四十八人目
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著者名:森田草平 

     一

 毛利小平太(もうりこへいだ)は小商人(こあきゅうど)に身(み)を扮(やつ)して、本所(ほんじょ)二つ目(め)は相生(あいおい)町三丁目、ちょうど吉良左兵衛邸(きらさひょうえやしき)の辻版小屋筋違(すじか)い前にあたる米屋五兵衛こと、じつは同志の一人前原伊助(まえばらいすけ)の店のために、今日(きょう)しも砂村方面へ卵の買い出しに出かけたが、その帰途(かえりみち)に、亀井戸天神の境内(けいだい)にある掛茶屋に立ち寄って、ちょっと足を休めた。葭簀(よしず)の蔭(かげ)からぼんやり早稲(わせ)の穂の垂れた田圃(たんぼ)づらを眺(なが)めていると、二十(はたち)ばかりの女中がそばへやってきて、
「お茶召しあがりませ」と言いながら、名物葛餅(くずもち)の皿と茶盆(ちゃぼん)とを縁台の端に置いて行った。
 小平太は片手に湯呑を取り上げたまま、どこやらその女の顔に見覚えがあるような気がして、後を見送った。女の方でもそんな気がするかして、二人の子供を連れた先客の用を聞きながらも、時々こちらを偸(ぬす)み見るようにした。小平太は「はてな?」と小首を傾(かし)げた。が、どうしても想いだせぬので、二度目にその女が急須(きゅうす)を持ってそばへ来た時、
「姐(ねえ)さん、わしはどっかでお前さんを見たように思うが――」と切りだしてみた。
「はい」と、女は極(きま)りの悪そうに顔を赧(あか)らめながら、丁寧(ていねい)に小腰を屈めた。「わたくしも最前からそう思い思いあんまりお姿が変っていらっしゃいますので……もしやあなたさまは元鉄砲洲(てっぽうず)のお屋敷においでになった、毛利様ではございませぬか」
「して、お前さんは?」
 小平太はぎょっとして聞き返した。
「わたくしは同じお長屋に住んでおりました井上源兵衛の娘でございます」
「ほう、井上殿のお娘御! そういえば、さっきから見たように思ったのもむりはない」と、小平太はあたりを見廻しながら低声(ていせい)につづけた。井上源兵衛といえば、九両三人扶持(ぶち)を頂いて、小身ながらも、君候在世(ざいせい)の砌(みぎ)りはお勝手元勘定方を勤めていた老人である。「それにしても変った所でお目にかかりましたな。で、お父上はその後御息災でいられるかな」
「はい」と言ったまま、娘はきゅうに下を向いて、はらはらと涙を滾(こぼ)した。
「ふうむ?」と、小平太は相手の容子を見い見い訊ねてみた。「では、何か変ったことでもござりましたか」
「は、はい」と、娘は前垂の端(はし)で眼の縁を拭(ぬぐ)って、ちらと背後(うしろ)を振返りながら、これもあたりへ気を兼ねるように小声でつづけた。「父は昨年の暮に亡(な)くなりました。それから引続いて母が永い間の煩(わずら)いに、蓄えとてもござりませねば、親子揃(そろ)って一時は路頭に迷おうとしましたが、長屋の衆が親切におっしゃってくださいまして、この春からここで勤めさせていただくようになったのでございます」
「それはそれは、とんだ苦労をなされましたな」と、小平太も相手を労(いたわ)るように言った。「だが、これも時代(ときよ)時節(じせつ)というもの、そのうちにはまたいいことも運(めぐ)ってきましょう。あまりきなきな思って、あなたまで煩わぬようにされるがようござりましょうぞ」
「ありがとう存じます」と、娘は優しく言われるにつけて、またもやせぐりくる涙を前垂の端で押え押えした。
「で、母御(ははご)はその後ちっとはおよろしい方でござるかな」
「それがどうも捗々(はかばか)しくございませんので……この夏から始終寝たり起きたりしていましたが、秋口からはどっと床についたきりでございますの」
「それはまた御心配な」と、小平太は心から同情するように言った。「まあ、せいぜい大切(だいじ)にしておあげなさるがいい。手前もまた何かのおりにお訪ねすることもござろうが、ただ今のお住家(すまい)はこの御近所で?」
「はい、妙見様(みょうけんさま)の裏手の七軒長屋で、こちらの茶店へ出ているおしおと聞いていただけば、じき知れますの」と言いかけて、ふと気がついたように、「でも、大変汚(むさ)い所でございますので、あなた方にいらしていただくような……」と、遠慮がちに言いなおした。
「いやなに、今では手前もごらんのとおりの身の上、その御遠慮にはおよびませぬわい」と、小平太はちょっと袖のあたりを振返りながら、わざとらしく笑ってみせた。こんな風に身を落してこそおれ、今に見よ、同志揃って吉良邸に乗りこみさえすれば、主君の仇を討った忠義の士として、世に謳(うた)われる身だというような意識がちらと頭の中を翳(かす)めたのである。
「それに」と、彼はまた何気なくつづけた。「あのへんは手前もちょくちょく参りますから、また通りがかりに寄せていただくこともございましょう。どうかお帰りになったら、小平太がよろしく申したと、母御にお伝えくだされい」
 まだ何やら訊いてみたいような気もしたが、人目を惹(ひ)くのがいやさに、小平太は茶代を払って、そこそこに茶店を出てしまった。年が若いだけに、思わぬ邂逅(めぐりあい)から妙に心をそそられたところへ、女の涙に濡(ぬ)れた顔を見て、大事を抱えた身とは知りながら、ついそれを忘れるような気持にもなったものらしい。夕日を仰いで、田圃(たんぼ)の中の一筋道を辿(たど)りながらも、彼は幾度か後を振返ろうとして、そのたびにようようの思いで喰いとめた。

     二

 去年三月主君浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)、殿中(でんちゅう)にて高家(こうけ)の筆頭吉良上野介(きらこうずけのすけ)を刃傷(にんじょう)に及ばれ、即日芝の田村邸において御切腹、同時に鉄砲洲の邸はお召(め)し上(あ)げとなるまで、毛利小平太は二十石五人扶持(ぶち)を頂戴(ちょうだい)して、これも同志の一人大石瀬左衛門の下に大納戸係(おおなんどがかり)を勤めていた。当時年は瀬左衛門より一つ上の二十六歳であった。その後赤穂(あこう)城中における評議が籠城(ろうじょう)、殉死(じゅんし)から一転して、異議なく開城、そのじつ仇討(あだうち)ときまった際は、彼はまだ江戸に居残っていたので、最初の連判状には名を列しなかった。が、その年の暮に大石内蔵助が、かねて城明渡しの際恩顧(おんこ)を蒙(こうむ)った幕府の目附方へ御礼かたがた、お家の再興を嘆願するために、番頭(ばんがしら)奥野将監(おくのしょうげん)と手を携(たずさ)えて出府(しゅっぷ)した際、小平太は何物かに後から押されるような気がして、内蔵助の旅館を訪(たず)ね、誓書(せいしょ)を入れて義徒の連盟に加わった。何物かとはいわゆる時代の精神である。当時の侍(さむらい)は、君父(くんぷ)の仇をそのままに差措(お)いては、生きて人交りができなかった。彼もその精神に押しだされたのである。そして、内蔵助の帰洛(きらく)に随行(ずいこう)して、上方(かみがた)へ上って、しばらく京阪の間に足をとどめていた。
 時代の精神と、もう一つは、世が太平になったために、ひとたび主(しゅう)に放れた浪人は喰うことができない、何人(だれ)も抱え手がないという事実に圧迫されて、小平太のほかにも、誓書を頭領にいたして、新(あらた)に義盟につくもの前後踵(くびす)を接した。いかに喰えない浪人生活よりも、時代の精神に追われて死につく方が、彼らにとって快(こころよ)く思われたかは、主家の兇変(きょうへん)の前に、すでに浪人していた不破数右衛門(ふわかずえもん)、千葉(ちば)三郎兵衛、間新六(はざましんろく)の徒(と)が、同じように連盟に加わってきたのでも分る。とにかく、元禄十四年の暮から明くる年の春にかけて、連判状にその名を列(つら)ねるものじつに百二十五名の多きに上った。しかも、その中には、内匠頭の舎弟(しゃてい)大学を守(も)りたてて、ならぬまでもお家の再興を計った上、その成否を見定めてから事を挙げようとするものと、そんな宛にもならぬことを当にして、便々と待ってはいられない、その間に敵(かたき)と覘(ねら)う上野介の身に異変でもあったらどうするかと、一途(ず)に仇討の決行を主張するものとがあって、硬軟両派に分れていた。前者の音頭(おんど)を取るものは、さきに大石と同行した奥野将監を始めとして、小山、進藤の徒であり、後者は堀部安兵衛、奥田孫太夫などの在府の士、並びに関西では原総右衛門、大高源吾、武林唯七らの人々であった。その争いが烈しくなるにつれて、前者は後者を罵(ののし)って、あいつらがそんなに逸(や)るのは喰うに困るからだと言った。そして、それは事実でもあった。元禄十五年の正月二十六日に、堀部安兵衛、奥田孫太夫、高田郡兵衛三人の連名で、江戸から大石に宛てた書面に、上方の連中がゆっくりしていられるのは、敵(かたき)の様子を目の前に見ていないからだ、それを毎日見せつけられている吾々の胸中も察してもらいたいというような意味のことを述べた末に、「同志の中でも器用なものは、医者の真似(まね)をしたり鍼医(はりい)になったりして、それぞれ渡世の道を立てているが、吾々は仇討専門で、ほかに芸がないから日々喰い詰める一方である。願わくば、あまり見苦しき体(てい)になり下(さが)らぬうちに、一日も早く決行したい」といったような一節がある。これは浪士の実情をありていに道破したものといわなければならない。
 ところで、内蔵助自身は、どちらかといえば前者に属していた。彼は仇討連盟の盟主になった。しかも、その裏面においては、全然それと反向(はんこう)するような主家の再興に力を尽していた。あるいは主家の再興は再興、仇討は仇討で遣る気であったと言うかもしれない。しかし主家を再興した後で、仇討のできないことは、何人(だれ)よりも内蔵助自身一番よく知っていた。仇討をしなければ、同志を欺(あざむ)いたことになるばかりでなく、永く世の指弾(しだん)を受けるかもしれない。しかも、一国の重寄(じゅうき)に任ずる城代家老としては、主(しゅう)の恨みを晴らすということも大切であろうが、それよりもまず主家の祭祀(さいし)の絶えざることを念とするのが当然だと信じたのである。この信念の下(もと)に、彼は去年の暮に出府した際も、あらゆる手蔓(てづる)を求めて目附衆(めつけしゅう)へ運動もしたし、それから後も山科に閑居して、茶屋酒にうつつを脱かしていると見せながら、暮夜(ぼや)ひそかに大垣の城下に戸田侯(内匠頭の従弟(じゅうてい)戸田采女正氏定(とだうねめのしょううじさだ))老職の門を叩いて、大学擁立(ようりつ)のことを依嘱(いしょく)した事実もある。もっとも、そうした運動の奏効(そうこう)おぼつかないことは、彼といえどもよく承知していた。が、全然徒労に終るものとも思っていなかった。再興の望みが絶対になかったように思うのは、事後においてそれを見るからで、当時にあっては、四囲(しい)の情勢から見て、かならずしもその望みがなかったとは言われない。幕府がいったん取潰した家を再興した先例はいくらもある。ましてや、相手の吉良家に何のお咎めがなかった点から見ても、その渦中にあった浅野家の浪人どもには、今にも再興の恩命が下るように思われたかもしれない。
 とにかく、内蔵助からしてそういう気持であったために、正月の山科(やましな)会議では、持重派(じちょうは)が勝ちを制して、今年三月亡君の一周忌を待って事を挙げようというかねての誓約も当分見合せとなった。そして、二月の初めには、一党の軍師といわれる吉田忠左衛門が、内蔵助の命を含んで、関東の急進派鎮撫(ちんぶ)のために江戸へ下ることになった。彼が浪士どもに分配するために、軍用金の中から若干(そこばく)の金を携(たずさ)えて行ったことはいうまでもない。
 江戸の急進派の中でも一番あせっていた堀部安兵衛は、それからも絶えず書を寄せて一挙の即行を迫っていたが、とかくに煮えきらぬ内蔵助の態度をもどかしがって、六月の末には単身東海道を押上ってきた。そして、山科の大石の許(もと)へも立ち寄らず、大阪の原総右衛門、京の大高源吾など上方(かみがた)の急進派を糾合(きゅうごう)して、大石の一派とは別に、自分たちだけで大事を決行しようと計った。ここに赤穂義士の連盟も分裂の危機に瀕(ひん)したのである。が、幸か不幸か、七月の二十二日になって、江戸の吉田忠左衛門から浅野大学が芸州(げいしゅう)広島へ流謫(りゅうたく)を命ぜられたことを報じてきた。同じく二十五日には、奥田孫太夫からも同様の書面がとどいた。こうなればもう是非(ぜひ)がない、主家再興の望みは永久に絶えたのである。で、内蔵助もついに意を決して、七月二十八日、京、伏見、山科、大阪、赤穂などに散在する同志と円山重阿弥(まるやまじゅうあみ)の別墅(べっしょ)に会合した上、いよいよ仇討決行の旨(むね)を宣言した。そして、自分も十月の末には江戸へ下るから、面々においてもそれまでに、二人三人ずつ仇家(きゅうか)へ気づかれぬよう内々で下向(げこう)せよと言いわたした。それを聞いて、義徒は皆踴躍(ゆうやく)した。中にも堀部安兵衛は、大石と離れてさえ決行しようとしていただけに、明くる朝すぐに発足(ほっそく)して、潮田(うしおだ)又之丞とともに江戸に走(は)せ下った。この二人は、途中浜松の駅で、芸州へ流されて行く浅野大学の一行に出逢ったが、後難の相手の身に及ばんことを恐れて、わざとお目通りを願わないで、素知らぬ顔に行き過ぎてしまったと言われる。
 横川勘平は円山会議に先立って、七月の末にはすでに江府へ下っていた。つづいて岡野金右衛門、武林唯七、それに毛利小平太の三人も八月の二十七日に江戸へ着いた。それに次いでは、吉田沢右衛門、間瀬孫九郎、不破数右衛門の三人が九月二日、矢頭右衛門七も単独にて同じく九月二日、千馬三郎兵衛、間重次郎、中田理平次は同月七日、木村岡右衛門、大高源吾も九月中というように、同志の士は続々江戸へ下った。しかも大石自身は、後を清くして立つためには何かと用事もあって、そうきゅうに京師(けいし)を引払うわけにも行かない。そこで同志の心を安んずるために、まず伜(せがれ)の主税(ちから)に老巧間瀬久太夫を介添(かいぞ)えとして、大石瀬左衛門、茅野(かやの)和助、小野寺幸右衛門なぞとともに、自分に先立って下向させることにした。一行は九月十七日に京都を立って、同月二十五日には無事江府に下着(げちゃく)した。そして、石町(こくちょう)の旅人宿(りょじんやど)小山屋に、江州(ごうしゅう)の豪家垣見左内公儀に訴訟の筋あって出府したと称して逗留(とうりゅう)することになった。それと見た一党の士気は、こうなればもはや太夫(たゆう)の出府も間はあるまいというので、いよいよ振いたった。

     三

 これより先(さき)前原伊助、神崎与五郎(かんざきよごろう)の両人は、内蔵助の命を帯びて、すでにその年の四月中江戸に下っていた。これは吉良、上杉両家の近情(きんきょう)を偵察するためで、内蔵助もそのころから主家(しゅうか)の再興をしょせんおぼつかなしと見て、そろそろそれに処する道を講じておいたものらしい。で、前原は米屋五兵衛と変名(へんみょう)して、相生町三丁目に店借(たなが)りして、吉良邸の偵察に従事するし、神崎は美作屋(みまさかや)善兵衛と名告(なの)って、上杉の白金の別墅(べっしょ)にほど近い麻布谷町に一戸を構えた。これは上野介が浪士の復讐を恐れて、実子上杉弾正大弼綱憲(だんじょうだいひつつなのり)の別邸に匿(かく)まわれているというような風評(うわさ)があったからにほかならない。が、それは風評(うわさ)だけに止まって、主として本所の邸に住んでいることが分ったので、おいおい同志が出府してくるころには、与五郎も谷町の店をしまって、前原の米屋の店へ同居することになった。そして、美作屋では、自分の生国(しょうごく)から取ったものだけに、気が指(さ)したのか、あらためて小豆屋(あずきや)善兵衛と名告って、扇子や鬢(びん)つけの荷を背負(しょ)いながら、日々吉良邸の内外を窺(うかが)った。が、同邸でも見慣れぬ商人と見れば、いっさい邸内へ入れぬようにして、用心堅固に構えている。その中を潜ってはいりこもうとするのだから、こちらの苦心はひととおりでなかった。が、そんなことにあぐむような彼らでもなかった。日夜その機会を覘(ねら)っていて、それ火事だ! とでも言えば、真先に屋根へ駆け上って、肝心の火事はよそに、向側の吉良邸の動静を目を皿のようにして窺(うかが)ったものだ。
 円山会議の後、真先に江戸へ下った堀部安兵衛は、浪人剣客長江長左衛門という触れ込みで、米屋の店にほど遠くない林町五丁目に借宅(しゃくたく)した。前哨(ぜんしょう)たる米屋の店と聯絡(れんらく)を取って、何かの便宜(べんぎ)を計るためであったことはいうまでもない。この借宅には、在府の士小山田庄左衛門を始めとして、七月中安兵衛より一足先に江戸へ下った横川勘平、一足後れてすぐその後から下ってきた、毛利小平太の三人が同居した。そして、横川は三島小一郎、小平太は水原武右衛門と変称した。なお前者は、身分こそ五両三人扶持の徒士(かち)にすぎなかったが、主家没落の際は、赤穂城から里余(りよ)の煙硝蔵に出張していて、籠城(ろうじょう)殉死(じゅんし)の列に漏(も)れたというので、それと聞くや、取る物も取りあえず城下へ駈けつけて、内蔵助の許(ところ)へ呶鳴(どな)りこんだほどの気鋭の士であったから、偵察の任務についても人一倍大胆に働いた。小平太も安兵衛だの勘平だのという気性の勝った連中といっしょにいては、一人ぐずぐずしてはいられない。それに同宿の士の中では比較的小身者であっただけに、横川とはことに仲よくしていたので、同じように仲間小者(ちゅうげんこもの)に身を扮(やつ)して、仇家の偵察にも従事すれば、江戸じゅうを走り廻って、諸所に散在している同士の間に聯絡(れんらく)をも取っていた。で、誰一人小平太の心底を疑うものもなければ、彼自身もそれを疑うような心は微塵(みじん)もなかった。
 ところで、十月の半(なかば)ごろまでには、後れて上方を発足した原総右衛門、小野寺十内、間喜兵衛なぞの領袖株(りょうしゅうかぶ)老人連も、岡島八十(やそ)左衛門(えもん)、貝賀弥左衛門なぞといっしょに、前後して、江戸へ着いた。最も後れた中村清右衛門、鈴田重八の両人も、十月の三十日には江戸へ入って、安兵衛の長江長左衛門の借宅に同宿することとなった。中村は小山田庄左衛門なぞと同じく百五十石取りの上士で、鈴田は三十石の扶持米を頂いていたものであった。
 頭領大石内蔵助もいよいよ十月の七日には京師(けいし)を発足した。それに従う面々は、潮田又之丞(前に安兵衛とともに下って、ふたたび上方へ取って返したもの)、近松勘六、菅谷(すがのや)半之丞、早水(はやみ)藤左衛門、三村次郎左衛門、それに若党仲間どもを加えて、同勢すべて十人、「日野家用人垣見五郎兵衛」と大書した絵符を両掛長持に附(ふ)して、関所関所の眼を眩(くら)ましながら、五十三駅を押下った。そして、二十三日には鎌倉雪の下着、ここで江戸から迎いに出た吉田忠左衛門と出会って、打合せをした上、三日の後いっしょにそこを立った。そして、かねて準備しておかれた川崎在平間村の一屋(おく)に入った。ここに十日間ばかり滞在して、江戸の情勢を窺(うかが)っていたが、差閊(さしつか)えなしと見て、十一月の五日にはとうとうお膝元へ乗りこんできた。そして、前月来伜主税が逗留している石町の旅人宿小山屋に、左内の伯父と称して宿泊することになった。江戸にあった同志は、それとばかりに、人目を忍んで、かわるがわる内蔵助の許(ところ)に伺候(しこう)した。いよいよ年来の宿望を達する日が近づいたのである。
 が、内蔵助の到着とともに、かねて連盟の副頭領とも恃(たの)まれていた千石取りの番頭奥野将監(しょうげん)、同じく河村伝兵衛以下六十余人の徒輩(ともがら)が、いよいよ大石の東下(とうげ)と聞いて、卑怯(ひきょう)にも誓約に背(そむ)いて連盟を脱退したことが判明した。もっとも、その中には、前から態度の怪しかったものもあるにはあった。が、内蔵助の叔父小山源五右衛門、従弟(じゅうてい)進藤源四郎など、義理にも抜けられない者どもまで、口実(こうじつ)を設けて同行を肯(がえ)んじなかったと聞いては、先着の同志も惘(あき)れて物が言えなかった。中にも、血気の横川勘平のごときは、
「あいつらもともと汚い奴輩(やつばら)だ。この春討って捨てようと思ったのに、手延びにして残念だ!」と、歯噛みをして口惜しがった。
 が、神崎与五郎はそばからそれを宥(なだ)めるように、
「なに、今になって退(の)くような奴らは、皆大学様の御左右(ごさう)をうかがって、万一お家お取立てになった場合、真先にお見出しに預(あず)かろうという了簡(りょうけん)から、心にもない義盟に加わってきたのだ。そんな奴らが何人いたって、まさかの時のお役に立つものでない。仇討は吾々だけで十分遣(や)ってみせるよ」と言った。
 勘平もそれには異存がなかった。
 とにかく、一時百二十余名に上(のぼ)った義徒の連盟も、江戸へ集まった時には、こうして五十人余りに減ってしまった。が、それだけにまた後に残ったものの心はいっそう引締ってもきた。少なくとも、人数の減少によってぐらつくようには見えなかった。
 が、十一月の二十日になって、麹町(こうじまち)四丁目千馬(ちば)三郎兵衛の借宅に、間喜兵衛、同じく重次郎、新六なぞといっしょに同宿していた中田理平次が、夜逃げ同様に出奔(しゅっぽん)したという知せが同志の間に伝わった。江戸へ下った者はまさかだいじょうぶだろうと思っていただけに、同志もこれには吐胸(とむね)を吐いた。現在同志と思っている者も宛にはならぬというような感情も湧いて、互に相手を疑うような気持にもなった。中にも、小平太は少なからぬ衝撃(しょうげき)を受けた。
「そうだ、同志も宛にはならぬ。だが、俺はどうだ、俺は宛になるか」
 そう思った時、彼はぎょっとして思わず身を竦(すく)めた。彼といえども、最初連盟に加わった時から、一死はもとより覚悟していた。仇家(きゅうか)に討入る以上、たといその場で討死しないまでも、公儀の大法に触れて、頭領始め一同の死は免(まぬか)れぬということも知らないではなかった。が、一方ではまた、仇討は仇討だ、君父の仇を討ったものが、たとい公儀の大法に背(そむ)けばとて、やみやみ刑死に処せられるはずはない。お上(かみ)でも忠孝の士を殺したら御政道は立つまいというような考えが、心の底にあって、それが存外深く根を張っていたらしい。
「だが、相手には何しろ上杉家という後楯(うしろだて)がある」と、小平太は今さらのように考えずにはいられなかった。「その上杉家はまた紀州家を仲にして将軍家とも御縁つづきになっているのだ。去年三月の片手落ちなお裁(さば)きから見ても、また今度の大学様の手重い御処分から見ても、吉良家に乱入したものをそのまま助けておかれるはずはない。必定(ひつじょう)一党の死は極(きわ)まった!」
 彼は頸(うなじ)の上に振上げられた白刃(はくじん)をまざまざと眼に見るような気がした。同じように感ずればこそ、理兵次も垢(はじ)を含んで遁亡(とんぼう)したものに相違ない。といって、自分は今さら命惜しさに同志を裏切る気にもなれなければ、またそれだけのあつかましさも持合せていない。
「なに、俺一人で死ぬのじゃない」と、彼はしばらくしてようよう乾燥(かっぱしゃ)いだような声で呟(つぶや)いた。「死ねば皆いっしょに死ぬのだ!」
 こう自分で自分に言って聞かせてから、何人(だれ)も見ていたものはなかったかと心配するように、そっと眼を上げてあたりを見廻した。気がついてみると、じっとりと頸筋(くびすじ)のまわりに汗を掻いて、自分ながら顔色の蒼醒(あおざ)めているのがよく分った。
 その後も、小平太はできるだけ自分の心の動揺(どうよう)を同志の前に隠すように努(つと)めた。もっとも、彼が同志に心のうちを覚(さと)られまいとするには、もう一つほかに理由があった。それは彼に一人の情婦(おんな)があったからだ。亀井戸天神の境内(けいだい)で井上源兵衛の娘おしおに出逢って、あわれな身の上話を聞いてからというもの、宿へ帰ってもその女のことが気になって、どうも心が落着かなかった。で、明くる日はさっそくわずかばかりの手土産を持って、かねて聞いておいた七軒長屋に母親の病気を尋ねてみた。が、行ってみると、聞いたよりはいっそう惨(みじ)めで、母親は持病の痛風で足腰が立たず、破れた壁に添うて寝かされたまま、娘が茶店の隙間(ひま)をみては、駈け戻って薬餌(やくじ)をすすめたり、大小便の世話までしてくれるのを待っているというありさまであった。あまりの気の毒さに、小平太はその後もちょくちょく見舞いに寄ったが、若い者同志とて、いつしか二人の間に悪縁が結ばれてしまった。小平太にしてみれば、母娘に対する同情から出たとはいえ、大事を抱えた身の末の遂(と)げないことはよく知っている。悔恨と愛慾とは初めから相鬩(あいせめ)いだ。が、女の方では、そんなこととは知らないから、世にも手頼りない身の盲亀(もうき)の浮木に逢った気で、真心籠めて小平太に仕(つか)える。小平太もそうされて嬉しくないことはない。同志に隠れて、使走りの廻道をしては、夕方からこそこそと妙見堂の裏手へはいって行く。夜分どうしても都合の悪い時は、茶店へ顔を見に行く。そういうおり、彼はいつでも上方における大石の廓通(くるわがよ)いのことを想いだして、自分で自分に弁解(いいわけ)をした。もちろん、頭領がしたから自分も遣っていいというのではない。ただ内蔵助が茶屋酒に酔い痴(し)れながら、片時(へんじ)も仇討のことを忘れなかったように、自分も女のために一大事を忘れようとは思わない。それだけにしばしの不埓(ふらち)は容赦(ようしゃ)されたいというのが、せめてもの彼の願いであった。そして、暇(ひま)さえあれば、足は柳島の方へ向った。

     四

 ところが、おしおの母親は、十一月の半ばから陽気のせいか、どっと重態(じゅうたい)になって、娘の精根を尽した介抱も甲斐なく、十日余りも悩みに悩んだあげく、とうとう死んで行った。おしおは身も浮くばかりに泣いた。そばにいた小平太も、母親がわが身の苦しさも忘れて、息を引取る間ぎわまで、「おしおのことを頼む頼む」と言いつづけにしたことを思うと、何だか目に見えぬ縄(なわ)で縛(しば)られているような気がして、ぼんやり考えこんでしまった。が、これまでの行きがかりからいっても捨ててはおかれないので、同志の前は大垣の支藩戸田弾正介氏成候(だんじょうのすけうじしげこう)の家来で、彼には実兄にあたる山田新左衛門の許(ところ)に世話になっている母親の病気と繕(つくろ)って、二日ばかり同宿の家を明けて、型ばかりの葬式でも出させるようにした。
 で、それがすんでからいったん宿へ帰ったが、気になるので、一日置いてまた出かけてみた。おしおはもう片時(かたとき)も小平太のそばを離れない。「どんな苦労でも厭いませぬから、どうかわたしをおそばへ引取ってくださいませ。一人の母にさえ別れては、こうしているのが女の身では心細うてなりませぬ」と、男の膝(ひざ)に縋(すが)ってかき口説(くど)いた。
「そう言(い)やるのももっともじゃが、わしも今では他人の家に厄介(やっかい)になってる身……」
「では、どうぞあなたがここへ引移ってくださいませ。こんな穢(むさ)い所でお気の毒ですが、たとい賃仕事(ちんしごと)をしてなりとも、わたしはわたしで世過(よす)ぎをして、あなたに御迷惑は懸けませぬ」と、女の腰はなかなか強い。
 これには小平太も当惑した。心の中では、こうしてだんだん身抜きのできない深みへはまってきた自分の愚しさが、何よりもまず悔(く)いられた。が、今となってはどうにもしかたがないので、一時遁(のが)れの気休めに、
「それもそうだが、わしもいつまで浪人をしているつもりでもない。戸田様に御奉公をしている兄にも頼んで、方々へ渡りがつけてあるから、近いうちには何とか仕官(しかん)の途(みち)も着こうかと思っている。その前に内密(ないしょ)でそなたといっしょにいることが、骨折ってくれている兄にでも知れたら悪い。たとい一合二合の切米(きりまい)でなりとも、主取(しゅど)りさえできたら、きっと願いを出して、表向きそなたを引取るようにするから、それまでのところは、寂しかろうが、このまま御近所の世話になっていてもらいたい。あんまり引っこんでばかりいては、気もくさくさするだろうから、初七日(しょなぬか)でもすんだらまた茶店へも出るようにしたがいい。なに、それも永いことではない。わしも暇さえあれば、ちょくちょく会いに来るからね」と、さまざまに言い拵(こしら)えて、やっと相手を納得させた。
 で、その日の七つ下(さげ)りに、小平太は屈托(くったく)そうな顔をしながら、ぼんやり林町の宿へ戻ってきた。すると横川勘平が待ち構えていて、相手の顔を見るなり、
「おお水原か、いいところへ戻ってきた。貴公でなくちゃできない仕事がある」と、いきなり言いだした。そばには安兵衛の長左衛門も居合せて、何やら事ありげな様子に見えた。
「何だ何だ?」と、小平太も心のうちを見透(みすか)されまいと思うから、わざと威勢よく二人のそばへ顔を寄せて行った。
「じつはあの両国の橋の袂(たもと)にいる茶坊主珍斎(ちんさい)な」と、勘平は声を潜(ひそ)めてつづけた。「あいつはいつかも話したとおり例の山田宗□(そうへん)の弟子で、やはり卜(ぼく)一(上野介の符牒(ふちょう))の邸へ出入りをしている、茶会(さかい)でもある時は、師匠のお供(とも)をして行って、いろいろ手伝いもしているという話だから、またなにか聞きだすこともあろうかと、この間からそれとなく取入っておいたがね、今日はからずそいつの手から卜一の家老小林平八郎に宛てた書面を手に入れたんだよ」
「ふむふむ!」
「つい今の先のことだ、ぶらりとはいって行くと、これはいいところへ来てくれた、また一筆頼むと言うじゃないか。なに、この坊主がお茶はできるかしらんが、無類の悪筆でね。これまでも二三度頼まれたことがあるから、おやすい御用と引請(ひきう)けて、さて宛名はと聞いてみると、小林だ。しめた! とは思ったが、色にも出さず、相手の言うままに認(したた)めた上、自分もあちらの方面に所用があるから、何なら私が届けて進ぜましょう、御返事があるようならまた房路(もどり)にと、うまく言って使者(つかい)まで請合ってきた。それはいいが、何しろ俺はこの前あの邸へはいりこんで、うろうろしているところを掴(つか)みだされた覚えがあるから、二度とあそこへは行かれない。と言って、長左衛門どのでは顔が売れているから、どうも目に立つし、気はせきながらも、貴公の帰りを待っていたのだ」
「そうか」と、小平太はぐっと固唾(かたず)を呑み下しながら言った。「よし、それでは俺が引請けた」
「うむ、しっかり遣(や)ってくれ」
「心得た。で、念のために聞いておくが、この手紙の用件は?」
「いや、それは何でもない。かねて小林から頼まれていた品が見つかった。いずれ近日持主同道で持参するからよろしくというだけだ。いずれ茶器か何かのことだろうよ。だが、貴公は何にも知らない体(てい)で、ただ使者(つかい)に来たようにしておいた方がいい」
「それもそうだな」
「とにかく、またと得られない機会だ」と、勘平はさらに自分の注文をつづけた。「できるだけ邸内の様子を細かに見てきてもらいたい。近ごろ長屋と母屋(おもや)との間に大竹の矢来を結(ゆ)い廻して、たとい長屋の方へ打入られても、母屋へは寄りつかれないようにしてあるという噂(うわさ)も聞くが、このごろはあちらでもお出入り以外の物売はいっさい入れないようにしているから、最近の様子はさっぱり分らない。そのへんも十分見届けてきてもらいたいな」
「それに」と、安兵衛もそばから言葉を添えた。「かねがね山田宗□のところへ弟子入りをしている脇屋氏(わきやうじ)(大高源吾のこと、京都の富商脇屋新兵衛と称して入りこむ)から、吉良邸では来月の六日に年忘れの茶会があるという内報もあった。すれば、五日の夜は必定(ひつじょう)上野介在宿に極(きわ)まったというので、討入はおおよそその夜のことになるらしい大石殿の口ぶりでもあった。だが、頭領としては、その前にもう一度邸内の防備の有無を見定めておきたいと言われるのだ。で、もしお手前の働きでそのへんの事情が確実に分ったら、吾々が待ちに待った日もいよいよ近づいたというものだ。大切(だいじ)な役目だ、しっかり遣ってきてもらいたい」
「心得ました」と、小平太はそれを聞いて、きゅうに胸をどきつかせながらも、きっぱり返辞をした。
「くれぐれも仕損じのないようにな」と、安兵衛はなお念を押すように言った。「この場になってしくじったら、それこそ大事去るだ! その心得で遣ってきてもらいたい」
「よく分っております」と、小平太も緊張にやや蒼味を帯びた顔を上げて言った。「万一見咎(みとが)められるようなことがありましょうとも、一命に懸けて御一同の難儀になるようなことはいたしませぬ」
「その覚悟で行けば、しくじることもあるまい。だが、見破られないうちに、こちらの思う所を見てくるのが肝心(かんじん)だ。くどいようじゃが、その心得でな」
「畏承(かしこま)りました」
 小平太はすぐに身支度をして、例の状箱を受取って立ち上った。何と思ったか、勘平も後から追い縋(すが)るように送ってでて、
「長左衛門どのの言われるとおり、向うの様子がもう少し知れないと、迂濶(うかつ)に手は出せないという頭領始め領袖方(りょうしゅうがた)の御意見だ。しっかり遣ってきてくれ」と、皮肉らしく小声でささやいた。「その代りに、うまく行ったら当夜の一番槍にも優る功名だぞ」
「うむ!」とうなずいたまま、小平太は黙って表へ飛びだした。

     五

 小平太が進んでこの危い役割を引請(ひきう)けたのは、一つは心のうちを見透(みすか)されまいとする虚勢(きょせい)からでもあったが、一つにはまた、ここで一番自分の働きぶりを見せて、中田理平次なぞとはまるで違った人間だということを同志の前にはっきり証拠立てておきたかったからでもあった。いや、同志の前というよりは、第一自分の前に証拠立てたかった。だって、小平太の心を疑っているものは、何人(だれ)よりもまず彼自身であったから! そこで彼は与えられた機会を、よく考えてもみないで、しゃにむに掴(つか)んでしまった。が、一党に対する責任を思えば、安兵衛から注意されるまでもなく、この任務はあまりにも重かった。もし怪しい奴と睨(にら)まれて、町奉行の手にでも引渡されたら……そして、どうしても密事を吐かねばならぬような嵌目(はめ)に陥(おちい)ったら……
「そんなことにでもなれば、俺一人ではない、一党の破滅だ!」と、考えただけでも足の竦(すく)むような気がして、彼は思わず街(まち)の上に突立ってしまった。
 が、それとともに、「一命に懸けても」と二人の前に誓った言葉が彼の心に泛(うか)んできた。
「そうだ」と、彼はふたたび自分で自分に誓うように呟(つぶや)いた。「どんなことになろうとも、俺はこの口を開けてはならない。――責めらりょうが、殺さりょうが、たとい舌を咬(く)い切ってでも!」
 こんな烈しい言葉を用いながらも、彼はそれによって、不思議に、何の衝撃をも、不安をも、恐怖をも感じなかった。この場合、彼には命を投げだすということがきわめて訳もないことのように思われたのである。
「なに、死ぬ気でかかったら、何ほどの事があろう? こちらの覚悟一つだ!」
 彼は力足(ちからあし)を踏(ふ)み緊(し)めるようにして歩きだした。見ると、もう吉良家の裏門に近く来ている。かねて小豆屋善兵衛の探知によって、家老小林の宅が裏門に近い所にあるとは聞いていた。が、それでは都合が悪いと思ったか、わざと表門へ廻って、門番にかかった。
「お願いでございます、ちょっと小林様のお長屋へ通らせていただきます」
「小林様へ通るはいいが、いずれから参った?」と、暇潰(ひまつぶ)しに網すきをしていた門番が面倒臭そうに聞き返した。
「へえ、両国橋のお茶道珍斎からお状箱を持ってまいりました」
「そうか、よし通れ!」
 小平太はまず虎口(ここう)を免(のが)れたような気がした。が、ここでひとつ落着いたところを見せておこうと、
「私(わたくし)は新参者でよく存じませぬが、小林様のお長屋はどちらでございましょう?」と訊いてみた。
「なに、初めて御当家へ参ったと申すか」と、足軽はやっと手に持った網から顔を上げた。「小林様はお玄関の前を左に折れて、中の塀についてお長屋の前を真直に行くと、一番奥の一軒建ちがそれだ」
「へえ、どうもありがとうございます。こちらへ参りますか、は、分りました」と、お叩頭(じぎ)をしいしい、わざとゆっくり足を運んで、遠目に玄関口を覗(のぞ)いてみると、正面に舞楽(ぶがく)の絵をかいた大きな衝立(ついたて)が立ててあるばかりで、ひっそり閑と鎮(しず)まり返っていた。が、ここらで見咎(みとが)められてはならぬと思うから、言われたとおりに、すぐに左へ折れて、総長屋の前をぶらりぶらりと歩いて行った。長屋にはところどころ人声がして、どこからともなく水を汲む音、夕餉(ゆうげ)の支度をするらしい物音が聞えてきた。が、どちらを見ても、別段目に立つような異状はない。大竹の矢来といったような厳重な設備は、少なくともそのへんには見受けられなかった。
 彼はその間も始終右手の塀に目を着けていた。腰から下が羽目板になって、上に小屋根のついたもので、その中が座敷のお庭先にでもなっているらしい。ところどころ風通しの櫺子窓(れんじまど)もついているが、一つ一つ内側から簾(すだれ)が下げてあるので、中の様子は見られない。爪先立ちをしてみても、植込(うえこみ)の間から母屋の屋根つづきが、それもほんの少々窺(うかが)われるばかりだ。
 そのうちに、ふと一枚戸の中門が眼にとまった。ぴたりと閉めきってあるので、そのまま行き過ぎようとしたが、念のためだと二三歩後戻りをして、前後を見廻しながら、そっとその扉(と)に手を懸けようとした。とたんに、行手の土蔵の蔭から声高な話声が聞えてきたので、小平太はぎょっとして飛び退(の)いた。見ると、二人連れの侍(さむらい)が何やら話しながら、すぐ目の前へ遣ってくるのだ。彼はすかさず、
「少々物をお訊ね申しますが」と、小腰を屈めながら言った。「小林様のお長屋はどちらでございましょうか」
 二人は立ち留って、じろじろ小平太の様子を眺めていたが、年嵩(としかさ)の方が、
「なに小林様? 御家老のお長屋はついその左手のお家がそうだ」と、顋(あご)をしゃくって教えてくれた。
「へえ、ありがとう存じます、まことに相すみませぬ」と、ぴょこぴょこ頭を下げながら、急いでその家のくぐり戸に手を懸けた。
 二人の侍も小平太が門をはいるまでじっと後を見送っていたが、仲間体(ちゅうげんてい)ではあるし、状箱は持っている、別に胡乱(うろん)とも思わなかったか、そのまま踵(きびす)を返して行ってしまった。
 小平太はくぐり戸を閉めて、始めてほっと胸を撫(な)で下ろした。一歩違いで無事にすんだけれども、考えてみれば、実際危かった。剣呑(けんのん)剣呑(けんのん)! と思いながら、気を取りなおして、すぐ前の玄関にかかった。そして、
「お頼もうします、お頼もうします」と、二度ばかり声を懸けた。
「どうれ!」とどすがかった声がして、すぐ隣の玄関脇の部屋から、小倉(こくら)の袴(はかま)を穿(は)いた爺さんが出てきた。
 小平太はいきなり二つ三つ頭を下げて、
「私はお茶道珍斎からこの文箱(ふばこ)を持ってまいりました。どうかお取次ぎを願います」と、手に持った状箱を差出した。
 取次の爺さんは黙ってそれを受取って、朱塗りの蓋(ふた)の上に書いた宛名(あてな)の文字をつくづく眺めていたが、「ちょっと待て」と言い捨てたまま、奥へはいった。が、間もなく引返してきて、「すぐ御返事があるそうだから、しばらく待っておれ」と伝えた。そして、自分はすぐに元の部屋へはいってしまった。
 小平太はしばらくそこに立っていたが、だいぶ手間が取れるらしく、奥からは何の沙汰(さた)もない。この間だ! この間にそこらを見廻ってやれとも思ったが、さっきの失敗に懲(こ)りているので、もし自分のいない間に出てこられでもして、申し開きが立たなかったら、それこそ百年目だ! なに、まだ帰途(かえりみち)もあることだと、じっと辛抱(しんぼう)しているうちに、やっと奥で手の鳴る音がした。それを聞くと、例の爺さんはそそくさと襖(ふすま)を明けてはいって行ったが、すぐにまた取って返して、
「待ち遠であったな。この中に御返事が入っているそうだ。よろしくと伝えてくりゃれ」と、小平太の持ってきた状箱を渡した。
「畏承(かしこま)りましてございます。そのほかにお言伝てはござりませぬか」
「うむ、これを持ってまいれば分るそうだ」
「さようでございますか、どうもお邪魔いたしました」と、小平太はお叩頭(じぎ)をして、そのまま表へ出た。
 さあ、これからはもう帰るばかりだ。が、これだけではせっかく来た甲斐がないような気もした。第一、同志の連中が何と言うか知れない。彼には何よりも同志の思わくが気になった。で、右へ行けば表門へ出るのを、わざと左へ取って、角の土蔵について廻ってみた。すると、もうそこに裏門が見えて、その正面にあたる所が裏口の小玄関にでもなっているらしい。それが眼に着くと、彼はすぐに踵(きびす)を旋(かえ)した。そちらの方面のことは、前原や神崎の手でおおよそ分っていたからである。
 で、元来た道を引返していると、ふたたび例の中門が眼にとまった。見ると、前にはびたりと閉めきってあった戸が、どうしたのやら一寸ばかり透(す)いている。想うに、さっき逢った侍がここからはいって、つい閉め残したものでもあるらしい。小平太は天の与えとばかりに胸を躍(おど)らせた。が、遽(あわ)てるところではないと、前後を見廻して、人目のないのを見定めながら、つと扉(と)に身を寄せて、その隙間から覗(のぞ)きこんだ。目の前はやっぱりお庭先の植込らしく、木の枝に視線は遮(さえぎ)られるが、それでも廻縁になった廊下が長くつづいて、閉(た)てきった障子(しょうじ)にあかあかと夕日の射しているさまが、手に取るように窺(うかが)われた。上野介の居間がどのへんにあるかは、もとより知る由もない。が、左手に見える檜垣(ひがき)の蔭には泉水でもあるらしく、ぼちゃんと鯉の跳ねる音も聞えてきた。小平太はだんだん大胆になって、少しずつ門の扉(とびら)を開けて行った。もう少しで頭だけ入りそうになった時、すうと向うに見える障子が明いて、天目(てんもく)を持った若い女が縁側にあらわれた。彼はぎくりとして思わず後へ退った。が、間(あい)が離れているので、向うでは気のつくはずもない。そのまま廊下づたいに、音もなく下手(しもて)へはいって行く。
 小平太は振返って、用心深くあたりを見廻した。幸いに、どこから見ていられた様子もない。この上危い思いをして覗いていても得るところはあるまい、ここらが見切り時だと、彼は急いで門を離れた。が、せめて長屋の戸前でも数えて行ってやれと、心の中でそれを読みながら歩いているうちに、不意に背後(うしろ)で「わあッ!」という声がして、五六人の子供が彼のそばをばたばたと駈(か)けだして行った。一人の吹矢を持った男の子の後から、大勢がいっしょになって駈けだして行くのだ。彼はまた胆(きも)を潰した。が、それと分ると、まあ、あそこにぐずぐずしていないで、いい塩梅(あんばい)だと思った。そのうちにとうとう表門まで来てしまった。で、
「どうもありがとう存じます、行って参(さん)じました」と、もう一度門番に挨拶(あいさつ)をして、街の上へ出た。

     六

 小平太は一丁ばかり来て、始めて吾に返ったように息を吐(つ)いた。別段取りたてて吹聴(ふいちょう)するようなこともないが、使命だけは無事に果した。これだけ見てくれば、同志の前に面目の立たぬようなこともあるまい。そう思って、彼はまた駈(か)けだすようにして林町の宿へ帰った。宿には安兵衛、勘平の両人はいうまでもなく、吉田忠左衛門の田口一真まで来合せて、彼の帰宅(かえり)を待っていた。気早の勘平は、足音を聞くや、縁先まで駈けだしてきて、
「おお帰ってきたな、首尾(しゅび)はどうだった?」と、いきなり訊(たず)ねた。
「うむ!」と言ったまま、小平太はもう一度振返って、後を跟(つ)けるものの有無(うむ)を見定めてから、始めて座敷へ上った。
 奥の座敷には、忠左衛門と安兵衛の二人がひそひそと対談していた。小平太はまず忠左衛門に一礼して、さて安兵衛と勘平の前に持って帰った状箱を差出した。
「ふむ、これが返事だな」と、安兵衛は手に取って、ちょっとその上書に眼をやったが、すぐにまたそれを下に置いて訊ねた。「して、邸(やしき)の様子は存分に見てこられたか」
「あらまし見てまいりました」
 こう前置をして、小平太は指先で畳の上に図を描いてみせながら、はいって行った時から出てくるまでの顛末(てんまつ)を仔細に述べはじめた。勘平はそばから硯(すずり)に料紙を取って渡した。で、それによって、ふたたび見取り図を描いて説明しながら、
「まずこういったあんばいでございます」と、話しを結んだ。「私の見たところでは、思いのほかに薄手な屋敷で、長屋にも母屋にも、噂に聞いた竹矢来なぞいっこう見当りませんでした。間々(まま)女子供の声は聞えましたが、いったいにひっそりとして、格別の手配りがあろうとも思われず、風説はただ風説にすぎないかと存ぜられました」
「なるほど」と、忠左衛門は大きくうなずいた。「だいたいわれらが考えていたとおりであるな」
「さようでございます」と、小平太はさらに語(ことば)を継(つ)いだ。「で、戻路(もどり)にはせめてもと存じまして、長屋の位置を見がてら、その家紋を読んでまいりましたが、だいたい表通りに向った一棟(ひとむね)と、南側に添うた一棟と、総長屋は二棟に別れておりまして、戸前の数は三十あまり四十戸前もございましょうか。そのほかに家老小林の住宅(すまい)は、別に一軒建ちになっておりました」
「いや、よく気がつかれた」と、忠左衛門は相手の労を犒(ねぎら)うように言った。「これで邸内の防備に対するだいたいの見当もついた上に、当夜出会いそうな相手方の人数もほぼ分ったというものだ。太夫(たゆう)に申しあげたら、さぞ喜ばれるじゃろう。小平太どの、大儀でござったな」
「ついては、横川、お身ひとつその文箱を茶坊主の許(ところ)へとどけてくれんか」と、安兵衛はそばから口を出した。「これは貴公でないといかんからな」
「心得ました。さっそくとどけることにいたしましょう」
「そうだ」と、忠左衛門も言った。「御苦労だが、そう願うことにしよう。ところで、小平太どのの内偵は、拙者から久右衛門殿(池田久右衛門、山科以来大石の変名)に伝えようが、それよりもお身自身の口から申しあげた方がいいかもしれない。どうだな、これからすぐに石町へ同行しては?」
「は、私が参った方がよろしければ、すぐに御同道いたします」
「ああ、そうなさい。それから横川氏、貴公もその文箱をとどけたら、あちらへ参られい。このたびのことは、一つはお手前の働きでもあるから、一足先へ行って、拙者から太夫によく申しあげておくよ」
「恐れ入りました。それでは、いずれ後ほど御意(ぎょい)を得ることにしまして、私は一走り行ってまいります」と、勘平は会釈(えしゃく)して立ち上った。ちょっと間を置いて、忠左衛門も小平太を伴(つ)れてその家を出た。
 二人が小山屋の隠宅へ着いたのは、日脚の短い時節とて、もうそろそろ灯火(あかり)の点(つ)くころであった。寒がりの内蔵助は、上(かみ)の間の行灯(あんどん)の影に、火桶を前にして、一人物案じ顔に坐っていた。で、まず忠左衛門から口を切って、小平太が今日吉良邸へ入(い)りこむようになった次第を紹介した。その尾について小平太も、自分が見てきた邸内の様子を落ちなく報告に及んだ。内蔵助は眼を瞑(つぶ)ったまま、じっとそれに聴き入っていたが、やがて相手の言葉が途切れるのを待って、
「ふむ、そう分ってみれば、もはや遅疑(ちぎ)する場合ではないな」と、ぽっつり口を開いた。
「さよう!」と、忠左衛門はすぐにそれに応じた。「六日の茶会(さかい)を外したら、悔(く)いて及ばぬことにもなりましょう。それがすめば、さっそく白金(しろかね)の上杉家の別邸へ引移られるはずだと、たしかな筋から聞き及んでもいますからな」
「それもある」と言ったまま、内蔵助はまたしばらく眼を瞑っていた。が、ふたたび口を開いた時は、持前の低声ではあるが、いつになく底力が籠っていた。「で、いよいよそれと決定すれば、あらためて一同にも通告するが、面々においてもその心得で、それぞれその用意をして待っているように伝えてもらいたい。それにしても、小平太、今日は御苦労であったな。内蔵助からも厚く礼を言うぞ」
「は、ありがとう存じます」と、小平太は畳に手を突いたまま、きゅうに眼の中が熱くなるような気がした。彼としては太夫の前へ出て、自分で報告するさえ面晴(おもは)れであるのに、こんな言葉まで懸けられようとは、ゆめにも思い設けなかったのである。
 彼はそれから次の間へ下って、同宿の諸士といっしょに夕飯の御馳走になった上、後から来た横川と連れだって、上々の首尾でその宿を辞した。
 で、二人並んで歩きながら、小平太は相手から話しかけられても、すぐには返辞をしないほど、深く考えこんでしまった。第一には、自分の小さな手柄が太夫に認められたのも嬉しかった。が、そればかりではなかった。太夫に認められたことによって、ともすれば動揺(どうよう)しやすい自分の心が、何かこう支柱(つっぱり)でもかわれたように、しゃんとしてきた。それが彼には何よりも嬉しかったのだ。
「そうだ、ああ言ってもらえば、俺にも死ねる、立派に死んでみせられる!」と、彼は何度も心のうちで繰返した。
 横川は横川で、延びに延びた討入の日取りがいよいよ決定したというので、妙に昂奮(こうふん)して、うきうきしていた。で、何かと小平太に話しかけるのだが相手は上の空で、いっこう手応(てごた)えがない。
「おい水原、最前から貴公は何を考えているんだ?」と、勘平はたまりかねて相手の肩を叩いた。
「俺? 俺は……俺はそうだ、太夫のありがたいお言葉を考えていたのだ」
「そうか」と、勘平もうなずいた。「昼行灯(ひるあんどん)の何のと悪く言うものの、やっぱり太夫は偉いところがあるね。時には何となく生温いように思って、俺なぞずいぶん喰ってかかったものだが、別に怒ったような顔もされない。いくらこちらがいきりたっていても、一言(ひとこと)あの仁(じん)から優しい言葉を懸けられると、すぐにまたころりとまいって、やっぱりこの人の下に死にたいと思うからね。人柄というか、何というか、あれが持って生れた人徳(にんとく)だろうな」
「うむ、だがしかし、ああいうお言葉を頂戴するにつけて、俺は貴公にすまないような気がする。これも貴公が手柄を俺に譲ってくれたおかげだからな」
「なに、そんなことはお互いだ」と、勘平は快活に笑った。「それに手柄を譲るも譲らないも、俺にはあの邸へはいれなかったんだからな。貴公の働きは貴公の働きだよ」
「いや、そうでない」と、小平太はあくまでまじめであった。「俺は貴公のおかげで救われた。この恩は忘れない、死んでも忘れない!」
 彼はいきなり勘平の腕を掴(つか)んだまま、つづけざまに頭を下げた。その眼には涙が光っていた。勘平は妙な気はしたが、相手がまじめなだけに、黯然(あんぜん)としてそれを見守っていた。
 こうして二人は長い間両国の橋の上に立っていた。

     七

 いよいよ討入は十二月五日の夜と決定して、その旨(むね)頭領大石からそれぞれ通達された。一同は一種の昂奮(こうふん)をもってそれを受取った。五日といえば、あますところ日もない。とうとう年来の宿望を遂(と)げる日がやってきたのだ。それとともに、生きてふたたびこの娑婆(しゃば)へ出てこられようとも思われない。で、それとは言わぬが、めいめいその覚悟をして、故国(くに)の親類縁者へ手紙を出すものは出す、また江戸に親兄弟のあるものは、それぞれ訪ねて行って、それとなく訣別(わかれ)を告げるというように、一党の気はいはどことなく騒(ざわ)だってきた。
 十一月も晦日(みそか)のことであった。小平太は朝から小石川の茗荷谷(みょうがだに)にある戸田侯のお長屋に兄の山田新左衛門を訪ねて行った。おりよく兄も非番で在宿していた。久しぶりに来たというので、母親も喜んで、二人の前に手打ち蕎麦(そば)を出してくれた。で、しばらくよもやまの話しをしていたが、小平太はおりを見て、
「時に兄上」と切りだした。「永い間こちらへもいろいろ御迷惑を懸けましたが、今度西国筋のさる御大身のお供をして、もう一度上方(かみがた)へ上(のぼ)ることになりました。で、今日はそのお暇乞(いとまご)いかたがた参上したような次第でございます」
「ほほう、それは重畳(ちょうじょう)」と、兄は何も気がつかぬように言った。「わしもお前のためには、これまで縁辺をたよって、ずいぶん方々へ頼んではおいたが、どうも思うに任せぬ。そういうことになれば、誠にけっこうな次第だ。で、今度の御主人というのはやはり御直参ででもあるのかな」
「いえ、それが」と、小平太はちょっと口籠(くちごも)った。「御陪身(ごばいしん)ではござりますが、さる西国大名の御家老格……私としては、もはや主人の選(え)り好みはしていられませぬ」
「それはそうだ。武士としては、主人を失って浪人しているくらい惨(みじ)めなものはない。主取(しゅうど)りさえできれば、何よりけっこうだ。時にお前は」と、新左衛門は何やら想いだしたように言い添えた。「去年の暮にも、元浅野家の城代家老大石殿のお供をして、上方へ上ったが、あの方はまだ山科とやらにおいでかな」
「大石様でございますか」
「うん、その大石殿さ」と、新左衛門はじっと弟の顔を見詰めながらつづけた。「じつはその大石殿が、何やら思いたつことがあって、近ごろ江戸に下られたという噂を耳にした。いや、大石殿ばかりではない、旧浅野家の浪人どもおいおい江戸に参着して、何やら不穏(ふおん)なことを企(たくら)んでいるという風説もある。もっとも、風説にすぎぬかもしれないが、去年以来の成行(なりゆき)を思えば、全然風説のようなことがないとも言われない。お前はどうだ? かねて上方(かみがた)ではだいぶ大石殿のお世話になったというが、まさかお前がその一味に加担しているようなことはあるまいな」
「はッ」と言ったまま、小平太はちょっと顔が上げられなかった。
「じつはその風説を耳にしてから、ぜひ一度お前に会って訊(き)いてみようと思っていたところだ。今聞けば、さる西国筋の御大身に主取(しゅうど)りをしたと言いながら、わしにその名を明そうともしない。で、万一お前がそういう企てに加担していたとしたら、兄弟のわしには包まず明すがいいぞ」
 小平太はふたたび「はッ」と言ったまま、頸筋(うなじ)を垂れて、じっと考えこんでしまった。そこまで知っていられては、もう是非(ぜひ)がない。それに、そういう風説を耳にしながら、今日まで黙っていたところを見れば、兄もこのたびの一挙にまんざら同情がないわけでもあるまい。まして戸田家と浅野家とは御親類の間柄だ。ここで俺が戸田家の家来たる兄に有様(ありよう)を打明けてみたところで、別段差障(さしさわ)りの生ずるようなこともあるまい。このたびの事は、親兄弟たりともいっさい漏(も)らすまいという誓約はある。しかも、その誓約はけっして正確に守られていないとすれば、俺一人頑固にそれを守り通してみたところで、何になろう? それよりも、ここで打明けて、兄の同情と支援とが得られたら、自分としてもどのくらい心強いかしれない。心強いばかりでなく、同情を寄せていてくれる兄の手前としても、俺は後へ退けなくなるではないか。そうだ、それが何より肝心だと心に思案して、
「で、もし私がその企てを知っているとしましたら?」と、上眼に兄の顔を見上げながら、おずおず言ってみた。
「知っているとすれば、お前は一味に加担しているのだな!」と、新左衛門の声は思わず筒抜(つつぬ)けた。
「はい、加担しております」と、小平太も度胸を定めて言いきった。「主家の没落に遇(あ)って武士の意気地(いきじ)を立てるには、そのほかに道もおざりませぬ。兄上、お察しくだされい」
「ふむ、それは困ったことになったな」と、新左衛門は両腕を拱(こまぬ)いたまま、溜息(ためいき)を吐いた。
「何とおおせられます?」と、小平太も顔色を変えた。「では、兄上は大石殿の一挙に不同意じゃとおおせられるか」
「ずんと不同意じゃ」と、新左衛門は相手の眼を見返したまま言った。「考えてもみい、今の浅野の浪人どもがそのような暴挙に出て、お膝元(ひざもと)を騒がしたら、戸田のお家はどうなると思う? 去年内匠頭様(たくみのかみさま)刃傷(にんじょう)の際にも、大垣の宗家(そうけ)を始め、わが君侯にも連座のお咎(とが)めとして、蟄居(ちっきょ)閉門(へいもん)をおおせつけられたではないか。今度そんなことがあれば、お家の興廃(こうはい)にも係(かかわ)る一大事じゃ。お前にはそれが分らぬか」
 そう言われてみると、小平太には何と返す言葉もなかった。で、しばらく俯向いたまま無言をつづけていたが、ややあって、
「では、兄上は、私に武士の道を捨てよとおっしゃるか」と、心外らしく聞き返した。

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