邪宗門
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著者名:芥川竜之介 

        一

 先頃大殿様(おおとのさま)御一代中で、一番人目(ひとめ)を駭(おどろ)かせた、地獄変(じごくへん)の屏風(びょうぶ)の由来を申し上げましたから、今度は若殿様の御生涯で、たった一度の不思議な出来事を御話し致そうかと存じて居ります。が、その前に一通り、思いもよらない急な御病気で、大殿様が御薨去(ごこうきょ)になった時の事を、あらまし申し上げて置きましょう。
 あれは確か、若殿様の十九の御年だったかと存じます。思いもよらない急な御病気とは云うものの、実はかれこれその半年ばかり前から、御屋形(おやかた)の空へ星が流れますやら、御庭の紅梅が時ならず一度に花を開きますやら、御厩(おうまや)の白馬(しろうま)が一夜(いちや)の内に黒くなりますやら、御池の水が見る間に干上(ひあが)って、鯉(こい)や鮒(ふな)が泥の中で喘(あえ)ぎますやら、いろいろ凶(わる)い兆(しらせ)がございました。中でも殊に空恐ろしく思われたのは、ある女房の夢枕に、良秀(よしひで)の娘の乗ったような、炎々と火の燃えしきる車が一輛、人面(じんめん)の獣(けもの)に曳かれながら、天から下(お)りて来たと思いますと、その車の中からやさしい声がして、「大殿様をこれへ御迎え申せ。」と、呼(よば)わったそうでございます。その時、その人面の獣が怪しく唸(うな)って、頭(かしら)を上げたのを眺めますと、夢現(ゆめうつつ)の暗(やみ)の中にも、唇ばかりが生々(なまなま)しく赤かったので、思わず金切声をあげながら、その声でやっと我に返りましたが、総身はびっしょり冷汗(ひやあせ)で、胸さえまるで早鐘をつくように躍っていたとか申しました。でございますから、北の方(かた)を始め、私(わたくし)どもまで心を痛めて、御屋形の門々(かどかど)に陰陽師(おんみょうじ)の護符(ごふ)を貼りましたし、有験(うげん)の法師(ほうし)たちを御召しになって、種々の御祈祷を御上げになりましたが、これも誠に遁れ難い定業(じょうごう)ででもございましたろう。
 ある日――それも雪もよいの、底冷がする日の事でございましたが、今出川(いまでがわ)の大納言(だいなごん)様の御屋形から、御帰りになる御車(みくるま)の中で、急に大熱が御発しになり、御帰館遊ばした時分には、もうただ「あた、あた」と仰有(おっしゃ)るばかり、あまつさえ御身(おみ)のうちは、一面に気味悪く紫立って、御褥(おしとね)の白綾(しろあや)も焦げるかと思う御気色(みけしき)になりました。元よりその時も御枕もとには、法師、医師、陰陽師(おんみょうじ)などが、皆それぞれに肝胆(かんたん)を砕いて、必死の力を尽しましたが、御熱は益(ますます)烈しくなって、やがて御床(おんゆか)の上まで転(ころ)び出ていらっしゃると、たちまち別人のような嗄(しわが)れた御声で、「あおう、身のうちに火がついたわ。この煙(けぶ)りは如何(いかが)致した。」と、狂おしく御吼(おたけ)りになったまま、僅三時(わずかみとき)ばかりの間に、何とも申し上げる語(ことば)もない、無残な御最期(ごさいご)でございます。その時の悲しさ、恐ろしさ、勿体(もったい)なさ――今になって考えましても、蔀(しとみ)に迷っている、護摩(ごま)の煙(けぶり)と、右往左往に泣き惑っている女房たちの袴の紅(あけ)とが、あの茫然とした験者(げんざ)や術師たちの姿と一しょに、ありありと眼に浮かんで、かいつまんだ御話を致すのさえ、涙が先に立って仕方がございません。が、そう云う思い出の内でも、あの御年若な若殿様が、少しも取乱した御容子(ごようす)を御見せにならず、ただ、青ざめた御顔を曇らせながら、じっと大殿様の御枕元へ坐っていらしった事を考えると、なぜかまるで磨(と)ぎすました焼刃(やきば)の□(にお)いでも嗅(か)ぐような、身にしみて、ひやりとする、それでいてやはり頼もしい、妙な心もちが致すのでございます。

        二

 御親子(ごしんし)の間がらでありながら、大殿様と若殿様との間くらい、御容子(ごようす)から御性質まで、うらうえなのも稀(まれ)でございましょう。大殿様は御承知の通り、大兵肥満(だいひょうひまん)でいらっしゃいますが、若殿様は中背(ちゅうぜい)の、どちらかと申せば痩ぎすな御生れ立ちで、御容貌(ごきりょう)も大殿様のどこまでも男らしい、神将のような俤(おもかげ)とは、似もつかない御優しさでございます。これはあの御美しい北の方(かた)に、瓜二(うりふた)つとでも申しましょうか。眉の迫った、眼の涼しい、心もち口もとに癖のある、女のような御顔立ちでございましたが、どこかそこにうす暗い、沈んだ影がひそんでいて、殊に御装束でも召しますと、御立派と申しますより、ほとんど神寂(かみさび)ているとでも申し上げたいくらい、いかにももの静な御威光がございました。
 が、大殿様と若殿様とが、取り分け違っていらしったのは、どちらかと云えば、御気象の方で、大殿様のなさる事は、すべてが豪放(ごうほう)で、雄大で、何でも人目(ひとめ)を驚かさなければ止まないと云う御勢いでございましたが、若殿様の御好みは、どこまでも繊細で、またどこまでも優雅な趣がございましたように存じて居ります。たとえば大殿様の御心もちが、あの堀川の御所(ごしょ)に窺(うかが)われます通り、若殿様が若王子(にゃくおうじ)に御造りになった竜田(たつた)の院は、御規模こそ小そうございますが、菅相丞(かんしょうじょう)の御歌をそのままな、紅葉(もみじ)ばかりの御庭と申し、その御庭を縫っている、清らかな一すじの流れと申し、あるいはまたその流れへ御放しになった、何羽とも知れない白鷺(しらさぎ)と申し、一つとして若殿様の奥床しい御思召(おおぼしめ)しのほどが、現れていないものはございません。
 そう云う次第でございますから、大殿様は何かにつけて、武張(ぶば)った事を御好みになりましたが、若殿様はまた詩歌管絃(しいかかんげん)を何よりも御喜びなさいまして、その道々の名人上手とは、御身分の上下も御忘れになったような、隔てない御つき合いがございました。いや、それもただ、そう云うものが御好きだったと申すばかりでなく、御自分も永年御心を諸芸の奥秘(おうひ)に御潜めになったので、笙(しょう)こそ御吹きになりませんでしたが、あの名高い帥民部卿(そちのみんぶきょう)以来、三舟(さんしゅう)に乗るものは、若殿様御一人(おひとり)であろうなどと、噂のあったほどでございます。でございますから、御家の集(しゅう)にも、若殿様の秀句や名歌が、今に沢山残って居りますが、中でも世上に評判が高かったのは、あの良秀(よしひで)が五趣生死(ごしゅしょうじ)の図を描(か)いた竜蓋寺(りゅうがいじ)の仏事の節、二人の唐人(からびと)の問答を御聞きになって、御詠(およ)みになった歌でございましょう。これはその時磬(うちならし)の模様に、八葉(はちよう)の蓮華(れんげ)を挟(はさ)んで二羽の孔雀(くじゃく)が鋳(い)つけてあったのを、その唐人たちが眺めながら、「捨身惜花思(しゃしんしゃっかし)」と云う一人の声の下から、もう一人が「打不立有鳥(だふりゅううちょう)」と答えました――その意味合いが解(げ)せないので、そこに居合わせた人々が、とかくの詮議立てをして居りますと、それを御聞きになった若殿様が、御持ちになった扇の裏へさらさらと美しく書き流して、その人々のいる中へ御遣(おつかわ)しになった歌でございます。
身をすてて花を惜しやと思ふらむ打てども
立たぬ鳥もありけり

        三

 大殿様と若殿様とは、かように万事がかけ離れていらっしゃいましたから、それだけまた御二方(おふたかた)の御仲(おんなか)にも、そぐわない所があったようでございます。これにも世間にはとかくの噂がございまして、中には御親子(ごしんし)で、同じ宮腹(みやばら)の女房を御争いになったからだなどと、申すものもございますが、元よりそのような莫迦(ばか)げた事があろう筈はございません。何でも私(わたくし)の覚えて居ります限りでは、若殿様が十五六の御年に、もう御二方の間には、御不和の芽がふいていたように御見受け申しました。これが前にもちょいと申し上げて置きました、若殿様が笙(しょう)だけを御吹きにならないと云う、その謂(い)われに縁のある事なのでございます。
 その頃、若殿様は大そう笙を御好みで、遠縁の従兄(いとこ)に御当りなさる中御門(なかみかど)の少納言(しょうなごん)に、御弟子入(おでしいり)をなすっていらっしゃいました。この少納言は、伽陵(がりょう)と云う名高い笙と、大食調入食調(だいじきちょうにゅうじきちょう)の譜とを、代々御家に御伝えになっていらっしゃる、その道でも稀代(きだい)の名人だったのでございます。
 若殿様はこの少納言の御手許で、長らく切磋琢磨(せっさたくま)の功を御積みになりましたが、さてその大食調入食調(だいじきちょうにゅうじきちょう)の伝授を御望みになりますと、少納言はどう思召したのか、この仰せばかりは御聞き入れになりません。それが再三押して御頼みになっても、やはり御満足の行くような御返事がなかったので、御年若な若殿様は、一方ならず残念に思召したのでございましょう。ある日大殿様の双六(すごろく)の御相手をなすっていらっしゃる時に、ふとその御不満を御洩しになりました。すると大殿様はいつものように鷹揚(おうよう)に御笑いになりながら、「そう不平は云わぬものじゃ。やがてはその譜も手にはいる時節があるであろう。」と、やさしく御慰めになったそうでございます。ところがそれから半月とたたないある日の事、中御門の少納言は、堀川の御屋形(おやかた)の饗(さかもり)へ御出になった帰りに、俄(にわか)に血を吐いて御歿(おなくな)りになってしまいました。が、それは先ず、よろしいと致しましても、その明くる日、若殿様が何気なく御居間へ御出でになると、螺鈿(らでん)を鏤(ちりば)めた御机の上に、あの伽陵(がりょう)の笙と大食調入食調の譜とが、誰が持って来たともなく、ちゃんと載っていたと申すではございませんか。
 その後(のち)また大殿様が若殿様を御相手に双六(すごろく)を御打ちになった時、
「この頃は笙も一段と上達致したであろうな。」と、念を押すように仰有(おっしゃ)ると、若殿様は静に盤面(ばんめん)を御眺めになったまま、
「いや笙はもう一生、吹かない事に致しました。」と、冷かに御答えになりました。
「何としてまた、吹かぬ事に致したな。」
「聊(いささ)かながら、少納言の菩提(ぼだい)を弔(とむら)おうと存じますから。」
 こう仰有(おっしゃ)って若殿様は、じっと父上の御顔を御見つめになりました。が、大殿様はまるでその御声が聞えないように勢いよく筒(とう)を振りながら、
「今度もこの方が無地勝(むじがち)らしいぞ。」とさりげない容子(ようす)で勝負を御続けになりました。でございますからこの御問答は、それぎり立ち消えになってしまいましたが、御親子の御仲には、この時からある面白くない心もちが、挟まるようになったかと存ぜられます。

        四

 それから大殿様の御隠れになる時まで、御親子(ごしんし)の間には、まるで二羽の蒼鷹(あおたか)が、互に相手を窺いながら、空を飛びめぐっているような、ちっとの隙(すき)もない睨(にら)み合いがずっと続いて居りました。が、前にも申し上げました通り若殿様は、すべて喧嘩口論の類(たぐい)が、大御嫌(だいおきら)いでございましたから、大殿様の御所業(ごしょぎょう)に向っても、楯(たて)を御つきになどなった事は、ほとんど一度もございません。ただ、その度に皮肉な御微笑を、あの癖のある御口元にちらりと御浮べになりながら、一言二言(ひとことふたこと)鋭い御批判を御漏(おも)らしになるばかりでございます。
 いつぞや大殿様が、二条大宮の百鬼夜行(ひゃっきやぎょう)に御遇いになっても、格別御障りのなかった事が、洛中洛外の大評判になりますと、若殿様は私(わたくし)に御向いになりまして、「鬼神(きじん)が鬼神に遇うたのじゃ。父上の御身(おみ)に害がなかったのは、不思議もない。」と、さも可笑(おか)しそうに仰有(おっしゃ)いましたが、その後また、東三条の河原院(かわらのいん)で、夜な夜な現れる融(とおる)の左大臣の亡霊を、大殿様が一喝して御卻(おしりぞ)けになった時も、若殿様は例の通り、唇を歪(ゆが)めて御笑いになりながら、
「融の左大臣は、風月の才に富んで居られたと申すではないか。されば父上づれは、話のあとを打たせるにも足らぬと思われて、消え失せられたに相違ない。」と、仰有(おっしゃ)ったのを覚えて居ります。
 それがまた大殿様には、何よりも御耳に痛かったと見えまして、ふとした拍子(ひょうし)に、こう云う若殿様の御言葉が、御聞きに達する事でもございますと、上べは苦笑いに御紛(おまぎら)わしなすっても、御心中の御怒りはありありと御顔に読まれました。現に内裡(だいり)の梅見の宴からの御帰りに、大殿様の御車(みくるま)の牛がそれて、往来の老人に怪我させた時、その老人が反(かえ)って手を合せて、権者(ごんじゃ)のような大殿様の御牛(みうし)にかけられた冥加(みょうが)のほどを、難有(ありがた)がった事がございましたが、その時も若殿様は、大殿様のいらっしゃる前で、牛飼いの童子に御向いなさりながら、「その方はうつけものじゃな。所詮(しょせん)牛をそらすくらいならば、なぜ車の輪にかけて、あの下司(げす)を轢(ひ)き殺さぬ。怪我をしてさえ、手を合せて、随喜するほどの老爺(おやじ)じゃ。轍(わだち)の下に往生を遂げたら、聖衆(しょうじゅ)の来迎(らいごう)を受けたにも増して、難有(ありがた)く心得たに相違ない。されば父上の御名誉も、一段と挙がろうものを。さりとは心がけの悪い奴じゃ。」と、仰有ったものでございます。その時の大殿様の御機嫌の悪さと申しましたら、今にも御手の扇が上って、御折檻(ごせっかん)くらいは御加えになろうかと、私ども一同が胆(きも)を冷すほどでございましたが、それでも若殿様は晴々と、美しい歯を見せて御笑いになりながら、
「父上、父上、そう御腹立ち遊ばすな。牛飼めもあの通り、恐れ入って居(お)るようでございます。この後(のち)とも精々心にかけましたら、今度こそは立派に人一人轢き殺して、父上の御名誉を震旦(しんたん)までも伝える事でございましょう。」と、素知(そし)らぬ顔で仰有ったものでございますから、大殿様もとうとう我(が)を御折りになったと見えて、苦(にが)い顔をなすったまま、何事もなく御立ちになってしまいました。
 こう云う御間がらでございましたから、大殿様の御臨終を、じっと御目守(おまも)りになっていらっしゃる若殿様の御姿ほど、私どもの心の上に不思議な影を宿したものはございません。今でもその時の事を考えますと、まるで磨ぎすました焼刃(やきば)の□(にお)いを嗅ぐような、身にしみてひやりとする、と同時にまた何となく頼もしい、妙な心もちが致した事は、先刻もう御耳に入れて置きました。誠にその時の私どもには、心から御代替(ごだいがわ)りがしたと云う気が、――それも御屋形(おやかた)の中ばかりでなく、一天下(いってんか)にさす日影が、急に南から北へふり変ったような、慌(あわただ)しい気が致したのでございます。

        五

 でございますから若殿様が、御家督を御取りになったその日の内から、御屋形(おやかた)の中へはどこからともなく、今までにない長閑(のどか)な景色(けしき)が、春風(しゅんぷう)のように吹きこんで参りました。歌合(うたあわ)せ、花合せ、あるいは艶書合(えんしょあわ)せなどが、以前にも増して度々御催しになられたのは、申すまでもございますまい。それからまた、女房たちを始め、侍どもの風俗が、まるで昔の絵巻から抜け出して来たように、みやびやかになったのも、元よりの事でございます。が、殊に以前と変ったのは、御屋形の御客に御出でになる上(うえ)つ方(がた)の御顔ぶれで、今はいかに時めいている大臣大将でも、一芸一能にすぐれていらっしゃらない方は、滅多(めった)に若殿様の御眼にはかかれません。いや、たとい御眼にかかれたのにしても、御出でになる方々が、皆風流の才子ばかりでいらっしゃいますから、さすがに御身を御愧(おは)じになって、自然御み足が遠くなってしまうのでございます。
 その代りまた、詩歌管絃の道に長じてさえ居りますれば、無位無官の侍でも、身に余るような御褒美(ごほうび)を受けた事がございます。たとえば、ある秋の夜に、月の光が格子にさして、機織(はたお)りの声が致して居りました時、ふと人を御召しになると、新参の侍が参りましたが、どう思召したのか、急にその侍に御向いなすって、
「機織(はたお)りの声が致すのは、その方(ほう)にも聞えような。これを題に一首仕(つかまつ)れ。」と、御声がかりがございました。するとその侍は下(しも)にいて、しばらく頭(かしら)を傾けて居りましたが、やがて、「青柳(あおやぎ)の」と、初(はじめ)の句を申しました。するとその季節に合わなかったのが、可笑(おかし)かったのでございましょう。女房たちの間には、忍び笑いの声が起りましたが、侍が続いて、
「みどりの糸をくりおきて夏へて秋は機織(はたお)りぞ啼く。」と、さわやかに詠じますと、たちまちそれは静まり返って、萩模様のある直垂(ひたたれ)を一領、格子の間から月の光の中へ、押し出して下さいました。実はその侍と申しますのが、私(わたくし)の姉の一人息子で、若殿様とは、ほぼ御年輩(ごねんぱい)も同じくらいな若者でございましたが、これを御奉公の初めにして、その後(のち)も度々難有(ありがた)い御懇意を受けたのでございます。
 まず、若殿様の御平生(ごへいぜい)は、あらあらかようなものでございましょうか。その間に北の方(かた)も御迎えになりましたし、年々の除目(じもく)には御官位も御進みになりましたが、そう云う事は世上の人も、よく存じている事でございますから、ここにはとり立てて申し上げません。それよりも先を急ぎますから、最初に御約束致しました通り、若殿様の御一生に、たった一度しかなかったと云う、不思議な出来事の御話へはいる事に致しましょう。と申しますのは、大殿様とは御違いになって、天(あめ)が下(した)の色ごのみなどと云う御渾名(おんあだな)こそ、御受けになりましたが、誠に御無事な御生涯で、そのほかには何一つ、人口に膾炙(かいしゃ)するような御逸事と申すものも、なかったからでございます。

        六

 その御話のそもそもは、確か大殿様が御隠れになってから、五六年たった頃でございますが、丁度その時分若殿様は、前に申しあげました中御門(なかみかど)の少納言様の御一人娘で、評判の美しい御姫様へ、茂々(しげしげ)御文を書いていらっしゃいました。ただ今でもあの頃の御熱心だった御噂が、私(わたくし)どもの口から洩れますと、若殿様はいつも晴々(はればれ)と御笑いになって、
「爺よ。天(あめ)が下(した)は広しと云え、あの頃の予が夢中になって、拙(つたな)い歌や詩を作ったのは皆、恋がさせた業(わざ)じゃ。思えば狐(きつね)の塚を踏んで、物に狂うたのも同然じゃな。」と、まるで御自分を嘲るように、洒落(しゃらく)としてこう仰有(おっしゃ)います。が、全く当時の若殿様は、それほど御平生に似もやらず、恋慕三昧(れんぼざんまい)に耽って御出でになりました。
 しかし、これは、あながち、若殿様御一人に限った事ではございません。あの頃の年若な殿上人(てんじょうびと)で、中御門(なかみかど)の御姫様に想(おも)いを懸けないものと云ったら、恐らく御一方もございますまい。あの方が阿父様(おとうさま)の代から、ずっと御住みになっていらっしゃる、二条西洞院(にしのとういん)の御屋形(おやかた)のまわりには、そう云う色好みの方々が、あるいは車を御寄せになったり、あるいは御自身御拾いで御出でになったり、絶えず御通い遊ばしたものでございます。中には一夜(いちや)の中に二人まで、あの御屋形の梨(なし)の花の下で、月に笛を吹いている立烏帽子(たてえぼし)があったと云う噂も、聞き及んだ事がございました。
 いや、現に一時は秀才の名が高かった菅原雅平(すがわらまさひら)とか仰有る方も、この御姫様に恋をなすって、しかもその恋がかなわなかった御恨みから、俄(にわか)に世を御捨てになって、ただ今では筑紫(つくし)の果に流浪して御出でになるとやら、あるいはまた東海の波を踏んで唐土(もろこし)に御渡りになったとやら、皆目御行方(かいもくおゆくえ)が知れないと申すことでございます。この方などは若殿様とも、詩文の御交りの深かった御一人で、御消息などをなさる時は、若殿様を楽天(らくてん)に、御自分を東坡(とうば)に比していらしったそうでございますが、そう云う風流第一の才子が、如何(いか)に中御門の御姫様は御美しいのに致しましても、一旦の御歎きから御生涯を辺土に御送りなさいますのは、御不覚と申し上げるよりほかはございますまい。
 が、また飜(ひるがえ)って考えますと、これも御無理がないと思われるくらい、中御門の御姫様と仰有(おっしゃ)る方は、御美しかったのでございます。私が一両度御見かけ申しました限でも、柳桜(やなぎさくら)をまぜて召して、錦に玉を貫いた燦(きら)びやかな裳(も)の腰を、大殿油(おおとのあぶら)の明い光に、御輝かせになりながら、御□(おんまぶた)も重そうにうち傾いていらしった、あのあでやかな御姿は一生忘れようもございますまい。しかもこの御姫様は御気象も並々ならず御闊達(ごかったつ)でいらっしゃいましたから、なまじいな殿上人などは、思召しにかなう所か、すぐに本性(ほんしょう)を御見透(おみとお)しになって、とんと御寵愛(ごちょうあい)の猫も同様、さんざん御弄(おなぶ)りになった上、二度と再び御膝元へもよせつけないようになすってしまいました。

        七

 でございますからこの御姫様に、想(おもい)を懸けていらしった方々(かたがた)の間には、まるで竹取(たけとり)物語の中にでもありそうな、可笑(おか)しいことが沢山ございましたが、中でも一番御気の毒だったのは京極(きょうごく)の左大弁様(さだいべんさま)で、この方(かた)は京童(きょうわらんべ)が鴉(からす)の左大弁などと申し上げたほど、顔色が黒うございましたが、それでもやはり人情には変りもなく、中御門(なかみかど)の御姫様を恋い慕っていらっしゃいました。所がこの方は御利巧だと同時に、気の小さい御性質だったと見えまして、いかに御姫様を懐(なつか)しく思召しても、御自分の方からそれとは御打ち明けなすった事もございませんし、元よりまた御同輩の方にも、ついぞそれらしい事を口に出して、仰有(おっしゃ)った例(ためし)はございません。しかし忍び忍びに御姫様の御顔を拝みに参ります事は、隠れない事でございますから、ある時、それを枷(かせ)にして、御同輩の誰彼が、手を換え品を換え、いろいろと問い落そうと御かかりになりました。すると鴉の左大弁様は、苦しまぎれの御一策に、
「いや、あれは何も私(わたし)が想(おもい)を懸けているばかりではない。実は姫の方からも、心ありげな風情(ふぜい)を見せられるので、ついつい足が茂くなるのだ。」と、こう御逃げになりました。しかもそれを誠らしく見せかけようと云う出来心から、御姫様から頂いた御文の文句や、御歌などを、ある事もない事も皆一しょに取つくろって、さも御姫様の方が心を焦(こが)していらっしゃるように、御話しになったからたまりません。元より悪戯好(いたずらず)きな御同輩たちは、半信半疑でいらっしゃりながら、早速御姫様の偽手紙を拵(こしら)えて、折からの藤(ふじ)の枝か何かにつけたまま、それを左大弁様の許へ御とどけになりました。
 こちらは京極の左大弁様で、何事かと胸を轟かせながら、慌(あわて)て御文を開けて見ますと、思いもよらず御姫様は、いかに左大弁様を思いわびてもとんとつれなく御もてなしになるから、所詮かなわぬ恋とあきらめて、尼法師(あまほうし)の境涯にはいると云う事が、いかにももの哀れに書いてあるではございませんか。まさかそうまで御姫様が、思いつめていらっしゃろうとは、夢にも思召(おぼしめ)さなかったのでございますから、鴉の左大弁様は悲しいとも、嬉しいともつかない御心もちで、しばらくはただ、茫然と御文を前にひろげたまま、溜息(ためいき)をついていらっしゃいました。が、何はともあれ、御眼にかかって、今まで胸にひそめていた想(おもい)のほども申し上げようと、こう思召したのでございましょう。丁度五月雨(さみだれ)の暮方でございましたが、童子を一人御伴に御つれになって、傘(おおかさ)をかざしながら、ひそかに二条西洞院(にしのとういん)の御屋形まで参りますと、御門(ごもん)は堅く鎖(とざ)してあって、いくら音なっても叩いても、開ける気色(けしき)はございません。そうこうする内に夜になって、人の往来(ゆきき)も稀な築土路(ついじみち)には、ただ、蛙(かわず)の声が聞えるばかり、雨は益(ますます)降りしきって、御召物も濡れれば、御眼も眩(くら)むと云う情ない次第でございます。
 それがほど経てから、御門の扉が、やっと開いたと思いますと、平太夫(へいだゆう)と申します私(わたくし)くらいの老侍(おいざむらい)が、これも同じような藤の枝に御文を結んだのを渡したなり、無言でまた、その扉をぴたりと閉めてしまいました。
 そこで泣く泣く御立ち帰りになって、その御文を開けて御覧になると、一首の古歌がちらし書きにしてあるだけで、一言もほかには御便りがございません。
  思へども思はずとのみ云ふなればいなや思はじ思ふかひなし
 これは云うまでもなく御姫様が、悪戯(いたずら)好きの若殿原から、細々(こまごま)と御消息で、鴉(からす)の左大弁様の心なしを御承知になっていたのでございます。

        八

 こう御話し致しますと、中には世の常の姫君たちに引き比べて、この御姫様の御行状(ごぎょうじょう)を、嘘のように思召す方もいらっしゃいましょうが、現在私が御奉公致している若殿様の事を申し上げながら、何もそのような空事(そらごと)をさし加えよう道理はございません。その頃洛中(らくちゅう)で評判だったのは、この御姫様ともう御一方、これは虫が大御好きで、長虫(ながむし)までも御飼いになったと云う、不思議な御姫様がございました。この後(あと)の御姫様の事は、全くの余談でございますから、ここには何も申し上げますまい。が、中御門(なかみかど)の御姫様は、何しろ御両親とも御隠れになって、御屋形にはただ、先刻御耳に入れました平太夫(へいだゆう)を頭(かしら)にして、御召使の男女(なんにょ)が居りますばかり、それに御先代から御有福で、何御不自由もございませんでしたから、自然御美しいのと、御闊達なのとに御任せなすって、随分世を世とも思わない、御放胆な真似もなすったのでございます。
 そこで噂を立て易い世間には、この御姫様御自身が、実は少納言様の北の方(かた)と大殿様との間に御生まれなすったので、父君の御隠れなすったのも、恋の遺恨(いこん)で大殿様が毒害遊ばしたのだなどと申す輩(やから)も出て来るのでございましょう。しかし少納言様の急に御歿(おな)くなりになった御話は、前に一応申上げました通り、さらにそのような次第ではございませんから、その噂は申すまでもなく、皆跡方(あとかた)のない嘘でございます。さもなければ若殿様も、決してあれほどまでは御姫様へ、心を御寄せにはなりますまい。
 何でも私が人伝(ひとづて)に承(うけたま)わりました所では、初めはいくら若殿様の方で御熱心でも、御姫様は反(かえ)って誰よりも、素気(すげ)なく御もてなしになったとか申す事でございます。いや、そればかりか、一度などは若殿様の御文を持って上った私の甥(おい)に、あの鴉の左大弁様同様、どうしても御門の扉を御開けにならなかったとかでございました。しかもあの平太夫(へいだゆう)が、なぜか堀川の御屋形のものを仇(かたき)のように憎みまして、その時も梨の花に、うらうらと春日(はるび)が□(にお)っている築地(ついじ)の上から白髪頭(しらがあたま)を露(あらわ)して、檜皮(ひわだ)の狩衣(かりぎぬ)の袖をまくりながら、推しても御門を開こうとする私の甥に、
「やい、おのれは昼盗人(ひるぬすびと)か。盗人とあれば容赦(ようしゃ)はせぬ。一足でも門内にはいったが最期(さいご)、平太夫が太刀(たち)にかけて、まっ二つに斬って捨てるぞ。」と、噛みつくように喚(わめ)きました。もしこれが私でございましたら、刃傷沙汰(にんじょうざた)にも及んだでございましょうが、甥はただ、道ばたの牛の糞(まり)を礫(つぶて)代りに投げつけただけで、帰って来たと申して居りました。かような次第でございますから、元より御文が無事に御手許にとどいても、とんと御返事と申すものは頂けません。が、若殿様は、一向それにも御頓着なく、三日にあげず、御文やら御歌やら、あるいはまた結構な絵巻やらを、およそものの三月あまりも、根気よく御遣(おつかわ)しになりました。さればこそ、日頃も仰有(おっしゃ)る通り、「あの頃の予が夢中になって、拙(つたな)い歌や詩を作ったのは、皆恋がさせた業(わざ)じゃ。」に、少しも違いはなかったのでございます。

        九

 丁度その頃の事でございます。洛中(らくちゅう)に一人の異形(いぎょう)な沙門(しゃもん)が現れまして、とんと今までに聞いた事のない、摩利(まり)の教と申すものを説き弘(ひろ)め始めました。これも一時随分評判でございましたから、中には御聞き及びの方(かた)もいらっしゃる事でございましょう。よくものの草紙などに、震旦(しんたん)から天狗(てんぐ)が渡ったと書いてありますのは、丁度あの染殿(そめどの)の御后(おきさき)に鬼が憑(つ)いたなどと申します通り、この沙門の事を譬(たと)えて云ったのでございます。
 そう申せば私が初めてその沙門を見ましたのも、やはり其頃の事でございました。確か、ある花曇りの日の昼中(ひるなか)だったかと存じますが、何か用足しに出ました帰りに、神泉苑(しんせんえん)の外を通りかかりますと、あすこの築土(ついじ)を前にして、揉烏帽子(もみえぼし)やら、立烏帽子(たてえぼし)やら、あるいはまたもの見高い市女笠(いちめがさ)やらが、数(かず)にしておよそ二三十人、中には竹馬に跨った童部(わらべ)も交って、皆一塊(ひとかたまり)になりながら、罵(ののし)り騒いでいるのでございます。さてはまた、福徳の大神(おおかみ)に祟られた物狂いでも踊っているか、さもなければ迂闊(うかつ)な近江商人(おうみあきゅうど)が、魚盗人(うおぬすびと)に荷でも攫(さら)われたのだろうと、こう私は考えましたが、あまりその騒ぎが仰々(ぎょうぎょう)しいので、何気(なにげ)なく後(うしろ)からそっと覗(のぞ)きこんで見ますと、思いもよらずその真中(まんなか)には、乞食(こつじき)のような姿をした沙門が、何か頻(しきり)にしゃべりながら、見慣れぬ女菩薩(にょぼさつ)の画像(えすがた)を掲げた旗竿を片手につき立てて、佇(たたず)んでいるのでございました。年の頃はかれこれ三十にも近うございましょうか、色の黒い、眼のつり上った、いかにも凄じい面(つら)がまえで、着ているものこそ、よれよれになった墨染の法衣(ころも)でございますが、渦を巻いて肩の上まで垂れ下った髪の毛と申し、頸(くび)にかけた十文字の怪しげな黄金(こがね)の護符(ごふ)と申し、元より世の常の法師(ほうし)ではございますまい。それが、私の覗(のぞ)きました時は、流れ風に散る神泉苑の桜の葉を頭から浴びて、全く人間と云うよりも、あの智羅永寿(ちらえいじゅ)の眷属(けんぞく)が、鳶(とび)の翼を法衣(ころも)の下に隠しているのではないかと思うほど、怪しい姿に見うけられました。
 するとその時、私の側にいた、逞しい鍛冶(かじ)か何かが、素早く童部(わらべ)の手から竹馬をひったくって、
「おのれ、よくも地蔵菩薩を天狗だなどと吐(ぬか)したな。」と、噛みつくように喚きながら、斜(はす)に相手の面(おもて)を打ち据えました。が、打たれながらも、その沙門(しゃもん)は、にやりと気味の悪い微笑を洩らしたまま、いよいよ高く女菩薩(にょぼさつ)の画像(えすがた)を落花の風に飜(ひるがえ)して、
「たとい今生(こんじょう)では、いかなる栄華(えいが)を極めようとも、天上皇帝の御教(みおしえ)に悖(もと)るものは、一旦命終(めいしゅう)の時に及んで、たちまち阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄に堕(お)ち、不断の業火(ごうか)に皮肉を焼かれて、尽未来(じんみらい)まで吠え居ろうぞ。ましてその天上皇帝の遺(のこ)された、摩利信乃法師(まりしのほうし)に笞(しもと)を当つるものは、命終の時とも申さず、明日(あす)が日にも諸天童子の現罰を蒙って、白癩(びゃくらい)の身となり果てるぞよ。」と、叱りつけたではございませんか。この勢いに気を呑まれて、私は元より当の鍛冶(かじ)まで、しばらくはただ、竹馬を戟(ほこ)にしたまま、狂おしい沙門の振舞を、呆れてじっと見守って居りました。

        十

 が、それはほんの僅の間(ま)で、鍛冶(かじ)はまた竹馬(たけうま)をとり直しますと、
「まだ雑言(ぞうごん)をやめ居らぬか。」と、恐ろしい権幕(けんまく)で罵りながら、矢庭(やにわ)に沙門(しゃもん)へとびかかりました。
 元よりその時は私はじめ、誰でも鍛冶の竹馬が、したたか相手の面(おもて)を打ち据えたと、思わなかったものはございません。いや、実際竹馬は、あの日の焦(や)けた頬に、もう一すじ蚯蚓腫(みみずばれ)の跡を加えたようでございます。が、横なぐりに打ち下した竹馬が、まだ青い笹の葉に落花を掃(はら)ったと思うが早いか、いきなり大地(だいち)にどうと倒れたのは、沙門ではなくて、肝腎の鍛冶の方でございました。
 これに辟易(へきえき)した一同は、思わず逃腰(にげごし)になったのでございましょう。揉烏帽子(もみえぼし)も立(たて)烏帽子も意気地なく後(うしろ)を見せて、どっと沙門のまわりを離れましたが、見ると鍛冶は、竹馬を持ったまま、相手の足もとにのけぞり返って、口からはまるで癲癇病(てんかんや)みのように白い泡さえも噴いて居ります。沙門はしばらくその呼吸を窺っているようでございましたが、やがてその瞳を私どもの方へ返しますと、
「見られい。わしの云うた事に、偽(いつわ)りはなかったろうな。諸天童子は即座にこの横道者(おうどうもの)を、目に見えぬ剣(つるぎ)で打たせ給うた。まだしも頭(かしら)が微塵に砕けて、都大路(みやこおおじ)に血をあやさなんだのが、時にとっての仕合せと云わずばなるまい。」と、さも横柄(おうへい)に申しました。
 するとその時でございます。ひっそりと静まり返った人々の中から、急にけたたましい泣き声をあげて、さっき竹馬を持っていた童部(わらべ)が一人、切禿(きりかむろ)の髪を躍らせながら、倒れている鍛冶(かじ)の傍へ、転がるように走り寄ったのは。
「阿父(おとっ)さん。阿父さんてば。よう。阿父さん。」
 童部(わらべ)はこう何度も喚(わめ)きましたが、鍛冶はさらに正気(しょうき)に還る気色(けしき)もございません。あの唇にたまった泡さえ、不相変(あいかわらず)花曇りの風に吹かれて、白く水干(すいかん)の胸へ垂れて居ります。
「阿父さん。よう。」
 童部(わらべ)はまたこう繰り返しましたが、鍛冶が返事をしないのを見ると、たちまち血相を変えて、飛び立ちながら、父の手に残っている竹馬を両手でつかむが早いか、沙門を目がけて健気(けなげ)にも、まっしぐらに打ってかかりました。が、沙門はその竹馬を、持っていた画像(えすがた)の旗竿で、事もなげに払いながら、またあの気味の悪い笑(えみ)を洩らしますと、わざと柔(やさ)しい声を出して、「これは滅相な。御主(おぬし)の父親(てておや)が気を失ったのは、この摩利信乃法師(まりしのほうし)がなせる業(わざ)ではないぞ。さればわしを窘(くるし)めたとて、父親が生きて返ろう次第はない。」と、たしなめるように申しました。
 その道理が童部(わらべ)に通じたと云うよりは、所詮この沙門と打ち合っても、勝てそうもないと思ったからでございましょう。鍛冶の小伜は五六度竹馬を振りまわした後で、べそを掻いたまま、往来のまん中へ立ちすくんでしまいました。

        十一

 摩利信乃法師(まりしのほうし)はこれを見ると、またにやにや微笑(ほほえ)みながら、童部(わらべ)の傍(かたわら)へ歩みよって、
「さても御主(おぬし)は、聞分けのよい、年には増した利発な子じゃ。そう温和(おとな)しくして居(お)れば、諸天童子も御主にめでて、ほどなくそこな父親(てておや)も正気(しょうき)に還して下されよう。わしもこれから祈祷(きとう)しょうほどに、御主もわしを見慣うて、天上皇帝の御慈悲に御すがり申したがよかろうぞ。」
 こう云うと沙門は旗竿を大きく両腕に抱(いだ)きながら、大路(おおじ)のただ中に跪(ひざまず)いて、恭(うやうや)しげに頭を垂れました。そうして眼をつぶったまま、何やら怪しげな陀羅尼(だらに)のようなものを、声高(こわだか)に誦(ず)し始めました。それがどのくらいつづいた事でございましょう。沙門のまわりに輪を作って、この不思議な加持(かじ)のし方を眺めている私どもには、かれこれものの半時もたったかと思われるほどでございましたが、やがて沙門が眼を開いて、脆いたなり伸ばした手を、鍛冶(かじ)の顔の上へさしかざしますと、見る見る中にその顔が、暖かく血の色を盛返して、やがて苦しそうな呻(うな)り声さえ、例の泡だらけな口の中から、一しきり長く溢れて参りました。
「やあ、阿父(おとっ)さんが、生き返った。」
 童部(わらべ)は竹馬を抛り出すと、嬉しそうに小躍りして、また父親の傍へ走りよりました。が、その手で抱(だ)き起されるまでもなく、呻り声を洩らすとほとんど同時に、鍛冶はまるで酒にでも酔ったかと思うような、覚束ない身のこなしで、徐(おもむろ)に体を起しました。すると沙門はさも満足そうに、自分も悠然と立ち上って、あの女菩薩(にょぼさつ)の画像(えすがた)を親子のものの頭(かしら)の上に、日を蔽う如くさしかざすと、
「天上皇帝の御威徳は、この大空のように広大無辺じゃ。何と信を起されたか。」と、厳(おごそ)かにこう申しました。
 鍛冶の親子は互にしっかり抱(いだ)き合いながら、まだ土の上に蹲(うずくま)って居りましたが、沙門の法力(ほうりき)の恐ろしさには、魂も空にけし飛んだのでございましょう。女菩薩の幢(はた)を仰ぎますと、二人とも殊勝げな両手を合せて、わなわな震えながら、礼拝(らいはい)いたしました。と思うとつづいて二三人、まわりに立っている私どもの中にも、笠を脱いだり、烏帽子を直したりして、画像(えすがた)を拝んだものが居ったようでございます。ただ私は何となく、その沙門や女菩薩の画像が、まるで魔界の風に染んでいるような、忌(いま)わしい気が致しましたから、鍛冶が正気に還ったのを潮(しお)に、□々(そうそう)その場を立ち去ってしまいました。
 後で人の話を承わりますと、この沙門の説教致しますのが、震旦(しんたん)から渡って参りました、あの摩利(まり)の教と申すものだそうで、摩利信乃法師(まりしのほうし)と申します男も、この国の生れやら、乃至(ないし)は唐土(もろこし)に人となったものやら、とんと確かなことはわからないと云う事でございました。中にはまた、震旦でも本朝でもない、天竺(てんじく)の涯(はて)から来た法師で、昼こそあのように町を歩いているが、夜は墨染の法衣(ころも)が翼になって、八阪寺(やさかでら)の塔の空へ舞上るなどと云う噂もございましたが、元よりそれはとりとめもない、嘘だったのでございましょう。が、さような噂が伝わりましたのも、一応はもっともかと存じられますくらい、この摩利信乃法師の仕業には、いろいろ幻妙な事が多かったのでございます。

        十二

 と申しますのは、まず第一に摩利信乃法師(まりしのほうし)が、あの怪しげな陀羅尼(だらに)の力で、瞬く暇に多くの病者を癒(なお)した事でございます。盲目(めしい)が見えましたり、跛(あしなえ)が立ちましたり、唖(おし)が口をききましたり――一々数え立てますのも、煩わしいくらいでございますが、中でも一番名高かったのは、前(さき)の摂津守(せっつのかみ)の悩んでいた人面瘡(にんめんそう)ででもございましょうか。これは甥(おい)を遠矢にかけて、その女房を奪ったとやら申す報(むくい)から、左の膝頭にその甥の顔をした、不思議な瘡(かさ)が現われて、昼も夜も骨を刻(けず)るような業苦(ごうく)に悩んで居りましたが、あの沙門の加持(かじ)を受けますと、見る間にその顔が気色(けしき)を和(やわら)げて、やがて口とも覚しい所から「南無(なむ)」と云う声が洩れるや否や、たちまち跡方(あとかた)もなく消え失せたと申すのでございます。元よりそのくらいでございますから、狐の憑(つ)きましたのも、天狗の憑(つ)きましたのも、あるいはまた、何とも名の知れない、妖魅鬼神(ようみきじん)の憑きましたのも、あの十文字(じゅうもんじ)の護符を頂きますと、まるで木(こ)の葉を食う虫が、大風にでも振われて落ちるように、すぐさま落ちてしまいました。
 が、摩利信乃法師の法力が評判になったのは、それだからばかりではございません。前にも私が往来で見かけましたように、摩利の教を誹謗(ひぼう)したり、その信者を呵責(かしゃく)したり致しますと、あの沙門は即座にその相手に、恐ろしい神罰を祈り下しました。おかげで井戸の水が腥(なまぐさ)い血潮に変ったものもございますし、持(も)ち田(だ)の稲を一夜(いちや)の中に蝗(いなむし)が食ってしまったものもございますが、あの白朱社(はくしゅしゃ)の巫女(みこ)などは、摩利信乃法師を祈り殺そうとした応報で、一目見るのさえ気味の悪い白癩(びゃくらい)になってしまったそうでございます。そこであの沙門は天狗の化身(けしん)だなどと申す噂が、一層高くなったのでございましょう。が、天狗ならば一矢に射てとって見せるとか申して、わざわざ鞍馬の奥から参りました猟師も、例の諸天童子の剣(つるぎ)にでも打たれたのか、急に目がつぶれた揚句(あげく)、しまいには摩利の教の信者になってしまったとか申す事でございました。
 そう云う勢いでございますから、日が経(ふ)るに従って、信者になる老若男女(ろうにゃくなんにょ)も、追々数を増して参りましたが、そのまた信者になりますには、何でも水で頭(かしら)を濡(ぬら)すと云う、灌頂(かんちょう)めいた式があって、それを一度すまさない中は、例の天上皇帝に帰依(きえ)した明りが立ち兼(か)ねるのだそうでございます。これは私の甥が見かけたことでございますが、ある日四条の大橋を通りますと、橋の下の河原に夥(おびただ)しい人だかりが致して居りましたから、何かと存じて覗(のぞ)きました所、これもやはり摩利信乃法師が東国者らしい侍に、その怪しげな灌頂の式を授けて居(お)るのでございました。何しろ折からの水が温(ぬる)んで、桜の花も流れようと云う加茂川へ、大太刀を佩(は)いて畏(かしこま)った侍と、あの十文字の護符を捧げている異形(いぎょう)な沙門とが影を落して、見慣れない儀式を致していたと申すのでございますから、余程面白い見物(みもの)でございましたろう。――そう云えば、前に申し上げる事を忘れましたが、摩利信乃法師は始めから、四条河原の非人(ひにん)小屋の間へ、小さな蓆張(むしろば)りの庵(いおり)を造りまして、そこに始終たった一人、佗(わび)しく住んでいたのでございます。

        十三

 そこでお話は元へ戻りますが、その間に若殿様は、思いもよらない出来事から、予(かね)て御心を寄せていらしった中御門(なかみかど)の御姫様と、親しい御語いをなさる事が御出来なさるように相成りました。その思いもよらない事と申しますのは、もう花橘(はなたちばな)の□(におい)と時鳥(ほととぎす)の声とが雨もよいの空を想(おも)わせる、ある夜の事でございましたが、その夜は珍しく月が出て、夜目にも、朧(おぼろ)げには人の顔が見分けられるほどだったと申します。若殿様はある女房の所へ御忍びになった御帰り途で、御供の人数(にんず)も目立たないように、僅か一人か二人御召連れになったまま、その明るい月の中を車でゆっくりと御出でになりました。が、何しろ時刻が遅いので、人っ子一人通らない往来には、遠田(とおだ)の蛙(かわず)の声と、車の輪の音とが聞えるばかり、殊にあの寂しい美福門(びふくもん)の外は、よく狐火の燃える所だけに、何となく鬼気が身に迫って、心無い牛の歩みさえ早くなるような気が致されます。――そう思うと、急に向うの築土(ついじ)の陰で、怪しい咳(しわぶき)の声がするや否や、きらきらと白刃(しらは)を月に輝かせて、盗人と覚しい覆面の男が、左右から凡そ六七人、若殿様の車を目がけて、猛々(たけだけ)しく襲いかかりました。
 と同時に牛飼(うしかい)の童部(わらべ)を始め、御供の雑色(ぞうしき)たちは余りの事に、魂も消えるかと思ったのでございましょう。驚破(すわ)と云う間もなく、算(さん)を乱して、元来た方へ一散に逃げ出してしまいました。が、盗人たちはそれには目もくれる気色(けしき)もなく、矢庭(やにわ)に一人が牛の□(はづな)を取って、往来のまん中へぴたりと車を止めるが早いか、四方から白刃(しらは)の垣を造って、犇々(ひしひし)とそのまわりを取り囲みますと、先ず頭立(かしらだ)ったのが横柄に簾(すだれ)を払って、「どうじゃ。この殿に違いはあるまいな。」と、仲間の方を振り向きながら、念を押したそうでございます。その容子(ようす)がどうも物盗りとも存ぜられませんので、御驚きの中にも若殿様は不審に思召されたのでございましょう。それまでじっとしていらっしったのが、扇を斜(ななめ)に相手の方を、透かすようにして御窺いなさいますと、その時その盗人の中に嗄(しわが)れた声がして、
「おう、しかとこの殿じゃ。」と、憎々(にくにく)しげに答えました。するとその声が、また何となくどこかで一度、御耳になすったようでございましたから、愈(いよいよ)怪しく思召して、明るい月の光に、その声の主(ぬし)を、きっと御覧になりますと、面(おもて)こそ包んで居りますが、あの中御門の御姫様に年久しく御仕え申している、平太夫(へいだゆう)に相違はございません。この一刹那はさすがの若殿様も、思わず総身(そうみ)の毛がよだつような、恐ろしい思いをなすったと申す事でございました。なぜと申しますと、あの平太夫が堀川の御一家(ごいっけ)を仇(かたき)のように憎んでいる事は、若殿様の御耳にも、とうからはいっていたからでございます。
 いや、現にその時も、平太夫がそう答えますと、さっきの盗人は一層声を荒(あらら)げて、太刀の切先(きっさき)を若殿様の御胸に向けながら、
「さらば御命(おんいのち)を申受けようず。」と罵ったと申すではございませんか。

        十四

 しかしあの飽くまでも、物に御騒ぎにならない若殿様は、すぐに勇気を御取り直しになって、悠々と扇を御弄(おもてあそ)びなさりながら、
「待て。待て。予の命が欲しくば、次第によって呉れてやらぬものでもない。が、その方どもは、何でそのようなものを欲しがるのじゃ。」と、まるで人事のように御尋ねになりました。すると頭立(かしらだ)った盗人は、白刃(しらは)を益(ますます)御胸へ近づけて、
「中御門(なかみかど)の少納言殿は、誰故の御最期(ごさいご)じゃ。」
「予は誰やら知らぬ。が、予でない事だけは、しかとした証(あかし)もある。」
「殿か、殿の父君か。いずれにしても、殿は仇(かたき)の一味じゃ。」
 頭立った一人がこう申しますと、残りの盗人どもも覆面の下で、
「そうじゃ。仇の一味じゃ。」と、声々に罵り交しました。中にもあの平太夫(へいだゆう)は歯噛みをして、車の中を獣のように覗きこみながら、太刀(たち)で若殿様の御顔を指さしますと、
「さかしらは御無用じゃよ。それよりは十念(じゅうねん)なと御称え申されい。」と、嘲笑(あざわら)うような声で申したそうでございます。
 が、若殿様は相不変(あいかわらず)落ち着き払って、御胸の先の白刃も見えないように、
「してその方たちは、皆少納言殿の御内(みうち)のものか。」と、抛(ほう)り出すように御尋ねなさいました。すると盗人たちは皆どうしたのか、一しきり答にためらったようでございましたが、その気色(けしき)を見てとった平太夫は、透かさず声を励まして、
「そうじゃ。それがまた何と致した。」
「いや、何とも致さぬが、もしこの中に少納言殿の御内(みうち)でないものがいたと思え。そのものこそは天(あめ)が下(した)の阿呆(あほう)ものじゃ。」
 若殿様はこう仰有(おっしゃ)って、美しい歯を御見せになりながら、肩を揺(ゆす)って御笑いになりました。これには命知らずの盗人たちも、しばらくは胆(きも)を奪われたのでございましょう。御胸に迫っていた太刀先さえ、この時はもう自然と、車の外の月明りへ引かれていたと申しますから。
「なぜと申せ。」と、若殿様は言葉を御継ぎになって、「予を殺害(せつがい)した暁には、その方どもはことごとく検非違使(けびいし)の目にかかり次第、極刑(ごっけい)に行わるべき奴ばらじゃ。元よりそれも少納言殿の御内のものなら、己(おの)が忠義に捨つる命じゃによって、定めて本望に相違はあるまい。が、さもないものがこの中にあって、わずかばかりの金銀が欲しさに、予が身を白刃に向けるとすれば、そやつは二つとない大事な命を、その褒美(ほうび)と換えようず阿呆ものじゃ。何とそう云う道理ではあるまいか。」
 これを聞いた盗人たちは、今更のように顔を見合せたけはいでございましたが、平太夫(へいだゆう)だけは独り、気違いのように吼(たけ)り立って、
「ええ、何が阿呆ものじゃ。その阿呆ものの太刀にかかって、最期(さいご)を遂げる殿の方が、百層倍も阿呆ものじゃとは覚されぬか。」
「何、その方どもが阿呆ものだとな。ではこの中(うち)に少納言殿の御内でないものもいるのであろう。これは一段と面白うなって参った。さらばその御内でないものどもに、ちと申し聞かす事がある。その方どもが予を殺害しようとするのは、全く金銀が欲しさにする仕事であろうな。さて金銀が欲しいとあれば、予はその方どもに何なりと望み次第の褒美を取らすであろう。が、その代り予の方にもまた頼みがある。何と、同じ金銀のためにする事なら、褒美の多い予の方に味方して、利得を計ったがよいではないか。」
 若殿様は鷹揚(おうよう)に御微笑なさりながら、指貫(さしぬき)の膝を扇で御叩きになって、こう車の外の盗人どもと御談じになりました。

        十五

「次第によっては、御意(ぎょい)通り仕(つかまつ)らぬものでもございませぬ。」
 恐ろしいくらいひっそりと静まり返っていた盗人たちの中から、頭(かしら)だったのが半(なかば)恐る恐るこう御答え申し上げますと、若殿様は御満足そうに、はたはたと扇を御鳴らしになりながら、例の気軽な御調子で、
「それは重畳(ちょうじょう)じゃ。何、予が頼みと申しても、格別むずかしい儀ではない。それ、そこに居(お)る老爺(おやじ)は、少納言殿の御内人(みうちびと)で、平太夫(へいだゆう)と申すものであろう。巷(ちまた)の風聞(ふうぶん)にも聞き及んだが、そやつは日頃予に恨みを含んで、あわよくば予が命を奪おうなどと、大それた企てさえ致して居(お)ると申す事じゃ。さればその方どもがこの度の結構も、平太夫めに唆(そそのか)されて、事を挙げたのに相違あるまい。――」
「さようでございます。」
 これは盗人たちが三四人、一度に覆面の下から申し上げました。
「そこで予が頼みと申すのは、その張本(ちょうぼん)の老爺(おやじ)を搦(から)めとって、長く禍の根を断ちたいのじゃが、何とその方どもの力で、平太夫めに縄をかけてはくれまいか。」
 この御仰(おんおお)せには、盗人たちも、余りの事にしばらくの間は、呆れ果てたのでございましょう。車をめぐっていた覆面の頭(かしら)が、互に眼を見合わしながら、一しきりざわざわと動くようなけはいがございましたが、やがてそれがまた静かになりますと、突然盗人たちの唯中から、まるで夜鳥(よどり)の鳴くような、嗄(しわが)れた声が起りました。
「やい、ここなうっそりどもめ。まだ乳臭いこの殿の口車に乗せられ居って、抜いた白刃を持て扱うばかりか、おめおめ御意に従いましょうなどとは、どの面下げて申せた義理じゃ。よしよし、ならば己(おの)れらが手は借りぬわ。高がこの殿の命一つ、平太夫が太刀ばかりで、見事申し受けようも、瞬く暇じゃ。」
 こう申すや否や平太夫は、太刀をまっこうにふりかざしながら、やにわに若殿様へ飛びかかろうと致しました。が、その飛びかかろうと致したのと、頭だった盗人が、素早く白刃を投げ出して、横あいからむずと組みついたのとが、ほとんど同時でございます。するとほかの盗人たちも、てんでに太刀を鞘におさめて、まるで蝗(いなむし)か何かのように、四方から平太夫へ躍りかかりました。何しろ多勢(たぜい)に無勢(ぶぜい)と云い、こちらは年よりの事でございますから、こうなっては勝負を争うまでもございません。たちまちの内にあの老爺(おやじ)は、牛の□(はづな)でございましょう、有り合せた縄にかけられて、月明りの往来へ引き据えられてしまいました。その時の平太夫の姿と申しましたら、とんと穽(わな)にでもかかった狐のように、牙ばかりむき出して、まだ未練らしく喘(あえ)ぎながら、身悶えしていたそうでございます。
 するとこれを御覧になった若殿様は、欠伸(あくび)まじりに御笑いになって、
「おお、大儀。大儀。それで予の腹も一先(ひとまず)癒えたと申すものじゃ。が、とてもの事に、その方どもは、予が車を警護旁(かたがた)、そこな老耄(おいぼれ)を引き立て、堀川の屋形(やかた)まで参ってくれい。」
 こう仰有(おっしゃ)られて見ますと盗人たちも、今更いやとは申されません。そこで一同うち揃って、雑色(ぞうしき)がわりに牛を追いながら、縄つきを中にとりまいて、月夜にぞろぞろと歩きはじめました。天(あめ)が下(した)は広うございますが、かように盗人どもを御供に御つれ遊ばしたのは、まず若殿様のほかにはございますまい。もっともこの異様な行列も、御屋形まで参りつかない内に、急を聞いて駆けつけた私どもと出会いましたから、その場で面々御褒美を頂いた上、こそこそ退散致してしまいました。

        十六

 さて若殿様は平太夫(へいだゆう)を御屋形へつれて御帰りになりますと、そのまま、御厩(おうまや)の柱にくくりつけて、雑色(ぞうしき)たちに見張りを御云いつけなさいましたが、翌朝は□々(そうそう)あの老爺(おやじ)を、朝曇りの御庭先へ御召しになって、
「こりゃ平太夫、その方が少納言殿の御恨(おうらみ)を晴そうと致す心がけは、成程愚(おろか)には相違ないが、さればとてまた、神妙とも申されぬ事はない。殊にあの月夜に、覆面の者どもを駆り催して、予を殺害(せつがい)致そうと云う趣向のほどは、中々その方づれとも思われぬ風流さじゃ。が、美福門のほとりは、ちと場所がようなかったぞ。ならば糺(ただす)の森あたりの、老木(おいき)の下闇に致したかった。あすこは夏の月夜には、せせらぎの音が間近く聞えて、卯(う)の花の白く仄(ほのめ)くのも一段と風情(ふぜい)を添える所じゃ。もっともこれはその方づれに、望む予の方が、無理かも知れぬ。ついてはその殊勝なり、風流なのが目出たいによって、今度ばかりはその方の罪も赦(ゆる)してつかわす事にしよう。」
 こう仰有(おっしゃ)って若殿様は、いつものように晴々と御笑いになりながら、
「その代りその方も、折角これまで参ったものじゃ。序(ついで)ながら予の文を、姫君のもとまで差上げてくれい。よいか。しかと申しつけたぞ。」
 私はそのときの平太夫の顔くらい、世にも不思議なものを見た事はございません。あの意地の悪そうな、苦(にが)りきった面色(めんしょく)が、泣くとも笑うともつかない気色(けしき)を浮かべて、眼ばかりぎょろぎょろ忙(せわ)しそうに、働かせて居(お)るのでございます。するとその容子(ようす)が、笑止(しょうし)ながら気の毒に思召されたのでございましょう。若殿様は御笑顔(おえがお)を御やめになると、縄尻を控えていた雑色(ぞうしき)に、
「これ、これ、永居は平太夫の迷惑じゃ。すぐさま縄目を許してつかわすがよい。」と、難有(ありがた)い御諚(ごじょう)がございました。
 それから間もなくの事でございます。一夜の内に腰さえ弓のように曲った平太夫は、若殿様の御文をつけた花橘(はなたちばな)の枝を肩にして、這々(ほうほう)裏の御門から逃げ出して参りました。所がその後からまた一人、そっと御門を出ましたのは、私の甥(おい)の侍で、これは万一平太夫が御文に無礼でも働いてはならないと、若殿様にも申し上げず、見え隠れにあの老爺(おやじ)の跡をつけたのでございます。
 二人の間はおよその所、半町ばかりもございましたろうか。平太夫は気も心も緩みはてたかと思うばかり、跣足(はだし)を力なくひきずりながら、まだ雲切れのしない空に柿若葉の□(におい)のする、築土(ついじ)つづきの都大路(みやこおおじ)を、とぼとぼと歩いて参ります。
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