旧聞日本橋
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:長谷川時雨 

 一族の石塔五十幾基をもった、朝散太夫(ちょうさんだいぶ)藤木氏の末裔(まつえい)チンコッきりおじさんは、三人の兄弟であったが、揃いもそろった幕末お旗本ならずものの見本で、仲兄は切腹、上の兄は他から帰ってきたところを、襖(ふすま)のかげから跳(おど)り出た父親が手にかけたのだった。末子(ばっし)のチンコッきりおじさんが家督をついだ時分には、もうそんな、放蕩児(ほうとうじ)なぞ気にかけていられない世の忙(せわ)しさだった。
 岡本綺堂(おかもときどう)氏作の『尾上伊太八』という戯曲の中に、伊太八という幕末の江戸武士が吉原の花魁(おいらん)尾上(おのえ)と心中をしそこなって非人におとされてから、非人小屋の床下を掘る場面があるが、あれを見るたびに私は微笑とも苦笑ともなづけがたいほほえみが突上げてくる。伊太八のは根強い悪だが藤木さんのは時代のユーモアがある。この放蕩漢兄弟は金がほしくなると種々な智恵の絞りっこをしたが、だんだんに詰って土を売ることを思いついた。
 江戸の下町でよい庭をつくるには、山の手の赤土を土屋から入れさせるのである。今のように富限者(ふげんしゃ)が、山の手や郊外に土地をもっても、そこを住居(いえ)にしていなかったので、蔵と蔵との間へ茶庭をつくり、数寄(すき)をこらす風流を楽しんでいた。一木(いちぼく)何十両、一石(いっせき)数百両なぞという――無論いまより運搬費にかかりはしたであろうが贅沢(ぜいたく)を競った。その地面に苔(こけ)をつけるには下町の焼土では、深山、または幽谷の風趣(おもむき)を求めることは出来ない。植木のためにもよくない、そこで赤土の価がよい。
 三人の兄弟がその時ばかりは志が一致する。父親が勤めに出てしまうと、なるたけ坪数のある広間、書院の床下から仕事をはじめる。自分たちでやって見たが、根(ねっ)から遊惰(ゆうだ)な男たちには、堅い土がいくらも掘りかえされないので、大っぴらに父の留守を狙(ねら)っては払いさげをやる。売る土がなくなると姉が死んだといって、蔵前の札差(ふださ)しに、来年さらいねんの扶持米を金にして貸せといたぶりに行く。札差し稼業はもとよりそういう放埒(ほうらつ)な、または貧乏な武士(さむらい)があって太るのだ。貴下(あなた)には泣かされますといいながら絞る。いくらにでも金にすればよいので、時価なぞにかまっていないよいお得意なのだから、彼らの番頭はうやうやしく町人袴(ばかま)をはき、手代を供(とも)につれて香奠(こうでん)をもって悔みにくる。おなじ穴の狢(むじな)友達が出て殊勝らしく応待して、包んで来た香奠(こうでん)の包みをもってはいると、そんな事は知らない姉じゃ人が、日頃厄介をかける札差の番頭が来たというので挨拶に出て、すっかり巧(たく)みの尻(しり)が割れ、ならずものたちは裏門から飛出してしまう――
 そんな話を藤木さんは自分でも面白そうにはなす。尤(もっと)もそれは柳橋にすむようになって、昼も酒盃(さかずき)をもっていられるようになった、ずっと晩年のことではあるが――
 柳橋の角に、檜(ひのき)づくりの磨きたてた造作の芸妓屋を、姉娘の旦那(だんな)に建てもらい、またその隣家(となり)を買いつぶして、小意気な座敷を妹娘の旦那に建増してもらって、急に××家のおとっさんおとっさんとたてられ、ばかに華々(はなばな)しく彼のキンカン頭が光りだした時、持前の毒舌はいい気になって発揚した。無学で――それは彼もおなじなのだが――平民というと、見下(みさげ)られるものとのみこんでいた無智な仲間は、娘を売るような士族でも偉そうにあつかったので彼は得意だった。例によって彼自身では何一つ楽しみも与えもしないで、苦労ばかりさせた妻にむかっては「ぼていふりの嬶(かかあ)が相当だ」と罵(ののし)った。朝湯にはいって、講釈の寄席(よせ)へ昼寝をしにゆくのを毎日の仕事にしていたが、あんまり口やかましいので、佃島(つくだじま)の庭の梅が咲いたからお訪ねなさい、桜がよいでしょうから行ってらっしゃいと、私の父の閑居に体(てい)よく追払われては来た。生ていたころの木魚(もくぎょ)のおじいさんと三人、のどかな海に対して碁を打ち暮した。島には木橋の相生橋(あいおいばし)が懸っていたばかりで、橋の上を通る人は寥々(りょうりょう)としていた。本佃(ほんつくだ)の住吉の渡船(わたし)でくるか、永代橋のきわから出て、父の閑居の門前につく渡船に乗るかが多かった。
 この渡船は、助さんという前の小屋にいた若い船頭さんのために、父がすこしばかり金で手伝ってやってはじめさせた渡しだった。人通りのない父の家の門の柳が、わたし場の目じるしだった。さて、その三人の幕末の残り者が縁近くに碁盤を据えると、汐潮(しお)があげてきて、鼻のさきをいせいのいい押送りの、八丁艪(ろ)の白帆が通ろうと、相生橋にお盆のような月がのぼろうと、お互が厭(いや)がらせをいいながら無中になっている。父は、島人から村長さんと名づけられているほどのんきで飄逸(ひょういつ)な、長い白い髭(ひげ)をしごいている。木魚の顔のおじいさんはムンヅリと、そのくせゲラゲラと声をださないで崩れた顔を示す。つまみよせたような眼の、キンカン頭の藤木さんは、俳諧(はいかい)でもやりそうな渋仕立(しぶじたて)の道行き姿になって、宗匠頭巾(ずきん)のような帽子を頭にのせている。そして懐中時計を三十分に一度はきっと出して、ただ眺める。竜頭(りゅうず)をいじって耳へもってゆくしぐさを繰返す――
 この碁打ちたち、かたちはさも巧者でありそうだが、だが、ある折、妹の婿の若い、海軍のヘッポコ少尉がこの三人の前で、
「とても駄目です、僕は軍艦(かん)でも、ものにならない方の、その中の一番しまいです。」
「まあ、やって見な、おれが対手(あいて)になってやろう。」
 父が少尉との最初の盤にむきあってすぐ負けた。若い軍人は言った。
「お父さん負けてくだすったんです、そんなはずはありません。」
「そりゃそうだろうとも、さあお出なさい、こんどは僕だ。」
 藤木宗匠が向った。父は変な顔をして黙っていた。勿論チンコッきり宗匠もすぐ負けた。
「妙だね、こりゃおつだよ、以心伝心(いしんでんしん)、若いものに華(はな)をもたせようとするのかな。湯川氏(うじ)はそうはいかないぜ。」
「いや、拙者はどうも。」
 木魚のおじいさんは目をクシャクシャとしばたたいて、蟇(ひきがえる)のようにゆったりしている。だが、結局はやっぱり負けた。若い少尉はころがって笑った。
「僕より拙(まず)いものがあるなんて――これじゃ碁じゃない……」
「碁じゃないって? 碁じゃない、碁じゃない、こちゃゴジャゴジャだ。」
 藤木さんも黄色い長い歯を出して笑った。
 しかし、そうしたのんきな生活(くらし)――芸妓屋おとっさんの成功も、藤木さんみずから努力した運ではなかった。彼の生涯に恵まれた幸福は、服従心の強い、優しい妻と娘とをもった事だった。木魚の顔のおじいさんの老妻がいしくもいったことがある。
「親不孝者が、親孝行の子をもつなんて、誠に不思議さね。」
 清元(きよもと)と踊りで売っていた姉娘お麻(あさ)に地味(じみ)な客がついた。丁度年期があいたあとだったので、彼女は地味にひいてしまった。その頃の九段坂上は現今(いま)よりグッと野暮な山の手だった――富士見町の花柳界が盛りになったのは、回向院(えこういん)の大角力(おおずもう)が幾場所か招魂社(しょうこんしゃ)の境内へかかってから、メキメキと格が上ったのだ。従って町の雰囲気も違って来た――お麻さんが選んだ妾宅(うち)は、朝々年寄った小役員でも出てゆきそうな家だった。母親は台所のためによばれていったので藤木さんの不服は一方ならずであった。
 お麻さんがその妾宅で、鬢髱(まわり)をひっつめた山の手風の大丸髷(まるまげ)にいって、短かく着物をきていたのも暫(しば)らくで、また柳橋へかえった。こんどは提灯(かんばん)かりの通勤(かよい)だったので、おなじ芸妓屋町に住居をもった。
 地味な気性でも若い芸妓である、雛妓(こども)のうちから顔馴染(なじみ)の多い土地で住居(うち)をもったから、訪ねてくるものもある。見得の張りたいところを裏長屋で辛棒(しんぼう)しているのだから、察してやらなければならないのを、チンコッきりに厭(あ)きはてた父親は、一緒に住まわせなければ、晩にいってその家の棟(むね)で首をくくってやるといやがらせた。事実そうもしかねないほど思い入っているので、世帯(しょたい)を一つにしたが――娘の心は悲しかったであったろう。芸で売った柳橋だとはいえ、一時に負担が重すぎた。私は従姉(いとこ)をたずねていって、暗澹(あんたん)たる有様に胸をうたれて途方にくれたことがある。これが、あのはなやかに、あでやかに見える、左褄(ひだりづま)をとる女(ひと)の背(せびら)に負う影かと――
 平右衛門町の露路裏だった。柳橋の裏河岸(うらがし)に、大代地(おおだいじ)に、大川の水にゆらぐ紅燈(こうとう)は、幾多の遊人の魂をゆるがすに、この露路裏の黒暗(くらやみ)は、彼女の疲労(つかれ)のように重く暗くおどんでいる。一番奥の、人力車夫の長家のような、板戸の家(うち)が彼女の巣だった。
 更けてはいなかったが戸を叩(たた)くと、床の低い四角い家の上りがまちに藤木さんが寐ていて黒っぽくモゾモゾした。奥の壁の隅に島田髷が小さく後向きに寐ている。にぶい燈火にも根に結んだ銀丈長(ぎんたけなが)が光っていた。壁にはいろいろなものがさげてあったが、芸妓の住居らしい華(はな)やかなものは一品(ひとしな)もなかった。
「あの娘(こ)は疳(かん)のせいか寐出すと一日でも二日でも死んだもののように眠っていて――」
 母親は祝いにきてくれたのにと気の毒そうに呟(つぶや)いた。
 心の重荷――そんなものが感じられて従姉の苦悩に私は胸をひきしめられていた。この裏家(うち)から高褄(たかづま)をとって、切火(きりび)をかけられて出てゆく芸妓姿はうけとれなかったが、毎日細二子(ほそふたこ)位な木綿ものを着て、以前(もと)の抱えられた芸妓屋(うち)へゆき、着物をきかえて洗湯にも髪結いさんにもゆくのだと母親が説明した。
 とはいえ、そうしたはかない裏は知らず、料亭(ちゃや)の二階へよぶ客は、芸妓と見れば自分から陽気になってくれる。彼女にもよい客が出来かけた。今日は何家(なにや)の裏二階で、昨日(きのう)はどこの離れでと招(よ)ぶ客の名が知れると、妙なことにチンコッきりおじさんが納まらなくなった。前に囲ってくれた旦那と二人して妨害運動をしたりしたが、律気な――鉢植えの欅(けやき)みたいな生れつきの妓(ひと)にも芽が出て、だんだんに繁昌(はんじょう)して来た。一人だちになり、勝気な負ずぎらいな妹もおなじ水にはいって、どうやら抱妓(かかえ)もおけるようになった時、東京中の盛り場で「旦那」とよぶのはあの人だけだといわれた遊び手の、若い大商人と縁を結んだ。
 小山内薫氏の書いた小説『大川端』や『落葉』に出てくる木場(きば)の旦那、および多(おおの)さんがこの二人である。多さんとは藤木麻女のことである。
 私はついにそこまで達した彼女の子供の時からの苦労をあんまり知りすぎている。だまって苦悩をになってゆく。痩(や)せた、小柄な、あまりパッとしない彼女の芸妓姿を、いたわり撫(な)でたい気持ちで遠くながめていた。アンポンタンは成長するにしたがい家内(いえ)のなかの異端者としてみられていたから、どうする事も出来ないで、抱えの時分、流山(ながれやま)みりん瓶入の贈物(つかいもの)をもってくる彼女の背中を目で撫ていたが、彼女におとずれた幸福は、彼女にはあんまりけばけばしい色彩なので、信実はやっぱり苦労が絶(たえ)ないであろうと痛々しかった。なぜなら、らんまんたる桜の咲きさかる春のような、または篠(しの)つく豪雨のカラリと晴れた、夏のような風情(ふぜい)は彼女にはそぐわなかった。もっと地味で、堅実な愛が、彼女を待たなければ真の幸福とはいえないように思えた。私が彼女にあうことはより遠々しくなった。
 放蕩児(ほうとうじ)が金を散じる時の所作(しょさ)はまず大同小異である、幇間(たいこもち)にきせる羽織が一枚か百枚の差である。芸妓のとりまきが一流と二流の相違は、料亭(ちゃや)待合(まちあい)の格式、遊ぶ土地、すべての附合の範囲と広さにおよぼしている。中村鴈治郎(なかむらがんじろう)が東都の人気を掴得(かくとく)しようとすると歌舞伎座から「まだ旦那のお招きをうけないが――」と頼みこんでくる。摂津大掾(せっつだいじょう)が来た、何が来たと東京の盛り場の人たちが大阪でうけるお礼のかえしを、一手に引受けるほど遊びに顔を売った旦那を彼女は旦那にしたのだった。しかも彼女は律気真面目(まじめ)一方で彼をまもった。
 彼女は浜町に住んだ。藤木さん夫婦は妹娘を真(しん)にして柳橋でパリパリの××家のおとっさんおっかさんになってしまった。手拭(てぬぐい)ゆかたの立膝(たてひざ)で昔話をして、小山内さんや猿之助を煙にまいていた。浜町の家には、近くの中洲(なかず)の真砂座(まさござ)にたむろしていた、伊井、河合、村田、福島、木村などの新派俳優の下廻りが、どっちが楽屋かわからないほど入込んでいた。藤井六輔(ろくすけ)とか小堀誠などは自分の家のようにまめに働いていた。芸妓、各遊芸の家元たち、はなしか、幇間(たいこもち)、集ればワッワッいう騒ぎだった。お麻さんはいつもそれらの後始末ばかりしていたが、彼女は一中節(いっちゅうぶし)の都の家元から一稲の名をもらっていたので、その名びろめを旦那が思いたった時は――彼女に対する日頃の謝意というより自分の道楽の方が勝ったであろうが、二日に渡った盛大な催しを柳橋の亀清楼(かめせい)で催した。仕着せ、まきもの、配りもの、飾りもの、ありきたりな凝(こり)ようではなかった。芦(あし)に都鳥(みやこどり)を描いた提灯(ちょうちん)は、さしもに広い亀清楼の楼上楼下にかけつらねられて、その灯入りの美しさ――岸につないだ家根船(やねぶね)にまでおなじ飾りが水にゆれて流れた。
 浜町の岡田では、この旦那のために舞台をつくって、あの広い家中を、一間一間楽屋にして素人芝居が開催される。もとより番附その他の設備、楽屋の積物、いうまでもなく人気役者の名題披露の通りにした。とうとう新富座まで借り入れてやったこともある。
 お麻さんと旦那の生活はこの位にしておこう。お麻さん夫婦の浜町の家に特記してよいのは、小山内氏のために潮文閣を挙(おこ)して第一期『新思潮』を出したことである。そのころとしては作家たちを花屋敷の常磐(ときわ)という一流料亭に招待したり、一足飛びに稿料何円かを支払って一般の稿料価上げを促したものである。
 姉娘と妹娘との旦那の張合いで、××家は柳橋でもパリパリの芸妓家となった。妹娘の旦那、銀行の頭取りは、事ごとに木場の旦那とは違ったゆきかたで、自分の女(もの)にした妹娘の家作(かさく)に手入れをする、動産、不動産、いずれも消てしまわないものを注ぎ込んだ。その時分の藤木さんの家こそ不思議だ。敷居一つまたぐと次の間は妹の家作で、入口の方の家が姉娘の家作、どっちの道、角家の磨きあげた二階家つづきで、お麻さんの芸妓名(うりな)をついだ妹が主で、大勢の抱妓(かかえ)がいた。妹は築地のサンマー夫人のところへ会話を習いにいったりして、二階の一間には床の間に花あり、衣桁(いこう)あり、飾り棚があり、塗机があり、書道の手本と硯(すずり)が並べてあるという豪奢(ごうしゃ)な貴婦人好みであった。
 産むなら女の子をうんでおけと――むべなるかなで、チンコッきりおじさんはその家のお父さんとして死んだので、実に大層もない葬式の列が編上(あみあ)げられて、死に果報なこととなったが、同時にこそばゆい華やかさでもあった。
 最もその時分、角力(すもう)の親方だとか顔役だとか、人気役者とかいえば、そうした突拍子もないお祭りさわぎの葬式もあったが、チンコッきりおじさんを知っているものには不思議な微笑をもって送られた。小禽(ことり)が何百羽はいっていようかと思われるほどの大鳥籠(かご)、万燈(まんどん)のような飾りもの、金、銀、紅、白の蓮(はす)の造花、生花はあらゆる種々な格好になってくる。竜燈、旗、天蓋(てんがい)、笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、女たちは白無垢(しろむく)、男は編笠をかぶって――清楚(せいそ)な寝棺は一代の麗人か聖人の遺骸(いがい)をおさめたように、みずみずしい白絹におおわれ、白蓮の花が四方の角を飾って、青い簾(すだれ)が白房で半ば捲上(まきあ)げられ、それを幾町が間か肩にかつぎあげずに静々と柳橋から蔵前通りへと練り歩かれた。
 それをまた迎える本堂は花を降らし、衆僧は棺をめぐって和讃(わさん)の合唱と香の煙りとで人を窒息させた。しかもまた堂にみつる会衆は、片時もだまっていられないたちの種類なので、後側の方は、おとむらいなのかお浚(さら)いなのか、ともかく寄合には相違ないが忍び笑いまでする――

 私は死んでも、決して自分ひとり所有の、立派なお墓なんていうものを建るものではないと、その時思った。前にもいったが、藤木家一族の墓石は幾十基かならんでいるが、その中に、特によい位置をしめて、四角四面、見上げるほど高く、紋をつけた家根まで一ツ石でとってある、石の質も他のとは違うゆいしょありげな一基は、ずっと前の徳川将軍に昵懇(じっこん)していた女性の墓だということだった。それがまあ、なんと光栄なお見出しに預かったことか、肝心な墓の主に断わりもなく――尤(もっと)も断わろうにも百万億土にゆかなければならないが――墓主が代ったことである。これがいい、これがいい、そんな風にかんたんにとりかわってしまった。そして、かつてはどんな美女で、将軍の意志、即ち時の天下の意志を動かしたかも知れない女の墓名は、チンコッきりおじさんの名に代ってしまった。尤も、何々院殿という偉そうな名にはなったが――
 しかし、もとの墓主だって、私は美女ときめているが、どんな人だったのか、それはわかりはしない。墓石が立派だから、下の人まで立派だといわれない。むしろ藤木さんなどは愛すべき俗人だ。彼は言ってるだろう。
「なんというべらぼうなこったか、干からびた鼠(ねずみ)のような俺(おれ)が――ここにはいるんだって? わしゃ、はずかしいわいなあ。」




ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:15 KB

担当:undef