詩人論
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著者名:山路愛山 

 秋の野に虫の声を聞く者、誰れか一種の幽味を感ぜざらん。渠(か)れ唯己がまゝに鳴くなり、而(しか)も人をして凄絶(せいぜつ)□絶(わんぜつ)ならしむ、詩人の天地に於ける亦固より彼の音響なり、渠れ唯己がまゝに歌ふ、其節奏は固より彼れの節奏なり、其音響は固より彼の音響なり、而して其咨嗟(しさ)咏歎する所以(ゆゑん)のものも亦固より彼れの自ら感じ自ら知る所なり。而して聞く者之が為めに悲喜交(こもご)も至る。吾れ其然る所以を知らずして、終に彼れの為に化せらる。詩人は固より哲学を有す、彼れは自己の宇宙観と人生観とを有す。然れども彼れは哲学者の如く論理に因つて之を得ざるなり。彼れは論理以上の者を有す。彼れは論理の媒介に因つて天地を解釈せず。彼れは不思議なる直覚を以て直(たゞ)ちに天地と人生とを見る。彼は見る人なり、論ずる人に非ず、彼は感ずる人なり、解釈する人に非ず。斯(かく)の如くにして天地は彼れの為めに黙示となり、人生は彼れの為めに神秘となる。是に於て乎(か)、彼れの歌ふ所は直ちに人心の深宮に徹す。
 詩人は多く鳥獣草木の名を知る。詩人は自然の韻府なり。然れども彼れは科学者の如くに自然を分析する者に非ず。彼れは自然の意味を知る。花鳥風月、渾(すべ)て是れ自然が自己を彰(あら)はすべき形式たるに過ぎざるを知る。彼れは物質と機関との排列として自然を見る能はず、大なる意味、不思議なる運行を遂ぐる者として之れを見る。
 是に於て乎、応(ま)さに知るべし、詩人は一の奇蹟なり。彼れは学校にて製造し得べき者に非ず、他人の摸倣し得べき者に非ず。彼れは詩人として生れたり、彼れは詩人の骨を有して世に出でたり。宇宙は自己を歌ふべき者を生みたるなり。「処女妊(はら)みて子を生まん」其名は天地を讃(たゝふ)る者、人生を慰むる者。
 果して然らば詩人は終に論ずべからざる乎、何ぞ其れ然らん。天如何(いか)にして詩人を生ぜし乎、是れ固より知るべからざる者なり。世如何にして詩人を起す乎、是れ或は揣摩(しま)すべき者なり。上天の事、生死の事は人智の達し得べき所に非ず、世界が詩人を遇し詩人が世界に対する状態に至つては必しも知り得べからざることにはあらず。
 生れたる者は多し、長ずる者は少なし、播(ま)かれたる種子は万、欝として陰を為すものは三四に過ぎず。詩人として生れたる幾多の人物は暗黒に生れて暗黒に死に、其声は聞へず、其歌は歌はれずして長(とこし)へに眠れり。遇(たまた)ま一世にもてはやされて、多く喝采せられ多く反響せられしものゝみ、天上の星の如く、歴史の長江を飾る者となりて、文学史と人名辞書に其名を止む。斯の如く一は顕はれ、一は隠るゝ所以の者は何ぞや。其重(お)もなる理由は

    (一) 一は時代の最大必要を歌ひ、一は否なればなり。

 一世には一世の大希望あり、随つて大必要あり。君主擅制(せんせい)の時代には堯舜(げうしゆん)は歌はれざるべからず。何となれば唯堯舜のみ、此時代を極楽になすを得べければなり。何の為めに祖国の歌とマルセールの歌とは日耳曼(ゼルマン)と仏蘭西に歓迎せられしか、何の為めにウイッチャル、ロングフェロー等は合衆国に歓迎せられしか、何の為めに頼山陽は幕府の季世に歓迎せられしか、彼等は一世の最大希望を見て之が為めに歌ひたればなり。今日の日本が歌ふべき最大の題目は「占守島の郡司」なる乎。「西比利亜(シベリヤ)単騎旅行の福島」なる乎。「豊公の遠征」なる乎、「相模太郎の元寇」なる乎。「復古の感情」なる乎、「敵外の気」なる乎。抑(そもそ)も亦「西行」、「頓阿」、「芭蕉」なる乎。「枯木、寒山、寂々焉たる禅味」なる乎、「塙団右衛門」「奴小万」なる乎。支那は眠れり而れども今や覚めたり、日本は覚めて既に三十年。詩人よ卿曹(けいさう)は日本の前途に何の希望をも見出さゞる乎。日本が有する最大必要は卿曹の眼に映ぜざる乎。卿曹は日本の予言者に非ずや、而して卿曹は大に歌ふべく大に叫ぶべき何者をも日本に於て見出さずと曰ふや。
 払暁、而して鐘声は鳴ざる乎。

    (二) 一は人心の最大必要を歌ひ、一は否なればなり。

 時世の必要は横なり、人心の必要は縦なり。時世は普通にして広き必要を有し、人心は個々にして深き必要を有す。人は社会の会員として時世の必要に眼を開き、一個人として中心の必要に耳を与ふ。
 預言者は幾たびも出で、聖人は幾たびも出づ、人間は幾たびも己れの秘密を歌ひ、己れに教訓を与ふべき者の出でんことを望む。
 人は詩人より新しき物を得んとせず、而も詩人に因りて眠れる心を覚まし、痿(な)へたる腕を揮(ふる)はんことを欲す。
 漫(みだり)に「文学は文学なり、宗教は宗教なり」と曰(い)ふこと勿(なか)れ、宗教文学豈に劃して二となすべきものならんや、文学の中に宗教あり、宗教の中に文学あり。詩人若し其歌ふ所に於て、毫も世道人心と相関するなくんば是れ即ち無残なる自慾なる耳(のみ)。苟(いやしく)も詩を作りて之を読む者に何の感化を与へずんば是れ蟋蟀(こほろぎ)にだも如(し)かざるなり。既に感化する所あれば則ち是れ宗教なり。
 詩人は理想を教へざるべからず、彼れは明かに理想を見て、明かに之を画かざるべからず。彼れの理想は光明なる者ならざるべからず。彼れの理想は実在よりも高き者ならざるべからず。曖昧(あいまい)なるは理想の賊なり、難解の語は詩人の賊なり。今の純文学を以て自ら任ずる者、漫に高壮、美大を称して、而して其言雲煙の漠たるが如し。彼れ明かに何物をも見ずして、強ゐて辞句の間に人を瞞せんとする乎。
 形と色と辞令とは人に満足を与ふる者に非ず、人は理想と教訓とを求む。
 詩人の材ありて、而も伝はらざる者は、時世を解せず、人心を解せざるに因る。天禀(てんぴん)余ありて脩養足らざれば也。

     非談理

 談理は詩人の敵なり。詩人一たび道理を説けば終に理窟に陥らざるを得ず。
 若し蕉翁の什を以て禅味ありと曰はゞ可也。直ちに蕉翁は禅学を有し、其詠悉(こと/″\)く之を繩墨として出づと曰はゞ是れ蕉翁を以て一種の哲学者とする者也。
 予が殊に今日の詩人に於て甘服(かんぷく)する能はざる所ろは、一定の規矩(きく)を立てゝ人と己とを律せんとするに在り。審美の学を作りて、是を以て詩界の律令と為さんとするに在り。知らずや宇宙は卿曹の哲学に支配せらるゝが如き狭隘(けふあい)なる者に非ず、天地の情、乾坤(けんこん)の美は区々たる理論の包轄し得べき者に非るを。
 曰く写実(リアリスト)、曰く理想(アイデアリスト)、派を分ち党を立つると雖も、畢竟(ひつきやう)するに専断の区分に過ぎざるのみ。所謂理想派と雖も、豈(あに)徒らに鏡花水月をのみ画く者ならんや、心中の事実、皎(けう)として明なる者を写すに過ぎざるのみ、然らば即ち是も亦写実派なり。所謂写実派と雖も豈徒らに事の長さと物の広さとを詳記して止む者ならんや、事の情と物の態とを抽(ぬ)きて之を写さゞるを得ず、然らば即ち是も亦理想派なり。実中の虚、虚中の実、豈に截然(せつぜん)として之を分つべけんや。之を分つは談理の弊なり。
 最も解し難きは自ら己れを目して写実派なり、理想派なりと曰ふの徒也。夫れ天下の詩人は多し、其性情行径亦各同じからず。傍人之を評して彼れは写実派なり、是れは理想派なりと曰ふ、亦唯其性の近き所に因つて之れを品題するに過ぎざるのみ。其実は即ち一人にして時としては深遠なる理想を歌ひ、時としては目前の景を歌ふ者なり、必しも自ら其理想派たり、写実派たるを知るを要せざる也。しからずして若し我れ理想派たり、我れ写真派[#「写真派」はママ]たりと曰はゞ即ち自ら其活溌たる詩眼を蔽ふに一種の色眼鏡を以てする者にあらずして何ぞや。
 詩人若し談理の弊に陥れば、其詩は即ち索然として活気を失はざるを得ず、何となれば是れ既に情(ハート)の声に非ずして知(マインド)の声なれば也。詩人若し自己の哲学に牢せらるれば、其詩は即ち単調とならざるを得ず、何となれば千篇も終に一律の外に逸する能はざれば也。
 吾れは是故に審美論を喋々(てふ/\)して、後進を率ゐんとする者を目して詩道の李斯、王安石となす。
 詩人よ、爾(なん)ぢ感ずるがまゝに歌ひ、見るがまゝに説き、思ふがまゝに語れ。爾が心の奥を開きて隠すこと勿(なか)れ。爾が成功の秘密は斯の如きのみ。
 爾は自己に協(かな)へる衣を択び自己の詩想を発揮すべき詩形を択べ、爾自己のを歌へ、古人の蘇言機たること勿れ。
 予は詩道のベーコンが世に出でんことを望む。今日の乏しき所は高き理想に非ず、美しき辞令に非ず、豊富なる詩題(サブゼクト)なり。主観的の想考に富んで客観的の題目に貧しきは今の詩人の弊なり。予は詩人がしばらく空しき想像を離れて、先づ天地と人生とを見んことを希望す。彼等世に遠かるが故に世と疎(うと)き也。
 感情は見るに因つて生ず、見ずして摸索す、是に於てか勢ひ虚偽に流れざるを得ず。予(わ)れ今の所謂才子が作る所の戯曲(ドラマ)を見るに、是れ傀儡(くゞつ)を操りて戯を為す者の類(たぐひ)のみ、作中の人物、一も生人の態なし。其唐突、滑稽なる人をして噴飯せしむる者あり。彼れ人生に於て些(いさゝか)の通ずる所なくして、徒に之を空※(くうけう)[#「木+号」、298-下-8]なる腹中に索(もと)む、斯の如きは固より其所なり。若し彼をして真に人情世故に通ぜしめば豈に是のみにして止まらんや。今の世に交際の利益を受けざる者華族を甚(はなはだ)しとなす。其次は即ち詩人也。彼等自ら其天地を劃り、自ら其党派を樹(た)てゝ曰く、真美は唯我党のみ知れり、純文学は唯我党のみ与(あづ)かれり、門外漢をして吻(くち)を□ましむるなかれと。彼等互に相標榜して自ら是とし、人を詈(のゝし)り己れを尊び、昂然として一世を睥睨(へいげい)す。殊に知らず、天地の情豈に一人一派にして悉知(しつち)するを得んや。月影波に横はれば砕けて千態万状を為すに非ずや。百日の富士は百日の異景を呈するに非ずや。詩人たる者唯宜しく異を容れて惟(こ)れ日も足らざるべし、何を苦しんで党派を作らんとするぞ。是も亦談理の弊に非ずや。

     詩形の標準

 新体詩は嘗て一たび秋の芒(すゝき)の如く出でたり、而して今や即ち寂々寞々(せき/\ばく/\)たり。独り湖処子の猶孤城を一隅に支ふるを見るのみ。
 迎ふる時は明月を迎ふるが如く狂し、送る時は悪客を送るが如く忘る。始めや之を尊んで詩界の新潮と曰ひ、後や之を卑(いやし)みて詞壇の□肋(けいろく)とす、天下何ぞ毀誉(きよ)の掌を反すが如くなる。
 然れども「想」あり此に「形」なきを得ず、新詩形豈止(や)むべけんや。唯何を以て新体詩の標準となさん乎に至つては未だ適(てき)として依る所なきを見る也。
 今人眼を尊んで耳を尊ばず、唯其形を見て、其声を聞かず、徒に七五、若くは五七にして押韻するのみ。之を誦して児童走卒も亦点頭するの工夫に至ては、乃(すなは)ち漠然として顧みず、詩形を造る唯之を字を読むの眼に訴へて字を知らざる者の耳に訴へず、是豈に今の一大欠点に非ずや。
「坂は照る/\、鈴鹿(すゞか)は曇る、あいの土山雨が降る」読み来つて淡水を飲むが如し、而れども之を誦する再三に及べば滋味の津々たるを覚ふ。詩歌の妙実に一分は声調に存する也。
 此に於てか正に知るべし、「詩形」の進歩は実に「音楽」の進歩に伴ふことを、「声音」の学発達するに非んば「詩形」奚(なん)ぞ独り発達するを得んや。
 和歌者流曰く三十一字にして足る、何ぞ故(ことさ)らに新しき形を要せんと、殊に知らず、昔しの淳朴なるや、「八雲立」「難波津」の歌猶之を誦して、人をして感ぜしむるに足れり、今に至つては猶此緩慢なるものを須(もち)ゆべけれんや。宜(むべ)なるかな、人は「君が代」よりも「梅の春」を聴んと急ぐや。嘗て英国の国歌を誦するを聴く、声昂り調高し鼓舞作興の妙言ふべからず、誠に大国の音(おん)なるが如し。古の詩形を以て今の耳に訴へんとす、猶古代の燈を以て今の電燈に代へんとするが如し。
 新体詩家宜しく音楽の理に於て通ずる所あるべし、音と人心との関係に於て詳(つまびら)かにする所あるべし。斯の如くにして詩形始めて生ぜん。
 人、怒れば其声励(はげ)し、其声励しければ即ち句々断続す。人喜べば其声和す、其声和すれば即ち句々繚繞(れうぜう)して出づ、七情の動く所、声調乃ち異なり、詩人たる者此理を知らざるべからず、而して此れ文典の教へざる所、詩律の示さゞる所、之を弁知すべきもの唯耳あるのみ。
 今の新体詩を把つて之を誦し、字を解せざる者をして之を聴かしめよ、若し果して彼等をして首肯せしむれば、即ち新体詩も亦一日の其生命を長ふすべきものある也。
「形」は方便なり、方便は目的に因つて異なり。今の新体詩を作る者、其志唯人をして之を読ましめて以て其感を起さするに在らば、吾人は寧ろ散文に因て其詩想を発揮するの優(すぐ)れるを見る。若し夫れ期する所は天下に風詠せしめて、永く之を口碑に伝へんとするに在らば、吾人は更に一段の工夫を要するを知る也。
 曰くオッペケペー、曰くトコトンヤレ、其音に意なくして、其声は即ち自ら人を動かすに足る。新体詩人の推敲(すゐかう)百端、未だ世間に知られずして、堕落書生の舌に任じて発する者即ち早く都門を風靡(ふうび)す、然る所以の者は何ぞや、亦唯耳を尚(たふと)ぶと目を尚ぶとに因る耳(のみ)。
 之れを聞く、昔し安井息軒先生、青楼に上り、俚謡を作りて曰く、
つりがねをみんなおろして大砲とやらに鋳たらつくまいあけの鐘、
妓、吟じて曰く宜(よろ)しく鋳たらをしたらに改むべし、而して後始めて絃(いと)に上るべき也と。鋳たらの字終に目を尊ぶの習を免れず、此中の消息吾人は人の必らず之を首肯するものあるを信ずる也。
 文を作るの時、其文体、語勢、平生読む所の書に似ること多きは人の皆知る所也。然る所以は何ぞや、呻吟、習を為すもの自ら筆に顕はるゝなり。鶯(うぐひす)を飼ひて其声を楽しむ者は、他の鶯の婉転(ゑんてん)の声を発する者をして側らに居らしむ、其声の相似るを以て也。夫の風の颯々(さつ/\)たる波の□々(たう/\)たる、若くは鳥の嚶々(あう/\)たる、伐木の丁々たる、奚ぞ詩人が因つて以て其声を擬すべき粉本ならずとせんや。
(明治二十六年八月六、十二、二十日)



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