春の夜は
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著者名:芥川竜之介 

     一

 僕はコンクリイトの建物の並んだ丸(まる)の内(うち)の裏通りを歩いてゐた。すると何か□(にほひ)を感じた。何か、?――ではない。野菜サラドの□である。僕はあたりを見まはした。が、アスフアルトの往来には五味箱(ごみばこ)一つ見えなかつた。それは又如何にも春の夜らしかつた。

     二

 U――「君は夜(よる)は怖くはないかね?」
 僕――「格別怖いと思つたことはない。」
 U――「僕は怖いんだよ。何だか大きい消しゴムでも噛んでゐるやうな気がするからね。」
 これも、――このUの言葉もやはり如何にも春の夜らしかつた。

     三

 僕は支那の少女が一人(ひとり)、電車に乗るのを眺めてゐた。それは季節を破壊する電燈の光の下だつたにもせよ、実際春の夜(よ)に違ひなかつた。少女は僕に後ろを向け、電車のステツプに足をかけようとした。僕は巻煙草を銜(くは)へたまま、ふとこの少女の耳の根に垢(あか)の残つてゐるのを発見した。その又垢は垢と云ふよりも「よごれ」と云ふのに近いものだつた。僕は電車の走つて行つた後(のち)もこの耳の根に残つた垢に何か暖さを感じてゐた。

     四

 或春の夜(よ)、僕は路ばたに立ち止つた馬車の側を通りかかつた。馬はほつそりした白馬(しろうま)だつた。僕はそこを通りながら、ちよつとこの馬の頸すぢに手を触れて見たい誘惑を感じた。

     五

 これも或春の夜のことである。僕は往来(わうらい)を歩きながら、鮫(さめ)の卵を食ひたいと思ひ出した。

     六

 春の夜の空想。――いつかカツフエ・プランタンの窓は広い牧場(ぼくぢやう)に開いてゐる。その又牧場のまん中には丸焼きにした□が一羽、首を垂れて何か考へてゐる。……

     七

 春の夜の言葉。――「やすちやんが青いうんこをしました。」

     八

 或三月の夜(よ)、僕はペンを休めた時、ふとニツケルの懐中時計の進んでゐるのを発見した。隣室の掛け時計は十時を打つてゐる。が、懐中時計は十時半になつてゐる。僕は懐中時計を置き火燵(ごたつ)の上に置き、丁寧(ていねい)に針を十時へ戻した。それから又ペンを動かし出した。時間と云ふものはかう云ふ時ほど、存外(ぞんぐわい)急に過ぎることはない。掛け時計は今度は十一時を打つた。僕はペンを持つたまま、懐中時計へ目をやると、――今度は不思議にも十二時になつてゐた。懐中時計は暖まると、針を早くまはすのかしら?

     九

 誰か椅子の上に爪を磨いてゐる。誰か窓の前にレエスをかがつてゐる。誰かやけに花をむしつてゐる。誰かそつと鸚鵡(あうむ)を絞め殺してゐる。誰か小さいレストランの裏の煙突の下に眠つてゐる。誰か帆前船(ほまへせん)の帆をあげてゐる。誰か柔い白パンに木炭画の線を拭つてゐる。誰か瓦斯(ガス)の□(にほひ)の中にシヤベルの泥をすくひ上げてゐる。誰か、――ではない。まるまると肥つた紳士が一人(ひとり)、「詩韻含英(しゐんがんえい)」を拡げながら、未(いま)だに春宵(しゆうせう)の詩を考へてゐる。……(昭和二・二・五)



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