或る男の手記
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著者名:豊島与志雄 

 もう準備はすっかり整っている。準備と云っても、新らしい剃刀(かみそり)と石鹸と六尺の褌とだけだ。それが、鍵の掛った書棚の抽出の中にはいっている。私としては、愈々やれるかどうか、それを試してみるだけのことだ。然しその前に、一切のことを書き誌してみたい――と云うより寧ろ、文字というはっきりした形で考えてみたい。馬鹿げた欲求だということは分っているが、そうにでもしなければ、何かしら心に落着(おさまり)がつきにくいのだ。
 とは云え、どこからどう書いていったものか、一寸見当がつきかねる。いろんなことが一時に持上った混乱した事件だけに、本当の筋道を辿りそこなうこともあるだろうし、重大な事柄を見落していることもあるだろうし、私の知らない隠れた事実もあるだろう。然しそんなことを心配していてはきりがない。自分を中心に――そうだ、この場に及んでもやはり自分だけが中心だ――ぐんぐん書いてゆく外はない。
 ある日……表面的にはあの日が発端だった。からりと晴れた小春日和で、田舎には小鳥でも鳴いていそうな日だった。実際井ノ頭の木立の中には、小鳥の声が爽かに響いていた。そして私は、郊外の大気と日の光とに我を忘れてる光子(みつこ)を眺めて、小鳥のような女だと思ったのだった。そして私もまた、何かしら心が浮々としてきたのだった。……が、こんなに筆が先へ滑っては仕方がない。
 その日の午前十時頃、私が会社の室で、何だか満ち足りない焦燥のうちに茫然としてる時……と云っても、そんな気持はその日に限ったことではなく、もう長い間の私の心の状態となっていたのだが、それは後で云おう。でその日もやはり、落着いたような落着かないような気分に浸って、ぼんやり煙草を吹かしていると、女の人から電話だと給仕が取次いできた。何の気もなく電話口に立つと、それが月岡光子だった。「月岡光子でございます、」と彼女は姓までつけ加えて名のった。彼女の姓が月岡だということは前からよく知ってはいたが、電話で改めて聞かされると、それが私の頭の中で物珍らしく躍ったものだ。
「お目にかかって至急お話申上げたいことがございますが、そちらへお伺いしても宜しゅうございましょうか。」
「さあ……。」と私は口籠りながら、余りの意外さに躊躇したものの、相手の急(せ)き込んだ語気からして、何かしら切羽(せっぱ)つまった心を感じて、兎も角もお出でなさいと承知してしまった。
 彼女が私に逢いに会社の方へやって来るということは、私と彼女とのこれまでの関係からすれば、全く調子外れのものだった。来るなら自宅の方へ来そうなものだ、そして私の帰りが待ちきれないというなら、妻へ話しても用は足りる訳だ、などと私は考えながら、また一方には、それを押して会社へ出かけてくるくらいだから、何かよっぽどの事件に違いない、などという好奇な期待の念が、私の心に甘えかけてきた。
 一時間ほどたって、彼女は会社へやって来た。その間に私は、大体の仕事を急いで片付けて、いつ会社を退出してもいいようにしておいた。勿論意識してそうしたわけではなく、自然に気が急(せ)いてそういう結果になったのだった。一体私は、平素はのらくらしていて随分懶(なま)け者だが、一朝事があると――と云えば大袈裟だけれど、例えば子供が病気で入院したりなんかしてる場合には、人手の少い家の中でいろんな用をしながらも、平素の幾倍となく自分の仕事を捗らすのである。「あなたくらい妙な人はない、忙しい時ほど仕事がよくお出来になるんだから。」と妻はよく私に云ったものだが、私としては、泰平無事な時よりも、苦しい脅威が迫ってくればくるほど、心に張りが出来るし働き甲斐があって、ぐんぐん仕事が進むのである――仕事といっても、英語の小説の飜訳くらいなものだが。然しそういう状態はいけないものだった、少くとも変則のものだった。多くの人は落着いて仕事をしたいと云うのに、私だけは、落着いていては仕事が出来ないというのだから。それに……いやこのことも先で云うことにしよう。
 私は光子を応接室に通さしておいて、ゆっくりと心構えをしながら出て行った。光子は私の姿を見ると、喫驚したように立上ったが、ぎごちないお辞儀を一つすると同時に、微笑とも苦笑ともつかない影を顔に漂わして、そのまま腰を下ろしてしまった。そして、私が腰を下ろしてからやや間を置いて、改まった調子で初めて口を開いた。
「あの……お邪魔ではございませんでしょうか。」
「いいえ別に……。」そして私は一寸落着かない心持で尋ねた。「何か急なお話があるんですか。」
「ええ、是非先生に聞いて頂きたいことがございましたんですけれど……。」
 だんだん語尾の調子をゆるくしながら口籠ってしまって、変に固苦しくかしこまった。その様子を私はじろじろ見やりながら、遠廻しにそれとなく話を引出そうとした。然し彼女はなかなかそれらしい話を切出さなかった。河野さんの家に於ける生活状態などを、私の問に対して簡単な文句で答えはしたが、心が外に向いてることは、その様子にも明かだった。時々辻褄の合わないことを云っては、それを自ら意識してる風もなく平気で、私の方へちらと黒目を向けるのだった。
 黒目を向ける……とは変な云い方だけれど、実際彼女の眼には特長があった。私は初めて彼女に逢った時から、その眼に一寸興味を惹かれた。初めて逢ったと云っても、そう遠い前のことではない。今年の六月、一寸した用件のついでに、北海道を暫く旅して廻って、登別の温泉に泊った時、髪の結い方から服装から言葉遣いまで、女中というよりは寧ろ女学生といった風な二十歳ばかりの女が、私の許へ夕食の膳を運んできた。そしてお給仕をしながら、そういう場合のありふれた会話の間々に、彼女は私の方へちらちらと黒目を向けた。もっと詳しく云えば、両方の黒目が薄い上眼瞼に引きつけられて、恰も近視の人が額に物をかざして眺める時のような眼付、もしくは、若い女優が舞台の真中に立って空を仰ぐ時のような眼付、そういった風などこか不安な色っぽい眼付なのである。それでいて決して上目を使っているのではなく、真正面に私の方を見てるのだった。私がそれに注意を惹かれて捕えようとすれば、瞳にさっと細やかな光が揺れて、黒目は元の――普通の――位置に復してしまう。後で私は知ったのであるが、北海道の女には、殊に不品行な女には、そういう眼付を持ってる者が多いようである。然しただ彼女の眼付には、不品行などという影は少しもなく、固より処女ではなさそうだけれど、濁りのない純な光が輝いていた――が或はそれも、純白な白目のせいかも知れない、と今になって私は思う。この女が、月岡光子だった。私はその温泉に五六日滞在していたので、光子とは可なり親しみが出来た。彼女自身の云う所に依れば、彼女は札幌の文房具屋の娘で、遠い縁続きになるその温泉宿へ、保養旁々来ていた所が、女中の手が足りなくなったために、一時余儀なく手伝いをしてるのだそうだった。やがては女中も来るから、そしたら暫くの間、見物がてら東京へ出るつもりだなどと云って、先生と私のことを呼びながら、私の住所なんかを聞きただした。話の調子や趣味やなんかから、私を文士かなんぞのように誤解したものらしい。私は面倒くさいから強いてその誤解を解こうともせず――実は私も英語の小説の飜訳なんかを内職にしてるので、文士のはしくれと云えば云えないこともなかったのだ――また、別に彼女に対してどういう気持もなく、ただその黒目を見るだけで満足していた。それから旅を続けると共に、彼女のことは忘れるともなく忘れてしまった。そして八月の半ば、若い女が不意に東京の私の自宅へ飛び込んできて、月岡光子と女中へ名前を通した時、私はそれが彼女であるということを、逢ってみるまでは思い出せなかった。
 所で、会社の応接室で、いつまでも肝心の話を持出しそうにない光子を相手に、多少じれったい気持になりながらも私は、彼女がもじもじすればするほど、表面だけは益々落着き払って、時々黒目が上眼瞼に引きつけられる彼女の眼付を、物珍らしそうに待受けてるうちに、ふと、北海道の温泉宿のことをまざまざと思い浮べ、次には、窓の外の澄みきった蒼空を眺めやり、次には、いつ人がはいって来ないとも限らない鹿爪らしい応接室を、そぐわない気持で見廻して、こんな所で彼女が話しにくいのも無理はないと考えた。と同時に、解放された晴々とした所に出てみたくなって、少し外を歩いてみようかと云ってみた。
 光子は喫驚したように黒目を据えて眼を見張ってから、暫く何とも云わなかった。
「それに、もう時間だから、何処かで昼飯でも食べましょう。」と私は云った。
 彼女は御飯は頂きたくないと答えたが、お差支えがなければ外を歩いた方がいいと云い出した。
 私は社の上役に断っておいて、光子と一緒に外へ出た。丁度その日私は和服をつけていたので、袴が多少邪魔になりはしたけれど、洋服よりは都合がよかった。ステッキを打振ったり引きずったりしながら、内幸町から宮城前の堀端の方へ歩いていった。街路の地面は心地よく乾いていて、ほっこりとした温(ぬく)みのある日の光が、私達の身体を包み込んだ。光子は軽快な足取りで私と並んで歩きながら、変に黙り込んでしまった。それも何かを思い耽ってるという風ではなく、顔付も眼付も暢(のび)やかになって、何だかこう夢をでもみてるかのようだった。昼飯を食べようかと云っても、欲しくないとだけ答えた。一体どうしたというんだろう? 私にはさっぱり訳が分らなくなった。思い切って真正面から、話というのはどんなことですかと、少しきつい調子で尋ねてみた。
「もういいんですわ。先生にお目にかかったら、どうでもいいような気がしてきたんですもの。」
「それで?」
「それでって……。」
 そして彼女は一寸地面を見つめたが、何を思い出したのかくすくすと一人笑いをした。たったそれだけのことだが、それが私の心を軽く憤らした。この軽い憤りほど始末の悪いものはない。殊に相手が、反感も憎悪もない快い異性の時にそうである。私は甘っぽく嵩(かさ)にかかってゆく気持になって、急な大事な話というのを聞かないで、このまま光子を放すものかと決心した。そして、どうしたら彼女が話し出すだろうかと思い惑ってる所へ、高い角張った建物や電車自動車の響きや忙しげな通行人など、眩しい錯雑した都会と、私が朧ろげながら推察してる彼女の話の内容――恐らくは恋愛問題――とが、相容れない世界となって心に映ってきたので、こんな風ではとても駄目だと思って、知らず識らず歩みを止めた。もういつのまにか堀端に来ていた。葉の散った柳の細い枝影を、派手な大柄な絣の米琉の着物に粗(まば)らに受けて、一二歩先で足を止めて私の方を振向いた彼女の姿が、堀の水と空とを背景にくっきりと浮出して見えた。
「いい天気だから、郊外でも少し歩いてみましょうか。」と私は、その瞬間の咄嗟の思いつきに自ら微笑みながら云った。
「ええ、先生さえお差支えございませんでしたら。」と彼女は平気で答えた。そして日傘の先で、ぐいぐいと地面をつっついた。――水浅黄に黒で刺繍のしてある日傘を、彼女はその日一度もささないでステッキのように持ち歩いたのを、私は今はっきりと思い出す。
 私達は東京駅へ折れ込んで、それから電車に乗った。初め私はただ漠然と郊外でも歩くつもりで、中野までの切符を買ったが、乗り込んだ電車が吉祥寺まで行くものだったから、一層のこと井ノ頭へ行ってみようと思った。
「東京にも、北海道ほどじゃないが、静かな落着いた公園があるから、案内してあげましょうか。」と私は小声で云った。
「ええ。」と彼女はまたどうでも構わないという調子で答えた。
 電車の中に彼女と並んで腰掛けて、ステッキの頭に両手をのせ、ぼんやり車外の景色に眼をやってるうちに、私は一寸そうした自分の姿に苦笑したが、別に他意あって光子を連れ出すわけではなく、心さえしっかりしていて過を犯さなければ、彼女と半日の秋の光を浴びるくらい何でもないことだと、至極呑気な気持に落着いていった。たとい友人に出逢って何とか揶揄されても、私は顔に一筋の赤味も浮べないで、反対に相手を揶揄することが出来たかも知れない。後で妻とひどく喧嘩をして、私は北海道の時から光子と関係がついてるのに、それをのめのめと家に引張り込み、光子が河野さんの家に行ってからも、時々媾曳してたに違いないと、とんでもない邪推を受けた時、私は落着いて次のように云ったのである。
「馬鹿なことを云っちゃいけない。いくら僕が呑気で図々しくても、もし光子と北海道で変なことがあったのなら、何で家の中にお前の側に引張り込むものか。僕はまだそれほど精神的に堕落はしていないつもりだ。勿論結果から見れば、僕はお前に何と云われたって仕方ないけれど、初めから破廉恥な計画なんかは少しもなかったのだ。僕は光子を井ノ頭に連れて行く時、別に何という気持も持ってやしなかった。ただ彼女からその大事なという話を聞こうと思っただけだ。光子が女だったのがいけないのだ。僕が誰か或る男と井ノ頭に散歩に行っても、お前は気を揉みもしなければ、何とも思いはしないだろう。女だって同じさ。僕はこう思ってる、夫婦というものは一つの生活をしてるのであって、その一つの生活ということのために、恋人同志やなんかよりも、もっと深く堅く結び合されてるのだと。もし僕が独身だったら、若い女やなんかと一緒に歩いたりする時、僕は屹度妙な気分に心をそそられるに違いない。然しお前と夫婦の生活をしてるので、一つの生活をしてるので、若い女の前に出ても僕は平気でいられるのだ。そういう所に、夫婦生活の強みと自由とがあるわけだ。妻を持ってる身の上だから若い女と一緒に歩くのは悪いというのは、本当の夫婦生活を知らない者の言葉だ。夫婦生活とはそんな堅苦しい窮屈なものではない。僕は光子と井ノ頭に行った時、少しも心にやましさを感じはしなかった。僕はお前と一緒の生活にしっかり腹を据えているので、どんなことをしても大丈夫だと思い、何の危険もないものと思っていた。この僕の心持だけは、どうか誤解しないで信じてくれ。ただ僕は、そういう信念の下に余り油断してたのがいけないのだ。」
 この言葉は嘘ではない。全く私はそういう信念を持っていた。所が、そんな信念なんかを吹き飛ばしてしまうほどの、もっと深い所に潜んでるいけないものが――油断なんかという言葉で蔽いつくせないものが、私の生活の中にあったのだ。がそのことはもっと先で云おう。
 吉祥寺で電車から降りて、井ノ頭公園の方へ歩き出した時、私は光子の様子の変ったのに驚いた。東京駅で電車に乗るまで彼女は、私に対してあれほど和やかな心持を示して、何か遠い夢の跡をでも追ってるようなぼんやりさで、私に信頼し私に凡てを打任せていたのであるが、今私と並んで田舎道を歩いている彼女には、すぐ眼の前に浮んでる何かを一心に見つめて、じっと凝り固ってるような様子が、顔付や足取りに現われていた。それが一種の反感に似た冷さで、私の方へ対抗的に迫ってきた。彼女に何か悪いことでもしたのではないかしらと、私は妙にぎごちなくなりながら、わざと冗談の調子で尋ねてみた。
「どうしたんです、変に真面目くさった顔をして……。」
 彼女はちらと私の方へ黒目を挙げてから、なお四五歩進んだ後で云った。
「私いろいろ考えてみましたけれど……。」
 いくら待っても後の言葉がないので、私は静かに促した。
「で……どういうんです?」
「どうしたらいいか分らないんですもの。」
「一体何のことですか。話してしまったらいいじゃありませんか。私の顔を見てどうでもよくなったなんて……。」
「でもあの時は一寸そんな気がしましたけれど……やっぱり……。」
「話してしまった方がいいでしょう。私の顔に何か書いてあるわけでもないでしょうから。」
 私は冗談にしてしまおうとしたけれど、今の彼女には手答えもなかった。日傘の先で地面をつっついて歩きながら、恐ろしく真剣に考え耽ってる様子だった。私は何となく不吉な予感を覚えた。実は彼女にその話をさせるために連出したのだったが、そして会話の調子でなおそれを求めてはいたが、公園にはいりかける頃から、もう聞かない方がよいかも知れないという気持が起ってきた。然しやがて、彼女の方から話し出してしまったのである。
 日曜日でないせいか、公園の中には余り人はいなかった。杉の木立のほろろ寒い下蔭にはいって暫く行った時、光子は一寸足を止めてあたりを見廻したが、今度はゆっくりと歩き出しながら云った。
「私やっぱり先生に、何もかもお話してしまいますわ。」
「ええ。」と私は簡単に素気なく答えた。
 私達は足の向くままに――と云っても池の縁の道を――長く歩き続けた。光子の話は調子が早くなったり遅くなったり、事柄が前後したり、私に聞き返されて云い直したりして、余りまとまりのよいものではなかったが、大体の筋道はよく通っていたし、彼女にとっては可なり真剣なものだった。
「私何よりも先に、先生にお詫びしなければならないことがございますの。先生お許し下さいますわね。初めのうちに申上げておけばよかったのですけれど、何だか云い悪くて……。あの……先生の所へよく遊びにいらっしゃる松本さん、あの人と私変な風になってしまったんですの。河野さんの所へ参ってからは、始終お手紙を下さいますし、私も時々手紙を上げていましたが……。でも、今じゃもう何でもありませんわ。あんな意気地のない人のことなんか、どうだって構わない、私心の外におっぽり出してしまいますわ。そりゃ変なことを仰言るんですもの。あなたはこれまで幾人の男に関係したかなんて、まるで人を芸者か女郎とでも思っていらっしゃるような調子なんでしょう。私口惜しいから突っかかっていってやると、悪かったら謝罪するとこうなんですもの。そして、たといあなたの過去はどういうことがあろうと、そんなことを私は咎めはしない、現在のあなたが私一人を想っていて下さればそれでいいんです、けれど、お互に過去のことをすっかり打明け合って、さっぱりした気持で愛し合わなければいけない……とそんなことを繰り返し仰言るんです。変な理屈ですわ。過去のことを打明け合うのはいいけれど、それをくどくど話すというのは、やっぱり過去のことをいつまでも忘れない証拠じゃないんでしょうか。私はもう昔のことなんか綺麗に忘れてしまっていますわ。先生にだけお話しますけれど、私札幌で一人恋し合った人がありましたの。でも今ではもう、松本さんの仰言るように、それも言葉だけでなしに本当に、過去は過去として葬ってしまってるつもりですわ。それを根掘り葉掘り尋ねておいて、おまけに昨夜(ゆうべ)は私をあんな室に置きざりにして……。先生、何もかもありのままお話しますわ。ねえ、聞いて下さいまして? 私本当に困ってるんですの。私奥様のお世話で、河野さんの所へ参りまして、昼間は学校に通わして貰えますし、夜分は家庭教師の真似事みたいなことをして、ほんとに願ってもない仕合せな境遇だと、初めのうちはどんなに喜んだか知れませんわ。けれど、先生は御存じかどうか知りませんが、河野さんてそりゃあひどい人なんですの。松本さんも私の話を聞いて、それは立派な色魔だと仰言っていらしたわ。私はそれほどには思いませんけれど……或はお酒のせいかも知れないと思っていますけれど、松本さんに云わせると、酒は男の計略ですって。そうでしょうかしら? 夜晩く帰っていらして、夜の一時二時頃まで召上ることなんか、珍らしくもありません。奥様は御病気で片瀬に行っていらっしゃいますし、女中さんは二人共まるで山出しの田舎者なんですもの、お酒の相手……いえ私お酒なんかあすこで一杯も頂きませんけれど、お側についていてお燗をしたりなんかするのは、いつも私の役目ですの。だって外に誰もいないんですから、仕方ありませんわ。そして酔っ払った揚句には、私の手を握りしめたり、便所(はばかり)に立つふりをして、私の首にかじりつこうとなすったり、この頃では昼間お酒の気がない時でさえ、妙な眼付をして私のお臀を叩いたりなさるんです。それも冗談ならいいんですけれど、時々変なことを仰言るんですの。俺は草野の細君みたいな女が大好きだ、昔から好きだった、が人の細君では仕方がない、お前ならその向うを張れるから、一つ俺と一緒にならないか、あんな病身なくよくよした妻なんか、今すぐにでも追ん出してみせる……なんてもっとひどいことだって仰言るんです。草野の細君という言葉を私は二三度聞きましたが、ひょっとすると、あなたの奥様に変な気を持っていらっしゃるのかも知れませんわ。そんなひどい心の人ですもの、私なんかを手に入れるのは訳はないと、どうもそういった調子なんですの。お前もいい加減意地っ張りだねと、私の耳を火の出るほどひどく引張ったりなさるんです。なぜうんと怒ってやらなかったかって、松本さんはひどく憤慨していらしたけれど……いえそれは昨晩のことなんですの。いくら何だって、私そんなことを松本さんに話せはしなかったんですもの。でも昨日はとうとう逃げ出してしまいましたわ。それまでに幾度逃げ出そうとしたか分りません。松本さんは私が前に手紙でそんなことを少しも匂わせなかったと云って、少し疑っていらっしゃるようですけれど……そのためかも知れませんわ、私に過去のことをいろいろお聞きなすった。のは。男には女の心なんか分らないでしょうかしら。私がそれまで隠してたのは、事を荒立てたり松本さんに心配さしたりしたくないというだけで、外に訳は何もないんですの。でもやっぱり駄目でしたわ。一昨日(おととい)の晩は愈々困ってしまいました。夜の二時頃までお酒を召上っていらしたが、餉台の上の小皿を一枚ふいに取上げて、いきなり側の鉄の火鉢に投げつけて、粉微塵に壊しておしまいなすったんです。何でも、差された杯の酒を私が飲まないとか何とか、そんな風なことだったんです。でも私にはその乱暴が、全く不意だったものですから、すっかりまごついたせいか、自分でもよく分りませんが、急に変な気持になって、その杯の酒をぐっと飲んでしまいましたの。後ではっとしましたが、もう追っつきません。河野さんは恐い眼付で私の方をじろりと見て、うむ、お前が皿一枚に一杯ずつ飲むなら、夜明けまでに何枚でも壊してやると、こうなんでしょう。そうなると私も意地っ張りで、もう一言も口を利かないで、室の隅にじっと坐っていました。それからまた皿を一二枚お壊しなすって、暫くすると、畳の上にごろりと寝転んでいらしたが、私が気がついてみると、少し鼾をかいて眠っていらっしゃるんでしょう。私ほんとにどうしたらいいかと思いましたわ。しまいには腹を据えて、夜着を上からそっとかけてあげて、私は一番遠い隅っこへ火鉢を持っていって、それによりかかりながら朝まで坐り通しに坐っていました。その間の恐ろしいようななさけないような気持ったら、今考えてもぞっとしますわ。そして朝になってから私は、女中達の手前今起きたような風をして、顔を洗ったり庭に出てみたりしました。河野さんは平気でしゃあしゃあとしていらして、女中に小言を云いながら室を片付けさして、それから私に向っては、人の居ない所で、昨晩夜着をかけてくれた親切は忘れないって……。それを聞くと、私は頭から水でも浴びたように、ぞーっと身体が竦んでしまいました。どうしてそんなに恐ろしかったのか、自分でもいくら考えても分りませんが、ほんとに恐ろしくてじっとしていられなかったんですの。そしてその日の午後に、私は身体一つで松本さんの下宿へ飛んでいきました。松本さんは私がやって行くと、ただ遊びに来たものとでもお思いなすったのでしょう、初め何だか嬉しそうにそわそわしていらしたが、私の様子がやはり変だったと見えて、いやに真面目な鹿爪らしい調子で、いろんなことをお聞きなさるんです。私も初めから何もかも訴えて縋りつくつもりだったものですから、これまでのことを残らず話してしまいましたの。すると、松本さんは非常に憤慨なすったので、私もまた更に腹が立ってきて、二人でさんざん河野さんの悪口を云っていますと、途中から、松本さんはいやに黙り込んでおしまいなさるんです。晩の御飯を頂いてる時なんか……だって外に出かける間がないうちに、日が暮れてしまったんですもの。下宿屋の御飯なんか、薄穢くて私もうつくづく厭ですわ。それを松本さんはうまそうに召上りながら、何だかじっと考え込んで、碌々私に返辞もなさらないんでしょう。そして御飯が済んで暫くたつと、いきなり私の方に向き直って、河野さんのやり方は何処までも悪い、然しあなたは全然正しいかって、そう仰言るんです。全然正しいって……まあ何のことでしょう。私呆れて返辞も出来ませんでしたわ。それからが過去の問題なんです。……ああ、もうお話しましたわね。で私は、松本さんが私と河野さんとの間を疑っていらっしゃるのだと思って、そんな邪推を受ける覚えはないと、繰り返し云ってやりましたの。所が松本さんは、あなたの方が私の云うことを邪推してるんだって、そう仰言るじゃありませんか。それから面倒くさい理屈になって、私ほんとに弱ってしまいましたわ。恋愛は人間の一種の煉獄で、それに飛び込むには、過去を懺悔し合い赤裸々になって、なお未来を誓うだけの勇気がなければ、いけないんですって。それからまだいろんなむつかしいことを仰言ったけれど、私一々覚えてやしません。そして私が、愛というものは理屈じゃなくて、どうにも出来ない気持の上のものだと云うと、それにも賛成なさるんでしょう、結局何のことだか分りやしないわ。それから変にちぐはぐな気持になって、長い間黙り込んだりしてるうちに、時間がたってしまいましたの。松本さんは喫驚したように時計を見て、もう帰らなけりゃいけないんでしょうと仰言るんです。河野さんの家へ帰るのは厭だと云うと、でも今晩は帰らなけりゃいけないと仰言るんです。私むっとして、じゃあ帰りますって立上ると、屹度私の顔色が変ってたのかも知れませんわ、慌ててお引止めなすって、泊っていってもいいってことになったんですの。それでも、今晩は同じ室に寝ない方がいいと云って……それも私を愛してるからですって!……御自分は別の室に寝ようとなさるんです。そうなりゃ私も意地で、是非帰ると云ったんですけれど、とうとう、私が外の室に寝ることにして、泊ってしまいました。それも下座敷の穢い室で、畳の辺(へり)は擦り切れ、壁に新聞の附録か何かの美人画がはりつけてあって、狭い床の間には古机が一つ横倒しになっています。その中で私は、下宿屋の薄い穢い布団にくるまって、涙が独りでにこぼれてきました。松本さんは私に、今晩はこれで辛抱して下さい、こんな風にするのもあなたを愛してるからで、後で分る時が来ますって、そう仰言ったけれど、そんな愛し方ってあるものでしょうか。私が何もかもうっちゃって縋りついていったのに、帰れと云ったり別の室に寝かしたりして……あら私、何も一緒にどうのっていうんじゃありません、せめて同じ室にくらい寝かしたってよさそうなものですわ。私口惜しくって、夜中過ぎまで震えながら泣いていましたが、もうどうとでもなれと諦めて、それに前の晩一眠りもしなかったんですもの、朝遅くまで寝入ってしまいましたの。松本さんは早くから起上って、何度も私の室を覗きにいらしたんですって。私ほんとに恥をかかされちゃったんですの。そのまま飛び出してやろうかと、よっぽど思ったんですけれど、無理に我慢していますと、松本さんは変にしおれ返った様子で、私の手をじっと握りしめなさるんです。でも私知らん顔をしてやりましたわ。それから、二人で先生の家へ行こうと仰言るのを、逃げるようにして飛び出してきました。そして一人で外を歩いてるうちに、どうしていいか分らなくなって、やはり先生にお話してみようと思って、お伺いしたんですの。一昨日(おととい)の晩からのことを考えると、何だか夢のような気がしたり、またいろんなことが眼の前に押し寄せてきたりして、自分で自分が分らなくなってしまいますわ。どうしたらいいんでしょう? でも、どうせ私は……。」
 光子はぷつりと言葉を切って、突然何かに腹を立てでもしたように、早めにすたすたと歩き出した。私達はそれまでに、池を一周半ばかりしたのだった。
 光子の話の中で、殊に私の注意を惹いたことが三つあった。河野さんの口から洩れたという私の妻のことと、河野さんが殆んど毎晩のように酒を飲むということと、最後のは全く馬鹿げてるが、松本の下宿で光子が朝遅くまでぐっすり寝入ったということだった。それから、後で松本から聞いた所に依ると、光子が泊った室はそれほどむさ苦しいものではなかったそうだし、また、光子は自分の過去を話すのを厭いながらも、松本の過去をしきりに聞きたがったそうである。……だが、こんな細かな詮索はぬきにして、彼女の話全体は、初めの不吉な予感に反して、淋しいようでまた伸々とした自由さを私の心に伝えた。うち晴れた秋の空を見るような感じだった。それは恐らく、何処かの狭苦しい室の中ではなく、ああいう場所で聞かされたせいかも知れない。そして不吉な予感は、ずっと先の方に対してのものだった。
 光子は何かに立腹でもしたように、とっとと歩いてゆく。私はその後から、余裕のある心持でついて行きながら、わざとこんな風に尋ねかけてみた。
「あなたは一体松本君を愛してるのですか、どうなんです?」
「あんな人のこと何とも思ってやしませんわ。」と彼女は振向きもしないで答えた。
「じゃ河野さんは?」
「考えるのも厭ですわ。」
「それではどうしようって云うんです?」
「分りませんわ。」
「そりゃ誰にだって分らないでしょうけれど……でも何だか変ですね。」
 此度は彼女も本当に腹を立てたらしかった。私の言葉には返辞もしないで、自棄(やけ)気味に日傘を引きずりながら、真直ぐを見つめて歩き続けた。私も黙って後からついていったが、次第に心の落着き場所を失ってきた。彼女の真剣な話を変な風にはぐらかしてしまったのはよいとして、その納りをつけるのに困った。しっくりと彼女の腑に落ちる事を云ってやりたかったが、その言葉が見付からなかった。そして知らず識らず足をゆるめていると、彼女はふいと向き直って、だいぶ後れてる私の方へ焦れったそうに呼びかけた。
「先生、もっと早く歩きましょうよ。私この池のまわりを何度も廻ってみたいんですの、幾度廻れるか。」
「そんなことをしてどうするんです。」と私は云ったが、彼女のぼーっと上気してるらしい顔と、眸の据った輝いてる眼とを見ると、すぐそれにつり込まれてしまった。
「私もう何にも考えないわ、馬鹿馬鹿しい!」と彼女は投げやりの調子で云った。「この池のまわりを七度廻って、それでおしまい。」そして彼女はとってつけたように笑った。
 西に傾いた日脚が赤々と杉の梢に流れていて、池の水は冴々と澄みきっていた。藻の影にじっと浮んで動かない鮒の群がいたり、水の面に黄色い花が一つぽつりと咲き残っていたりした。そして杉の林と古い池とから醸される幽寥な気が、それらのものに塵外の静けさを与えていた。でも私は淋しくなかった。あたりの景色が静かであればあるほど、遠い旅にでも出た気になって、解き放された自由な喜びを感ずるのだった。殊に光子は溌刺としていて、明るい日向に出ても薄暗い森影にはいっても、同じような眼の輝きを失わなかった。
「私何だかさっぱりして、気が清々(せいせい)して、もうどうなったって……この池にはまって死んじゃったって、構いませんわ。」
 そんなことを云いながらぐんぐん歩いて行った。先刻の訳の分らない腹立ちがけし飛んで、その昂奮だけが残ってるような調子だった。小鳥が鳴いてる、花が咲いている、鮒が浮いてる、杉の芽が綺麗だ、ほんとにいい天気だ、などとそんなことを短い言葉で独語のように云いながら、それでも心の底には、何かしらじっとしていられないものが渦巻いてるといった風に、出来るならば宙を飛んだり地面に転がったりしたいような素振だった。で私は彼女を見てるうちに、勝手気儘に飛び廻り囀り散らす小鳥を連想した。実際立木の中にはいろんな小鳥の声が響いていた。それからまた私の頭には、北海道の広漠たる平野やアカシアの都会や山の湯のことなどが浮んできた。そして平素の陰鬱な窮屈な生活を遁れて自由なのびのびとした世界に出たような気がして、性質から境遇から凡ての点でその世界のものであり、その世界に我を忘れてる光子に対して、羨しいような小憎らしいような感情が起ってきた。
 そして更に、その感情をなお刺激することが起った。私達は池を何周したか覚えていないが、日脚が益々傾いて、杉林の中や池の面に、ほろろ寒い靄影がこめかけてきた時、次第に私は空腹を覚えてきて、光子にそう云うと、彼女もやはり腹が空ききってると答えた。それでは栗飯でも食べて行こうかということになったが、私はふと気がついて、帰りが遅くなってはいけないだろうと注意してみた。
「構いませんわ。」と彼女は答えた。「私今晩は新宿の叔母の家に泊っていきます。」
 私は喫驚して足を止めた。八月に彼女が私の家へやって来た時には、いきなり東京へ飛び出して来たものの、身寄りの者も知人もないし、上野駅前の宿屋に一晩泊ったが、何だか恐ろしくて仕方がないから……というような話だった。それから詳しい事情を――農科大学生との失恋や嫂との喧嘩などが重って、札幌の家に居られなくなった訳だの、何処かの家で働きながら昼間は絵を習いたいという志望など――いろいろ聞かされてるうちに、つい私も妻も同情をそそられて、暫く家に留めておくことにしたのだった。実際彼女はその翌日になって、駅に預けっ放しにしてるという柳行李を一つ取って来たりした。それから私の家に半月ばかりいて、妻から河野さんに願って、子供の家庭教師みたいな風で置いて貰い、昼間は画塾に通っているのである。新宿に叔母がいるなどということを、彼女は今迄匂わせもしなかった。で私は何気なく、その点を軽くつっ込んでいった。すると彼女は平気で答えた。
「だってあの時はああ申さなければ、先生が置いて下さらないような気がしたんですもの。本当は少し前から新宿の叔母の家に来ていたんですの。所がその叔母が大変なやかましやで、私喧嘩をして飛び出して、それから先生の所へ伺いましたの。でも札幌の話はみんな本当ですわ。私よく喧嘩をする女だと、自分でも厭になっちまう時がありますの。」
 そして彼女は駄々っ児のように私の顔を覗き込んできた。それを私は、張り倒してやりたいような、また抱きしめてやりたいような、変梃な気持でじっと見返したまま、どうにもすることが出来なかった。
 栗飯を食べるために、私は静かな奥まった家へ何の気もなくはいっていったが、やがて自分の迂濶さに面喰った。私達を出迎えた女中は、銀杏返しに結って銘仙の着物をつけ、何を云うにも取澄した顔をしながら、身体全体で愛想を示す、可なり年増な女だった。通された室は奥の八畳の間で、衣桁から床の間の掛軸や水盤など、程よく整っていて、而も違棚の上には大きな鏡台が据えてあった。それになお、生憎今日はお風呂がございませんで……とわざわざ断られた。とんだことをしたと思ったが、もう取返しはつかなかった。女学生とも令嬢ともつかない光子の様子と自分の袴とに、変に気が引けながらも、いい加減に料理を註文しておいて、私はおずおず光子の方を窺った。彼女は何を考えてるのか、さも疲れたらしくぐったりと坐って、餉台にもたせた片手で頬を支え、室の隅にぼんやり眼をやっていた。私は弁解のつもりで云った。
「うっかりはいり込んだけれど……少し変な家でしたね。」
 彼女は私の方へちらと黒目を向けて、こんなことを云った。
「でも、これで温泉と谷川とがあったら、登別のような気がしそうですわ。」
 不思議なことには、彼女のその言葉に私は全然同感したのだった。登別と井ノ頭とは、どの点から云っても全く異った景色なのに、私の心にはそれが一緒になって映ったのである。今から考えると、その時の登別というのは一つの符牒に過ぎなくて、ただ漠然と自由な一人っきりの境涯というくらいな意味のものだったらしい。私はその日初めて聞かされたのであるが、彼女はあの時既に札幌の家に居にくくて登別に来てたのだそうだし、私はまた、漂泊の旅にでもいるような気で旅をしてたのである。
 私達は馬鹿馬鹿しくも、登別と井ノ頭とを比較して話し初めた。そのうちにいろんな物が運ばれた。女中は物を持って来たり用を聞いたりすると、すぐに室から出て行ったが、全体の調子や素振りで愛想よく待遇してくれた。一つ間(あいだ)を置いた向うの室で、男女の笑い声が聞えていた。私はいい気になって酒を飲んだ。光子も自ら進んで私の相手をした。それから何だかごたごたして、今私ははっきり記憶していないが、やがて食事を済まして林檎をかじりながら、私は縁側の戸を一枚そっと開けて、外を眺めてみたのである。庭の植込からその向うの木立へかけて、薄い靄が一面に流れていて、空高く星が光っており、西の空にどす赤い下弦の月が懸っていた。その不気味な月に暫く見入っているうち、俄にぞっと寒けを感じて、ふと振向いてみると、光子は半身を餉台にもたせかけ火鉢の上にのり出して、震えながら歯をくいしばっていた。私は雨戸をしめて戻ってきた。
「どうしたんです?」
 彼女はぎくりとしたように顔を挙げて、黒目が三分の一ばかり上眼瞼に隠れてる眼付を私の顔に見据えていたが、そのまま瞬きもしないで、はらりと涙をこぼした。私は残忍な気持になって、それに乗じていった。
「あなたはやはり心から松本君を愛してるんですね。」
「嘘、嘘、」と彼女は叫んだ、「誰も愛してなんかいません、誰も。」
「じゃあなぜそんなに……絶望してるんです?」
 彼女は病的な表情をした。そして暫く黙った後に言った。
「やっぱり私一人だけだわ。」
「何が?」
「いろんなことを考えたってやっぱり……私一人だけだわ。」
「だから考えない方がいいんです。」
「それでも私……。」
「欝憤を晴らすのなら、めちゃくちゃに歩き廻るのが一番いいですよ。」
「先生だって……。」
「だから池のまわりを七回まわったんです。」
「七回なんてまわりやしませんわ。」
「然し……一体どうしたらいいんです?」
 そして私は不意に顔が赤くなった。やたらに煙草を吹かした。彼女も黙っていた。虫の声がいやに耳につくような静けさだった。長い間たってから、私は不意に彼女の手を握りながら小声で云った。
「泊る?……帰る?」
「泊るわ。」
 そして私達は敵意を含んだ眼付で見合った。
 茲で私は一寸断っておかなければならない、筆が余り滑りすぎたようだから。実は私は、いつの頃からか覚えないが、性慾の衰退に可なり悩まされていた。原因は毎日の晩酌と過度の喫煙とに在ると、医者も云うし自分でも思っていたが、それがどうしても止められなかった。なぜなら、生活全体が早熟してしまって、本当の決心というものが私には不可能だったから……がこのことはもっと先で云おう。兎に角私は性慾が著しく衰退して、そういう事柄にさっぱり興味がなくなってしまっていた。私はいつも何だか満ち足りないような焦燥のうちに暮していたと、前に一寸述べておいたが、それも一つはこれが原因だった。たまに玄人(くろうと)の女に接することがあっても、後の感銘は実に索漠たるものだった。殊に家庭に於てはそれが甚しかった。そのために私の家庭には、冷かな風が流れ込んできた。子供に乳房を含ましたり頬ずりをしたりしながら、私の方へじろりと投げる妻の眼付に、私は或る刺々(とげとげ)しいものを感じて、ぞっとするようなことがあった。どうして子供なんか出来たんだろうと、そんな風に溯ってまで考えることがあった。それかと云って私は、何も君子然たる心境に到達したわけではない。頭の中にはいろんな妄想が、以前と同じように去来するのだった。云わば性慾そのものが、肉体を離れて頭の中だけに巣くったようなものである。そして一時私は、頭の中だけでいろんな女性を探し求めて、精神的に彷徨し続けたこともあった。然しそういう空しい幻はやがて崩壊してしまって、私は非常に虚無的な気持へ陥っていった。それから漸く辿りついたのは、性慾の蔑視ということだった。単に性慾ばかりではなく、肉体に関する一切のものの蔑視だった。凡て肉体に関するものは、一時的で皮相で無価値なものだと思った。この思想は一夫一婦主義の家庭生活とよく調和した。私は若い女性と一緒に談笑しても平気だったし、時折不道徳な行いをしても、自ら良心に咎める所が少しもなく、それを妻に隠したのは、ただ妻から小言を喰わないためにばかりだった。妻と一つの生活――この一つの生活というのに力点を付して――一つの生活をしている、という意識さえしっかりしていれば、下らない肉体的な過失くらいは取るに足らない、そう思って私は、どんなことをしても危険を殆んど感じなかった。光子を平気で井ノ頭まで連れ出したのも、右のような持論を持ってるからだった。所が、光子からああいう話を聞き、次に自由奔放な彼女の魂を見、最後に家庭なんかの煩いを離れた伸々とした気持になって、私の心の中には別なものが頭をもたげてきた。それが更に、酒を飲んでるうちに光子の眼付から度々そそられた。そして、前にはただ「何だかごたごたして」とだけ書いたが、このごたごたのうちに私は意を決したのである。前日来のことで絶望して苛立ってる奔放な光子を見、その挑みかかるような眼付を見て――だが彼女がどういう心持だったかは私にはよく分らない、彼女自身にも恐らく分っていないだろう、実際その場の空気はごたごたしていたから……でもその間に、私は彼女を対象として自分をためしてみようと思ったのである。そしてそれは、性慾を蔑視する平素の持論にも矛盾しなかった。
 そういう風にして凡ての調子が狂っていった。光子も私の気持を無意識的に感じて、更に絶望的に苛立っていったらしい。
 呪わしい一夜だった。
 私達は飯も食べずに、七時頃その家を飛び出した。朝靄が靉いて、地面はしっとりと露に濡れていた。木立には雀が鳴いていた。森を掠めてる清らかな朝日が、私には眩しかった。光子は足先を見つめながら歩いた。蒼い顔色をして、唇の端を軽く痙攣さし、時々病的な光が眼に現われてきた。池の縁に出た時、私は皮肉に微笑を浮べながら云った。
「これをも一度一周りしようか。」
「厭よ。」
「なぜ?」
「あなたのような……卑劣な人とは。」
 私はむっとした。が突然、顔が真赤になるのを感じた。
「でも僕は……。」
「いや、いやよ。」と彼女は私の言葉を押っ被せた。「いろいろうまいことを云っても、やっぱりあなたには、愛も何もないんだわ。」
「じゃあなぜ、昨日は、僕にあんな話をしたんだい? そして……。」
「そして……何なの?」
 彼女は病的に光る眼で私の方をじろりと見たが、ふいに真蒼になった。
「もうお互にはっきりしておこうじゃないか、何もかも万事を。」
「ええ、私はもう何もかもはっきり分ったわ。」
「そんなら、僕のこともよく分ってくれてるんだね。」
「分ってるわ、あなたがそんな人っていうことは。」
「またお前は……。」
「それから、自分がこんな女ってことも分ってるわ。だから私あなたを有難く思ってるのよ。」
 そして彼女はヒステリックに笑い出したが、その笑を中途でぷつりと切って、毒々しく光る眼で私の方を睥めた。
「いいえ、あなたばかりじゃない。何もかも有難く思ってるわ。」
「お前はまた、心にあることと反対のことばかりを云ってるね。もうこうなったからには真正直に物を云おうじゃないか。」
「ええ、私は昨日からずっと真正直だったわ。」
「そうも云えるけれど……。」
「反対だとも云えると仰言るの? 私何もあなたに隠しはしなかったわ。あなたこそ……いいえもういいわ。何だっていいわ。よく分ってることだから。」
 そして彼女は非常に陰欝な顔付になって、眼の光も消えてしまった。私はぞっとした。
「ねえ、お前は僕を許してくれる?」
「許すも許さないもないわ。」
「そうだ、許すも許さないもないというのは本当だ。この気持でいようじゃないか。そして、どちらかに心が落着くまで待とう。」
 彼女は何とも答えなかった。私達は森をぬけて停留場の方へ歩いていった。靄を通した薄赤い朝日の光に照らされてる、彼女の蒼ざめた顔や乱れた髪が、私には驚くほど美しく見えた。
「これからどうする?」と私は低い声で尋ねた。
「河野さんの家に帰るわ。」
 それきり私達は切符を買うまで黙っていた。電車に乗っても、彼女は窓の外の景色を一心に眺めていた。私もいつしか外の景色に見入ってしまった。
 そして、私にとっては長い間のような気がするが、実は僅かに昨日の午後からの短い間に、事情は他の方面で、退引(のっぴき)ならない方へ進展してしまった。
 私は光子と別れてから、その半日を会社で過し、午後は暫く街路を歩いてみたが、やはり何だか気にかかって、三時頃家に帰ってきた。そして、妻に向ってこんな風に云った。
「昨日は会社の用で急に横須賀に行くことになって、つい知らせる隙がなかったものだから……。電話がないとほんとに不便だね。」
 実際私は、会社の用で時折横須賀へ行って一泊してくることがあった。俊子は変な顔付で――それも私の思いなしかも知れないが――私の方を見ていたが、やがて、会社のことなんかどうでもいいという風で、困ったことが出来たのでお帰りを待っていた、と云い出した。けれど私も、家のことなんかどうでもいいという風で、着物を着換え初めた。所が光子とか松本とかいう言葉に、忽ち注意を惹かれてしまった。
 俊子の話を概略するとこうだった――昨日の朝、松本が慌しく駆け込んできた。そして光子とのこれまでのことを告白し、前日光子がやって来たことから、その朝までの一部始終を話した。それは私が光子から聞いた所と大同小異だった。そして松本の願いとしては、光子を救うと思って、暫く家に置くかまたは他の所へ世話するかして、兎に角河野さんの家から引出してほしい、とのことだった。俊子はひどく狼狽して、主人が帰ったらよく相談して、すぐに何とかしようと答えた。所が、晩に松本はまたやって来て、河野さんの家へ電話をかけたら光子はまだ帰っていない、ということを報告した。
「それから今まで、私は一人でどんなに気を揉んでたか知れませんよ。」と俊子は云った。
 大体の話が分ると、私は少し安心して、また冷淡な態度を取った。
「厄介なことになったものだね。だがまあ、そのことは後でゆっくり相談しよう。僕は会社のごたごたした問題で、昨日から非常に疲れてるから、少し寝かしてくれ。」
 彼女が不平そうにぶつぶつ云ってるのを知らん顔で、無理に布団を敷かして、私はその中に頭までもぐり込んだ。実際私は非常に疲れてもいた。けれど眠れはしなかった。
 外部の事情からしてもまた私自身の気持からしても、光子のことに関して何とか解決を迫られてるのを、私は重苦しく感じてきた。然し私は何等解決の方法をも見出しはしなかったし、たとい見出しても、その方へ歩を進めるだけの元気がなかったろう。光子と別れてから後私は、全く無批判な盲目的な心境へ落ち込んでいた。善とか悪とか意志とか、そういったものを全然抜き去った、深い落莫の心地だった。自分の性的――否人間的――無気力を証明された痛ましい一夜から、じかにつながってきてるものだった。いろんな取止めもない妄想に耽りながらも、どうなるかなるようになってみろ! と捨鉢などん底に自然と腹が据っていた。
 それで、その晩松本がやって来ても、私はわりに泰然とした皮肉さで、彼に接することが出来た。殊に私のそういう皮肉さを助長するかのように、松本は私が晩酌をやってる所へ飛び込んできたのである。
 晩酌は私の日課になっていた。そしてその晩の晩酌は、いつもより少し長引いていた。俊子がくどくどと先刻の話を繰返すのへ、ぼんやり耳だけを貸しておいて、私は自分の陥った落莫とした心境に、じっと心を潜めていた。食事を済した子供達が隣りの室で、「チイチイパッパ、チイパッパ、雀の学校の……。」といったようなことをして遊んでるのを、靄越しにでも見るような不思議な心地で、ぼんやりと眺めながら、知らず識らず杯の数を重ねた。そこへ松本がふいに姿を現わした。彼は座敷へ通されるのを待たずに、私達がいる茶の間の方へ自分からやって来た。その自信ありげな露わな眼付を見た時、私の気持に不思議な変化が起った。今までもやもやと立罩めていた霧が急に霽れて、自分の周囲がぱっと明るくなったような心地だった。そして私の頭には、三人の子供を隣室に遊ばせ、台所に女中を控えさし、妻を側に坐らして、その真中に納まりながら――何の能もない自分が家庭という巣の中に納まり返りながら、酒にほてった赤い顔をし、額に泰平無事の快い汗をにじまして、ちびりちびり晩酌をやってる、おめでたい自分の姿が、一瞬の間はっきりと映ったのである。それは単にその晩だけの姿ではなくて、これまでの良い家庭生活を通じての、総括的な自分の姿だった。私は突然或る反抗心に駆られて苛立ったが、それに光子のことがからまってきて、次の瞬間には、反対にぐっと皮肉に落着いてしまったのである。
 松本は私に一寸挨拶をしておいてから、いきなりこう云い出した。
「奥さん、光子さんは帰っていますよ。」
 それを聞いて、俊子が変にぎくりとしたことを、私は後になって思い出した。後で分ったことだが、俊子は既にその時から、私の珍らしい外泊や帰宅後の様子などによって、一抹の疑惑を懐かせられて、そのために却って、私の行動については一切尋ねなかったものらしい。でもその時私は、そんなことには少しも気付かなかった。
 私は松本に対して、皮肉な調子に出てしまった。
「だいぶ面白い話があるそうじゃないか。」
 松本はちらと私の方を見たが、すぐに眼を伏せてしまった。それへ、俊子が気忙しなく尋ねかけた。
「え、光子さんはいつ頃帰ったのですって? どうしてあなたにそれが分りましたの?」
 松本は一寸考えてから答えた。
「私は昨日から、光子さんの行方が心配でならなかったんです、何だかひどく苛立ってるようでしたから。それで、今朝また河野さんの家へ電話をかけてみました。所がまだ帰っていないとの答えです。それから、晩になっても一度かけてみました。出て来たのは確かに光子さんです。月岡さんおいでですか、と私が云うと、はい、という返辞でしょう。私はすっかり喜んで、松本です、と思わず云ってしまったのです。すると、それからいくら呼んでも返辞がありません。でも確かに光子さんです。何を私に怒ってるんでしょう。」
 それから変に皆黙り込んでしまった。私は松本の綺麗にかき上げられてる髪に眼をつけていたが、三四杯酒を干してから、煙草に火をつけながら尋ねてみた。
「一体君、初めからどういう話なんだい。」
 松本は苦しそうな表情をしたが、底に頼る所ありげな諦めの態度で、一切のことをまた話してきかした。私は既に光子からと俊子からと二度も聞いてるその話を、新たな興味で聞き初めた。そして実際彼の話は、光子のそれと違って、落着いたしっかりした歩調で進んでいった。最後には、私が草野さんに相談して必ずあなたを救い出してあげるから、二三日辛抱して待っていてくれと、固く約束をしたから……とそんなことがつけ加えられた。
 私は心に一種の圧迫を感じてきたが、それを強いてはねのけるようにしながら、じかに突込んでいった。
「君は一体、本当に光子さんに恋してるのかい?」
 松本は少しもたじろがなかった。
「今の所恋してるかどうかは自分にもはっきり分りませんが、愛してることは確かです。」
「愛と恋と違うのかい。」
「私は違うと思っています。」そして彼の眼は輝いてきた。「私が深く光子さんを恋していたのでしたら、一昨日の晩、別々の室になんか寝なかったろうと思うんです。夢中になって取返しのつかないことをしたろうと思います。また、恋しても愛してもいなかったとしたら、別な興味で臨んでいったろうと思います。私はこう思っています。男が女と肉体的に接触する場合は、深い恋か単なる性慾かのどちらかだと。所が私は光子さんに対して、盲目的な深い恋を感じてもいませんし、単に性欲で臨むほど無関心でもいません。何と云ったらいいですか、こう……あの女(ひと)を清くそっとしておきたいというような心持、愛……愛です。私は本当にあの女(ひと)を愛しています。」
「君は全くの理想家だね。」と私は冷かに云った。
「ええ、私は理想家です。自分のあらゆる行動を理想で律してゆきたいと思っています。単なる理想でなしに、実際の行動をも支配するほどの強い理想が、本当に新らしい時代を生長させるのであって、もし……。」
 云いさして彼は俄に口を噤んだ。私の皮肉な眼付に気付いたのだろう、ぴくりと眉根をしかめて、眼を伏せてしまった。私は空嘯いて煙草を吹かした。彼が理想家であることは前から分っていたが、その理想を光子に対しても応用して……そして、彼が光子に長々と恋愛論をしてきかしたという話を、私はふと思い出したりして、変に皮肉な苦笑的な気持が募ってきた。
「まあ君の理想はいいとして、一体光子さんの方は、君に対してどうなんだろう?」
「私を愛しているようです。ただ私が苦痛なのは……。」
 彼はまた口を噤んで私の眼を見た。
「何が苦痛だって?」
「一昨日私の所へ飛び込んできたのは、本当に私が恋……私を愛してるからか、それとも一時河野さんを避けるためにぼんやり頼ってきたのか、その辺がよく分らないんです。」
「君が苦痛だというのは、ただそれだけなのかい。」
「それだけって……。」
「君は光子さんをどんな女だと思ってるんだい。」
「比較的真正直な怜悧な……いや何だかよく分りません。」
 彼は急に苛立ってきた。私はそれをなおつっ突いてやった。
「例えば、河野さんと実は関係がついていたり、北海道でいろんなことがあったり、そんな風な奔放な女だったとしたら?」
「え、そんな女でしょうか。」
「いやそれはただ仮定だよ、君の気持をはっきりさせるためにね。で、もしそうだったとしたら、それでもやはり君は、彼女を愛し続けてゆけるのか。」
 私の執拗な眼付に対して、彼は顔を伏せて暫く唇をかみしめていたが、やがてきっぱりと云った。
「愛し続けてゆきます。責任上愛し続けるつもりです。」
「責任だって?」
 然し彼は口を噤んで答えなかった。私には今以て、それがどういう責任の意味だか分らない。彼はやがて徐ろに云い出した。
「私はお宅で初めて光子さんに会って、それから次第にこういう気持へ落込んできたのですが、光子さんの身の上については実際よく知ってはいないんです。もし何か……ありましたら、教えて頂きたいのですが。」
「僕だって何も知りやしないよ。まあ、過去として葬るがいいさ。」
「でも……。」
 私は彼の露わな眼付にぎくりとした。と同時に、話の工合がいつしか自分にとって危険なものとなってるのを感じた。それで話の方向を一度に変えてしまった。
「で結局君は、どういうことにするのが一番望みなんだい。」
「私は、出来るならば、光子さんを暫くお宅に置いて頂いて、私と交際を許して頂きたいんですが。」
「今だって君は、自由に交際してるんだろう。」
「文通はしていますが……。」
「交際はしていないというのかい。へえー、僕はまた君達をもっと深い間柄だと思っていた。」
 少し腹立ち気味の反抗的な気勢で、腕を組み眼を伏せて考え込んだ彼の姿を、私は小気味よく眺めやった。それを余りひどいとでも思ったのか、俊子が突然中にはいってきた。
「理屈はどうだって、兎に角光子さんをこのまま河野さんの所へ置いとくのはいけませんわ。北海道から遙々頼ってきたのをあすこへやったのですから、あんな話を聞いてこのままにしておくのは、私達としても済まないじゃありませんか。」
「だから僕はどうしたものかと考えてるんだよ。」と私は云った。
「あなたはいつもそれですもの、考えてばかりいて、はっきりと決断なすったことは、一度だってありゃあしません。そんな風では、いつまで待ったって片付くものですか。」
「ではどうすればいいんだい?」
「もう松本さんの心はきまっていますし、この上は光子さんの心だけでしょう。私が参って、一体光子さんはどう思ってるか、それをよく聞いてきましょう。河野さんには義理もあるけれど、穏かに話をすれば、あれだけの人ですもの、そう分らないことは仰言るまいと思いますわ。」
 勿論それ以外に解決の方法がありようはなかった。然し彼女の調子は幾分私を驚かした。前から一々準備したようによく整った簡潔な文句を、もうきまりきったことのようにきっぱりと云ってのけて、それで一挙に事柄を決定してしまったのである。私にくどくどいろんなことを述べ立てて相談した彼女とは、すっかり異った調子だった。恐らく彼女は、私と松本との話を聞いてるうちに、何となくそれだけの決心を強いられたものらしい。そう私は咄嗟の間に感じて、何故となく不安の念に駆られてきた。
「勿論お前が行ってくれなければ、外に一寸行く人はないんだけれど……。」
「だから私が行きますわ。ねえ、松本さん、それでいいでしょう?」
「ええ。済みませんが、そうお願いします。」と松本はきっぱり答えた。
 私は自分の立場が急になくなったような気がした。と一方には、それを自ら皮肉に顧みる気も起って、松本に杯をさしたりなんかしながら、こんなことを云ったものだ。
「そうきまったからには、もう君も心配しないでいいよ。なあに場合によっては、河野さんと一談判したって構わないし、僕達で君達二人の間の媒妁人になってもいい。」
 何て馬鹿なことを私は云ったものだろう! 心ではつゆほどもそんなことを思ってはしなかったのだ。明日一杯明後日までには何とかなるだろうという約束で、松本が再び元気づいた自信ありげな眼付をして帰っていった後、私はなお酒の燗を命じてちびりちびりやりながら、そんなにお目出度く事件が片付くものかと考えて、理想主義者の松本のために――この理想主義者だということが、なぜだかその時私にはひどく必要だった――彼理想主義者のために、軽蔑的な苦笑が自然と浮んできた。それから、片付かないとすれば一体どうなるのだ? という所へ考が落込んでいった時、訳の分らない憤りと苛立ちとを覚えてきた。
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