素戔嗚尊
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著者名:芥川竜之介 

        一

 高天原(たかまがはら)の国も春になった。
 今は四方(よも)の山々を見渡しても、雪の残っている峰は一つもなかった。牛馬の遊んでいる草原(くさはら)は一面に仄(ほの)かな緑をなすって、その裾(すそ)を流れて行く天(あめ)の安河(やすかわ)の水の光も、いつか何となく人懐(ひとなつか)しい暖みを湛(たた)えているようであった。ましてその河下(かわしも)にある部落には、もう燕(つばくら)も帰って来れば、女たちが瓶(かめ)を頭に載せて、水を汲みに行く噴(ふ)き井(い)の椿(つばき)も、とうに点々と白い花を濡れ石の上に落していた。――
 そう云う長閑(のどか)な春の日の午後、天(あめ)の安河(やすかわ)の河原には大勢の若者が集まって、余念もなく力競(ちからくら)べに耽(ふけ)っていた。
 始(はじめ)、彼等は手(て)ん手(で)に弓矢を執(と)って、頭上の大空へ矢を飛ばせた。彼等の弓の林の中からは、勇ましい弦(ゆんづる)の鳴る音が風のように起ったり止んだりした。そうしてその音の起る度に、矢は無数の蝗(いなご)のごとく、日の光に羽根を光らせながら、折から空に懸(かか)っている霞の中へ飛んで行った。が、その中でも白い隼(はやぶさ)の羽根の矢ばかりは、必ずほかの矢よりも高く――ほとんど影も見えなくなるほど高く揚った。それは黒と白と市松模様(いちまつもよう)の倭衣(しずり)を着た、容貌(ようぼう)の醜い一人の若者が、太い白檀木(しらまゆみ)の弓を握って、時々切って放す利(とが)り矢であった。
 その白羽(しらは)の矢が舞い上る度に、ほかの若者たちは空を仰いで、口々に彼の技倆(ぎりょう)を褒(ほ)めそやした。が、その矢がいつも彼等のより高く揚る事を知ると、彼等は次第に彼の征矢(そや)に冷淡な態度を装(よそお)い出した。のみならず彼等の中(うち)の何者かが、彼には到底及ばなくとも、かなり高い所まで矢を飛ばすと、反(かえ)ってその方へ賛辞を与えたりした。
 容貌の醜い若者は、それでも快活に矢を飛ばせ続けた。するとほかの若者たちは、誰からともなく弓を引かなくなった。だから今まで紛々(ふんぷん)と乱れ飛んでいた矢の雨も、見る見る数が少くなって来た。そうしてとうとうしまいには、彼の射る白羽の矢ばかりが、まるで昼見える流星(りゅうせい)のように、たった一筋空へ上るようになった。
 その内に彼も弓を止めて、得意らしい色を浮べながら、仲間の若者たちの方を振返った。が、彼の近所にはその満足を共にすべく、一人の若者も見当らなかった。彼等はもうその時には、みんな河原の水際(みぎわ)により集まって、美しい天の安河の流れを飛び越えるのに熱中していた。
 彼等は互に競(きそ)い合って、同じ河の流れにしても、幅の広い所を飛び越えようとした。時によると不運な若者は、焼太刀(やきだち)のように日を照り返した河の中へ転(ころ)げ落ちて、眩(まば)ゆい水煙(みずけむり)を揚げる事もあった。が、大抵(たいてい)は向うの汀(なぎさ)へ、ちょうど谷を渡る鹿のように、ひらりひらりと飛び移って行った。そうして今まで立っていたこちらの汀を振返っては声々に笑ったり話したりしていた。
 容貌の醜い若者はこの新しい遊戯を見ると、すぐに弓矢を砂の上に捨てて、身軽く河の流れを躍り越えた。そこは彼等が飛んだ中でも、最も幅の広い所であった。けれどもほかの若者たちはさらに彼には頓着しなかった。彼等には彼の後で飛んだ――彼よりも幅の狭い所を彼よりも楽に飛び越えた、背(せい)の高い美貌(びぼう)の若者の方が、遥(はるか)に人気があるらしかった。その若者は彼と同じ市松の倭衣(しずり)を着ていたが、頸(くび)に懸けた勾玉(まがたま)や腕に嵌(は)めた釧(くしろ)などは、誰よりも精巧な物であった。彼は腕を組んだまま、ちょいと羨しそうな眼を挙げて、その若者を眺めたが、やがて彼等の群を離れて、たった一人陽炎(かげろう)の中を河下(かわしも)の方へ歩き出した。

        二

 河下の方へ歩き出した彼は、やがて誰一人飛んだ事のない、三丈ほども幅のある流れの汀(なぎさ)へ足を止めた。そこは一旦湍(たぎ)った水が今までの勢いを失いながら、両岸の石と砂との間に青々と澱(よど)んでいる所であった。彼はしばらくその水面を目測しているらしかったが、急に二三歩汀を去ると、まるで石投げを離れた石のように、勢いよくそこを飛び越えようとした。が、今度はとうとう飛び損じて、凄(すさま)じい水煙を立てながら、まっさかさまに深みへ落ちこんでしまった。
 彼の河へ落ちた所は、ほかの若者たちがいる所と大して離れていなかった。だから彼の失敗はすぐに彼等の目にもはいった。彼等のある者はこれを見ると、「ざまを見ろ」と云うように腹を抱えて笑い出した。と同時にまたある者は、やはり囃(はや)し立てながらも、以前よりは遥(はるか)に同情のある声援の言葉を与えたりした。そう云う好意のある連中の中には、あの精巧な勾玉や釧の美しさを誇っている若者なども交(まじ)っていた。彼等は彼の失敗のために、世間一般の弱者のごとく、始めて彼に幾分の親しみを持つ事が出来たのであった。が、彼等も一瞬の後には、また以前の沈黙に――敵意を蔵した沈黙に還(かえ)らなければならない事が出来た。
 と云うのは河に落ちた彼が、濡(ぬ)れ鼠(ねずみ)のようになったまま、向うの汀へ這い上ったと思うと、執念深(しゅうねんぶか)くもう一度その幅の広い流れの上を飛び越えようとしたからであった。いや、飛び越えようとしたばかりではない。彼は足を縮(ちぢ)めながら、明礬色(みょうばんいろ)の水の上へ踊り上ったと思う内に、難なくそこを飛び越えた。そうしてこちらの水際(みぎわ)へ、雲のような砂煙を舞い上げながら、どさりと大きな尻餅(しりもち)をついた。それは彼等の笑を買うべく、余りに壮厳すぎる滑稽であった。勿論彼等の間からは、喝采も歓呼も起らなかった。
 彼は手足の砂を払うと、やっとずぶ濡れになった体を起して、仲間の若者たちの方を眺めやった。が、彼等はもうその時には、流れを飛び越えるのにも飽きたと見えて、また何か新しい力競(ちからくら)べを試むべく、面白そうに笑い興じながら、河上(かわかみ)の方へ急ぐ所であった。それでもまだ容貌の醜い若者は、快活な心もちを失わなかった。と云うよりも失う筈がなかった。何故(なぜ)と云えば彼等の不快は未(いまだ)に彼には通じなかった。彼はこう云う点になると、実際どこまでも御目出度(おめでた)く出来上った人間の一人であった。しかしまたその御目出度さがあらゆる強者に特有な烙印(やきいん)である事も事実であった。だから仲間の若者たちが河上の方へ行くのを見ると、彼はまだ滴(しずく)を垂らしたまま、麗(うら)らかな春の日に目(ま)かげをして、のそのそ砂の上を歩き出した。
 その間にほかの若者たちは、河原(かわら)に散在する巌石(がんせき)を持上げ合う遊戯(ゆうぎ)を始めていた。岩は牛ほどの大きさのも、羊ほどの小ささのも、いろいろ陽炎(かげろう)の中に転がっていた。彼等はみんな腕まくりをして、なるべく大きい岩を抱(だ)き起そうとした。が、手ごろな巌石のほかは、中でも膂力(りょりょく)の逞(たくま)しい五六人の若者たちでないと、容易に砂から離れなかった。そこでこの力競べは、自然と彼等五六人の独占する遊戯に変ってしまった。彼等はいずれも大きな岩を軽々と擡(もた)げたり投げたりした。殊に赤と白と三角模様の倭衣(しずり)の袖(そで)をまくり上げた、顔中(かおじゅう)鬚(ひげ)に埋(うず)まっている、背(せい)の低い猪首(いくび)の若者は、誰も持ち上げない巌石を自由に動かして見せた。周囲に佇(たたず)んだ若者たちは、彼の非凡な力業(ちからわざ)に賞讃の声を惜まなかった。彼もまたその賞讃の声に報ゆべく、次第に大きな巌石に力を試みようとするらしかった。
 あの容貌の醜い若者は、ちょうどこの五六人の力競(ちからくらべ)の真最中へ来合せたのであった。

        三

 あの容貌の醜い若者は、両腕を胸に組んだまま、しばらくは力自慢の五六人が勝負を争うのを眺めていた。が、やがて技癢(ぎよう)に堪え兼ねたのか、自分も水だらけな袖をまくると、幅の広い肩を聳(そびや)かせて、まるで洞穴(ほらあな)を出る熊のように、のそのそとその連中の中へはいって行った。そうしてまだ誰も持ち上げない巌石の一つを抱くが早いか、何の苦もなくその岩を肩の上までさし上げて見せた。
 しかし大勢の若者たちは、依然として彼には冷淡であった。ただ、その中でもさっきから賞讃の声を浴びていた、背の低い猪首の若者だけは、容易ならない競争者が現れた事を知ったと見えて、さすがに妬(ねた)ましそうな流し眼をじろじろ彼の方へ注いでいた。その内に彼は担(かつ)いだ岩を肩の上で一揺(ひとゆす)り揺ってから、人のいない向うの砂の上へ勢いよくどうと投げ落した。するとあの猪首の若者はちょうど餌に饑(う)えた虎のように、猛然と身を躍らせながら、その巌石へ飛びかかったと思うと、咄嗟(とっさ)の間に抱え上げて、彼にも劣らず楽々と肩よりも高くかざして見せた。
 それはこの二人の腕力が、ほかの力自慢の連中よりも数段上にあると云う事を雄弁に語っている証拠であった。そこで今まで臆面(おくめん)も無く力競べをしていた若者たちはいずれも興(きょう)のさめた顔を見合せながら、周囲に佇(たたず)んでいる見物仲間へ嫌(いや)でも加わらずにはいられなかった。その代りまた後(あと)に残った二人は、本来さほど敵意のある間柄でもなかったが、騎虎(きこ)の勢いで已(や)むを得ず、どちらか一方が降参するまで雌雄(しゆう)を争わずにはいられなくなった。この形勢を見た多勢の若者たちは、あの猪首(いくび)の若者がさし上げた岩を投げると同時に、これまでよりは一層熱心にどっとどよみを作りながら、今度はずぶ濡れになった彼の方へいつになく一斉に眼(まなこ)を注いだ。が、彼等がただ勝負にのみ興味を持っていると云う事は、――彼自身に対してはやはり好意を持っていないと云う事は、彼等の意地悪(いじわ)るそうな眼の中にも、明かによめる事実であった。
 それでも彼は相不変(あいかわらず)悠々と手に唾(つばき)など吐きながら、さっきのよりさらに一嵩(ひとかさ)大きい巌石の側へ歩み寄った。それから両手に岩を抑(おさ)えて、しばらく呼吸を計っていたが、たちまちうんと力を入れると、一気に腹まで抱え上げた。最後にその手をさし換えてから、見る見る内にまた肩まで物も見事に担(かつ)いで見せた。が、今度は投げ出さずに、眼で猪首の若者を招くと、人の好さそうな微笑を浮べながら、
「さあ、受取るのだ。」と声をかけた。
 猪首の若者は数歩を隔てて、時々髭(ひげ)を噛(か)みながら、嘲(あざけ)るように彼を眺めていたが、
「よし。」と一言(ひとこと)答えると、つかつかと彼の側へ進み寄って、すぐにその巌石を小山のような肩へ抱(だ)き取った。そうして二三歩歩いてから、一度眼の上までさし上げて置いて、力の限り向うへ抛(ほう)り投げた。岩は凄じい地響きをさせながら、見物の若者たちの近くへ落ちて、銀粉のような砂煙を揚げた。
 大勢の若者たちはまた以前のようにどよめき立った。が、その声がまだ消えない内に、もうあの猪首の若者は、さらに勝敗を争うべく、前にも増して大きい岩を水際(みぎわ)の砂から抱き起していた。

        四

 二人はこう云う力競(ちからくら)べを何回となく闘(たたか)わせた。その内に追い追い二人とも、疲労の気色(けしき)を現して来た。彼等の顔や手足には、玉のような汗が滴(したた)っていた。のみならず彼等の着ている倭衣(しずり)は、模様の赤黒も見えないほど、一面に砂にまみれていた。それでも彼等は息を切らせながら、必死に巌石を擡(もた)げ合って、最後の勝敗が決するまでは容易に止(や)めそうな容子(ようす)もなかった。
 彼等を取り巻いた若者たちの興味は、二人の疲労が加わるのにつれて、益々強くなるらしかった。この点ではこの若者たちも闘鶏(とうけい)や闘犬(とうけん)の見物(けんぶつ)同様、残忍でもあれば冷酷でもあった。彼等はもう猪首の若者に特別な好意を持たなかった。それにはすでに勝負の興味が、余りに強く彼等の心を興奮の網に捉(とら)えていた。だから彼等は二人の力者(りきしゃ)に、代る代る声援を与えた。古来そのために無数の鶏、無数の犬、無数の人間が徒(いたず)らに尊い血を流した、――宿命的にあらゆる物を狂気にさせる声援を与えた。
 勿論この声援は二人の若者にも作用した。彼等は互に血走った眼の中に、恐るべき憎悪を感じ合った。殊に背(せい)の低い猪首(いくび)の若者は、露骨にその憎悪を示して憚(はばか)らなかった。彼の投げ捨てる巌石は、しばしば偶然とは解釈し難いほど、あの容貌の醜い若者の足もとに近く転げ落ちた。が、彼はそう云う危険に全然無頓着でいるらしかった。あるいは無頓着に見えるくらい、刻々近づいて来る勝敗に心を奪われているのかも知れなかった。
 彼は今も相手の投げた巌石を危く躱(かわ)しながら、とうとうしまいには勇を鼓(こ)して、これも水際(みぎわ)に横(よこた)わっている牛ほどの岩を引起しにかかった。岩は斜(ななめ)に流れを裂(さ)いて、淙々(そうそう)とたぎる春の水に千年(ちとせ)の苔(こけ)を洗わせていた。この大岩を擡(もた)げる事は、高天原(たかまがはら)第一の強力(ごうりき)と云われた手力雄命(たぢからおのみこと)でさえ、たやすく出来ようとは思われなかった。が、彼はそれを両手に抱くと、片膝砂へついたまま、渾身(こんしん)の力を揮(ふる)い起して、ともかくも岩の根を埋(うず)めた砂の中からは抱え上げた。
 この人間以上の膂力(りょりょく)は、周囲に佇(たたず)んだ若者たちから、ほとんど声援を与うべき余裕さえ奪った観(かん)があった。彼等は皆息を呑んで千曳(ちびき)の大岩を抱えながら、砂に片膝ついた彼の姿を眼も離さずに眺めていた。彼はしばらくの間動かなかった。しかし彼が懸命の力を尽している事だけは、その手足から滴(したた)り落ちる汗の絶えないのにも明かであった。それがやや久しく続いた後(のち)、声をひそめていた若者たちは、誰からともなくまたどよみを挙げた。ただそのどよみは前のような、勢いの好(よ)い声援の叫びではなく、思わず彼等の口を洩(も)れた驚歎の呻(うめ)きにほかならなかった。何故(なぜ)と云えばこの時彼は、大岩の下に肩を入れて、今までついていた片膝を少しずつ擡(もた)げ出したからであった。岩は彼が身を起すと共に、一寸ずつ、一分(いちぶ)ずつ、じりじり砂を離れて行った。そうして再び彼等の間から一種のどよみが起った時には、彼はすでに突兀(とつこつ)たる巌石を肩に支えながら、みずらの髪を額(ひたい)に乱して、あたかも大地(だいち)を裂(さ)いて出た土雷(つちいかずち)の神のごとく、河原に横(よこた)わる乱石の中に雄々しくも立ち上っていた。

        五

 千曳(ちびき)の大岩を担(かつ)いだ彼は、二足(ふたあし)三足(みあし)蹌踉(そうろう)と流れの汀(なぎさ)から歩みを運ぶと、必死と食いしばった歯の間から、ほとんど呻吟する様な声で、「好(い)いか渡すぞ。」と相手を呼んだ。
 猪首(いくび)の若者は逡巡(しゅんじゅん)した。少くとも一瞬間は、凄壮そのもののような彼の姿に一種の威圧を感じたらしかった。が、これもすぐにまた絶望的な勇気を振い起して、
「よし。」と噛(か)みつくように答えたと思うと、奮然と大手を拡げながら、やにわにあの大岩を抱(だ)き取ろうとした。
 岩はほどなく彼の肩から、猪首の若者の肩へ移り出した。それはあたかも雲の堰が押し移るがごとく緩漫(かんまん)であった。と同時にまた雲の峰が堰(せ)き止め難いごとく刻薄であった。猪首の若者はまっ赤になって、狼(おおかみ)のように牙(きば)を噛みながら、次第にのしかかって来る千曳(ちびき)の岩を逞しい肩に支えようとした。しかし岩が相手の肩から全く彼の肩へ移った時、彼の体は刹那(せつな)の間(あいだ)、大風(おおかぜ)の中の旗竿のごとく揺れ動いたように思われた。するとたちまち彼の顔も半面を埋(うず)めた鬚(ひげ)を除いて、見る見る色を失い出した。そうしてその青ざめた額から、足もとの眩(まばゆ)い砂の上へ頻(しきり)に汗の玉が落ち始めた。――と思う間もなく今度は肩の岩が、ちょうどさっきとは反対に一寸ずつ、一分(いちぶ)ずつ、じりじり彼を圧して行った。彼はそれでも死力を尽して、両手に岩を支えながら、最後まで悪闘を続けようとしたが、岩は依然として運命のごとく下って来た。彼の体は曲り出した。彼の頭も垂れるようになった。今の彼はどこから見ても、石塊(いしくれ)の下にもがいている蟹(かに)とさらに変りはなかった。
 周囲に集まった若者たちは、余りの事に気を奪われて、茫然とこの悲劇を見守っていた。また実際彼等の手では、到底千曳の大岩の下から彼を救い出す事はむずかしかった。いや、あの容貌の醜い若者でさえ、今となっては相手の背(せな)からさっき擡(もた)げた大盤石(だいばんじゃく)を取りのける事が出来るかどうか、疑わしいのは勿論であった。だから彼もしばらくの間は、恐怖と驚愕(きょうがく)とを代る代る醜い顔に表しながら、ただ、漫然と自失した眼(まなこ)を相手に注ぐよりほかはなかった。
 その内に猪首の若者は、とうとう大岩に背(せな)を圧(お)されて、崩折(くずお)れるように砂へ膝をついた。その拍子(ひょうし)に彼の口からは、叫ぶとも呻(うめ)くとも形容出来ない、苦しそうな声が一声(ひとこえ)溢(あふ)れて来た。あの容貌の醜い若者は、その声が耳にはいるが早いか、急に悪夢から覚めたごとく、猛然と身を飜(ひるがえ)して、相手の上に蔽(おお)いかぶさった大岩を向うへ押しのけようとした。が、彼がまだ手さえかけない内に、猪首の若者は多愛(たわい)もなく砂の上にのめりながら、岩にひしがれる骨の音と共に、眼からも口からも夥(おびただ)しく鮮(あざやか)な血を迸(ほとばし)らせた。それがこの憐むべき強力(ごうりき)の若者の最期(さいご)であった。
 あの容貌の醜い若者は、ぼんやり手を束(つか)ねたまま、陽炎(かげろう)の中に倒れている相手の屍骸(しがい)を見下した。それから苦しそうな視線を挙げて、無言の答を求めるように、おずおず周囲に立っている若者たちを見廻した。が、大勢の若者たちは麗(うら)らかな日の光を浴びて、いずれも黙念(もくねん)と眼を伏せながら、一人も彼の醜い顔を仰ぎ見ようとするものはなかった。

        六

 高天原(たかまがはら)の国の若者たちは、それ以来この容貌の醜い若者に冷淡を装(よそお)う事が出来なくなった。彼等のある一団は彼の非凡な腕力に露骨な嫉妬(しっと)を示し出した。他の一団はまた犬のごとく盲目的に彼を崇拝した。さらにまた他の一団は彼の野性と御目出度(おめでた)さとに残酷な嘲笑(ちょうしょう)を浴せかけた。最後に数人の若者たちは心から彼に信服した。が、敵味方の差別なく彼等がいずれも彼に対して、一種の威圧を感じ始めた事は、打ち消しようのない事実であった。
 こう云う彼等の感情の変化は、勿論彼自身も見逃さなかった。が、彼のために悲惨な死を招いた、あの猪首(いくび)の若者の記憶は、未だに彼の心の底に傷(いた)ましい痕跡(こんせき)を残していた。この記憶を抱(いだ)いている彼は、彼等の好意と反感との前に、いずれも当惑に似た感じを味わないではいられなかった。殊に彼を尊敬する一団の若者たちに接する時は、ほとんど童女にでも似つかわしい羞恥(しゅうち)の情さえ感じ勝ちであった。これが彼の味方には、今までよりまた一層、彼に好意の目(ま)なざしを向けさせることになるらしかった。と同時に彼の敵には、それだけ彼に反感を加えさせる事にもなるらしかった。
 彼はなるべく人を避けた。そうして多くはたった一人、その部落を繞(めぐ)る山間の自然の中(うち)に時を過ごした。自然は彼に優しかった。森は木の芽を煙らせながら、孤独に苦しんでいる彼の耳へも、人懐しい山鳩(やまばと)の声を送って来る事を忘れなかった。沢も芽ぐんだ蘆(あし)と共に、彼の寂寥(せきりょう)を慰むべく、仄(ほの)かに暖い春の雲を物静な水に映していた。藪木(やぶき)の交(まじ)る針金雀花(はりえにしだ)、熊笹の中から飛び立つ雉子(きぎす)、それから深い谷川の水光りを乱す鮎(あゆ)の群、――彼はほとんど至る所に、仲間の若者たちの間には感じられない、安息と平和とを見出した。そこには愛憎(あいぞう)の差別はなかった、すべて平等に日の光と微風との幸福に浴していた。しかし――しかし彼は人間であった。
 時々彼が谷川の石の上に、水を掠(かす)めて去来する岩燕(いわつばめ)を眺めていると、あるいは山峡(やまかい)の辛夷(こぶし)の下に、蜜(みつ)に酔(よ)って飛びも出来ない虻(あぶ)の羽音(はおと)を聞いていると、何とも云いようのない寂しさが突然彼を襲う事があった。彼はその寂しさが、どこから来るのだかわからなかった。ただ、それが何年か前に、母を失った時の悲しみと似ているような気もちだけがした。彼はその当座(とうざ)どこへ行っても、当然そこにいるべき母のいない事を見せられると、必ず落莫(らくばく)たる空虚の感じに圧倒されるのが常であった。その悲しみに比べると、今の彼の寂しさが、より強いものとは思われなかった。が、一人の母を恋い歎(なげ)くより、より大きいと云う心もちはあった。だから彼は山間の春の中に、鳥や獣(けもの)のごとくさまよいながら、幸福と共に不可解な不幸をも味わずにはいられなかった。
 彼はこの寂しさに悩まされると、しばしば山腹に枝を張った、高い柏(かしわ)の梢(こずえ)に上って、遥か目の下の谷間の景色にぼんやりと眺め入る事があった。谷間にはいつも彼の部落が、天(あめ)の安河(やすかわ)の河原(かわら)に近く、碁石(ごいし)のように点々と茅葺(かやぶ)き屋根を並べていた。どうかするとまたその屋根の上には、火食(かしょく)の煙が幾すじもかすかに立ち昇っている様も見えた。彼は太い柏の枝へ馬乗りに跨(また)がりながら、長い間その部落の空を渡って来る風に吹かれていた。風は柏の小枝を揺(ゆす)って、折々枝頭の若芽の□(におい)を日の光の中に煽り立てた。が、彼にはその風が、彼の耳元を流れる度に、こう云う言葉を細々と囁(ささや)いて行くように思われた。
「素戔嗚(すさのお)よ。お前は何を探しているのだ。お前の探しているものは、この山の上にもなければ、あの部落の中にもないではないか。おれと一しょに来い。おれと一しょに来い。お前は何をためらっているのだ。素戔嗚よ。……」

        七

 しかし素戔嗚(すさのお)は風と一しょに、さまよって歩こうとは思わなかった。では何が孤独な彼を高天原(たかまがはら)の国に繋(つな)いでいたか。――彼は自(みずか)らそう尋(たず)ねると、必ず恥かしさに顔が赤くなった。それはこの容貌の醜い若者にも、私(ひそ)かに彼が愛している部落の娘がいたからであった。そうしてその娘に彼のような野人が恋をすると云う事は、彼自身にも何となく不似合(ふにあい)の感じがしたからであった。
 彼が始めてこの娘に遇(あ)ったのは、やはりあの山腹の柏(かしわ)の梢(こずえ)に、たった一人上っていた時であった。彼はその日も茫然と、目の下に白くうねっている天(あめ)の安河(やすかわ)を眺めていると、意外にも柏の枝の下から晴れ晴れした女の笑い声が起った。その声はまるで氷の上へばらばらと礫(こいし)を投げたように、彼の寂しい真昼の夢を突嗟(とっさ)の間(あいだ)に打ち砕いてしまった。彼は眠を破られた人の腹立たしさを感じながら、柏の下に草を敷いた林間の空き地へ眼を落した。するとそこには三人の女が、麗(うら)らかな日の光を浴びて、木の上の彼には気がつかないのか、頻(しきり)に何か笑い興じていた。
 彼等は皆竹籠を臂(ひじ)にかけている所を見ると、花か木の芽か山独活(やまうど)を摘みに来た娘らしかった。素戔嗚はその女たちを一人も見知って居なかった。が、彼等があの部落の中でも、卑(いや)しいものの娘でない事は、彼等の肩に懸(かか)っている、美しい領巾(ひれ)を見ても明かであった。彼等はその領巾を微風に飜(ひるがえ)しながら、若草の上に飛び悩んでいる一羽の山鳩(やまばと)を追いまわしていた。鳩は女たちの手の間を縫って、時々一生懸命に痛めた羽根をばたつかせたが、どうしても地上三尺とは飛び上る事が出来ないようであった。
 素戔嗚は高い柏の上から、しばらくこの騒ぎを見下していた。するとその内に女たちの一人は臂に懸けた竹籠もそこへ捨てて、危く鳩を捕えようとした。鳩はまた一しきり飛び立ちながら、柔かい羽根を雪のように紛々とあたりへ撒(ま)き散らした。彼はそれを見るが早いか、今まで跨(またが)っていた太枝を掴(つか)んで、だらりと宙に吊(つ)り下った。と思うと一つ弾(はず)みをつけて、柏の根元の草の上へ、勢いよくどさりと飛び下りた。が、その拍子(ひょうし)に足を辷(すべ)らせて、呆気(あっけ)にとられた女たちの中へ、仰向(あおむ)けさまに転がってしまった。
 女たちは一瞬間、唖(おし)のように顔を見合せていたが、やがて誰から笑うともなく、愉快そうに皆笑い出した。すぐに草の上から飛び起きた彼は、さすがに間の悪そうな顔をしながら、それでもわざと傲然(ごうぜん)と、女たちの顔を睨(にら)めまわした。鳩はその間に羽根を引き引き、木の芽に煙っている林の奥へ、ばたばた逃げて行ってしまった。
「あなたは一体どこにいらしったの?」
 やっと笑い止んだ女たちの一人は蔑(さげす)むようにこう云いながら、じろじろ彼の姿を眺めた。が、その声には、まだ抑え切れない可笑(おか)しさが残っているようであった。
「あすこにいた。あの柏の枝の上に。」
 素戔嗚は両腕を胸に組んで、やはり傲然と返事をした。

        八

 女たちは彼の答を聞くと、もう一度顔を見合せて笑い出した。それが素戔嗚尊(すさのおのみこと)には腹も立てば同時にまた何となく嬉しいような心もちもした。彼は醜い顔をしかめながら、故(ことさら)に彼等を脅(おびやか)すべく、一層不機嫌(ふきげん)らしい眼つきを見せた。
「何が可笑(おか)しい?」
 が、彼等には彼の威嚇(いかく)も、一向効果がないらしかった。彼等はさんざん笑ってから、ようやく彼の方を向くと、今度はもう一人がやや恥しそうに、美しい領巾(ひれ)を弄(もてあそ)びながら、
「じゃどうしてまた、あすこから下りていらしったの?」と云った。
「鳩(はと)を助けてやろうと思ったのだ。」
「私(あたし)たちだって助けてやる心算(つもり)でしたわ。」
 三番目の娘は笑いながら、活(い)き活(い)きと横合いから口を出した。彼女はまだ童女の年輩から、いくらも出てはいないらしかった。が、二人の友だちに比べると、顔も一番美しければ、容子(ようす)もすぐれて溌溂(はつらつ)としていた。さっき竹籠を投げ捨てながら、危く鳩を捕えようとしたのも、この利発(りはつ)らしい娘に違いなかった。彼は彼女と眼を合わすと、何故(なぜ)と云う事もなく狼狽(ろうばい)した。が、それだけに、また一方では、彼女の前にその慌(あわ)て方を見せたくないと云う心もちもあった。
「嘘をつけ。」
 彼は一生懸命に、乱暴な返事を抛(ほう)りつけた。が、その嘘でない事は、誰よりもよく彼自身が承知していそうな気もちがしていた。
「あら、嘘なんぞつくものですか。ほんとうに助けてやる心算(つもり)でしたわ。」
 彼女がこう彼をたしなめると、面白そうに彼の当惑(とうわく)を見守っていた二人の女たちも、一度に小鳥のごとくしゃべり出した。
「ほんとうですわ。」
「どうして嘘だと御思い?」
「あなたばかり鳩が可愛(かわい)いのじゃございません。」
 彼はしばらく返答も忘れて、まるで巣を壊(こわ)された蜜蜂(みつばち)のごとく、三方から彼の耳を襲って来る女たちの声に驚嘆していた。が、やがて勇気を振い起すと、胸に組んでいた腕を解いて、今にも彼等を片っ端から薙倒(なぎたお)しそうな擬勢(ぎせい)を示しながら、雷(いかずち)のように怒鳴りつけた。
「うるさい。嘘でなければ、早く向うへ行け。行かないと、――」
 女たちはさすがに驚いたらしく、慌(あわ)てて彼の側(かたわら)を飛びのいた。が、すぐにまた声を立てて笑いながら、ちょうど足もとに咲いていた嫁菜(よめな)の花を摘み取っては、一斉(いっせい)に彼へ抛りつけた。薄紫の嫁菜の花は所嫌わず紛々と、素戔嗚尊の体に降りかかった。彼はこの□(におい)の好い雨を浴びたまま、呆気(あっけ)にとられて立ちすくんでいた。が、たちまち今怒鳴りつけた事を思い出して、両腕を大きく開くや否や、猛然と悪戯(いたずら)な女たちの方へ、二足(ふたあし)三足(みあし)突進した。
 彼等はしかしその瞬間に、素早く林の外へ逃げて行った。彼は茫然と立ち止(どま)ったなり、次第に遠くなる領巾(ひれ)の色を、見送るともなく見送った。それからあたりの草の上に、点々と優しくこぼれている嫁菜の花へ眼をやった。すると何故(なぜ)か薄笑いが、自然と唇(くちびる)に上(のぼ)って来た。彼はごろりとそこへ横になって、芽をふいた梢の向うにある、麗(うら)らかな春の空を眺めた。林の外ではかすかながら、まだ女たちの笑い声が聞えた。が、間もなくそれも消えて、後(あと)にはただ草木の栄(さかえ)を孕(はら)んだ、明るい沈黙があるばかりになった。……
 何分(なんぷん)か後(のち)、あの羽根を傷(きずつ)けた山鳩は、怯(お)ず怯(お)ずまたそこへ還(かえ)って来た。その時もう草の上の彼は、静な寝息を洩らしていた。が、仰向(あおむ)いた彼の顔には、梢から落ちる日の光と一しょに、未だに微笑の影があった。鳩は嫁莱の花を踏みながら、そっと彼の近くへ来た。そうして彼の寝顔を覗くと、仔細らしく首を傾けた。あたかもその微笑の意味を考えようとでもするように。――

        九

 その日以来、彼の心の中には、あの快活な娘の姿が、時々鮮かに浮ぶようになった。彼は前にも云ったごとく、彼自身にもこう云う事実を認める事が恥しかった。まして仲間の若者たちには、一言(ひとこと)もこの事情を打ち明けなかった。また実際仲間の若者たちも彼の秘密を嗅(か)ぎつけるには、余りに平生(へいぜい)の素戔嗚(すさのお)が、恋愛とは遥(はるか)に縁の遠い、野蛮(やばん)な生活を送り過ぎていた。
 彼は相不変(あいかわらず)人を避けて、山間の自然に親しみ勝ちであった。どうかすると一夜中(ひとよじゅう)、森林の奥を歩き廻って、冒険を探す事もないではなかった。その間に彼は大きな熊や猪(しし)などを仕止めたことがあった。また時にはいつになっても春を知らない峰を越えて、岩石の間に棲(す)んでいる大鷲(おおわし)を射殺しにも行ったりした。が、彼は未嘗(いまだかつて)、その非凡な膂力(りょりょく)を尽すべき、手強(てごわ)い相手を見出さなかった。山の向うに穴居(けっきょ)している、慓悍(ひょうかん)の名を得た侏儒(こびと)でさえ彼に出合う度毎に、必ず一人ずつは屍骸(しがい)になった。彼はその屍骸から奪った武器や、矢先にかけた鳥獣を時々部落へ持って帰った。
 その内に彼の武勇の名は、益々多くの敵味方を部落の中につくって行った。従って彼等は機会さえあると、公然と啀(いが)み合う事を憚(はばか)らなかった。彼は勿論出来るだけ、こう云う争いを起させまいとした。が、彼等は彼等自身のために、彼の意嚮(いこう)には頓着なく、ほとんど何事にも軋轢(あつれき)し合った。そこには何か宿命的な、必然の力も動いていた。彼は敵味方の反目に不快な感じを抱きながら、しかもその反目のただ中へ、我知らず次第に引き込まれて行った。――
 現に一度はこう云うことがあった。
 ある麗(うらら)かな春の日暮、彼は弓矢をたばさみながら、部落の後に拡がっている草山(くさやま)を独(ひと)り下(くだ)って来た。その時の彼の心の中(うち)には、さっき射損じた一頭の牡鹿(おじか)が、まだ折々は未練がましく、鮮(あざや)かな姿を浮べていた。ところが草山がやや平(たいら)になって、一本の楡(にれ)の若葉の下に、夕日を浴びた部落の屋根が一目に見えるあたりまで来ると、そこには四五人の若者たちが、一人の若者を相手にして、頻(しきり)に何か云い争っていた。彼等が皆この草山へ、牛馬を飼(か)いに来るものたちだと云う事は、彼等のまわりに草を食(は)んでいる家畜を見ても明らかであった。殊にその一人の若者は、彼を崇拝する若者たちの中でも、ほとんど奴僕(ぬぼく)のごとく彼に仕えるために、反(かえ)って彼の反感を買った事がある男に違いなかった。
 彼は彼等の姿を見ると、咄嗟(とっさ)に何事か起りそうな、忌(いま)わしい予感に襲われた。しかしここへ来かかった以上、元(もと)より彼等の口論を見て過ぎる訳にも行かなかった。そこで彼はまず見覚えのある、その一人の若者に、
「どうしたのだ。」と声をかけた。
 その男は彼の顔を見ると、まるで百万の味方にでも遭(あ)ったように、嬉しそうに眼を輝かせながら、相手の若者たちの理不尽(りふじん)な事を滔々(とうとう)と早口にしゃべり出した。何でもその言葉によると、彼等はその男を憎むあまり、彼の飼っている牛馬をも傷(きずつ)けたり虐(いじ)めたりするらしかった。彼はそう云う不平を鳴す間も、時々相手を睨(にら)みつけて、
「逃げるなよ。今に返報をしてやるから。」などと、素戔嗚の勇力を笠に着た、横柄(おうへい)な文句を並べたりした。

        十

 素戔嗚(すさのお)は彼の不平を聞き流してから、相手の若者たちの方を向いて、野蛮(やばん)な彼にも似合わない、調停の言葉を述べようとした。するとその刹那(せつな)に彼の崇拝者は、よくよく口惜(くちお)しさに堪え兼ねたのか、いきなり近くにいた若者に飛びかかると、したたかその頬(ほお)を打ちのめした。打たれた若者はよろめきながら、すぐにまた相手へ掴(つか)みかかった。
「待て。こら、待てと云ったら待たないか。」
 こう叱りながら素戔嗚は、無理に二人を引き離そうとした。ところが打たれた若者は、彼に腕を掴まれると、血迷った眼を嗔(いか)らせながら、今度は彼へ獅噛(しが)みついて来た。と同時に彼の崇拝者は、腰にさした鞭(むち)をふりかざして、まるで気でも違ったように、やはり口論の相手だった若者たちの中へ飛びこんだ。若者たちも勿論この男に、おめおめ打たれるようなものばかりではなかった。彼等は咄嗟(とっさ)に二組に分れて、一方はこの男を囲むが早いか、一方は不慮の出来事に度(ど)を失った素戔嗚へ、紛々と拳(こぶし)を加えに来た。ここに立ち至ってはもう素戔嗚にも、喧嘩に加わるよりほかに途(みち)はなかった。のみならずついに相手の拳が、彼の頭(こうべ)に下(くだ)った時、彼は理非も忘れるほど真底(しんそこ)から一時に腹が立った。
 たちまち彼等は入り乱れて、互に打ったり打たれたりし出した。あたりに草を食(は)んでいた牛や馬も、この騒ぎに驚いて、四方へ一度に逃げて行った。が、それらの飼い主たちは拳を揮(ふる)うのに夢中になって、しばらくは誰も家畜の行方(ゆくえ)に気をとめる容子(ようす)は見えなかった。
 が、その内に素戔嗚と争ったものは、手を折られたり、足を挫(くじ)かれたりして、だんだん浮き足が立つようになった。そうしてとうとうしまいには、誰からともなく算を乱して、意気地(いくじ)なく草山を逃げ下(くだ)って行った。
 素戔嗚は相手を追い払うと、今度は彼の崇拝者が、まだ彼等に未練があるのを押し止(とど)めなければならなかった。
「騒ぐな。騒ぐな。逃げるものは逃がしてやるのが好(い)いのだ。」
 若者はやっと彼の手を離れると、べたりと草の上へ坐ってしまった。彼が手ひどく殴(なぐ)られた事は、一面に地腫(じばれ)のした彼の顔が、明白に語っている事実であった。素戔嗚は彼の顔を見ると、腹立たしい心のどん底から、急に可笑(おか)しさがこみ上げて来た。
「どうした? 怪我(けが)はしなかったか?」
「何、したってかまいはしません。今日と云う今日こそあいつらに、一泡吹かせてやったのですから。――それよりあなたこそ、御怪我はありませんか。」
「うん、瘤(こぶ)が一つ出来ただけだった。」
 素戔嗚はこう云う一言に忌々(いまいま)しさを吐き出しながら、そこにあった一本の楡(にれ)の根本(ねもと)に腰を下した。彼の眼の前には部落の屋根が、草山の腹にさす夕日の光の中に、やはり赤々と浮き上っていた。その景色が素戔嗚には、不思議に感じるくらい平和に見えた。それだけまた今までの格闘(かくとう)が、夢のような気さえしないではなかった。
 二人は草を敷いたまま、しばらくは黙って物静な部落の日暮を見下していた。
「どうです。瘤は痛みますか。」
「大して痛まない。」
「米(こめ)を噛(か)んでつけて置くと好(い)いそうですよ。」
「そうか。それは好い事を聞いた。」

        十一

 ちょうどこの喧嘩(けんか)と同じように、素戔嗚(すさのお)は次第にある一団の若者たちを嫌でも敵にしなければならなくなった。しかしそれが数の上から云うと、ほとんどこの部落の若者たちの三分の二以上の多数であった。この連中は彼の味方が、彼を首領と仰ぐように、思兼尊(おもいかねのみこと)だの手力雄尊(たぢからおのみこと)だのと云う年長者(ねんちょうじゃ)に敬意を払っていた。しかしそれらの尊(みこと)たちは、格別彼に敵意らしい何物も持っていないらしかった。
 殊に思兼尊などは、むしろ彼の野蛮な性質に好意を持っているようであった。現にあの草山の喧嘩から、二三日経ったある日の午後、彼が例のごとくたった一人、山の中の古沼へ魚を釣りに行っていると、偶然そこへ思兼尊が、これも独り分け入って来た。そうして隔意なく彼と一しょに、朽木(くちき)の幹へ腰を下して、思いのほか打融(うちと)けた世間話などをし始めた。
 尊(みこと)はもう髪も髯も白くなった老人ではあるが、部落第一の学者でもあり、予(か)ねてまた部落第一の詩人と云う名誉も担(にな)っていた。その上部落の女たちの中には、尊を非凡な呪物師(まじものし)のように思っているものもないではなかった。これは尊が暇さえあると、山谷(さんこく)の間をさまよい歩いて、薬草などを探して来るからであった。
 彼は勿論思兼尊に、反感を抱くべき理由がなかった。だから糸を垂(た)れたまま、喜んで尊の話相手になった。二人はそこで長い間、古沼に臨んだ柳の枝が、銀(しろがね)のような花をつけた下に、いろいろな事を話し合った。
「近頃はあなたの剛力(ごうりき)が、大分(だいぶ)評判(ひょうばん)のようじゃありませんか。」
 しばらくしてから思兼尊は、こう云って、片頬(かたほ)に笑(えみ)を浮べた。
「評判だけ大きいのです。」
「それだけでも結構ですよ。すべての事は評判があって、始めてあり甲斐(がい)があるのですから。」
 素戔嗚にはこの答が、一向腑(ふ)に落ちなかった。
「そうでしょうか。じゃ評判がなかったら、いくら私が剛力でも――」
「さらに剛力ではなくなるのです。」
「しかし人が掬(すく)わなくっても、砂金(しゃきん)は始(はじめ)から砂金でしょう。」
「さあ、砂金だとわかるのは、人に掬われてからの上じゃありませんか。」
「すると人が、ただの砂を砂金だと思って掬ったら――」
「やはりただの砂でも砂金になるでしょう。」
 素戔嗚は何だか思兼尊に、調戯(からか)われているような心もちがした。が、そうかと思って相手を見ても、尊の皺(しわ)だらけな目尻には、ただ微笑が宿っているばかりで、人の悪そうな気色(けしき)は少しもなかった。
「何だかそれじゃ砂金になっても、つまらないような気がしますが。」
「勿論つまらないものなのですよ。それ以上に考えるのは、考える方が間違っているのです。」
 思兼尊はこう云うと、実際つまらなそうな顔をしながら、どこかで摘んで来たらしい蕗(ふき)の薹(とう)の□(におい)を嗅(か)ぎ始めた。

        十二

 素戔嗚(すさのお)はしばらく黙っていた。するとまた思兼尊(おもいかねのみこと)が彼の非凡な腕力へ途切(とぎ)れた話頭を持って行った。
「いつぞや力競(ちからくら)べがあった時、あなたと岩を擡(もた)げ合って、死んだ男がいたじゃありませんか。」
「気の毒な事をしたものです。」
 素戔嗚は何となく、非難でもされたような心もちになって、思わず眼を薄日(うすび)がさした古沼(ふるぬま)の上へ漂(ただよ)わせた。古沼の水は底深そうに、まわりに芽(め)ぐんだ春の木々をひっそりと仄(ほの)明るく映していた。しかし思兼尊は無頓着に、時々蕗の薹へ鼻をやって、
「気の毒ですが、莫迦(ばか)げていますよ。第一私(わたし)に云わせると、競争する事がすでによろしくない。第二に到底勝てそうもない競争をするのが論外です。第三に命まで捨てるに至っては、それこそ愚(ぐ)の骨頂(こっちょう)じゃありませんか。」
「しかし私(わたくし)は何となく気が咎(とが)めてならないのですが。」
「何、あれはあなたが殺したのじゃありません。力競べを面白がっていた、ほかの若者たちが殺したのです。」
「けれども私はあの連中に、反(かえ)って憎(にく)まれているようです。」
「それは勿論憎まれますよ。その代りもしあなたが死んで、あなたの相手が勝負に勝ったら、あの連中はきっとあなたの相手を憎んだのに違いないでしょう。」
「世の中はそう云うものでしょうか。」
 その時尊(みこと)は返事をする代りに、「引いていますよ」と注意した。
 素戔嗚はすぐに糸を上げた。糸の先には山目(やまめ)が一尾(いちび)、溌溂(はつらつ)と銀のように躍(おど)っていた。
「魚は人間より幸福ですね。」
 尊は彼が竹の枝を山目の顎へ通すのを見ると、またにやにや笑いながら、彼にはほとんど通じない一種の理窟を並べ出した。
「人間が鉤(かぎ)を恐れている内に、魚は遠慮なく鉤を呑んで、楽々と一思いに死んでしまう。私は魚が羨しいような気がしますよ。」
 彼は黙ってもう一度、古沼へ糸を抛(ほう)りこんだ。が、やがて当惑らしい眼を尊へ向けて、
「どうもあなたのおっしゃる事は、私にはよく分りませんが。」と云った。
 尊は彼の言葉を聞くと、思いのほか真面目(まじめ)な調子になって、白い顎髯(あごひげ)を捻(ひね)りながら、
「わからない方が結構ですよ。さもないとあなたも私のように、何もする事が出来なくなります。」
「どうしてですか。」
 彼はわからないと云う口の下から、すぐまたこう尋(たず)ねずにはいられなかった。実際思兼尊の言葉は、真面目とも不真面目ともつかない内に、蜜か毒薬か、不思議なほど心を惹(ひ)くものが潜(ひそ)んでいたのであった。
「鉤(かぎ)が呑めるのは魚だけです。しかし私も若い時には――」
 思兼尊の皺(しわ)だらけな顔には、一瞬間いつにない寂しそうな色が去来した。
「しかし私も若い時には、いろいろ夢を見た事がありましたよ。」
 二人はそれから久しい間、互に別々な事を考えながら、静に春の木々を映している、古沼の上を眺めていた。沼の上には翡翠(かわせみ)が、時々水を掠(かす)めながら、礫(こいし)を打つように飛んで行った。

        十三

 その間もあの快活(かいかつ)な娘の姿は、絶えず素戔嗚(すさのお)の心を領していた。殊に時たま部落の内外で、偶然彼女と顔を合わせると、ほとんどあの山腹の柏(かしわ)の下で、始めて彼女と遇(あ)った時のように、訳もなく顔が熱くなったり、胸がはずんだりするのが常であった。が、彼女はいつも取澄まして、全然彼を見知らないかのごとく、頭を下げる容子(ようす)も見せなかった。――
 ある朝彼は山へ行く途中、ちょうど部落のはずれにある噴(ふ)き井(い)の前を通りかかると、あの娘が三四人の女たちと一しょに、水甕(みずがめ)へ水を汲(く)んでいるのに遇(あ)った。噴き井の上には白椿(しろつばき)が、まだ疎(まばら)に咲き残って、絶えず湧きこぼれる水の水沫(しぶき)は、その花と葉とを洩(も)れる日の光に、かすかな虹(にじ)を描いていた。娘は身をかがめながら、苔蒸(こけむ)した井筒(いづつ)に溢(あふ)れる水を素焼(すやき)の甕(かめ)へ落していたが、ほかの女たちはもう水を汲(く)み了(お)えたのか、皆甕を頭に載せて、しっきりなく飛び交(か)う燕(つばくら)の中を、家々へ帰ろうとする所であった。が、彼がそこへ来た途端(とたん)に、彼女は品(ひん)良(よ)く身を起すと、一ぱいになった水甕を重そうに片手に下げたまま、ちらりと彼の顔へ眼をやった、そうしていつになく、人懐しげに口元へ微笑を浮べて見せた。
 彼は例の通り当惑しながら、ちょいと挨拶(あいさつ)の点頭(じぎ)を送った。娘は水甕を頭へ載せながら、眼でその挨拶に答えると、仲間の女たちの後(あと)を追って、やはり釘(くぎ)を撒(ま)くような燕の中を歩き出した。彼は娘と入れ違いに噴井(ふきい)の側へ歩み寄って、大きな掌(たなごころ)へ掬(すく)った水に、二口三口喉(のど)を沾(うるお)した。沽しながら彼女の眼つきや唇の微笑を思い浮べて、何か嬉しいような、恥かしいような心もちに顔を赤めていた。と同時にまた己(おのれ)自身を嘲(あざけ)りたいような気もしないではなかった。
 その間に女たちはそよ風に領巾(ひれ)を飜(ひるがえ)しながら、頭の上の素焼の甕にさわやかな朝日の光を浴びて次第に噴(ふ)き井(い)から遠ざかって行った。が、間もなく彼等の中からは一度に愉快そうな笑い声が起った。それにつれて彼等のある者は、笑顔を後(うしろ)へ振り向けながら、足も止めずに素戔嗚の方へ、嘲るような視線を送りなぞした。
 噴き井の水を飲んでいた彼は、幸(さいわい)その視線に煩(わずら)わされなかった。しかし彼等の笑い声を聞くと、いよいよ妙に間が悪くなって、今更飲みたくもない水を、もう一杯手で掬って飲んだ。すると中高(なかだか)になった噴き井の水に、意外にも誰か人の姿が、咄嗟(とっさ)に覚束(おぼつか)ない影を落した。素戔嗚は慌(あわ)てた眼を挙げて、噴き井の向うの白椿の下へ、鞭(むち)を持った一人の若者が、のそのそと歩み寄ったのと顔を合せた。それは先日草山の喧嘩に、とうとう彼まで巻添(まきぞ)えにした、あの牛飼(うしかい)の崇拝者であった。
「お早うございます。」
 若者は愛想(あいそ)笑いを見せながら、恭(うやうや)しく彼に会釈(えしゃく)をした。
「お早う。」
 彼はこの若者にまで、狼狽(ろうばい)した所を見られたかと思うと、思わず顔をしかめずにはいられなかった。

        十四

 が、若者はさり気(げ)ない調子で、噴き井の上に枝垂(しだ)れかかった白椿の花を□ (むし)りながら、
「もう瘤(こぶ)は御癒(おなお)りですか。」
「うん、とうに癒った。」
 彼は真面目にこんな返事をした。
「生米(なまごめ)を御つけになりましたか。」
「つけた。あれは思ったより利(き)き目があるらしかった。」
 若者は□ (むし)った椿の花を噴き井の中へ抛りこむと、急にまたにやにや笑いながら、
「じゃもう一つ、好い事を御教えしましょうか。」
「何だ。その好い事と云うのは。」
 彼が不審(ふしん)そうにこう問返すと、若者はまだ意味ありげな笑(えみ)を頬に浮べたまま、
「あなたの頸(くび)にかけて御出でになる、勾玉(まがたま)を一つ頂かせて下さい。」と云った。
「勾玉をくれ? くれと云えばやらないものでもないが、勾玉を貰ってどうするのだ?」
「まあ、黙って頂かせて下さい。悪いようにはしませんから。」
「嫌だ。どうするのだか聞かない内は、勾玉なぞをやる訳には行かない。」
 素戔嗚(すさのお)はそろそろ焦(じ)れ出しながら、突慳貪(つっけんどん)に若者の請(こい)を却(しりぞ)けた。すると相手は狡猾(こうかつ)そうに、じろりと彼の顔へ眼をやって、
「じゃ云いますよ。あなたは今ここへ水を汲みに来ていた、十五六の娘が御好きでしょう。」
 彼は苦(にが)い顔をして、相手の眉(まゆ)の間を睨(にら)みつけた。が、内心は少からず、狼狽(ろうばい)に狼狽を重ねていた。
「御好きじゃありませんか、あの思兼尊(おもいかねのみこと)の姪(めい)を。」
「そうか。あれは思兼尊の姪か。」
 彼は際(きわ)どい声を出した。若者はその容子(ようす)を見ると、凱歌(がいか)を挙げるように笑い出した。
「そら、御覧なさい。隠したってすぐに露(あら)われます。」
 彼はまた口を噤(つぐ)んで、じっと足もとの石を見つめていた。水沫(しぶき)を浴びた石の間には、疎(まばら)に羊歯(しだ)の葉が芽ぐんでいた。
「ですから私に勾玉を一つ、御よこしなさいと云うのです。御好きならまた御好きなように、取計らいようもあるじゃありませんか。」
 若者は鞭(むち)を弄(もてあそ)びながら、透(す)かさず彼を追窮した。彼の記憶には二三日前に、思兼尊と話し合った、あの古沼のほとりの柳の花が、たちまち鮮(あざやか)に浮んで来た。もしあの娘が尊の姪なら――彼は眼を足もとの石から挙げると、やはり顔をしかめたなり、
「そうして勾玉をどうするのだ?」と云った。
 しかし彼の眼の中には、明かに今まで見えなかった希望の色が動いていた。

        十五

 若者の答えは無造作(むぞうさ)であった。
「何、その勾玉をあの娘に渡して、あなたの思召しを伝えるのです。」
 素戔嗚(すさのお)はちょいとためらった。この男の弁舌を弄(ろう)する事は、何となく彼には不快であった。と云って彼自身、彼の心を相手に訴えるだけの勇気もなかった。若者は彼の醜い顔に躊躇(ちゅうちょ)の色が動くのを見ると、わざと冷やかに言葉を継(つ)いだ。
「御嫌(おいや)なら仕方はありませんが。」
 二人はしばらくの間黙っていた。が、やがて素戔嗚は頸(くび)に懸けた勾玉(まがたま)の中から、美しい琅□(ろうかん)の玉を抜いて、無言のまま若者の手に渡した。それは彼が何よりも、大事にかけて持っている、歿(な)くなった母の遺物(かたみ)であった。
 若者はその琅□に物欲しそうな眼を落しながら、
「これは立派な勾玉ですね、こんな性(たち)の好い琅□は、そう沢山はありますまい。」
「この国の物じゃない。海の向うにいる玉造(たまつくり)が、七日(なぬか)七晩(ななばん)磨いたと云う玉だ。」
 彼は腹立たしそうにこう云うと、くるりと若者に背(せな)を向けて、大股に噴(ふ)き井(い)から歩み去った。若者はしかし勾玉を掌(てのひら)の上に載せながら、慌(あわ)てて後を追いかけて来た。
「待っていて下さい。必ず二三日中には、吉左右(きっそう)を御聞かせしますから。」
「うん、急がなくって好いが。」
 彼等は倭衣(しずり)の肩を並べて、絶え間なく飛び交(か)う燕(つばくら)の中を山の方へ歩いて行った。後には若者の投げた椿の花が、中高(なかだか)になった噴き井の水に、まだくるくる廻りながら、流れもせず浮んでいた。
 その日の暮方(くれがた)、若者は例の草山の楡(にれ)の根がたに腰を下して、また素戔嗚に預けられた勾玉を掌へ載せて見ながら、あの娘に云い寄るべき手段をいろいろ考えていた。するとそこへもう一人の若者が、斑竹(はんちく)の笛(ふえ)を帯へさして、ぶらりと山を下って来た。それは部落の若者たちの中でも、最も精巧な勾玉や釧(くしろ)の所有者として知られている、背(せい)の高い美貌(びぼう)の若者であった。彼はそこを通りかかると、どう思ったかふと足を止めて、楡の下の若者に「おい、君。」と声をかけた。若者は慌てて、顔を挙げた。が、彼はこの風流な若者が、彼の崇拝する素戔嗚の敵の一人だと云う事を承知していた。そこでいかにも無愛想(ぶあいそ)に、
「何か御用ですか。」と返事をした。
「ちょいとその勾玉を見せてくれないか。」
 若者は苦(にが)い顔をしながら、琅□を相手の手に渡した。
「君の玉かい。」
「いいえ、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の玉です。」
 今度は相手の若者の方が、苦い顔をしずにはいられなかった。
「じゃいつもあの男が、自慢(じまん)そうに下げている玉だ。もっともこのほかに下げているのは、石塊(いしころ)同様の玉ばかりだが。」
 若者は毒口(どくぐち)を利きながら、しばらくその勾玉を弄(もてあそ)んでいたが、自分もその楡の根がたへ楽々と腰を下すと、
「どうだろう。物は相談と云うが、一つ君の計らいで、この玉を僕に売ってくれまいか。」と、大胆な事を云い出した。

        十六

 牛飼いの若者は否(いや)と返事をする代りに、頬(ほお)を脹(ふく)らせたまま黙っていた。すると相手は流し眼に彼の顔を覗きこんで、
「その代り君には御礼をするよ。刀が欲しければ刀を進上するし、玉が欲しければ玉も進上するし、――」
「駄目ですよ。その勾玉(まがたま)は素戔嗚尊(すさのおのみこと)が、ある人に渡してくれと云って、私に預けた品なのですから。」
「へええ、ある人へ渡してくれ? ある人と云うのは、ある女と云う事かい。」
 相手は好奇心を動かしたと見えて、急に気ごんだ調子になった。
「女でも男でも好いじゃありませんか。」
 若者は余計なおしゃべりを後悔しながら面倒臭そうにこう答を避けた。が、相手は腹を立てた気色(けしき)もなく、反(かえ)って薄気昧が悪いほど、優しい微笑を漏(も)らしながら、
「そりゃどっちでも好いさ。どっちでも好いが、その人へ渡す品だったら、そこは君の働き一つで、ほかの勾玉を持って行っても、大した差支(さしつかえ)はなさそうじゃないか。」
 若者はまた口を噤(つぐ)んで、草の上へ眼を反(そ)らせていた。
「勿論多少は面倒が起るかも知れないさ。しかしそのくらいな事はあっても、刀なり、玉なり、鎧(よろい)なり、乃至(ないし)はまた馬の一匹なり、君の手にはいった方が――」
「ですがね、もし先方が受け取らないと云ったら、私はこの玉を素戔嗚尊へ返さなければならないのですよ。」
「受け取らないと云ったら?」
 相手はちょいと顔をしかめたが、すぐに優しい口調に返って、
「もし先方が女だったら、そりゃ素戔嗚の玉なぞは受け取らないね。その上こんな琅□(ろうかん)は、若い女には似合わないよ。だから反(かえ)ってこの代りに、もっと派手(はで)な玉を持って行けば、案外すぐに受け取るかも知れない。」
 若者は相手の云う事も、一理ありそうな気がし出した。実際いかに高貴な物でも、部落の若い女たちが、こう云う色の玉を好むかどうか、疑わしいには違いなかったのであった。
「それからだね――」
 相手は唇(くちびる)を舐(な)めながら、いよいよもっともらしく言葉を継いだ。
「それからだね、たとい玉が違ったにしても、受け取って貰った方が、受け取らずに返されるよりは、素戔嗚も喜ぶだろうじゃないか。して見れば玉は取り換えた方が、反(かえ)って素戔嗚のためになるよ。素戔嗚のためになって、おまけに君が刀でも、馬でも手に入れるとなれば、もう文句はない筈だがね。」
 若者の心の中には、両方に刃のついた剣(つるぎ)やら、水晶を削(けず)った勾玉やら、逞(たく)ましい月毛(つきげ)の馬やらが、はっきりと浮び上って来た。彼は誘惑を避けるように、思わず眼をつぶりながら、二三度頭を強く振った。が、眼を開けると彼の前には、依然として微笑を含んでいる、美しい相手の顔があった。
「どうだろう。それでもまだ不服かい。不服なら――まあ、何とか云うよりも、僕の所まで来てくれ給え。刀も鎧(よろい)もちょうど君に御誂(おあつら)えなのがある筈だ。厩(うまや)には馬も五六匹いる。」
 相手は飽くまでも滑(なめらか)な舌を弄しながら気軽く楡(にれ)の根がたを立ち上った。若者はやはり黙念(もくねん)と、煮え切らない考えに沈んでいた。しかし相手が歩き出すと、彼もまたその後(あと)から、重そうな足を運び始めた。――
 彼等の姿が草山の下に、全く隠れてしまった時、さらに一人の若者が、のそのそそこへ下(くだ)って来た。夕日の光はとうに薄れて、あたりにはもう靄(もや)さえ動いていたが、その若者が素戔嗚だと云う事は、一目見てさえ知れる事であった。彼は今日射止めたらしい山鳥を二三羽肩にかけて、悠々と楡の下まで来ると、しばらく疲れた足を休めて、暮色の中に横たわっている部落の屋根を見下した。そうして独り唇に幸福な微笑を漂(ただよ)わせた。
 何も知らない素戔嗚は、あの快活な娘の姿を心に思い浮べたのであった。

        十七

 素戔嗚(すさのお)は一日一日と、若者の返事を待ち暮した。が、若者はいつになっても、容易に消息を齋(もたら)さなかった。のみならず故意か偶然か、ほとんどその後素戔嗚とは顔も合さないぐらいであった。彼は若者の計画が失敗したのではないかと思った。そのために彼と会う事が恥しいのではないかと思った。が、そのまた一方では、やはりまだあの快活な娘に、近づく機会がないのかも知れないと思い返さずにはいられなかった。
 その間に彼はあの娘と、朝早く同じ噴(ふ)き井(い)の前で、たった一度落合った事があった。
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