松井須磨子
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著者名:長谷川時雨 

       一

 大正八年一月五日の黄昏時(たそがれどき)に私は郊外の家から牛込(うしごめ)の奥へと来た。その一日二日の私の心には暗い垂衣(たれぎぬ)がかかっていた。丁度黄昏どきのわびしさの影のようにとぼとぼとした気持ちで体をはこんで来た、しきりに生(せい)の刺(とげ)とか悲哀の感興とでもいう思いがみちていた。まだ燈火(あかり)もつけずに、牛込では、陋居(ろうきょ)の主人をかこんでお仲間の少壮文人たちが三五人(さんごにん)談話の最中で、私がまだ座につかないうちにたれかが、
「須磨子(すまこ)が死にました」
と夕刊を差出した。私はあやうく倒れるところであった。壁ぎわであったので支(ささ)えることが出来た。それに何よりもよかったのは夕暗(ゆうやみ)が室(へや)のなかにはびこっていたので、誰にも私の顔の色の動いたのは知れなかった。死ねるものは幸福だと思っていたまっただなかを、グンと押して他(ほか)の人が通りぬけていってしまったように、自分のすぐそばに死の門が扉(とびら)をあけてたおりなので、私はなんの躊躇(ちゅうちょ)もなく、
「よく死にましたね」
と答えてしまった。みんな憮然(ぶぜん)として薄ぐらいなかに赤い火鉢の炭火を見詰めた。
「でも、ほんとに死ねる人は幸福じゃありませんか? お須磨さんだって、島村先生だから……」
 すこし僭越(せんえつ)な言いかたをしたようだと思ったので私はなかばで言いさした。私は須磨子の自殺の原因がなんだかききもしないうちから、きくまでもないもののように思っていた。
「彼女が芸術を愛していれば死ねるものではないだろうに……死ななくったって済むかと思われますね。財産もあるのだというから外国へでも行けば好いに」
 電気が点(つ)くと、そう言った人のあまり特長のない黒い顔を見ながら、この人は恋愛を解さないなと思った。一本気で我執のかなり強そうだったお須磨さんは、努力の人で、あの押(おし)きる力は極端に激しく、生死のどっちかに片附けなければ堪忍(がまん)できないに違いない。
「とにかくよく死んだ。是非はどうとも言えるが、死ぬものは後(あと)の褒貶(ほうへん)なんぞ考える必要はないから」
と言うものもあった。死んだという知らせを電話で聞いて、昂奮(こうふん)して外へは出て見たが何処へいっても腰が座(すわ)らないといって、モゾモゾしている詩人もあった。けれど、みんな理解を持っているので、芳川鎌子の事件の時なぞほど論じられなかった。
「島村さんの立派な人だったってことが世間にもわかるだろう。須磨子にもはっきりと分ったのでしょう」
 そんなことが繰返えされた。全く彼女は、島村さんの大きい広い愛の胸に縋(すが)り、抱(だか)かれたくなって追っていったのであろうと、私は私で、涙ぐましいほど彼女の心持ちをいじらしく思っていた。
 連中が出ていってしまってからも私はトホンとして火鉢のそばにいた。生(いき)ている悩みを、彼女も思いしったのであろう。種々(さまざま)な、細(こま)かしい煩(うる)ささが彼女を取巻いたのを、正直でむきな心はむしゃくしゃとして、共にありし日が恋しくて堪えられなくなったのであろうと思うと、気がさものばかりが知るわびしさと嘆きを思いやり、同情はやがて我心の上にまでかえって来た。

 抱月(ほうげつ)氏のおくやみにいったのも、月はかわれど今夜とおなじ時刻だと思いながら、偶然におなじ紋附きの羽織を着て来たことなどを気にして芸術倶楽部の門を這入(はい)った。秋田氏に導かれて奥の住居の二階へといった。抱月氏のおりには芸術座の重立(おもだ)った人はみんな明治座へ行っていたので、座員の一人が、
「松井が帰りましたら申伝えます」
と弔問を受けたが、いるべき人がいないので淋しかった。それがいま、突然の死に弔らわれる人となろうとは夢のようだと思いながら案内された。旧臘(きゅうろう)解散した脚本部の人たちの顔もみんな見えた。誰れもかれも落附かないで、空気が何処となく昂奮していた。
 居間の前へくると杉戸がぴったりと閉切(しめき)ってあった。室内では死面(デスマスク)をとっているのであった。次の室にも多くの人がいた。手前の控室のようなところには紅蓮洞(ぐれんどう)氏がしきりに気焔(きえん)をあげていた。杉戸が細目に中から開(あ)けられて、お湯が入用だといったときに、座員の一人は紫色の瀬戸ひきの薬罐(やかん)をさげていった。洗面器が入用だというと身近く使われていたらしい女中が「先生のときに一つつかってしまって、一つしかないのだけれど」と、まごまごしていると、室のなかから水をなみなみと入れた洗面器をもちだして来てあけにいった。
(あの人の死骸(しがい)はこの杉戸一枚の向うにある)
 引締った心持ちで佇(たたず)んでいると、頭の底が冷たくなって血が下へばかりゆくような気がした。何やら面倒な問題があったと噂(うわさ)された楠山(くすやま)氏が側へ来たが、
「死ななくってもよかったろうと思うのですが……」といって、「これから郊外へかえるのは大変ですね」と話題をそらした。
 洗面器のことで呟(つぶ)やいていた年増(としま)の女中は杉戸の外にしゃがんでいたが、秋田さんが気附いたように、
「何か棺のなかへ入れてやるものでもないですか? 好きなものであったとか、大事にしていたものであったとか……忘れてしまうといけないから」
というのに、ろくに考えもせずに、
「お浴衣(ゆかた)が着せてありますから、あの上へ経(きょう)かたびらを着せればよいでございましょう。時計だの指輪だのというものは、かえってとってあげたほうがよろしいでしょうよ。ああしたお方でしたから。島村先生の時にはお好きだからって、あの方が林檎(りんご)とバナナをお入れになりました。ですから蜜柑(みかん)のすこしも入れてあげたらよろしゅうござりましょう」
と無ぞうさな事を言っていた。
 素朴なのは彼女の平常であったかも知れないが、名を残した一代の女優の、しかも若く、美しく、噂の高かったロマンスの主であり、恋愛に生きた日を慕って、逝(い)った人を葬むるのに、そんな無作法なことってないと腹立(はらだた)しかった。こんな女に相談をかけるとはと、秋田氏をさえ怨(うら)めしく思った。死んだ女は詩のない人であったが、その最後は美しく化粧(けわい)して去(い)ったというではないか、私は彼女に、第一の晴着(はれぎ)が着せたかった。思出のがあるならば婚礼の夜の衣裳といったようなものを、そしてあるかぎりの花で彼女の柩(ひつぎ)のすきまは埋めたかった。諸方から来る花環は前へ飾るよりも、崩(くず)して彼女の亡骸(なきがら)に振りかけた方がよいに、とも思った。
(親身でもないに立入ったことは言われない)
 そう思ったときに、生々としていて、なんの苦悶(くもん)のあともとめない死顔が目に見えるようであった。暗い寒い静かな明方(あけがた)に、誰れも気づかぬとき、床の間の寒牡丹(かんぼたん)が崩れ散ったような彼女の死の瞬間が想像され、死顔を見るに堪えなくなって暇(いとま)を告げた。
 秋田さんは玄関まで連立って来ながら、
「あすこへね、あすこから卓(テーブル)と椅子(いす)を持っていって、赤い紐(ひも)で縊(くび)れたのです。ちゃんと椅子を蹴(け)ったのですね息をのんだと見えて口を閉じていたし、それは綺麗な珍らしい死方だそうです」
 こういうおりに送り出されるのは忌むのが風習ではあるけれど、話しながら送りだされてしまった。
 私は道を歩きながら彼女に逢ったおりの印象を思いうかべていた。舞台外では幾度と逢ったのではないが、いつでもあの人はキョトンとした鳩(はと)のような目附きで私の顔を眺めていた。文芸協会の生徒の時分もそうであったし、芸術座の女王(クイン)、女優界の第一人者となってからもそうであった。貞奴(さだやっこ)が引退興行のときおなじように招かれて落ち合ったおり、野暮(やぼ)なおつくりではあるが立派な衣裳になった彼女は飾りけのないよい夫人(おくさん)であった。田村俊子(たむらとしこ)さんが、
「何故(なぜ)挨拶(あいさつ)しないのよ。だまって顔ばかり見ていてさ。一体知っているの知らないの」
 こう言っても、やっぱり丸い眼をして――舞台で見るのとはまるで違う、生彩のない無邪気な眼をむけて、だまって、度外(どはず)れた時分にちょいと首を傾(かし)げて挨拶とお詫(わび)とをかねたこっくりをした。それが私には大変よい感じを与えたのであった。可愛いところのある女だと思った。

 自分のことと須磨子の事件とがひとつになって、新聞を見ていても目の裏が火のように熱く痛くなった。彼女が臨終七時間前に撮(うつ)したという「カルメン」の写真は、彼女の扮装(ふんそう)のうちでもうつくしい方であるが、心なしか見る目に寂しげな影が濃く出ている。どうした事かそのおりばかりは、写真を撮(と)るのを嫌がって泣いたのを、例の我儘(わがまま)だとばかり思って、誰れも死ぬ覚悟をしている人だとは知らないので、「そんな事をいわないで」といって無理に撮らせてもらったのだというが、死の前に写した、珍らしい形見の写真になってしまった。きっと彼女の目のなかは、焼けるように痛かったであろう。抱月氏の逝去(せいきょ)された翌日、須磨子は明治座の「緑の朝」の狂女になっていて、舞台で慟哭(どうこく)したときの写真も凄美(せいび)だったが、死の幾時間かまえにこんなに落附いた静美をあらわしているのは、勇者でなければ出来得ない。私は須磨子を生活の勇者だとおもう。
 ――誰れの手からも離れてゆくこの女の行途(ゆくて)を祝福して盛んにしてやりたいから、という旧芸術座脚本部から頼まれた須磨子のための連中は、七草の日に催されるはずであった。けれどもう見ることは出来ない。芝居の大入りつづきのうちに一座の女王(クイン)が心静かに縊(くび)れて死んでしまうということは、誰れにも予想されない思いがけない出来ごとであって、幾年の後、幾百年かの後には美しい美しい伝奇として語りつたえられることであろう。
 その最後の夜、須磨子としては珍らしく白(せりふ)を取り違えたり、忘れてしまったりして、対手(あいて)をまごつかせたというが、そんなことは今まで決してない事であった。舌がもつれて言いにくい様子を不思議がったものもあった。カルメンの扮装をしたままで廊下にこごみがちに佇(たたず)んでいたというのは、凝(じっ)としては部屋にいられなかったのでもあったろう。そしてホセに刺殺されるところは真にせまっていたが、なんとなく悦んで殺されるようで、役柄とは違っていたという。
 内部のある人のいうには、一体に島村先生に別れてからは、芝居のいきが弱くなって、どうもいままでの役柄にあわなくなっていた。ことに今度のカルメンなどは、彼女に最も適した漂泊女(ジプシイ)の女であり、鼻っぱりの大層強い性格で、適役(はまりやく)でなければならないのに、どうもいきが弱かったと言った。
 彼女は死ぬ幾日かまえに、
「あなたはもっと真面目(まじめ)に人生を考えなければいけませんよ」
といわれたときに、
「今にほんとに真面目になって見せますよ」
と答えた。もうその時分から死ぬことについて考えていたのかもしれなかった。カルメンの唄(うた)う調子が低くって音楽にあわなかったというが、その心地をぽっちりも洩らすような友人のなかったのが哀れでならない。
 後からきけば種々(いろいろ)と、平常(ふだん)に変ったことが多くあったのである。抱月氏でなくとも、彼女を愛する肉親か、女友達があったならその素振(そぶ)りを見逃がさなかったであろう。何か異状のあることと気をつけていたに違いない。彼女は写真を撮るまえに泣いたばかりでなく、ひとり淋しく廊下に佇(たたず)んで床を見詰めていたばかりでなく、その日は口数も多くきかなかった。夕食に楽屋一同へ天丼(てんどん)の使いものがあったが、須磨子の好きな物なのにほしくないからとて手をつけなかった。帰宅してからも食事をとらなかった。夜更けてかえると冷(ひえ)るので牛肉を半斤ばかり煮て食べるのが仕来(しきた)りになっていた。それさえ口にしなかった。十二時すぎになると、抱月氏を祭った仏壇のまえでひそひそと泣いていたが、それは抱月氏の永眠後毎日のことで、遺書は四時ごろに認(した)ためられた。
 最後の日の朝、洗面所を見詰めて物思いにふけっていたというが、生前抱月氏は手細工(てざいく)の好きな人で、一、二枚の板ぎれをもてば何かしら大工仕事をはじめて得意でいた。洗面台もそうしたお得意の細工であったのである。毎朝々々顔を洗うたびに凝(じっ)と見詰めているが、そのおりも何時(いつ)までも何時までも立ったままなので風邪(かぜ)をひかせてはいけないと、女中が気をつけに側へいったのに驚いて、歯を磨きだした。そしてその翌朝は、そこのとなりの、新らしく建増(たてま)した物置きへ椅子や卓(テーブル)を運んでいったのであった。つい隣りの台所では下女(げじょ)が焚(た)きつけはじめていたということである。坪内(つぼうち)先生と、伊原青々園(いはらせいせいえん)氏と、親類二名へあてた遺書四通を書きおわったのは暁近くであったであろう。階下の事務室に寝ているものを起して六時になったら名宛(あて)のところへ持ってゆけと言附けたあとで、彼女は恩師であり恋人であった故人のあとを追う終焉(しゅうえん)の旅立ちの仕度にかかった。
 彼女は美しく化粧した。彼女は大島の晴着に着代え、紋附きの羽織をかさね、水色繻珍(しゅちん)の丸帯をしめ、時計もかけ、指輪も穿(は)めて、すっかり外出姿(そとですがた)になって最後の場へ立った。緋の絹縮(きぬちぢみ)の腰紐(ひも)はなめらかに、するすると、すぐと結ばれるのを彼女はよく知っていたものと見える。

 あの人は変っている、お連合(つれあい)と口論したら、飯櫃(めしびつ)を投(ほう)りだして飯粒だらけになっていたって――家がお堀ばたの土手下で、土手へあがってはいけないという制札があるのに、わざと巡査のくる時分に駈(かけ)上ったりするって。ということを、まだ文芸協会の生徒の時分に聞いた。そのうち舞踊劇の試演があって、坪内先生のいらっしゃる楽屋にお邪魔していると、ドンドンドンという音がして近くで大きな声がした。何だろうと思っていると、
「正子(まさこ)さんの白(せりふ)のおさらいだ」
と説明するように傍の人が言ったが、四辺(あたり)にかまわぬ大きな声は、悪口をいえば瘋癲(ふうてん)病院へでもいったように吃驚(びっくり)させられた。今度の騒ぎで諸氏の感想を種々聴くことが出来たが、同期に女優になり、いまは「近代劇協会」を主宰している良人(おっと)の上山草人(かみやまそうじん)氏と御夫婦しておなじ協会の生徒であった山川浦路(やまかわうらじ)氏の談話によると、生徒時代から須磨子は努力の化身のようで、手当り次第に台本を持ってきて大きな声で白(せりふ)をいったり朗読したりし、対手(あいて)があろうがなかろうがとんちゃくなく、すこしの暇もなく踊ったりして、火鉢にあたっている男生の羽織の紐をひっぱっては舞台へ引出して対手をさせる。その人が労(つか)れてしまうとまた他の人を引っぱりだしてやらせる。皆が嫌がると終(しま)いには一人で、オフィリヤでもハムレットでも墓掘りでもやってしまう。自分の役でない白でも狂言全体のを覚えこむという狂的な熱心さであったということである。
 生徒時代には身なりにとんちゃくなく、高等女学校や早稲田(わせだ)大学出の人たちの間へはさまり、新時代の高級女優となって売出そうという人が、前垂(まえだ)れがけの下から八百屋で買って来た牛蒡(ごぼう)と人参(にんじん)を出してテーブルの上へのせておいたまま「これはお菜(かず)です」とその野菜をいじりながら雑誌を一生懸命に読出したということや、他の生徒たちと一所に帰る道で煮豆やへ寄って、僅(わず)かばかりの買ものを竹の皮に包ませ前掛けの下にかくし「これで明日のお菜もある」といった無ぞうさや、納豆(なっとう)にお醤油(しょうゆ)をかけないで食べると声がよくなるといわれると、毎日毎日そればかりを食べて、二階借りをしていたので台所がわりにしていた物干しには、納豆のからの苞苴(つと)が稲村(いなむら)のようなかたちにつみあげられ、やがてそれが焚附(たきつ)けにもちいられたということや、卒業間近くなって朝から夜まで通して練習のあったおりなど、みんながそれぞれのお弁当をとるのに、袂(たもと)のなかから煙の出る鯛焼(たいやき)を出してさっさと食べてしまうと、勝手にさきへ一人で稽古(けいこ)をはじめたということなど、そうもあったろうとほほえまれる逸話をいろいろと聞いている。
「須磨子は地方へゆくと、座員のお弁当まで受負うのですとさ。一本十三銭五厘だって。だって、たしかな人がいうのですもの嘘ではない。それでね大奮発(おおふんぱつ)で手製なのですって、お手伝いをさせられるものは大弱りだわ。みんながよく食べるかって? ううん、不味(まず)くっていやだというものが多いから大儲(おおもう)かりなの。だって自弁は御勝手で、つまり芸術座から賄費(まかない)用が出るのだから。手っとりばやく芸術座の儲けの幾分が、女優須磨子の利益の方へ加わるだけの事だから。そしてね、おかずは何だと思うの、毎日毎日油揚げの煮附け」
 いまは外国へいった友達がはなした。私たちは「まさか!」といって笑っていたが、ある夜は、芸術倶楽部の居間を訪れての帰りがけに立寄った人が、
「大変先生も機嫌がよかった。いま一杯やるところだからと進められたが、お須磨さんが土瓶(どびん)をもっているからなんだと思ったら、土瓶でお燗(かん)をして献酬(けんしゅう)しているところだった」
 細(こま)かしいことには無頓着(むとんちゃく)な須磨子の話しをした。極(ご)く最近、地方興行が当って、しかもこの次からは松竹の手で興行をするようになるので、万事そうした方の心配がなくなるというような、芸術座の前途が明るくなった話しのつづきに、
「こんどの地方興行が当ったので、島村さんもいくらか楽になったので、座の会計の都合が悪かったときに、電話を担保にしてお須磨さんから借りた金を、返そうといったらば、彼女がいうのには、あの時分より電話の価(ね)があがっているから、あれだけでは嫌だというので、それでは止めようとそのままになってしまった」
と言った。それこそ私は根もないことだろうと打ち消すと、
「ほんとなのですよ。先生は貧乏――つまり芸術座は貧乏でも、お須磨さんは財産をつくっているのです。かなりあるのです」
といいはった。奮闘克己という文字に当嵌(あてはま)った彼女だ。

       二

 傲慢(ごうまん)なほど一直線であった彼女の熱情――あの人の生き力は、前にあるものを押破って、バリバリとやってゆく、冷静な学者の魂に生々(なまなま)しい熱い血潮をそそぎかけ、冷凍(こお)っていた五臓に若々しい血を湧返(わきか)えらせ、絶(たえ)ず傍(かたわ)らから烈しい火を燃しつけた。彼女は掌握(つかみ)しめてしまわなければ安心することの出来ない人であった。そうするには見得(みえ)も嘲笑(ちょうしょう)も意にしなかった。そのためには抱月氏がどんな困難な立場であろうとかまわなかった。彼女の性質は燃えさかる火である、むかっ気である。彼女に逢ったときにうけた顔の印象には、すこしの複雑さも深みも見られなかった。彼女は文芸協会演芸研究所の生徒であった時分に、山川浦路さんに英文の書物のくちゃくちゃになったのを見せて、
「英語を教わって癇癪(かんしゃく)がおこったから、本を投げつけちゃった。出来ないから教えてもらうのに、良人がいくらおしえても解らないなんて言うから」
といったそうだ。抱月氏と同棲(どうせい)してからも激しい争闘がおりおりあったとかいうことである。向いあっているときはきっと何か言いあいになる。頬(ほ)っぺたへ平打(ひらう)ちがゆくと負けていないで手をあげる。そうしたことはちょっと聴くと仲が悪いようにきこえるが、喧嘩(けんか)もしないような家庭が平和で幸福があるとばかりはいえない。激しい争闘のあとに、理解と、熱い抱擁とが待っているともいえる。
「奥さんがもすこしなんだったら――坪内先生の奥様のように優しく、なにかのことを気をつけてくださるようだといいのだけれど……」
 こういった須磨子は自分勝手だったかも知れない。そうはいっても須磨子自身も、先方の思いやりなどはちっとも出来ないたちで、噂だけか、それとも誠のことか、ある時抱月氏の令嬢たちに手紙をやって、これから貴女(あなた)がたは私をお母さんと思わなければなるまい、といったとか、自信も勇気も、過ぎると野猪(いのしし)のむこうみずになるが、彼女が脱線したのには一本気な無邪気さもある。かつて私はあの人の芸が、精力的(エネルギッシュ)で力強いのを畏敬(いけい)したが、粗野なのに困るという気持ちもした。感情も荒っぽいので、どうしてもあの人とならんで、も一人、繊細な感情の持主であり、音楽的波動で人にせまる、詩的(ポエティカル)な女優がなくてはならないと思っていた。陶冶(とうや)されないあの駄々(だだ)っ子(こ)は、あの我儘が近代人だといえばそうとも言われようが、気高い姿体と、ロマンチックな風致をよろこぶ女にも、近代人の特色を持った女がないとは言われない。
 ひたぶるに突進んでいって、突きあたる壁のあったのをはじめて発見したのだ。彼女が勢力にまかせて押退けたおりには、奥深くへと自然に開けていった壁が――何の手ごたえもない幕のように見えた壁が、巌壁(がんぺき)のように巍然(ぎぜん)と聳(そび)えたっていて、弾(はじ)き飛ばした。彼女ははじめて目覚めて、鉄のように堅く冷たい重い壁を繊手(せんしゅ)をのべて打叩(うちたた)いて見た。そしてその反響は冷然と響きわたり、勝手にしろと吼(ほ)えた。そのおりには、もう彼女の住む広い胸はなかった。底知れなかった愛人の情をしみじみとさとり知ったおり、そこに偉大な人格を偲(しの)ばなければならなかった。
 傲慢な舞台、中ごろが一番激しかった。ことに幕切れなどは、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)という難をまぬがれないおりもあって、見ていてさえハラハラしたものである。女王に隷属するのは当り前ではないかといった態度が歴然としていた。最後までそれで通して行こうとしたのが、何か気が阻(はば)んだのだ。一本気だけに絶望の底は深かった。
 彼女が大層他人(ひと)当りがよくなったという事を聴いたのもかなり前のことで、抱月氏のお通夜(つや)の晩に、坂本紅蓮洞(ぐれんどう)の背中を、立ったまま膝(ひざ)で突つくものがある。冬のはじめの、夜中のこととて、紅蓮さんは暖まるものを飲んでいた一杯気嫌で、
「誰だ」
と強くいって振りむいて見ると、須磨子がうつむき加減に見おろしていて、
「どいてくれない?」
 その座にかわっていたいのだという。末席の後の方だったので、やっぱり棺の側にいた方がよかろうというと、
「でも、あの女が私の方ばかりじろじろ見ているのだもの」
と島村未亡人の方を指差したということである。我儘ものだが、どこかにしおらしい、自分から避ける心持ちも持っていたのである。
 でも彼女は、島村氏の令嬢たちが芸術座へ生計費(せいかつひ)を受取りに来たとき優しくは扱わなかった。門前払い同様にしたといわれ、ずっと前の家では格子戸(こうしど)を閉(た)てきり、水をぶっかけようとしたこともあるという。それは何かしら心の安定を失っていたときと見た方がよかろう。でなければ、いかに仲に立った人が適当の処分をし、よく斡旋(あっせん)したからとて、抱月氏の死後、彼女が未亡人や遺孤(いこ)に対して七千円を分割し、買入れた墓地まで、心よく島村家の人たちに渡してしまうはずはない。
「私もこの墓地へはいるのだから」
 彼女は墓地の相談のときにこういっていたそうである。島村家へ渡したといっても、自分が買って、大切な先生の遺骨(ほね)を埋めたところゆえ、自分のものだという心持ちでいたのであろう。それでも不安心なところもあったかして、その隣地の背面の空地(あきち)を買っておこうと呟(つぶ)やいていた。けれど誰れがそのおり須磨子の心のどん底に、死ぬことを考えてもいたと思いつく道理はなかった。
 抱月氏は須磨子のために全部を奪われてしまっているものだとさえ思われたが、ある興行師は須磨子にむかって、
「も一儲(ひともう)けするのなら、抱月さんと別れて見せることだ。人気が湧(わ)けば金もはいる」
といったとやら。金、金、金……利殖よりほか楽しみのないもののようにいわれた彼女が、女優生活の十年に残しえた三万円を捨ててかえり見ず、縊(くび)れ死んでしまって、そういう人たちに唖然(あぜん)とさせたのは痛快なことではないか。
「死んだときいたら、嫌だったことはさらりと消えてしまって、ほんとに好い感情を持つことが出来た。何だかこう、昨夕(ゆうべ)まで濁っていた沼の面(おも)が、今朝(けさ)起きて見ると、すっかりと澄みわたっているので、夢ではないかと思うような気がする。僕はそんな心持ちがするといったら、N氏もほんとにそうだ、私もそういう気持ちがしたと言った」
と抱月氏とも須磨子とも交りのふかかったA氏が話された。そのおりに言葉のつづきで、
「あの人は死によって、あの人の生活を清浄なものにした」
「あの人のぐらい自然な感じのする死はない」
「僕はもうすこしあの人を親切にしてやればよかった」
 讃美と感激ののち、沈黙がつづいたはてに、突然ある人が、
「しかし、松井君は随分憎らしかったね」
と言出すと、その一言(ひとこと)でその座の沈黙が破れて、その言葉に批判があたえられずに、
「そうだ。やっぱり憎らしい人だったね」
と前の讃美とおなじように連発された。その二つの、まるで異(ちが)った意味の言葉は、一致しそうもない事でありながら、松井須磨子の場合には不思議に一致して、
(立派な死方(しにかた)をした、しかし随分憎らしい記憶をおいていってくれた人だ)
 これが須磨子を知っている人の殆(ほと)んどが抱(いだ)いた感じではなかったろうか、この偶然の言葉が須磨子の全生涯を批評しているようだといわれた。
 あの人は怒っているか笑っているか、どっちかに片附いている人だったが、泣くということがふえて、死ぬ前などは、怒っているか、笑っているか、泣いているかした。
「先生と私との間は仕事と恋愛が一緒になったから、あんなに強かったのよ」
といい、
「私がほんとうに家庭生活というものを知ったのはこの二、三年のことですよ、先生もほんとに愉快そうですわ」
といったりした彼女が、泣虫になったのはあたり前である。むしろ笑いが残っていたのが怪しいほどだ。
恋人と緑の朝の土になり
と川柳久良岐(せんりゅうくらき)氏は弔した。「緑の朝」は伊太利(イタリー)の劇作者ダヌンチオの作で「秋夕夢」と姉妹篇であるのを、小山内薫(おさないかおる)氏が訳されたものである。どうしたことかこの「緑の朝」には種々の出来ごとがついて廻った。最初去年の夏、帝劇で市村座連の出しものであったとき、劇評家と、狂主人公に扮した尾上(おのえ)菊五郎との間に、何か言葉のゆきちがいから面白くないことが出来て、菊五郎の芝居は見るの見ぬのとの紛紜(いざこざ)があった。小山内氏は訳者という関係ばかりではなく、市村座の演劇顧問という位置からしても、舞台上の酷評には昂奮(こうふん)しないわけにはゆかなかった。それから間もなくその舞台装置の責任者であった、洋画家小糸源太郎(こいとげんたろう)氏が、どうしたことか文展へ出品した額面を、朝早くに会場へまぎれこんで、自分の手で破棄したことにつき問題が持上り、小糸氏は将来絵筆をとらぬとかいうような事が伝えられた。口さがない楽屋雀(がくやすずめ)はよい事は言わないで、何かあると、緑の朝ですかねというような反語を用いた。その評判を逆転しようとしたのが松竹会社の策略であった。松竹は芸術座を買込み約束が成立すると、その魁(さきがけ)に明治座へ須磨子を招き、少壮気鋭の旧派の猿之助(えんのすけ)や寿美蔵(すみぞう)や延若(えんじゃく)たちと一座をさせ、かつてとかく物議(ぶつぎ)の種(たね)になった脚本をならべて開場した。
 二番目には寿美蔵延若に、谷崎潤一郎作の小説の「お艶(つや)殺し」をさせることになった。これは芸術座が新富座(しんとみざ)で失敗した狂言である。お艶を須磨子が、新助は沢田正次郎(さわだしょうじろう)が演じて不評で、その後直(じき)に沢田が退座してしまったのを出させ、その代りに中幕(なかまく)へ「祟(たた)られるね」というような代名詞につかわれている「緑の朝」を須磨子に猿之助が附合(つきあ)うことになった、無論菊五郎にはめ、男にした主人公を原作通り女にして須磨子の役であった。
 稽古(けいこ)の時分に須磨子は流行の世界感冒(せかいかぜ)にかかっていた。丁度私が激しいのにかかって寝付いているとA氏が見舞に来られて、私が食事のまるでいけないのを心配して、島村さんも須磨子も寝ているがお粥(かゆ)が食べられるが、初日が目の前なので二人とも気が気でなさそうだとも言っていられた。二人とも日常(ひごろ)非常に壮健(じょうぶ)なので――病(わず)らっても須磨子が頑健(がんけん)だと、驚いているといっていたという、看病人の抱月氏の方がはかばかしくないようだった。どうにか芝居の稽古までに癒(なお)った彼女は、恩師を看(みと)る暇もなく稽古場へ行った。
 十一月四日の寒い雨の日であった、舞台稽古にゆく俳優たちに、ことに彼女には細かい注意をあたえて出してやったあとで抱月氏は書生を呼んで、
「私は危篤らしいから、誰が来ても会わない」
と面会謝絶を言いわたした。出してやるものには、すこしもそうした懸念をかけなかったが、病気の重い予感はあったのだった。慎しみ深い人のこととて苦しみは洩(もら)さなかった。かえって、すこし心持ちがよいからと、厠(かわや)にも人に援(たす)けられていった。だが梯子段(はしごだん)を下(お)りるには下りたが、登るのはよほどの苦痛で咳入(せきい)り、それから横になって間もなく他界の人となってしまった。
 不運にも、その日の「緑の朝」の舞台稽古は最後に廻された。心がかりの時間を、空(むな)しく他の稽古の明くのを待っていた芸術座の座員たちは、漸(ようや)く翌日の午前二時という夜中に楽屋で扮装を解いていると、
「先生が危篤ということです」
と伝えられた。取るものも取りあえず駈戻(かけもど)ったが、須磨子は自用の車で、他の者は自動車だったので、一足さきへついたものは須磨子の帰るのを待つべく余儀なくされていると、彼女はすすりなきながら二階へ上っていったが、忽(たちま)ちたまぎる泣声がきこえたので、みんな駈上(かけあが)った。
 彼女は死骸(しがい)を抱いたり、撫(な)でさすったり、その廻りをうろうろ廻ったりして慟哭(どうこく)しつづけ、
「なぜ死んだのです、なぜ死んだのです。あれほど死ぬときは一緒だといったのに」
と責(せめ)るように言って、A氏の手を振りまわして、
「どうしよう、どうしよう」
と叫び、狂うばかりであった。どうしても、も一度注射をしてくれといってきかないので、医者は会得(えとく)のゆくように説明のかぎりをつくした。
「あんまりです、あんまりです。どうにかなりませんか? どうかしてください。これではあんまり残酷です」
 狂い泣きをつづけた。

       三

 神戸に住む擁護者(パトロン)のある貴婦人に須磨子がおくった手紙に、
私は何度手紙を書きかけたか知れませんけれど、あたまが変になっていて、しどろもどろの事ばかりしか書けません。一度お目にかかって有(あり)ったけの涙をみんな出さして頂きたいようです。
奥様、役者ほどみじめな者は御座いません。共稼(ともかせ)ぎほどみじめな者はございません。私は泣いてはおられずあとの仕事をつづけて行かなくてはなりません。今の芝居のすみ次第飛んでいって泣かして頂きたいのですけれども、仕事の都合でどうなりますやら……
奥様、私の光りは消えました。ともし火は消えました。私はいま暗黒の中をたどっています。奥様さっして下さいませ。

「私は臆病なため死遅(しにおく)れてしまいました。でも今の内に死んだら、先生と一緒に埋めてくれましょうね」
 笑いながら、戯言(じょうだん)にまぎらしてこう言ったのを他の者も軽くきいていたが、臆病と言ったのは本当の気臆(きおく)れをさして言ったのではなくって、死にはぐれてはならない臆病だったのだ。適当の手段を得ずに、浅間しく生恥(いきはじ)か死恥(しにはじ)をのこすことについての臆病だったのだ。一番容易に死ぬことが出来て、やりそくないのない縊死(いし)をとげるまで、臆病と自分でもいうほど、死の手段を選んでいたのだ。
 座の人たちが思いあたることは、この春の興行に、「ヘッダガブラア」が候補になったところ、彼女はどうしても嫌だと言張った。ヘッダのようなあんな烈しい性格のものばかりやるのは嫌だといってきかなかった。その時の反対のしかたが異状だったので、脚本部の人たちも驚いていたのだが、いま思えば自殺の決行について絶えぬ闘争があったのではなかったかと言っている。ヘッダは最後にピストルで自殺する役である。それかあらぬか、それよりもすこし前に彼女はピストルを探して、弾丸(たま)だけ探しだして、
「先生のピストルは何処へやっちゃったのだろう。いくら探しても見つからない。私が死にやしないかと思って誰れか隠したのよ」
と呟(つぶ)やいていたそうだ。
 彼女に近い人のなかには泣かれ役という言葉があった。青い布をかけた卓(テーブル)の上に、大形(おおがた)の鏡がおいてある室(へや)が彼女の泣き室なのであった。彼女は孤独でいる時は、その鏡のなかへ具合よく写ってくる壁上にかけた故人の写真を見ては泣いている。人がはいってゆけば、その人を対手(あいて)にして尽(つき)ることなく、綿々(めんめん)と語り、悲嘆にくれるので、慰めようもなくて、捕虜になるのは禁物だと敬遠しあったほどだった。
 かつ子にわか子という二人の養女は、まだやっと十二、三位で二人とも郷里(くに)の親戚(しんせき)から来ている。
 も一人いつぞや「人形の家」のノラを演じたときに、幼ない末子を勤めた女の子があった。あれは松井の子だったのではないかしら、あんまりよく似ているというようなことを、今度その少女(むすめ)も葬式に来たときに内部の人は言った。しかしその少女のことは遺書にはなかった。二人の養女にもよい具合にしてやってくれと書いてあっただけである。かつ子といった方が相続者になったが、須磨子の母親のおいしという、七十の老女が後見人になり、縁類の某海軍中将がその管理人になった。そして彼女の一七日がすむと、雪深い故郷の信州へと帰っていった。残された建物――旧芸術倶楽部――故人二人(なきひとたち)の住んでいた記念の建物はどうなるのやら、そのままで帰ってしまった。
 死面(デスマスク)は、彼女の生際(はえぎわ)の毛をすこしつけたままで巧妙に出来上ったそうで、生(いき)ているときより可愛らしい顔だといわれた。
 可愛らしい顔といえば、彼女の愛敬(あいきょう)のある話をきいたことがある。彼女はあるおり某氏をたずねて、女優になりたいが鼻が低いからとしきりに気にしていた。そこで某氏はパラフィンを注射した俳優に知合(しりあい)のある事をはなして、そんな例もあるから心配するにも及ぶまいというと、彼女はその俳優の鼻が見せてもらいたいといいだしたので連れてゆくと、やっと安心してその後注射した。
 鼻の問題ではも一つ面白い挿話(エピソード)がある。佐藤(田村)俊子さんが、文芸協会の女優になろうとしたことがある。女史は充分に舞台を知っているうえに、遠くない前に本郷座(ほんごうざ)で「波」というのを演(や)って、非常な賞讃を得た記憶が新しかったから、気まぐれではなかったのにどうしたことか中止してしまった。ある日そのことを言出して、噂(うわさ)は嘘だったのか本当だったのかと聞くと、
「嘘のことはない。やろうと思ったから行ったのだけれど中止(やめ)にしてしまったの。だって、須磨子の鼻を見ていたら――鼻の低いものが寄合ったってしようがないじゃないの」
 あの女史はポンポンと言ってしまったけれど、口のさきと心の底と、感じたものとおなじであったかどうかはわからない。感覚の鋭い女史が、激しい気性の須磨子と上になることも下になることも出来にくいと、見てとったと思うのは推測にすぎるかもしれないが、低い鼻という愛敬にかたづけてしまった俊子女史の機智(ウィット)もおもしろい。いま米国(アメリカ)の晩香波(バンクーバー)に新しい生涯を開拓しようとして渡航した女史のもとに、彼女の訃(ふ)がもたらされたならばどんな感慨にうたれるであろう。
 須磨子の年老(と)った母親は他人が悔みをいったときに、
「どうせ死神につかれているのですから、今度死ななくなったって、何処かで死んだでしょうから」
と諦(あき)らめよく言切ったそうである。
 彼女の故郷は? そうした母親の懐(ふところ)! 彼女が故郷への初興行は、たしかズウデルマンの「故郷」のマグダであったかと思う。そのおりの名声はすさまじいもので、県の選出代議士某氏は、信州から出た傑物は佐久間象山(さくましょうざん)に松井須磨子だとまで脱線した。けれどその須磨子の幼時は、故郷の山河は人情の冷たいものだという観念を印象させたに過ぎなかったのだ。
 長野県埴科郡松代在(はにしなごおりまつしろざい)、清野村(きよのむら)が彼女の生れた土地(ところ)で、先祖は信州上田の城主真田(さなだ)家の家臣、彼女の亡父も維新のおりまで仕官していた小林藤太という士族である。芸術倶楽部の一室に、九曜の星の定紋のついた陣笠がおいてあった。幕府の倒壊と共に主と禄(ろく)に離れた亡父も江戸に出て町人になったが、馴(な)れぬ士族の商法に財産も空しくして故山に帰(か)えった。
 信州の清野村に小林正子の彼女が生れたのは、明治十九年の十二月で八人の兄と姉とを持った末子であった。六歳(むっつ)のときに親戚にあたる上田市の長谷川家へ養女に貰われていった。小学校時代から勝気で、男の児(こ)に鎌を振りあげられて頭に傷を残している。十六歳の時になって不幸は萌(きざ)しはじめた。養父の病死に一家は解散し、誠の母親よりも慈愛に富んでいた養母とも離れることになった。実家に引き取られ、その年の秋には、実父にも別れた。僅(わずか)の間に二人の父を失った彼女は、草深い片田舎(かたいなか)に埋もれている気はなかった。姉を頼りにして上京したのが、明治卅五年の四月、故郷(ふるさと)の雪の山々にも霞(かすみ)たなびきそめ、都は春たけなわのころ、彼女も妙齢十七のおりからであった。
 彼女が頼みにして来た姉の家は麻布(あざぶ)飯倉(いいくら)の風月堂という菓子舗(かしや)であった。義兄の深切で嫁(とつ)ぐまでをその家でおくることになったが、姉夫婦は鄙少女(ひなおとめ)の正子を都の娘に仕立(したて)ることを早速にとりかかり、気の強い彼女を、温雅な娘にして、世間並みに通用するようにと、戸板裁縫女学校を選(え)らまれた。
 彼女が後に文芸協会の生徒になって、暫時独身(ひとりみ)でいたとき、乏しいながらも二階借りをして暮してゆけたのは一週に幾時間か、よその学校へ裁縫を教えにいって、すこしばかりでもお金をとる事が出来たからで、その時裁縫女学校へ通ったという事はかの女(じょ)の生涯にとって無益(むだ)なものではなかった。
 都の水で洗いあげられた彼女は風月堂の看板になった。――彼女は美しい、いや美人ではないということが時々持ちだされるが舞台ではかなり美しかった。厳密にいったなら美人ではなかったかも知れないが、野性(ワイルド)な魅力(チャーム)が非常にある型(タイプ)だ。
 正子が店に座るとお菓子が好(よ)く売れるという近所の評判は若い彼女に油をかけるようなものであった。縁談の口も多くあったが断るようにしているうちに、話がまとまって彼女は嫁(とつ)いだ。十七歳の十二月はじめに上総(かずさ)の木更津(きさらづ)の鳥飼(とりかい)というところの料理兼旅館の若主人の妻となった。
 彼女はどこまでも優しい新妻(にいづま)であり、普通の女らしい細君であったが、信州の山里から出て来たのは、こんな片田舎の料理店の細君として納まってしまう約束であったのであろうかと思わぬわけにはゆかなかった。それに彼女の故郷の風習と、木更津あたりの料理店の女将(おかみ)である姑(しゅうとめ)の仕来(しきた)りとは、ものみながしっくりとゆかなかったその上に、若主人は放蕩(ほうとう)で、須磨子は悪い病気になったのを、肺病だろうということにして離縁された。
 ……私は思う。勝気な彼女の反撥心(はんぱつしん)は、この忘れかねる、人間のさいなみにあって、弥更(いやさら)に、世を経(ふ)るには負(まけ)じ魂(だましい)を確固(しっかり)と持たなければならないと思いしめたであろうと――
 嫁入ってたった一月(ひとつき)、弱まりきった彼女はまた飯倉の姉の家にかえってきた。健康が恢復(かいふく)して来ると、五年の星霜(せいそう)は、彼女には何かしなければならないという欲求が起って来た。
 正子が松井須磨子となる第一歩は、徐々に展開されるようになった。彼女に結婚を申込んだ人に前沢誠助(まえざわせいすけ)という青年があった。高等師範に学んでいたが、東京俳優学校の日本歴史教師を担任していた。俳優学校というのは、新派俳優の故参、藤沢浅次郎(ふじさわあさじろう)が設立したもので、そのころ米国哲学博士の荒川重秀(あらかわしげひで)氏も新劇団を起し、前沢はその方にも関係を持っていた。その青年の求婚は須磨子の方でも気が進んだのであろう。前沢の乏しい学生生活に廿二歳の正子という華やかな色彩が加わった。
 堅気(かたぎ)の家に寄宿して、出京しても一度も芝居を見なかった若い細君の耳へ、毎日毎日響いてくるのは、劇に新生面を開いてゆかなければならないと、論じあう若き人々の声ばかりであった。新時代の要求は立派な女優であるというような事も響いた。良人(おっと)の前沢は妻にもそれを解らせようとした。彼女も知らずしらずに動かされて女優修業をしようと思い立った。前沢の関係のある俳優学校は女優を養成しなかったので、坪内先生の文芸協会へはいることになった。
 当時、文芸協会の女優生徒の標準は高かった。英文学の講義、英語の素読というような科目もあった。彼女は試験委員の一人であった島村氏の前へはじめて立ったおり、島村氏はじめ他の委員も彼女の強壮なのと、音声の力強いのと、体躯(からだ)の立派なのに合格としたが、英語の素養のないので退学させられるということになった。
 彼女の異状な勉強はそれからはじまる。彼女は二つのおなじ英語の書籍を持って、一つにはすっかりと一字一字仮名をつけ、返り点をうち、鵜呑(うの)みの勉強をはじめた。教える方が面倒なために持てあますほどであった。その熱心さが坪内博士を動かして、特別に別科生として止まる事が出来たのであった。彼女は熱心と精力のあるかぎりをつくしたのでABCもよく出来なかったのが三ヶ月ばかりのうちに、カッセル版の英文読本をもってシェクスピアの講義を聴くことが出来た。他の生徒に負けぬように芝居に関する素養も造っておこうというので、学校の余暇には桝本清(ますもときよし)について演芸の知識を注入した。
 文芸協会の第一期公演は、第一期卒業の記念として帝国劇場で開催された。それが須磨子にも初舞台である。多くあった女生(じょせい)もその時になると山川浦路(うらじ)と松井須磨子とだけになっていた。ハムレット劇の王妃ガーツルードは浦路で、オフィリヤは須磨子であった。それは明治四十四年の五月のことで、新興劇団の機運はまさに旺盛(おうせい)の時期とて、二人の女優は期待された。
 廿五歳になったおり卒業を前に控えて彼女の第二の離婚問題はおこった。自分の天分にぴったりとはまった仕事を見出すと、彼女の倨傲(きょごう)は頭を持上げはじめた。勝気で通してゆく彼女は気に傲(おご)った。それに漸(ようや)く人物の価値(ねうち)の分るようになった彼女は前沢との間が面白くなくなりだした。満されないものがはびこりはじめた。良人との衝突も度重(たびかさ)なって洋燈(らんぷ)を投げつけるやら刃物三昧(はものざんまい)などまでがもちあがった。とうとう無事に納まらなくなってしまった。その間に彼女は卒業した。
 ヒステリー気味な所作(しうち)は良人へばかりではなかった。同期生の男たちが、山出(やまだ)しとか田舎娘などとでも言ったら最期(さいご)、学校内でも火鉢が飛んだりする事は珍らしくなかったのである。けれども気性のしっかりしているのも群を抜いていたという。一度言出したことは先生の前でも貫こうとする。そういった気性が女王(クイン)になった芸術座でもかなり人を困らせたのだ。
 彼女もまた時代が命令して送りだした一人の女性である。たまたま彼女が泰西(たいせい)の思想劇の女主人公となって舞台の明星(スター)となったときに、丁度我国の思想界には婦人問題が論ぜられ、新しき婦人とよばれる若い女性たちの一団は、雑誌『青鞜(せいとう)』を発行して、しきりに新機運を伝えた。すべて女性中心の渦(うず)は捲(ま)き起り、生々とした力を持って振(ふる)い立った。その時に「人形の家」のノラに異常な成功をした彼女は、驚異の眼をもって眺められた。彼女の名はあがった。

 ある夜更(よふ)けに冷たい線路に佇(たた)ずみ、物思いに沈む抱月氏を見かけたというのもそのころの事であったろう。ノラの舞台監督で指導者の抱月氏に、須磨子が熱烈な思慕を捧(ささ)げようとしたのもその頃のことであった。
 恋と芸術の権化(ごんげ)――決然と自己を開放した日本婦人の第一人者――いわゆる道徳を超越した尊敬に値いする人――『須磨子の一生』の著者はそう言っている。
 彼女は猛烈に愛した。彼女はその恋愛によって抵抗力を増した。けれど抱月氏の立場は苦しかった。総(すべ)てのものが前生活と名をかえてしまった。家庭の動揺――文芸協会失脚――早稲田大学教職辞任――
 彼女にも恩師であった坪内先生の、畢世(ひっせい)の事業であった文芸協会はその動揺から解散を余儀なくされてしまった。島村氏も先生にそむいた一人になった。
 嫉視(しっし)、迫害、批難攻撃は二人の身辺を取りまいた。抱月氏の払った恋愛の犠牲は非常なものだったが、寂しみに沈みやすいその心に、透間(すきま)のないほどに熱を焚(た)きつけていたのは彼女の活気であった。そして抱月氏が生(いき)る道は彼女を完成させなければならなかった。かなり理解を持っているものですら、学者は世間見ずのものであるが、ああまで社会的に堕落してゆくものかとまで見られもした。貨殖(かしよく)に忙(せわ)しかった彼女が種々(いろいろ)な客席へ招かれてゆくので、あらぬ噂さえ立ってそんな事まで黙許しているのかと蜚語(ひご)されたほどである。「緑の朝」のすぐ前に、歌舞伎座で「沈鐘(ちんしょう)」の出されたおり楽屋のものが、
「あの人はあれで学者の傑(えら)い先生なんですってね、男衆(おとこしゅ)かと思ったら」
 そんなに見縊(みくび)られても黙々と、所信の実行を示すだけであったが、芸術座と松竹会社との提携が成立したので、これからこそ島村氏の学者としての復活だと予想されたおり忽然(こつねん)として永眠されてしまった。座員、脚本部員、事務員と、島村氏のもとに統率された芸術座もその年の暮にはまず脚本部が絶縁し、芸術座は解散し、須磨子一座ということになってしまった。
 オフィリヤで狂乱の唄(うた)をうたい、カチューシャでさすらいの唄から、一段と世間的に須磨子の名は広まった。行(ゆ)こうかもどろかオロラの下へ――という感傷的(センチメンタル)な声は市井(しせい)の果(はて)から田舎人の訛声(だみごえ)にまで唄われるようになった。そして最後にカルメンの悲しい唄声を残して彼女は逝(い)った。流行唄はすぐさまこんなふうに悲しい彼女の身の上を唄った――
君に離れてわしゃ薔薇(ばら)の花。濡(ぬ)れてくだけてしおしおと、ゆうべさびしい楽屋入(いり)、鬘(かつら)衣裳も手につかず、
幕の下(お)りると待ちかねて、すすり泣くぞえ舞台裏――
 彼女の葬式はすべて抱月氏のにならっておこなわれた。日も時刻も何もかもみんなおなじようであった。ただ柩(ひつぎ)に引添う彼女が見られなくなったばかりで、式場の光景は一層盛大で、数々の花環に取りかこまれ、名ある新旧俳優も列し、弔辞が捧げられた。けれども彼女が遺書の中に繰りかえし繰りかえして頼んでいった抱月氏との合葬のことは問題になった。坪内先生の説は並べて墓を建てたらというので、それには未亡人も、
「坪内先生のおっしゃる事にはそむかれない」
と許したのであったが、かえって彼女の親戚側の方から、
「島村氏と一緒にいたことさえ良いとは思わなかったのだから」
と頑迷(がんめい)なことを言出したため、彼女がとっておいた島村氏の遺髪と一所に葬ることにして、遺骨は信州へ持ちかえられた。彼女ほどに透徹した人生をおくったものが、墓地などの形式を気にかけたのはおかしいが、古来の伝説や何かに美化されたものを思いだしたのでもあろう。
 彼女は何故(なぜ)死んだ、芸に生きなかったかとは言いたくない。彼女には宗教もない、彼女の信仰は自分自身であったのであろう。その本尊(ほんぞん)が死を決したときに芸術も信仰も残らぬはずである。楠山氏への偏愛問題とかが脚本部動揺の基(もと)になっていたようであったが、彼女がこの後いくら生(いき)ていて誰れに愛を求めようとも、抱月氏の高さ、尊さが、胸に響きかえってくるばかりで、決して満足のあるはずはない。かの女(じょ)の死は当然のことである。
 私は彼女のことを詩のない女優といったが、あの女(ひと)の死は立派な無音の詩、不朽な恋愛詩を伝えるであろう。ほんとに死処(しにどころ)を得た幸福な人である。

 松井須磨子の名は、はじめて芸名をさだめる時に、印刷物の都合でせきたてられたとき、松代(まつしろ)から出たのだから松代須磨子としようといったら、傍から、まっしろ(真白)須磨子ときこえると茶化したので、それでは松井にしようといった。するとまた、まずい須磨子ときこえるといった。けれど「まずくっても好い」と小さな紙裂(かみき)れへ書いて出したのが、大きな名となって残るようになった。
 とはいえ彼女はやっぱり慾張っていた。死ぬまで大芝居(おおしばい)を打って、見事に女優としての第一人者の名を贏得(かちえ)ていった。乏しい国の乏しい芸術の園に、紅蓮(ぐれん)の炎が転(ころ)がり去ったような印象を残して――
――大正八年四月――



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