見るに、世にも稀(まれ)なる名犬にして、しかも力量(ちから)万獣(ばんじゅう)に秀(ひい)でたるが、遠からずして、抜群の功名あらん。某この年月(としつき)数多(あまた)の獣に逢ひたれども、御身が如きはかつて知らず。思ふに必ず由緒(よし)ある身ならん、その素性聞かまほし」トありしかば。黄金丸少しもつつまず、おのが素性来歴を語れば。朱目は聞いて膝を打ち。「それにてわれも会得(えとく)したり。総じて獣類(けもの)は胎生なれど、多くは雌雄数匹(すひき)を孕(はら)みて、一親一子はいと稀なり。さるに御身はただ一匹にて生まれしかば、その力五、六匹を兼ねたり。加之(しかのみならず)牛に養はれて、牛の乳に育(はぐく)まれしかば、また牛の力量をも受得(うけえ)て、けだし尋常(よのつね)の犬の猛きにあらず。さるに怎麼(いか)なればかく、鈍(おぞ)くも足を傷(やぶ)られ給ひし」ト、訝(いぶ)かり問へば黄金丸は、「これには深き仔細(しさい)あり。原来某は、彼の金眸と聴水を、倶不戴天(ぐふたいてん)の仇(あだ)と狙(ねら)ふて、常に油断(ゆだん)なかりしが。去(いぬ)る日件(くだん)の聴水を、途中にて見付しかば、名乗りかけて討たんとせしに、かへつて他(かれ)に方便(たばか)られて、遂にかかる不覚を取りぬ」ト、彼のときの事具(つぶさ)に語りつつ、「思へば憎き彼の聴水、重ねて見当らばただ一噬みと、朝夕(あけくれ)心を配(く)ばれども、彼も用心して更に里方へ出でざれば、意恨(うらみ)を返す手掛りなく、無念に得堪えず候」ト、いひ畢(おわ)りて切歯(はがみ)をすれば、朱目も点頭(うなず)きて、「御身が心はわれとく猜(すい)しぬ、さこそ無念におはすらめ。さりながら黄金ぬし。御身実(まこと)に他(かれ)を討たんとならば。われに好(よ)き計略(はかりごと)あり、及ばぬまでも試み給はずや、凡(およ)そ狐(きつね)狸(たぬき)の類(たぐい)は、その性質(さが)至(いたっ)て狡猾(わるがしこ)く、猜疑(うたがい)深き獣なれば、憖(なまじ)いに企(たく)みたりとも、容易(たやす)く捕へ得つべうもあらねど。その好む処には、君子も迷ふものと聞く、他(かれ)が好むものをもて、釣り出(いだ)して罠(わな)に落さんには、さのみ難きことにあらず」トいふに。黄金丸は打喜び、「その釣り落す罠とやらんは、兼(かね)てより聞きつれど、某いまだ見し事なし。怎麼(いか)にして作り候や」「そは斯様々々(かようかよう)にして拵(こしら)へ、それに餌(えば)をかけ置くなり」「して他(かれ)が好む物とは」「そは鼠の天麩羅(てんぷら)とて、肥(こえ)太りたる雌鼠を、油に揚げて掛けおくなり。さすればその香気他(かれ)が鼻を穿(うが)ちて、心魂忽ち空になり、われを忘れて大概(おおかた)は、その罠に落つるものなり。これよく猟師(かりうど)のなす処にして、かの狂言にもあるにあらずや。御身これより帰りたまはば、まづその如く罠を仕掛て、他が来(きた)るを待ち給へ。今宵あたりは彼の狐の、その香気に浮かれ出でて、御身が罠に落ちんも知れず」ト、懇切(ねんごろ)に教へしかば。「こは好(よ)きことを聞き得たり」ト、数度(あまたたび)喜び聞え、なほ四方山(よもやま)の物語に、時刻を移しけるほどに、日も山端(やまのは)に傾(かたぶ)きて、塒(ねぐら)に騒ぐ群烏(むらがらす)の、声かしましく聞えしかば。「こは意外長坐しぬ、宥(ゆる)したまへ」ト会釈しつつ、わが棲居(すみか)をさして帰り行く、途すがら例の森陰まで来たりしに、昨日の如く木の上より、矢を射かくるものありしが。此度(こたび)は黄金丸肩をかすらして、思はず身をも沈めつ、大声あげて「おのれ今日も狼藉(ろうぜき)なすや、引捕(ひっとら)へてくれんず」ト、走り寄(よっ)て木の上を見れば、果して昨日の猿にて、黄金丸の姿を見るより、またも木葉(このは)の中(うち)に隠れしが、われに木伝(こづた)ふ術あらねば、追駆(おっか)けて捕ふることもならず。憎き猿めと思ふのみ、そのままにして打棄てたれど。「さるにても何故(なにゆえ)に彼の猿は、一度ならず二度までも、われを射んとはしたりけん。われら猿とは古代(いにしえ)より、仲悪(あ)しきものの譬(たとえ)に呼ばれて、互ひに牙(きば)を鳴らし合ふ身なれど、かくわれのみが彼の猿に、執念(しゅうね)く狙はるる覚えはなし。明日にもあれ再び出でなば、引捕(ひっとら)へて糺(ただ)さんものを」ト、その日は怒りを忍びて帰りぬ。――畢竟(ひっきょう)この猿は何者ぞ。また狐罠の落着(なりゆき)怎麼(いかん)。そは次の巻(まき)を読みて知れかし。

   上巻終


[#改頁]



   下巻

     第九回

 かくて黄金丸は、ひたすら帰途(かえり)を急ぎしが、路程(みちのほど)も近くはあらず、かつは途中にて狼藉せし、猿を追駆(おいか)けなどせしほどに。意外(おもいのほか)に暇どりて、日も全く西に沈み、夕月田面(たのも)に映る頃(ころ)、漸(ようや)くにして帰り着けば。鷲郎(わしろう)ははや門に馮(よ)りて、黄金丸が帰着(かえり)を待ちわびけん。他(かれ)が姿を見るよりも、連忙(いそがわ)しく走り迎へつ、「※(やよ)[#「口+約」、89-6]、黄金丸、今日はなにとてかくは遅(おそ)かりし。待たるる身より待つわが身の、気遣(きづか)はしさを猜(すい)してよ。去(いぬ)る日の事など思ひ出でて、安き心はなきものを」ト、喞言(かこと)がましく聞ゆれば、黄金丸は呵々(かやかや)と打ち笑ひて、「さな恨みそ。今日は朱目(あかめ)ぬしに引止められて、思はず会話(はなし)に時を移し、かくは帰着(かえり)の後(おく)れしなり。構へて待たせし心ならねば……」ト、詫(わ)ぶるに鷲郎も深くは咎(とが)めず、やがて笑ひにまぎらしつつ、そのまま中(うち)に引入れて、共に夕餉(ゆうげ)も喰(くら)ひ果てぬ。
 暫(しばらく)して黄金丸は、鷲郎に打向ひて、今日朱目が許(もと)にて聞きし事ども委敷(くわしく)語り、「かかる良計ある上は、速(すみや)かに彼の聴水を、誑(おび)き出(いだ)して捕(とらえ)んず」ト、いへば鷲郎もうち点頭(うなず)き、「狐を釣るに鼠(ねずみ)の天麩羅(てんぷら)を用ふる由は、われ猟師(かりうど)に事(つか)へし故、疾(とく)よりその法は知りて、罠(わな)の掛け方も心得つれど、さてその餌(えば)に供すべき、鼠のあらぬに逡巡(ためら)ひぬ」ト、いひつつ天井を打眺(うちなが)め、少しく声を低めて、「御身がかつて救(たす)けたる、彼の阿駒(おこま)こそ屈竟(くっきょう)なれど。他(かれ)頃日(このごろ)はわれ曹(ら)に狎(なず)みて、いと忠実(まめやか)に傅(かしず)けば、そを無残に殺さんこと、情も知らぬ無神狗(やまいぬ)なら知らず、苟(かり)にも義を知るわが們(ともがら)の、作(な)すに忍びぬ処ならずや」「実(まこと)に御身がいふ如く、われも途(みち)すがら考ふるに、まづ彼(あ)の阿駒に気は付きたれど。われその必死を救ひながら、今また他(かれ)が命を取らば、怎麼(いか)にも恩を被(き)するに似て、わが身も快くは思はず。とてもかくてもこの外に、鼠を探(さが)し捕(と)らんに如(し)かじ」ト、言葉いまだ畢(おわ)らざるに、忽(たちま)ち「呀(あっ)」と叫ぶ声して、鴨居(かもい)より撲地(はた)ト顛落(まろびおつ)るものあり。二匹は思はず左右に分れ、落ちたるものを佶(きっ)と見れば、今しも二匹が噂(うわさ)したる、かの阿駒なりけるが。なにとかしたりけん、口より血夥(おびただ)しく流れ出(いず)るに。鷲郎は急ぎ抱(いだ)き起しつ、「こや阿駒、怎麼にせしぞ」「見れば面(おもて)も血に塗(まみ)れたるに、……また猫にや追はれけん」「鼬(いたち)にや襲はれたる」「疾(と)くいへ仇敵(かたき)は討ちてやらんに」ト、これかれ斉(ひと)しく勦(いた)はり問へば。阿駒は苦しき息の下より、「いやとよ。猫にも追はれず、鼬にも襲はれず、妾(わらわ)自らかく成り侍(はべ)り」「さは何故の生害(しょうがい)ぞ」「仔細ぞあらん聞かまほし」ト、また連忙(いそがわ)しく問(とい)かくれば。阿駒は潸然(はらはら)と涙を落し、「さても情深き殿たち哉(かな)。かかる殿のためにぞならば、捨(すつ)る命も惜(おし)くはあらず。――妾が自害は黄金ぬしが、御用に立たん願(ねがい)に侍り」「さては今の物語を」「爾(なんじ)は残らず……」「鴨居の上にて聞いて侍り。――妾去(いぬ)る日烏円(うばたま)めに、無態の恋慕しかけられて、已(すで)に他(かれ)が爪(つめ)に掛り、絶えなんとせし玉の緒を、黄金ぬしの御情(おんなさけ)にて、不思議に繋(つな)ぎ候ひしが。彼(かの)時わが雄(おっと)は烏円(うばたま)のために、非業の死をば遂げ給ひ。残るは妾ただ一匹、年頃契り深からず、石見銀山(いわみぎんざん)桝落(ますおと)し、地獄落しも何のその。縦令(たと)ひ石油の火の中も、盥(たらい)の水の底までも、死なば共にと盟(ちこ)ふたる、恋し雄に先立たれ、何がこの世の快楽(たのしみ)ぞ。生きて甲斐なきわが身をば、かく存命(ながら)へて今日までも、君に傅(かしず)きまゐらせしは、妾がために雄の仇なる、かの烏円をその場を去らせず、討ちて給ひし黄金ぬしが、御情に羈(ほだ)されて、早晩(いつ)かは君の御為(おんため)に、この命を進(まい)らせんと、思ふ心のあればのみ。かくて今宵図らずも、殿たち二匹の物語を、鴨居の上にて洩(も)れ聞きつ。さても嬉しや今宵こそ、御恩に報ゆる時来れと、心私(ひそ)かに喜ぶものから。今殿たちが言葉にては、とても妾を牙(きば)にかけて、殺しては給はらじと、思ひ定めつさてはかく、われから咽喉(のど)を噛(か)みはべり。恩のために捨る命の。露ばかりも惜しくは侍らず。まいてや雄は妾より、先立ち登る死出の山、峰に生(お)ひたる若草の、根を齧(かじ)りてやわれを待つらん。追駆け行くこそなかなかに、心楽しく侍るかし。願ふはわが身をこのままに、天麩羅とやらんにしたまひて、彼の聴水を打つて給(た)べ。日頃大黒天(だいこくてん)に願ひたる、その甲斐ありて今ぞかく、わが身は恩ある黄金ぬしの、御用に立たん嬉れしさよ。……ああ苦しや申すもこれまで、おさらばさらば」ト夕告(ゆうつげ)の、とり乱したる前掻(か)き合せ。西に向ふて双掌(もろて)を組み、眼(まなこ)を閉ぢてそのままに、息絶えけるぞ殊勝なる。
 二匹の犬は初(はじめ)より耳側(そばた)てて、阿駒(おこま)が語る由を聞きしが。黄金丸はまづ嗟嘆(さたん)して、「さても珍しき鼠かな。国には盗人(ぬすびと)家に鼠と、人間(ひと)に憎まれ卑(いやし)めらるる、鼠なれどもかくまでに、恩には感じ義には勇(いさ)めり。
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