将軍
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著者名:芥川竜之介 

     一 白襷隊

 明治三十七年十一月二十六日の未明だった。第×師団第×聯隊の白襷隊(しろだすきたい)は、松樹山(しょうじゅざん)の補備砲台(ほびほうだい)を奪取するために、九十三高地(くじゅうさんこうち)の北麓(ほくろく)を出発した。
 路(みち)は山陰(やまかげ)に沿うていたから、隊形も今日は特別に、四列側面の行進だった。その草もない薄闇(うすやみ)の路に、銃身を並べた一隊の兵が、白襷(しろだすき)ばかり仄(ほのめ)かせながら、静かに靴(くつ)を鳴らして行くのは、悲壮な光景に違いなかった。現に指揮官のM大尉なぞは、この隊の先頭に立った時から、別人のように口数(くちかず)の少い、沈んだ顔色(かおいろ)をしているのだった。が、兵は皆思いのほか、平生の元気を失わなかった。それは一つには日本魂(やまとだましい)の力、二つには酒の力だった。
 しばらく行進を続けた後(のち)、隊は石の多い山陰(やまかげ)から、風当りの強い河原(かわら)へ出た。
「おい、後(うしろ)を見ろ。」
 紙屋だったと云う田口(たぐち)一等卒(いっとうそつ)は、同じ中隊から選抜された、これは大工(だいく)だったと云う、堀尾(ほりお)一等卒に話しかけた。
「みんなこっちへ敬礼しているぜ。」
 堀尾一等卒は振り返った。なるほどそう云われて見ると、黒々(くろぐろ)と盛(も)り上った高地の上には、聯隊長始め何人かの将校たちが、やや赤らんだ空を後(うしろ)に、この死地に向う一隊の士卒へ、最後の敬礼を送っていた。
「どうだい? 大したものじゃないか? 白襷隊(しろだすきたい)になるのも名誉だな。」
「何が名誉だ?」
 堀尾一等卒は苦々(にがにが)しそうに、肩の上の銃を揺(ゆす)り上げた。
「こちとらはみんな死(しに)に行くのだぜ。して見ればあれは××××××××××××××そうって云うのだ。こんな安上(やすあが)りな事はなかろうじゃねえか?」
「それはいけない。そんな事を云っては×××すまない。」
「べらぼうめ! すむもすまねえもあるものか! 酒保(しゅほ)の酒を一合買うのでも、敬礼だけでは売りはしめえ。」
 田口一等卒は口を噤(つぐ)んだ。それは酒気さえ帯びていれば、皮肉な事ばかり並べたがる、相手の癖に慣(な)れているからだった。しかし堀尾一等卒は、執拗(しつよう)にまだ話し続けた。
「それは敬礼で買うとは云わねえ。やれ×××××とか、やれ×××××だとか、いろんな勿体(もったい)をつけやがるだろう。だがそんな事は嘘(うそ)っ八(ぱち)だ。なあ、兄弟。そうじゃねえか?」
 堀尾一等卒にこう云われたのは、これも同じ中隊にいた、小学校の教師(きょうし)だったと云う、おとなしい江木(えぎ)上等兵(じょうとうへい)だった。が、そのおとなしい上等兵が、この時だけはどう云う訣(わけ)か、急に噛(か)みつきそうな権幕(けんまく)を見せた。そうして酒臭い相手の顔へ、悪辣(あくらつ)な返答を抛(ほう)りつけた。
「莫迦野郎(ばかやろう)! おれたちは死ぬのが役目じゃないか?」
 その時もう白襷隊は、河原の向うへ上っていた。そこには泥を塗(ぬ)り固めた、支那人の民家が七八軒、ひっそりと暁(あかつき)を迎えている、――その家々の屋根の上には、石油色に襞(ひだ)をなぞった、寒い茶褐色の松樹山(しょうじゅざん)が、目の前に迫って見えるのだった。隊はこの村を離れると、四列側面の隊形を解いた。のみならずいずれも武装したまま、幾条かの交通路に腹這(はらば)いながら、じりじり敵前へ向う事になった。
 勿論(もちろん)江木(えぎ)上等兵も、その中に四つ這いを続けて行った。「酒保の酒を一合買うのでも、敬礼だけでは売りはしめえ。」――そう云う堀尾(ほりお)一等卒の言葉は、同時にまた彼の腹の底だった。しかし口数の少い彼は、じっとその考えを持ちこたえていた。それだけに、一層戦友の言葉は、ちょうど傷痕(きずあと)にでも触(ふ)れられたような、腹立たしい悲しみを与えたのだった。彼は凍(こご)えついた交通路を、獣(けもの)のように這い続けながら、戦争と云う事を考えたり、死と云う事を考えたりした。が、そう云う考えからは、寸毫(すんごう)の光明も得られなかった。死は×××××にしても、所詮(しょせん)は呪(のろ)うべき怪物だった。戦争は、――彼はほとんど戦争は、罪悪と云う気さえしなかった。罪悪は戦争に比べると、個人の情熱に根ざしているだけ、×××××××出来る点があった。しかし×××××××××××××ほかならなかった。しかも彼は、――いや、彼ばかりでもない。各師団から選抜された、二千人余りの白襷隊(しろだすきたい)は、その大なる×××にも、厭(いや)でも死ななければならないのだった。……
「来た。来た。お前はどこの聯隊(れんたい)だ?」
 江木上等兵はあたりを見た。隊はいつか松樹山の麓(ふもと)の、集合地へ着いているのだった。そこにはもうカアキイ服に、古めかしい襷(たすき)をあやどった、各師団の兵が集まっている、――彼に声をかけたのも、そう云う連中の一人だった。その兵は石に腰をかけながら、うっすり流れ出した朝日の光に、片頬の面皰(にきび)をつぶしていた。
「第×聯隊だ。」
「パン聯隊だな。」
 江木上等兵は暗い顔をしたまま、何ともその冗談(じょうだん)に答えなかった。
 何時間かの後(のち)、この歩兵陣地の上には、もう彼我(ひが)の砲弾が、凄(すさ)まじい唸(うな)りを飛ばせていた。目の前に聳えた松樹山の山腹にも、李家屯(りかとん)の我海軍砲は、幾たびか黄色い土煙(つちけむり)を揚げた。その土煙の舞い上(あが)る合間(あいま)に、薄紫の光が迸(ほどばし)るのも、昼だけに、一層悲壮だった。しかし二千人の白襷隊(しろだすきたい)は、こう云う砲撃の中に機(き)を待ちながら、やはり平生の元気を失わなかった。また恐怖に挫(ひし)がれないためには、出来るだけ陽気に振舞(ふるま)うほか、仕様のない事も事実だった。
「べらぼうに撃ちやがるな。」
 堀尾一等卒は空を見上げた。その拍子(ひょうし)に長い叫び声が、もう一度頭上の空気を裂(さ)いた。彼は思わず首を縮(ちぢ)めながら、砂埃(すなほこり)の立つのを避けるためか、手巾(ハンカチ)に鼻を掩(おお)っていた、田口(たぐち)一等卒に声をかけた。
「今のは二十八珊(にじゅうはっサンチ)だぜ。」
 田口一等卒は笑って見せた。そうして相手が気のつかないように、そっとポケットへ手巾(ハンカチ)をおさめた。それは彼が出征する時、馴染(なじみ)の芸者に貰って来た、縁(ふち)に繍(ぬい)のある手巾(ハンカチ)だった。
「音が違うな、二十八珊(サンチ)は。――」
 田口一等卒はこう云うと、狼狽(ろうばい)したように姿勢を正した。同時に大勢(おおぜい)の兵たちも、声のない号令(ごうれい)でもかかったように、次から次へと立ち直り始めた。それはこの時彼等の間へ、軍司令官のN将軍が、何人かの幕僚(ばくりょう)を従えながら、厳然と歩いて来たからだった。
「こら、騒いではいかん。騒ぐではない。」
 将軍は陣地を見渡しながら、やや錆(さび)のある声を伝えた。
「こう云う狭隘(きょうあい)な所だから、敬礼も何もせなくとも好(よ)い。お前達は何聯隊の白襷隊(しろだすきたい)じゃ?」
 田口一等卒は将軍の眼が、彼の顔へじっと注がれるのを感じた。その眼はほとんど処女のように、彼をはにかませるのに足るものだった。
「はい。歩兵第×聯隊であります。」
「そうか。大元気(おおげんき)にやってくれ。」
 将軍は彼の手を握った。それから堀尾(ほりお)一等卒へ、じろりとその眼を転ずると、やはり右手をさし伸(の)べながら、もう一度同じ事を繰返(くりかえ)した。
「お前も大元気にやってくれ。」
 こう云われた堀尾一等卒は、全身の筋肉が硬化(こうか)したように、直立不動の姿勢になった。幅の広い肩、大きな手、頬骨(ほおぼね)の高い赭(あか)ら顔。――そう云う彼の特色は、少くともこの老将軍には、帝国軍人の模範(もはん)らしい、好印象を与えた容子(ようす)だった。将軍はそこに立ち止まったまま、熱心になお話し続けた。
「今打っている砲台があるな。今夜お前たちはあの砲台を、こっちの物にしてしまうのじゃ。そうすると予備隊は、お前たちの行った跡(あと)から、あの界隈(かいわい)の砲台をみんな手に入れてしまうのじゃ。何でも一遍(いっぺん)にあの砲台へ、飛びつく心にならなければいかん。――」
 そう云う内に将軍の声には、いつか多少戯曲的な、感激の調子がはいって来た。
「好(よ)いか? 決して途中に立ち止まって、射撃なぞをするじゃないぞ。五尺の体を砲弾だと思って、いきなりあれへ飛びこむのじゃ、頼んだぞ。どうか、しっかりやってくれ。」
 将軍は「しっかり」の意味を伝えるように、堀尾一等卒の手を握った。そうしてそこを通り過ぎた。
「嬉しくもねえな。――」
 堀尾一等卒は狡猾(こうかつ)そうに、将軍の跡(あと)を見送りながら、田口一等卒へ目交(めくば)せをした。
「え、おい。あんな爺(じい)さんに手を握られたのじゃ。」
 田口一等卒は苦笑(くしょう)した。それを見るとどう云う訣(わけ)か、堀尾一等卒の心の中(うち)には、何かに済まない気が起った。と同時に相手の苦笑が、面憎(つらにく)いような心もちにもなった。そこへ江木(えぎ)上等兵が、突然横合いから声をかけた。
「どうだい、握手で××××のは?」
「いけねえ。いけねえ。人真似をしちゃ。」
 今度は堀尾一等卒が、苦笑せずにはいられなかった。
「××れると思うから腹が立つのだ。おれは捨ててやると思っている。」
 江木上等兵がこう云うと、田口一等卒も口を出した。
「そうだ。みんな御国(おくに)のために捨てる命だ。」
「おれは何のためだか知らないが、ただ捨ててやるつもりなのだ。×××××××でも向けられて見ろ。何でも持って行けと云う気になるだろう。」
 江木上等兵の眉(まゆ)の間(あいだ)には、薄暗い興奮が動いていた。
「ちょうどあんな心もちだ。強盗は金さえ巻き上げれば、×××××××云いはしまい。が、おれたちはどっち道(みち)死ぬのだ。×××××××××××××××××××××たのだ。どうせ死なずにすまないのなら、綺麗(きれい)に×××やった方が好いじゃないか?」
 こう云う言葉を聞いている内に、まだ酒気が消えていない、堀尾一等卒の眼の中には、この温厚(おんこう)な戦友に対する、侮蔑(ぶべつ)の光が加わって来た。「何だ、命を捨てるくらい?」――彼は内心そう思いながら、うっとり空へ眼をあげた。そうして今夜は人後に落ちず、将軍の握手に報いるため、肉弾になろうと決心した。……
 その夜(よ)の八時何分か過ぎ、手擲弾(しゅてきだん)に中(あた)った江木上等兵は、全身黒焦(くろこげ)になったまま、松樹山(しょうじゅざん)の山腹に倒れていた。そこへ白襷(しろだすき)の兵が一人、何か切れ切れに叫びながら、鉄条網(てつじょうもう)の中を走って来た。彼は戦友の屍骸(しがい)を見ると、その胸に片足かけるが早いか、突然大声に笑い出した。大声に、――実際その哄笑(こうしょう)の声は、烈しい敵味方の銃火の中に、気味の悪い反響を喚(よ)び起した。
「万歳! 日本(にっぽん)万歳! 悪魔降伏。怨敵(おんてき)退散(たいさん)。第×聯隊万歳! 万歳! 万々歳!」
 彼は片手に銃を振り振り、彼の目の前に闇を破った、手擲弾の爆発にも頓着(とんちゃく)せず、続けざまにこう絶叫していた。その光に透(す)かして見れば、これは頭部銃創のために、突撃の最中(さいちゅう)発狂したらしい、堀尾一等卒その人だった。

     二 間牒(かんちょう)

 明治三十八年三月五日の午前、当時全勝集(ぜんしょうしゅう)に駐屯(ちゅうとん)していた、A騎兵旅団(きへいりょだん)の参謀は、薄暗い司令部の一室に、二人の支那人を取り調べて居た。彼等は間牒(かんちょう)の嫌疑(けんぎ)のため、臨時この旅団に加わっていた、第×聯隊の歩哨(ほしょう)の一人に、今し方捉(とら)えられて来たのだった。
 この棟(むね)の低い支那家(しないえ)の中には、勿論今日も坎(かん)の火(か)っ気(き)が、快(こころよ)い温(あたたか)みを漂わせていた。が、物悲しい戦争の空気は、敷瓦(しきがわら)に触れる拍車の音にも、卓(たく)の上に脱いだ外套(がいとう)の色にも、至る所に窺(うかが)われるのであった。殊に紅唐紙(べにとうし)の聯(れん)を貼(は)った、埃(ほこり)臭い白壁(しらかべ)の上に、束髪(そくはつ)に結(ゆ)った芸者の写真が、ちゃんと鋲(びょう)で止めてあるのは、滑稽でもあれば悲惨でもあった。
 そこには旅団参謀のほかにも、副官が一人、通訳が一人、二人の支那人を囲(かこ)んでいた。支那人は通訳の質問通り、何でも明瞭(めいりょう)に返事をした。のみならずやや年嵩(としかさ)らしい、顔に短い髯(ひげ)のある男は、通訳がまだ尋ねない事さえ、進んで説明する風があった。が、その答弁は参謀の心に、明瞭ならば明瞭なだけ、一層彼等を間牒にしたい、反感に似たものを与えるらしかった。
「おい歩兵(ほへい)!」
 旅団参謀は鼻声に、この支那人を捉(とら)えて来た、戸口にいる歩哨を喚(よ)びかけた。歩兵、――それは白襷隊(しろだすきたい)に加わっていた、田口(たぐち)一等卒(いっとうそつ)にほかならなかった。――彼は戸の卍字格子(まんじごうし)を後に、芸者の写真へ目をやっていたが、参謀の声に驚かされると、思い切り大きい答をした。
「はい。」
「お前だな、こいつらを掴(つか)まえたのは? 掴まえた時どんなだったか?」
 人の好(い)い田口一等卒は、朗読的にしゃべり出した。
「私(わたくし)が歩哨(ほしょう)に立っていたのは、この村の土塀(どべい)の北端、奉天(ほうてん)に通ずる街道(かいどう)であります。その支那人は二人とも、奉天の方向から歩いて来ました。すると木の上の中隊長が、――」
「何、木の上の中隊長?」
 参謀はちょいと目蓋(まぶた)を挙げた。
「はい。中隊長は展望(てんぼう)のため、木の上に登っていられたのであります。――その中隊長が木の上から、掴(つか)まえろと私に命令されました。」
「ところが私が捉(とら)えようとすると、そちらの男が、――はい。その髯のない男であります。その男が急に逃げようとしました。……」
「それだけか?」
「はい。それだけであります。」
「よし。」
 旅団参謀は血肥(ちぶと)りの顔に、多少の失望を浮べたまま、通訳に質問の意を伝えた。通訳は退屈(たいくつ)を露(あらわ)さないため、わざと声に力を入れた。
「間牒でなければ何故(なぜ)逃げたか?」
「それは逃げるのが当然です。何しろいきなり日本兵が、躍(おど)りかかってきたのですから。」
 もう一人の支那人、――鴉片(あへん)の中毒に罹(かか)っているらしい、鉛色の皮膚(ひふ)をした男は、少しも怯(ひる)まずに返答した。
「しかしお前たちが通って来たのは、今にも戦場になる街道(かいどう)じゃないか? 良民ならば用もないのに、――」
 支那語の出来る副官は、血色の悪い支那人の顔へ、ちらりと意地の悪い眼を送った。
「いや、用はあるのです。今も申し上げた通り、私(わたくし)たちは新民屯(しんみんとん)へ、紙幣(しへい)を取り換えに出かけて来たのです。御覧下さい。ここに紙幣もあります。」
 髯(ひげ)のある男は平然と、将校たちの顔を眺め廻した。参謀はちょいと鼻を鳴らした。彼は副官のたじろいだのが、内心好(い)い気味に思われたのだ。……
「紙幣を取り換える? 命がけでか?」
 副官は負惜(まけおし)みの冷笑を洩らした。
「とにかく裸にして見よう。」
 参謀の言葉が通訳されると、彼等はやはり悪びれずに、早速赤裸(あかはだか)になって見せた。
「まだ腹巻(はらまき)をしているじゃないか? それをこっちへとって見せろ。」
 通訳が腹巻を受けとる時、その白木綿(しろもめん)に体温のあるのが、何だか不潔に感じられた。腹巻の中には三寸ばかりの、太い針がはいっていた。旅団参謀は窓明りに、何度もその針を検(しら)べて見た。が、それも平たい頭に、梅花(ばいか)の模様がついているほか、何も変った所はなかった。
「何か、これは?」
「私(わたくし)は鍼医(はりい)です。」
 髯のある男はためらわずに、悠然と参謀の問に答えた。
「次手(ついで)に靴(くつ)も脱(ぬ)いで見ろ。」
 彼等はほとんど無表情に、隠すべき所も隠そうとせず、検査の結果を眺めていた。が、ズボンや上着は勿論、靴や靴下を検べて見ても、証拠になる品は見当らなかった。この上は靴を壊(こわ)して見るよりほかはない。――そう思った副官は、参謀にその旨を話そうとした。
 その時突然次の部屋から、軍司令官を先頭に、軍司令部の幕僚(ばくりょう)や、旅団長などがはいって来た。将軍は副官や軍参謀と、ちょうど何かの打ち合せのため、旅団長を尋ねて来ていたのだった。
「露探(ろたん)か?」
 将軍はこう尋ねたまま、支那人の前に足を止めた。そうして彼等の裸姿(はだかすがた)へ、じっと鋭い眼を注いだ。後(のち)にある亜米利加(アメリカ)人が、この有名な将軍の眼には、Monomania じみた所があると、無遠慮な批評を下した事がある。――そのモノメニアックな眼の色が、殊にこう云う場合には、気味の悪い輝きを加えるのだった。
 旅団参謀は将軍に、ざっと事件の顛末(てんまつ)を話した。が、将軍は思い出したように、時々頷(うなず)いて見せるばかりだった。
「この上はもうぶん擲(なぐ)ってでも、白状させるほかはないのですが、――」
 参謀がこう云いかけた時、将軍は地図(ちず)を持った手に、床(ゆか)の上にある支那靴を指(ゆびさ)した。
「あの靴を壊(こわ)して見給え。」
 靴は見る見る底をまくられた。するとそこに縫いこまれた、四五枚の地図と秘密書類が、たちまちばらばらと床の上に落ちた。二人の支那人はそれを見ると、さすがに顔の色を失ってしまった。が、やはり押し黙ったまま、剛情(ごうじょう)に敷瓦を見つめていた。
「そんな事だろうと思っていた。」
 将軍は旅団長を顧みながら、得意そうに微笑を洩(もら)した。
「しかし靴とはまた考えたものですね。――おい、もうその連中(れんじゅう)には着物を着せてやれ。――こんな間牒(かんちょう)は始めてです。」
「軍司令官閣下の烱眼(けいがん)には驚きました。」
 旅団副官は旅団長へ、間牒の証拠品を渡しながら、愛嬌(あいきょう)の好(い)い笑顔を見せた。――あたかも靴に目をつけたのは、将軍よりも彼自身が、先だった事も忘れたように。
「だが裸にしてもないとすれば、靴よりほかに隠せないじゃないか?」
 将軍はまだ上機嫌だった。
「わしはすぐに靴と睨(にら)んだ。」
「どうもこの辺の住民はいけません。我々がここへ来た時も、日の丸の旗を出したのですが、その癖家の中を検(しら)べて見れば、大抵露西亜(ロシア)の旗を持っているのです。」
 旅団長も何か浮き浮きしていた。
「つまり奸佞邪智(かんねいじゃち)なのじゃね。」
「そうです。煮ても焼いても食えないのです。」
 こんな会話が続いている内、旅団参謀はまだ通訳と、二人の支那人を検べていた。それが急に田口一等卒へ、機嫌の悪い顔を向けると、吐(は)き出すようにこう命じた。
「おい歩兵! この間牒はお前が掴(つか)まえて来たのだから、次手(ついで)にお前が殺して来い。」
 二十分の後(のち)、村の南端の路ばたには、この二人の支那人が、互に辮髪(べんぱつ)を結ばれたまま、枯柳(かれやなぎ)の根がたに坐っていた。
 田口一等卒は銃剣をつけると、まず辮髪を解き放した。それから銃を構えたまま、年下の男の後(うしろ)に立った。が、彼等を突殺す前に、殺すと云う事だけは告げたいと思った。
「□(ニイ)、――」
 彼はそう云って見たが、「殺す」と云う支那語を知らなかった。
「□(ニイ)、殺すぞ!」
 二人の支那人は云い合せたように、じろりと彼を振り返った。しかし驚いたけはいも見せず、それぎり別々の方角へ、何度も叩頭(こうとう)を続け出した。「故郷へ別れを告げているのだ。」――田口一等卒は身構えながら、こうその叩頭を解釈した。
 叩頭が一通り済んでしまうと、彼等は覚悟をきめたように、冷然と首をさし伸した。田口一等卒は銃をかざした。が、神妙な彼等を見ると、どうしても銃剣が突き刺せなかった。
「□(ニイ)、殺すぞ!」
 彼はやむを得ず繰返した。するとそこへ村の方から、馬に跨(またが)った騎兵が一人、蹄(ひづめ)に砂埃(すなほこり)を巻き揚げて来た。
「歩兵!」
 騎兵は――近づいたのを見れば曹長(そうちょう)だった。それが二人の支那人を見ると、馬の歩みを緩(ゆる)めながら、傲然(ごうぜん)と彼に声をかけた。
「露探(ろたん)か? 露探だろう。おれにも、一人斬らせてくれ。」
 田口一等卒は苦笑(くしょう)した。
「何、二人とも上げます。」
「そうか? それは気前が好(い)いな。」
 騎兵は身軽に馬を下りた。そうして支那人の後(うしろ)にまわると、腰の日本刀を抜き放した。その時また村の方から、勇しい馬蹄(ばてい)の響と共に、三人の将校が近づいて来た。騎兵はそれに頓着(とんちゃく)せず、まっ向(こう)に刀(とう)を振り上げた。が、まだその刀を下(おろ)さない内に、三人の将校は悠々と、彼等の側へ通りかかった。軍司令官! 騎兵は田口一等卒と一しょに、馬上の将軍を見上げながら、正しい挙手の礼をした。
「露探(ろたん)だな。」
 将軍の眼には一瞬間、モノメニアの光が輝いた。
「斬れ! 斬れ!」
 騎兵は言下(ごんか)に刀をかざすと、一打(ひとうち)に若い支那人を斬(き)った。支那人の頭は躍るように、枯柳の根もとに転(ころ)げ落ちた。血は見る見る黄ばんだ土に、大きい斑点(はんてん)を拡げ出した。
「よし。見事だ。」
 将軍は愉快そうに頷(うなず)きながら、それなり馬を歩ませて行った。
 騎兵は将軍を見送ると、血に染(そ)んだ刀(とう)を提(ひっさ)げたまま、もう一人の支那人の後(うしろ)に立った。その態度は将軍以上に、殺戮(さつりく)を喜ぶ気色(けしき)があった。「この×××らばおれにも殺せる。」――田口一等卒はそう思いながら、枯柳の根もとに腰を下(おろ)した。騎兵はまた刀(とう)を振り上げた。が、髯(ひげ)のある支那人は、黙然(もくねん)と首を伸ばしたぎり、睫毛(まつげ)一つ動かさなかった。……
 将軍に従った軍参謀の一人、――穂積(ほづみ)中佐(ちゅうさ)は鞍(くら)の上に、春寒(しゅんかん)の曠野(こうや)を眺めて行った。が、遠い枯木立(かれこだち)や、路ばたに倒れた石敢当(せきかんとう)も、中佐の眼には映らなかった。それは彼の頭には、一時愛読したスタンダアルの言葉が、絶えず漂って来るからだった。
「私(わたし)は勲章(くんしょう)に埋(うずま)った人間を見ると、あれだけの勲章を手に入れるには、どのくらい××な事ばかりしたか、それが気になって仕方がない。……」
 ――ふと気がつけば彼の馬は、ずっと将軍に遅れていた。中佐は軽い身震(みぶるい)をすると、すぐに馬を急がせ出した。ちょうど当り出した薄日の光に、飾緒(かざりお)の金(きん)をきらめかせながら。

     三 陣中の芝居

 明治三十八年五月四日の午後、阿吉牛堡(あきつぎゅうほう)に駐(とどま)っていた、第×軍司令部では、午前に招魂祭(しょうこんさい)を行った後(のち)、余興(よきょう)の演芸会を催(もよお)す事になった。会場は支那の村落に多い、野天(のでん)の戯台(ぎだい)を応用した、急拵(きゅうごしらえ)の舞台の前に、天幕(テント)を張り渡したに過ぎなかった。が、その蓆敷(むしろじき)の会場には、もう一時の定刻前(ぜん)に、大勢(おおぜい)の兵卒が集っていた。この薄汚いカアキイ服に、銃剣を下げた兵卒の群(むれ)は、ほとんど看客(かんかく)と呼ぶのさえも、皮肉な感じを起させるほど、みじめな看客に違いなかった。が、それだけまた彼等の顔に、晴れ晴れした微笑が漂っているのは、一層可憐(かれん)な気がするのだった。
 将軍を始め軍司令部や、兵站監部(へいたんかんぶ)の将校たちは、外国の従軍武官たちと、その後(うしろ)の小高い土地に、ずらりと椅子(いす)を並べていた。そこには参謀肩章だの、副官の襷(たすき)だのが見えるだけでも、一般兵卒の看客(かんかく)席より、遥かに空気が花やかだった。殊に外国の従軍武官は、愚物(ぐぶつ)の名の高い一人でさえも、この花やかさを扶(たす)けるためには、軍司令官以上の効果があった。
 将軍は今日も上機嫌(じょうきげん)だった。何か副官の一人と話しながら、時々番付を開いて見ている、――その眼にも始終日光のように、人懐(ひとなつ)こい微笑が浮んでいた。
 その内に定刻の一時になった。桜の花や日の出をとり合せた、手際の好(い)い幕の後(うしろ)では、何度か鳴りの悪い拍子木(ひょうしぎ)が響いた。と思うとその幕は、余興掛の少尉の手に、するすると一方へ引かれて行った。
 舞台は日本の室内だった。それが米屋の店だと云う事は、一隅に積まれた米俵が、わずかに暗示を与えていた。そこへ前垂掛(まえだれが)けの米屋の主人が、「お鍋(なべ)や、お鍋や」と手を打ちながら、彼自身よりも背(せ)の高い、銀杏返(いちょうがえ)しの下女を呼び出して来た。それから、――筋は話すにも足りない、一場(いちじょう)の俄(にわか)が始まった。
 舞台の悪ふざけが加わる度に、蓆敷(むしろじき)の上の看客からは、何度も笑声(しょうせい)が立ち昇(のぼ)った。いや、その後(うしろ)の将校たちも、大部分は笑(わらい)を浮べていた。が、俄はその笑と競(きそ)うように、ますます滑稽(こっけい)を重ねて行った。そうしてとうとうしまいには、越中褌(えっちゅうふんどし)一つの主人が、赤い湯もじ一つの下女と相撲(すもう)をとり始める所になった。
 笑声はさらに高まった。兵站監部(へいたんかんぶ)のある大尉なぞは、この滑稽を迎えるため、ほとんど拍手さえしようとした。ちょうどその途端だった。突然烈しい叱咤(しった)の声は、湧き返っている笑の上へ、鞭(むち)を加えるように響き渡った。
「何だ、その醜態(しゅうたい)は? 幕を引け! 幕を!」
 声の主(ぬし)は将軍だった。将軍は太い軍刀の□(つか)に、手袋の両手を重ねたまま、厳然と舞台を睨(にら)んで居た。
 幕引きの少尉は命令通り、呆気(あっけ)にとられた役者たちの前へ、倉皇(そうこう)とさっきの幕を引いた。同時に蓆敷の看客も、かすかなどよめきの声のほかは、ひっそりと静まり返ってしまった。
 外国の従軍武官たちと、一つ席にいた穂積(ほづみ)中佐は、この沈黙を気の毒に思った。俄は勿論彼の顔には、微笑さえも浮ばせなかった。しかし彼は看客の興味に、同情を持つだけの余裕はあった。では外国武官たちに、裸(はだか)の相撲を見せても好(い)いか?――そう云う体面を重ずるには、何年か欧洲(おうしゅう)に留学した彼は、余りに外国人を知り過ぎていた。
「どうしたのですか?」
 仏蘭西(フランス)の将校は驚いたように、穂積中佐をふりかえった。
「将軍が中止を命じたのです。」
「なぜ?」
「下品ですから、――将軍は下品な事は嫌いなのです。」
 そう云う内にもう一度、舞台の拍子木(ひょうしぎ)が鳴り始めた。静まり返っていた兵卒たちは、この音に元気を取り直したのか、そこここから拍手(はくしゅ)を送り出した。穂積中佐もほっとしながら、彼の周囲を眺め廻した。周囲にい並んだ将校たちは、いずれも幾分か気兼(きがね)そうに、舞台を見たり見なかったりしている、――その中にたった一人、やはり軍刀へ手をのせたまま、ちょうど幕の開(あ)き出した舞台へ、じっと眼を注いでいた。
 次の幕は前と反対に、人情がかった旧劇だった。舞台にはただ屏風(びょうぶ)のほかに、火のともった行燈(あんどう)が置いてあった。そこに頬骨の高い年増(としま)が一人、猪首(いくび)の町人と酒を飲んでいた。年増は時々金切声(かなきりごえ)に、「若旦那(わかだんな)」と相手の町人を呼んだ。そうして、――穂積中佐は舞台を見ずに、彼自身の記憶に浸(ひた)り出した。柳盛座(りゅうせいざ)の二階の手すりには、十二三の少年が倚(よ)りかかっている。舞台には桜の釣り枝がある。火影(ほかげ)の多い町の書割(かきわり)がある。その中に二銭(にせん)の団洲(だんしゅう)と呼ばれた、和光(わこう)の不破伴左衛門(ふわばんざえもん)が、編笠(あみがさ)を片手に見得(みえ)をしている。少年は舞台に見入ったまま、ほとんど息さえもつこうとしない。彼にもそんな時代があった。……
「余興やめ! 幕を引かんか? 幕! 幕!」
 将軍の声は爆弾のように、中佐の追憶を打ち砕(くだ)いた。中佐は舞台へ眼を返した。舞台にはすでに狼狽(ろうばい)した少尉が、幕と共に走っていた。その間(あいだ)にちらりと屏風の上へ、男女の帯の懸かっているのが見えた。
 中佐は思わず苦笑(くしょう)した。「余興掛も気が利(き)かなすぎる。男女の相撲さえ禁じている将軍が、濡(ぬ)れ場(ば)を黙って見ている筈がない。」――そんな事を考えながら、叱声(しっせい)の起った席を見ると、将軍はまだ不機嫌そうに、余興掛の一等主計(いっとうしゅけい)と、何か問答を重ねていた。
 その時ふと中佐の耳は、口の悪い亜米利加(アメリカ)の武官が、隣に坐った仏蘭西(フランス)の武官へ、こう話しかける声を捉(とら)えた。
「将軍Nも楽(らく)じゃない。軍司令官兼検閲官(けんえつかん)だから、――」
 やっと三幕目(みまくめ)が始まったのは、それから十分の後(のち)だった。今度は木がはいっても、兵卒たちは拍手を送らなかった。
「可哀(かわい)そうに。監視(かんし)されながら、芝居を見ているようだ。」――穂積中佐は憐むように、ほとんど大きな話声も立てない、カアキイ服の群(むれ)を見渡した。
 三幕目の舞台は黒幕の前に、柳の木が二三本立ててあった。それはどこから伐(き)って来たか、生々(なまなま)しい実際の葉柳だった。そこに警部らしい髯(ひげ)だらけの男が、年の若い巡査をいじめていた。穂積(ほづみ)中佐は番附の上へ、不審そうに眼を落した。すると番附には「ピストル強盗(ごうとう)清水定吉(しみずさだきち)、大川端(おおかわばた)捕物(とりもの)の場(ば)」と書いてあった。
 年の若い巡査は警部が去ると、大仰(おおぎょう)に天を仰ぎながら、長々(ながなが)と浩歎(こうたん)の独白(どくはく)を述べた。何でもその意味は長い間(あいだ)、ピストル強盗をつけ廻しているが、逮捕(たいほ)出来ないとか云うのだった。それから人影でも認めたのか、彼は相手に見つからないため、一まず大川の水の中へ姿を隠そうと決心した。そうして後(うしろ)の黒幕の外へ、頭からさきに這(は)いこんでしまった。その恰好(かっこう)は贔屓眼(ひいきめ)に見ても、大川の水へ没するよりは、蚊帳(かや)へはいるのに適当していた。
 空虚の舞台にはしばらくの間(あいだ)、波の音を思わせるらしい、大太鼓(おおだいこ)の音がするだけだった。と、たちまち一方から、盲人が一人歩いて来た。盲人は杖をつき立てながら、そのまま向うへはいろうとする、――その途端(とたん)に黒幕の外から、さっきの巡査が飛び出して来た。「ピストル強盗、清水定吉、御用だ!」――彼はそう叫ぶが早いか、いきなり盲人へ躍りかかった。盲人は咄嗟(とっさ)に身構えをした。と思うと眼がぱっちりあいた。「憾(うら)むらくは眼が小さ過ぎる。」――中佐は微笑を浮べながら、内心大人気(おとなげ)ない批評を下した。
 舞台では立ち廻りが始まっていた。ピストル強盗は渾名(あだな)通り、ちゃんとピストルを用意していた。二発、三発、――ピストルは続けさまに火を吐(は)いた。しかし巡査は勇敢に、とうとう偽(にせ)目くらに縄(なわ)をかけた。兵卒たちはさすがにどよめいた。が、彼等の間からは、やはり声一つかからなかった。
 中佐は将軍へ眼をやった。将軍は今度も熱心に、じっと舞台を眺めていた。しかしその顔は以前よりも、遥かに柔(やさ)しみを湛(たた)えていた。
 そこへ舞台には一方から、署長とその部下とが駈(か)けつけて来た。が、偽目くらと挌闘中、ピストルの弾丸(たま)に中(あた)った巡査は、もう昏々(こんこん)と倒れていた。署長はすぐに活(かつ)を入れた。その間(あいだ)に部下はいち早く、ピストル強盗の縄尻(なわじり)を捉(とら)えた。その後(あと)は署長と巡査との、旧劇めいた愁歎場(しゅうたんば)になった。署長は昔の名奉行(めいぶぎょう)のように、何か云い遺(のこ)す事はないかと云う。巡査は故郷に母がある、と云う。署長はまた母の事は心配するな。何かそのほかにも末期(まつご)の際に、心遺りはないかと云う。巡査は何も云う事はない、ピストル強盗を捉えたのは、この上もない満足だと云う。
 ――その時ひっそりした場内に、三度(さんど)将軍の声が響いた。が、今度は叱声(しっせい)の代りに、深い感激の嘆声だった。
「偉い奴じゃ。それでこそ日本男児(にっぽんだんじ)じゃ。」
 穂積中佐はもう一度、そっと将軍へ眼を注いだ。すると日に焼けた将軍の頬(ほお)には、涙の痕(あと)が光っていた。「将軍は善人だ。」――中佐は軽い侮蔑(ぶべつ)の中(うち)に、明るい好意をも感じ出した。
 その時幕は悠々と、盛んな喝采(かっさい)を浴びながら、舞台の前に引かれて行った。穂積(ほづみ)中佐はその機会に、ひとり椅子(いす)から立ち上ると、会場の外へ歩み去った。
 三十分の後(のち)、中佐は紙巻を啣(くわ)えながら、やはり同参謀の中村(なかむら)少佐と、村はずれの空地(あきち)を歩いていた。
「第×師団の余興は大成功だね。N閣下は非常に喜んでいられた。」
 中村少佐はこう云う間(あいだ)も、カイゼル髭(ひげ)の端(はし)をひねっていた。
「第×師団の余興? ああ、あのピストル強盗か?」
「ピストル強盗ばかりじゃない。閣下はあれから余興掛を呼んで、もう一幕臨時にやれと云われた。今度は赤垣源蔵(あかがきげんぞう)だったがね。何と云うのかな、あれは? 徳利(とくり)の別れか?」
 穂積中佐は微笑した眼に、広い野原を眺めまわした。もう高粱(こうりょう)の青んだ土には、かすかに陽炎(かげろう)が動いていた。
「それもまた大成功さ。――」
 中村少佐は話し続けた。
「閣下は今夜も七時から、第×師団の余興掛に、寄席(よせ)的な事をやらせるそうだぜ。」
「寄席的? 落語(らくご)でもやらせるのかね?」
「何、講談だそうだ。水戸黄門(みとこうもん)諸国めぐり――」
 穂積中佐は苦笑(くしょう)した。が、相手は無頓着に、元気のよい口調を続けて行った。
「閣下は水戸黄門が好きなのだそうだ。わしは人臣としては、水戸黄門と加藤清正(かとうきよまさ)とに、最も敬意を払っている。――そんな事を云っていられた。」
 穂積中佐は返事をせずに、頭の上の空を見上げた。空には柳の枝の間(あいだ)に、細い雲母雲(きららぐも)が吹かれていた。中佐はほっと息を吐(は)いた。
「春だね、いくら満洲(まんしゅう)でも。」
「内地はもう袷(あわせ)を着ているだろう。」
 中村少佐は東京を思った。料理の上手な細君を思った。小学校へ行っている子供を思った。そうして――かすかに憂鬱になった。
「向うに杏(あんず)が咲いている。」
 穂積中佐は嬉しそうに、遠い土塀に簇(むらが)った、赤い花の塊りを指した。Ecoute-moi, Madeline………――中佐の心にはいつのまにか、ユウゴオの歌が浮んでいた。

     四 父と子と

 大正七年十月のある夜、中村(なかむら)少将、――当時の軍参謀中村少佐は、西洋風の応接室に、火のついたハヴァナを啣(くわ)えながら、ぼんやり安楽椅子によりかかっていた。
 二十年余りの閑日月(かんじつげつ)は、少将を愛すべき老人にしていた。殊に今夜は和服のせいか、禿(は)げ上(あが)った額のあたりや、肉のたるんだ口のまわりには、一層好人物じみた気色(けしき)があった。少将は椅子(いす)の背(せ)に靠(もた)れたまま、ゆっくり周囲を眺め廻した。それから、――急にため息を洩らした。
 室の壁にはどこを見ても、西洋の画(え)の複製らしい、写真版の額(がく)が懸(か)けてあった。そのある物は窓に倚(よ)った、寂しい少女の肖像(しょうぞう)だった。またある物は糸杉の間(あいだ)に、太陽の見える風景だった。それらは皆電燈の光に、この古めかしい応接室へ、何か妙に薄ら寒い、厳粛(げんしゅく)な空気を与えていた。が、その空気はどう云う訣(わけ)か、少将には愉快でないらしかった。
 無言(むごん)の何分かが過ぎ去った後(のち)、突然少将は室外に、かすかなノックの音を聞いた。
「おはいり。」
 その声と同時に室の中へは、大学の制服を着た青年が一人、背の高い姿を現した。青年は少将の前に立つと、そこにあった椅子に手をやりながら、ぶっきらぼうにこう云った。
「何か御用ですか? お父さん。」
「うん。まあ、そこにおかけ。」
 青年は素直(すなお)に腰を下(おろ)した。
「何です?」
 少将は返事をするために、青年の胸の金鈕(きんボタン)へ、不審(ふしん)らしい眼をやった。
「今日(きょう)は?」
「今日は河合(かわい)の――お父さんは御存知ないでしょう。――僕と同じ文科の学生です。河合の追悼会(ついとうかい)があったものですから、今帰ったばかりなのです。」
 少将はちょいと頷(うなず)いた後(のち)、濃いハヴァナの煙を吐いた。それからやっと大儀(たいぎ)そうに、肝腎(かんじん)の用向きを話し始めた。
「この壁にある画(え)だね、これはお前が懸け換えたのかい?」
「ええ、まだ申し上げませんでしたが、今朝(けさ)僕が懸け換えたのです。いけませんか?」
「いけなくはない。いけなくはないがね、N閣下の額だけは懸けて置きたい、と思う。」
「この中へですか?」
 青年は思わず微笑した。
「この中へ懸けてはいけないかね?」
「いけないと云う事もありませんが、――しかしそれは可笑(おか)しいでしょう。」
「肖像画(しょうぞうが)はあすこにもあるようじゃないか?」
 少将は炉(ろ)の上の壁を指した。その壁には額縁の中に、五十何歳かのレムブラントが、悠々と少将を見下していた。
「あれは別です。N将軍と一しょにはなりません。」
「そうか? じゃ仕方がない。」
 少将は容易に断念した。が、また葉巻の煙を吐きながら、静かにこう話を続けた。
「お前は、――と云うよりもお前の年輩のものは、閣下をどう思っているね?」
「別にどうも思ってはいません。まあ、偉い軍人でしょう。」
 青年は老いた父の眼に、晩酌(ばんしゃく)の酔(よい)を感じていた。
「それは偉い軍人だがね、閣下はまた実に長者(ちょうじゃ)らしい、人懐(ひとなつ)こい性格も持っていられた。……」
 少将はほとんど、感傷的に、将軍の逸話(いつわ)を話し出した。それは日露戦役後、少将が那須野(なすの)の別荘に、将軍を訪れた時の事だった。その日別荘へ行って見ると、将軍夫妻は今し方、裏山へ散歩にお出かけになった、――そう云う別荘番の話だった。少将は案内を知っていたから、早速(さっそく)裏山へ出かける事にした。すると二三町行った所に、綿服を纏(まと)った将軍が、夫人と一しょに佇(たたず)んでいた。少将はこの老夫妻と、しばらくの間(あいだ)立ち話をした。が、将軍はいつまでたっても、そこを立ち去ろうとしなかった。「何かここに用でもおありですか?」――こう少将が尋ねると、将軍は急に笑い出した。「実はね、今妻(さい)が憚(はばか)りへ行きたいと云うものだから、わしたちについて来た学生たちが、場所を探しに行ってくれた所じゃ。」ちょうど今頃、――もう路ばたに毬栗(いがぐり)などが、転がっている時分だった。
 少将は眼を細くしたまま、嬉しそうに独り微笑した。――そこへ色づいた林の中から、勢の好(い)い中学生が、四五人同時に飛び出して来た。彼等は少将に頓着(とんちゃく)せず、将軍夫妻をとり囲(かこ)むと、口々に彼等が夫人のために、見つけて来た場所を報告した。その上それぞれ自分の場所へ、夫人に来て貰うように、無邪気な競争さえ始めるのだった。「じゃあなた方に籤(くじ)を引いて貰おう。」――将軍はこう云ってから、もう一度少将に笑顔(えがお)を見せた。……
「それは罪のない話ですね。だが西洋人には聞かされないな。」
 青年も笑わずにはいられなかった。
「まあそんな調子でね、十二三の中学生でも、N閣下と云いさえすれば、叔父(おじ)さんのように懐(なつ)いていたものだ。閣下はお前がたの思うように、決して一介の武弁(ぶべん)じゃない。」
 少将は楽しそうに話し終ると、また炉の上のレムブラントを眺めた。
「あれもやはり人格者かい?」
「ええ、偉い画描(えか)きです。」
「N閣下などとはどうだろう?」
 青年の顔には当惑の色が浮んだ。
「どうと云っても困りますが、――まあN将軍などよりも、僕等に近い気もちのある人です。」
「閣下のお前がたに遠いと云うのは?」
「何と云えば好(い)いですか?――まあ、こんな点ですね、たとえば今日追悼会(ついとうかい)のあった、河合(かわい)と云う男などは、やはり自殺しているのです。が、自殺する前に――」
 青年は真面目(まじめ)に父の顔を見た。
「写真をとる余裕(よゆう)はなかったようです。」
 今度は機嫌の好(い)い少将の眼に、ちらりと当惑の色が浮んだ。
「写真をとっても好(い)いじゃないか? 最後の記念と云う意味もあるし、――」
「誰のためにですか?」
「誰と云う事もないが、――我々始めN閣下の最後の顔は見たいじゃないか?」
「それは少くともN将軍は、考うべき事ではないと思うのです。僕は将軍の自殺した気もちは、幾分かわかるような気がします。しかし写真をとったのはわかりません。まさか死後その写真が、どこの店頭にも飾(かざ)られる事を、――」
 少将はほとんど、憤然(ふんぜん)と、青年の言葉を遮(さえぎ)った。
「それは酷(こく)だ。閣下はそんな俗人じゃない。徹頭徹尾至誠の人だ。」
 しかし青年は不相変(あいかわらず)、顔色(かおいろ)も声も落着いていた。
「無論俗人じゃなかったでしょう。至誠の人だった事も想像出来ます。ただその至誠が僕等には、どうもはっきりのみこめないのです。僕等より後(のち)の人間には、なおさら通じるとは思われません。……」
 父と子とはしばらくの間(あいだ)、気まずい沈黙を続けていた。
「時代の違いだね。」
 少将はやっとつけ加えた。
「ええ、まあ、――」
 青年はこう云いかけたなり、ちょいと窓の外のけはいに、耳を傾けるような眼つきになった。
「雨ですね。お父さん。」
「雨?」
 少将は足を伸ばしたまま、嬉しそうに話頭を転換した。
「また榲□(マルメロ)が落ちなければ好(い)いが、……」
(大正十年十二月)



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