偸盗
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著者名:芥川竜之介 

       一

「おばば、猪熊(いのくま)のおばば。」
 朱雀綾小路(すざくあやのこうじ)の辻(つじ)で、じみな紺の水干(すいかん)に揉烏帽子(もみえぼし)をかけた、二十(はたち)ばかりの、醜い、片目の侍が、平骨(ひらぼね)の扇を上げて、通りかかりの老婆を呼びとめた。――
 むし暑く夏霞(なつがすみ)のたなびいた空が、息をひそめたように、家々の上をおおいかぶさった、七月のある日ざかりである。男の足をとめた辻には、枝のまばらな、ひょろ長い葉柳(はやなぎ)が一本、このごろはやる疫病(えやみ)にでもかかったかと思う姿で、形(かた)ばかりの影を地の上に落としているが、ここにさえ、その日にかわいた葉を動かそうという風はない。まして、日の光に照りつけられた大路には、あまりの暑さにめげたせいか、人通りも今はひとしきりとだえて、たださっき通った牛車(ぎっしゃ)のわだちが長々とうねっているばかり、その車の輪にひかれた、小さな蛇(ながむし)も、切れ口の肉を青ませながら、始めは尾をぴくぴくやっていたが、いつか脂(あぶら)ぎった腹を上へ向けて、もう鱗(うろこ)一つ動かさないようになってしまった。どこもかしこも、炎天のほこりを浴びたこの町の辻で、わずかに一滴の湿りを点じたものがあるとすれば、それはこの蛇(ながむし)の切れ口から出た、なまぐさい腐れ水ばかりであろう。
「おばば。」
「……」
 老婆は、あわただしくふり返った。見ると、年は六十ばかりであろう。垢(あか)じみた檜皮色(ひわだいろ)の帷子(かたびら)に、黄ばんだ髪の毛をたらして、尻(しり)の切れた藁草履(わらぞうり)をひきずりながら、長い蛙股(かえるまた)の杖(つえ)をついた、目の丸い、口の大きな、どこか蟇(ひき)の顔を思わせる、卑しげな女である。
「おや、太郎さんか。」
 日の光にむせるような声で、こう言うと、老婆は、杖をひきずりながら、二足三足あとへ帰って、まず口を切る前に、上くちびるをべろりとなめて見せた。
「何か用でもおありか。」
「いや、別に用じゃない。」
 片目は、うすいあばたのある顔に、しいて作ったらしい微笑をうかべながら、どこか無理のある声で、快活にこう言った。
「ただ、沙金(しゃきん)がこのごろは、どこにいるかと思ってな。」
「用のあるは、いつも娘ばかりさね。鳶(とび)が鷹(たか)を生んだおかげには。」
 猪熊(いのくま)のばばは、いやみらしく、くちびるをそらせながら、にやついた。
「用と言うほどの用じゃないが、今夜の手はずも、まだ聞かないからな。」
「なに、手はずに変わりがあるものかね。集まるのは羅生門(らしょうもん)、刻限は亥(い)の上刻(じょうこく)――みんな昔から、きまっているとおりさ。」
 老婆は、こう言って、わるがしこそうに、じろじろ、左右をみまわしたが、人通りのないのに安心したのかまた、厚いくちびるをちょいとなめて、
「家内の様子は、たいてい娘が探って来たそうだよ。それも、侍たちの中には、手のきくやつがいるまいという事さ。詳しい話は、今夜娘がするだろうがね。」
 これを聞くと、太郎と言われた男は、日をよけた黄紙(きがみ)の扇の下で、あざけるように、口をゆがめた。
「じゃ沙金(しゃきん)はまた、たれかあすこの侍とでも、懇意になったのだな。」
「なに、やっぱり販婦(ひさぎめ)か何かになって、行ったらしいよ。」
「なんになって行ったって、あいつの事だ。当てになるものか。」
「お前さんは、相変わらずうたぐり深いね。だから、娘にきらわれるのさ。やきもちにも、ほどがあるよ。」
 老婆は、鼻の先で笑いながら、杖(つえ)を上げて、道ばたの蛇(ながむし)の死骸(しがい)を突っついた。いつのまにかたかっていた青蝿(あおばえ)が、むらむらと立ったかと思うと、また元のように止まってしまう。
「そんな事じゃ、しっかりしないと、次郎さんに取られてしまうよ。取られてもいいが、どうせそうなれば、ただじゃすまないからね。おじいさんでさえ、それじゃ時々、目の色を変えるんだから、お前さんならなおさらだろうじゃないか。」
「わかっているわな。」
 相手は、顔をしかめながら、いまいましそうに、柳の根へつばを吐いた。
「それがなかなか、わからないんだよ。今でこそお前さんだって、そうやって、すましているが、娘とおじいさんとの仲をかぎつけた時には、まるで、気がふれたようだったじゃないか。おじいさんだって、そうさ、あれで、もう少し気が強かろうものなら、すぐにお前さんと刃物三昧(はものざんまい)だわね。」
「そりゃもう一年前(まえ)の事だ。」
「何年前(まえ)でも、同じ事だよ。一度した事は、三度するって言うじゃないか。三度だけなら、まだいいほうさ。わたしなんぞは、この年まで、同じばかを、何度したか、わかりゃしないよ。」
 こう言って、老婆は、まばらな齒を出して、笑った。
「冗談じゃない。――それより、今夜の相手は、曲がりなりにも、藤判官(とうほうがん)だ、手くばりはもうついたのか。」
 太郎は、日にやけた顔に、いらだたしい色を浮かべながら、話頭を転じた。おりから、雲の峰が一つ、太陽の道に当たったのであろう。あたりが□然(ゆうぜん)と、暗くなった。その中に、ただ、蛇(ながむし)の死骸(しがい)だけが、前よりもいっそう腹の脂(あぶら)を、ぎらつかせているのが見える。
「なんの、藤判官だといって、高が青侍の四人や五人、わたしだって、昔とったきねづかさ。」
「ふん、おばばは、えらい勢いだな。そうして、こっちの人数(にんず)は?」
「いつものとおり、男が二十三人。それにわたしと娘だけさ。阿濃(あこぎ)は、あのからだだから、朱雀門(すざくもん)に待っていて、もらう事にしようよ。」
「そう言えば、阿濃も、かれこれ臨月だったな。」
 太郎はまた、あざけるように口をゆがめた。それとほとんど同時に、雲の影が消えて、往来はたちまち、元のように、目が痛むほど、明るくなる。――猪熊(いのくま)のばばも、腰をそらせて、ひとしきり東鴉(あずまがらす)のような笑い声を立てた。
「あの阿呆(あほう)をね。たれがまあ手をつけたんだか――もっとも、阿濃(あこぎ)は次郎さんに、執心(しゅうしん)だったが、まさかあの人でもなかろうよ。」
「親のせんぎはともかく、あのからだじゃ何かにつけて不便だろう。」
「そりゃ、どうにでもしかたはあるのだけれど、あれが不承知なのだから、困るわね。おかげで、仲間の者へ沙汰(さた)をするのも、わたし一人という始末さ。真木島(まきのしま)の十郎、関山(せきやま)の平六(へいろく)、高市(たけち)の多襄丸(たじょうまる)と、まだこれから、三軒まわらなくっちゃ――おや、そう言えば、油を売っているうちに、もうかれこれ未(ひつじ)になる。お前さんも、もうわたしのおしゃべりには、聞き飽きたろう。」
 蛙股(かえるまた)の杖(つえ)は、こういうことばと共に動いた。
「が、沙金(しゃきん)は?」
 この時、太郎のくちびるは、目に見えぬほど、かすかにひきつった。が、老婆は、これに気がつかなかったらしい。
「おおかた、きょうあたりは、猪熊のわたしの家(うち)で、昼寝でもしているだろうよ。きのうまでは、家(うち)にいなかったがね。」
 片目は、じっと老婆を見た。そうして、それから、静かな声で、
「じゃ、いずれまた、日が暮れてから、会おう。」
「あいさ。それまでは、お前さんも、ゆっくり昼寝でもする事だよ。」
 猪熊(いのくま)のばばは、口達者に答えながら、杖(つえ)をひいて、歩きだした。綾小路(あやのこうじ)を東へ、猿(さる)のような帷子姿(かたびらすがた)が、藁草履(わらぞうり)の尻(しり)にほこりをあげて、日ざしにも恐れず、歩いてゆく。――それを見送った侍は、汗のにじんだ額に、険しい色を動かしながら、もう一度、柳の根につばを吐くと、それからおもむろに、くびすをめぐらした。
 二人の別れたあとには、例の蛇(ながむし)の死骸(しがい)にたかった青蝿(あおばえ)が、相変わらず日の光の中に、かすかな羽音を伝えながら、立つかと思うと、止まっている。……

       二

 猪熊のばばは、黄ばんだ髪の根に、じっとりと汗をにじませながら、足にかかる夏のほこりも払わずに、杖をつきつき歩いてゆく。――
 通い慣れた道ではあるが、自分が若かった昔にくらべれば、どこもかしこも、うそのような変わり方である。自分が、まだ台盤所(だいばんどころ)の婢女(みずし)をしていたころの事を思えば、――いや、思いがけない身分ちがいの男に、いどまれて、とうとう沙金(しゃきん)を生んだころの事を思えば、今の都は、名ばかりで、そのころのおもかげはほとんどない。昔は、牛車(ぎっしゃ)の行きかいのしげかった道も、今はいたずらにあざみの花が、さびしく日だまりに、咲いているばかり、倒れかかった板垣(いたがき)の中には、無花果(いちじゅく)が青い実をつけて、人を恐れない鴉(からす)の群れは、昼も水のない池につどっている。そうして、自分もいつか、髪が白(しら)みしわがよって、ついには腰のまがるような、老いの身になってしまった。都も昔の都でなければ、自分も昔の自分でない。
 その上、貌(かたち)も変われば、心も変わった。始めて娘と今の夫との関係を知った時、自分は、泣いて騒いだ覚えがある。が、こうなって見れば、それも、当たりまえの事としか思われない。盗みをする事も、人を殺す事も、慣れれば、家業と同じである。言わば京の大路小路(おおじこうじ)に、雑草がはえたように、自分の心も、もうすさんだ事を、苦にしないほど、すさんでしまった。が、一方から見ればまた、すべてが変わったようで、変わっていない。娘の今している事と、自分の昔した事とは、存外似よったところがある。あの太郎と次郎とにしても、やはり今の夫の若かったころと、やる事にたいした変わりはない。こうして人間は、いつまでも同じ事を繰り返してゆくのであろう。そう思えば、都も昔の都なら、自分も昔の自分である。……
 猪熊(いのくま)のばばの心の中には、こういう考えが、漠然(ばくぜん)とながら、浮かんで来た。そのさびしい心もちに、つまされたのであろう、丸い目がやさしくなって、蟇(ひき)のような顔の肉が、いつのまにか、ゆるんで来る。――と、また急に、老婆は、生き生きと、しわだらけの顔をにやつかせて、蛙股(かえるまた)の杖(つえ)のはこびを、前よりも急がせ始めた。
 それも、そのはずである。四五間先に、道とすすき原とを(これも、元はたれかの広庭であったのかもしれない。)隔てる、くずれかかった築土(ついじ)があって、その中に、盛りをすぎた合歓(ねむ)の木が二三本、こけの色の日に焼けた瓦(かわら)の上に、ほほけた、赤い花をたらしている。それを空(そら)に、枯れ竹の柱を四すみへ立てて、古むしろの壁を下げた、怪しげな小屋が一つ、しょんぼりとかけてある。――場所と言い、様子と言い、中には、こじきでも住んでいるらしい。
 別して、老婆の目をひいたのは、その小屋の前に、腕を組んでたたずんだ、十七八の若侍で、これは、朽ち葉色の水干に黒鞘(くろざや)の太刀(たち)を横たえたのが、どういうわけか、しさいらしく、小屋の中をのぞいている。そのういういしい眉(まゆ)のあたりから、まだ子供らしさのぬけない頬(ほお)のやつれが、一目で老婆に、そのたれという事を知らせてくれた。
「何をしているのだえ。次郎さん。」
 猪熊(いのくま)のばばは、そのそばへ歩みよると、蛙股(かえるまた)の杖(つえ)を止めて、あごをしゃくりながら、呼びかけた。
 相手は、驚いて、ふり返ったが、つくも髪の、蟇(ひき)の面(つら)の、厚いくちびるをなめる舌を見ると、白い齒を見せて微笑しながら、黙って、小屋の中を指さした。
 小屋の中には、破れ畳を一枚、じかに地面へ敷いた上に、四十格好(がっこう)の小柄な女が、石を枕(まくら)にして、横になっている。それも、肌(はだ)をおおうものは、腰のあたりにかけてある、麻の汗衫(かざみ)一つぎりで、ほとんど裸と変わりがない。見ると、その胸や腹は、指で押しても、血膿(ちうみ)にまじった、水がどろりと流れそうに、黄いろくなめらかに、むくんでいる。ことに、むしろの裂け目から、天日(てんぴ)のさしこんだ所で見ると、わきの下や首のつけ根に、ちょうど腐った杏(あんず)のような、どす黒い斑(まだら)があって、そこからなんとも言いようのない、異様な臭気が、もれるらしい。
 枕もとには、縁の欠けた土器(かわらけ)がたった一つ(底に飯粒がへばりついているところを見ると、元は粥(かゆ)でも入れたものであろう。)捨てたように置いてあって、たれがしたいたずらか、その中に五つ六(む)つ、泥(どろ)だらけの石ころが行儀よく積んである。しかも、そのまん中に、花も葉もひからびた、合歓(ねむ)を一枝立てたのは、おおかた高坏(たかつき)へ添える色紙(しきし)の、心葉(こころば)をまねたものであろう。
 それを見ると、気丈な猪熊(いのくま)のばばも、さすがに顔をしかめて、あとへさがった。そうして、その刹那(せつな)に、突然さっきの蛇(ながむし)の死骸(しがい)を思い浮かべた。
「なんだえ。これは。疫病(えやみ)にかかっている人じゃないか。」
「そうさ。とてもいけないというので、どこかこの近所の家(うち)で、捨てたのだろう。これじゃ、どこでも持てあつかうよ。」
 次郎はまた、白い齒を見せて、微笑した。
「それを、お前さんはまた、なんだって、見てなんぞいるのさ。」
「なに、今ここを通りかかったら、野ら犬が二三匹、いい餌食(えじき)を見つけた気で、食いそうにしていたから、石をぶつけて、追い払ってやったところさ。わたしが来なかったら、今ごろはもう、腕の一つも食われてしまったかもしれない。」
 老婆は、蛙股(かえるまた)の杖(つえ)にあごをのせて、もう一度しみじみ、女のからだを見た。さっき、犬が食いかかったというのは、これであろう。――破れ畳の上から、往来の砂の中へ、斜めにのばした二の腕には、水気(すいき)を持った、土け色の皮膚に、鋭い齒の跡が三(み)つ四(よ)つ、紫がかって残っている。が、女は、じっと目をつぶったなり、息さえ通(かよ)っているかどうかわからない。老婆は、再び、はげしい嫌悪(けんお)の感に、面(おもて)を打たれるような心もちがした。
「いったい、生きているのかえ。それとも、死んでいるのかえ。」
「どうだかね。」
「気らくだよ、この人は。死んだものなら、犬が食ったって、いいじゃないか。」
 老婆は、こう言うと、蛙股(かえるまた)の杖(つえ)をのべて、遠くから、ぐいと女の頭を突いてみた。頭はまくらの石をはずれて、砂に髪をひきながら、たわいなく畳の上へぐたりとなる。が、病人は、依然として、目をつぶったまま、顔の筋肉一つ動かさない。
「そんな事をしたって、だめだよ。さっきなんぞは、犬に食いつかれてさえ、やっぱりじっとしていたんだから。」
「それじゃ、死んでいるのさ。」
 次郎は、三たび白い齒を見せて、笑った。
「死んでいたって、犬に食わせるのは、ひどいやね。」
「何がひどいものかね。死んでしまえば、犬に食われたって、痛くはなしさ。」
 老婆は、杖(つえ)の上でのび上がりながら、ぎょろり目を大きくして、あざわらうように、こう言った。
「死ななくったって、ひくひくしているよりは、いっそ一思いに、のど笛でも犬に食いつかれたほうが、ましかもしれないわね。どうせこれじゃ、生きていたって、長い事はありゃせずさ。」
「だって、人間が犬に食われるのを、黙って見てもいられないじゃないか。」
 すると、猪熊(いのくま)のばばは、上くちびるをべろりとやって、ふてぶてしく空うそぶいた。
「そのくせ、人間が人間を殺すのは、お互いに平気で、見ているじゃないか。」
「そう言えば、そうさ。」
 次郎は、ちょいと鬢(びん)をかいて、四たび白い齒を見せながら、微笑した。そうして、やさしく老婆の顔をながめながら、
「どこへ行(ゆ)くのだい、おばばは。」と問いかけた。
「真木島(まきのしま)の十郎と、高市(たけち)の多襄丸(たじょうまる)と、――ああ、そうだ。関山(せきやま)の平六(へいろく)へは、お前さんに、言づけを頼もうかね。」
 こう言ううちに、猪熊(いのくま)のばばは、杖(つえ)にすがって、もう二足三足歩いている。
「ああ、行ってもいい。」
 次郎もようやく、病人の小屋をあとにして、老婆と肩を並べながら、ぶらぶら炎天の往来を歩きだした。
「あんなものを見たんで、すっかり気色(きしょく)がわるくなってしまったよ。」
 老婆は、大仰(おおぎょう)に顔をしかめながら、
「――ええと、平六の家(うち)は、お前さんも知っているだろう。これをまっすぐに行って、立本寺(りゅうほんじ)の門を左へ切れると、藤判官(とうほうがん)の屋敷がある。あの一町ばかり先さ。ついでだから、屋敷のまわりでもまわって、今夜の下見をしておおきよ。」
「なにわたしも、始めからそのつもりで、こっちへ出て来たのさ。」
「そうかえ、それはお前さんにしては、気がきいたね。お前さんのにいさんの御面相じゃ、一つ間違うと、向こうにけどられそうで、下見に行っても、もらえないが、お前さんなら、大丈夫だよ。」
「かわいそうに、兄きもおばばの口にかかっちゃ、かなわないね。」
「なに、わたしなんぞはいちばん、あの人の事をよく言っているほうさ。おじいさんなんぞと来たら、お前さんにも話せないような事を、言っているわね。」
「それは、あの事があるからさ。」
「あったって、お前さんの悪口は、言わないじゃないか。」
「じゃおおかた、わたしは子供扱いにされているんだろう。」
 二人は、こんな閑談をかわしながら、狭い往来をぶらぶら歩いて行った。歩くごとに、京の町の荒廃は、いよいよ、まのあたりに開けて来る。家と家との間に、草いきれを立てている蓬原(よもぎはら)、そのところどころに続いている古築土(ふるついじ)、それから、昔のまま、わずかに残っている松や柳――どれを見ても、かすかに漂う死人(しびと)のにおいと共に、滅びてゆくこの大きな町を、思わせないものはない。途中では、ただ一人、手に足駄(あしだ)をはいている、いざりのこじきに行(ゆ)きちがった。――
「だが、次郎さん、お気をつけよ。」
 猪熊(いのくま)のばばは、ふと太郎の顔を思い浮かべたので、ひとり苦笑を浮かべながら、こう言った。
「娘の事じゃ、ずいぶんにいさんも、夢中になりかねないからね。」
 が、これは、次郎の心に、思ったよりも大きな影響を与えたらしい。彼は、ひいでた眉(まゆ)の間を、にわかに曇らせながら、不快らしく目を伏せた。
「そりゃわたしも、気をつけている。」
「気をつけていてもさ。」
 老婆は、いささか、相手の感情の、この急激な変化に驚きながら、例のごとくくちびるをなめなめ、つぶやいた。
「気をつけていてもだわね。」
「しかし、兄きの思わくは兄きの思わくで、わたしには、どうにもできないじゃないか。」
「そう言えば、実(み)もふたもなくなるがさ。実はわたしは、きのう娘に会ったのだよ。すると、きょう未(ひつじ)の下刻(げこく)に、お前さんと寺の門の前で、会う事になっていると言うじゃないか。それで、お前さんのにいさんには半月近くも、顔は合わせないようにしているとね、太郎さんがこんな事を知ってごらん。また、お前さん、一悶着(ひともんちゃく)だろう。」
 次郎は、老婆の□々(びび)として説くことばをさえぎるように、黙って、いらだたしく何度もうなずいた。が、猪熊(いのくま)のばばは、容易に口を閉ざしそうなけしきもない。
「さっき、向こうの辻(つじ)で、太郎さんに会った時にも、わたしはよくそう言って来たけれどね、そうなりゃ、わたしたちの仲間だもの、すぐに刃物三昧(はものざんまい)だろうじゃないか。万一、その時のはずみで、娘にけがでもあったら、とわたしは、ただ、それが心配なのさ。娘は、なにしろあのとおりの気質だし、太郎さんにしても、一徹人(いってつじん)だから、わたしは、お前さんによく頼んでおこうと思ってね。お前さんは、死人(しびと)が犬に食われるのさえ、見ていられないほど、やさしいんだから。」
 こう言って、老婆は、いつか自分にも起こって来た不安を、しいて消そうとするように、わざとしわがれた声で、笑って見せた。が、次郎は依然として、顔を暗くしながら、何か物思いにふけるように、目を伏せて歩いている。……
「大事(おおごと)にならなければいいが。」
 猪熊(いのくま)のばばは、蛙股(かえるまた)の杖(つえ)を早めながら、この時始めて心の底で、しみじみこう、祈ったのである。

 かれこれその時分の事である。楚(すわえ)の先に蛇(ながむし)の死骸(しがい)をひっかけた、町の子供が三四人、病人の小屋の外を通りかかると、中でもいたずらな一人が、遠くから及び腰になって、その蛇(ながむし)を女の顔の上へほうり上げた。青く脂(あぶら)の浮いた腹がぺたり、女の頬(ほお)に落ちて、それから、腐れ水にぬれた尾が、ずるずるあごの下へたれる――と思うと、子供たちは、一度にわっとわめきながら、おびえたように、四方へ散った。
 今まで死んだようになっていた女が、その時急に、黄いろくたるんだまぶたをあけて、腐った卵の白味のような目を、どんより空(そら)に据(す)えながら、砂まぶれの指を一つびくりとやると、声とも息ともわからないものが、干割れたくちびるの奥のほうから、かすかにもれて来たからである。

       三

 猪熊(いのくま)のばばに別れた太郎は、時々扇で風を入れながら、日陰も選ばず、朱雀(すざく)の大路(おおじ)を北へ、進まない歩みをはこんだ。――
 日中の往来は、人通りもきわめて少ない。栗毛(くりげ)の馬に平文(ひらもん)の鞍(くら)を置いてまたがった武士が一人、鎧櫃(よろいびつ)を荷なった調度掛(ちょうどが)けを従えながら、綾藺笠(あやいがさ)に日をよけて、悠々(ゆうゆう)と通ったあとには、ただ、せわしない燕(つばくら)が、白い腹をひらめかせて、時々、往来の砂をかすめるばかり、板葺(いたぶき)、檜皮葺(ひわだぶき)の屋根の向こうに、むらがっているひでり雲(ぐも)も、さっきから、凝然と、金銀銅鉄を熔(と)かしたまま、小ゆるぎをするけしきはない。まして、両側に建て続いた家々は、いずれもしんと静まり返って、その板蔀(いたじとみ)や蒲簾(かますだれ)の後ろでは、町じゅうの人がことごとく、死に絶えてしまったかとさえ疑われる。――

 猪熊(いのくま)のばばの言ったように、沙金(しゃきん)を次郎に奪われるという恐れは、ようやく目の前に迫って来た。あの女が、――現在養父にさえ、身を任せたあの女が、あばたのある、片目の、醜いおれを、日にこそ焼けているが目鼻立ちの整った、若い弟に見かえるのは、もとよりなんの不思議もない。おれは、ただ、次郎が、――子供の時から、おれを慕ってくれたあの次郎が、おれの心もちを察してくれて、よしや沙金のほうから手を出してもその誘惑に乗らないだけの、慎みを持ってくれる事と、いちずに信じ切っていた。が、今になって考えれば、それは、弟を買いかぶった、虫のいい量見(りょうけん)に過ぎなかった。いや、弟を見上げすぎたというよりも、沙金のみだらな媚(こ)びのたくみを、見下げすぎた誤りだった。ひとり次郎ばかりではない。あの女のまなざし一つで、身を滅ぼした男の数は、この炎天にひるがえる燕(つばくら)の数(かず)よりも、たくさんある。現にこう言うおれでさえ、ただ一度、あの女を見たばかりで、とうとう今のように、身をおとした。……

 すると四条坊門(しじょうぼうもん)の辻(つじ)を、南へやる赤糸毛(あかいとげ)の女車(おんなぐるま)が、静かに太郎の行く手を通りすぎる。車の中の人は見えないが、紅(べに)の裾濃(すそご)に染めた、すずしの下簾(したすだれ)が、町すじの荒涼としているだけに、ひときわ目に立ってなまめかしい。それにつき添った牛飼いの童(わらべ)と雑色(ぞうしき)とは、うさんらしく太郎のほうへ目をやったが、牛だけは、角(つの)をたれて、漆のように黒い背を鷹揚(おうよう)にうねらしながら、わき見もせずに、のっそりと歩いてゆく。しかしとりとめのない考えに沈んでいる太郎には、車の金具の、まばゆく日に光ったのが、わずかに目にはいっただけである。
 彼は、しばらく足をとめて、車を通りこさせてから、また片目を地に伏せて、黙々と歩きはじめた。――

(おれが右の獄(ひとや)の放免(ほうめん)をしていた時の事を思えば、今では、遠い昔のような、心もちがする。あの時のおれと今のおれとを比べれば、おれ自身にさえ、同じ人間のような気はしない。あのころのおれは、三宝を敬う事も忘れなければ、王法にしたがう事も怠らなかった。それが、今では、盗みもする。時によっては、火つけもする。人を殺した事も、二度や三度ではない。ああ、昔のおれは――仲間の放免といっしょになって、いつもの七半(しちはん)を打ちながら、笑い興じていた、あの昔のおれは、今のおれの目から見ると、どのくらいしあわせだったかわからない。
 考えれば、まだきのうのように思われるが、実はもう一年前(まえ)になった。――あの女が、盗みの咎(とが)で、検非違使(けびいし)の手から、右の獄(ひとや)へ送られる。おれがそれと、ふとした事から、牢格子(ろうごうし)を隔てて、話し合うような仲になる。それから、その話が、だんだんたび重なって、いつか互いに身の上の事まで、打ち明け始める。とうとう、しまいには、猪熊(いのくま)のばばや同類の盗人が、牢(ろう)を破ってあの女を救い出すのを、見ないふりをして、通してやった。
 その晩から、おれは何度となく、猪熊のばばの家へ出はいりをした。沙金(しゃきん)は、おれの行(ゆ)く時刻を見はからって、あの半蔀(はじとみ)の間から、雀色時(すずめいろどき)の往来をのぞいている。そうしておれの姿が見えると、鼠鳴(ねずみな)きをして、はいれと言う。家の中には、下衆女(げすおんな)の阿濃(あこぎ)のほかに、たれもいない。やがて、蔀(しとみ)をおろす。結び燈台へ火をつける。そうして、あの何畳かの畳の上に、折敷(おしき)や高坏(たかつき)を、所狭く置きならべて、二人ぎりの小酒盛(こざかもり)をする。そのあげくが、笑ったり、泣いたり、けんかをしたり、仲直りをしたり――言わば、世間並みの恋人どうしが、するような事をして、いつでも夜を明かした。
 日の暮れに来て、夜(よ)のひき明け方に帰る。――あれが、それでも一月(ひとつき)は続いたろう。そのうちに、おれには沙金が猪熊のばばのつれ子である事、今では二十何人かの盗人の頭(かしら)になって、時々洛中(らくちゅう)をさわがせている事、そうしてまた、日ごろは容色を売って、傀儡(くぐつ)同様な暮らしをしている事――そういう事が、だんだんわかって来た。が、それは、かえってあの女に、双紙の中の人間めいた、不思議な円光をかけるばかりで、少しも卑しいなどという気は起こさせない。無論、あの女は、時々おれに、いっそ仲間へはいれと言う。が、おれはいつも、承知しない。すると、あの女は、おれの事を臆病(おくびょう)だと言って、ばかにする。おれはよくそれで、腹を立てた。………)

「はい、はい」と馬をしかる声がする。太郎は、あわてて、道をよけた。
 米俵を二俵ずつ、左右へ積んだ馬をひいて、汗衫(かざみ)一つの下衆(げす)が、三条坊門の辻(つじ)を曲がりながら、汗もふかずに、炎天の大路(おおじ)を南へ下って来る。その馬の影が、黒く地面に焼きついた上を、燕(つばくら)が一羽、ひらり羽根を光らせて、すじかいに、空(そら)へ舞い上がった。と思うと、それがまた礫(つぶて)を投げるように、落として来て、太郎の鼻の先を一文字に、向こうの板庇(いたびさし)の下へはいる。
 太郎は、歩きながら、思い出したように、はたはたと、黄紙(きがみ)の扇を使った。――

(そういう月日が、続くともなく続くうちに、おれは、偶然あの女と養父との関係に、気がついた。もっともおれ一人が、沙金(しゃきん)を自由にする男でないという事も、知っていなかったわけではない。沙金自身さえ、関係した公卿(くげ)の名や法師の名を、何度も自慢らしくおれに話した事がある。が、おれはこう思った。あの女の肌(はだ)は、おおぜいの男を知っているかもしれない。けれども、あの女の心は、おれだけが占有している。そうだ、女の操(みさお)は、からだにはない。――おれは、こう信じて、おれの嫉妬(しっと)をおさえていた。もちろんこれも、あの女から、知らず知らずおれが教わった、考え方にすぎないかもしれない。が、ともかくもそう思うと、おれの苦しい心はいくぶんか楽(らく)になった。しかし、あの女と養父との関係は、それとちがう。
 おれは、それを感づいた時に、なんとも言えず、不快だった。そういう事をする親子なら、殺して飽きたらない。それを黙って見る実の母の、猪熊(いのくま)のばばもまた、畜生より、無残なやつだ。こう思ったおれは、あの酔いどれのおやじの顔を見るたびに、何度太刀(たち)へ手をかけたか、わからない。が、沙金はそのたびに、おれの前で、ことさら、手ひどく養父をばかにした。そうしてその見え透いた手くだがまた、不思議におれの心を鈍らせた。「わたしはおとうさんがいやでいやでしかたがないんです」と言われれば、養父をにくむ気にはなっても、沙金をにくむ気には、どうしてもなれない。そこで、おれと養父とは、きょうがきょうまで、互いににらみ合いながら、何事もなくすぎて来た。もしあのおじじにもう少し、勇気があったなら、――いや、おれにもう少し、勇気があったなら、おれたちはとうの昔、どちらか死んでいた事であろう。……)

 頭を上げると、太郎はいつか二条を折れて、耳敏川(みみとがわ)にまたがっている、小さい橋にかかっていた。水のかれた川は、細いながらも、焼(や)き太刀(だち)のように、日を反射して、絶えてはつづく葉柳(はやなぎ)と家々との間に、かすかなせせらぎの音を立てている。その川のはるか下に、黒いものが二つ三つ、鵜(う)の鳥かと思うように、流れの光を乱しているのは、おおかた町の子供たちが、水でも浴びているのであろう。
 太郎の心には、一瞬の間、幼かった昔の記憶が、――弟といっしょに、五条の橋の下で、鮠(はえ)を釣(つ)った昔の記憶が、この炎天に通う微風のように、かなしく、なつかしく、返って来た。が、彼も弟も、今は昔の彼らではない。
 太郎は、橋を渡りながら、うすいあばたのある顔に、また険しい色をひらめかせた。――

(すると、突然ある日、そのころ筑後(ちくご)の前司(ぜんじ)の小舎人(ことねり)になっていた弟が、盗人の疑いをかけられて、左の獄(ひとや)へ入れられたという知らせが来た。放免(ほうめん)をしているおれには、獄中の苦しさが、たれよりもよく、わかっている。おれは、まだ筋骨のかたまらない弟の身の上を、自分の事のように、心配した。そこで、沙金(しゃきん)に相談すると、あの女はさもわけがなさそうに、「牢(ろう)を破ればいいじゃないの」と言う。かたわらにいた猪熊(いのくま)のばばも、しきりにそれをすすめてくれる。おれは、とうとう覚悟をきめて、沙金といっしょに、五六人の盗人を語り集めた。そうして、その夜のうちに、獄(ひとや)をさわがして、難なく弟を救い出した。その時、受けた傷の跡は、今でもおれの胸に残っている。が、それよりも忘れられないのは、おれがその時始めて、放免(ほうめん)の一人を切り殺した事であった。あの男の鋭い叫び声と、それから、あの血のにおいとは、いまだにおれの記憶を離れない。こう言う今でも、おれはそれを、この蒸し暑い空気の中に、感じるような心もちがする。
 その翌日から、おれと弟とは、猪熊の沙金の家で、人目を忍ぶ身になった。一度罪を犯したからは、正直に暮らすのも、あぶない世渡りをしてゆくのも、検非違使(けびいし)の目には、変わりがない。どうせ死ぬくらいなら、一日も長く生きていよう。そう思ったおれは、とうとう沙金の言うなりになって、弟といっしょに盗人の仲間入りをした。それからのおれは、火もつける。人も殺す。悪事という悪事で、なに一つしなかったものはない。もちろん、それも始めは、いやいやした。が、してみると、意外に造作(ぞうさ)がない。おれはいつのまにか、悪事を働くのが、人間の自然かもしれないと思いだした。……)

 太郎は、半ば無意識に辻(つじ)をまがった。辻には、石でまわりを積んだ一囲いの土饅頭(どまんじゅう)があって、その上に石塔婆(せきとうば)が二本、並んで、午後の日にかっと、照りつけられている。その根元にはまた、何匹かのとかげが、煤(すす)のように黒いからだを、気味悪くへばりつかせていたが、太郎の足音に驚いたのであろう、彼の影の落ちるよりも早く、一度にざわめきながら、四方へ散った。が、太郎は、それに目をやるけしきもない。――
「おれは、悪事をつむに従って、ますます沙金(しゃきん)に愛着(あいじゃく)を感じて来た。人を殺すのも、盗みをするのも、みんなあの女ゆえである。――現に牢(ろう)を破ったのさえ、次郎を助けようと思うほかに、一人の弟を見殺しにすると、沙金にわらわれるのを、おそれたからであった。――そう思うと、なおさらおれは、何に換えても、あの女を失いたくない。
 その沙金を、おれは今、肉身の弟に奪われようとしている。おれが命を賭(か)けて助けてやった、あの次郎に奪われようとしている。奪われようとしているのか、あるいは、もう奪われているのか、それさえも、はっきりはわからない。沙金(しゃきん)の心を疑わなかったおれは、あの女がほかの男をひっぱりこむのも、よくない仕事の方便として、許していた。それから、養父との関係も、あのおじじが親の威光で、何も知らないうちに、誘惑したと思えば、目をつぶって、すごせない事はない。が、次郎との仲は、別である。
 おれと弟とは、気だてが変わっているようで、実は見かけほど、変わっていない。もっとも顔かたちは、七八年前(まえ)の痘瘡(もがさ)が、おれには重く、弟には軽かったので、次郎は、生まれついた眉目(みめ)をそのままに、うつくしい男になったが、おれはそのために片目つぶれた、生まれもつかない不具になった。その醜い、片目のおれが、今まで沙金の心を捕えていたとすれば、(これも、おれのうぬぼれだろうか。)それはおれの魂の力に相違ない。そうして、その魂は、同じ親から生まれた弟も、おれに変わりなく持っている。しかも、弟は、たれの目にもおれよりはうつくしい。そういう次郎に、沙金が心をひかれるのは、もとより理の当然である。その上また、次郎のほうでも、おれにひきくらべて考えれば、到底あの女の誘惑に、勝てようとは思われない。いや、おれは、始終おれの醜い顔を恥じている。そうして、たいていの情事には、おのずからひかえ目になっている。それでさえ、沙金には、気違いのように、恋をした。まして、自分の美しさを知っている次郎が、どうして、あの女の見せる媚(こ)びを、返さずにいられよう。――
 こう思えば、次郎と沙金(しゃきん)とが、近づくようになるのは、無理もない。が、無理がないだけ、それだけ、おれには苦痛である。弟は、沙金をおれから奪おうとする。――それも、沙金の全部を、おれから奪おうとする。いつかは、そうして必ず。ああ、おれの失うのは、ひとり沙金ばかりではない。弟もいっしょに失うのだ。そうして、そのかわりに、次郎と言う名の敵(かたき)ができる。――おれは、敵(かたき)には用捨しない。敵(かたき)も、おれに用捨はしないだろう。そうなれば、落ち着くところは、今からあらかじめわかっている。弟を殺すか、おれが殺されるか。……)

 太郎は、死人(しびと)のにおいが、鋭く鼻を打ったのに、驚いた。が、彼の心の中の死が、におったというわけではない。見ると、猪熊(いのくま)の小路のあたり、とある網代(あじろ)の塀(へい)の下に腐爛(ふらん)した子供の死骸(しがい)が二つ、裸のまま、積み重ねて捨ててある。はげしい天日(てんぴ)に、照りつけられたせいか、変色した皮膚のところどころが、べっとりと紫がかった肉を出して、その上にはまた青蝿(あおばえ)が、何匹となく止まっている。そればかりではない。一人の子供のうつむけた顔の下には、もう足の早い蟻(あり)がついた。――
 太郎は、まのあたりに、自分の行く末を見せつけられたような心もちがした。そうして、思わず下くちびるを堅くかんだ。――
「ことに、このごろは、沙金(しゃきん)もおれを避けている。たまに会っても、いい顔をした事は、一度もない。時々はおれに面(めん)と向かって、悪口(あっこう)さえきく事がある。おれはそのたびに腹を立てた。打った事もある。蹴(け)った事もある。が、打っているうちに、蹴っているうちに、おれはいつでも、おれ自身を折檻(せっかん)しているような心もちがした。それも無理はない。おれの二十年の生涯(しょうがい)は、沙金のあの目の中に宿っている。だから沙金を失うのは、今までのおれを失うのと、変わりはない。
 沙金を失い、弟を失い、そうしてそれとともにおれ自身を失ってしまう。おれはすべてを失う時が来たのかもしれない。……)

 そう思ううちに、彼は、もう猪熊(いのくま)のばばの家の、白い布をぶら下げた戸口へ来た。まだここまでも、死人(しびと)のにおいは、伝わって来るが、戸口のかたわらに、暗い緑の葉をたれた枇杷(びわ)があって、その影がわずかながら、涼しく窓に落ちている。この木の下を、この戸口へはいった事は、何度あるかわからない。が、これからは?
 太郎は、急にある気づかれを感じて、一味の感傷にひたりながら、その目に涙をうかべて、そっと戸口へ立ちよった。すると、その時である。家の中から、たちまちけたたましい女の声が、猪熊(いのくま)の爺(おじ)の声に交じって、彼の耳を貫ぬいた。沙金(しゃきん)なら、捨ててはおけない。
 彼は、入り口の布をあげて、うすぐらい家の中へ、せわしく一足ふみ入れた。

       四

 猪熊のばばに別れると、次郎は、重い心をいだきながら、立本寺(りゅうほんじ)の門の石段を、一つずつ数えるように上がって、そのところどころ剥落(はくらく)した朱塗りの丸柱の下へ来て、疲れたように腰をおろした。さすがの夏の日も、斜めにつき出した、高い瓦(かわら)にさえぎられて、ここまではさして来ない。後ろを見ると、うす暗い中に、一体の金剛力士が青蓮花(あおれんげ)を踏みながら、左手の杵(きね)を高くあげて、胸のあたりに燕(つばくら)の糞(ふん)をつけたまま、寂然(せきぜん)と境内(けいだい)の昼を守っている。――次郎は、ここへ来て、始めて落ち着いて、自分の心もちが考えられるような気になった。
 日の光は、相変わらず目の前の往来を、照り白(しら)ませて、その中にとびかう燕(つばくら)の羽を、さながら黒繻子(くろじゅす)か何かのように、光らせている。大きな日傘(ひがさ)をさして、白い水干(すいかん)を着た男が一人、青竹の文挾(ふばさみ)にはさんだ文(ふみ)を持って、暑そうにゆっくり通ったあとは、向こうに続いた築土(ついじ)の上へ、影を落とす犬もない。
 次郎は、腰にさした扇をぬいて、その黒柿(くろがき)の骨を、一つずつ指で送ったり、もどしたりしながら、兄と自分との関係を、それからそれへ、思い出した。――
 なんで自分は、こう苦しまなければ、ならないのであろう。たった一人の兄は、自分を敵(かたき)のように思っている。顔を合わせるごとに、こちらから口をきいても、浮かない返事をして、話の腰を折ってしまう。それも、自分と沙金(しゃきん)とが、今のような事になってみれば、無理のない事に相違ない。が、自分は、あの女に会うたびに、始終兄にすまないと思っている。別して、会ったのちのさびしい心もちでは、よく兄がいとしくなって、人知れない涙もこぼしこぼしした。現に、一度なぞは、このまま、兄にも沙金にも別れて、東国へでも下ろうとさえ、思った事がある。そうしたら、兄も自分を憎まなくなるだろうし、自分も沙金を忘れられるだろう。そう思って、よそながら暇(いとま)ごいをするつもりで、兄の所へ会いにゆくと、兄はいつも、そっけなく、自分をあしらった。そうして、沙金に会うと、――今度は自分が、せっかくの決心を忘れてしまう。が、そのたびに、自分はどのくらい、自分自身を責めた事であろう。
 しかし、兄には、自分のこの苦しみがわからない。ただいちずに、自分を、恋の敵(かたき)だと思っている。自分は、兄にののしられてもいい。顔につばきされてもいい。あるいは場合によっては、殺されてもいい。が、自分が、どのくらい自分の不義を憎んでいるか、どのくらい兄に同情しているか、それだけは、察していてもらいたい。その上でならば、どんな死にざまをするにしても、兄の手にかかれば、本望だ。いや、むしろ、このごろの苦しみよりは、一思いに死んだほうが、どのくらいしあわせだかわからない。
 自分は、沙金(しゃきん)に恋をしている。が、同時に憎んでもいる。あの女の多情な性質は、考えただけでも、腹立たしい。その上に、絶えずうそをつく。それから、兄や自分でさえためらうような、ひどい人殺しも、平気でする。時々、自分は、あの女のみだらな寝姿をながめながら、どうして、自分がこんな女に、ひかされるのだろうと思ったりした。ことに、見ず知らずの男にも、なれなれしく肌(はだ)を任せるのを見た時には、いっそ自分の手で、殺してやろうかという気にさえなった。それほど、自分は、沙金を憎んでいる。が、あの女の目を見ると、自分はやっぱり、誘惑に陥ってしまう。あの女のように、醜い魂と、美しい肉身とを持った人間は、ほかにいない。
 この自分の憎しみも、兄にはわかっていないようだ。いや、元来兄は、自分のように、あの女の獣のような心を、憎んではいないらしい。たとえば、沙金(しゃきん)とほかの男との関係を見るにしても、兄と自分とは全く目がちがう。兄は、あの女がたれといっしょにいるのを見ても、黙っている。あの女の一時の気まぐれは、気まぐれとして、許しているらしい。が、自分は、そういかない。自分にとっては、沙金が肌身(はだみ)を汚(けが)す事は、同時に沙金が心を汚す事だ。あるいは心を汚すより、以上の事のように思われる。もちろん自分には、あの女の心が、ほかの男に移るのも許されない。が、肌身をほかの男に任せるのは、それよりもなお、苦痛である。それだからこそ、自分は兄に対しても、嫉妬(しっと)をする。すまないとは思いながら、嫉妬をする。してみると、兄と自分との恋は、まるでちがう考えが、元になっているのではあるまいか。そうしてそのちがいが、よけい二人の仲を、悪くするのではあるまいか。………
 次郎は、ぼんやり往来をながめながら、こんな事をしみじみと考えた。すると、ちょうどその時である。突然、けたたましい笑い声が、まばゆい日の光を動かして、往来のどちらかから聞こえて来た。と思うと、かん高(だか)い女の声が、舌のまわらない男の声といっしょになって、人もなげに、みだらな冗談を言いかわして来る。次郎は、思わず扇を腰にさして、立ち上がった。
 が、柱の下をはなれて、まだ石段へ足をおろすかおろさないうちに、小路(こうじ)を南へ歩いて来た二人の男女(なんにょ)が、彼の前を通りかかった。
 男は、樺桜(かばざくら)の直垂(ひたたれ)に梨打(なしうち)の烏帽子(えぼし)をかけて、打ち出しの太刀(たち)を濶達(かったつ)に佩(は)いた、三十ばかりの年配で、どうやら酒に酔っているらしい。女は、白地にうす紫の模様のある衣(きぬ)を着て、市女笠(いちめがさ)に被衣(かずき)をかけているが、声と言い、物ごしと言い、紛れもない沙金(しゃきん)である。――次郎は、石段をおりながら、じっとくちびるをかんで、目をそらせた。が、二人とも、次郎には、目をかける様子がない。
「じゃよくって。きっと忘れちゃいやよ。」
「大丈夫だよ。おれがひきうけたからは、大船(おおぶね)に乗った気でいるがいい」
「だって、わたしのほうじゃ命がけなんですもの。このくらい、念を押さなくちゃしようがないわ。」
 男は赤ひげの少しある口を、咽(のど)まで見えるほど、あけて笑いながら、指で、ちょいと沙金の頬(ほお)を突っついた。
「おれのほうも、これで命がけさ。」
「うまく言っているわ。」
 二人は、寺の門の前を通りすぎて、さっき次郎が猪熊(いのくま)のばばと別れた辻(つじ)まで行くと、そこに足をとめたまましばらくは、人目も恥じず、ふざけ合っていたが、やがて、男は、振りかえり振りかえり、何かしきりにからかいながら、辻を東へ折れてしまう。女は、くびすをめぐらして、まだくすくす笑いながら、またこっちへ帰って来る。――次郎は、石段の下にたたずんで、うれしいのか情けないのか、わからないような感情に動かされながら、子供らしく顔を赤らめて、被衣(かずき)の中からのぞいている、沙金(しゃきん)の大きな黒い目を迎えた。
「今のやつを見た?」
 沙金は、被衣(かずき)を開いて、汗ばんだ顔を見せながら、笑い笑い、問いかけた。
「見なくってさ。」
「あれはね。――まあここへかけましょう。」
 二人は、石段の下の段に、肩をならべて、腰をおろした。幸い、ここには門の外に、ただ一本、細い幹をくねらした、赤松の影が落ちている。
「あれは、藤判官(とうほうがん)の所の侍なの。」
 沙金は、石段の上に腰をおろすかおろさないのに、市女笠(いちめがさ)をぬいで、こう言った。小柄な、手足の動かし方に猫(ねこ)のような敏捷(びんしょう)さがある、中肉(ちゅうにく)の、二十五六の女である。顔は、恐ろしい野性と異常な美しさとが、一つになったとでもいうのであろう。狭い額とゆたかな頬(ほお)と、あざやかな歯とみだらなくちびると、鋭い目と鷹揚(おうよう)な眉(まゆ)と、――すべて、一つになり得そうもないものが、不思議にも一つになって、しかもそこに、爪(つめ)ばかりの無理もない。が、中でもみごとなのは、肩にかけた髪で、これは、日の光のかげんによると、黒い上につややかな青みが浮く。さながら、烏(からす)の羽根と違いがない。次郎は、いつ見ても変わらない女のなまめかしさを、むしろ憎いように感じたのである。
「そうして、お前さんの情人(おとこ)なんだろう。」
 沙金は、目を細くして笑いながら、無邪気らしく、首をふった。
「あいつのばかと言ったら、ないのよ。わたしの言う事なら、なんでも、犬のようにきくじゃないの。おかげで、何もかも、すっかりわかってしまった。」
「何がさ。」
「何がって、藤判官(とうほうがん)の屋敷の様子がよ。そりゃひとかたならないおしゃべりなんでしょう。さっきなんぞは、このごろ、あすこで買った馬の話まで、話して聞かしたわ。――そうそう、あの馬は太郎さんに頼んで盗ませようかしら。陸奥出(みちのくで)の三才駒(さんさいごま)だっていうから、まんざらでもないわね。」
「そうだ。兄きなら、なんでもお前の御意(ぎょい)次第だから。」
「いやだわ。やきもちをやかれるのは、わたし大きらい。それも、太郎さんなんぞ、――そりゃはじめは、わたしのほうでも、少しはどうとか思ったけれど、今じゃもうなんでもないわ。」
「そのうちに、わたしの事もそう言う時が来やしないか。」
「それは、どうだかわかりゃしない。」
 沙金(しゃきん)は、またかん高(だか)い声で、笑った。
「おこったの? じゃ、来ないって言いましょうか。」
「内心女夜叉(ないしんにょやしゃ)さね。お前は。」
 次郎は、顔をしかめながら、足もとの石を拾って、向こうへ投げた。
「そりゃ、女夜叉(にょやしゃ)かもしれないわ。ただ、こんな女夜叉(にょやしゃ)にほれられたのが、あなたの因果だわね。――まだうたぐっているの。じゃわたし、もう知らないからいい。」
 沙金は、こう言って、しばらくじっと、往来を見つめていたが、急に鋭い目を、次郎の上に転じると、たちまち冷ややかな微笑が、くちびるをかすめて、一過した。
「そんなに疑うのなら、いい事を教えてあげましょうか。」
「いい事?」
「ええ」
 女は、顔を次郎のそばへ持って来た。うす化粧のにおいが、汗にまじって、むんと鼻をつく。――次郎は、身のうちがむずがゆいほど、はげしい衝動を感じて、思わず顔をわきへむけた。
「わたしね、あいつにすっかり、話してしまったの。」
「何を?」
「今夜、みんなで藤判官(とうほうがん)の屋敷へ、行くという事を。」
 次郎は、耳を信じなかった。息苦しい官能の刺激も、一瞬の間(あいだ)に消えてしまう。――彼はただ、疑わしげに、むなしく女の顔を見返した。
「そんなに驚かなくたっていいわ。なんでもない事なのよ。」
 沙金(しゃきん)は、やや声を低めて、あざわらうような調子を出した。
「わたしこう言ったの。わたしの寝る部屋(へや)は、あの大路面(おおじめん)の檜垣(ひがき)のすぐそばなんですが、ゆうべその檜垣(ひがき)の外で、きっと盗人でしょう、五六人の男が、あなたの所へはいる相談をしているのが聞こえました。それがしかも、今夜なんです。おなじみがいに、教えてあげましたから、それ相当の用心をしないと、あぶのうござんすよって。だから、今夜は、きっと向こうにも、手くばりがあるわ。あいつも、今人を集めに行ったところなの。二十人や三十人の侍は、くるにちがいなくってよ。」
「どうしてまた、そんなよけいな事をしたのさ。」
 次郎は、まだ落ち着かない様子で、当惑したらしく、沙金(しゃきん)の目をうかがった。
「よけいじゃないわ。」
 沙金は、気味悪く、微笑した。そうして、左の手で、そっと次郎の右の手に、さわりながら、
「あなたのためにしたの。」
「どうして?」
 こう言いながら、次郎の心には、恐ろしいあるものが感じられた。まさか――
「まだわからない? そう言っておいて、太郎さんに、馬を盗む事を頼めば――ね。いくらなんだって、一人じゃかなわないでしょう。いえさ、ほかのものが加勢をしたって、知れたものだわ。そうすれば、あなたもわたしも、いいじゃないの。」
 次郎は、全身に水を浴びせられたような心もちがした。
「兄きを殺す!」
 沙金(しゃきん)は、扇をもてあそびながら、素直にうなずいた。
「殺しちゃ悪い?」
「悪いよりも――兄きを罠(わな)にかけて――」
「じゃあなた殺せて?」
 次郎は、沙金の目が、野猫(のねこ)のように鋭く、自分を見つめているのを感じた。そうして、その目の中に、恐ろしい力があって、それが次第に自分の意志を、麻痺(まひ)させようとするのを感じた。
「しかし、それは卑怯(ひきょう)だ。」
「卑怯でも、しかたがなくはない?」
 沙金(しゃきん)は、扇をすてて、静かに両手で、次郎の右の手をとらえながら、追窮した。
「それも、兄き一人やるのならいいが、仲間を皆、あぶない目に会わせてまで――」
 こう言いながら、次郎は、しまったと思った。狡猾(こうかつ)な女はもちろん、この機会を見のがさない。
「一人やるのならいいの? なぜ?」
 次郎は、女の手をはなして、立ち上がった。そうして、顔の色を変えたまま、黙って、沙金(しゃきん)の前を、右左に歩き出した。
「太郎さんを殺していいんなら、仲間なんぞ何人殺したって、いいでしょう。」
 沙金は、下から次郎の顔を見上げながら、一句を射た。
「おばばはどうする?」
「死んだら、死んだ時の事だわ。」
 次郎は、立ち止まって、沙金の顔を見おろした。女の目は、侮蔑(ぶべつ)と愛欲とに燃えて炭火のように熱を持っている。
「あなたのためなら、わたしたれを殺してもいい。」
 このことばの中には、蝎(さそり)のように、人を刺すものがある。次郎は、再び一種の戦慄(せんりつ)を感じた。
「しかし、兄きは――」
「わたしは、親も捨てているのじゃない?」
 こう言って、沙金は、目を落とすと、急に張りつめた顔の表情がゆるんで、焼け砂の上へ、日に光りながらはらはらと涙が落ちた。
「もうあいつに話してしまったのに、――今さら取り返しはつきはしない。――そんな事がわかったら、わたしは――わたしは、仲間に――太郎さんに殺されてしまうじゃないの。」
 その切れ切れなことばと共に、次郎の心には、おのずから絶望的な勇気が、わいてくる。血の色を失った彼は、黙って、土にひざをつきながら、冷たい両手に堅く、沙金(しゃきん)の手をとらえた。
 彼らは二人とも、その握りあう手のうちに、恐ろしい承諾の意を感じたのである。

       五

 白い布をかかげて、家の中に一足ふみこんだ太郎は、意外な光景に驚かされた。――
 見ると、広くもない部屋(へや)の中には、廚(くりや)へ通う遣戸(やりど)が一枚、斜めに網代屏風(あじろびょうぶ)の上へ、倒れかかって、その拍子にひっくり返ったものであろう、蚊やりをたく土器(かわらけ)が、二つになってころがりながら、一面にあたりへ、燃え残った青松葉を、灰といっしょにふりまいている。その灰を頭から浴びて、ちぢれ髪の、色の悪い、肥(ふと)った、十六七の下衆女(げすおんな)が一人、これも酒肥(さかぶと)りに肥(ふと)った、はげ頭の老人に、髪の毛をつかまれながら、怪しげな麻の単衣(ひとえ)の、前もあらわに取り乱したまま、足をばたばた動かして、気違いのように、悲鳴を上げる――と、老人は、左手に女の髪をつかんで、右手に口の欠けた瓶子(へいし)を、空ざまにさし上げながら、その中にすすけた液体を、しいて相手の口へつぎこもうとする。が、液体は、いたずらに女の顔を、目と言わず、鼻と言わず、うす黒く横流れするだけで、口へは、ほとんどはいらないらしい。そこで老人は、いよいよ、気をいらって無理に女の口を、割ろうとする。女は、とられた髪も、ぬけるほど強く、頭を振って、一滴もそれを飲むまいとする。手と手と、足と足とが、互いにもつれたり、はなれたりして、明るい所から、急にうす暗い家の中へはいった、太郎の目には、どちらがどちらのからだとも、わからない。が、二人がたれだという事は、もちろん一目見て、それと知れた。――
 太郎は、草履(ぞうり)を脱ぐ間(ま)ももどかしそうに、あわただしく部屋(へや)の中へおどりこむと、とっさに老人の右の手をつかんで、苦もなく瓶子(へいし)をもぎはなしながら、怒気を帯びて、一喝(いっかつ)した。
「何をする?」
 太郎の鋭いこのことば、たちまちかみつくような、老人のことばで答えられた。
「おぬしこそ、何をする。」
「おれか。おれならこうするわ。」
 太郎は、瓶子(へいし)を投げすてて、さらに相手の左の手を、女の髪からひき離すと、足をあげて老人を、遣戸(やりど)の上へ蹴倒(けたお)した。不意の救いに驚いたのであろう、阿濃(あこぎ)はあわてて、一二間(けん)這(は)いのいたが、老人の後(しりえ)へ倒れたのを見ると、神仏(かみほとけ)をおがむように、太郎の前へ手を合わせて、震えながら頭を下げた。と思うと、乱れた髪もつくろわずに、脱兎(だっと)のごとく身をかわして、はだしのまま、縁を下へ、白い布をひらりとくぐる。――猛然として、追いすがろうとする猪熊(いのくま)の爺(おじ)を、太郎が再び一蹴(いっしゅう)して、灰の中に倒した時には、彼女はすでに息を切らせて、枇杷(びわ)の木の下を北へ、こけつまろびつして、走っていた。………
「助けてくれ。人殺しじゃ。」
 老人は、こうわめきながら、始めの勢いにも似ず、網代屏風(あじろびょうぶ)をふみ倒して、廚(くりや)のほうへ逃げようとする。――太郎は、すばやく猿臂(えんび)をのべて、浅黄の水干(すいかん)の襟上(えりがみ)をつかみながら、相手をそこへ引き倒した。
「人殺し。人殺し。助けてくれ。親殺しじゃ。」
「ばかな事を。たれがおぬしなぞ殺すものか。」
 太郎は、ひざの下に老人を押し伏せたまま、こう高らかに、あざわらった。が、それと同時に、このおやじを殺したいという欲望が、おさえがたいほど強く、起こって来た。殺すのには、もちろんなんのめんどうもない。ただ、一突き――あの赤く皮のたるんでいる頸(うなじ)を、ただ、一突き突きさえすれば、それでもう万事が終わってしまう。突き通した太刀(たち)のきっさきが、畳へはいる手答えと、その太刀の柄(つか)へ感じて来る、断末魔の身もだえと、そうして、また、その太刀を押しもどす勢いで、あふれて来る血のにおいと、――そういう想像は、おのずから太郎の手を、葛巻(つづらま)きの太刀の柄(つか)へのばさせた。
「うそじゃ。うそじゃ。おぬしは、いつもわしを殺そうと思うている。――やい、たれか助けてくれ。人殺しじゃ。親殺しじゃ。」
 猪熊(いのくま)の爺(おじ)は、相手の心を見通したのか、またひとしきりはね起きようとして、すまいながら、必死になって、わめき立てた。
「おぬしは、なんで阿濃(あこぎ)を、あのような目にあわせた。さあそのしさいを言え。言わねば……」
「言う。言う。――言うがな。言ったあとでも、おぬしの事じゃ。殺さないものでも、なかろう。」
「うるさい。言うか、言わぬか。」
「言う。言う。言う。が、まず、そこを放してくれ。これでは、息がつまって、口がきけぬわ。」
 太郎は、それを耳にもかけないように、殺気立った声で、いらだたしく繰り返した。
「言うか、言わぬか。」
「言う。」と、猪熊(いのくま)の爺(おじ)は、声をふりしぼって、まだはね返そうと、もがきながら、「言うともな。あれはただ、わしが薬をのましょうと思うたのじゃ。それを、あの阿濃(あこぎ)の阿呆(あほう)めが、どうしても飲みおらぬ。
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