紅梅
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著者名:与謝野晶子 

 私の庭に早咲の紅梅が一本ある。東と南の光を受けて、北を建物にふさがれてゐるためか、十二月の半からぼつぼつ蕾を破つてゐる。色は桃のやうに濃くも無く、白い磁器の上に臙脂(べに)を薄く融かしたやうな明るさと可憐さとを持つた紅である。私は歳末から此の歳端へかけて快晴がつづくので、毎日一度は庭へ下りて、霜解のあとの芝生を踏んで歩き、友人を訪ふやうな心持で落葉した木木を見上げ、最後に此の紅梅の傍へ來て暫く立つてゐる。そつと枝を引き、脊伸びをして一つの花を嗅ぐこともある。ほのかながら心に徹する清い香である。支那の詩人が「寒香」と云つたやうな好い熟語の我が國語に無いのが惜まれる。東坡が紅梅を詠じて「寒心未肯隨春態、酒暈無端上玉肌」(寒心未だ肯て春態に隨はず、酒暈端無く玉肌に上る)と云つたやうな妙句は、我國の歌にも新しい詩にも見當らない。併し東坡の心には酒があるので、紅梅を見ても微醺を帶びた仙女を聨想したが、私には此の冬枯の庭にある木のなかで、此の紅梅だけが明けて十一になつた末の娘のやうな氣がする。貧しい中に育ちながら、末の娘は品好く生長してゐる。私達の子供の中で此娘だけが文學的である。細やかに痩せて、よく風を引いて熱を出すやうな體質は氣遣はれるが、氣立の優しいのと、讀書と創作が好きで、豐富な空想を持つてゐるのとが、本人自身を樂ませてゐる。早く親に別れる運命を持つてゐて物質的には苦むであらうが、その文學的であることが、人知れず一生の慰安となるかも知れない。正月二日のはげしいから風で紅梅が大分吹き散らされた。さうして末の娘はその夕方から熱を出して寢てゐる、私は今朝も娘の寢臺の傍で人から來た賀状を讀みながら、猶をりをり窓越しに紅梅を眺めてゐる。(一九二九・一・二)



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