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著者名:芥川竜之介 

        一

 部屋(へや)の隅に据えた姿見(すがたみ)には、西洋風に壁を塗った、しかも日本風の畳がある、――上海(シャンハイ)特有の旅館の二階が、一部分はっきり映(うつ)っている。まずつきあたりに空色の壁、それから真新しい何畳(なんじょう)かの畳(たたみ)、最後にこちらへ後(うしろ)を見せた、西洋髪(せいようがみ)の女が一人、――それが皆冷やかな光の中に、切ないほどはっきり映っている。女はそこにさっきから、縫物(ぬいもの)か何かしているらしい。
 もっとも後は向いたと云う条、地味(じみ)な銘仙(めいせん)の羽織の肩には、崩(くず)れかかった前髪(まえがみ)のはずれに、蒼白い横顔が少し見える。勿論肉の薄い耳に、ほんのり光が透(す)いたのも見える。やや長めな揉(も)み上(あ)げの毛が、かすかに耳の根をぼかしたのも見える。
 この姿見のある部屋には、隣室の赤児の啼(な)き声のほかに、何一つ沈黙を破るものはない。未(いまだ)に降り止まない雨の音さえ、ここでは一層その沈黙に、単調な気もちを添えるだけである。
「あなた。」
 そう云う何分(なんぷん)かが過ぎ去った後(のち)、女は仕事を続けながら、突然、しかし覚束(おぼつか)なさそうに、こう誰かへ声をかけた。
 誰か、――部屋の中には女のほかにも、丹前(たんぜん)を羽織(はお)った男が一人、ずっと離れた畳の上に、英字新聞をひろげたまま、長々(ながなが)と腹這(はらば)いになっている。が、その声が聞えないのか、男は手近の灰皿へ、巻煙草(まきたばこ)の灰を落したきり、新聞から眼さえ挙げようとしない。
「あなた。」
 女はもう一度声をかけた。その癖女自身の眼もじっと針の上に止まっている。「何だい。」
 男は幾分うるさそうに、丸々(まるまる)と肥った、口髭(くちひげ)の短い、活動家らしい頭を擡(もた)げた。
「この部屋ね、――この部屋は変えちゃいけなくって?」
「部屋を変える? だってここへはやっと昨夜(ゆうべ)、引っ越して来たばかりじゃないか?」
 男の顔はけげんそうだった。
「引っ越して来たばかりでも。――前の部屋ならば明(あ)いているでしょう?」
 男はかれこれ二週間ばかり、彼等が窮屈な思いをして来た、日当りの悪い三階の部屋が一瞬間眼の前に見えるような気がした。――塗りの剥(は)げた窓側(まどがわ)の壁には、色の変った畳の上に更紗(さらさ)の窓掛けが垂れ下っている。その窓にはいつ水をやったか、花の乏しい天竺葵(ジェラニアム)が、薄い埃(ほこり)をかぶっている。おまけに窓の外を見ると、始終ごみごみした横町(よこちょう)に、麦藁帽(むぎわらぼう)をかぶった支那(シナ)の車夫が、所在なさそうにうろついている。………
「だがお前はあの部屋にいるのは、嫌(いや)だ嫌だと云っていたじゃないか?」
「ええ。それでもここへ来て見たら、急にまたこの部屋が嫌(いや)になったんですもの。」
 女は針の手をやめると、もの憂(う)そうに顔を挙げて見せた。眉(まゆ)の迫った、眼の切れの長い、感じの鋭そうな顔だちである。が、眼のまわりの暈(かさ)を見ても、何か苦労を堪(こら)えている事は、多少想像が出来ないでもない。そう云えば病的な気がするくらい、米噛(こめか)みにも静脈(じょうみゃく)が浮き出している。
「ね、好(い)いでしょう。……いけなくて?」
「しかし前の部屋よりは、広くもあるし居心(いごころ)も好(い)いし、不足を云う理由はないんだから、――それとも何か嫌(いや)な事があるのかい?」
「何って事はないんですけれど。……」
 女はちょいとためらったものの、それ以上立ち入っては答えなかった。が、もう一度念を押すように、同じ言葉を繰り返した。
「いけなくって、どうしても?」
 今度は男が新聞の上へ煙草(たばこ)の煙を吹きかけたぎり、好(い)いとも悪いとも答えなかった。
 部屋の中はまたひっそりになった。ただ外では不相変(あいかわらず)、休みのない雨の音がしている。
「春雨(はるさめ)やか、――」
 男はしばらくたった後(のち)、ごろりと仰向(あおむ)きに寝転(ねころ)ぶと、独り言のようにこう云った。
「蕪湖(ウウフウ)住みをするようになったら、発句(ほっく)でも一つ始めるかな。」
 女は何とも返事をせずに、縫物の手を動かしている。
「蕪湖(ウウフウ)もそんなに悪い所じゃないぜ。第一社宅は大きいし、庭も相当に広いしするから、草花なぞ作るには持って来いだ。何でも元は雍家花園(ようかかえん)とか云ってね、――」 
 男は突然口を噤(つぐ)んだ。いつか森(しん)とした部屋の中には、かすかに人の泣くけはいがしている。
「おい。」
 泣き声は急に聞えなくなった。と思うとすぐにまた、途切(とぎ)れ途切れに続き出した。
「おい。敏子(としこ)。」
 半ば体を起した男は、畳に片肘(かたひじ)靠(もた)せたまま、当惑(とうわく)らしい眼つきを見せた。
「お前は己(おれ)と約束したじゃないか? もう愚痴(ぐち)はこぼすまい。もう涙は見せない事にしよう。もう、――」
 男はちょいと瞼(まぶた)を挙げた。
「それとも何かあの事以外に、悲しい事でもあるのかい? たとえば日本へ帰りたいとか、支那でも田舎(いなか)へは行きたくないとか、――」
「いいえ。――いいえ。そんな事じゃなくってよ。」
 敏子は涙を落し落し、意外なほど烈(はげ)しい打消し方をした。
「私はあなたのいらっしゃる所なら、どこへでも行く気でいるんです。ですけれども、――」
 敏子は伏眼(ふしめ)になったなり、溢(あふ)れて来る涙を抑(おさ)えようとするのか、じっと薄い下唇(したくちびる)を噛んだ。見れば蒼白い頬(ほお)の底にも、眼に見えない炎(ほのお)のような、切迫した何物かが燃え立っている。震(ふる)える肩、濡れた睫毛(まつげ)、――男はそれらを見守りながら、現在の気もちとは没交渉に、一瞬間妻の美しさを感じた。
「ですけれども、――この部屋は嫌(いや)なんですもの。」
「だからさ、だからさっきもそう云ったじゃないか? 何故(なぜ)この部屋がそんなに嫌だか、それさえはっきり云ってくれれば、――」
 男はここまで云いかけると、敏子の眼がじっと彼の顔へ、注(そそ)がれているのに気がついた。その眼には涙の漂(ただよ)った底に、ほとんど敵意にも紛(まが)い兼ねない、悲しそうな光が閃(ひらめ)いている。何故この部屋が嫌になったか? ――それは独り男自身の疑問だったばかりではない。同時にまた敏子が無言(むごん)の内に、男へ突きつけた反問である。男は敏子と眼を合せながら、二の句を次ぐのに躊躇(ちゅうちょ)した。
 しかし言葉が途切(とぎ)れたのは、ほんの数秒の間(あいだ)である。男の顔には見る見る内に、了解の色が漲(みなぎ)って来た。
「あれか?」
 男は感動を蔽(おお)うように、妙に素(そ)っ気(け)のない声を出した。
「あれは己も気になっていたんだ。」
 敏子は男にこう云われると、ぽろぽろ膝の上へ涙を落した。
 窓の外にはいつのまにか、日の暮が雨を煙らせている。その雨の音を撥(は)ねのけるように、空色の壁の向うでは、今もまた赤児(あかご)が泣き続けている。………

        二

 二階の出窓(でまど)には鮮(あざや)かに朝日の光が当っている。その向うには三階建の赤煉瓦(あかれんが)にかすかな苔(こけ)の生えた、逆光線の家が聳えている。薄暗いこちらの廊下(ろうか)にいると、出窓はこの家を背景にした、大きい一枚の画(え)のように見える。巌乗(がんじょう)な槲(かし)の窓枠(まどわく)が、ちょうど額縁(がくぶち)を嵌(は)めたように見える。その画のまん中には一人の女が、こちらへ横顔を向けながら、小さな靴足袋(くつたび)を編んでいる。
 女は敏子(としこ)よりも若いらしい。雨に洗われた朝日の光は、その肉附きの豊かな肩へ、――派手(はで)な大島の羽織の肩へ、はっきり大幅に流れている。それがやや俯向(うつむ)きになった、血色の好(い)い頬に反射している。心もち厚い唇の上の、かすかな生(う)ぶ毛(げ)にも反射している。
 午前十時と十一時との間、――旅館では今が一日中でも、一番静かな時刻である。商売に来たのも、見物に来たのも、泊(とま)り客は大抵(たいてい)外出してしまう。下宿している勤(つと)め人(にん)たちも勿論午後までは帰って来ない。その跡にはただ長い廊下に、時々上草履(うわぞうり)を響かせる、女中の足音だけが残っている。
 この時もそれが遠くから、だんだんこちらへ近づいて来ると、出窓に面した廊下には、四十格好(がっこう)の女中が一人、紅茶の道具を運びながら、影画(かげえ)のように通りかかった。女中は何とも云われなかったら、女のいる事も気がつかずに、そのまま通りすぎてしまったかも知れない。が、女は女中の姿を見ると、心安そうに声をかけた。
「お清(きよ)さん。」
 女中はちょいと会釈(えしゃく)してから、出窓の方へ歩み寄った。
「まあ、御精(ごせい)が出ますこと。――坊ちゃんはどうなさいました?」
「うちの若様? 若様は今お休み中。」
 女は編針(あみばり)を休めたまま、子供のように微笑した。
「時にね、お清さん。」
「何でございます? 真面目(まじめ)そうに。」
 女中も出窓の日の光に、前掛(まえかけ)だけくっきり照らさせながら、浅黒い眼もとに微笑を見せた。
「御隣の野村(のむら)さん、――野村さんでしょう、あの奥さんは?」
「ええ、野村敏子さん。」
「敏子さん? じゃ私(わたし)と同じ名だわね。あの方はもう御立ちになったの?」
「いいえ、まだ五六日は御滞在(ごたいざい)でございましょう。それから何でも蕪湖(ウウフウ)とかへ、――」
「だってさっき前を通ったら、御隣にはどなたもいらっしゃらなかったわよ。」「ええ、昨晩(さくばん)急にまた、三階へ御部屋が変りましたから、――」
「そう。」
 女は何か考えるように、丸々(まるまる)した顔を傾けて見せた。
「あの方でしょう? ここへ御出でになると、その日に御子さんをなくなしたのは?」
「ええ。御気の毒でございますわね。すぐに病院へも御入れになったんですけれど。」
「じゃ病院で御なくなりなすったの? 道理で何にも知らなかった。」
 女は前髪(まえがみ)を割った額(ひたい)に、かすかな憂鬱の色を浮べた。が、すぐにまた元の通り、快活な微笑を取り戻すと、悪戯(いたずら)そうな眼つきになった。
「もうそれで御用ずみ。どうかあちらへいらしって下さい。」
「まあ、随分でございますね。」
 女中は思わず笑い出した。
「そんな邪慳(じゃけん)な事をおっしゃると、蔦(つた)の家(や)から電話がかかって来ても、内証(ないしょ)で旦那様へ取次ぎますよ。」
「好(い)いわよ。早くいらっしゃいってば。紅茶がさめてしまうじゃないの?」
 女中が出窓にいなくなると、女はまた編物を取り上げながら、小声に歌をうたい出した。
 午前十時と十一時との間、――旅館では今が一日中でも、一番静かな時刻である。部屋毎(ごと)の花瓶に素枯(すが)れた花は、この間(あいだ)に女中が取り捨ててしまう。二階三階の真鍮(しんちゅう)の手すりも、この間に下男(ボオイ)が磨くらしい。そう云う沈黙が拡(ひろ)がった中に、ただ往来のざわめきだけが、硝子(ガラス)戸を開(あ)け放した諸方の窓から、日の光と一しょにはいって来る。
 その内にふと女の膝(ひざ)から、毛糸の球(たま)が転げ落ちた。球はとんと弾(はず)むが早いか、一筋の赤を引きずりながら、ころころ廊下(ろうか)へ出ようとする、――と思うと誰か一人、ちょうどそこへ来かかったのが、静かにそれを拾い上げた。
「どうも有難(ありがと)うございました。」
 女は籐椅子(とういす)を離れながら、恥しそうに会釈(えしゃく)をした。見れば球を拾ったのは、今し方女中と噂をした、痩(や)せぎすな隣室の夫人である。
「いいえ。」
 毛糸の球は細い指から、脂(あぶら)よりも白い括(くく)り指へ移った。
「ここは暖かでございますね。」
 敏子は出窓へ歩み出ると、眩(まぶ)しそうにやや眼を細めた。
「ええ、こうやって居りましても、居睡(いねむ)りが出るくらいでございますわ。」
 二人の母は佇(たたず)んだまま、幸福そうに微笑し合った。
「まあ、御可愛いたあたですこと。」
 敏子の声はさりげなかった。が、女はその言葉に、思わずそっと眼を外(そ)らせた。
「二年ぶりに編針を持って見ましたの。――あんまり暇なもんですから。」
「私なぞはいくら暇でも、怠(なま)けてばかり居りますわ。」
 女は籐椅子(とういす)へ編物を捨てると、仕方がなさそうに微笑した。敏子の言葉は無心の内に、もう一度女を打ったのである。
「お宅の坊ちゃんは、――坊ちゃんでございましたわね? いつ御生れになりましたの?」
 敏子は髪へ手をやりながら、ちらりと女の顔を眺めた。昨日(きのう)は泣き声を聞いているのも堪えられない気がした隣室の赤児、――それが今では何物よりも、敏子の興味を動かすのである。しかもその興味を満足させれば、反(かえ)って苦しみを新たにするのも、はっきりわかってはいるのである。これは小さな動物が、コブラの前では動けないように、敏子の心もいつのまにか、苦しみそのものの催眠作用に捉(とら)われてしまった結果であろうか? それともまた手傷(てきず)を負った兵士が、わざわざ傷口を開いてまでも、一時の快(かい)を貪(むさぼ)るように、いやが上にも苦しまねばやまない、病的な心理の一例であろうか?
「この御正月でございました。」
 女はこう答えてから、ちょいとためらう気色(けしき)を見せた。しかしすぐ眼を挙げると、気の毒そうにつけ加えた。
「御宅ではとんだ事でございましたってねえ。」
 敏子は沾(うる)んだ眼の中に、無理な微笑を漂わせた。
「ええ、肺炎(はいえん)になりましたものですから、――ほんとうに夢のようでございました。」
「それも御出(おいで)て□々(そうそう)にねえ。何と申し上げて好(よ)いかわかりませんわ。」
 女の眼にはいつのまにか、かすかに涙が光っている。
「私なぞはそんな目にあったら、まあ、どうするでございましょう?」
「一時は随分(ずいぶん)悲しゅうございましたけれども、――もうあきらめてしまいましたわ。」
 二人の母は佇(たたず)んだまま、寂しそうな朝日の光を眺めた。
「こちらは悪い風(かぜ)が流行(はや)りますの。」
 女は考え深そうに、途切(とぎ)れていた話を続け出した。
「内地はよろしゅうございますわね。気候もこちらほど不順ではなし、――」
「参りたてでよくはわかりませんけれども、大へん雨の多い所でございますね。」
「今年は余計――あら、泣いて居りますわ。」
 女は耳を傾けたまま、別人のような微笑を浮べた。
「ちょいと御免下さいまし。」
 しかしその言葉が終らない内に、もうそこへはさっきの女中が、ばたばた上草履(うわぞうり)を鳴らせながら、泣き立てる赤児(あかご)を抱(だ)きそやして来た。赤児を、――美しいメリンスの着物の中に、しかめた顔ばかり出した赤児を、――敏子が内心見まいとしていた、丈夫そうに頤(あご)の括(くく)れた赤児を!
「私が窓を拭(ふ)きに参りますとね、すぐにもう眼を御覚ましなすって。」
「どうも憚(はばか)り様。」
 女はまだ慣(な)れなそうに、そっと赤児を胸に取った。
「まあ、御可愛い。」
 敏子は顔を寄せながら、鋭い乳の臭いを感じた。
「おお、おお、よく肥(ふと)っていらっしゃる。」
 やや上気(じょうき)した女の顔には、絶え間ない微笑が満ち渡った。女は敏子の心もちに、同情が出来ない訳ではない。しかし、――しかしその乳房(ちぶさ)の下から、――張り切った母の乳房の下から、汪然(おうぜん)と湧いて来る得意の情は、どうする事も出来なかったのである。

        三

 雍家花園(ようかかえん)の槐(えんじゅ)や柳は、午(ひる)過ぎの微風に戦(そよ)ぎながら、庭や草や土の上へ、日の光と影とをふり撒(ま)いている。いや、草や土ばかりではない。その槐(えんじゅ)に張り渡した、この庭には似合(にあ)わない、水色のハムモックにもふり撒(ま)いている。ハムモックの中に仰向(あおむ)けになった、夏のズボンに胴衣(チョッキ)しかつけない、小肥(こぶと)りの男にもふり撒いている。
 男は葉巻に火をつけたまま、槐(えんじゅ)の枝に吊(つ)り下げた、支那風の鳥籠を眺めている。鳥は文鳥(ぶんちょう)か何からしい。これも明暗の斑点(はんてん)の中に、止(とま)り木(ぎ)をあちこち伝わっては、時々さも不思議そうに籠の下の男を眺めている。男はその度にほほ笑(え)みながら、葉巻を口へ運ぶ事もある。あるいはまた人と話すように、「こら」とか「どうした?」とか云う事もある。
 あたりは庭木の戦(そよ)ぎの中に、かすかな草の香(か)を蒸(む)らせている。一度ずっと遠い空に汽船の笛(ふえ)の響いたぎり、今はもう人音(ひとおと)も何もしない。あの汽船はとうに去ったであろう。赤濁(あかにご)りに濁った長江(ちょうこう)の水に、眩(まばゆ)い水脈(みお)を引いたなり、西か東かへ去ったであろう。その水の見える波止場(はとば)には、裸も同様な乞食(こじき)が一人、西瓜(すいか)の皮を噛(か)じっている。そこにはまた仔豚(こぶた)の群(むれ)も、長々(ながなが)と横たわった親豚の腹に、乳房(ちぶさ)を争っているかも知れない、――小鳥を見るのにも飽(あ)きた男は、そんな空想に浸(ひた)ったなり、いつかうとうと眠りそうになった。
「あなた。」
 男は大きい眼を明いた。ハムモックの側に立っているのは、上海(シャンハイ)の旅館にいた時より、やや血色の好(い)い敏子(としこ)である。髪にも、夏帯にも、中形(ちゅうがた)の湯帷子(ゆかた)にも、やはり明暗の斑点を浴びた、白粉(おしろい)をつけない敏子である。男は妻の顔を見たまま、無遠慮に大きい欠伸(あくび)をした。それからさも大儀(たいぎ)そうに、ハムモックの上へ体を起した。
「郵便よ、あなた。」
 敏子は眼だけ笑いながら、何本か手紙を男へ渡した。と同時に湯帷子(ゆかた)の胸から、桃色の封筒(ふうとう)にはいっている、小さい手紙を抜いて見せた。
「今日は私にも来ているのよ。」
 男はハムモックに腰かけたなり、もう短い葉巻を噛み噛み、無造作(むぞうさ)に手紙を読み始めた。敏子もそこへ佇(たたず)んだまま、封筒と同じ桃色の紙へ、じっと眼を落している。
 雍家花園(ようかかえん)の槐(えんじゅ)や柳は、午過ぎの微風に戦(そよ)ぎながら、この平和な二人の上へ、日の光と影とをふり撒いている。文鳥(ぶんちょう)はほとんど囀(さえず)らない。何か唸(うな)る虫が一匹、男の肩へ舞い下りたが、直(すぐ)にそれも飛び去ってしまった。………
 こう云うしばらくの沈黙の後(のち)、敏子は伏せた眼も挙げずに、突然かすかな叫び声を出した。
「あら、お隣の赤さんも死んだんですって。」
「お隣?」
 男はちょいと聞き耳を立てた。
「お隣とはどこだい?」
「お隣よ。ほら、あの上海(シャンハイ)の××館の、――」
「ああ、あの子供か? そりゃ気の毒だな。」
「あんなに丈夫そうな赤さんがねえ。……」
「何だい、病気は?」
「やっぱり風邪(かぜ)ですって。始めは寝冷えぐらいの事と思い居り候ところ、――ですって。」
 敏子はやや興奮したように、口早に手紙を読み続けた。
「病院に入れ候時には、もはや手遅れと相成り、――ね、よく似ているでしょう? 注射を致すやら、酸素吸入(さんそきゅうにゅう)を致すやら、いろいろ手を尽し候えども、――それから何と読むのかしら? 泣き声だわ。泣き声も次第に細るばかり、その夜の十一時五分ほど前には、ついに息を引き取り候。その時の私の悲しさ、重々(じゅうじゅう)御察し下され度(たく)、……」
「気の毒だな。」
 男はもう一度ハムモックに、ゆらりと仰向(あおむ)けになりながら、同じ言葉を繰返した。男の頭のどこかには、未(いまだ)に瀕死(ひんし)の赤児が一人、小さい喘(あえ)ぎを続けている。と思うとその喘ぎは、いつかまた泣き声に変ってしまう。雨の音の間(あいだ)を縫った、健康な赤児の泣き声に。――男はそう云う幻(まぼろし)の中にも、妻の読む手紙に聴き入っていた。
「重々御察し下され度、それにつけてもいつぞや御許様(おんもとさま)に御眼(おんめ)にかかりし事など思い出(いだ)され、あの頃はさぞかし御許様にも、――ああ、いや、いや。ほんとうに世の中はいやになってしまう。」
 敏子は憂鬱な眼を挙げると、神経的に濃い眉(まゆ)をひそめた。が、一瞬の無言の後(のち)、鳥籠(とりかご)の文鳥を見るが早いか、嬉しそうに華奢(きゃしゃ)な両手を拍った。
「ああ、好(い)い事を思いついた! あの文鳥を放してやれば好いわ。」
「放してやる? あのお前の大事の鳥をか?」
「ええ、ええ、大事の鳥でもかまわなくってよ。お隣の赤さんのお追善(ついぜん)ですもの。ほら、放鳥(ほうちょう)って云うでしょう。あの放鳥をして上げるんだわ。文鳥だってきっと喜んでよ。――私には手がとどかないかしら? とどかなかったら、あなた取って頂戴(ちょうだい)。」
 槐(えんじゅ)の根もとに走り寄った敏子は、空気草履(くうきぞうり)を爪立(つまだ)てながら、出来るだけ腕を伸ばして見た。しかし籠を吊した枝には、容易に指さえとどこうとしない。文鳥は気でも違ったように、小さい翼(つばさ)をばたばたやる。その拍子(ひょうし)にまた餌壺(えつぼ)の黍(きび)も、鳥籠の外に散乱する。が、男は面白そうに、ただ敏子を眺めていた。反(そ)らせた喉(のど)、膨(ふくら)んだ胸、爪先(つまさき)に重みを支えた足、――そう云う妻の姿を眺めていた。
「取れないかしら?――取れないわ。」
 敏子は足を爪立(つまだ)てたまま、くるりと夫の方へ向いた。
「取って頂戴よ。よう。」
「取れるものか? 踏み台でもすれば格別だが、――何もまた放すにしても、今直(すぐ)には限らないじゃないか?」
「だって今直に放したいんですもの、よう。取って頂戴よう。取って下さらなければいじめるわよ。よくって? ハムモックを解いてしまうわよ。――」
 敏子は男を睨(にら)むようにした。が、眼にも唇にも、漲(みなぎ)っているものは微笑である。しかもほとんど平静を失した、烈しい幸福の微笑である。男はこの時妻の微笑に、何か酷薄(こくはく)なものさえ感じた。日の光に煙った草木(くさき)の奥に、いつも人間を見守っている、気味の悪い力に似たものさえ。
「莫迦(ばか)な事をするなよ。――」
 男は葉巻を投げ捨てながら、冗談(じょうだん)のように妻を叱った。
「第一あの何とか云った、お隣の奥さんにもすまないじゃないか? あっちじゃ子供が死んだと云うのに、こっちじゃ笑ったり騒いだり、……」
 すると敏子はどうしたのか、突然蒼白い顔になった。その上拗(す)ねた子供のように、睫毛(まつげ)の長い眼を伏せると、別に何と云う事もなしに、桃色の手紙を破り出した。男はちょいと苦(にが)い顔をした。が、気まずさを押しのけるためか、急にまた快活に話し続けた。
「だがまあ、こうしていられるのは、とにかく仕合せには違いないね。上海(シャンハイ)にいた時には弱ったからな。病院にいれば気ばかりあせるし、いなければまた心配するし、――」
 男はふと口を噤(つぐ)んだ。敏子は足もとに眼をやったなり、影になった頬(ほお)の上に、いつか涙を光らせている。しかし男は当惑そうに、短い口髭(くちひげ)を引張ったきり、何ともその事は云わなかった。
「あなた。」
 息苦しい沈黙の続いた後(のち)、こう云う声が聞えた時も、敏子はまだ夫の前に、色の悪い顔を背(そむ)けていた。
「何だい?」
「私は、――私は悪いんでしょうか! あの赤さんのなくなったのが、――」
 敏子は急に夫の顔へ、妙に熱のある眼を注いだ。
「なくなったのが嬉しいんです。御気の毒だとは思うんですけれども、――それでも私は嬉しいんです。嬉しくっては悪いんでしょうか? 悪いんでしょうか? あなた。」
 敏子の声には今までにない、荒々(あらあら)しい力がこもっている。男はワイシャツの肩や胴衣(チョッキ)に今は一ぱいにさし始めた、眩(まばゆ)い日の光を鍍金(めっき)しながら、何ともその問に答えなかった。何か人力に及ばないものが、厳然と前へでも塞(ふさ)がったように。
(大正十年八月)



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