ばかな汽車
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著者名:豊島与志雄 

 ――長いあいだ汽車の機関手(きかんしゅ)をしていた人が、次(つぎ)のような話をきかせました。――

     *

 汽車の機関手(きかんしゅ)をしていますと、面白(おもしろ)いことや、あぶないことや、つらいことや、それはずいぶんいろんなことがありますが、そのうちでかわった話というのは――
 そうですね……もうずっと昔(むかし)のことです。汽車をうんてんして、ある山奥(おく)を、夜中(よなか)に走っていました。機関車(きかんしゃ)の前の方の小窓(こまど)からのぞきますと、右手はふかくしげった山のふもとで、左手には小さな谷川がながれていまして、二本のレールがあおじろくまっすぐにつづいています。その上を、汽車(きしゃ)は速力(そくりょく)をまして走っています。後(うしろ)の方につづいてる車では、もう乗(の)ってるお客(きゃく)たちもたいていうとうとと眠(ねむ)ってる頃(ころ)で、あたりはしいんとした山の中の夜で、ただ私たちだけがおきていて、かまに石炭(せきたん)の火をたき、レールの上を見はりながら、汽車をごうごうと走らしています。もしなにかまちがいでもあろうものなら、何百人もの乗客(じょうきゃく)たちの命(いのち)にかかわるんです。
 ところが、機関車(きかんしゃ)の小窓(こまど)から前の方を注意(ちゅうい)していた私は、思わずアッと声をたてました……。線路(せんろ)わきにぽつりぽつりついてる電燈(でんとう)の光が、とおく闇(やみ)にまぎれて、レールもみわけのつかないその先(さき)の方に、大きな眼玉(めだま)のようなヘッドライトの光をかがやかし、煙突(えんとつ)から煙(けむり)をはいて、まっくろな大きなものが、ひじょうな勢(いきおい)で走ってきます。汽車です。汽車が向(むこ)うからくるんです。
 そのへんは、単線(たんせん)で、一筋(ひとすじ)の線路(せんろ)きりありませんでした。両方(りょうほう)から汽車が走ってくれば、ましょうめんから衝突(しょうとつ)するばかりです。それをさけるために、タブレットの仕方(しかた)で、停車場(ていしゃば)と停車場(ていしゃば)の間(あいだ)には一つの汽車しか通(とお)さないようにしてあります。それがどうしたまちがいか、たしかに向(むこ)うから汽車が走ってきます。
 両方(りょうほう)ともたいへん早く走っていますので、みるみるうちに近よってきました。もし衝突(しょうとつ)でもすれば、どんなことになるかわかりません。いくたりの人が死(し)ぬかわかりません。私はとっさに、汽笛(きてき)をならし、制動機(せいどうき)に手をかけて、汽車を止(と)めようとしました。火夫(かふ)たちもみな立上(たちあが)りました。向(むこ)うの汽車でも、汽笛(きてき)をならしています。
 全速力(ぜんそくりょく)で走ってる汽車をとめるのは、よういなことではありません。あまり急(きゅう)にとめますと、脱線(だっせん)してひっくりかえる心配(しんぱい)があります。両方(りょうほう)からぶっつからないうちにとめる、そのわずかなかねあいです。私たちはもう生きた心地(ここち)もしませんでした。
 向(むこ)うの汽車はすぐ近くになりました。まっくろなすがた、煙(けむり)をはいてる煙突(えんとつ)、ぎらぎら光ってるヘッドライト……車輪(しゃりん)のひびきまで聞(きこ)えてきます。ぶつかったらさいごです。
 そのうち、こちらの汽車はしだいにとまりかけて、一つ大きくゆれてまったく止(とま)ってしまいました。と同時(どうじ)に、向(むこ)うの汽車もとまりました。危(あぶな)いところでした。両方(りょうほう)十七、八メートルしかはなれていませんでした。私はほっとしました。
 そのまま、しばらくにらみあいのままでいましたが、さて、線路(せんろ)が一筋(ひとすじ)なので、お互(たがい)に通(とお)りぬけることができません。どちらか後(あと)しざりをしなければなりません。
 私の汽車から、火夫(かふ)が一人おりていきました。見ると、向(むこ)うの汽車からも火夫(かふ)が一人おりてきます。両方(りょうほう)からやっていきました。
 ところが、私は息(いき)もとまるほどびっくりしました。今まで、すぐ向(むこ)うに、十七、八メートルばかり先(さき)の方に、煙(けむり)をはき光をだし、音までたてていた汽車が、姿(すがた)もなにもなくなって、こちらのヘッドライトの光にてらされた線路(せんろ)が、ただしらじらと遠(とお)くまでうちひらけてるじゃありませんか。そしてなおふしぎなことには、そのきえうせた汽車からおりてきた火夫(かふ)だけが、こちらからいく火夫(かふ)の方へ、同じような足どりで歩いてきます。
 私はおりていこうとしました。がもうその時、両方(りょうほう)の火夫(かふ)は線路(せんろ)の上でであっていました。立どまって、何か話してるようでした。すると、こちらの火夫(かふ)が、いきなり向(むこ)うの男になぐりかかりました。とたんに、向(むこ)うの男の姿(すがた)がきえて、火夫(かふ)は足もとに、なにかへんなものをおさえつけています。
 私はいきなり、助手(じょしゅ)やほかの火夫(かふ)といっしょに、機関車(きかんしゃ)からとびだして、かけつけていきました。みると、火夫(かふ)は大きな獣(けだもの)を力一杯(ぱい)におさえつけています。それは、年とった一ぴきの大きな狸(たぬき)でした。
 それでやっとわけが分りました。その狸(たぬき)め、汽車にばけて、こちらの汽車のとおりに進(すす)んできたところが、こちらがとまったので、向(むこ)うでもとまって、それから火夫(かふ)がおりて行くと、汽車の方を忘(わす)れてしまって、火夫(かふ)だけにばけて、つかまってしまったんです。私たちははじめ腹(はら)をたてましたが、次(つぎ)にはおかしくなりました。そして狸(たぬき)にいいきかしてやりました。
「ばかだな、お前は……。ばけるものにことをかいて、汽車にばけるとはなんということだ。もし衝突(しょうとつ)でもしたら、お前はこなみじんになってしまうぞ。これから、もっと気のきいたものに、危(あぶな)くない者にばけるようにしろよ」
 そして、食(た)べ残(のこ)しの牛肉のきれをやって、はなしてやりました。狸(たぬき)は肉をもらって、頭(あたま)をぴょこぴょこさげながら、藪(やぶ)の中へはいっていきました。私たちはその後姿(うしろすがた)をみおくって、大笑(わら)いをしながら、後(おく)らした時間(じかん)をとりかえすために、汽車を全速力(ぜんそくりょく)で走らせました。
 まったく、ばかな狸(たぬき)です。汽車にばけるなんて、よくそんな危(あぶな)っかしいことができたものです。むてっぽうにも程(ほど)がありますよ。




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