女子の独立自営
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著者名:与謝野晶子 

女子の独立自営与謝野晶子 人の性情にも体質にも万人共通の点即(すなわ)ち類性と、個人独得の点即ち個性とがあります。前代の社会心理の公準は類性のみを見て人の全部だと誤解した嫌(きらい)がありました。似た所ばかりを集めて一つの型を空に作り、その型を標準として逆に一般の人間を律しようと致し、殆(ほとん)ど人の個性というものを眼中に置いていませなんだ。例えば初めから男というものはこういうものだ、女というものはこういうものだと決めてしまい、その「こういうものだ」という概念を土台にして更に男とはこうすべきものだ、女とはこうすべきものだという規範を立てて一概に万人を律し、その規範に合わない人は人間でないように軽蔑(けいべつ)する習慣を作るに到りました。昔から支那などは習慣を重んじ過ぎる国ですから、少し新しい人が出て自己の特性を発揮しようとすると、直ぐに不忠だとか大逆無道だとかいう悪名を著せて死罪に処したりなんか致します。人が尊いか、習慣が尊いか解らなくなっております。日本にも以前はそういう無茶苦茶な事が随分盛(さかん)に行われていて、それがために天子様も久しく王政を復古遊ばす事が出来ず、佐久間象山(さくましょうざん)、吉田松蔭(よしだしょういん)のような偉人も因襲を脱して新吾(しんご)を磨こうと致したために殺されました。でその時代に危険のない生活を送ろうとする人人は、理も非もいわずに旧(ふる)い習慣と旧い概念とに盲従し、徳川将軍は千秋万歳日本の政権を握っているもの、武士は何時(いつ)でも主人のために腹を切るもの、儒学は永久に聖堂の朱子学(しゅしがく)を標準とすべきもの、宗教は仏教以外に信ずべからざる事、百姓町民は万世にわたって武人の下風に立ち、生かすとも殺すとも御役人の自由に任すべきもの、女は三界に家なく親と良人(おっと)と我子とに屈従すべきもの、こういう考でいるより外はなかったのです。 それを思うと私どもは闇(やみ)から明るみへ出たほど幸福な時代に生れ合いました。明治維新の王政復古と共に、今上(きんじょう)陛下は武門政治を初め一切の有害無用な旧習を破壊遊ばし、併(あわ)せて汎(ひろ)く新智識を世界に求める事を奨(すす)め給い、学問、技術、言論、信教、出版等あらゆる思想行動の自由を御許しになり、生命、財産等の人権を御保障になっております。五カ条の御誓文、憲法、教育勅語、これらを拝読致せば新代の日本国民は全く不合理な前代の因襲道徳から解放せられ、聖代の自由なる空気の中に自己の特性を発揮しつつ社会を営んで行く事の出来る新道徳を御示しになっております。かような前例のない聖代に際会しておりながら、なお世の中には前代の夢を見ている人たちが多くあって、道徳が腐敗したとか澆季(ぎょうき)になったとか歎息するのは怪(け)しからん事だと存じます。只今は明治の新道徳が何処(どこ)まで実行せられているかという事を※(けん)して、それを各自に奨励し合うべき時でこそあれ、最早旧道徳の頽廃(たいはい)などを慨歎する時ではありません。いわんや孔子教(こうしきょう)とか尊徳宗(そんとくしゅう)とかを復興したり、女大学流の訓育を女子に施そうと致したりするのは、宏大無辺な御聖旨に背いて、国民の生活を窮屈至極な封建時代に逆行させようと致すものでしょう。 前代の道徳を初め一切の思想の基礎が人の類性に置かれたのに反し、五カ条の御誓文、憲法、教育勅語等において御示しになっている現代の新規範は、各人の個性と権利と自由とを尊重する事が根柢の精神になっておりますから、我我日本の臣民は万事にこの精神を生活の標準とし、陛下の聖旨に副(そ)い奉るように致さねばなりません。今日に勢力を有している政治家とか紳商とか、またそれらの階級に阿附(あふ)する多数の学者教育者とかには、年輩の上から旧時代に属する人たちが多いのですから、そういう人たちは設(たと)い憲法の精神に背き、五カ条の御誓文の御趣意に悖(もと)る行為は致しておりましても、我我明治に生れました若い男女は、彼ら前代の人たちと反対に、毅然(きぜん)として現代の新精神を貫徹致すことに努力したいと思います。私はこういう見地から、私自身を修めるにも、宅の子供らを育てるにも、また人様と御交際をして社会的に微力を尽しますにしても、一切の方針は五カ条の御誓文、憲法、教育勅語、これらのものを参照致しております。私はこれらの外に何らの道徳も宗教も必要を感じないのです。 現代の婦人が「女もまた男子と同じく人である」という自覚を得ました事は、思想の自由を善用して世界の智識の一端に触れる事の出来た賜(たまもの)ですが、人でなしに扱われていた因襲の革嚢(かわぶくろ)から生地(きじ)の人間になって躍り出したのは結構な事であるとして、さて裸体(はだか)のままでは文明の婦人とはいわれない、それは禽獣(きんじゅう)と雑居していた蒙昧(もうまい)な太古に復(かえ)るものですから、お互にどうしてもその裸体(はだか)を修飾して文明人の間に交際(つきあい)の出来るだけの用意が必要です。それには何よりも現代の根本精神を知るのが第一で、私は一般の婦人方に五カ条の御誓文と憲法とを御読みになる事を御奨(おすす)め致したいと思います。これらの根本精神が解らないで現代の新婦人だなどと自負するのは滑稽(こっけい)な事でしょう。教育勅語だけを拝読したのでは、道徳的方面をのみ御示しになっておりますから、万事にわたる根本精神は領解しがたいかと存じます。かような事をお奨め致すと男子側から反対が出て、女子に権利自由の思想を鼓吹するのは女子を生意気にするものだと批難せられるでしょうが、そういう批難をする男子があるのは、男子側にすら一般には憲法などに現れた新代の根本精神がまだ領解されていない証拠なのです。女子を自分と対等な位地に置くことを肯(がえん)ぜないのは、男子がそれだけ無学であるからだと私は考えて男子のために恥じております。 近頃女子の職能を制限して結婚する事と子を生みかつ養育する事とのみにあると力説する人がありますけれど、現代の根本精神の一つである「自由討究」を重んずる私どもの心には「何故(なにゆえ)に」と叫ばざるを得ません。論ずる人の考では欧米の婦人の一部に種種の事情から結婚を厭(いと)う風のあるのを見て日本婦人を戒めるつもりでしょうが、それは白昼に幽霊の出るのを恐れるのと一般全く無用な心配です。何故(なぜ)なれば日本婦人は皆結婚を希望しております。結婚を嫌う風は少しも発生していないのです。そのくせ婚期に達した婦人の三分の二までも未婚婦人であるというのは、男子側が無財産であるために妻を迎えがたいからではありませんか。結婚数の減少は毫(ごう)も女子の罪ではなく、その責任は男子側にあって、これを婦人問題として議する前に宜しく男子問題として男子側の意気地(いくじ)なさを咎(とが)むべき事でしょう。女子に良人を養うだけの財産があるのでなく、男子ほどの報酬を得(う)る職業を授けられているのでなく、その上自由に配偶者を選択する事も許されていない今日、結婚数の減少は当然その理由を男子側の経済問題に帰せねばなりません。女子に教育を授けた結果だなどというのは甚だ方角ちがいの解釈です。 正当に求婚する男子がない以上、女子が子を産まないのは怪むべき事でありません。今の女子の多数は母としての職能を尽したくても尽す事が出来ない境遇にいるのです。それなら国民の生産数は非常に減じて行くかというに、かえって非常の倍加力を以て殖(ふ)えて行く。三十年を出(い)でずして日本人は現在の倍数にも達するでしょう。国民の繁殖力からいえば憂うべき事もないのですが、未婚男女間に行われる不倫な性交と私生児の増加とは、現在の生活を暗黒にし将来の日本人種を劣弱にする事ですから、その点について男子側の反省を促すと共に女子自(みずか)らも反省しなくてはなりません。正当なる結婚の下に夫婦となり、正当なる父母の間に子女を教育してこそ文明人の根本精神に協(かな)うのですが、その位の事理は今更識者の注意を受けなくても只今の女子は十分に知っております。そういう結婚を致したくても男子側の貧乏なために不可能であるのが事実だとすれば、女子はやむをえず独身の状態にいて自活の方法を講じ、自然男子と職業を争うような場合にも立至ります。以前は男子に縋(すが)って男子の財産や収入の消費者であれば衣食住の安全を得たのに反し、今日は四囲の事情に余儀なくせられて、女子が自己の力で生活し父母兄弟をも養って行くという形勢になって参りました。 これは現在の社会組織と経済事情とから起って来る自然の大勢で、悲惨といえば悲惨の至(いたり)ですが、我我婦人はこの大勢に対し、幸(さいわい)な事には教育の御蔭(おかげ)で一千年以来失っていました智慧と勇気とを恢復(かいふく)し、「我も人である」という自覚の下に女子の職能は単に妻として、母としてのみでなく、精神肉体両方のあらゆる労働に由(よっ)て、男子との協同生活が豊かに出来る事を知りましたから、譬(たと)い結婚は不可能であるにしても、その他の文明事業において意義ある自己の生を営み、人類のために貢献しよう、禍(わざわい)を転じて福としようという努力心を振い起すに至りました。結婚の困難な現代に処する婦人の覚悟として、これは甚だ立派な態度、健気(けなげ)な措置(そち)と申す外はない。それで今日独身で立とうという女子があれば、やむをえない事情からの覚悟であって、決して結婚を嫌っているのではないのです。娘の心を理解せず世態の大勢に通ぜない親たちは、一概にこれを我儘(わがまま)だといって、偶(たまた)ま嫁に貰(もら)ってくれる口があれば、その配偶者たる男子の人格も研究せず、わが娘をば厄介者を追払うようなつもりでその男子に押附けようとする風がありますけれど、そういう不安と不幸との予知せられる結婚に盲従するには今の女子は余りに聡明になっております。親が愛してくれるよりも幾倍か自分を愛重(あいちょう)する事を心得ているのが今の我我婦人です。 勢よく流れる水はいくら防いでも何処(どこ)かへ捌(は)け口を見附ける如く、妻として母としての幸福を得がたい今の女子の或者が翻って他に自分の生活を求めようとするのに何の不思議もない。私なども適当な配偶者を得るまでは同様な覚悟で自分の運命を切り開いて行こうと思っていました。既にこういう覚悟が未婚の女子に必要になって来た以上、女子の職能は当然多方面に拡げられて行きます。良妻のみ賢母のみとしてでなく、良妻にも賢母にも成り得ると同時に、学者、官吏、芸術家、教育者、諸種の労働者としても天分を発揮し得る事を示すに到りますのはかえって女子の進歩であって、これがために人類の享(う)ける幸福は単に母として妻としてのみの時よりも非常に倍加する訳でしょう。女子の結婚難は勿論(もちろん)不幸ですけれど、世界の大勢がそうであるとすれば、この不幸なる時機を善用して婦人及人類の幸福に転換する工夫を講じて行くのが賢い仕方でしょう。勤勉にして聡明な独身婦人の生ずるという事は、それだけ日本の文明が世界的になった兆候だともいわれましょう。もし識者の親切から独身婦人をなくしようと欲せらるるなら、社会組織を改善し、男子側の経済を裕(ゆたか)にする方法を講ぜられるのが急務で、そうしてそれは容易に改善しがたい事でしょう。とにかく結婚をしないといって女子を責めるのは見当ちがいです。 独身でいて他の職能で自己の生を営む婦人のあるという事が必ずしも不合理でない一証には、古(いにしえ)の女帝にも御独身の方が多く、女流の文学者にも寡婦(かふ)となって後に名を揚げ、また未婚で終った人たちも少くない。独身主義は決して今日の新しい婦人の発明ではなく、現に我我と異(ちが)った前代の教育を受けられた今の老年女流教育家にも独身もしくは寡婦で押通した方が多いのです。論者はそういう例は特別である、そういう独身婦人は変り物だといわれるでしょうが、其処(そこ)が前に申した如く、現代の根本精神は各人の個性に適応して自由なる発達を遂げる事を尊重し、「女はこうすべきものだ」と一概に決めてしまわない所に妙味があるのですから、むしろ特例が多く、良い意味の変り物が多く出るのが結構なのです。一元論でなく多元論なんです。もし嘉悦孝子(かえつたかこ)先生や幸田延子(こうだのぶこ)女史が結婚せられ、下田歌子(しもだうたこ)先生が再婚せられたのであったら、あれだけの社会的事業は出来なかったでしょう。小学校や女学校に多数の独身を守られる婦人があってこそ教育界は実績が挙って参るのです。これらの御婦人たちはいずれも結婚しない事の苦い不幸を味(あじわ)いながら、その不幸を他の幸福に換える立派な工夫を実行していられるのです。教育界ばかりでなく、あらゆる階級の婦人に、現に意に満ちた結婚を求めて得られない所から、他の職能で独立自営を計り、併(あわ)せて父母兄弟を養って行こうとしている人たちの多いのは、私の同情に堪えない所であると共に、時代に処する覚悟と勇気との健気(けなげ)な事を甚だ心強く存じます。皆が皆結婚に由(よっ)て幸福の得られない現代に、「女は結婚すべきものだ」というような役に立たない旧式な概論に動(うごか)される事なく、結婚もしよう、しかしそれが不可能なら、他にいくらも女子の天分を発揮すべき文明の職能がある。結婚のみが自分の全部でないという見識から、境遇と自分の個性とに順じて思い思いの進路を開き、いろいろに立派な変り物の婦人が多く出て来られる事を望みます。男子の方から申してもそういう意志の強い、役に立つ、独立自営の婦人が出て来れば、足手まといが少くなって都合が宜しくはありませんか。(『婦人の鑑』一九一一年四月)  
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