豊竹呂昇
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著者名:長谷川時雨 

 私は今朝(けさ)の目覚めに戸の透間(すきま)からさす朝の光りを眺めて、早く鶯(うぐいす)が夢をゆすりに訪れて来てくれるようになればよいと春暁の心地よさを思った。如月(きさらぎ)は名ばかりで霜柱は心まで氷らせるように土をもちあげ、軒端(のきば)に釣った栗山桶(くりやまおけ)からは冷たそうな氷柱(つらら)がさがっている。崖(がけ)の篠笹(しのざさ)にからむ草の赤い実をあさりながら小禽(ことり)は囀(さえず)っている。
 寒明けの日和(ひより)はおだやかで、老人たちが恋しがるばかりではない日の光りはのどかだ。
(ほんとに早く鶯の声を聴くようになるといいな)
 あの寝ざめの、麗音をなつかしみながら私は呟(つぶ)やいた。町中に生れ育った私は、籠(かご)に飼われない小禽が、障子のそとへ親しんで来てきかせてくれる唄声(うたごえ)を、どれほどよろこんでいたかしれない。真冬の二月は頬白(ほおじろ)も目白(めじろ)も来てくれないので、朝はいつもかわらない雀(すずめ)の挨拶(あいさつ)と、夜は時おり二つ池へおりる、雁(がん)のさびしい声をきくばかりだった。
 去春は毎朝窓ちかくへ来て鳴いてくれたあの声、鶯は日中は遠く近くをゆきかえりして円転と嬌音をまろばした。あの友だちが一日もはやく来てくれるといいと思いながら、夜具の襟裏(えりうら)ふかく埋もれて、あれやこれやはてしなくする想像は、私にとっては一日中の楽境であり、愉快な空想の天国でもあり、起出(おきだ)してしまえば何にも貧しく乏しい身に、恵まれた理想郷でもある。
 私はふと、曩日(このあいだ)、初代綾之助の語るのを、ゆくりなく聴く機会のあったことを思いだした。寒い寒い晩に、寒風に吹かれながら久しぶりで見聞きする興味にひかれて、寒さに顫(ふる)えながら煙草(タバコ)のけむりと群衆のうごめくなかに隅(すみ)の方へ坐った。騒然たる四辺(あたり)を見ると、決して驕(おご)った心からではないが、あんまり群集の粗野なのに驚かされた。楽声を聴いて心を悦ばせるには、上品でなくてはならないというのではないが、いかにも穢苦(むさくる)しい感じを与えられた。下卑(げび)ていたこともいなまれなかった。
 古い流行のひとつとして、以前女義太夫――ことに綾之助の若盛りにはドウスル連というものの盛んであったことをきいた。しかもその多くは年少気鋭の学生連であったそうで、いまそうした年頃の、青春の人は多く浅草の歌劇団にと行き、高級の人は音楽会を待ちかねて争ってゆくようである。その夜も、青年は一人も見受けなかったといってよいほどであった。時代がそうなったのかも知れないが、義太夫を聴く人が中年以上のものに限られて来たようになったというのも詭弁(きべん)ではないと思った。無理な道徳や、不条理な義理を、苦しい人情としていた時代は過ぎつつあるのであった。そしてまた語りものの一段のうちには、たしかに好い個所がありながら、何とやら取ってつけたような継目が多くあるのを感覚の鋭い近代人は同感しなくなったのではなかろうか。女義太夫の衰退とばかりは見られないのではなかろうかと思われた。とはいえ、綾之助の技芸(げい)はそれらの聴衆をすこしの間に引緊(ひきし)めてしまった。座席もないほどにつまって、ごうごうとしていた人たちも語りもののなかへ吸込まれていって、ひっそりとなるまでになった。聴衆は綾之助の名と、綾之助の芸から、すこしでも多く、期待した感興(もの)を得ようとした。
 ――あのときの綾之助の語り口は堅実であったと、耳の底にのこる記憶を、玩味(がんみ)するように思出していた。彼女の「野崎村」は艶(つや)にとぼしかったといえるかも知れなかったが、野梅(やばい)のようなお光と、白梅のような久松と、淡(うす)紅梅のお染とがよく語りわけられて、そのうちにもお染はともすると、はすはになりがちであるのをしっとりと品よく、大どころの秘蔵娘を彷彿(ほうふつ)させたと、あのきりりとした綾之助の面影まで思いうかべるのだった。そのうちにまた鶯のことがかえってくると、今度はそれに織りまぜて、呂昇(ろしょう)を久しく聴かないなと思ったりした。

 豊竹呂昇(とよたけろしょう)――ほんとにあの女(ひと)こそ円転滑脱な、というより魅力をもった声の主だ。彼女の顔かたちが豊艶なように、その肉声も艶美だ。目をつぶって聴いていると、阪地の人特有な、艶冶(えんや)な媚(こび)がふくまれている。彼女に凄(すご)さを求めるのは無理であろうが、紅筆(べにふで)をかんで、薄墨のにじみ書きに、思いあまる思案のそこをうちあけた文を繰広げてゆくような、纏綿(てんめん)たる情緒と、乱れそめた恋心と、人生の執着と、青春の悩みとが、聴くものを魅しつくしてしまう。綾之助は理解をもって心を語ろうとし、彼女は熱烈に悩ましい情のもつれを訴える。音量はもろともに豊富であるが、呂昇は弾語(ひきがた)りであるだけに急(せ)き込むところがある。得手(えて)でないところは早間(はやま)になるうれいがある。彼女の芸は鴈治郎(がんじろう)の芸と一脈共通のところがあるかと思われる。鴈治郎が町人の若旦那伊左衛門、亀屋忠兵衛、紙屋治兵衛に扮(ふん)してもっとも得意なように、呂昇は町人の若女房が殊更(ことさら)によい。ふっくりとしたなかに、ことに普通の女人であって、人間味のたっぷりと溢(あふ)れでた女性は、呂昇の専有といってもよい。
 東京で呂昇を待つ人は多く中流階級以上の人であるといっても差支(さしつか)えないであろう。その実例は呂昇が上京のおりの定席である、有楽座の座席を見渡せばすぐに知れる。はじめ有楽座が彼女を招いたおりの高給は、いまでは有楽座にとってはなんでもない額になってしまった。有楽座の弗箱(ドルばこ)といわれるほど、呂昇が出れば満員つづきなのである。そしてまた、呂昇にとっても有楽座は大事な席であった。彼女が東京で得た知己は、彼女に輝かしい光彩を添えたのはいうまでもない。それあればこそ、彼女は長年の苦境をぬけて、専属していた大阪の松の亭からはなれ、自由になるようにもなり、阪地の名ある太夫の仲にあっても、巍然(ぎぜん)と、呂昇の看板を高くかかげられる位置になったのである。呂昇が東京に盛名を得たのは鴈治郎の全盛期の半(なかば)頃からであったと思う。なかごろ呂昇は咽喉(のど)をいためたことがある。彼女のあの嬌音はもう昔のものとなってしまうのかと、その折は特別に贔屓(ひいき)というほどでないものでさえおしんだ。彼女の病気には、高価なラジウムが用いられてあるということも噂(うわさ)された。手をつくした治療の結果は、決して以前とかわらない声になったと伝えられた。それは今からたしか六、七年前の霜月頃のことであった。寒さと小雨のふる夜、泥濘(ぬかるみ)をことともせず、病気静養後の呂昇の出勤へと人は道を急いだ。そして有楽座の座席は臨時の補助椅子(いす)までふさがって満員になってしまった。しかもその満員は悉(ことごと)く紳士淑女の集りであった。呂昇熱は――呂昇支持者はそういう階級に盛んだった。
 私はそのおりのきらびやかな服装の集りと、高価な煙草や香料のかおりと、先夜の綾之助へ集った聴衆の埃(ほこ)りっぽさ暗さを思いくらべて、綾之助の人気は堅実なものだと思った。しかしながら彼女の芸には、もっと情熱がなくてはいけないと思った。呂昇にそうした明るさと華やいだ人気があるのが誇ならば、綾之助には民衆と親しみのあるのを大きな誇としなくてはならないと考えながら、呂昇のことを心覚えに記しておいた古いノオトを出して見た。
――呂昇全快、呂昇復活の人気は十五日間を客止(きゃくどめ)にした景気となった。そのおり信州から呂昇に相談をかけて来たが、一ヶ月七千円だすならばと彼女は答えた。これが外国の演芸界のことでもあれば、名ある唄女(うたいめ)の一夕の出演にも、驚く金額ではないかも知れないが、貧乏な国の、しかも多く旅芸人を拾いあげて、安価興行をしなれて来ているものには、それこそ思いもかけぬ高びしゃであったのだろう、信州の興行人は彼女の見識に煙にまかれて手を引いてしまった。
と記してある。
 故子爵秋元興朝(あきもとこうちょう)氏は、呂昇会をつくろうと同族間を奔走されたほどであった。貴族のなかでも、柳原伯、松方侯、井上侯、柳沢伯、小笠原伯、大木伯、樺山(かばやま)伯、牧野男、有馬伯、佐竹子などは呂昇贔屓の錚々(そうそう)たる顔ぶれであり、実業家や金満家には添田寿一(そえだじゅいち)氏、大倉喜八郎氏、千葉松兵衛氏、福沢捨次郎氏、古河虎之助氏などは争って邸宅へ招じた後援者であった。崇拝者にいたっては榊原(さかきばら)医学博士をはじめ数えてはいられぬほどある。大蔵大臣であった山本達雄氏などは大阪にゆくときっと呂昇をよんで、寵妓(ちょうぎ)の見張りを申附けられるまでに心安立(こころやすだて)のなかであった。夫人連にもそれに劣らぬ贔屓の競争があったが、鳩山(はとやま)春子女史が以前は大嫌いであった義太夫節が、呂昇を聴いてから急に呂昇びいきになったというのにも、呂昇の角(かど)のない交際ぶりと、性格の一面が見えるではないか。
 呂昇の芸には、柔らかい腕をゆるゆると巻きつけていって、やがてキュッと引緊(ひきし)めるようなところがある。春の夜に降る雨のように、人の心を溶かしてしまうようなところがある。夢心地に曳摺(ひきず)っていって、ひょいと突離(つきはな)す。突はなされた魂が痛まぬほどの、コツのある手荒(てあら)さである。夢からさめてしめやかな木犀(もくせい)の香(か)に頬(ほお)をうたれたような、初秋の冷やかさほどで、むしろ快感のある突はなし加減だ。おのが情熱の行方(ゆくえ)をさびしく見送っている中年者が、生活に不自由なく、境遇がよぎなくおさえている性の奔放――とでもいうものを撫(な)でさすられるように、まだ冷めきらぬ青春のうずきを思いおこさせられるのは、決して悪い心地のものではなかったであろう。呂昇は巧みにそれらの弱点を突いて、情緒をさわがせ、酔わし、彼らの胸の埋火(うずみび)を掻起(かきおこ)させ、そこへぴたりと融合する、情熱の挽歌(ばんか)を伴奏したのである。崇拝者が彼女の肉声と、彼女の語る節でなければならないように渇仰したのも、頷(うなず)かれることであろう。
 彼女は実に如才ない。綾之助が初恋の情操を守り、貞淑な石井夫人として、また三人の娘の慈母として、高座に媚(こび)を売らぬ見識をもつのと並べて、呂昇の美事(びじ)は、呂昇が芸の人としての如才なさ、あれほどの盛名があればとかく高慢になりがちなものであろうを、すこしもそうしたかげの見られないことである。彼女は実に贔屓へ対して如才なく座敷を勤める。私はある時、彼女の贔屓連が催した義太夫会のおり、忠臣蔵が出たとき役々(やくやく)によって語り手が違い、平右衛門など下手(しもて)から出て山台(やまだい)の下で語ったおり、彼女もお仲間に引出されて迷惑そうな顔もせずにこにこして語っていたのを思いだした。またある時は名門の出の某男爵が濡衣(ぬれぎぬ)に扮したおり、彼女は八重垣姫(やえがきひめ)を振りあてられて真面目(まじめ)に化粧(けわ)い衣装をして、自ら「はじかき姫」だと言っていたことをも思いだす。そのおりも有楽座の出席時間になると急遽(きゅうきょ)として鬘(かつら)をぬいで急いでいった。そして済ませると直ぐに戻って来て興を逸(そ)らさぬようにと勤めていた。彼女が可愛がられるのも理由のないことではない。
 彼女の水々しい色白の丸顔とあの声を聴いていると、生れが明治六年だとはどうしても嘘のような気がする。来るたびに若くなって来るとは御定連(ごじょうれん)でさえも洩らす讃美である。彼女の生活が、芸術のためによって生きる意義を見出(みいだ)すとき、彼女が永遠に若き生命の所有者であることを認めなければなるまい。私は思う、彼女はこの後ますます若くなるであろうという事を。そして彼女の芸はますます堂に入るであろうということを。
 呂昇の日常は、恒(つね)におだやかなものであるという。彼女の心静かに住みなす家には、召使いの一両人が、彼女の思念を乱さぬようにとつつましやかに仕えているという事である。そして彼女は、たった一人の息子(むすこ)とも離れて、全く孤独の芸術郷に暮している。彼女は信仰のかたい聖徒(クリスチャン)であるという。当今(いま)こそ彼女に物質の憂いはないが、かなり売出しのころには悲惨を嘗(な)めたのであった。

 私はすこしばかり彼女の経歴の断片を知っているが、彼女は名古屋に生れ永田なかというのが本名である。父は尾州(びしゅう)家の藩士であったが維新後塩物問屋をいとなんでいるうち彼女の十一歳のおりに病死してしまった。その後は母の手一つに養育され常磐津(ときわず)などをならっていた。その頃から声のよいのを褒(ほ)められていたが、彼女の生母よりも一人の叔父(おじ)が我事のように悦んで、自分の好きな浄瑠璃(じょうるり)を一くさりずつ慰み半分におしえていた。その叔父さんの友達に浪越(なごし)太夫という――後に師匠の名を買って、五代目土佐太夫になった人である。芸はさほど巧(うま)くはなかったそうであるが、弟子には彼女のほかに女子では竹本小土佐(こどさ)が名をなしている――人があって、ある日訪れて来たおり、彼女は例の慰み半分に叔父さんから稽古(けいこ)されている最中であった。莨(タバコ)を喫(の)んでまっているうちに「是非この子を仕込んで見たい」と彼れは思ってしまった。
 その相談を受けると誰れよりもさきに叔父さんが嬉しがってしまって、彼女の十三の時から浪越太夫の弟子にさせた。間もなく彼女は仲路(なかじ)という名がついて寄席(よせ)の高座へ出ることになった。そうこうする間に十五歳の春は来た。そして綾之助とはあまりに相違する悲しい恋をささげられた。彼女の十五の春を奪ったのは、彼女のためにかなり尽し入揚(いれあ)げた紳士である。紳士であると思えばこそ世心(よごころ)知らぬ彼女もしたがっていたのであろうが、長い月日のうちには素振(そぶ)りのあやしげなのが仲間うちから噂(うわさ)されるようになった。その紳士が前科者だと知れると、一座するものからも疎(うと)んぜられるようになってしまった。
 彼女の人生の出発点にはそうした痛手があった。彼女の美貌(びぼう)が彼女を悲運におとしたのである。彼女はその心のいたでを癒(いや)すには、全力をそそいで芸の道にまっしぐらとならなければならないと思った。十九歳ごろには、芸の方で彼女を顧みるものもなかったのである。小土佐と一緒に東京へと志望したが、も一修業してから来いと突離(つきはな)された彼女は、若き胸中に、鬱勃(うつぼつ)たる芸の野心と、悲しい心の傷(いた)みとに戦いながら大阪へ出て呂太夫(ろだゆう)に師事した。その当時の大阪は摂津大掾(せっつだいじょう)がまだ越路(こしじ)の名で旭日(あさひ)の登るような勢いであり、そのほかに弥津(やつ)太夫、大隅(おおすみ)太夫、呂太夫の錚々(そうそう)たるがあり、女義には東猿(とうえん)、末虎(すえとら)、長広(ながひろ)、照玉(てるぎょく)と堂々と立者(たてもの)が揃(そろ)っていた。さはあれ、呂昇はよき師をとり、それに一心不乱の勤勉と、天性の美音とが、いつまでも駈出(かけだ)しの旅烏(たびがらす)にしておかなかった。床本(ゆかほん)とお弁当とをもって、文楽座に通うのを毎日の仕事としていた他意なき熱心さを、大阪第一流の女義の定席(じょうせき)、播重(はりじゅう)の主人にみとめられたのが出世のはじまりとなった。めきめきと売出した時に、播重の手から八百円の手切れ金を立替えて、不思議な紳士とも手を断(き)る事が出来たが、しかしながらまた一方には、播重に自由を束縛されてしまいもした。
 弱きは女の心である。一方を逃(のが)れようとしてまたそこに桎梏(しっこく)の枷(かせ)を打たれてしまった。それからの四、五年は播重と呂昇との暗闘であった。呂昇は共楽会という南地(なんち)の演舞場に開催される、第一流の群れに投じようとし、播重は自分の席の専属にしてしまおうと、心までも肉体と共に自由にしようとした。彼女は漸(ようや)く自己の新生面を開こうとしたおりに、こういう大きな掌(てのひら)に握りつぶされてしまったので、世の中を悲観しないわけにはゆかなかった。彼女はもう何もかも一切のわずらわしさを捨て、故郷に隠遁(いんとん)してしまおうと決心したが、その心持ちを知る人に慰藉(いしゃ)されて思い直し、末虎、照玉と共に旗上げをして鬱(うつ)をなぐさめた。けれどその、苦悩から生れた貴い勇気も、直(すぐ)に阻(はば)むような悪いことがつづいた。時運の来ぬということは仕方のないもので、殊勝な彼女らの旗上げは半年目で火災に逢い、一座は三味線も見台(けんだい)も、肩衣(かたぎぬ)もみんな焼失してしまった。過度の神経衰弱におかされ弱まった心は、またしても故郷に埋もれてしまおうとしたが、九州、中国と巡業したのち思いきって東京へと乗出した。
 呂昇の上京は、いまこそ来ぬうちから待兼(まちかね)られるが、廿五歳で出て来たおりには十銭の木戸で、それでも思ったほどの客足はなかったのである。横浜を打上げて帰阪すると、松の亭の席主が八百円の金を貸してくれたので播重と手を断つことになったのであった。けれどもまた、呂昇は松の亭からはなれることが出来なくなってしまった。
 何処までいってもはてしのない旅――そういうふうにも見られた呂昇の生涯に大飛躍の時が来た。呂昇には三十を越してからやっと福運がめぐって来たのである。それまではよい給料をとりながらも八百円の高利がもとで松の亭にみんな吸われてしまっていたのであった。その後、呂昇が今日の呂昇となる動機に恋があったという事であるが、おしいことに私はこれを聞き洩らしている。
――大正八年三月――
附記 昭和五年ごろ大阪に閑居、病を養っていたが、もはや再び肉声を聞かれぬ人となってしまった。




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