竜村平蔵氏の芸術
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著者名:芥川竜之介 

 現代はせち辛い世の中である。このせち辛い世の中に、龍村平蔵さんの如く一本二千円も三千円もする女帯を織つてゐると云ふ事は或は時代の大勢に風馬牛だと云ふ非難を得るかも知れない。いや、中には斯(かか)る贅沢品の為に、生産能力の費される事を憤慨する向きもありさうである。
 が、その女帯が単なる女帯に止まらなかつたら――工芸品よりも寧ろ芸術品として鑑賞せらるべき性質のものだつたら、如何に現代が明日の日にも、米の飯さへ食へなくなりさうな、せち辛い世の中であるにもせよ、一概に贅沢品退治の鼓を鳴らして、龍村さんの事業と作品とを責める訳には行くまいと思ふ。この意味に於て私は、悪辣無双(あくらつむさう)に切迫した時勢の手前も遠慮なく、堂々と龍村さんの女帯を天下に推称出来る事を、この上もなく喜ばしく思はない訳には行かないのである。
 と云つて勿論私は、特に織物の鑑賞に長じてゐる次第でも何でもない。ましてその方面の歴史的或は科学的知識に至つては、猶更(なほさら)不案内な人間である。だから龍村さんの女帯が、滔々たる当世の西陣織と比較して、――と云ふよりは呉織(くれはとり)綾織(あやはとり)から川島甚兵衛に至るまで、上下二千年の織工史を通じて、如何なる地歩を占むべきものか、その辺の消息に至つては、毫(がう)もわからぬと云ふ外はない。従つて私の推称が其影の薄いものになる事は、龍村さんの為にも、私自身の為にも遺憾千万な次第であるが、同時に又それだからこそ、私は御同業の芸術家諸君を妄(みだり)に貶しめる無礼もなく、安んじて龍村さんの女帯を天下に推称する事が出来るのである。これは御同業の芸術家諸君の為にも、惹いては私自身の為にも、御同慶の至りと云はざるを得ない。
 龍村さんの帯地の多くは、その独特な経緯の組織を文字通り縦横に活かした結果、蒔絵の如き、堆朱(つゐしゆ)の如き、螺鈿(らでん)の如き、金唐革(きんからかは)の如き、七宝の如き、陶器の如き、乃至(ないし)は竹刻(たけぼり)金石刻(きんせきぼり)の如き、種々雑多な芸術品の特色を自由自在に捉へてゐる。が、私の感服したのは、単にそれらの芸術品を模し得た面白さばかりではない。もしその以外に何もなかつたなら、近来諸方に頻出する、油絵具を使はない洋画同様な日本画の如く、私は唯好奇心を動かすだけに止まつたであらう。けれども龍村さんの帯地の中には、それらの芸術品の特色を巧に捉へ得たが為に、織物本来の特色がより豊富な調和を得た、殆ど甚深微妙とも形容したい、恐るべき芸術的完成があつた。私は何よりもこの芸術的完成の為に、頭を下げざるを得なかつたのである。遠慮なく云へば、鉅万(きよまん)の市価を得た足利時代の能衣裳の前よりも、この前には更に潔く、頭を下げざるを得なかつたのである。
 私が龍村さんを推称する理由は、この感服の外に何もない。が、この感服は私にとつて厳乎(げんこ)として厳たる事実である。だから私は以上述べた私の経験を提(ひつさ)げて、広く我東京日々新聞の読者諸君に龍村さんの芸術へ注目されん事を希望したい。殊に「日々文芸」と縁の深い文壇の諸君子には、諸君子と同じく芸術の為に、焦慮し、悪闘し、絶望し、最後に一新生面を打開し得た、その尊敬すべきコンフレエルの事業に、一層の留意を請ひたいと思ふ。何故と云へば私の知つてゐる限りで、屡(しばしば)諸君子の間に論議される天才の名に価するものには、まづ第一に龍村平蔵さんを数へなければならないからである。




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