凡神的唯心的傾向に就て
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著者名:山路愛山 

 三個の青年、草庵に渋茶を煎(せん)じて炉を囲む、一人は円顱(ゑんろ)に道服を着たり、一人は黒紋付の上に袈裟(けさ)を掛けたり、三人対座して清談久し。やがて其歌ふを聞けば曰く
天地乾坤(けんこん)みな一呑や草の庵
大千起滅す一塵(いちぢん)の裡(うち)
味ひ得たり渋茶一ぱい
利刃一閃浮世を斬(きつ)て真ッ二ツ
活血(くわつけつ)流れよ未来万年    (白表女学雑誌)
 嗚呼(あゝ)是れ健康なる思想の表彰として賀すべきの事なりや、抑(そもそ)も亦喟然(きぜん)として歎ずべきの事なりや。渇する者は飲を為し易く、飢へある者は食を為し易し、近来の傾向は歴史的也故に又回顧的也常感的也。マコレーに行きて厭(あ)く者はヱメルソンに復(かへ)る也。シェーキスピーアに倦(う)む者はトマス、エケンピスに復る也。歴史は人を受動的ならしむ、人は更に主動的の者を求む。歴史は人をして古今の人物に交はらしむ、人は更に離群索居独り静思を楽しまんと欲す。歴史は人を此世の事業に誘ふ人は更に永遠のものを求む、歴史は人に差別を教ふ人は更に無差別の境を求む、歴史的の傾向に次で来る者は必らず哲学的の傾向也。試みに之を歴史に徴すれば述而不レ作、信じて古(いにしへ)を好みし儒教に次で起りしものは即ち黄老(くわうらう)の教也。東漢名節を尚(たふと)び三国功業を重んぜし後は即ち南北二朝の清談也。蘇氏の策論に殿(でん)せしものは即ち朱子の性理学也。吾人は今日に於て人心の哲学的に傾くを怪しまざる也、唯其久しく之れ飢渇せしが為めに善き物と悪(あ)しき物とを撰ばずして之を呑噬(どんぜい)し終(つひ)に不消化不健康なる思想を蔓延せしめんことを憂ふ。
 青帝(せいてい)駕を命じてより、武蔵野の草は様々色を表はしぬ、而して女学雑誌社と云へる花壇に咲きたる花は何となく、凡神的(はんしんてき)、唯心的の傾向を表はしぬ、女学雑誌には慥(たし)かに衝突せる二個の分子が存在するを見る。一方は即ち孤女院、貧民院等の義挙に同感を表する人情(ヒウマニチイ)也、他方は即ち禅僧の如き山人(ヘルミット)の如き、世の所謂(いはゆる)すね者の如き超然独(ひとり)を楽しむ主我的観念也。吾人は此二の者が幸にして相合せるを祝す。然れども荀卿(じゆんけい)性悪を唱へて李斯(りし)書を火にす、女学子若し今にして警醒せずんば天下を率ひて清談風話に溺(おぼ)らしむる者は女学子其一部の責に任ぜざるを得ず予は実に女学子を以て此傾向の代表者として一矢(いつし)を向けざるを得ざるを悲しむ。
 吾人(われら)嘗(かつ)て陶淵明幽居を写すの詩を読み、此間有二真意一、欲レ弁已忘レ言といふに至つて其自然と己とを合して自他を忘却し、非自覚的(アンコンシァスネス)に自然を楽しむの妙を言顕(いひあら)はせしに敬服したりき。蓋(けだ)し自然を楽しまんとせば先づ己れを殺して自然の流行に此身を投じ、「エクスタシイ」の境に至らざるを得ず。
 蕉翁が所謂「古池や蛙飛込む水の音」亦此意に外ならざる也。吾人は世の詩人が斯(かく)の如くなるを尤(とが)むる者に非ず、然れども若し是を以て一種の哲学となし、因(よつ)て以て人事を律せんとするに至つては即ち大声叱呼して其非を鳴さゞるを得ず、而して世の短視なる者詩人の斯の如く説くを見て直(たゞ)ちに是れ詩人の哲学也と曰ひ明月や池を廻つて夜もすがらと歌ひし為めに芭蕉は斯の如き宗教を有すと断ぜんとす吾人は之が為めに長歎を発せざるを得ざる也。
(明治二十六年四月十六日)



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