旧聞日本橋
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:長谷川時雨 

 アンポンタンはぼんやりと人の顔を眺める癖があったので、
「いやだねおやっちゃん、私の顔に出車(だし)でも通るのかね。」
 さすがの藤木さんもテレて、その頃の月並(つきなみ)な警句をいった。
 小伝馬町の牢屋の原を廻(めぐ)る四角四面の町々に、アンポンタンの友達の分譜(ぶんぷ)があり、学んだ学校があり、長唄稽古所があり、親の知合(しりあい)の家もあったから、私がポカンと立止って眺めているなにかしらが多くあった。もともと牢屋の原の居廻りは、日本橋という主都の中央でありながら、今でいえば新開(しんかい)の町だけに、神田区上町との間に流れる溝(どぶ)川の河岸についた、もとの大牢の裏手の方は淋(さび)しいパラッとした町で、呆(ほう)けたような空気だった。そのかわりに今いえば日本橋区内の何処(どこ)でもに見られない新職業があった。古鉄屑屋の前に立って、暗い土間の隅の釜で、活字が鉛に解かされてゆくのを何時(いつ)までも眺めたりしていた。古莚(ふるむしろ)に山と積んだ、汚ない細かい鉄屑(かなくず)が塵埃(ごみ)と一緒に箕(み)で釜の中へはかりこまれると、ギラギラした銀色の重い水に解けてゆくのを、いくら見ていても厭(あ)きなかった。それが泥の中へこぼされると、なまこ型にかたまるのも面白かった。またある板がこいの中を覗(のぞ)くと、そこは地獄のように炎が嚇々(かっかく)と燃ていて、裸の小僧さんが棒のさきへ何かつけて吹くと、洋燈(ランプ)のホヤになるので息をのんで覗いていた。小さな瓶や、大きな瓶もすぐ出来上るのを見ていたが、暑さと苦しそうなのが、この見物とは反対に、こしらえている小僧さんたちにすまなく思わせた。
 表通りには鉄道馬車の線路のある日本の中央の幹線道路でありながら、牢獄(ろうごく)のあった時代からはかなり過ぎているのに、人通りがなくて、道巾の広い通りには野道のように草が生えていた。ガラス工場などは板屋根だからよけいに草が茂っていたが、瓦葺(かわらぶき)の屋根にも青々とした草が黄色い花をつけていた。
 藤木氏がチンコッきりをしていたのもその近所だった。はじめ私が発見した時、私は藤木氏なんぞ目にも入れなかった。忙(せわ)しなく煙草の葉を揃える人の手元や、ジャキジャキと煙草の葉を刻(きざ)んでいる職人の手許(てもと)を夢中になって眺めていた。
 その日の夕方、いつものように来て、藤木さんは母に呟(こぼ)していた。
「今日ってきょうは弱ったのなんのって、汗が出たね。だんまりはいいがね、いつまでもいつまでも立って見ているのだからね。こっちのほうがなにか言わなくちゃならない気がして――」
 だが真から心配そうにもいった。
「あんな道草していて、稽古(けいこ)にほんとにゆくのかしら?」
 その翌日あたしは、藤木さんのチンコッきりを立って見ていてはいけないと誡(いまし)められた。そのついでに母と誰かが話していたのだが、チンコッきりおじさんは、職人としても好(よ)くないのだそうだ。細君の方は目が高くて、煙草の葉を選(よ)るのにたしかで早い、大事な内職人なので、その方を手離したくないために、役にたたない御亭主も雇っておいてくれる。家(うち)でも口やかましい人が外に出ていてくれるのだから、大切に、おがむようにして出してやる。店の方でも細君の方に沢山仕事をさせたいので、機嫌をとっておいてくれるので、それでも三日目位にはあきてしまうのだと言った。
 藤木さんはその頃が貧窮のどん底だったが、細君の前だけでは、封建的殿様ぶりを発揮して、怒鳴ってばかりいた。蜜柑(みかん)箱にキンタマ火鉢を入れたのが長火鉢かわりの生活(くらし)でいて、
「貴様なんぞはボテイフリの嬶(かかあ)にでもなれ。」
というのが口癖で、魚売(さかなや)は自分よりよほど身分違い――さも低級でもあるように賤(いや)しめて罵(ののし)る習慣(くせ)があったのだ。貞淑な細君は、そんな事を言われても尤(もっと)ものように押だまって辛棒強く働いていた。手跡はお家流をよく書き、腰折れの一首もものし、貧乏の中に風流を解するゆとりもあり、容貌(きりょう)は木魚の顔のおじいさんの娘なりに、似てはいたが醜くはなかった。
 娘のおあさは色の黒いところと、人のよい正直者の表標のような光りをもつくせに、ちょいと見は鋭く見える眼つきを父親からもらって、母親からは祖父ゆずりのお出額(でこ)を与えられた。髪の毛の濃い小ぢんまりした小さな娘だった。
 ある日、藤木夫妻と娘とが、私の祖母と母の前に並んで座っていた。あたしもそばへ行って座った。丁度父が外(おもて)から帰って来て客のまたせてある室(へや)へゆきがけに通ると、母が縋(すが)るように言った。
「おあさが小蒔屋(こまきや)へ行くことにきまりまして――」
「そうか、金助の家(うち)か?」
「さようでございます、清元(きよもと)が大層気に入りまして――踊りも質(たち)がいいと仰(おっ)しゃってくださいますので――」
 藤木の細君がいった。
 小蒔屋――柳橋(やなぎばし)の芸妓屋の名だった。家へも来るが、両国広小路――電車道路となったが――の、両国橋にむかって右側に、「芭蕉(ばしょう)」という大きな薬種屋があって、芭蕉の葉が一葉大きく青く彫刻した看板が棟にあげてある店だった。その薬種屋は「正久の一」という名人の鍼灸医(はりい)の家で広い店二階に一ぱい患者が詰めかけていた。正久さんは盲目だが上品な老人で、供(とも)がついて祖母のために療治に来てくれたが、なにしろ患者が多いので祖母の方から通う日も多かった。そこの待合せは所がら芸妓やや料理店(おちゃや)の人が多く、藤木夫婦の望みと抱妓(かかえ)をほしがっている小蒔屋との交渉が、おもいがけなく私の祖母から出来上ってしまったのだった。
 おあさのために御馳走がならべられて、口々に褒(ほ)めた。
「おあさは孝行ものだ、親孝行だ。」
 父までが藤木さんに杯口(ちょく)を与えながらいった。
「おれの家(うち)でも女の子が多いから、芸妓やをはじめると資金(もとで)入(い)らずだが――」
 十(とお)ばかりの従姉(いとこ)と、私はだんまりで、二人ともこぼれない涙に瞳(め)が光っていた。おなじようにムンヅリしていたが、子供心にも思うことは違っていたのかもしれない。私は子供心には言いあらわせない反抗心がグイグイと胸をつきあげていた。その時、父も厭(いや)だった、褒めそやす母は一層憎かった。ふだんは好きな祖母も、そんな世話をしたかと思うと悲しかった。もとより、芸妓(げいしゃ)は美しいものとして、その他(ほか)の悪いことは知っていようはずもないのに、なぜだか、なんとも言えない泣きたい思いを堪えていた。
「親孝行なんて、親孝行なんて――」
 なあんだ――ただそう叫びたかった。みんなにむしゃぶりつきたい、わけのわからないむしゃくしゃだった。
「そんな親孝行なんぞしたくもない。」
 そう言いたかったのだ、お金で――金のねうちを知らない子供には、物品とおなじように金で子供を売ってしまう親がただ憎かったのだ。それを褒めそやす自分の親たちがなお憎かった、厭だった。子供はもっともっと親をよく思っているのに――私はやりどころのないわびしさを従姉にむけて睨(ね)めつけた。従姉は、蝶々髷(まげ)を光らせて、私の眼を避けてうつむいた。上から釣るされている大洋燈の灯(ひ)に、蝶々の簪(かんざし)がペカペカした。

 この下地(したじ)ッ子が、二、三年たってから、盆暮れの宿下(やどお)りに母親につれられて来て、柳橋へ帰るかえりに寄った。緋(ひ)の板〆縮緬(いたじめぢりめん)に鶯(うぐいす)色の繻子(しゅす)の昼夜帯(はらあわせ)を、ぬき衣紋(えもん)の背中にお太鼓に結んで、反(そ)った唐人髷(とうじんまげ)に結ってきたが、帰りしなには、差櫛(くし)や珊瑚珠(たま)のついた鼈甲(べっこう)の簪を懐紙につつんで帯の間へ大事そうにしまいこみ、褄(つま)さきを帯止めにはさんで、お尻(しり)をはしょった。
 私はさびしい気持でそれを眺めていた。私の着物を従姉が着るのでよけい親しみが深かったのに、なんとなくその日の従姉は私から離れていってしまっていた。おあさちゃんの体の方が借りものになって、着物や簪の方が巾(はば)をきかせていた。
 その頃になって、藤木さんの世帯(しょたい)は、すこしばかりゆとりが出来た様子になった。根岸の鶯谷(うぐいすだに)の奥の植木師(うえきや)の庭つづきの、小態(こてい)な寮の寮番のような事をしながら、相変らずチンコッきりと煙草の葉選(はよ)りの内職だった。妹娘は常磐津(ときわず)を仕込んでいたが、勝川のおばさんの方へ多くいっていた。
 音無川(おとなしがわ)を――現今(いま)では汚れた溝川になっているが――前にした、静かな往来にむかって、百姓家(や)の角に、竹で網んだ片折戸(かたおりど)をもった、粗末ではあるが閑寂(かんじゃく)な小屋に、湯川氏のおばあさんが、ポツンと一人住んでいたころなので、私が子供のくせにふさぎの虫を起すと、母は出養生(でようじょう)の意味で、あの心持ちの至極のんびりしたおばあさんの家へ私をやってくれるのであった。
 前にはざわざわ細流(ながれ)がつぶやいている。向うの藪(やぶ)には赤い椿(つばき)が咲いて、春の日は流れにポタンと花がおちる。夏ははちすの花が早抹(あさあけ)に深い靄(もや)の中にさいて、藪の蜘蛛(くも)の巣にも花にも朝露がキラキラと光って空がはれていった。藪には土橋をかけて、冠木門(かぶきもん)の大百姓の広庭(ひろにわ)と、奥深く大きな茅屋根(かややね)が見えていた。お行(ぎょう)の松にむかった方には狩野(かのう)という絵師の家が、鬱蒼(こんもり)した中に建っていた。
 お行の松は、湯川のおばあさんの茅屋からは左斜めの向側にあって、板小屋の不動堂とその後に寒竹の茂みのある幽邃(ゆうすい)な一区域になって、音無川が道路とへだてていた。裏の百姓家も植木師をかねていたので、おばあさんの小屋(こいえ)の台所の方も、雁来紅(はげいとう)、天竺葵(あおい)、鳳仙花(ほうせんか)、矢車草(やぐるまそう)などが低い垣根越しに見えて、鶏の高く刻(とき)をつくるのがきこえた。おばあさんの片折戸のせまい空地も弟切(おとぎ)り草(そう)が苔(こけ)のように生えて、水引草、秋海棠(しゅうかいどう)、おしろいの花もこぼれて咲いていた。
 あたしにはその家がめずらしくってたまらなかった。車馬の轟(とどろ)きはめったに聞こえず、人が尋ねてくるではなし、昼間家の中を青蛙(あおがえる)が飛んでいるし、道ばたの小家に簾(すだれ)を釣って、朝、夜明から戸をあけて蚊帳(かや)は釣りっぱなしで寝ていると、まだほの暗い中を人声がして前の川で顔を洗っている。
「おばあさん、あれはなに?」
ときくと、あの顔の大きなおばあさんは、あたしが大人のような返事をして、
「吉原(よしわら)がえりだろうよ、朝がえりだね、ふられて帰る果報者ってね。」
「降られてはいやしないよ、お天気だよ。」
とアンポンタンとちゃんぽんな問答をする。そうかと思うと、
「入谷(いりや)へ朝顔を見にゆこうかね、それは美事(みごと)だよ。」
「田圃(たんぼ)へ蓮(はす)の咲くのを見に行こうよう、おばあさん。ポンポンて音がするってね?」
「この子はまあ、田圃が好きで、お百姓のお嫁さんにしなければなるまいかねえ。」
 あたしは顔も洗わずに、湿った土の上へ一足、片折戸を開けて飛出すと、向うの大百姓の家のお嫁さんが生姜(しょうが)を堰(せき)でせっせと洗っていた。名物の谷中(やなか)生姜は葉が青く生々していて、黒い土がおとされると、真白な根のきわにほの赤い皮が、風呂(おゆ)から出た奇麗な人の血色のように鮮かに目立った。ボンヤリ見ている私は手伝いたくてウズウズしている。小僧さんが天秤棒(てんびんぼう)が撓(たわ)むほど、籠(かご)に一ぱいの大きな瓜(うり)を担いで来て、土橋(どばし)をギチギチ急いで渡ってた。
 町の子のあたしが、笹舟を流すことを知ったのも、麦笛を吹いたのも、夜蒔(よま)きの瓜の講釈をきいたのも、田圃へどじょうを突きに行ったのも、根岸の里住居のたまものだった。おばあさんは切れの巾着(きんちゃく)の中味を勘定して、あたしのおやつや好きな塩鮭(しおじゃけ)の一切れを買いにいった。まだ上野山下の青石横町にいる時分に、あたしは雨上(あまあが)りに三枚橋下へ小魚を掬(すく)いにいったり、山内へ椎(しい)の実を拾いにいって、夜になるとおばあさんの不思議な話をききながら煎(い)ってもらって、椎の実の味を知った。秋のはじめになると、
「蓮(はす)の実はいらないか、蓮の実いらないか。」
と短く折った蓮の蕋(しべ)を抱えて、売ってくれる子とも馴染(なじみ)になって、蓮の実の味も知った。そんな事は日本橋油町辺(あた)りの子供の誰一人知ってはいなかった。
 田圃道を歩きながら、おばあさんは錦絵(にしきえ)のような話をはじめる。
「根岸にはお大名の別荘(しもやしき)が沢山あるけれど、加賀様のお姫さまがたは揃ってお美しかった。お前さん、桜(はな)の咲くころに、お三方(さんかた)もお四方(よかた)も揃ってお出(いで)になると、まるで田舎源氏の挿絵のようさね。」
「おばあさん、お姫様はピラピラをさげてる?」
「お袿(かけ)は召ていないが、お振袖で、曙染(あけぼのぞめ)で、それはそれは奇麗ですよ、お前さんに見せたいね。ほんと! 桜の花よりものいう花がきれいさ。」
 あたしにはまたちょいとこの会話(はなし)が分らなくなる。牛乳(ちち)を呑(の)ましてくれる家(うち)の門(かど)に来た。
「ここらはもう三河島(みかわしま)田圃。」
とおばあさんがいったから、三河島の方へ寄っていたのであろう。一構(ひとかまえ)の百姓家は牧場になっていた。牛の牧場なんてそれまで見た事もない私だった。優しい眼をした黄と白の斑牛(まだらうし)が寝そべっていて、可愛い仔牛(こうし)がいたが、生きた牛の添(そば)にいった事はないし、臆病な私は怖(こわ)かった。若いキリリとした女房(おかみ)さんが、堀井戸に釣るしてあった鑵(かん)からコップへ牛乳を酌(く)んでくれた。濃い、甘い、冷たい牛乳だった。
「お砂糖がはいっているよ。」
と私が悦(よろこ)んでいうと、おかみさんとお亭主が笑っていった。
「お砂糖はいれてないけれど、絞りたての甘(うま)いのをあげたのさ。」
 こんな風(ふう)におばあさんはよく私を連れて他家(よそ)へいった。私が本を読みたがると、何処(どこ)からか聞きだしてきてくれて、私を貸本屋へつれてゆくといった。
 毎日二時過ぎると小さなお釜(かま)でお湯を湧(わか)して、盥(たらい)へ行水のお湯をとってくれた。私は裏からも表からも見透(みすか)しの場処でのんきに盥の中へ座る。雨蛙にもお湯をぶっかける。大きな山蟻(あり)が逃出すのを面白がる。或(ある)時は蟇(ひきがえる)と睨(にら)めっこしながら盥の中にかしこまっている。涼しい風にくしゃみをするとおばあさんが声をかける。
「さあ、もういいよ。」
 汗知らずをまだらにはたきつけて貸本屋さんへ出かける――
 貸本屋も御隠居処なのである。寒竹の垣根つづきの細道を、寒竹の竹の子を抜きながらゆくと何処でか藪鶯(やぶうぐいす)が鳴いている。カラカラと、辷(すべ)りのいい門の戸をあけると、踏石(ふみいし)だけ残して、いろとりどりな松葉牡丹(ぼたん)が一面。軒下に下っている鈴をならすと、切髪の綺麗(きれい)な女隠居が出てきて、両手を揃えて丁寧におじぎをした。
『妙々車』『浅間嶽』などが私の膝の前に高く積み重ねられた。私は幾度か見たものもあればまだ一度も開いたことのないものもあった。小さな私が一心を魅(と)られてしまっている時にこの二人の閑人――老婆がどんな話をしていたのか、思出すことも出来ない。
「これだけ拝借して、一日三銭でよいと仰(おっ)しゃったよ。」
 湯川のおばあさんは帰り道でそういった。私の本の見方が、大人より大切にして、キチンと座って読んでいるのに、先方の老女が感心して安くしてくれたのだと、――それにしても、あんまり少額(すけ)ないお礼に驚いた。
「宅にあるのを、みんな読ましておあげなさい。お好(すき)なものを見せないなんて、わからない親御(おやご)さんだ。」
 そうも言ったのだそうだ。けれどその家にはくさ草紙よりほかなかった。
 夕暮が来て、草双紙にもあきると、おばあさんを誘ってまた田圃に出た。蛍(ほたる)がチラホラ飛んでいる。小さな棺を担がした人がスタスタ通ってゆく。前の堰(せき)では農具を洗っている。鍬(くわ)が暗(やみ)にも光る――その側(そば)で、大きな瓜を二ツに裂いている。
「この種をも一度蒔(ま)くので、熟(う)れすぎたから塩押しにするのだ。」
と教えてくれる。三河島田圃の方の空が明るくて、賑やかな物音のする心地(ここち)がすると、あっちが吉原だと言った。昼間よりも、田圃みちを人が通っている。
 谷中芋坂(いもざか)の名物羽二重(はぶたえ)団子(だんご)がアンポンタンのお茶受けに好きだった。その団子屋の近くは藤木さんの住居になった寮だ。腰障子の土間の広い、荒っぽい材組(きぐみ)で、柱なんぞも太かったが、簡素な造りで、藤木さんは手拭ゆかたを着て、目白(めじろ)をおとりにして木立に小鳥籠が幾個(いくつ)かかけてあった。瑠璃(るり)の朝顔が大輪に咲くのを自慢した。
 朝顔を見にいった朝は、なんでも朝飯を食べていってくれと夫婦していった。それは私に代表させた私一家へ対しての、夫婦(ふたり)の感謝だったのかも知れない。子供だけれど潔癖だからと、白い御飯を光るように炊(た)いてだした。お豆腐の上に、まっ青な、香(かおり)の高い紫蘇(しそ)の葉がきざんで乗せてあるのが私をよろこばせた。
「妙なものが好きだ。」
 夫婦(ふたり)は私のお膳(ぜん)の前にいて、煽(あお)いでくれながらいった。
「お豆腐のきらいなのは知っているから、どうしたら好いかと心配したのだった。青いものが好きだから気に入るかと思って――」
 木の枝にかけわたした竹棹(ざお)に蔓(つる)がまきついて、唐茄子(とうなす)が二ツなっていた。
「朝顔につるべとられて――とかなんとかいうが、おやっちゃん、宅(うち)じゃあね、あれごらん、唐茄子に乾棹(ほしざお)とられてだよ。」
 藤木さんは秀逸らしくいって、
「だけど、うんと大きくして、油町へもってったって、こいつあ一個(ひとつ)でも、とてもあまるって、あの人数でもうならせるほど大きくするんだ。」
「桃の中から桃太郎が出るから、唐茄子から何が出るか、あたくしゃあ楽しみだよ。」
と湯川おばあさんがいった。
「違(ちげ)えねえ、飴(あめ)の中からお多福さんが出たよだ――さあさあ、これなる唐茄子から何が出ますか代価(だい)は見てのおもどり――ハッ来た、とくりゃあたいしたものだが、文福茶釜じゃあるめえし、鍋に入れたからって踊りだしゃあしまい。」
 藤木さんがそんな戯談(じょうだん)をいった時に、唐茄子の中にははいっていたものがあったのだった。あんまり大きくなるが様子が変だからと、庖丁(ほうちょう)を入れたら小蛇が断(き)れて出た。

 幾年か経(た)った。千葉の方にいた私の母の妹が、藤木の家が気楽だからと荷物をおいて宿にしていた。土佐の藩士で造幣局に出て、失職して千葉の監獄の監守になり、後に台湾で骨董(こっとう)商と金貸をした(虎と蛇の薬をもって来た)人の細君だった。――その時分漸(ようや)く奉還金の残りが公債証書で渡されるとかいって悦びあっていた間柄だった――気むずかしい毒舌家の藤木さんが、一番気のあった女(ひと)だった。極(ご)く早いお茶の水の卒業生だった彼女が学校を出て、大丸横町の岡田学校というのへ月俸金四円也で奉職したのは、私なぞの知らないころだったが、わからずやの私の母は、妹が毎日袴(はかま)をはいて大門通りを通り、近所の小学校へつとめに来られては肩味がせまいという理由のもとに抗議をもうしこんだ。そのためにあんなおじさんのところへお嫁入りをさせられたのだと、明治十何年か時代のモダン女性は、平凡に――あんまり平凡になりすぎた運命をよく嘆いていた。
 ある日坂本(さかもと)に昼火事があって、藤木さんは義妹(いもうと)の一人子を肩にして見物していたが、火勢が盛んなので義妹にも見せたくなって呼びにかえった。自分の見世物のように、勢いよく燃えあがっている火事を眺めさせていると、根岸の方に飛火があると騒ぎだした。とって返して見ると見当がわるい、自分たちの方角だ。おやおやと駈(か)けつけて見ると、住居の茅(かや)屋根が燃て、近所の人たちが消ていてくれた。
 飛火は消えた。どうやら半焼――それも戸棚の中だけですんだというので、狂気のように家の中にはいって見ると、戸棚の中味だけがすっかり焼けつくして――やっと、どうにかなりかけた藤木の品(もの)ばかりでなく、田舎からはこんで来た義妹の家財は一物も満足なのはなく、一緒にして鞄(かばん)へ入れておいてもらった両家の家禄奉還金(かろくほうかんきん)の書類も灰になってしまっていた。




ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:17 KB

担当:undef