私の貞操観
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著者名:与謝野晶子 

私の貞操観与謝野晶子 従来は貞操という事を感情ばかりで取扱っていた。「女子がなぜに貞操を尊重するか。」こういう疑問を起さねばならぬほど、昔の女は自己の全生活について細緻(さいち)な反省を下すことを欠いていた。女という者は昔から定められたそういう習慣の下に盲動しておればそれで十分であると諦(あきら)めていた。 けれども今後の女はそうは行かない。感情ばかりで物事を取扱う時代ではなくなった。総(すべ)てに対して「なぜに」と反省し、理智の批判を経て科学的の合理を見出(みいだ)し、自己の思索に繋(か)けた後でなければ承認しないという事になって行くであろう。 感情をあながちに斥(しりぞ)けるのではない。女が唯一の頼みとしていた感情は、いわば元始的の偏狭(へんきょう)と、歴史的の盲動とで海綿状に乱れた物であった。その偏狭は時に可憐だとして小鳥の如くに男子から愛せられる原因とはなったが、大抵はその盲動と共に女子と小人とは養いがたしとて男子から蔑視(べっし)せられる所以(ゆえん)であった。今は女の目の開く世紀である。その感情を偏狭より脱して深大豊富にすると同時に、その盲動を改めるために、それに軸または中心となる理智を備え、理智に整理せられつつ放射状に秩序ある感情の明動をしようとする時が来た。いわゆる女子の自覚とはこれを基礎として出発し、自己を卑屈より高明に、柔順より活動に、奴隷より個人に解放するのが目的である。 男子はこういう意味の感情の修練、自己の解放を古くから気附いていた。希臘(ギリシャ)印度の古い哲学より欧洲近世の科学に到るまで、総て要するに男子が自ら全(まった)かろうとする努力の表現である。女子は殆(ほとん)どこれらの文明に与(あずか)っていなかったといってよい。 初心(うぶ)な女だといわれることは最早何の名誉でも誇りでもない。それは元始的な感情の域に彷徨(ほうこう)して進歩のない女という意味である。低能な女という意味である。 気が附いて見ると、男子は大股(おおまた)に濶(ひろ)い文明の第一街を歩いている。哀れなる女よ、男と対等に歩もうとするには余(あま)りに遅れている。我我は早くこの径(こみち)より離れて追い縋(すが)りたい。 総てに無自覚であった従来の女に貞操の合理的根拠を考えた者のないのは当然であるとして、あれだけ女子の貞操を厳しくいう我国の男子に、今日までまだ貞操を守らねばならぬ理由を説明した人のないのは不思議である。 貞操の起原についてもまた我らは何の教えられる所もなかった。 自分の乏しい智識で考えて見ると、元始的人間に貞操というような観念を自然に備えていたとは想像することが出来ない。古代に溯(さかのぼ)って見ればいずれの国民も一婦多夫であり、また一夫多妻であった。また家長族長としての権利を男よりも女の方が多数に所有していた。今でも西蔵(チベット)その他の未開国には一婦多夫と女の家長権とが古代の俤(おもかげ)を遺(のこ)している。文明国においても娼婦(しょうふ)や妓女(ぎじょ)のたぐいは一種の公認せられた一婦多夫である。一夫多妻に到ってはいずれの文明国にも男子の裏面に誰も認める如く現に保存されている。 男子の本能の自躍するままに女子を選んだ元始的時代にあっては、後世の男子が我儘(わがまま)に玩弄物(がんろうぶつ)の如く女子を選ぶよりも、更に数層甚(はなはだ)しい強圧即ち暴力を以て女子を掠奪(りゃくだつ)したのであるから、当時の女子に純潔を持(じ)することの出来なかった事は想像が附く。 その当時の男女は食物を集める事と、舞踏し歌う事とに日を送ったが、男子は特に女子を奪うことに由って敵の男子と戦わねばならなかった。勿論当時の人間には国籍も住所も定(さだま)っていない。水草を追うて浮動する小部隊が錯落(さくらく)として散在した事であろう。今日謂(い)う所の如き「家」とか「社会」とかいう観念のなかったのは勿論である。 男子が他の男子と女の愛を競争し、一旦我手に掠奪した女を独占しようとするのは自然の性情である。其処に激烈な嫉妬が起ったに違いない。あるいは嫉妬は本来男子のものであって、それが女子の性情となったのは後世の事でないかとさえ思われる。 女子に自ら純潔を持することの出来なかった時代に貞操の観念が女子に自発しようとは想われぬ。唯(た)だ女子の持っていたものは甲の男子を愛して乙の男子を厭(いと)うという自然の好悪(こうお)に過ぎなかったであろう。好悪の感情はあってもその選択の権利が女子になかった時代であるから、好悪は一の感情として存在するだけで、それを死守する意力即ち貞操と名づけるまでの観念は成立たない訳である。 これに反して男子には、嫉妬と共に女子を自己一人に服従せしめようとする思想、即ち貞操を女子に強いるという事が生じたに違いない。自分は如此(かくのごと)く直覚する。貞操の起原は男子の威圧からである。女子にあっては本来被動的(うけみ)のものである。 男子が一人で同時に幾人の女を独占することは丁度今もその遺風を伝えている土耳古(トルコ)帝の如きものであった。一夫多妻は最も元始的なものである。一夫多妻となれば多妻の間に嫉妬の生ずるのは当然である。女子も遅れて嫉妬を感ずるに到った。 しかし浮動していた人間が土着する人間となり、「種族的階級」及び「家」という物を生ずるに到って、男女の関係は政治的経済的の関係と共に顛倒(てんとう)したらしい。この時代において男子は女の家に行って婚を求め、結婚した後も男子は女の家に通うのみで別に一家を創(はじ)めて共棲(きょうせい)することはなかった。女の家に入聟(いりむこ)となることもなかった。生れた子女は女の家で育てる。女は子女に対して母権と併せて家長権を持っていた。男は夫としての権利も父としての権利も妻及び子女に対して取ることが出来なかった。「ちち」(乳)という語が古代においては父を意味せずに母の称であった。 女が家長であるのみならず、引いて族長の権利を握るものも少くなかった。多くの女酋(じょしゅう)は現に『古事記』の神代史に俤(おもかげ)を遺している。 土着した古代人は戦闘と農耕と漁猟と商估(しょうこ)とを同一人で兼ねていた。まだ分業は起らなかった。後世の如く体質の軟化しなかった女子は男子と共にそれらの事に従った。女兵はまた神代史に俤を遺している。 母を唯一の親として尊敬する所から総ての女の尊敬せられる風が生じ、また一面に純潔を好む神道の如き宗教上の儀式に処女を神巫(かんなぎ)として奉祀(ほうし)する習慣が出来てから、女子を尊敬することは一通りでなくなった。これは前代の男尊女卑の反動とも見られる。 前代においては甲の男に掠奪せられ、また乙丙丁の男に掠奪せられて多くの異父の子女を育てた。女がこの時代には、「家」という城壁に拠(よ)って男子に対抗することが出来るようになり、男子の我儘な掠奪を免れることを得たのみならず、反対に男子をして愛情のために歓心を女子に求めしむるに到った。女が男子を選択する位置に就(つ)いた。上古の歌は概(おおむ)ね男子がその切(せつ)ない心を女に伝うる機関であった。 女が心を許した一人の男子を守ろうとしても、男の心は一時その女に傾くのみで、時が経(た)てば変化して新しい女を好んで遠(とおざ)かって行き、入り代って他の男が女の心を得ようと努める。男が多妻であると同時に女もまた勢い多夫とならざるを得ないのである。 従って女は依然として異父の子女を一家の中で育てていた。 しかし家があれば家長として子女を養う家産を尊重せねばならぬ事を感じるに至り、女は経済上の事情から多くの子女を挙げる事を避けたに違いない。また父を異にした子女の間に感情の齟齬(そご)が多くて一家の平和を破る事にも気が附いたに違いない。 また一方に種族の階級が隔たるほど、女が劣等な男子を聟にすることは恥辱(ちじょく)である。自然男子を選択する風が行われて、前代の如く男子の我儘に従って雑婚することが少くなって行ったに違いない。 以上、宗教上に処女の純潔を尊ぶ習慣と、家庭の経済その他の事情と、階級的の自重と、この三つの理由から初めて女子が自動的に多くの男子と接することを嫌う思想、即ち貞操の萌芽(ほうが)ともいうものを生じたのであろうと思われる。 更に次の時代に入っては前代の反動と社会的事情とからして、男女の位地を再び復古の状態に到らしめた。即ち種族との競争の激甚となるに従って、戦士たる男子は時代の優者である。女子は殖産と小児の養育とのために忙殺せられて、最早古(いにしえ)の如く男子と協力して戦闘に従事することは不可能であった。 また経済上の事情から多くの家族を同一の家に養うことが出来なくなり、新婚の男女は双方の親から譲られた資産を持寄って別に一家を建て、初めて夫婦共棲の制度を生ずるに到った。これと同時に戦士として時代の優者である男子が女に代って家長となり、父権が母権に代って子女を支配するに到ったのは自然の勢である。 父権が重んぜられかつ階級が益々(ますます)尊ばれるようになって、初めて父系の血統を神聖視する思想を生じた。女を独占しようとする男子は更に血統を乱すまいとする思想と相待って女子の貞操を一層きびしく要求する事となった。 しかし貞操とは女子だけの道徳であって、男子は毫(ごう)も自己の貞操を反省しないのみならず、依然として一夫多妻が行われ、屋外に数人の妻を持つのみならず、同一の家に二人以上十数人の妻を貯うる者も少くなかった。女子の権力は再び地に落ち、体(てい)のよい男子の奴隷となった。父の血統を重んずる所から、「女の腹は借り物」と蔑視(べっし)せられ、「子なき女は去る」といって遺棄する事を何とも思わなかった。 女子は折角(せっかく)芽を出し初めた自動的貞操を蹂躙(じゅうりん)せられて、再び元始的の外圧的貞操に盲従した。何の理由とも知らず、唯そういう運命の者だという迷信に諦(あきら)めを附けて日を送る女が世の中から貞女だと称讃される事となった。 男は自分の都合の好(よ)いように女を奴隷の位地に置いて対等に人格を研(みが)くことを許さなかった。愚に育てられた女は貞女の名を得て満足し、かくして今日に到った。 教育に由(よっ)てとにもかくにも理智の目の開(あ)きかけた今日の婦人が従来の外圧的貞操に懐疑を挟(さしはさ)み、貞操の基礎をあらゆる思想の方面と各自の実証とに求めねば満足が出来なくなって来たのはそれだけ文明人の心掛に接近したのである。女子の進歩である。 この問題は個人個人の問題であって一般婦人を共通に支配し得る客観的基礎というものが容易に発見せられようとは想われない。当分は各自の持っている智識と感情とに由って研究した結果、独得の見解を下してそれを実行するより外はないようである。 体質の優劣と、境遇の良否と、教育の深浅とで各自の心状態が違う以上、またその心状態の違うということを今日の婦人が意識している以上、客観的な概論に屈従して各自の貞操観を完成する事は出来ない、客観的に学問的基礎を与える事も勿論自分らの内心が要求しているけれど、更にその中心に根強い個人自身の実証を据えるのでなければ満足しがたい。 次に少しばかり自分が貞操を尊重している現下の心持を述べてみたい。自分はこれを他に強いようとするのでも、他に誇ろうとするのでも毛頭ない。所信を述べてこの問題を討究する資料に供したいばかりである。 先ず「貞操」という言葉の意味について自分の考を述べると、これには処女としての貞操と、妻としての貞操と二つの区別があるように思われる。昔は他の男を見て心を動(うごか)すものは既に姦淫(かんいん)したのと同じだという考え方もあったが、自分は一概にそうは思わない。或時期に達した処女が異性を見て好悪(こうお)の情を動かし、進んでは恋愛の感情にまで込入(こみい)るのは、食事や睡眠の欲望と共に自然の要求であって、欲望がそれにのみ偏しない限りそれを不正だといって押え附ける理由は一つもない。恋愛は全く自由である。そういう好悪の情や恋愛が自生するので、それに催されて処女が一生の協同生活の伴侶である良人(おっと)を選択する鋭敏なまた慎重な心の眼も開いて行く。但し如何に恋愛関係が成熟していても、終生の協同を目的とする結婚関係に由らずして自己の肉体を男子に許すことをしないのが処女の貞操である。処女の貞操が専ら肉体的であるのと異(ちが)って、結婚後の婦人即(すなわ)ち妻としての貞操は良人以外に精神的にも肉体的にも他の男子と相愛の関係を生じないことを意味するのである。 自分がこの稿に筆を附けようとした初(はじめ)に今更の如く気が附いたのは、従来自分が自身の貞操という事について全く無関心でいたことである。自分は生れて唯一度一人の男と恋をして、その男と結婚して現に共棲している事を当然の事だとして、幸福をこそ感(かん)ずれ、少しもそれについて不安をも懐疑をも挟(さしはさ)んだ事がない。一般の女子及び男子の貞操に関して考えた事はあっても自分の貞操は家常茶飯(かじょうさはん)の事のように思っていた。自分の貞操を軽く見ていたのかというと、軽いも重いもない。てんがそういうことは意識せずに過ぎて来た。そういうことを問題として軽重を考えて見る必要のない感情生活を続けて来たのであった。 処女時代にも結婚後にも不貞の欲望を起さず不貞の行為を敢(あえ)てしなかったという事が最も貞操を実行したのだとするなら、自分は自然に貞操を実行している女だと言ってよい。 健康な人がその方の専門家でない限り特に病理を研究しないように、貞操を破ろうとするような内心の要求のなかった自分は、久しい間自分の貞操について顧慮する必要が全くなかった。必定(ひつじょう)今後もその必要があるまい。しかし自分の貞操観とでもいうものを述べようとすれば自分の経験を基礎として筆を進めるより外はない。そこで今日まで何故(なぜ)に自分の貞操が自然に守られて来たかと考えて見ると、初めていろいろの理由のある事に気が附く。 自分には「純潔」を貴ぶ性情がある。鄙近(ひきん)にいえば潔癖、突込んで言えばこれが正しい事を好む心と連関している。この性情が自分の貞操を正しく持(じ)することの最も大きな理由になっているように考えられる。唯(た)だ貞操の上ばかりでなく、自分の今日までの一切はこの性情が中心になって常に支配しているように考えられる。自分の郷里は歴史と自然とこそ美くしい所に富んでいても、人情風俗は随分堕落した旧(ふる)い市街であり、自分の生れたのは無教育な雇人の多い町家である。従って幼い時から自分の耳や目に入る事柄には如何(いかが)わしい事が尠(すくな)くなかった。自分が七、八歳の頃から自分だけは異った世界の人のような気がして周囲の不潔な事柄を嫌い表面(うわべ)ではともかく、内心では常に外の正しい清浄な道を行こうとしていたのは、厳正な祖母や読書の好きな父の感化にも因るとはいえ、この「純潔」を貴ぶ性情からである。 自分は十一、二歳から歴史と文学書とが好きで、家の人に隠して読み耽(ふけ)ったが、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の如き処女天皇の清らかな気高(けだか)い御一生が羨(うらやま)しかった。伊勢(いせ)の斎宮(さいぐう)加茂(かも)の斎院の御上(おんうえ)などもなつかしかった。自分の当時の心持を今から思うと、穢(きたな)い現実に面していながら飛び離れて美的に理想的に自分の前途を考え、一生を天使のような無垢(むく)な処女で送りたいと思っていたのであった。 また自分の心持には早くから大人(おとな)びている所があった。投げやりな父に代り病身な母を助けて店の事を殆(ほとん)ど一人で切盛(きりもり)したためもあるが、歴史や文学書に親(したし)んだので早く人情を解し、忙(せわ)しく暮す中にも幾分それを見下して掛かる余裕が心に生じていたからであったらしい。 それで大人びていた自分は、恋愛などの心持も文学書に由って十二歳の頃から想像することが出来た。『源氏物語』の女の幾人に自分を比較して微笑(ほほえ)んでいた事もあった。しかし異性に対する好悪の情はあったにせよ実際に自分自身の恋愛と名づくべき感情は二十三の歳まで知る機縁が自分の上になかった。常に自分の周囲の男女は都(すべ)て不潔な人間だという気がして、それで書物の中の男女にばかり親んでいた。 一般に処女の恋愛は異性に対する好悪の情が好奇心に一歩を進めた所から生ずるという人がある。しかし自分には何らのそういう好奇心も感じなかった。自分の経験でいえば、性欲というべきものの意識は処女時代にない。性欲の記事を読んでも、男子のように肉体的に刺激せられる所は少しもない。これは男子と生理関係の相違が大変にあるらしい。或る特別な境遇に育った処女は知らぬこと、普通の処女は自分と同じであろうと想われる。専門学者から見たなら、処女の恋愛や男子に対する好き嫌いの感情にもその根柢には性欲が潜在しているかも知らぬが、処女には全くその意識が欠けているのではないか。もし処女にもあれば、性欲に対する好奇心があるだけであろう。それとても目に見えて肉体の衝動から自発するのではなかろうと想われる。そうして自分にはその好奇心に類似するものすら欠けていた。 自分が「純潔」を貴ぶ所から堺(さかい)の街(まち)の男女の風俗のふしだらな事を見聞きしてそれを厭(いと)い、また読書を好む所から文学書の中の客観的な恋愛に憧(あこが)れて、自分の感情を満足させていたのが、処女時代の貞操を守り得た二つの理由であったが、厳格な家庭が実世間の男子と交際する機会を与えなかったのもまた一つの理由であった。 自分は学校へ行く以外に家の閾(しきい)を跨(また)いだことは物心を覚えて以来良人の許(もと)へ来るまでの間に幾回しかないということの数えられるほど稀(まれ)であった。堺の大浜(おおはま)へさえ三年に一度位しか行かなかった。自分の歌に畿内(きない)の景色や人事を歌うことが多くても、実際京都や大阪へ行ったことは十度にも満たないのであった。それだけにかえって深い印象が今に残っているのかも知れぬ。勿論学校へ行くには女中や雇人の男衆が送り迎えをする。その外の場合は父や親戚(しんせき)の老人や雇人の婆(ばあ)やなどが伴(つ)れて行ってくれる。全く単独に出歩いたことはなかった。 女学校を出てからは益々家の中でばかり働いていた。厳し過ぎる父母は屋根の上の火の見台へ出ることも許さなかった。父母は娘が男の目に触れると男から堕落させに来るものだと信じ切っていた。甚(はなはだ)しい事には自分の寝室に毎夜両親が厳重な錠を下して置くのであった。雇人の多い家では――殊に風儀の悪い堺の街では――娘を厳しく取締る必要があることは言うまでもないが、自分ほど我身を大切に守ることを心得ている女をそれほどまでにせずともよいであろうに、自分の心持を領解してくれない両親の態度をあさましいと思って、心の内で泣いたことも多かった。 自分は生来(うまれつき)外出(そとで)を好まなかった所へ父母が其様(そんな)であるから、少しは意地にもなって、全く人目に触れない女になってしまおう、誰が勧めても頼んでも店の薄暗い物蔭以外には一歩も出まいと決めていた。そうでなくても、兄は東京に学んでいる。妹は京都に学んでいる。弟はまだ土地の中学にいる。店を初め一家の締め括(くく)りのために自分はどうしても両親を助けて家にいなければならなかった。人はお嫁に行(いっ)てから家政に苦労するのに、自分は反対に小娘の時から舅姑(しゅうとしゅうとめ)のような父母に仕えてあらゆる気苦労と労働とをしていた。そんな境遇にいたので異性と恋をするというような考も機会も全くなかった。従って貞操を汚すような男の誘惑というものも一切知らなかった。 それからこれは何時(いつ)かの『早稲田文学(わせだぶんがく)』へ載せた雑感の中にもちょっと書いた事であるが、自分は幼い時から動(やや)もすると死の不安に襲われて平生(へいぜい)少しの病気もない健かな身体(からだ)でありながらかえって若死をする気がしてならなかった。それがため他人の嫁入沙汰(ざた)を聞いても他人は他人、自分は自分の運命があるという風に思って、結婚などをする自分ではないと堅く信じていた。『源氏物語』のような文学書を読んで作中の恋には自分の事のように喜憂することがあっても、それは夢の世界、空想の世界に遊んでいる自分に過ぎなかった。 また十七、八歳から後は露西亜(ロシヤ)のトルストイの翻訳物などを読んで、結婚は罪悪である、人種を絶やして無に帰するのが人間の理想だというような迷信がかなり久しい間自分を囚(とら)えていたので、自分は固(もと)より、偶(たまた)ま逢(あ)う同じ街の友人にも非結婚主義を熱心に勧めたりなんかした。そういうような事に由っても自分は男子の誘惑から隔った遠い彼方(かなた)に住んでいた。 親戚の者から縁談を勧める事もあったが、自分が汚らわしいという風に眉(まゆ)を顰(ひそ)めるので、自分の前でそんな話を持出す人も後には全くなくなった。親たちも家になくてならぬ娘であるから、自分が結婚を望む気振(けぶり)もないのを善(い)い事にして格別勧めようともしなかった。そうして自分は出来るだけ従順に働いて、忙(せわ)しい家業に心を尽していた。空想の別世界にも住んでいるが、現実の常識生活にも一点の批を打たれないようにしようというのが自分のその頃の痩(やせ)我慢であった。父が株券などに手を出して一時は危くなった家産を旧(もと)通りに挽回(ばんかい)することの出来たのも、大抵自分が十代から二十歳(はたち)の初へかけての気苦労の結果であった。そういう一家の危機を外に学んでいる兄や妹に今日が日までも一切知らせずに済(すま)すことが出来たのであった。 自分の処女時代は右のようにして終った。思いも寄らぬ偶然な事から一人の男と相知るに到って自分の性情は不思議なほど激変した。自分は初めて現実的な恋愛の感情が我身を焦(こが)すのを覚えた。その男と終(つい)に結婚した。自分の齢(とし)は二十四であった。 恋をし結婚をして以後の自分の観(み)る世界は処女の時に比べて非常に濶(ひろ)い快活なものとなった。娘の頃の自分の心持には僻(ひが)んだり、偏したり、暗かったりした事の多かったのに気が附いた。結婚をせねば領解の出来ない事柄の多いことも知った。 それから今日まで妻として貞操に何の欠けた所もない生活を続けて来ているのは自分ら夫婦にとって東から日が昇るのと斉(ひと)しく当然(あたりまえ)の事としている。一夫一婦主義を意識して実行しているのでも、『女大学』に教えてあるような旧道徳に圧抑せられているのでもない。つまり初めの恋愛状態が益々根を張り枝を伸して発達して行くのに過ぎない。良人と自分とは天分も教育も性情も異(ちが)っている。それでいろいろの彩料を交ぜながら何処(どこ)かに引緊(ひきしま)って調和が取れている絵のように二人の心持がしっくりと合っている所に、自分の感情は歓喜と幸福とを得ているらしい。勿論、不足と不安とは自分らの生活の上に絶間もないが、その不足と不安の生活を共にしているという事が、自分らの歓喜でも幸福でもある。動揺の乏しい単調な生活であったなら自分らはあるいは早く倦(あ)いてしまっていたかも知れない。 同じ芸術に従事して生活の思想にも形式にも類似の多いという事が二人の心の平衡(へいこう)を保って行かれる一つの原因であろう。また子供に対する愛情を斉しくしていることも一つの原因であろう。また良人を師として常に教えられ、親友以上の親友として、不安動揺の生の中に信頼し扶(たす)け合って行く情味も一つの原因であろう。 しかし何が自分の貞操を自然に守らせている原因の重(おも)なものかと考えて来ると、処女時代から失わずにいる「純潔」を貴ぶ性情がそれである。良人と自分との間には心の上に虚偽がない。何事も隠さずに打明けねば自分の純潔を好む心が済まない。従って肉体をも純潔に自重したい。不貞なる行為はやがて不潔である。虚偽である。純潔な肉体は、自分の純潔な心の最も大切な象徴として堅く保持したいと思うのである。 翻って処女時代を顧みてもそうである。自分はよほど特殊な境遇に育ち、特殊な性情を持って処女時代の貞操を正しく過ごして来たが、前に挙げた多くの理由には僻(ひが)んだり間違ったりした心持から出たものも交っている。その中で今日から考えても最も正しい理由はやはり「純潔」を貴ぶ性情であった。 自分には今日まで貞操を破るような行為を望む内心の要求は少しもなく、今後もそういう危惧(きぐ)は夢にも思いがけないが、万一そういう不貞な心が起るとしても、それを予防するものはこの「純潔」を貴び、正しきを欲する性情の威力であると信じている。啻(ただ)に貞操についてのみならず個人の尊厳はこの性情を土台として保たれかつ発揮せられるものだと信じている。 このように意識して自分の貞操の地盤を反省し出した自分は「純潔」を貴ぶ性情を主とした上になお下のような理由を新たに加えたい。それはもし貞操を乱した場合を予想した消極的の理由ではあるが、今日の自分はこういう事をも考えて見ずにはいられない。即ち処女時代において不貞の行為があれば、処女の純潔は破壊せられたのである。その女は自ら恥と悔(くい)とを覚えるばかりでなく、淑女たる資格なき者として社会から擯斥(ひんせき)せられても涙を呑(の)んで忍ぶより外はない。進んで貞淑な人の妻となる資格に欠けた所のあるのは勿論である。かような将来の不幸を予知する明敏な心がある以上、処女自身にあくまでも自己の貞操を尊重するのが賢い仕方である。 妻にして貞操を破るとすれば忽(たちま)ち家庭の不和を生ぜずには已(や)むまい。子女の教育についても母が正義の規範を示す資格を欠くことになる。教えられざる女は知らぬこと、理智の眼の開(あ)いた婦人はこれがためにも貞操を尊重せねばならぬ。家庭の平和と純潔とを乱せば一身の破滅ばかりでなく、延(ひ)いては一家の協同生活を危くし、社会の幸福をも害(そこな)う結果が予想せられる。 学者は種の保存の上からも女子の貞操は太切(たいせつ)であるという。学説としてはそうでもあろうが、自分にはまだ夫婦の血族を保存するために貞操を守ろうとする自覚はない。それよりも自分のように純潔を貴ぶ性情を基礎としてさえいれば自然に種の保存の意義にも一致する結果になると思う。 以上は専ら自分にのみついて述べた。これを自分だけの経験から出発した特殊の貞操観であって、一般の婦人たちに及ぼしがたいものである事は勿論知っている。世の中の婦人の大多数は貞操の堅固な人たちである。自分はその一人一人の特殊な貞操観を聞きたい。 また再婚をする婦人の心持、良人を定めずして多数の異性に接する稼業(かぎょう)の女の心持などは、どういう所に心の平衡を取って自己を安んじ羞恥(しゅうち)を抑(おさ)えていることが出来るのか、それらについても経験を聞きたい。 未亡人というものは故人某(なにがし)の妻である。それが再嫁をするということは法律上に姦通ではないにしても、本人の心持は疚(やま)しくないものであろうか。未亡人の貞操観というものも赤裸裸に語る人があって欲しい。 また男子の貞操観をも聞きたいものであるが、それは男子自身の正直な告白を待つより外はない。しかし自分の想像では、男子は生理的に女子とよほど異(ちが)った所があって、処女には性欲の自発がないにかかわらず、若い男子にはそれが反対に熾(さかん)であるらしい。(十月の雑誌『三田文学(みたぶんがく)』の谷崎氏の小説はその一例である。)また婦人は早く老いやすいにかかわらず、男子は七十歳の老人にも好色の噂(うわさ)を聞く例(ためし)が多い。特殊な男子を除き、一般大多数の男子がそうであるなら、男子の貞操はよほど趣を異にせねばならぬはずである。男子は貞操を守るに堪えないともいわれよう。 それとも、将来は教養ある男子が殖えるに従って、自己の純潔を貴ぶため、家庭の平和を欲するため、放縦(ほうしょう)な性欲を自制して一夫一婦主義を女子と同じく尊重し実践するようになるであろうか。また反対に女子もまた刺激に憬(あこが)れる心や食物その他の変革から従来の体質を漸次一変して性交の欲望を自発し、併(あわ)せて男子と斉しく老ゆることも遅くなるであろうか。最後に述べて置く、自分の貞操は男子――良人の貞操の如何(いかん)に由って動揺するものでない。自分の肉体を清らかに保つのは自分の心の象徴だとして、何よりも先ず自分のために尊重するのである。そうしてこれは誇るべき事でも何でもない、自分に取って当然の事だと思っている。(『女子文壇』一九一一年一〇―一一月)  
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