路上
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著者名:芥川竜之介 

        一

 午砲(どん)を打つと同時に、ほとんど人影の見えなくなった大学の図書館(としょかん)は、三十分経(た)つか経たない内に、もうどこの机を見ても、荒方(あらかた)は閲覧人で埋(う)まってしまった。
 机に向っているのは大抵(たいてい)大学生で、中には年輩の袴(はかま)羽織や背広も、二三人は交っていたらしい。それが広い空間を規則正しく塞(ふさ)いだ向うには、壁に嵌(は)めこんだ時計の下に、うす暗い書庫の入口が見えた。そうしてその入口の両側には、見上げるような大書棚(おおしょだな)が、何段となく古ぼけた背皮を並べて、まるで学問の守備でもしている砦(とりで)のような感を与えていた。
 が、それだけの人間が控えているのにも関(かかわ)らず、図書館の中はひっそりしていた。と云うよりもむしろそれだけの人間がいて、始めて感じられるような一種の沈黙が支配していた。書物の頁を飜(ひるがえ)す音、ペンを紙に走らせる音、それから稀(まれ)に咳(せき)をする音――それらの音さえこの沈黙に圧迫されて、空気の波動がまだ天井まで伝わらない内に、そのまま途中で消えてしまうような心もちがした。
 俊助(しゅんすけ)はこう云う図書館の窓際の席に腰を下して、さっきから細かい活字の上に丹念(たんねん)な眼を曝(さら)していた。彼は色の浅黒い、体格のがっしりした青年だった。が、彼が文科の学生だと云う事は、制服の襟にあるLの字で、問うまでもなく明かだった。
 彼の頭の上には高い窓があって、その窓の外には茂った椎(しい)の葉が、僅(わずか)に空の色を透(す)かせた。空は絶えず雲の翳(かげ)に遮(さえぎ)られて、春先の麗(うら)らかな日の光も、滅多(めった)にさしては来なかった。さしてもまた大抵は、風に戦(そよ)いでいる椎の葉が、朦朧(もうろう)たる影を書物の上へ落すか落さない内に消えてしまった。その書物の上には、色鉛筆の赤い線が、何本も行(ぎょう)の下に引いてあった。そうしてそれが時の移ると共に、次第に頁から頁へ移って行った。……
 十二時半、一時、一時二十分――書庫の上の時計の針は、休みなく確かに動いて行った。するとかれこれ二時かとも思う時分、図書館の扉口(とぐち)に近い、目録(カタログ)の函(はこ)の並んでいる所へ、小倉(こくら)の袴に黒木綿(くろもめん)の紋附(もんつき)をひっかけた、背の低い角帽が一人、無精(ぶしょう)らしく懐手(ふところで)をしながら、ふらりと外からはいって来た。これはその懐からだらしなくはみ出したノオト・ブックの署名によると、やはり文科の学生で、大井篤夫(おおいあつお)と云う男らしかった。
 彼はそこに佇(たたず)んだまま、しばらくはただあたりの机を睨(ね)めつけたように物色していたが、やがて向うの窓を洩れる大幅(おおはば)な薄日(うすび)の光の中に、余念なく書物をはぐっている俊助の姿が目にはいると、早速(さっそく)その椅子(いす)の後(うしろ)へ歩み寄って、「おい」と小さな声をかけた。俊助は驚いたように顔を挙げて、相手の方を振返ったが、たちまち浅黒い頬(ほお)に微笑を浮べて「やあ」と簡単な挨拶をした。と、大井も角帽をかぶったなり、ちょいと顋(あご)でこの挨拶に答えながら、妙に脂下(やにさが)った、傲岸(ごうがん)な調子で、
「今朝(けさ)郁文堂(いくぶんどう)で野村さんに会ったら、君に言伝(ことづ)てを頼まれた。別に差支えがなかったら、三時までに『鉢(はち)の木(き)』の二階へ来てくれと云うんだが。」

        二

「そうか。そりゃ難有(ありがと)う。」
 俊助(しゅんすけ)はこう云いながら、小さな金時計を出して見た。すると大井(おおい)は内懐(うちぶところ)から手を出して剃痕(そりあと)の青い顋(あご)を撫(な)で廻しながら、じろりとその時計を見て、
「すばらしい物を持っているな。おまけに女持ちらしいじゃないか。」
「これか。こりゃ母の形見だ。」
 俊助はちょいと顔をしかめながら、無造作(むぞうさ)に時計をポッケットへ返すと、徐(おもむろ)に逞(たくま)しい体を起して、机の上にちらかっていた色鉛筆やナイフを片づけ出した。その間(あいだ)に大井は俊助の読みかけた書物を取上げて、好(い)い加減に所々(ところどころ)開けて見ながら、
「ふん Marius the Epicurean か。」と、冷笑するような声を出したが、やがて生欠伸(なまあくび)を一つ噛(か)み殺すと、
「俊助ズィ・エピキュリアンの近況はどうだい。」
「いや、一向振(ふる)わなくって困っている。」
「そう謙遜するなよ。女持ちの金時計をぶら下げているだけでも、僕より遥に振っているからな。」
 大井は書物を抛(ほう)り出して、また両手を懐へ突こみながら、貧乏揺(ゆす)りをし始めたが、その内に俊助が外套(がいとう)へ手を通し出すと、急に思い出したような調子で、
「おい、君は『城(しろ)』同人(どうじん)の音楽会の切符を売りつけられたか。」と真顔(まがお)になって問いかけた。
『城』と言うのは、四五人の文科の学生が「芸術の為の芸術」を標榜(ひょうぼう)して、この頃発行し始めた同人雑誌の名前である。その連中の主催する音楽会が近々築地(つきじ)の精養軒(せいようけん)で開かれると云う事は、法文科の掲示場(けいじば)に貼ってある広告で、俊助も兼ね兼ね承知していた。
「いや、仕合せとまだ売りつけられない。」
 俊助は正直にこう答えながら、書物を外套の腋(わき)の下へ挟(はさ)むと、時代のついた角帽をかぶって、大井と一しょに席を離れた。と、大井も歩きながら、狡猾(こうかつ)そうに眼を働かせて、
「そうか、僕はもう君なんぞはとうに売りつけられたと思っていた。じゃこの際是非一枚買ってやってくれ。僕は勿論『城』同人じゃないんだが、あすこの藤沢(ふじさわ)に売りつけ方(かた)を委託(いたく)されて、実は大いに困却しているんだ。」
 不意打を食った俊助は、買うとか買わないとか答える前に、苦笑(くしょう)しずにはいられなかった。が、大井は黒木綿の紋附の袂(たもと)から、『城』同人の印(マアク)のある、洒落(しゃ)れた切符を二枚出すと、それをまるで花札(はなふだ)のように持って見せて、
「一等が三円で、二等が二円だ。おい、どっちにする? 一等か。二等か。」
「どっちも真平(まっぴら)だ。」
「いかん。いかん。金時計の手前に対しても、一枚だけは買う義務がある。」
 二人はこんな押問答を繰返しながら、閲覧人で埋(う)まっている机の間を通りぬけて、とうとう吹き曝(さら)しの玄関へ出た。するとちょうどそこへ、真赤な土耳其(トルコ)帽をかぶった、痩(や)せぎすな大学生が一人、金釦(きんボタン)の制服に短い外套を引っかけて、勢いよく外からはいって来た。それが出合頭(であいがしら)に大井と顔を合せると、女のような優しい声で、しかもまた不自然なくらい慇懃(いんぎん)に、
「今日(こんにち)は。大井さん。」と、声をかけた。

        三

「やあ、失敬。」
 大井(おおい)は下駄箱(げたばこ)の前に立止ると、相不変(あいかわらず)図太い声を出した。が、その間(あいだ)も俊助(しゅんすけ)に逃げられまいと思ったのか、剃痕(そりあと)の青い顋(あご)で横柄(おうへい)に土耳其帽(トルコぼう)をしゃくって見せて、
「君はまだこの先生を知らなかったかな。仏文の藤沢慧(ふじさわさとし)君。『城』同人(どうじん)の大将株で、この間ボオドレエル詩抄と云う飜訳を出した人だ。――こっちは英文の安田俊助(やすだしゅんすけ)君。」と、手もなく二人を紹介してしまった。
 そこで俊助も已(や)むを得ず、曖昧(あいまい)な微笑を浮べながら、角帽を脱いで黙礼した。が、藤沢は、俊助の世慣れない態度とは打って変った、いかにも如才(じょさい)ない調子で、
「御噂(おうわさ)は予々(かねがね)大井さんから、何かと承わって居りました。やはり御創作をなさいますそうで。その内に面白い物が出来ましたら、『城』の方へ頂きますから、どうかいつでも御遠慮なく。」
 俊助はまた微笑したまま、「いや」とか「いいえ」とか好(い)い加減な返事をするよりほかはなかった。すると今まで皮肉な眼で二人を見比べていた大井が、例の切符を土耳其帽(トルコぼう)に見せると、
「今、大いに『城』同人へ御忠勤を抽(ぬき)んでている所なんだ。」と、自慢がましい吹聴(ふいちょう)をした。
「ああ、そう。」
 藤沢は気味の悪いほど愛嬌(あいきょう)のある眼で、ちょいと俊助と切符とを見比べたが、すぐその眼を大井へ返して、
「じゃ一等の切符を一枚差上げてくれ給え。――失礼ですけれども、切符の御心配はいりませんから、聴きにいらして下さいませんか。」
 俊助は当惑(とうわく)そうな顔をして、何度も平(ひら)に辞退しようとした。が、藤沢はやはり愛想よく笑いながら、「御迷惑でもどうか」を繰返して、容易に出した切符を引込めなかった。のみならず、その笑の後(うしろ)からは、万一断られた場合には感じそうな不快さえ露骨に透(す)かせて見せた。
「じゃ頂戴して置きます。」
 俊助はとうとう我(が)を折って、渋々その切符を受取りながら、素(そ)っ気(け)ない声で礼を云った。
「どうぞ。当夜は清水昌一(しみずしょういち)さんの独唱(ソロ)もある筈になっていますから、是非大井さんとでもいらしって下さい。――君は清水さんを知っていたかしら。」
 藤沢はそれでも満足そうに華奢(きゃしゃ)な両手を揉(も)み合せて、優しくこう大井へ問いかけると、なぜかさっきから妙な顔をして、二人の問答を聞いていた大井は、さも冗談じゃないと云うように、鼻から大きく息を抜いて、また元の懐手(ふところで)に返りながら、
「勿論知らん。音楽家と犬とは昔から僕にゃ禁物(きんもつ)だ。」
「そう、そう、君は犬が大嫌いだったっけ。ゲエテも犬が嫌いだったと云うから、天才は皆そうなのかも知れない。」
 土耳其帽(トルコぼう)は俊助の賛成を求める心算(つもり)か、わざとらしく声高(こわだか)に笑って見せた。が、俊助は下を向いたまま、まるでその癇高(かんだか)い笑い声が聞えないような風をしていたが、やがてあの時代のついた角帽の庇(ひさし)へ手をかけると、二人の顔を等分に眺めながら、
「じゃ僕は失敬しよう。いずれまた。」と、取ってつけたような挨拶(あいさつ)をして、□々(そうそう)石段を下りて行った。

        四

 二人に別れた俊助(しゅんすけ)はふと、現在の下宿へ引き移った事がまだ大学の事務所まで届けてなかったのを思い出した。そこでまたさっきの金時計を出して見ると、約束の三時までにはかれこれ三十分足らずも時間があった。彼はちょいと事務所へ寄る事にして、両手を外套(がいとう)の隠しへ突っこみながら、法文科大学の古い赤煉瓦(あかレンガ)の建物の方へ、ゆっくりした歩調で歩き出した。
 と、突然頭の上で、ごろごろと春の雷(らい)が鳴った。仰向(あおむ)いて見ると、空はいつの間にか灰汁桶(あくおけ)を掻(か)きまぜたような色になって、そこから湿っぽい南風(みなみかぜ)が、幅の広い砂利道(じゃりみち)へ生暖く吹き下して来た。俊助は「雨かな」と呟きながら、それでも一向急ぐ気色(けしき)はなく、書物を腋(わき)の下に挟(はさ)んだまま、悠長な歩みを続けて行った。
 が、そう呟くか呟かない内に、もう一度かすかに雷(らい)が鳴って、ぽつりと冷たい滴(しずく)が頬に触れた。続いてまた一つ、今度は触るまでもなく、際どく角帽の庇を掠(かす)めて、糸よりも細い光を落した。と思うと追々に赤煉瓦の色が寒くなって、正門の前から続いている銀杏(いちょう)の並木の下まで来ると、もう高い並木の梢(こずえ)が一面に煙って見えるほど、しとしとと雨が降り出した。
 その雨の中を歩いて行く俊助の心は沈んでいた。彼は藤沢の声を思い出した。大井の顔も思い出した。それからまた彼等が代表する世間なるものも思い出した。彼の眼に映じた一般世間は、実行に終始するのが特色だった。あるいは実行するのに先立って、信じてかかるのが特色だった。が、彼は持って生れた性格と今日(こんにち)まで受けた教育とに煩(わずら)わされて、とうの昔に大切な、信ずると云う機能を失っていた。まして実行する勇気は、容易に湧いては来なかった。従って彼は世間に伍(ご)して、目まぐるしい生活の渦の中へ、思い切って飛びこむ事が出来なかった。袖手(しゅうしゅ)をして傍観す――それ以上に出る事が出来なかった。だから彼はその限りで、広い世間から切り離された孤独を味うべく余儀なくされた。彼が大井と交際していながら、しかも猶(なお)俊助ズィ・エピキュリアンなどと嘲(ののし)られるのはこのためだった。まして土耳其帽(トルコぼう)の藤沢などは……
 彼の考がここまで漂流して来た時、俊助は何気(なにげ)なく頭を擡(もた)げた。擡げると彼の眼の前には、第八番教室の古色蒼然たる玄関が、霧のごとく降る雨の中に、漆喰(しっくい)の剥(は)げた壁を濡らしていた。そうしてその玄関の石段の上には、思いもよらない若い女がたった一人佇(たたず)んでいた。
 雨脚(あまあし)の強弱はともかくも、女は雨止(あまや)みを待つもののごとく、静に薄暗い空を仰いでいた。額にほつれかかった髪の下には、潤(うるお)いのある大きな黒瞳(くろめ)が、じっと遠い所を眺めているように見えた。それは白い――と云うよりもむしろ蒼白い顔の色に、ふさわしい二重瞼(ふたえまぶた)だった。着物は――黒い絹の地へ水仙(すいせん)めいた花を疎(まばら)に繍(ぬ)い取った肩懸けが、なだらかな肩から胸へかけて無造作(むぞうさ)に垂れているよりほかに、何も俊助の眼には映らなかった。
 女は俊助が首を擡(もた)げたのと前後して、遠い空から彼の上へうっとりとその黒瞳勝(くろめが)ちな目を移した。それが彼の眼と出合った時、女の視線はしばらくの間(あいだ)、止まるとも動くともつかず漂っていた。彼はその刹那(せつな)、女の長い睫毛(まつげ)の後(うしろ)に、彼の経験を超越した、得体の知れない一種の感情が揺曳(ようえい)しているような心もちがした。が、そう思う暇(ひま)もなく、女はまた眼を挙げて、向うの講堂の屋根に降る雨の脚を眺め出した。俊助は外套の肩を聳やかせて、まるで女の存在を眼中に置かない人のように、冷然とその前を通り過ぎた。三度(さんど)頭の上の雲を震わせた初雷(はつらい)の響を耳にしながら。

        五

 雨に濡れた俊助(しゅんすけ)が『鉢(はち)の木(き)』の二階へ来て見ると、野村(のむら)はもう珈琲茶碗(コオヒイじゃわん)を前に置いて、窓の外の往来へ退屈そうな視線を落していた。俊助は外套(がいとう)と角帽とを給仕の手に渡すが早いか、勢いよく野村の卓子(テエブル)の前へ行って、「待たせたか」と云いながら、どっかり曲木(まげき)の椅子(いす)へ腰を下した。
「うん、待たない事もない。」
 ほとんど鈍重な感じを起させるほど、丸々と肥満した野村は、その太い指の先でちょいと大島の襟を直しながら、細い鉄縁(てつぶち)の眼鏡越しにのんびりと俊助の顔を見た。
「何にする? 珈琲か。紅茶か。」
「何でも好い。――今、雷(かみなり)が鳴ったろう。」
「うん、鳴ったような気もしない事はない。」
「相不変(あいかわらず)君はのんきだな。また認識の根拠は何処(いずく)にあるかとか何とか云う問題を、御苦労様にも考えていたんだろう。」
 俊助は金口(きんぐち)の煙草(たばこ)に火をつけると、気軽そうにこう云って、卓子(テエブル)の上に置いてある黄水仙(きずいせん)の鉢へ眼をやった。するとその拍子(ひょうし)に、さっき大学の中で見かけた女の眼が、何故(なぜ)か一瞬間生々(いきいき)と彼の記憶に浮んで来た。
「まさか――僕は犬と遊んでいたんだ。」
 野村は子供のように微笑しながら、心もち椅子をずらせて、足下(あしもと)に寝ころんでいた黒犬を、卓子掛(テエブルクロオス)の陰からひっぱり出した。犬は毛の長い耳を振って、大きな欠伸(あくび)を一つすると、そのまままたごろりと横になって、仔細(しさい)らしく俊助の靴の□(におい)を嗅ぎ出した。俊助は金口(きんぐち)の煙を鼻へ抜きながら、気がなさそうに犬の頭を撫(な)でてやった。
「この間、栗原(くりはら)の家(うち)にいたやつを貰って来たんだ。」
 野村は給仕の持って来た珈琲を俊助の方へ押しやりながら、また肥った指の先を着物の襟へちょいとやって、
「あすこじゃこの頃、家中(うちじゅう)がトルストイにかぶれているもんだから、こいつにも御大層なピエルと云う名前がついている。僕はこいつより、アンドレエと云う犬の方が欲しかったんだが、僕自身ピエルだから、何でもピエルの方をつれて行けと云うんで、とうとうこいつを拝領させられてしまったんだ。」
 と、俊助は珈琲茶碗を唇(くちびる)へ当てながら、人の悪い微笑を浮べて、調戯(からか)うように野村を一瞥した。
「まあピエルで満足しとくさ。その代りピエルなら、追っては目出度くナタシアとも結婚出来ようと云うもんだ。」
 野村もこれには狼狽(ろうばい)したものと見えて、しばらくは顔を所斑(ところまだら)に赤くしたが、それでも声だけはゆっくりした調子で、
「僕はピエルじゃない。と云って勿論アンドレエでもないが――」
「ないが、とにかく初子女史(はつこじょし)のナタシアたる事は認めるだろう。」
「そうさな、まあ御転婆(おてんば)な点だけは幾分認めない事もないが――」
「序(ついで)に全部認めちまうさ。――そう云えばこの頃初子女史は、『戦争と平和』に匹敵(ひってき)するような長篇小説を書いているそうじゃないか。どうだ、もう追(おっ)つけ完成しそうかね。」
 俊助はようやく鋒芒(ほうぼう)をおさめながら、短くなった金口(きんぐち)を灰皿の中へ抛(ほう)りこんで、やや皮肉にこう尋ねた。

        六

「実はその長篇小説の事で、今日は君に来て貰ったんだが。」
 野村は鉄縁(てつぶち)の眼鏡を外(はず)すと、刻銘(こくめい)に手巾(ハンケチ)で玉の曇りを拭いながら、
「初子(はつこ)さんは何でも、新しい『女の一生』を書く心算(つもり)なんだそうだ。まあ Une Vie □ la Tolsto□ と云う所なんだろう。そこでその女主人公(じょしゅじんこう)と云うのが、いろいろ数奇(さっき)な運命に弄(もてあそ)ばれた結果だね。――」
「それから?」
 俊助(しゅんすけ)は鼻を黄水仙の鉢へ持って行きながら、格別気乗りもしていなさそうな声でこう云った。が、野村は細い眼鏡の蔓(つる)を耳の後(うしろ)へからみつけると、相不変(あいかわらず)落着き払った調子で、
「最後にどこかの癲狂院(てんきょういん)で、絶命する事になるんだそうだ。ついてはその癲狂院の生活を描写したいんだが、生憎(あいにく)初子さんはまだそう云う所へ行って見た事がない。だからこの際(さい)誰かの紹介を貰って、どこでも好(い)いから癲狂院を見物したいと云っているんだ。――」
 俊助はまた金口(きんぐち)に火を付けながら、半ば皮肉な表情を浮べた眼で、もう一度「それから?」と云う相図(あいず)をした。
「そこで君から一つ、新田(にった)さんへ紹介してやって貰いたいんだが――新田さんと云うんだろう。あの物質主義者(マテリアリスト)の医学士は?」
「そうだ――じゃともかくも手紙をやって、向うの都合(つごう)を問い合せて見よう。多分差支えはなかろうと思うんだが。」
「そうか。そうして貰えれば、僕の方は非常に難有(ありがた)いんだ。初子さんも勿論(もちろん)大喜びだろう。」
 野村は満足そうに眼を細くして、続けさまに二三度大島の襟を直しながら、
「この頃はまるでその『女の一生』で夢中になっているんだから。一しょにいる親類の娘なんぞをつかまえても、始終その話ばかりしているらしい。」
 俊助は黙って、埃及(エジプト)の煙を吐き出しながら、窓の外の往来へ眼を落した。まだ霧雨(きりあめ)の降っている往来には、細い銀杏(いちょう)の並木が僅に芽を伸ばして、亀(かめ)の甲羅(こうら)に似た蝙蝠傘(こうもりがさ)が幾つもその下を動いて行く。それがまた何故(なぜ)か彼の記憶に、刹那の間さっき遇(あ)った女の眼を思い出させた。……
「君は『城』同人の音楽会へは行かないのか。」
 しばらく沈黙が続いた後(あと)で、野村はふと思出したようにこう尋ねた。と同時に俊助は、彼の心が何分かの間、ほとんど白紙のごとく空(むな)しかったのに気がついた。彼はちょいと顔をしかめて、冷(つめた)くなった珈琲を飲み干すと、すぐに以前のような元気を恢復して、
「僕は行こうと思っている。君は?」
「僕は今朝(けさ)郁文堂(いくぶんどう)で大井(おおい)君に言伝(ことづ)てを頼んだら何でも買ってくれと云うので、とうとう一等の切符を四枚押つけられてしまった。」
「四枚とはまたひどく奮発したものじゃないか。」
「何、どうせ三枚は栗原で買って貰うんだから。――こら、ピエル。」
 今まで俊助の足下(あしもと)に寝ころんでいた黒犬は、この時急に身を起すと、階段の上り口を睨(にら)みながら、凄(すさま)じい声で唸(うな)り出した。犬の気色(けしき)に驚いた野村と俊助とは、黄水仙(きずいせん)の鉢を隔てて向い合いながら、一度にその方へ振り返った。するとちょうどそこにはあの土耳其帽(トルコぼう)の藤沢が、黒いソフトをかぶった大学生と一しょに、雨に濡れた外套を給仕の手に渡している所だった。

        七

 一週間の後(のち)、俊助(しゅんすけ)は築地(つきじ)の精養軒(せいようけん)で催される『城』同人の音楽会へ行った。音楽会は準備が整わないとか云う事で、やがて定刻の午後六時が迫って来ても、容易に開かれる気色(けしき)はなかった。会場の次の間には、もう聴衆が大勢つめかけて、電燈の光も曇るほど盛に煙草の煙を立ち昇らせていた。中には大学の西洋人の教師も、一人二人は来ているらしかった。俊助は、大きな護謨(ごむ)の樹の鉢植が据えてある部屋の隅に佇(たたず)みながら、別に開会を待ち兼ねるでもなく、ぼんやり周囲の話し声に屈托(くったく)のない耳を傾けていた。
 するとどこからか大井篤夫(おおいあつお)が、今日は珍しく制服を着て、相不変(あいかわらず)傲然(ごうぜん)と彼の側へ歩いて来た。二人はちょいと点頭(てんとう)を交換した。
「野村はまだ来ていないか。」
 俊助がこう尋ねると、大井は胸の上に両手を組んで、反身(そりみ)にあたりを見廻しながら、
「まだ来ないようだ。――来なくって仕合せさ。僕は藤沢(ふじさわ)にひっぱられて来たもんだから、もうかれこれ一時間ばかり待たされている。」
 俊助は嘲(あざけ)るように微笑した。
「君がたまに制服なんぞ着て来りゃ、どうせ碌(ろく)な事はありゃしない。」
「これか。これは藤沢の制服なんだ。彼曰(いわく)、是非僕の制服を借りてくれ給え、そうすると僕はそれを口実に、親爺(おやじ)のタキシイドを借りるから。――そこでやむを得ず、僕がこれを着て、聴きたくもない音楽会なんぞへ出たんだ。」
 大井はあたり構わずこんな事を饒舌(しゃべ)りながら、もう一度ぐるり部屋の中を見渡して、それから、あすこにいるのは誰、ここにいるのは誰と、世間に名の知られた作家や画家を一々俊助に教えてくれた。のみならず序(ついで)を以て、そう云う名士たちの醜聞(スカンダアル)を面白そうに話してくれた。
「あの紋服と来た日にゃ、ある弁護士の細君をひっかけて、そのいきさつを書いた小説を御亭主の弁護士に献じるほど、すばらしい度胸のある人間なんだ。その隣のボヘミアン・ネクタイも、これまた詩よりも女中に手をつけるのが、本職でね。」 
 俊助はこんな醜い内幕(うちまく)に興味を持つべく、余りに所謂(いわゆる)ニル・アドミラリな人間だった。ましてその時はそれらの芸術家の外聞(がいぶん)も顧慮してやりたい気もちがあった。そこで彼は大井が一息ついたのを機会(しお)にして、切符と引換えに受取ったプログラムを拡げながら、話題を今夜演奏される音楽の方面へ持って行った。が、大井はこの方面には全然無感覚に出来上っていると見えて、鉢植(はちうえ)の護謨(ごむ)の葉を遠慮なく爪でむしりながら、
「とにかくその清水昌一(しみずしょういち)とか云う男は、藤沢なんぞの話によると、独唱家(ソロイスト)と云うよりゃむしろ立派な色魔だね。」と、また話を社会生活の暗黒面へ戻してしまった。
 が、幸(さいわい)、その時開会を知らせるベルが鳴って、会場との境の扉(と)がようやく両方へ開かれた。そうして待ちくたびれた聴衆が、まるで潮(うしお)の引くように、ぞろぞろその扉口(とぐち)へ流れ始めた。俊助も大井と一しょにこの流れに誘われて、次第に会場の方へ押されて行ったが、何気(なにげ)なく途中で後を振り返ると、思わず知らず心の中で「あっ」と云う驚きの声を洩(も)らした。

        八

 俊助(しゅんすけ)は会場の椅子(いす)に着いた後(あと)でさえ、まだ全くさっきの驚きから恢復していない事を意識した。彼の心はいつになく、不思議な動揺を感じていた。それは歓喜とも苦痛とも弁別(べんべつ)し難い性質のものだった。彼はこの心の動揺に身を任(まか)せたいと云う欲望もあった。で同時にまたそうしてはならないと云う気も働いていた。そこで彼は少くとも現在以上の動揺を心に齎(もたら)さない方便として、成る可く眼を演壇から離さないような工夫(くふう)をした。
 金屏風(きんびょうぶ)を立て廻した演壇へは、まずフロックを着た中年の紳士が現れて、額(ひたい)に垂れかかる髪をかき上げながら、撫でるように柔(やさ)しくシュウマンを唱(うた)った。それは Ich Kann's nicht fassen, nicht glauben で始まるシャミッソオの歌(リイド)だった。俊助はその舌たるい唄いぶりの中から、何か恐るべく不健全な香気が、発散して来るのを感ぜずにはいられなかった。そうしてこの香気が彼の騒ぐ心を一層苛立(いらだ)てて行くような気がしてならなかった。だからようやく独唱(ソロ)が終って、けたたましい拍手(はくしゅ)の音が起った時、彼はわずかにほっとした眼を挙げて、まるで救いを求めるように隣席の大井(おおい)を振返った。すると大井はプログラムを丸く巻いて、それを望遠鏡のように眼へ当てながら、演壇の上に頭を下げているシュウマンの独唱家(ソロイスト)を覗(のぞ)いていたが、
「成程(なるほど)、清水(しみず)と云う男は、立派(りっぱ)に色魔たるべき人相(にんそう)を具えているな。」と、呟(つぶや)くような声で云った。
 俊助は初めてその中年の紳士が清水昌一(しみずしょういち)と云う男だったのに気がついた。そこでまた演壇の方へ眼を返すと、今度はそこへ裾模様の令嬢が、盛な喝采(かっさい)に迎えられながら、ヴァイオリンを抱(だ)いてしずしずと登って来る所だった。令嬢はほとんど人形のように可愛かったが、遺憾ながらヴァイオリンはただ間違わずに一通り弾いて行くと云うだけのものだった。けれども俊助は幸(さいわい)と、清水昌一のシュウマンほど悪甘い刺戟に脅(おびや)かされないで、ともかくも快よくチャイコウスキイの神秘な世界に安住出来るのを喜んだ。が、大井はやはり退屈らしく、後頭部を椅子の背に凭(もた)せて、時々無遠慮に鼻を鳴らしていたが、やがて急に思いついたという調子で、
「おい、野村君が来ているのを知っているか。」
「知っている。」
 俊助は小声でこう答えながら、それでもなお眼は金屏風の前の令嬢からほかへ動かさなかった。と、大井は相手の答が物足らなかったものと見えて、妙に悪意のある微笑を漂わせながら、
「おまけにすばらしい美人を二人連れて来ている。」と、念を押すようにつけ加えた。
 が、俊助は何とも答えなかった。そうして今までよりは一層熱心に演壇の上から流れて来るヴァイオリンの静かな音色(ねいろ)に耳を傾けているらしかった。……
 それからピアノの独奏と四部合唱とが終って、三十分の休憩時間になった時、俊助は大井に頓着(とんちゃく)なく、逞(たくまし)い体を椅子(いす)から起して、あの護謨(ごむ)の樹の鉢植のある会場の次の間へ、野村の連中を探しに行った。しかし後に残った大井の方は、まだ傲然(ごうぜん)と腕組みをしたまま、ただぐったりと頭を前へ落して、演奏が止んだのも知らないのか、いかにも快よさそうに、かすかな寝息を洩らしていた。

        九

 次の間(ま)へ来て見ると、果して野村(のむら)が栗原(くりはら)の娘と並んで、大きな暖炉(だんろ)の前へ佇(たたず)んでいた。血色(けっしょく)の鮮かな、眼にも眉(まゆ)にも活々(いきいき)した力の溢(あふ)れている、年よりは小柄(こがら)な初子(はつこ)は、俊助(しゅんすけ)の姿を見るが早いか、遠くから靨(えくぼ)を寄せて、気軽くちょいと腰をかがめた。と、野村も広い金釦(きんボタン)の胸を俊助の方へ向けながら、度の強い近眼鏡の後(うしろ)に例のごとく人の好さそうな微笑を漲(みなぎ)らせて、鷹揚(おうよう)に「やあ」と頷(うなず)いて見せた。俊助は暖炉の上の鏡を背負って、印度更紗(インドさらさ)の帯をしめた初子と大きな体を制服に包んだ野村とが、向い合って立っているのを眺めた時、刹那(せつな)の間(あいだ)彼等の幸福が妬(ねたま)しいような心もちさえした。
「今夜はすっかり遅くなってしまった。何しろ僕等の方は御化粧に手間が取れるものだから。」
 俊助と二言(ふたこと)三言(みこと)雑談を交換した後で、野村は大理石のマントル・ピイスへ手をかけながら、冗談のような調子でこう云った。
「あら、いつ私(わたし)たちが御手間を取らせて? 野村さんこそ御出でになるのが遅かったじゃないの?」
 初子はわざと濃(こ)い眉をひそめて、媚(こ)びるように野村の顔を見上げたが、すぐにまたその視線を俊助の方へ投げ返すと、
「先日は私妙な事を御願いして――御迷惑じゃございませんでしたの?」
「いや、どうしまして。」
 俊助はちょいと初子に会釈(えしゃく)しながら、後はやはり野村だけへ話しかけるような態度で、
「昨日(きのう)新田(にった)から返事が来たが、月水金の内でさえあれば、いつでも喜んで御案内すると云うんだ。だからその内で都合(つごう)の好(い)い日に参観して来給え。」
「そうか。そりゃ難有(ありがと)う。――で、初子さんはいつ行って見ます?」
「いつでも。どうせ私用のない体なんですもの。野村さんの御都合で極(き)めて頂けば好いわ。」
「僕が極(き)めるって――じゃ僕も随行を仰せつかるんですか。そいつは少し――」
 野村は五分刈(ごぶがり)の頭へ大きな手をやって、辟易(へきえき)したらしい気色を見せた。と、初子は眼で笑いながら、声だけ拗(す)ねた調子で、
「だって私その新田さんって方にも、御目にかかった事がないんでしょう。ですもの、私たちだけじゃ行かれはしないわ。」
「何、安田の名刺を貰って行けば、向うでちゃんと案内してくれますよ。」
 二人がこんな押問答を交換していると、突然、そこへ、暁星学校(ぎょうせいがっこう)の制服を着た十(とお)ばかりの少年が、人ごみの中をくぐり抜けるようにして、勢いよく姿を現した。そうしてそれが俊助の顔を見ると、いきなり直立不動の姿勢をとって、愛嬌(あいきょう)のある挙手(きょしゅ)の礼をして見せた。こちらの三人は思わず笑い出した。中でも一番大きな声を出して笑ったのは、野村だった。
「やあ、今夜は民雄(たみお)さんも来ていたのか。」
 俊助は両手で少年の肩を抑えながら、調戯(からか)うようにその顔を覗(のぞ)きこんだ。
「ああ、皆で自動車へ乗って来たの。安田さんは?」
「僕は電車で来た。」
「けちだなあ、電車だなんて。帰りに自動車へ乗せて上げようか。」
「ああ、乗せてくれ給え。」
 この間(あいだ)も俊助は少年の顔を眺めながら、しかも誰かが民雄の後(あと)を追って、彼等の近くへ歩み寄ったのを感ぜずにはいられなかった。

        十

 俊助(しゅんすけ)は眼を挙げた。と、果して初子(はつこ)の隣に同年輩の若い女が、紺地に藍の竪縞(たてじま)の着物の胸を蘆手模様(あしでもよう)の帯に抑えて、品よくすらりと佇(たたず)んでいた。彼女は初子より大柄(おおがら)だった。と同時に眼鼻立ちは、愛くるしかるべき二重瞼(ふたえまぶた)までが、遥に初子より寂しかった。しかもその二重瞼の下にある眼は、ほとんど憂鬱とも形容したい、潤(うる)んだ光さえ湛(たた)えていた。さっき会場へはいろうとする間際に、偶然後(うしろ)へ振り返った、俊助の心を躍らせたものは、実にこのもの思わしげな、水々しい瞳(ひとみ)の光だった。彼はその瞳の持ち主と咫尺(しせき)の間に向い合った今、再び最前の心の動揺を感じない訳には行かなかった。
「辰子(たつこ)さん。あなたまだ安田さんを御存知なかったわね。――辰子さんと申しますの。京都の女学校を卒業なすった方(かた)。この頃やっと東京詞(とうきょうことば)が話せるようになりました。」
 初子は物慣(ものな)れた口ぶりで、彼女を俊助に紹介した。辰子は蒼白い頬(ほお)の底にかすかな血の色を動かして、淑(しとや)かに束髪(そくはつ)の頭を下げた。俊助も民雄の肩から手を離して、叮嚀(ていねい)に初対面の会釈(えしゃく)をした。幸(さいわい)、彼の浅黒い頬がいつになく火照(ほて)っているのには、誰も気づかずにいたらしかった。
 すると野村も横合いから、今夜は特に愉快そうな口を出して、
「辰子さんは初子さんの従妹(いとこ)でね、今度絵の学校へはいるものだから、それでこっちへ出て来る事になったんだ。所が毎日初子さんが例の小説の話ばかり聞かせるので、余程体にこたえるのだろう。どうもこの頃はちと健康が思わしくない。」
「まあ、ひどい。」
 初子と辰子とは同時にこう云った。が、辰子の声は、初子のそれに気押(けお)されて、ほとんど聞えないほど低い声だった。けれども俊助は、この始めて聞いた辰子の声の中に、優しい心を裏切るものが潜んでいるような心もちがした。それが彼には心強い気を起させた。
「画と云うと――やはり洋画を御やりになるのですか。」
 相手の声に勇気を得た俊助は、まだ初子と野村とが笑い合っている内に、こう辰子へ問いかけた。辰子はちょいと眼を帯止(おびど)めの翡翠(ひすい)へ落して、
「は。」と、思ったよりもはっきりした返事をした。
「画は却々(なかなか)うまい。優(ゆう)に初子さんの小説と対峙(たいじ)するに足るくらいだ。――だから、辰子さん。僕が好(い)い事を教えて上げましょう。これから初子さんが小説の話をしたら、あなたも盛に画の話をするんです。そうでもしなくっちゃ、体がたまりません。」
 俊助はただ微笑で野村に答えながら、もう一度辰子に声をかけて見た。
「お体は実際お悪いんですか。」
「ええ、心臓が少し――大した事はございませんけれど。」
 するとさっきから退屈そうな顔をして、一同の顔を眺めていた民雄(たみお)が、下からぐいぐい俊助の手をひっぱって、
「辰子さんはね、あすこの梯子段(はしごだん)を上っても、息が切れるんだとさ。僕は二段ずつ一遍にとび上る事が出来るんだぜ。」
 俊助は辰子と顔を見合せて、ようやく心置きのない微笑を交換した。

        十一

 辰子(たつこ)は蒼白い頬(ほお)に片靨(かたえくぼ)を寄せたまま、静に民雄(たみお)から初子(はつこ)へ眼を移して、
「民雄さんはそりゃお強いの。さっきもあの梯子段の手すりへ跨(またが)って、辷(すべ)り下りようとなさるんでしょう。私吃驚(びっくり)して、墜(お)ちて死んだらどうなさるのって云ったら――ねえ、民雄さん。あなたあの時、僕はまだ死んだ事がないから、どうするかわからないって仰有(おっしゃ)ったわね。私可笑(おか)しくって――」
「成程(なるほど)ね、こりゃ却々(なかなか)哲学的だ。」
 野村(のむら)はまた誰よりも大きな声で笑い出した。
「まあ、生意気(なまいき)ったらないのね。――だから姉さんがいつでも云うんだわ、民雄さんは莫迦(ばか)だって。」
 部屋の中の火気に蒸されて、一層血色の鮮(あざやか)になった初子が、ちょっと睨(ね)める真似をしながら、こう弟を窘(たしな)めると、民雄はまだ俊助の手をつかまえたまま、
「ううん。僕は莫迦じゃないよ。」
「じゃ利巧(りこう)か?」
 今度は俊助まで口を出した。
「ううん、利巧でもない。」
「じゃ何だい。」
 民雄はこう云った野村の顔を見上げながら、ほとんど滑稽に近い真面目さを眉目(びもく)の間(あいだ)に閃かせて、
「中位(ちゅうぐらい)。」と道破(どうは)した。
 四人は声を合せて失笑した。
「中位(ちゅうぐらい)は好かった。大人(おとな)もそう思ってさえいれば、一生幸福に暮せるのに相違ない。こりゃ初子さんなんぞは殊に拳々服膺(けんけんふくよう)すべき事かも知れませんぜ。辰子さんの方は大丈夫だが――」
 その笑い声が静まった時、野村は広い胸の上に腕を組んで、二人の若い女を見比べた。
「何とでもおっしゃい。今夜は野村さん私ばかりいじめるわね。」
「じゃ僕はどうだ。」
 俊助は冗談(じょうだん)のように野村の矢面(やおもて)に立った。
「君もいかん。君は中位(ちゅうぐらい)を以て自任(じにん)出来ない男だ。――いや、君ばかりじゃない。近代の人間と云うやつは、皆中位で満足出来ない連中だ。そこで勢い、主我的(イゴイスティック)になる。主我的(イゴイスティック)になると云う事は、他人ばかり不幸にすると云う事じゃない。自分までも不幸にすると云う事だ。だから用心しなくっちゃいけない。」
「じゃ君は中位派(ちゅうぐらいは)か。」
「勿論さ。さもなけりゃ、とてもこんな泰然としちゃいられはしない。」
 俊助は憫(あわれ)むような眼つきをして、ちらりと野村の顔を見た。
「だがね、主我的(イゴイスティック)になると云う事は、自分ばかり不幸にする事じゃない。他人までも不幸にする事だ。だろう。そうするといくら中位派でも、世の中の人間が主我的(イゴイスティック)だったら、やっぱり不安だろうじゃないか。だから君のように泰然としていられるためには、中位派たる以上に、主我的(イゴイスティック)でない世の中を――でなくとも、先ず主我的(イゴイスティック)でない君の周囲を信用しなけりゃならないと云う事になる。」
「そりゃまあ信用しているさ。が、君は信用した上でも――待った。一体君は全然人間を当てにしていないのか。」
 俊助はやはり薄笑いをしたまま、しているとも、していないとも答えなかった。初子と辰子との眼がもの珍らしそうに、彼の上へ注がれているのを意識しながら。

        十二

 音楽会が終った後で、俊助(しゅんすけ)はとうとう大井(おおい)と藤沢(ふじさわ)とに引きとめられて、『城』同人(どうじん)の茶話会(さわかい)に出席しなければならなくなった。彼は勿論進まなかった。が、藤沢以外の同人には、多少の好奇心もない事はなかった。しかも切符を貰っている義理合い上、無下(むげ)に断(ことわ)ってしまうのも気の毒だと云う遠慮があった。そこで彼はやむを得ず、大井と藤沢との後について、さっきの次の間(ま)の隣にある、小さな部屋へ通ったのだった。
 通って見ると部屋の中には、もう四五人の大学生が、フロックの清水昌一(しみずしょういち)と一しょに、小さな卓子(テエブル)を囲んでいた。藤沢はその連中を一々俊助に紹介した。その中では近藤(こんどう)と云う独逸(ドイツ)文科(ぶんか)の学生と、花房(はなぶさ)と云う仏蘭西(フランス)文科の学生とが、特に俊助の注意を惹(ひ)いた人物だった。近藤は大井よりも更に背の低い、大きな鼻眼鏡をかけた青年で、『城』同人の中では第一の絵画通と云う評判を荷っていた。これはいつか『帝国文学(ていこくぶんがく)』へ、堂々たる文展(ぶんてん)の批評を書いたので、自然名前だけは俊助の記憶にも残っているのだった。もう一人の花房は、一週間以前『鉢(はち)の木(き)』へ藤沢と一しょに来た黒のソフトで、英仏独伊の四箇国語(しかこくご)のほかにも、希臘語(ギリシャご)や羅甸語(ラテンご)の心得があると云う、非凡な語学通で通っていた。そうしてこれまた Hanabusa と署名のある英仏独伊希臘羅甸の書物が、時々本郷通(ほんごうどおり)の古本屋(ふるぼんや)に並んでいるので、とうから名前だけは俊助も承知している青年だった。この二人に比(くら)べると、ほかの『城』同人は存外特色に乏しかった。が、身綺麗(みぎれい)な服装の胸へ小さな赤薔薇(あかばら)の造花(ぞうか)をつけている事は、いずれも軌(き)を一にしているらしかった。俊助は近藤の隣へ腰を下しながら、こう云うハイカラな連中に交(まじ)っている大井篤夫(おおいあつお)の野蛮(やばん)な姿を、滑稽に感ぜずにはいられなかった。
「御蔭様で、今夜は盛会でした。」
 タキシイドを着た藤沢は、女のような柔(やさ)しい声で、まず独唱家(ソロイスト)の清水に挨拶した。
「いや、どうもこの頃は咽喉(のど)を痛めているもんですから――それより『城』の売行きはどうです? もう収支償(つぐな)うくらいには行くでしょう。」
「いえ、そこまで行ってくれれば本望なんですが――どうせ我々の書く物なんぞが、売れる筈はありゃしません。何しろ人道主義と自然主義と以外に、芸術はないように思っている世間なんですから。」
「そうですかね。だがいつまでも、それじゃすまないでしょう。その内に君の『ボオドレエル詩抄』が、羽根(はね)の生えたように売れる時が来るかも知れない。」
 清水は見え透いた御世辞を云いながら、給仕の廻して来た紅茶を受けとると、隣に坐っていた花房(はなぶさ)の方を向いて、
「この間の君の小説は、大へん面白く拝見しましたよ。あれは何から材料を取ったんですか。」
「あれですか。あれはゲスタ・ロマノルムです。」
「はあ、ゲスタ・ロマノルムですか。」
 清水はけげんな顔をしながら、こう好い加減な返事をすると、さっきから鉈豆(なたまめ)の煙管(きせる)できな臭(くさ)い刻(きざ)みを吹かせていた大井が、卓子(テエブル)の上へ頬杖をついて、
「何だい、そのゲスタ・ロマノルムってやつは?」と、無遠慮な問を抛(ほう)りつけた。

        十三

「中世の伝説を集めた本でしてね。十四五世紀の間(あいだ)に出来たものなんですが、何分(なにぶん)原文がひどい羅甸(ラテン)なんで――」
「君にも読めないかい。」
「まあ、どうにかですね。参考にする飜訳(ほんやく)もいろいろありますから。――何でもチョオサアやシェクスピイアも、あれから材料を採(と)ったんだそうです。ですからゲスタ・ロマノルムだって、中々莫迦(ばか)には出来ませんよ。」
「じゃ君は少くとも材料だけは、チョオサアやシェクスピイアと肩を並べていると云う次第だね。」
 俊助はこう云う問答を聞きながら、妙な事を一つ発見した。それは花房(はなぶさ)の声や態度が、不思議なくらい藤沢(ふじさわ)に酷似(こくじ)していると云う事だった。もし離魂病(りこんびょう)と云うものがあるとしたならば、花房は正に藤沢の離魂体(ドッペルゲンゲル)とも見るべき人間だった。が、どちらが正体(しょうたい)でどちらが影法師(かげぼうし)だか、その辺の際どい消息になると、まだ俊助にははっきりと見定めをつける事がむずかしかった。だから彼は花房の饒舌(しゃべ)っている間も、時々胸の赤薔薇(あかばら)を気にしている藤沢を偸(ぬす)み見ずにはいられなかった。
 すると今度はその藤沢が、縁(ふち)に繍(ぬい)のある手巾(ハンケチ)で紅茶を飲んだ口もとを拭いながら、また隣の独唱家(ソロイスト)の方を向いて、
「この四月には『城』も特別号を出しますから、その前後には近藤(こんどう)さんを一つ煩(わずら)わせて、展覧会を開こうと思っています。」
「それも妙案ですな。が、展覧会と云うと、何ですか、やはり諸君の作品だけを――」
「ええ、近藤さんの木版画と、花房さんや私(わたし)の油絵と――それから西洋の画の写真版とを陳列しようかと思っているんです。ただ、そうなると、警視庁がまた裸体画は撤回(てっかい)しろなぞとやかましい事を云いそうでしてね。」
「僕の木版画は大丈夫だが、君や花房君の油絵は危険だぜ。殊に君の『Utamaro の黄昏(たそがれ)』に至っちゃ――あなたはあれを御覧になった事がありますか。」
 こう云って、鼻眼鏡の近藤はマドロス・パイプの煙を吐きながら、流し眼にじろりと俊助の方を見た。と、俊助がまだ答えない内に、卓子(テエブル)の向うから藤沢が口を挟(はさ)んで、
「そりゃ君、まだ御覧にならないのですよ。いずれその内に、御眼にかけようとは思っているんですが――安田さんは絵本歌枕(えほんうたまくら)と云うものを御覧になった事がありますか。ありません? 私の『Utamaro の黄昏』は、あの中の一枚を装飾的に描(か)いたものなんです。行き方は――と、近藤さん、あれは何と云ったら好いんでしょう。モオリス・ドニでもなし、そうかと云って――」
 近藤は鼻眼鏡の後(うしろ)の眼を閉じてしばらく考に耽(ふけ)っていたが、やがて重々しい口を開こうとすると、また大井が横合いから、鉈豆(なたまめ)の煙管(きせる)を啣(くわ)えたままで、
「つまり君、春画(しゅんが)みたいなものなんだろう。」と、乱暴な註釈を施(ほどこ)してしまった。
 ところが藤沢は存外不快にも思わなかったと見えて、例のごとく無気味(ぶきみ)なほど柔しい微笑を漂わせながら、
「ええ、そう云えば一番早いかも知れませんね。」と、恬然(てんぜん)として大井に賛成した。

        十四

「成程、そりゃ面白そうだ。――ところでどうでしょう、春画(しゅんが)などと云う物は、やっぱり西洋の方が発達しているんですか。」
 清水(しみず)がこう尋(たず)ねたのを潮(しお)に、近藤(こんどう)は悠然とマドロス・パイプの灰をはたきながら、大学の素読(そどく)でもしそうな声で、徐(おもむろ)に西洋の恁(こ)うした画の講釈をし始めた。
「一概に春画と云いますが、まあざっと三種類に区別するのが至当なので、第一は××××を描いたもの、第二はその前後だけを描いたもの、第三は単に××××を描いたもの――」
 俊助(しゅんすけ)は勿論こう云う話題に、一種の義憤を発するほど、道徳家でないには相違なかった。けれども彼には近藤の美的偽善(ぎぜん)とも称すべきものが――自家の卑猥(ひわい)な興味の上へ芸術的と云う金箔(きんぱく)を塗りつけるのが、不愉快だったのもまた事実だった。だから近藤が得意になって、さも芸術の極致が、こうした画にあるような、いかがわしい口吻(こうふん)を弄(ろう)し出すと、俊助は義理にも、金口(きんぐち)の煙に隠れて、顔をしかめない訳には行かなかった。が、近藤はそんな事には更に気がつかなかったものと見えて、上(かみ)は古代希臘(ギリシャ)の陶画から下(しも)は近代仏蘭西(フランス)の石版画まで、ありとあらゆるこうした画の形式を一々詳しく説明してから、
「そこで面白い事にはですね、あの真面目(まじめ)そうなレムブラントやデュラアまでが、斯(こ)ういう画を描(か)いているんです。しかもレムブラントのやつなんぞは、やっぱり例のレムブラント光線が、ぱっと一箇所に落ちているんだから、振(ふる)っているじゃありませんか。つまりああ云う天才でも、やっぱりこの方面へ手を出すぐらいな俗気(ぞくき)は十分あったんで――まあ、その点は我々と似たり寄ったりだったんでしょう。」
 俊助はいよいよ聞き苦しくなった。すると今まで卓子(テエブル)の上へ頬杖(ほおづえ)をついて、半ば眼をつぶっていた大井(おおい)が、にやりと莫迦(ばか)にしたような微笑を洩(もら)すと、欠伸(あくび)を噛み殺したような声を出して、
「おい、君、序(ついで)にレムブラントもデュラアも、我々同様屁(へ)を垂れたと云う考証を発表して見ちゃどうだ。」
 近藤は大きな鼻眼鏡の後(うしろ)から、険(けわ)しい視線を大井へ飛ばせたが、大井は一向(いっこう)平気な顔で、鉈豆(なたまめ)の煙管(きせる)をすぱすぱやりながら、
「あるいは百尺竿頭一歩(ひゃくせきかんとういっぽ)を進めて、同じく屁を垂れるから、君も彼等と甲乙のない天才だと号するのも洒落(しゃ)れているぜ。」
「大井君、よし給えよ。」
「大井さん。もう好(い)いじゃありませんか。」
 見兼ねたと云う容子(ようす)で、花房(はなぶさ)と藤沢(ふじさわ)とが、同時に柔(やさ)しい声を出した。と、大井は狡猾(ずる)そうな眼で、まっ青になった近藤の顔をじろじろ覗きこみながら、
「こりゃ失敬したね。僕は何も君を怒らす心算(つもり)で云ったんじゃないんだが――いや、ない所か、君の知識の該博(がいはく)なのには、夙(つと)に敬服に堪えないくらいなんだ。だからまあ、怒らないでくれ給え。」
 近藤は執念(しゅうねん)深く口を噤(つぐ)んで、卓子(テエブル)の上の紅茶茶碗へじっと眼を据えていたが、大井がこう云うと同時に、突然椅子から立ち上って、呆気(あっけ)に取られている連中を後(あと)に、さっさと部屋を出て行ってしまった。一座は互に顔を見合せたまま、しばらくの間は気まずい沈黙を守っていなければならなかった。が、やがて俊助は空嘯(そらうそぶ)いている大井の方へ、ちょいと顎(あご)で相図(あいず)をすると、微笑を含んだ静な声で、
「僕は御先へ御免(ごめん)を蒙るから。――」
 これが当夜、彼の口を洩れた、最初のそうしてまた最後の言葉だったのである。

        十五

 するとその後(ご)また一週間と経たない内に、俊助(しゅんすけ)は上野行の電車の中で、偶然辰子(たつこ)と顔を合せた。
 それは春先の東京に珍しくない、埃風(ほこりかぜ)の吹く午後だった。俊助は大学から銀座の八咫屋(やたや)へ額縁の註文に廻った帰りで、尾張町(おわりちょう)の角から電車へ乗ると、ぎっしり両側の席を埋めた乗客の中に、辰子の寂しい顔が見えた。彼が電車の入口に立った時、彼女はやはり黒い絹の肩懸(ショオル)をかけて、膝の上にひろげた婦人雑誌へ、つつましい眼を落しているらしかった。が、その内にふと眼を挙げて、近くの吊皮(つりかわ)にぶら下っている彼の姿を眺めると、たちまち片靨(かたえくぼ)を頬に浮べて、坐ったまま、叮嚀に黙礼の頭を下げた。俊助は会釈(えしゃく)を返すより先に、こみ合った乗客を押し分けて、辰子の前の吊皮へ手をかけながら、
「先夜は――」と、平凡に挨拶(あいさつ)した。
「私(わたし)こそ――」
 それぎり二人は口を噤(つぐ)んだ。電車の窓から外を見ると、時々風がなぐれる度に、往来が一面に灰色になる。と思うとまた、銀座通りの町並が、その灰色の中から浮き上って、崩(くず)れるように後(うしろ)へ流れて行く。俊助はそう云う背景の前に、端然と坐っている辰子の姿を、しばらくの間見下していたが、やがてその沈黙がそろそろ苦痛になり出したので、今度はなる可く気軽な調子で、
「今日(きょう)は?――御帰りですか。」と、出直して見た。
「ちょいと兄の所まで――国許(くにもと)の兄が出て参りましたから。」
「学校は? 御休みですか。」
「まだ始りませんの。来月の五日からですって。」
 俊助は次第に二人の間の他人行儀(たにんぎょうぎ)が、氷のように溶けて来るのを感じた。と、広告屋の真紅(しんく)の旗が、喇叭(らっぱ)や太鼓(たいこ)の音を風に飛ばせながら、瞬(またた)く間(ま)電車の窓を塞(ふさ)いだ。辰子はわずかに肩を落して、そっと窓の外をふり返った。その時彼女の小さな耳朶(みみたぶ)が、斜(ななめ)にさして来る日の光を受けて、仄(ほの)かに赤く透(す)いて見えた。俊助はそれを美しいと思った。
「先達(せんだって)は、あれからすぐに御帰りになって。」
 辰子は俊助の顔へ瞳を返すと、人懐(ひとなつか)しい声でこう云った。
「ええ、一時間ばかりいて帰りました。」
「御宅はやはり本郷(ほんごう)?」
「そうです。森川町(もりかわちょう)。」
 俊助は制服の隠しをさぐって、名刺を辰子の手へ渡した。渡す時向うの手を見ると、青玉(サファイア)を入れた金の指環(ゆびわ)が、細っそりとその小指を繞(めぐ)っていた。俊助はそれもまた美しいと思った。
「大学の正門前の横町(よこちょう)です。その内に遊びにいらっしゃい。」
「難有(ありがと)う。いずれ初子(はつこ)さんとでも。」
 辰子は名刺を帯の間へ挟(はさ)んで、ほとんど聞えないような返事をした。
 二人はまた口を噤(つぐ)んで、電車の音とも風の音ともつかない町の音に耳を傾けた。が、俊助はこの二度目の沈黙を、前のように息苦しくは感じなかった。むしろ彼はその沈黙の中に、ある安らかな幸福の存在さえも明かに意識していたのだった。

        十六

 俊助(しゅんすけ)の下宿は本郷森川町でも、比較的閑静な一区劃にあった。それも京橋辺(きょうばしへん)の酒屋の隠居所を、ある伝手(つて)から二階だけ貸して貰ったので、畳(たたみ)建具(たてぐ)も世間並の下宿に比べると、遥(はるか)に小綺麗(こぎれい)に出来上っていた。彼はその部屋へ大きな西洋机(デスク)や安楽椅子の類を持ちこんで、見た眼には多少狭苦しいが、とにかく居心(いごころ)は悪くない程度の西洋風な書斎を拵(こしら)え上げた。が、書斎を飾るべき色彩と云っては、ただ書棚を埋(うず)めている洋書の行列があるばかりで、壁に懸っている額の中にも、大抵(たいてい)はありふれた西洋名画の写真版がはいっているのに過ぎなかった。これに常々不服だった彼は、その代りによく草花の鉢を買って来ては、部屋の中央に据えてある寄せ木の卓子(テエブル)の上へ置いた。現に今日も、この卓子(テエブル)の上には、籐(とう)の籠へ入れた桜草(さくらそう)の鉢が、何本も細い茎を抽(ぬ)いた先へ、簇々(ぞくぞく)とうす赤い花を攅(あつ)めている。……
 須田町(すだちょう)の乗換で辰子(たつこ)と分れた俊助は、一時間の後この下宿の二階で、窓際の西洋机(デスク)の前へ据えた輪転椅子に腰を下しながら、漫然と金口(きんぐち)の煙草(たばこ)を啣(くわ)えていた。彼の前には読みかけた書物が、象牙(ぞうげ)の紙切小刀(ペエパアナイフ)を挟んだまま、さっきからちゃんと開いてあった。が、今の彼には、その頁に詰まっている思想を咀嚼(そしゃく)するだけの根気がなかった。彼の頭の中には辰子の姿が、煙草の煙のもつれるように、いつまでも美しく這(は)い纏(まつわ)っていた。彼にはその頭の中の幻が、最前電車の中で味った幸福の名残りのごとく見えた。と同時にまた来るべき、さらに大きな幸福の前触れのごとくも見えるのだった。
 すると机の上の灰皿(はいざら)に、二三本吸いさしの金口(きんぐち)がたまった時、まず大儀そうに梯子段を登る音がして、それから誰か唐紙(からかみ)の向うへ立止ったけはいがすると、
「おい、いるか。」と、聞き慣れた太い声がした。
「はいり給え。」
 俊助がこう答える間(ま)も待たないで、からりとそこの唐紙が開くと、桜草の鉢を置いた寄せ木の卓子(テエブル)の向うには、もう肥った野村(のむら)の姿が、肩を揺(ゆす)ってのそのそはいって来た。
「静だな。玄関で何度御免と言っても、女中一人出て来ない。仕方がないからとうとう、黙って上って来てしまった。」
 始めてこの下宿へ来た野村は、万遍(まんべん)なく部屋の中を見廻してから、俊助の指さす安楽椅子へ、どっかり大きな尻を据えた。
「大方女中がまた使いにでも行っていたんだろう。主人の隠居は聾(つんぼ)だから、中々御免くらいじゃ通じやしない。――君は学校の帰りか。」
 俊助は卓子(テエブル)の上へ西洋の茶道具を持ち出しながら、ちょいと野村の制服姿へ眼をやった。
「いや、今日はこれから国へ帰って来ようと思って――明後日(あさって)がちょうど親父(おやじ)の三回忌に当るものだから。」
「そりゃ大変だな。君の国じゃ帰るだけでも一仕事だ。」
「何、その方は慣れているから平気だが、とかく田舎の年忌(ねんき)とか何とか云うやつは――」
 野村は前以て辟易(へきえき)を披露(ひろう)するごとく、近眼鏡の後(うしろ)の眉をひそめて見せたが、すぐにまた気を変えて、
「ところで僕は君に一つ、頼みたい事があって寄ったのだが――」

        十七

「何だい、改まって。」
 俊助(しゅんすけ)は紅茶茶碗を野村(のむら)の前へ置くと、自分も卓子(テエブル)の前の椅子へ座を占めて、不思議そうに相手の顔へ眼を注いだ。
「改まりなんぞしやしないさ。」
 野村は反(かえ)って恐縮らしく、五分刈(ごぶがり)の頭を撫(な)で廻したが、
「実は例の癲狂院(てんきょういん)行きの一件なんだが――どうだろう。君が僕の代りに初子(はつこ)さんを連れて行って、見せてやってくれないか。僕は今日行くと、何(なん)だ彼(かん)だで一週間ばかりは、とても帰られそうもないんだから。」
「そりゃ困るよ。一週間くらいかかったって、帰ってから、君が連れて行きゃ好いじゃないか。」

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