かくれんぼ
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著者名:斎藤緑雨 

 秀吉金冠(きんかん)を戴(いただ)きたりといえども五右衛門四天(よてん)を着けたりといえども猿(さる)か友市(ともいち)生れた時は同じ乳呑児(ちのみご)なり太閤(たいこう)たると大盗(たいとう)たると聾(つんぼ)が聞かば音(おん)は異(かわ)るまじきも変るは塵(ちり)の世の虫けらどもが栄枯窮達一度が末代とは阿房陀羅経(あほだらぎょう)もまたこれを説けりお噺(はなし)は山村俊雄(としお)と申すふところ育ち団十菊五を島原に見た帰り途(みち)飯だけの突合いととある二階へ連れ込まれたがそもそもの端緒(いとぐち)一向だね一ツ献じようとさされたる猪口(ちょく)をイエどうも私はと一言を三言に分けて迷惑ゆえの辞退を、酒席の憲法恥をかかすべからずと強(し)いられてやっと受ける手頭(てさき)のわけもなく顫(ふる)え半ば吸物椀(すいものわん)の上へ篠(しの)を束(つか)ねて降る驟雨(しゅうう)酌(しゃく)する女がオヤ失礼と軽く出るに俊雄はただもじもじと箸(はし)も取らずお銚子(ちょうし)の代り目と出て行く後影を見澄まし洗濯はこの間と怪しげなる薄鼠色(うすねずみいろ)の栗(くり)のきんとんを一ツ頬張(ほおば)ったるが関の山、梯子段(はしごだん)を登り来る足音の早いに驚いてあわてて嚥(の)み下し物平(ものへい)を得ざれば胃の腑(ふ)の必ず鳴るをこらえるもおかしく同伴(つれ)の男ははや十二分に参りて元からが不等辺三角形の眼をたるませどうだ山村の好男子美しいところを御覧に供しようかねと撃て放せと向けたる筒口俊雄はこのごろ喫(の)み覚えた煙草の煙(けぶり)に紛らかしにっこりと受けたまま返辞なければ往復端書(はがき)も駄目のことと同伴(つれ)の男はもどかしがりさてこの土地の奇麗のと言えば、あるある島田には間があれど小春(こはる)は尤物(ゆうぶつ)介添えは大吉(だいきち)婆(ばば)呼びにやれと命ずるをまだ来ぬ先から俊雄は卒業証書授与式以来の胸躍(おど)らせもしも伽羅(きゃら)の香の間から扇を挙げて麾(さしまね)かるることもあらば返すに駒(こま)なきわれは何と答えんかと予審廷へ出る心構えわざと燭台(しょくだい)を遠退(とおの)けて顔を見られぬが一の手と逆茂木(さかもぎ)製造のほどもなくさらさらと衣(きぬ)の音、それ来たと俊雄はまた顫えて天にも地にも頼みとするは後なる床柱これへ凭(もた)れて腕組みするを海山越えてこの土地ばかりへも二度の引眉毛(ひきまゆげ)またかと言わるる大吉の目に入りおふさぎでござりまするのとやにわに打ちこまれて俊雄は縮み上り誠恐誠惶(せいきょうせいこう)詞(ことば)なきを同伴(つれ)の男が助け上げ今日観(み)た芝居咄(ばなし)を座興とするに俊雄も少々の応答(うけこた)えが出来夜深くならぬ間と心むずつけども同伴の男が容易に立つ気色(けしき)なければ大吉が三十年来これを商標と磨(みが)いたる額の瓶(びん)のごとく輝(ひか)るを気にしながら栄(は)えぬものは浮世の義理と辛防(しんぼう)したるがわが前に余念なき小春が歳(とし)十六ばかり色ぽッてりと白き丸顔の愛敬(あいきょう)溢(こぼ)るるを何の気もなく瞻(なが)めいたるにまたもや大吉に認(みつ)けられお前にはあなたのような方(かた)がいいのだよと彼を抑えこれを揚ぐる画策縦横大英雄も善知識も煎(せん)じ詰めれば女あっての後(のち)なりこれを聞いてアラ姉(ねえ)さんとお定まりのように打ち消す小春よりも俊雄はぽッと顔赧(あか)らめ男らしくなき薄紅葉(うすもみじ)とかようの場合に小説家が紅葉の恩沢に浴するそれ幾ばく、着たる糸織りの襟(えり)を内々直したる初心さ小春俊雄は語呂(ごろ)が悪い蜆川(しじみがわ)の御厄介(ごやっかい)にはならぬことだと同伴(つれ)の男が頓着(とんじゃく)なく混ぜ返すほどなお逡巡(しりご)みしたるがたれか知らん異日の治兵衛はこの俊雄今宵(こよい)が色酒(いろざけ)の浸初(しみはじ)め鳳雛麟児(ほうすうりんじ)は母の胎内を出(い)でし日の仮り名にとどめてあわれ評判の秀才もこれよりぞ無茶となりける
 試みに馬から落ちて落馬したの口調にならわば二つ寝て二ツ起きた二日の後俊雄は割前の金届けんと同伴(つれ)の方(かた)へ出向きたるにこれは頂かぬそれでは困ると世間のミエが推(お)っつやっつのあげくしからば今一夕(いっせき)と呑(の)むが願いの同伴の男は七つのものを八つまでは灘(なだ)へうちこむ五斗兵衛(ごとべえ)が末胤(まついん)酔えば三郎づれが鉄砲の音ぐらいにはびくりともせぬ強者(つわもの)そのお相伴の御免蒙(こうぶ)りたいは万々なれどどうぞ御近日とありふれたる送り詞を、契約に片務あり果たさざるを得ずと思い出したる俊雄は早や友仙(ゆうぜん)の袖(そで)や袂(たもと)が眼前(めさき)に隠顕(ちらつ)き賛否いずれとも決しかねたる真向(まっこう)からまんざら小春が憎いでもあるまいと遠慮なく発議者(ほつぎしゃ)に斬(き)り込まれそれ知られては行くも憂(う)し行かぬも憂しと肚(はら)のうちは一上一下虚々実々、発矢(はっし)の二三十も列(なら)べて闘(たたか)いたれどその間に足は記憶(おぼえ)ある二階へ登(あが)り花明らかに鳥何とやら書いた額の下へついに落ち着くこととなれば六十四条の解釈もほぼ定まり同伴(つれ)の男が隣座敷へ出ている小春を幸いなり貰(もら)ってくれとの命令(いいつけ)畏(かしこ)まると立つ女と入れかわりて今日は黒出の着服(きつけ)にひとしお器量優(まさ)りのする小春があなたよくと末半分は消えて行く片靨(かたえくぼ)俊雄はぞッと可愛げ立ちてそれから二度三度と馴染(なじ)めば馴染むほど小春がなつかしく魂(たまし)いいつとなく叛旗(はんき)を翻えしみかえる限りあれも小春これも小春兄(にい)さまと呼ぶ妹(いもと)の声までがあなたやとすこし甘たれたる小春の声と疑われ今は同伴の男をこちらからおいでおいでと新田足利勧請文(にったあしかがかんじょうもん)を向けるほどに二ツ切りの紙三つに折ることもよく合点(がてん)しやがて本文通りなまじ同伴あるを邪魔と思うころは紛れもない下心、いらざるところへ勇気が出て敵は川添いの裏二階もう掌(て)のうちと単騎馳(は)せ向いたるがさて行義よくては成りがたいがこの辺の辻占(つじうら)淡路島通う千鳥の幾夜となく音ずるるにあなたのお手はと逆寄せの当坐の謎(なぞ)俊雄は至極御同意なれど経験(ためし)なければまだまだ心怯(おく)れて宝の山へ入りながらその手を空(むな)しくそっと引き退け酔うでもなく眠(ねぶ)るでもなくただじゃらくらと更(ふ)けるも知らぬ夜々の長坐敷つい出そびれて帰りしが山村の若旦那(わかだんな)と言えば温和(おとな)しい方よと小春が顔に花散る容子(ようす)を御参(ござん)なれやと大吉が例の額に睨(にら)んで疾(とう)から吹っ込ませたる浅草市羽子板ねだらせたを胸三寸の道具に数え、戻(もど)り路(じ)は角(かど)の歌川(うたがわ)へ軾(かじ)を着けさせ俊雄が受けたる酒盃(さかずき)を小春に注(つ)がせてお睦(むつ)まじいと□(おくび)より易(やす)い世辞この手とこの手とこう合わせて相生(あいおい)の松ソレと突きやったる出雲殿(いずもどの)の代理心得、間、髪を容(い)れざる働きに俊雄君閣下初めて天に昇るを得て小春がその歳暮(くれ)裾曳(すそひ)く弘(ひろ)め、用度をここに仰ぎたてまつれば上げ下げならぬ大吉が二挺三味線(にちょうざみせん)つれてその節(おり)優遇の意を昭(あき)らかにせられたり
 おしゅんは伝兵衛おさんは茂兵衛小春は俊雄と相場が極(き)まれば望みのごとく浮名は広まり逢(あ)うだけが命の四畳半に差向いの置炬燵(おきごたつ)トント逆上(のぼせ)まするとからかわれてそのころは嬉(うれ)しくたまたまかけちがえば互いの名を右や左や灰へ曲書(きょくが)き一里を千里と帰ったあくる夜千里を一里とまた出て来て顔合わせればそれで気が済む雛(ひな)さま事罪のない遊びと歌川の内儀からが評判したりしがある夜会話の欠乏から容赦のない欠伸(あくび)防ぎにお前と一番の仲よしはと俊雄が出した即題をわたしより歳一つ上のお夏呼んでやってと小春の口から説き勧めた答案が後日の崇(たた)り今し方明いて参りましたと着更(きが)えのままなる華美姿(はですがた)名は実の賓(ひん)のお夏が涼しい眼元に俊雄はちくと気を留めしも小春ある手前格別の意味もなかりしにふとその後俊雄の耳へ小春は野々宮大尽最愛の持物と聞えしよりさては小春も尾のある狐(きつね)欺(だま)されたかと疑ぐるについぞこれまで覚えのない口舌法(くぜつほう)を実施し今あらためてお夏が好いたらしく土地を離れて恋風の福よしからお名ざしなればと口をかけさせオヤと言わせる座敷の数も三日と続けばお夏はサルもの捨てた客でもあるまいと湯漬(ゆづ)けかッこむよりも早い札附き、男ひとりが女の道でござりまするか、もちろん、それでわたしも決めました、決めたとは誰を、誰でもない山村の若旦那俊雄さまとあにそれこうでもなかろうなれど機を見て投ずる商い上手俊雄は番頭丈八が昔語り頸筋元(くびすじもと)からじわと真に受けお前には大事の色がと言えばござりますともござりますともこればかりでも青と黄と褐(ちゃ)と淡紅色(ももいろ)と襦袢(じゅばん)の袖突きつけられおのれがと俊雄が思いきって引き寄せんとするをお夏は飛び退きその手は頂きませぬあなたには小春さんがと起したり倒したり甘酒進上の第一義俊雄はぎりぎり決着ありたけの執心をかきむしられ何の小春が、必ずと畳みかけてぬしからそもじへ口移しの酒が媒妁(なかだち)それなりけりの寝乱れ髪を口さがないが習いの土地なれば小春はお染の母を学んで風呂のあがり場から早くも聞き伝えた緊急動議あなたはやと千古不変万世不朽の胸(むな)づくし鐘にござる数々の怨(うら)みを特に前髪に命じて俊雄の両の膝(ひざ)へ敲(たた)きつけお前は野々宮のと勝手馴れぬ俊雄の狼狽(うろた)えるを、知らぬ知らぬ知りませぬ憂(う)い嬉しいもあなたと限るわたしの心を摩利支天様(まりしてんさま)聖天様(しょうでんさま)不動様妙見様日珠様(にっしゅさま)も御存じの今となってやみやみ男を取られてはどう面目が立つか立たぬか性悪者(しょうわるもの)めと罵(ののし)られ、思えばこの味わいが恋の誠と俊雄は精一杯小春をなだめ唐琴屋(からことや)二代の嫡孫色男の免許状をみずから拝受ししばらくお夏への足をぬきしが波心楼(はしんろう)の大一坐に小春お夏が婦多川(ふたがわ)の昔を今に、どうやら話せる幕があったと聞きそれもならぬとまた福よしへまぐれ込みお夏を呼べばお夏はお夏名誉賞牌(しょうはい)をどちらへとも落しかねるを小春が見るからまたかと泣いてかかるにもうふッつりと浮気はせぬと砂糖八分の申し開き厭気(いやき)というも実は未練窓の戸開けて今鳴るは一時かと仰ぎ視(み)ればお月さまいつでも空とぼけてまんまるなり
 脆(もろ)いと申せば女ほど脆いはござらぬ女を説くは知力金力権力腕力この四つを除(の)けて他に求むべき道はござらねど権力腕力は拙(つたな)い極度、成るが早いは金力と申す条まず積ってもごろうじろわれ金をもって自由を買えば彼また金をもって自由を買いたいは理の当然されば男傾城(おとこけいせい)と申すもござるなり見渡すところ知力の世界畢竟(ひっきょう)ごまかしはそれの増長したるなれば上手にも下手にも出所(しゅっしょ)はあるべしおれが遊ぶのだと思うはまだまだ金を愛(お)しむ土臭い料見あれを遊ばせてやるのだと心得れば好かれぬまでも嫌(きら)われるはずはござらぬこれすなわち女受けの秘訣(ひけつ)色師(いろし)たる者の具備すべき必要条件法制局の裁決に徴して明らかでござるとどこで聞いたか氏(うじ)も分らぬ色道じまんを俊雄は心底(しんそこ)歎服(たんぷく)し満腹し小春お夏を両手の花と絵入新聞の標題(みだし)を極め込んだれど実もってかの古大通(こだいつう)の説くがごとくんば女は端からころりころり日の下開山の栄号をかたじけのうせんこと死者(しびと)の首を斬るよりも易しと鯤(こん)、鵬(ぼう)となる大願発起痴話熱燗(あつかん)に骨も肉も爛(ただ)れたる俊雄は相手待つ間歌川の二階からふと瞰下(みおろ)した隣の桟橋(さんばし)に歳十八ばかりの細(ほっ)そりとしたるが矢飛白(やがすり)の袖夕風に吹き靡(なび)かすを認めあれはと問えば今が若手の売出し秋子とあるをさりげなく肚(はら)にたたみすぐその翌晩月の出際(でぎわ)に隅(すみ)の武蔵野(むさしの)から名も因縁づくの秋子をまねけば小春もよしお夏もよし秋子も同じくよしあしの何はともあれおちかづきと気取って見せた盃(さかずき)が毒の器たんとはいけぬ俊雄なればよいお色やと言わるるを取附きの浮世噺(うきよばなし)初の座敷はお互いの寸尺知れねば要害厳(きび)しく、得て気の屈(つま)るものと俊雄は切り上げて帰りしがそれから後は武蔵野へ入り浸り深草ぬしこのかたの恋のお百度秋子秋子と引きつけ引き寄せここらならばと遠くお台所より伺えば御用はないとすげなく振り放しはされぬものの其角(きかく)曰(いわ)くまがれるを曲げてまがらぬ柳に受けるもやや古(ふる)なれどどうも言われぬ取廻しに俊雄は成仏延引し父が奥殿深く秘めおいたる虎(とら)の子をぽつりぽつり背負(しょ)って出て皆この真葛原下(まくずはらした)這(は)いありくのら猫の児へ割歩(わりぶ)を打ち大方出来たらしい噂(うわさ)の土地に立ったを小春お夏が早々と聞き込み不断は若女形(わかおんながた)で行く不破(ふわ)名古屋も這般(このはん)のことたる国家問題に属すと異議なく連合策が行われ党派の色分けを言えば小春は赤お夏は萌黄(もえぎ)の天鵞絨(びろうど)を鼻緒にしたる下駄(げた)の音荒々しく俊雄秋子が妻も籠(こも)れりわれも籠れる武蔵野へ一度にどっと示威運動の吶声(ときのこえ)座敷が座敷だけ秋子は先刻(せんこく)逃水「らいふ、おぶ、やまむらとしお」へ特筆大書すべき始末となりしに俊雄もいささか辟易(へきえき)したるが弱きを扶(たす)けて強きを挫(くじ)くと江戸で逢ったる長兵衛殿を応用しおれはおれだと小春お夏を跳ね飛ばし泣けるなら泣けと悪(あく)ッぽく出たのが直打(ねうち)となりそれまで拝見すれば女冥加(みょうが)と手の内見えたの格をもってむずかしいところへ理をつけたも実は敵を木戸近く引き入れさんざんじらしぬいた上のにわかの首尾千破屋(ちはや)を学んだ秋子の流眄(ながしめ)に俊雄はすこぶる勢いを得、宇宙広しといえども間違いッこのないものはわが恋と天気予報の「ところにより雨」悦気面に満ちて四百五百と入り揚げたトドの詰りを秋子は見届けしからば御免と山水(やまみず)と申す長者のもとへ一応の照会もなく引き取られしより俊雄は瓦斯(がす)を離れた風船乗り天を仰いで吹っかける冷酒(ひやざけ)五臓六腑へ浸み渡りたり
 それつらつらいろは四十七文字を按(あん)ずるに、こちゃ登り詰めたるやまけの「ま」が脱(ぬ)ければ残るところの「やけ」となるは自然の理なり俊雄は秋子に砂浴びせられたる一旦の拍子ぬけその砂肚(はら)に入ってたちまちやけの虫と化し前年より父が預かる株式会社に通い給金なり余禄(よろく)なりなかなかの収入(とりくち)ありしもことごとくこのあたりの溝(みぞ)へ放棄(うっちゃ)り経綸(けいりん)と申すが多寡が糸扁(いとへん)いずれ天下(てんが)は綱渡りのことまるまる遊んだところが杖(つえ)突いて百年と昼も夜ものアジをやり甘い辛いがだんだん分ればおのずから灰汁(あく)もぬけ恋は側(はた)次第と目端が利(き)き、軽い間に締りが附けば男振りも一段あがりて村様村様と楽な座敷をいとしがられしが八幡鐘(はちまんがね)を現今(いま)のように合乗り膝枕(ひざまくら)を色よしとする通町辺(とおりちょうへん)の若旦那に真似のならぬ寛濶(かんかつ)と極随(ごくずい)俊雄へ打ち込んだは歳二ツ上の冬吉なりおよそここらの恋と言うは親密(ちかづき)が過ぎてはいっそ調(ととの)わぬが例なれど舟を橋際に着けた梅見帰りひょんなことから俊雄冬吉は離れられぬ縁の糸巻き来るは呼ぶはの逢瀬繁く姉じゃ弟(おとと)じゃの戯(たわ)ぶれが、異なものと土地に名を唄(うた)われわれより男は年下なれば色にはままになるが冬吉は面白く今夜はわたしが奢(おご)りますると銭金を帳面のほかなる隠れ遊び、出が道明(どうみょう)ゆえ厭かは知らねど類のないのを着て下されとの心中立(しんじゅうだ)てこの冬吉に似た冬吉がよそにも出来まいものでもないと新道(しんみち)一面に気を廻し二日三日と音信(おとずれ)の絶えてない折々は河岸(かし)の内儀へお頼みでござりますと月始めに魚一尾(ひき)がそれとなく報酬の花鳥使(かちょうし)まいらせ候(そろ)の韻を蹈(ふ)んできっときっとの呼出状今方貸小袖を温習(さらい)かけた奥の小座敷へ俊雄を引き入れまだ笑ったばかりの耳元へ旦那のお来臨(いで)と二十銭銀貨に忠義を売るお何どんの注進ちぇッと舌打ちしながら明日(あした)と詞約(つが)えて裏口から逃しやッたる跡の気のもめ方もしや以前の歌川へ火が附きはすまいかと心配ありげに撲(はた)いた吸殻、落ちかけて落ちぬを何の呪(まじな)いかあわてて煙草を丸め込みその火でまた吸いつけて長く吹くを傍らにおわします弗函(どるばこ)の代表者顔へ紙幣(さつ)貼(は)った旦那殿はこれを癪気(しゃくき)と見て紙に包(くる)んで帰り際に残しおかれた涎(よだれ)の結晶ありがたくもないとすぐから取って俊雄の歓迎費俊雄は十分あまえ込んで言うなり次第の倶浮(ともうか)れ四十八の所分(しょわけ)も授かり融通の及ぶ限り借りて借りて皆持ち寄りそのころから母が涙のいじらしいをなお暁に間のある俊雄はうるさいと家を駈(か)け出し当分冬吉のもとへ御免候(さぶら)え会社へも欠勤がちなり
 絵にかける女を見ていたずらに心を動かすがごとしという遍昭(へんじょう)が歌の生れ変り肱(ひじ)を落書きの墨の痕(あと)淋漓(りんり)たる十露盤(そろばん)に突いて湯銭を貸本にかすり春水翁(しゅんすいおう)を地下に瞑(めい)せしむるのてあいは二言目には女で食うといえど女で食うは禽語楼(きんごろう)のいわゆる実母散(じつぼさん)と清婦湯(せいふとう)他は一度女に食われて後のことなり俊雄は冬吉の家へ転(ころ)げ込み白昼そこに大手を振ってひりりとする朝湯に起きるからすぐの味を占め紳士と言わるる父の名もあるべき者が三筋に宝結びの荒き竪縞(たてしま)の温袍(どてら)を纏(まと)い幅員わずか二万四千七百九十四方里の孤島に生れて論が合わぬの議が合わぬのと江戸の伯母御(おばご)を京で尋ねたでもあるまいものが、あわぬ詮索(せんさく)に日を消すより極楽は瞼(まぶた)の合うた一時とその能とするところは呑むなり酔うなり眠(ねぶ)るなり自堕落は馴れるに早くいつまでも血気熾(さか)んとわれから信用を剥(は)いで除(の)けたままの皮どうなるものかと沈着(おちつ)きいたるがさて朝夕(ちょうせき)をともにするとなればおのおのの心易立てから襤褸(ぼろ)が現われ俊雄はようやく冬吉のくどいに飽いて抱えの小露が曙染(あけぼのぞ)めを出の座敷に着る雛鶯(ひなうぐいす)欲のないところを聞きたしと待ちたりしが深間(ふかま)ありとのことより離れたる旦那を前年度の穴填(あなう)めしばし袂を返させんと冬吉がその客筋へからまり天か命か家を俊雄に預けて熱海(あたみ)へ出向いたる留守を幸いの優曇華(うどんげ)、機乗ずべしとそっと小露へエジソン氏の労を煩わせば姉さんにしかられまするは初手(しょて)の口青皇(せいこう)令を司(つかさ)どれば厭でも開く鉢(はち)の梅殺生禁断の制礼がかえって漁者の惑いを募らせ曳く網のたび重なれば阿漕浦(あこぎがうら)に真珠を獲(え)て言うなお前言うまいあなたの安全器を据(す)えつけ発火の予防も施しありしに疵(きず)もつ足は冬吉が帰りて後一層目に立ち小露が先月からのお約束と出た跡尾花屋からかかりしを冬吉は断り発音(はついん)はモシの二字をもって俊雄に向い白状なされと不意の糺弾(きゅうだん)俊雄はぎょッとしたれど横へそらせてかくなる上はぜひもなし白状致します私母は正(まさ)しく女とわざと手を突いて言うを、ええその口がと畳叩(たた)いて小露をどうなさるとそもやわたしが馴れそめの始終を冒頭に置いての責道具ハテわけもない濡衣(ぬれぎぬ)椀の白魚(しらお)もむしって食うそれがし鰈(かれい)たりとも骨湯(こつゆ)は頂かぬと往時権現様得意の逃支度冗談ではござりませぬとその夜冬吉が金輪奈落(こんりんならく)の底尽きぬ腹立ちただいまと小露が座敷戻りの挨拶(あいさつ)も長坂橋(ちょうはんきょう)の張飛(ちょうひ)睨んだばかりの勢いに小露は顫え上りそれから明けても三国割拠お互いに気まずく笑い声はお隣のおばさんにも下し賜わらず長火鉢の前の噛楊子(かみようじ)ちょっと聞けば悪くないらしけれど気がついて見れば見られぬ紅脂白粉(べにおしろい)の花の裏路今までさのみでもなく思いし冬吉の眉毛の蝕(むしく)いがいよいよ別れの催促客となるとも色となるなとは今の誡(いまし)めわが讐敵(あだ)にもさせまじきはこのことと俊雄ようやく夢覚(さ)めて父へ詫(わ)び入り元のわが家へ立ち帰れば喜びこそすれ気振(けぶ)りにもうらまぬ母の慈愛厚く門際(もんぎわ)に寝ていたまぐれ犬までが尾をふるに俊雄はひたすら疇昔(きのう)を悔いて出入(ではい)りに世話をやかせぬ神妙(しんびょう)さは遊ばぬ前日(ぜん)に三倍し雨晨月夕(うしんげっせき)さすが思い出すことのありしかど末のためと目をつぶりて折節橋の上で聞くさわぎ唄も易水(えきすい)寒(さぶ)しと通りぬけるに冬吉は口惜(くや)しがりしがかの歌沢に申さらく蝉(せみ)と螢(ほたる)を秤(はかり)にかけて鳴いて別りょか焦れて退(の)きょかああわれこれをいかんせん昔おもえば見ず知らずとこれもまた寝心わるく諦(あきら)めていつぞや聞き流した誰やらの異見をその時初めて肝(きも)のなかから探り出(いだ)しぬ
 観ずれば松の嵐(あらし)も続いては吹かず息を入れてからが凄(すさ)まじいものなり俊雄は二月三月は殊勝に消光(くらし)たるが今が遊びたい盛り山村君どうだねと下地を見込んで誘う水あれば、御意はよし往(い)なんとぞ思う俊雄は馬に鞭(むち)御同道仕(つかま)つると臨時総会の下相談からまた狂い出し名を変え風俗を変えて元の土地へ入り込み黒七子(くろななこ)の長羽織に如真形(じょしんがた)の銀煙管(ぎんぎせる)いっそ悪党を売物と毛遂(もうすい)が嚢(ふくろ)の錐(きり)ずっと突っ込んでこなし廻るをわれから悪党と名告(なの)る悪党もあるまいと俊雄がどこか俤(おもかげ)に残る温和(おとなし)振りへ目をつけてうかと口車へ腰をかけたは解けやすい雪江という二十一二の肌白(はだじろ)村様と聞かば遠慮もすべきに今までかけちごうて逢わざりければ俊雄をそれとは思い寄らず一も二も明かし合うたる姉分のお霜へタッタ一日あの方と遊んで見る知恵があらば貸して下されと頼み入りしにお霜は承知と呑み込んで俊雄の耳へあのね尽しの電話の呼鈴(よびりん)聞えませぬかと被(かぶ)せかけるを落魄(おちぶ)れても白い物を顔へは塗りませぬとポンと突き退け二の矢を継がんとするお霜を尻目(しりめ)にかけて俊雄はそこを立ち出で供待ちに欠伸(あくび)にもまた節奏ありと研究中の金太を先へ帰らせおのれは顔を知られぬ橋手前の菊菱(きくびし)おあいにくでござりまするという雪江を二時が三時でもと待ち受けアラと驚く縁の附際(つけぎわ)こちらからのように憑(もた)せた首尾電光石火早いところを雪江がお霜に誇ればお霜はほんとと口を明いてあきるること曲亭流(きょくていりゅう)をもってせば半□(はんとき)ばかりとにかく大事ない顔なれど潰(つぶ)されたうらみを言って言って言いまくろうと俊雄の跡をつけねらい、それでもあなたは済みまするか、済まぬ済まぬ真実済まぬ、きっと済みませぬか、きっと済みませぬ、その済まぬは誰へでござります、先祖の助六さまへ、何でござんすと振り上げてぶつ真似のお霜の手を俊雄は執(と)らえこれではなお済むまいと恋は追い追い下へ落ちてついにふたりが水と魚との交(なか)を隔て脈ある間はどちらからも血を吐かせて雪江が見て下されと紐鎖(ぱちん)へ打たせた山村の定紋負けてはいぬとお霜が櫛(くし)へ蒔絵(まきえ)した日をもう千秋楽と俊雄は幕を切り元木の冬吉へ再び焼けついた腐れ縁燃え盛る噂に雪江お霜は顔見合わせ鼠繻珍(ねずみしゅちん)の煙草入れを奥歯で噛んで畳の上敷きへ投(ほう)りつけさては村様か目が足りなんだとそのあくる日の髪結いにまで当り散らし欺(だま)されて啼(な)く月夜烏(つきよがらす)まよわぬことと触れ廻りしより村様の村はむら気のむら、三十前から綱(つな)では行かぬ恐ろしの腕と戻橋(もどりばし)の狂言以来かげの仇名(あだな)を小百合(さゆり)と呼ばれあれと言えばうなずかぬ者のない名代(なだい)の色悪(いろあく)変ると言うは世より心不めでたし不めでたし




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