都会に於ける中流婦人の生活
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著者名:豊島与志雄 

 都会に於ける中流婦人の生活ほど惨めなものはない。彼女等の生活は萎微沈滞しきっている。――勿論茲に云うのは、既婚の中流婦人の大多数、僅かな例外を除いた全部を指すのである。
 下流の婦人等の生活はまだそう悪くはない。少くとも彼女等は働いている。何かしら糊口のために仕事をしている。如何なる粗食と粗服と陋屋とを余儀なくされても、なおその生活には張があり力がある。朗かさや明るみには欠けていても、鈍重な活力を失わないでいる。
 何かの仕事をするということは、働くということは、人の精神にも肉体にも、健かな光と力とを与えるものである。生きてる――生活してる――という意識は、ただ働くことから得られる。働くことを知っている者は、如何なる困苦の中にあっても、常に活力を失わない。この意味で、下流の婦人等の生活は全然救われざるものではない。
 上流の婦人等の生活はまだそう悪くはない。少くとも彼女等は生を享楽している。何かしら楽しんでいる。虚偽や虚飾や中身の空疎などはあろうとも、なおその生活には晴々とした明るさがある。
 生の安楽ということは、明るい光を失わない限り、そう郤けるべきものではない。日の光の中に咲き匂ってる花は、あのままでよいではないか。人生からあらゆる楽しみを取去って、苦しみだけを残す必要はない。偸安がいけないことであると同様に、偸苦もいけないことである。自由な安楽は、人に若さと活気とを与える。この意味で、上流の婦人等の生活も全然排し去るべきものではない。
 ただ不正なのは、下流の生活と上流の生活と、両者が同時に存在してるからである。一方が苦しみ一方が楽しんでるからである。もし両者全部が苦しみもしくは楽しんでる場合には、不正は成立しない。両者の比較からのみ問題は生じてくる。
 そういう問題を今私は取扱ってるのではない。個々のものそれ自身について云ってるのである。
 さて、中流の婦人等の生活は如何なるものであるか。其処には、下流の生活に見るような鈍重な活力もなければ、上流の生活に見るような溌剌たる明るさもない。凡て萎微し沈滞しきって陰鬱である。
 朝起きると、室の掃除やこまこました片付物などをし、女中が拵えてくれた食物を食べ、良人や子供達の服装の世話をし、良人を――或は子供をも――外に送り出し、それから髪を結い、再び顔を洗って化粧をし、着物を着直し、新聞などに眼を通してるうちに、もう正午となる。そこでひどい粗食をこそこそと済す。子供の面倒をみる。押入や戸棚の中を掻き廻す。時には裁縫の道具を手にする。それから夕食の料理に頭を悩ます。良人の帰りを待つ。だらしのない長時間の夕食をする。気乗りのしないぼやけた心で、良人の無駄話に耳をかす。子供の世話をやく。退屈になって、うとうと居眠りをしたり、ぼんやり雑誌をめくったりする。時間がいつのまにかたって、もう寝なければならない。――そういう日々が、その他いろんなこまかなことのごたごたした日々が、同じように無際限に繰返される。
 そういう彼女等のこまかな、ごたごたした仕事を概約すれば、家政と育児との二つになる。
 然るに、彼女等の家政なるものは、全くの機械的な働きに過ぎなくなっている。幾許かの材料の配合と調理の仕方とを、永久に繰返す料理、四季の変化は多少あっても、毎日殆んど同じような掃除や買物、そしてそれらのことが、良人から与えられる毎月一定の金額から、少しもはみ出してはいけないのである。結婚当初こそ多少の興味はそそられても、やがては無味乾燥な機械的な働きに堕してしまう。一定の範囲内に於ける永久の繰返し、宛も瓶の中をぐるぐる飛び廻る蝿のようなものである。
 彼女等の育児もまた、最初の子供のそれを除けば、殆んど機械的な働きに過ぎなくなる。多産なる彼女等は、二年か三年毎に一人ずつ子を設ける。そして赤児から三歳ぐらいまでの保育が、幾回となく繰返される。三歳以上になると、次の児が出来るので、重に女中の手に任せられる。少しずつ個性が出来かけて、溌剌とした心身の営みを示してくる、三歳以上の子の生長を、彼女等は落付いてゆっくり見守る隙がない。渾沌とした幼児の煩雑な世話に、彼女等の心は疲れきっており、粗食をしながら乳を授けるために、彼女等の身体は衰えきっている。そしてそういうことが、二三年を一期として、幾回となく繰返される。
 而も彼女等のそういう生活には、余りに空気と日の光とが欠けている。たまの買物や訪問に出かけたりすること以外には、狭い日蔭の室内で、朝から晩までぐずぐずしている。戸外の大気を吸い打晴れた日光に浴する機会は、ごく稀にしかない。そして何かの機会で、思うさま外気を吸えば風邪を引くし、長く日光に浴していれば眩暈を起す。それほど彼女等は衰微してデリケートになっているのである。
 単に身体のみではない。精神的にも彼女等は萎微しきっている。娘時代の奔放な幻想が、結婚後の狭苦しい生活のために窒息してしまって、而もそれに代るべき何物も生じてはいない。其処にはただ空しい場所が残される。そしてその空しい場所に、日々のなまぬるい生活の滓が堆く積ってくる。稀には自由なのびのびとした気息が、その下から燃え出すことはあっても、すぐにぷすぷすとくすぶって、秩序とか経験とかいうものの重みの下に、押しつぶされ消し止められてしまう。書物を読もうとしても、読む隙がない――否、隙はあってもそれを利用することが出来ないし、また読むだけの気力もない。
 斯くして彼女等は、肉体的にも精神的にも、次第に活力を失ってくる。機械的な繰返しの生を営んで、その中に淫し溺れて、その日その日の安穏無事から、一歩も外に出ようとはしない。自由なのびのびとした気魄は、その影だに止めない。そして彼女等の幸福は、良人から月々与えられる金額とか、子供達の健康とか、良人の品行とか、女中の人柄とか、そんな風なつまらない事柄にばかり懸っている。そのうちに年老いてしまうのだ。
 勿論私は、凡ての中流婦人がそうだというのではない。多少の例外を除いた残りの全部が、現在ではそうだというのである。
 これを救うにはどうしたらよいか?
 現在の経済的組織や社会的組織や政治的組織や家庭的組織を改変することは、その最も根本的なものであろう。然しこれには多大の年月と犠牲とを要する。そして時代は――人間全体は――その方へ歩みを進めている。
 先ずそれまでのうちに、直接現在にどうしたらよいか?
 生活を改善し簡易にすることも、その一であろう。家庭を食堂と寝室とだけにするのも面白いかも知れない。
 産児を制限することも、その一であろう。一度に所要の子供数を拵えるとか、一定の期間に一人ずつ拵えるとか、そんな風な規則も面白いかも知れない。
 生活に高尚な趣味を漲らすのも、その一であろう。家庭を美術館や音楽堂や動物園など、そんな風なものにしてしまうのも面白いかもしれない。
 婦人デーと云ったようなものを作って、男が留守をして女が必ず出歩くというようにしてもよいだろう。凡ての主婦達が一斉に羽を拡げて飛び廻ったら、天下の奇観で面白いかも知れない。
 然し何よりも、彼女等の生活に一定の方向――目的――を与えることが必要である。彼女等の生活の萎微沈滞は、その生活に一の方向とか目的とかがない所から、最も多く原因している。方向や目的のない生活には、発展がない。発展のない生活は、機械的な繰返しに過ぎなくなる。もはやそれは生活ではない。生活とか活力とかいう言葉は、機械的な繰返しと全然相反するもので、それ自身一の発展を含有してるものである。
 彼女等の生活が一の方向――目的――を得るためには、彼女等が良人に従属もしくは隷属して生きるのではなくて、良人と共に生きなければいけない。共に生きるとは、一緒に仕事をし一緒に思考してるという意識を失わないことを指す。現在の中流の婦人で、良人が如何なる仕事をし如何なることを考えてるか、それを本当に知ってる者は極めて少い。
 巷説伝うる所に依れば、昔板倉伊賀守が京都所司代に任ぜられる時、自分の仕事には一切口出しをしないと奥方に誓わしてから、初めて安心してその役に就いたという。それを一世の亀鑑として賞せられる伝統が、未だになお残っている世の中である。男の方もよくないが、女の方もよくない。
 勿論、女が男と共に仕事をし共に思考するというまでには、女の人間的な進歩を俟ってでなければ不可能である。然し女は直接その衝に当るのではない。それだけの意識を失わない生活をすればよい。家政や育児の仕事が如何に労多いものであるかを、私は知らないではないが、また私は、中流の婦人に右の意識を持つだけの余裕があることをも、知らないではない。
 良人と共に仕事をし共に思考してるという意識を持つとき、そして実際にそういう生き方をする時、女の家庭生活にも初めて、一定の方向――目的――が生じてくる。広々とした眼界が開けてくる。精神的に窒息しないだけの、充分の空気と光とがさし込んでくる。そして生活に張りと力とが生じてくる。張りのある力強い生活さえしていれば、吾が中流の婦人にとっては、家政や育児の業は比較的容易になし遂げられて、なお余裕綽々たるものがあるだろう。




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