パアテル・セルギウス
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著者名:トルストイレオ 

     一

 千八百四十何年と云ふ頃であつた。ペエテルブルクに世間の人を皆びつくりさせるやうな出来事があつた。美男子の侯爵で、甲騎兵聯隊からお上(かみ)の護衛に出てゐる大隊の隊長である。この士官は今に侍従武官に任命せられるだらうと皆が評判してゐたのである。侍従武官にすると云ふ事はニコラウス第一世の時代には陸軍の将校として最も名誉ある抜擢であつた。この士官は美貌の女官と結婚する事になつてゐた。女官は皇后陛下に特別に愛せられてゐる女であつた。然るに此士官が予定してあつた結婚の日取の一箇月前に突然辞職した。そして約束した貴婦人との一切の関係を断つて、少しばかりの所領の地面を女きやうだいの手に委ねて置いて、自分はペエテルブルクを去つて出家しにある僧院へ這入つたのである。
 此出来事はその内部の動機を知らぬ人の為めには、非常な、なんとも説明のしやうのない事件であつた。併し当人たる侯爵ステパン・カツサツキイが為めには是非さうしなくてはならぬ事柄で、どうもそれより外にはしやうがないやうに思はれたのである。
 ステパンの父は近衛の大佐まで勤めて引いたものであつた。それが亡くなつたのはステパンが十二歳の時である。父は遺言して、己の死んだ跡では、倅を屋敷で育てゝはならぬ。是非幼年学校に入れてくれと云つて置いた。そこでステパンの母は息子を屋敷から出すのを惜しくは思ひながら、夫の遺言を反古にすることが出来ぬので、已むことを得ず遺言通にした。
 さてステパンが幼年学校に這入ると同時に、未亡人(びばうじん)は娘ワルワラを連れてペエテルブルクに引越して来た。それは息子のゐる学校の近所に住つてゐて、休日には息子に来て貰はうと思つたからである。
 ステパンは幼年学校時代に優等生であつた。それに非常な名誉心を持つてゐた。どの学科も善く出来たが、中にも数学は好きで上手であつた。又前線勤務や乗馬の点数も優等であつた。目立つ程背が高いのに、存外軽捷で、風采が好かつた。品行の上からも、模範的生徒にせられなくてはならぬものであつた。然るに一つの欠点がある。それは激怒を発する癖のある事である。ステパンは酒を飲まない。女に関係しない。それに□(うそ)を衝くと云ふ事がない。只此青年の立派な性格に瑕(きず)を付けるのは例の激怒だけである。それが発した時は自分で抑制することがまるで出来なくなつて、猛獣のやうな振舞をする。或時かう云ふ事があつた。ステパンは鉱物の標本を集めて持つてゐた。それを一人の同窓生が見て揶揄(からか)つた。するとステパンが怒つて、今少しでその同窓生を窓から外へ投げ出す所であつた。又今一つかう云ふ事があつた。ステパンの言つた事を、或る士官がに□だと云つて、平気でしらを切つた事がある。その時ステパンはその士官に飛び付いて乱暴をした。人の噂では士官の面部を打擲(ちやうちやく)したと云ふことである。兎に角普通なら、この時ステパンは貶黜(べんちつ)せられて兵卒になる所であつた。それを校長が尽力して公にしないで、却てその士官を学校から出してしまつた。
 ステパンは十八歳で士官になつた。そして貴族ばかりから成り立つてゐる近衛聯隊の隊附にせられた。ニコラウス帝はステパンが幼年学校にゐた時から知つてゐて、聯隊に這入つてからも特別に目を掛けて使つてゐた。それで世間ではいづれ侍従武官にせられるものだと予想してゐたのである。
 ステパンも侍従武官になることを熱心に希望してゐた。それは一身の名誉を謀(はか)るばかりではない。幼年学校時代からニコラウス帝を尊信してゐたからである。帝は度々幼年学校へ行幸せられた。背の高い胸の広い体格で、八字髯と、短く苅込んだ頬髯との上に鷲の嘴のやうに曲つた隆い鼻のある帝は、さう云ふ時巌丈な歩き付きをして臨場して、遠くまで響く声で生徒等に挨拶せられた。さう云ふ事のある度に、ステパンはなんとも云へぬ感奮の情を発した。後に人と成つてから、自分の愛する女を見て発する情と同じやうな感奮であつた。否、ステパンが帝に対して懐いてゐた熱情は、後に女に対して感じた情よりは遙に強かつた。どうにかして際限もない尊信の思想が帝に見せて上げたい。何か機会があつたら、帝の為めに何物をでも犠牲にしたい、一命をも捧げたいと思つてゐたのである。帝はこの青年の心持を知つて、わざとその情を煽るやうな言動をせられた。いつも帝は幼年学校で生徒に交つて遊戯をして、生徒の真ん中に立つてゐて、子供らしい、無邪気な事を言つたり、又友達のやうに親切な事を言つたり、又改まつて晴れがましい事を言つたりせられた。ステパンが例の士官を打擲した事件の後に、帝は幼年学校に臨校せられたが、ステパンを見てもなんとも言はずにゐられた。さてステパンが偶然帝の側に来た時、帝は舞台で俳優のするやうな手附をして、ステパンを自分の側から押し除けて、額に皺を寄せて、右の手の指を立てゝ、威(おど)すやうな真似をせられた。それから還御(くわんぎよ)になる時、ステパンに言はれた。「覚えてゐるのだぞ。己は何もかも知つてゐる。併し或る事件は己は決して口に出さない。併しこゝにしまつてあるぞ。」帝はかう云つて胸を指さゝれた。
 ステパンが組の生徒が卒業して、一同帝の前に出た時、帝はステパンの例の事件を忘れたやうに言ひ出さずにゐた。そしていつものやうに、一同に訓示をした。何事があつてもこれからは直接に己に言へ、己とロシアの本国との為めに忠実に働け、己はいつでもお前達の親友であるぞと言つたのである。一同感激した。中にもステパンは自分の失錯の事を思つて、涙を流して、この難有い帝に一身を捧げて勤めようと心に誓つた。
 ステパンが聯隊附になつた時、母は娘を連れてまづモスクワに移つて次いで田舎に引つ込んだ。その時ステパンは財産の半ばを割(さ)いて女きやうだいに遣つた。自分が手元に残して置いた財産は、贅沢な近衛聯隊に勤める入費を支払つて一銭も残らぬだけの金額に過ぎなかつた。
 ステパンと云ふ男は余所目(よそめ)には普通の立派な青年近衛士官で、専念に立身を望んでゐるものとしか見えない。併しその腹の中に立ち入つて見ると、非常に複雑な、緊張した思慮をめぐらしてゐる。その思つてゐる事は子供の時から種々に変化したやうである。それは真に変化したのではない。煎じ詰めて見れば只一つの方針になる。即ち何事に依らず完全に為遂(しと)げて、衆人の賞讃と驚歎とを博せようとするのである。例之(たとへ)ば学科は人に褒められ、模範とせられるまで勉強する。さてその目的を達してしまふと、何か外の方角へ手を出すのである。そんな風で、幼年学校にゐた間、あらゆる学科の最優等生になつてゐた。その頃フランス語の会話が只一つ不得手(ふえて)であつた。そこで非常にフランス語を研究して、とう/\ロシア語と同じやうにフランス語を話すことが出来るまでに為上げた。遊戯の中で将棋なども、習ひ始めてからは、生徒仲間で一番に成るまで息(や)めなかつた。
 此男が士官になつてからは、本務上陛下に仕へ本国の為めに勤務するのは無論である。併しその外にいつも何か一為事(ひとしごと)始めてゐる。然もその副業に全幅の精神を傾注して成功するまでは息めない。どんな詰まらぬ事にもせよ、此流義で為遂げる。そこで其事が成就してしまふと、直ぐにそれを擲(なげう)つて、何か新しい方角に向つて進む。兎に角或る事件を企てる、それを成功して人を凌駕しようとする精神がこの男を支配してゐる。最初に聯隊に這入つた時、ステパンは一つこの勤務と云ふものを飽くまで研究しようと思つた。そこでステパンは間もなく聯隊中の模範将校になつた。併し惜しい事には例の激怒がどうかすると発する。そこで勤務上にも考科に疵を付けるやうな不都合の出来る事があつた。
 ステパンは後に上流社会で交際するやうになつてから自分の普通教育の足りない事に気が付いた。そこでその穴埋をしようと思つて、すぐに種々の書物を買ひ込んだ。そして間もなく目的を達した。次いで交際社会で立派な地位を占めようと思つた。そこで舞踏の稽古をして上手になつた。上流社会で舞踏会や夜会を催す事があると、ステパンはきつと請待(しやうだい)せられる事になつた。ところがそれまでになつたステパンの心中には満足の出来ない事があつた。それはどこへ往つても第一の地位を占めようと思つてゐるのに、実際は中々それどころではなかつたからである。
 その頃の上流社会と云ふものは、大抵左の四種類の人物から成り立つてゐた。多分今でもこれから後でも同じ事だらう。その種類は第一が財産のある貴顕である。第二は貴顕の間に生れて育つたゞけで、財産のない人々である。第三は貴顕の間に割り込まうとしてゐる財産家である。第四は貴顕でもなく、財産家でもないのに、強ひて貴顕や財産家と同じ世渡をしようとしてゐる人達である。
 第一第二の階級には、ステパンは這入る事が出来ない。ステパンは第三第四の仲間から歓迎せられる丈である。さてその仲間に這入つてから、ステパンはまづ貴夫人のどれかに関係を付けようと企てた。併しそれは間もなく出来て、然も余り容易に出来たので我ながら驚いた。
 さて暫くして気が付いて見ると、自分の交際してゐる社会は決して最上流ではない。それより上に別天地がある。その別天地では随分喜んで自分を請待してはくれるが、どうしても他人扱にしてゐる。勿論自分に対してその人々の言つたり、したりする事は丁寧で親密らしくは見える。併し矢張仲間としては取扱つてくれない。そこでステパンはその仲間に入らうと企てた。それには二つの途がある。一つは侍従武官になる事である。これは早晩出来さうに思はれる。今一つは最上流の令嬢と結婚する事である。ステパンはこれをも為遂げようと企てた。
 ステパンの選んだのは絵のやうに美しい令嬢である。それが女官を勤めてゐる。この令嬢は単に最上流の社会に属してゐると云ふばかりではない。最上流の中の極めて高貴な最も勢力のある人達からうるさい程大事にせられてゐる。その令嬢はコロトコフ伯爵の娘である。ステパンがこの人に結婚を申込まうとしたのは、決して最上流の社会に交らうとする手段ばかりではない。その娘が如何にも人好のする質(たち)であつたので、ステパンはそれに接近してから間もなく恋ひ慕ふやうになつてゐた。令嬢は初めはステパンに対して非常に冷淡であつた。それが或る時どうした事か突然態度を一変して、ステパンに優しくするやうになつた。殊に母の伯爵夫人がステパンを屋敷へ引き寄せようとして骨を折るやうになつたのは、不思議な程であつた。
 さてステパンは正式に結婚を申込んだ。申込はすぐに聴き入れられた。ステパンはこれ程の幸運が余り容易に得られたので、我ながら不思議に思つた。それにどうも母と娘との挙動に怪しいところがあるらしく感ぜられた。併しもうその娘に溺れるまでに恋をしてゐたので、目もくらみ耳も鈍くなつてゐて、ペエテルブルク中で知らぬものゝない、此娘の秘密をステパンは知らずにゐた。
 それは伯爵コロトコフの令嬢には、ステパンが結婚の約束をする一年前に、帝のお手が付いたと云ふ一件である。
 式を挙げる日が極まつてからの事である。ステパンはその日の二週間前に伯爵家の別荘に呼ばれて滞留することになつた。別荘はツアルスコエ・セロである。時は五月の暑い日である。ステパンと娘とは花園の中(うち)を散歩して、そこにある菩提樹並木の蔭のベンチに腰を掛けた。その日には、白の薄絹の衣裳を着てゐた令嬢マリイがいつもよりも一層美しく見えた。おぼこ娘の初恋と云ふものを人格にして見せたらこんなだらうと思はれる程である。ステパンがこの天使のやうな純潔な処女心(をとめごころ)を、うかとした挙動や言語(げんぎよ)で傷るやうな事があつてはならぬと心配して、特別な優しさと用心深さとを以て話を為掛(しか)けてゐると、マリイは伏目になつたり、又背の高い美男のステパンを仰いで見たりしてゐる。
 千八百四十何年と云ふ頃には、紳士社会に一種の道徳的観念があつた。それは紳士が自分は貞操を守らずにゐても好いものとして、中心に不品行を呪はずにゐて、その癖天上にあるやうな純潔を保つてゐる、理想的の女を妻にしようとしてゐたのである。そしてさう云ふ紳士は自分のゐる社会の処女を、悉(こと/″\)くその天上にあるやうな純潔を保つてゐるものだと極めてゐて、その積りで取扱つてゐたのである。そんな紳士は今は亡い。ところがステパンはその紳士の一人であつた。
 男子と云ふものゝ平気でしてゐる穢(けが)れた行跡の事を思へば、かう云ふ観念には数多(あまた)の誤謬と顛倒とを含んでゐる。此観念は今日の男子が頭から処女を牝として取扱ふのとは非常に相違してゐる。併し作者の考ではこの観念は娘や人妻の為めには利益であつた。さう云ふ天使扱をせられると、娘も多少神々しくならうとして努力するわけである。
 ステパンはさう云ふ道徳的観念を持つてゐた紳士の一人であるから、結婚の約束をしたマリイをもその目で見てゐる。けふはステパンがいつもよりも深く溺れたやうな心持になつてゐて、その癖少しも官能的発動は萌(きざ)してゐない。只如何にも感動したやうな態度で、仰ぎ視るべくして迫り近づくべからざるものゝやうに、娘の姿を眺めてゐる。背の高いステパンは、娘の前に衝つ立つて、両手で軍刀の柄(つか)を押へてゐるのである。
 ステパンは恥かしげに微笑みながら云つた。「わたしは今になつて始めて人間と云ふものゝ受けられる幸福の全範囲が分つたのですね。」夫婦の約束をしてから暫くの間は、もうぞんざいな詞(ことば)を使ふ権利がありながら、まだそれを敢てしないものである。ステパンは今その時期になつてゐて、マリイを尊(たつと)いものゝやうに見上げてゐるので、その天使のやうな処女(をとめ)にお前なんぞと云ふ事は出来にくいのである。ステパンはやうやうの事で語を次いだ。「どうもお前のお蔭でわたしは自己と云ふものが分つたのだね。さて分つて見れば、わたしは最初一人で考へてゐたより、余程善良なのだね。」
「あら。わたくしの方ではそれがとうから分つてゐましたの。だからわたくしあなたが好になつたのでございますわ」
 すぐ側でルスチニア鳥が一声啼いた。そして若葉が風にそよいでゐる。
 ステパンはマリイの手を取つてそれに接吻した。その時目には涙が湧いて来た。
 これはあなたが好になつたと云つた礼だと云ふ事を、マリイは悟つた。
 ステパンは黙つて二三歩の間を往つたり来たりしたが、さてマリイの側に腰を掛けた。「あなたには、いや、お前には分つてゐるだらうね。もうかうなつてしまへばどうでも好いのだ。実はわたしがお前に接近したのはどうも利己主義ではなかつたとは云はれない。なぜと云ふにわたしは上流社会に聯絡を付けようと思つて、交際を求めたのだからね。併し暫く立つとわたしの心持は一変した。そんな目的なんぞはお前と云ふものを手に入れる事に比べるとなんでもなくなつた。それはお前の人柄が分つて来たので、さう云ふ心持になつたのだ。ねえ、さう云ふわけだからと云つて、わたしの事を悪く思つてはくれないだらうね。」
 マリイはそれにはなんの返事もせずに、そつとステパンの手を握つた。
 詞で言つたら、「いゝえ、悪くなんぞは思ひません」と云つたのと同じだと云ふ事が、ステパンに分つた。
「さう。今お前が云つたつけね。」ステパンはかう云ひ掛けたが、ちと言ひ過ぎはせぬかと思つたので、ちよつとためらつた。「お前はわたしが好になつたと云つたつけね。それはさうだらうかとわたしも思つてゐる。だがね、おこつては行けないよ、さう云ふお前の感情の外に、まだお前とわたしとの間に何者かゞあつて、それが二人の中の邪魔にもなるし、又お前に不安を覚えさせてゐるらしく、わたしには見えるがね。あれは一体なんだらうね。」
 此詞を聞いた時、打ち明ければ今だ。今言はずにしまへば、言ふ時がないと云ふ事が女の意識を掠めて過ぎた。女は思案した。「どうせ自分が黙つてゐたつて、此事が夫の耳に入(い)らずには済まない。もうかうなつて見れば、打ち明けたところで、此人に棄てられる気遣はない。併しこれまでになつたのは、ほんに嬉しい。若し此人に棄てられる事があるやうでは、わたしに取つては大変だから」と思案した。そして優しい目附でステパンが姿を見た。背の高い立派な巌丈な体である。女は今では此男を帝よりも愛してゐる。若しそれが帝でなかつたら、十人位此男の代りに人にくれて遣つても好いと思つてゐる。そこでかう言ひ出した。「あなたにお話いたして置かなくてはならないのでございますがね。わたくしあなたに隠し立をいたしては済みませんから。わたくし何もかも言つてしまひますわ。どんな事を言ふのだとお思ひなさいませうね。実はわたくし一度恋をしたことがございますの。」かう云つて女は又自分の手をステパンの手の上に載せて歎願するやうに顔を見た。
 ステパンは黙つてゐた。
「あなた相手は誰だとお思ひなさいますの。あの陛下でございます。」
「それは陛下を愛すると云ふことは、あなたにしろわたし共にしろ、皆してゐるのです。女学校にお出の時の話でせう。」
「いゝえ、それより後の事でございます。無論只空(くう)にお慕ひ申してゐたので、暫く立つと、なんでもなくなつてしまひましたのですが、お話いたして置かなくてはならないのは。」
「そこで。」
「いゝえ。それが只プラトオニツクマンにお慕ひ申したと云ふばかりではございませんでしたから。」
 言ひ放つて、女は両手で顔を隠した。
「なんですと。あなた身をお任せになつたのですか。」
 女は黙つてゐた。
 ステパンは跳り上つた。顔の色は真つ蒼になつて表情筋(へうじやうきん)の痙攣を起してゐる。此時ステパンが思ひ出したのはネウスキイで帝に拝謁した時、帝が此女と自分との約束が出来たのを聞かれて、ひどく喜ばしげに祝詞を述べられたことである。
「あゝ。ステパンさん。わたくしは飛んだ事を申し上げましたね。」
「どうぞもうわたくしに障(さは)らないで下さい。障らないで下さい。あゝ。実になんともかとも言はれない苦痛です。」かう云つて、ステパンはくるりと背中を向けて帰り掛けた。
 そこへ母親が来掛かつた。「侯爵。どうなされたのです。」かう云ひ掛けたが、ステパンの顔色を見て詞を続けることが出来なかつた。
 ステパンの両方の頬には忽然(こつぜん)血が漲つて来たのである。「あなたは御承知でしたね。御承知でわたくしを世間の目を隠す道具にお使になりましたね。あゝ。若しあなたが貴夫人でなかつたら。」最後の詞を叫ぶやうに言つたのである。それと同時にステパンは節榑立(ふしくれだ)つた拳を握り固めて夫人の顔の前で振つた。そしてくるりと背中を向けて駆け出した。
 ステパンは許嫁(いひなづけ)の女の情夫が、若し帝でなくて、外の誰かであつたら、きつと殺さずには置かなかつただらう。ところがそれが帝である。自分の神のやうに敬つてゐる帝である。
 ステパンは翌日すぐに休暇願と辞表とを一しよに出した。そして病気だと云つて一切の面会を謝絶した。それから間もなくペエテルブルクを立つて荘園に引つ込んだ。
 夏の間中掛かつて、ステパンは身上の事を整理した。夏が過ぎ去つてしまふと、再びペエテルブルクに帰らずに、僧になつて僧院に這入つた。
 マリイの母は此様子を聞いて、余り極端な処置を取らせまいと思つて手紙を遣つた。併しステパンは只自分は神の使命の儘にするので、その使命の重大な為めに、何事も顧る事が出来ないのだと云ふ返事をした。ステパンが此時の心持を領解してゐたのは、同じやうに自信のある、名誉心の強い同胞(どうはう)のワルワラ一人であつた。
 ワルワラはステパンの心を洞察してゐた。ステパンは僧院に這入ると同時に、世間の人が難有く思つてゐる一切の事、自分も奉公をしてゐる間矢張難有く思つてゐた一切の事を抛(なげう)つたのである。ステパンはこれまで自分の羨んでゐる人々を眼下に見下(みくだ)すやうな、高い地位に身を置いたのである。併しステパンが僧になつた動機はこればかりではない。これより外に、ワルワラの理解し得ない動機がある。これは此男が真に宗教上の感情を有してゐたのである。此感情が自信や名誉心と交錯して一しよになつて、此男の動作を左右してゐるのである。崇拝してゐたマリイに騙されて、非常な侮辱を蒙つたと思ふと同時に、ステパンは一時絶望の境遇に陥つた。そして子供の時から心の底に忘れずに持つてゐた信仰に立ち戻つて神にたよることになつたのである。

     二

 ステパンが僧院に入(い)つたのは、ロシアでポクロフと云ふ聖母の恩赦の日である。此日にステパンは平生自分を凌いでゐた人々の上に超絶した僧侶生活に入つたのである。
 僧院の長老は上品な老人で、貴族と学者と文士とを兼ねてゐた。長老はルメニアから起つた寺院の組合に属してゐて、此組合は宗門の師匠に対して絶対の服従をしてゐるのである。
 此長老の師匠は名高いアンブロジウスである。アンブロジウスの師匠はマカリウスである。マカリウスの師匠はレオニダスである。レオニダスの師匠はパイジウス・ヱリチユコウスキイである。
 ステパンは此長老の徒弟になつた。併しこゝでもステパンは人に傲(おご)る癖を出さずにはゐられなかつた。僧院内では誰よりもえらいと思つたのである。それからどんな場所で働く時にもさうであつたが、ステパンはこゝでも自分の内生活を出来るだけ完全にしようと企てゝ、さてその目的に向いて進む努力に面白みを感じてゐるやうになつた。
 前にも話した通に、ステパンは聯隊にゐた時、模範的士官であつた。そしてそれに満足しないで、何か任務を命ぜられると、それを十二分に遂行せずには置かなかつた。詰り軍隊に於ける実務の能力に、ステパンは新しいレコオドを作つたのである。さて今僧院に入つたところで、ステパンはこゝでも同じやうに成功しようと思つた。そこでいつも勉強する。慎深くする。謙遜する。柔和に振舞ふ。行為の上では勿論、思想の上でも色慾を制する。それから何事に依らず服従する。
 中にもこの服従と云ふものが、ステパンの為めには、僧院内の生活を余程容易(たやす)くしてくれる媒(なかだち)になつた。宮城のある都に近い僧院で、参詣する人の数も多いのだから、ステパンがさせられる用向にも、随分迷惑千万な事が少くない。さう云ふ時にステパンは何事にも服従しなくてはならぬと云ふ立場からその用向を辨ずることにしてゐる。宝物の番人をさせられても、唱歌の群に加へられても、客僧を泊らせる宿舎の帳面附をさせられても、ステパンは己は何事に付けても文句を言ふべき身の上ではない、服従しなくてはならないのだと、自分で自分を戒めて働いてゐる。それから何事に付けても懐疑の心が起りさうになると、これも師匠と定めた長老に対する服従と云ふところから防ぎ止めてしまふ。若しこの服従と云ふことがなかつたら、ステパンは日々(にち/\)の勤行(ごんぎやう)の単調で退屈なのに難儀したり、参詣人の雑沓をうるさがつたり、同宿の不行儀なのを苦に病んだりした事だらう。
 然るにステパンは服従を旨としてゐるので、さう云ふ一切の困難を平気で、嬉しげに身に受けてゐる。そればかりではない。その迷惑をするのが却て慰藉(なぐさめ)になり、たよりになるのである。ステパンはこんな独語(ひとりごと)を言つてゐる。「毎日何遍となく同じ祈祷の文句を聞かなくてはならぬのはどうしたわけだか、己には分らない。併し兎に角さうしなくてはならないのだ。だから己にはそれが難有い」と云つてゐる。或る時師匠がステパンに言つて聞かせた。「人間は体を養ふ為めに飲食をすると同じ事で、心を養ふ為めに心の飲食をしなくてはならぬ。それが寺院での祈祷だ」と云ふのである。ステパンはそれを聞いて信用した。そこで朝早く眠たいのに床から起されて勤行に出て往つても、それがステパンの為めに慰安になり、又それに依つて歓喜を生ずることになるのである。その外自分が誰にでも謙遜してゐると云ふ意識も、師匠たる長老に命ぜられて自分のするだけの事が一々規律に□(かな)つて無瑕瑾(むかきん)だと云ふ自信も、ステパンに歓喜を生ぜさせるのである。
 ステパンはこんな風に自分の意思を抑制する事、自分の謙徳を増長する事などに次第に力を籠めてゐたが、それだけでは満足する事が出来なかつた。ステパンはその外一切のクリスト教の徳義を実行しようとした。そして最初にはそれが格別困難ではないやうに思はれた。
 ステパンは財産を挙げて僧院に贈与した。そしてそれを惜しいとも思はなかつた。懶惰と云ふものは生来知らない。自分より眼下(めした)になつてゐる人に対して謙遜するのは、造作もないばかりではなく、却て嬉しかつた。一歩進んで金銭上の利慾と、肉慾とを剋伏(こくふく)することも、余り骨は折れなかつた。中にも肉慾は長老がひどく恐ろしいものだと云つて戒めてくれたのに、自分が平気でそれを絶つてゐられるのが嬉しかつた。只許嫁(いひなづけ)のマリイの事を思ひ出すと煩悶する。只マリイと云ふ人の事を思ふのがつらいばかりではない。若しあの話を聞かずに結婚したら、その後どうなつたゞらうと考へて見ると、その想像が意外にも自分の遁世を大早計(だいさうけい)であつたかの如く思はせるのである。ステパンは不随意に陛下の或るおもひものゝ成行を考へ出す。その女は後に人の女房になつて家庭を作つてから、妻としても母としても立派なものであつた。その夫は顕要の地位にをつて人に尊敬せられ、そして前の過を悔いる為めに珍らしい善人になつた女房を持つてゐたのである。
 時としてはステパンの心が冷静になつて、そんな妄想(まうざう)が跡を絶つてしまふ。そんな時に前に言つたやうな妄想を思ひ出して見ると、自分がそれに負けずに、誘惑に打ち勝つたのが嬉しくなる。
 それかと思ふと、ステパンが為めには又悪い日が来ることがある。その時ステパンは今の身の上で生涯の目的にしてゐる信仰を忘れはしないが、どうも今日(こんにち)僧院でしてゐる事が興味のないものになつてしまふ。そんな時には自分の信仰の内容を現前(げんぜん)せしめようとしてもそれが出来ない。その代りに悲しい記憶が呼び出されて来る。そして自分の遁世したのを後悔するやうになつて来る。
 そんな時にはステパンは服従と労作と祈祷との三つを唯一の活路とするより外はない。そんな時の祈祷には額を土に付けるやうにして、又常よりも長い間文句を唱へてゐる。その癖只口で唱へるだけで、霊は余所(よそ)に逸(そ)れてゐる。そんな時が一日か二日かあつて、そのうち自然に過ぎ去つてしまふ。その一日か二日がステパンが為めには恐ろしくてならない。なぜと云ふに自分の意志の下にも立たず、神の威力の下にも立つてゐず、何物とも知れぬ不思議な威力が自分を支配してゐるらしく思はれるからである。さてさう云ふ日にはどうしようかと、自分で考へて見たり、又長老に意見を問うて見たりしたが、詰り長老の指図に従つて専ら自分で自分を制して、別に何事をも行はず、時の過ぎ去るのを待つてゐるより外ない。そんな時にはステパンは自分の意志に従つて生活せずに、長老の意思に従つて生活するやうに思つてゐる。そしてそこに慰安を得てゐるのである。
 先づこんな工合で、ステパンは最初に身を投じた僧院に七年間ゐた。その間で、第三年の末に院僧の列に加へられて、セルギウスと云ふ法号を貰つた。此時の儀式がセルギウスの為めには、内生活の上の重大な出来事として感ぜられた。それまでにもセルギウスは聖餐を戴く度に慰安を得て心が清くなる様に思つたが、今院僧になつて自分で神に仕へる事になつて見ると、贄卓(にへづくゑ)に贄を捧げる時、深い感動と興奮とを覚えて来るのである。然るにさう云ふ感じが時の立つに連れて次第に鈍くなつた。今度は例の悪い日が来て、精神の抑圧に逢つて、ふと此贄を捧げる時の感動と興奮とが、いつか消え失せてしまふだらうと思つた。果して暫くするうちに、尊(たつと)い儀式をする時の感じが次第に弱くなつた末に、とう/\只の習慣で贄を捧げてしまふやうになつた。
 僧院に入(い)つてから七年目になつた時である。セルギウスは万事に付けて退屈を覚えて来た。学ぶだけの事は皆学んでしまつた。達せられるだけの境界には総て達してしまつた。もう何もして見る事がなくなつたのである。
 その代りにステパンは世間を脱離したと云ふ感じが次第に強くなつた。丁度その頃母の死んだ訃音(ふいん)と、マリイが人と結婚した通知とに接したが、ステパンはそれにも動かされなかつた。只内生活に関してのみ注意し、又利害を感じてゐるのである。
 院僧になつてから四年立つた時、当宗の管長から、度々優遇せられたことがある。そのうち長老からこんな噂を聞かせられた。それは若し上役に昇進させられるやうな事があつても辞退してはならぬと云ふ事であつた。此時僧侶の間で最も忌むべき顕栄を干(もと)める念が始めてステパンの心の中(うち)に萌(きざ)した。間もなくステパンは矢張都に近い或る僧院に栄転して一段高い役を勤めることを命ぜられた。ステパンは一応辞退しようとしたが、長老が強ひて承諾させた。ステパンはとう/\服従して、長老に暇乞をして新しい僧院に移つた。
 都に近い新しい僧院に引き越したのは、ステパンの為めには重大な出来事であつた。それは種々の誘惑が身に迫つて来て、ステパンは極力それに抗抵しなくてはならなかつたからである。
 前の僧院にゐた時は、女色(ぢよしよく)の誘惑を受けると云ふことはめつたになかつた。然るに今度の僧院に入(い)るや否や、この誘惑が恐ろしい勢力を以て肉迫して来て、然も具体的に目前に現はれたのである。
 その頃品行上評判の好くない、有名な貴夫人があつた。それがセルギウスに近づかうと試みた。セルギウスに詞を掛け、遂に自分の屋敷へ請待(しやうだい)した。セルギウスはそれをきつぱり断つた。併しその時自分の心の底にその女に近づきたい欲望が不遠慮に起つたので、我ながら浅ましく又恐ろしく思つた。セルギウスは余りの恐ろしさにその顛末を前の僧院の長老に打ち明けて、どうぞ力になつて自分を堕落させないやうにして貰ひたいと頼んだ。セルギウスはそれだけではまだ不安心のやうに思つたので、自分に付けられてゐる見習の僧を呼んで、それに恥を忍んで自分の情慾の事を打ち明けて、どうぞこれからは己が勤行に往くのと、それから懺悔に往くのとの外、決してどこへも往かぬやうに、側で見張つてゐてくれと言ひ含めた。
 新しい僧院に入つてから、セルギウスは今一つの難儀に出逢つた。それは今度の僧院の長老が自分の為めにひどく虫の好かぬ男だと云ふことである。此長老は頗る世間的な思想を持つてゐる、敏捷な男である。そして常に僧侶仲間の顕要な地位を得ようと心掛けてゐる。セルギウスはどうかして自分の心を入れ替へて今の長老を嫌はぬやうになりたいと努力した。その結果セルギウスは表面的には平気で交際することが出来るやうになつた。併しどうしても心の底では憎まずにはゐられない。そして或る時この憎悪の情がとう/\爆発してしまつた。
 それは此僧院に来てからもう二年立つた時の事であつた。聖母の恩赦の祭日に本堂で夜のミサが執行(しゆぎやう)せられた。参詣人は夥(おびたゞ)しかつた。そこで長老が儀式をした。セルギウスは自分の持場に席を占めて祈祷をしてゐた。いつもかう云ふ場合にはセルギウスは一種の内生活の争闘を閲(けみ)してゐる。殊に本堂で勤行をするとなると、その争闘を強く起してゐる。争闘と云ふのは別ではない。参詣人の中の上流社会、就中(なかんづく)貴夫人を見て、セルギウスは激怒を発する。なぜかと云ふにさう云ふ上流の人達が僧院に入(い)り込んで来る時には、兵卒が護衛して来て、それが賤民を押し退ける。それから貴夫人達はどれかの僧侶に指さしをして囁き交す。大抵指さゝれるのは自分と、今一人の美男の評判のある僧とである。そんな事を見るのが嫌なので、セルギウスは周囲の出来事に対して、総て目を閉ぢて見ずにゐようとする。セルギウスは譬へば馬車の馬に目隠しをするやうに、贄卓の蝋燭の光と、聖者の画像と、それから祈祷をしてゐる人々との外は何物をも見まいとする。それから耳にも讃美歌の声と祈祷の文句との外には何物をも聞くまいとする。又意識の上でも、いつも自分が聞き馴れた祈祷の詞を聞いたり、又繰り返して唱へたりする時、きつと起つて来る一種の感じ、即ち任務を尽してゐると自覚した時に起る忘我の感じの外、何物をも感じまいとしてゐる。
 けふもセルギウスはいつものやうに持場に立つてゐた。額を土に付けるやうに身を屈めた。手で十字を切つた。そして例の怒が起りさうになると、それを剋伏しようとして努力した。或は冷静に自ら戒めて見たり、或は故意に自分の思想や感情をぼかしてゐようとしたりするのである。
 そこへ同宿のニコデムスと云ふ院僧が歩み寄つた。ニコデムスは僧院の会計主任である。これも兎角セルギウスに怒(いかり)を起させる傾(かたむき)があるので、セルギウスは不断恐しい誘惑の一つとして感じてゐたのである。なぜかと云ふにセルギウスが目にはどうも、ニコデムスは長老に媚び諂(へつら)つてゐるやうに見えてならない。さてそのニコデムスが側へ来て、叮嚀に礼をして云つた。長老様の仰せですが、ちよつと贄卓のある為切(しきり)まで御足労を願ひたいと云つたのである。
 セルギウスは法衣(はふえ)の領(えり)を正し、僧帽を被(かぶ)つて、そろ/\群集の間を分けて歩き出した。
 Lise(リイズ), regarde(ルガルト) □(ア) droite(ドロアト), c'est(セエ) lui(リユイ)!(リイズさん。右の方を御覧よ。あの人よ。)かう云ふ女の声が耳に入つた。
 O□(ウウ), o□(ウウ)? Il(イル) n'est(ネエ) pas(パア) tellement(テルマン) beau(ボオ)!(どこ、どこ。あの人はそんなに好い男ぢやないわ。)今一人の女のかう云ふのが聞えた。
 セルギウスは自分の事を言ふのだと知つてゐる。それで今の対話を聞くや否や、いつも誘惑に出逢ふ度に繰り返す詞を口に唱へた。「而して我等を誘惑に導き給ふな」と云ふ詞である。セルギウスはそれを唱へながら項(うなじ)を垂れ、伏目になつて進んだ。贄卓の前の一段高い所を廻つて、讃美歌の発唱の群を除けて進んだ。発唱の群は丁度聖者の画像のある壁の所に出てゐたのである。セルギウスはやう/\贄卓の為切の北口から進み入つた。この口から這入る時は、敬礼をするのが式である。セルギウスは式に依つて聖像の前で頭を低く下げた。さて顔を上げて、体は動かさずに、長老の横顔を伺つた。その時長老は今一人の光り輝く男と並んで立つてゐた。
 長老は式の法衣を着て壁の側に立つてゐる。ミサの上衣のはづれから肥え太つた手と短い指とを出して、それを便々たる腹の上に重ねてゐた。セルギウスが横から見た時、長老は微笑みながら右の手で法衣の流蘇(ふさ)をいぢつて、相手の男と話をし出した。その男は隊外将官の軍服を被てゐる。セルギウスは軍人であつたから服装を見ることは馴れてゐる。そこで肩章や記章の文字をすぐに見分ける事が出来た。この将官は自分の付いてゐた聯隊で聯隊長をしてゐた男である。今は定めて余程高い地位に陞(のぼ)つてゐることだらう。
 セルギウスは一目見てかう云ふ事を悟つた。それはこの高級武官が自分の昔の上官であつたと云ふ事を、長老が知つてゐて、それで長老の肥え太つた赤ら顔と禿頭(はげあたま)とが喜に赫いてゐると云ふ事である。
 セルギウスはそれだけでも侮辱せられたやうに感じた。そこで長老が何を言ふかと思ふと、只その将官が見たいと云ふので呼んだのだと云つた。「昔聯隊で同僚であつたあなたに逢ひたいと云はれたので」と、長老は将官の詞を取り次いだ。此時セルギウスは一層強烈に侮辱を感ぜずにはゐられなかつた。
 将官は右の手をセルギウスが前に伸した。
「久し振りでお目に掛かりますね。あなたが法衣をお着になつたところを見るのは、意外の幸です。昔の同僚をお忘にはなりますまいね。」
 白髪で囲まれた長老の笑顔は将官の詞を面白がつてゐるやうに見える。それから将官の叮嚀に化粧をした顔には、得意の色が浮んで、その口からは酒の匂、その頬髯からは葉巻煙草の匂がする。総て此等の事を、セルギウスは鞭で打たれるやうに感じた。
 セルギウスは長老に向つて再び敬礼した。そして云つた。「長老様のわたくしをお呼になつた御用は。」かう云つた時のセルギウスが顔と目との表情には「なぜか」と云ふ問が現はれてゐた。
 長老は答へた。「なに。只閣下があなたを見たいと云はれたからですよ。」
 セルギウスの顔は真つ蒼になつて、物を言ふ時唇が震えた。「わたくしは世間の誘惑を避けようと思つてそれで社会から身を引いたのでございます。それに只今主の礼拝堂で、祈祷の最中に、なぜ誘惑がわたくしに近づくやうにお取計らひになりましたか。」
 長老の顔は火のやうになつて、額に皺が寄つた。「もう宜しいから、持場へお帰なさい。」
 その晩にはセルギウスは徹夜して祈祷をした。そして心密(こゝろひそか)に決するところがあつて、翌朝長老と同宿一同とに謝罪した。自分の驕慢を詫びたのである。それと同時にセルギウスは此僧院を去ることにして、前にゐた僧院の長老に手紙を遣つて、自分が帰つて往くから引き取つて貰ひたいと頼んだ。手紙にはこんな事が書いてあつた。自分は志が堅固でなくて、とてもお師匠様なしには、誘惑と戦つて行くわけに行かない。それに罪の深い驕慢の心が起つたのを悔いると云つてあつた。
 折り返しての便に長老の返書が来た。如何にも此度の事件はおもにお前の驕慢から生じてゐるに相違ない。お前のおこつた動機を察するにかうである。お前は地位を進めて遣らうと云つた時辞退した。あれなども神を思つての謙遜からでなくて、自尊の心からである。「見てくれ。己はどんな人間だと思ふ。己はなんにも欲しがりはしない」と云ふ心持である。そんな心持でゐるから新しい僧院の長老の所作を見た時、平気でゐることが出来なかつたのである。「己は神の栄誉の為めに一切の物を擲つた。それにこゝでは己を珍らしい獣のやうに見せ物にする」と思つたのだ。お前が真に神の栄誉の為めに、一切の世間の名聞(みやうもん)を棄てゝゐるなら、その位の事に逢つたつて、平気でゐられる筈である。お前の心にはまだ世間の驕慢が消え失せずにゐる。わたしはお前の事を委(くは)しく考へて見た。そしてお前の為めに祈祷をした。そこでわたしの得た神のお告はかうだ。これまでのやうに暮してゐて、身を屈するが好いと云ふのである。それと同時に己は外の報告を得た。それは山に隠れてゐた僧のイルラリオンが聖なる生涯を閲(けみ)し尽して草庵の中(うち)で亡くなつたと云ふのである。イルラリオンは草庵に十八年住んでゐた。あの山の首座が己に訃音を知らせると同時に、あの跡を引き受けて草庵に住んでくれるやうな僧はあるまいかと問ひ合せてよこした。丁度そのところへお前の手紙が来たのだ。そこで己はタムビノ僧院のバイシウス首座に手紙の返事を遣つた。お前の名を紹介して置いた。お前は今からバイシウス長老の所へ往つて、イルラリオンの跡の草庵に住まふやうに願ふが好い。これはイルラリオンのやうな清浄な人の代になるお前だと云ふのではない。あんな寂(さみ)しい所にゐたら、お前がその驕慢を棄てることが出来ようかと思ふのである。わたしはどうぞ神がお前を祝福して下さるやうにと祈つてゐる。
 セルギウスは前の僧院の長老の詞に従つた。そして今の僧院の長老に右の手紙を見せて、転宿の許可を得た。それからこれまで自分の住んでゐた宿房とその中にある器財とを皆僧院に引き渡して置いて、タムビノの山をさして出立した。
 山の首座は素(もと)商人で遁世した人である。此人がセルギウスを引見して、なんの変つた扱をもせずに、只あたり前の事のやうに寂しい草庵を引き渡してくれた。草庵と云ふのは山の半腹を横に掘り込んだ洞窟である。亡くなつた先住イルラリオンもそこに葬つてある。即ち洞窟の一番奥の龕(がん)が墓になつてゐて、その隣の龕が後住(ごぢう)の寝間になつてゐるのである。そこには藁を束ねた床がある。その外卓が一つ、聖像と書物数巻とを置いてある棚が一つある。扉は内から錠を卸すことが出来るやうにしてある。その扉の外面にも棚が吊つてあつて、これは毎日一度づゝ僧院から食事を持つて来て載せて置いてくれる棚である。
 セルギウスはとう/\山籠(やまごもり)の人になつてしまつた。

     三

 セルギウスが山籠をしてから六年目のことであつた。ロシアではクリスト復活祭の前にモステニツアと云つて一週間バタや玉子を食べて肉を断つてゐることがある。そのモステニツアに、タムビノに近い或る都会で、富有な男女の人々が集つて会食をした。此連中が食後に橇に乗つて近郊へ遊びに行かうと云ふことになつた。その人々は辯護士が二人、富有な地主が一人、士官が一人、それに貴夫人が四人であつた。夫人の一人は士官の妻(さい)で、今一人は地主の妻である。三人目の女は地主の同胞(どうはう)で未婚の娘である。さて四人目の女が一度離婚したことのある人で、器量が好くて財産がある。そしていつも常軌を逸した事をして市中の人を驚かしてゐるのである。
 その日は上天気で、橇に乗つて往く道は好い。市中を離れて十ヱルストばかりの所に来て、一同休んだ。その時こゝから引き返さうか、もつと先まで往かうかと云ふ評議があつた。
「一体此道はどこまで行かれる道ですか」とマスコフキナが問うた。例の離婚した事のある美人である。
「これからもう十二ヱルスト行けばタムビノです」と辯護士の一人が答へた。これは平生マスコフキナの機嫌を取つてゐる男である。
「さう。それから先は。」
「それから先はL市に往くのです。タムビノの僧院の側を通つて往くのです。」
「そんならその僧院はあのセルギウスと云ふ坊さんのゐる所ですね。」
「さうです。」
「あれはステパン・カツサツキイと云つた士官の出家したのでしたね。評判の美男ですわ。」
「その男です。」
「皆さん、御一しよにカツサツキイさんの所まで此橇で往きませうね。そのタムビノと云ふ所で休んで何か食べることにいたしませうね。」
「そんなことをすると日が暮れるまでに内へ帰ることは出来ませんよ。」
「構ふもんですか。日が暮れゝばカツサツキイさんの所で泊りますわ。」
「それは泊るとなれば草庵なんぞに寝なくても好いのです。あそこの僧院には宿泊所があります。而も却々(なか/\)立派な宿泊所です。わたしはあのマキンと云ふ男の辯護をした時、一度あそこで泊りましたよ。」
「いゝえ。わたくしはステパン・カツサツキイさんの所で泊ります。」
「それはあなたが幾ら男を迷はすことがお上手でもむづかしさうです。」
「あなたさうお思なすつて。何を賭けます。」
「宜しい。賭をしませう。あなたがあの坊さんの所でお泊りになつたら、なんでもお望の物を献じませう。」
「A(ア) discr□tion(ヂスクレシヨン)」(内証ですよ。)
「あなたの方でも秘密をお守でせうね。宜しい。そんならタムビノまで往くとしませう。」
 この対話の後に一同は持つて来た生菓子やその外甘い物を食べて酒を飲んだ。それから骨を折らせる馭者にもヲドカを飲ませた。貴夫人達は皆白い毛皮を着た。馭者仲間では、誰が先頭に立つかと云ふので喧嘩が始まつた。とう/\一人の若い馭者が大胆に橇を横に向けて、長い鞭を鳴しながら掛声をするかと思ふと、自分より前に止つてゐた橇を乗り越して走り出した。鐸(すゞ)が鳴る。橇の底木の下で雪が軋(きし)る。
 橇は殆ど音も立てずに滑つて行く。副馬(ふくば)は平等(へいとう)な駆歩を蹈んで橇の脇を進んで行く。高く縛り上げた馬の尾が金物で飾つた繋駕具(けいかぐ)の上の方に見えてゐる。平坦な道が自分で橇の下を背後(うしろ)へ滑つて逃げるやうに見える。馭者は力強く麻綱を動かしてゐる。
 貴夫人マスコフキナと向き合つて腰を掛けてゐるのは辯護士の一人と士官とである。二人はいつものやうな誇張(くわちやう)した自慢話をしてゐる。マスコフキナは毛皮に深く身を埋めて動かずに坐つてゐる。そして心の中(うち)ではこんな事を思つてゐる。「此人達の様子を見てゐれば、いつも同じ事だ。同じやうに厭な挙動で厭な話をしてゐる。顔は赤くなつて、てら/\光つて、口からは酒と煙草の臭がする。口から出る詞もいつも同じやうで、その思想は只一つの穢(けが)らはしい中心点の周囲をうろついてゐる。かう云ふ人は皆自己に対する満足を感じてゐる。世の中はかうしたものだと思つてゐる。自分が死ぬるまでかうしてゐるのを別に不思議だとは思はない。わたしはこんな人達を傍(はた)で見てゐるのにもう飽々した。わたしは退屈でならない。わたしはどうしてもこんな平凡極まる境界(きやうがい)を脱して、新しい境界に蹈み込んで見ずにはゐられない。たしかサラトフでの出来事であつたかと思ふ。遊山(ゆさん)に出た一組が凍え死んだ事がある。若し此人達がそんな場合に出逢つたら、どんな事をするだらう。どんな態度を取るだらう。言ふまでもなく狗(いぬ)にも劣つた卑劣な挙動をするだらう。どいつもどいつも自分の事ばかり考へて身を免れようとするだらう。とは云ふものゝ、わたしだつて同じやうな卑劣な事をするだらう。それはさうだが、わたしは此人達より優れた所が一つある。兎に角わたしは器量が好い。それだけは此人達が皆認めてゐて、わたしに一歩譲つてゐるのだ。そこで例の坊さんだが、あの人はどうだらう。此わたしの器量の好い所が、あの坊さんには分らないだらうか。いや/\。それは分るに違ひない。男と云ふものに一人としてそれの分らない男はない。どの男をも通じて、それだけの認識力は持つてゐる。去年の秋の頃だつけ。あの士官生徒は本当に可笑(をか)しかつた。あんな馬鹿な小僧つてありやしない。」
 こんな事を考へてゐたマスコフキナ夫人は向うにゐる男の一人に声を掛けた。「イワン・ニコライエヰツチユさん。」
「なんですか。」
「あの人は幾つでせう。」
「あの人とは誰ですか。」
「ステパン・カツサツキイです。」
「さうですね。四十を越してゐませうよ。」
「さう。誰にでも面会しますか。」
「えゝ。だがいつでも逢ふと云ふわけでもないでせう。」
「あなた御苦労様ながら、わたしの足にもつとケツトを掛けて頂戴な。さうするのぢやありませんよ。ほんとにあなたはとんまですこと。もつと巻き付けるのですよ。もつとですよ。それで好うございます。あら。なにもわたしの足なんぞをいぢらなくたつて好うございます。」
 連中はこんな風で山籠の人のゐる森まで来た。
 その時マスコフキナ夫人は一人だけ橇を下りて、外の人達にはその儘もつと先まで乗つて往けと云つた。一同夫人を抑留しようとしたが、夫人は不機嫌になつて、どうぞ自分にだけは構はないで貰ひたいと言ひ放つた。
     ――――――――――――
 セルギウスが山籠をしてからもう六年経つてゐる。セルギウスは当年四十九歳になつてゐる。山籠の暮しは却々(なか/\)つらい。断食をしたり、祈祷をしたりするのがつらいのではない。そんなことはセルギウスの為めには造作(ぞうさ)はない。つらいのは、思も掛けぬ精神上の煩悶があるからである。それに二様の原因がある。その一つは懐疑で、その一つは色慾である。
 セルギウスは此二つのものを、二人の敵だと思つてゐる。その実は只一つで、懐疑の剋伏(こくふく)せられた瞬間には色慾も起らない。併しセルギウスは兎に角悪魔二人を相手にして戦ふ積りで、別々に対抗するやうにしてゐる。
 その癖二人の敵はいつも聯合して襲つて来るのである。
 セルギウスはこんな事を思つてゐる。「あゝ。主よ。なぜあなたはわたくしに信仰を授けて下さいませんか。色慾なんぞは、聖者アントニウス、その外の人々も奮闘して剋伏しようとしたのです。併し信仰だけは聖者達が皆持つてゐました。それにわたくしは或る数分間、乃至或る数時間、甚だしきに至つては或る数日間、全く信仰と云ふものを無くしてゐます。世界がどんなに美しく出来てゐたつて、それが罪の深いものであつて、それを脱離しなくてはならないものである限は、なんの役に立ちますか。主よ。あなたはなんの為めにそんな誘惑を拵へました。あゝ。誘惑と云ふものも考へて見れば分らなくなります。わたくしが今世界の快楽を棄てゝ、彼岸に何物かを貯へようとしますのに、その彼岸に若し何物も無かつた時は、これも恐しい誘惑ではございませんか。」こんな風に考へてゐるうちに、セルギウスは自分で自分が気味が悪く、厭になつて来た。「えゝ。己は人非人だ。これで聖者にならうなぞと思つてゐるのは何事だ。」セルギウスはかう云つて自分を嘲(あざけ)つた。そして祈祷をし始めた。
 ところがセルギウスは祈祷の最初の文句を口に唱へるや否や、心に自分の姿が浮んだ。それは前に僧院にゐた時の姿である。法衣(はふえ)を着て、僧帽を被(かぶ)つた威厳のある立派な姿である。セルギウスは頭を掉(ふ)つた。
「いや/\。これは間違つてゐる。これは迷だ。人を欺くことなら出来もしようが、自ら欺くことは出来ぬ。又主を欺くことも出来ぬ。なんの己に威厳なぞがあるものか。己は卑い人間だ。」かう思つてセルギウスは法衣の裾をまくつて、下穿(したばき)に包まれてゐる痩せた脚を眺めた。それから裾を下して、讃美歌集を読んだり、手で十字を切つたり、額を土に付けて礼をしたりし出した。セルギウスは「此床(とこ)我が墓なるべきか」と読んだ。それと同時に悪魔が自分に囁くやうに思はれた。「独寝(ひとりね)の床は矢張墓だ、虚偽だ」と云ふ囁きである。それと同時にセルギウスが目の前には女の肩が浮んだ。昔一しよになつてゐた事のある寡婦の肩である。セルギウスは身震をしてこの想像を斥けようとした。そして読み続けた。今度は僧院の清規(せいき)を読んだ。それが済んで福音書を手に取つて開いた。すると丁度度々繰り返したので、諳誦する事の出来るやうになつてゐる文句が目の前に出た。「あゝ、主よ。我は信ず。我が不品行を救はせ給へ」と云ふ文句である。
 セルギウスは頭を擡(もた)げてあらゆる誘惑を払ひ除けようとした。譬へばぐらついてゐる物を固定して、均勢を失はせないやうにする如くに、セルギウスはゆらぐ柱を力にして自己の信仰を喚び起して、それと衝突したり、それを押し倒したりせぬやうに、そつと身を引いた。いつもの馬の目隠しのやうなものが、又自分の限界を狭(せば)めてくれた。それでセルギウスは強ひて自ら安んずる事が出来た。
 セルギウスが口には子供の時に唱へてゐた祈祷の詞が上つて来た。「あゝ。愛する主よ。我御身に願ふ」と云ふ詞である。此時セルギウスの胸が開けて、歓喜の情が起つて来た。そこで十字を切つて幅の狭いベンチの上に横になつた。これは安息の時の台にするベンチで、枕には夏の法衣を脱いでまろめて当てるのである。
 セルギウスはうと/\した。夢現(ゆめうつゝ)の境で、橇の鐸(すゞ)の音が聞えたやうに思つたが、それが実際に聞えたのだか、そんな夢を見たのだか分らなかつた。そのうち忽ち草庵の扉を叩く音がしたので、はつきり目が覚めた。それでも自分で自分の耳を疑つて、身を起して傾聴した。その時又扉を叩いた。ぢき側の扉である。それと同時に女の声がした。
「あゝ。聖者達の伝記で度々読んだ事があるが、悪魔が女の姿になつて出て来ると云ふのは本当か知らん。たしかに今のは女の声だ。しかもなんと云ふ優しい遠慮深い可哀(かはい)らしい声だらう。えゝ。」セルギウスは唾をした。「いや。あれは只己にさう思はれるのだ。」かう云つて、セルギウスは居間の隅へ歩いて往つた。そこには祈祷をする台が据ゑてある。セルギウスはいつも為馴(しな)れてゐる儀式通りに膝を衝いた。体を此格好にしたゞけでも、もう慰藉(なぐさめ)になり歓喜を生ずるのである。セルギウスは俯伏(うつふし)になつた。髪の毛が顔に掛かつた。もう大分髪の毛のまばらになつた額際(ひたひぎは)を、湿つて冷たい床に押し当てた。そして同宿であつた老僧ビイメンの教へてくれた、悪魔除の頌(じゆ)を読み始めた。それから筋張つた脛で、痩て軽くなつた体を支へて起き上つて、跡を読み続けようとした。併しまだ跡を読まぬうちに、覚えず何か物音がしはせぬかと耳を聳(そばだ)てた。
 四隣闃(げき)として物音がない。草庵の隅に据ゑてある小さい桶の中へ、いつものやうに点滴が落ちてゐる。外は霧が籠めて真つ闇になつてゐて雪も見えない。墓穴の中のやうな静けさである。
 その時忽ち何物かゞさら/\と窓に触れて、はつきりした女の声が聞えた。目で見ないでも、美人だと云ふことが分るやうな声である。
「どうぞクリスト様に懸けてお願申します。戸をお開けなすつて。」
 セルギウスは全身の血が悉(こと/″\)く心の臓に流れ戻つて、そこに淀んだやうな気がした。息が詰つた。やう/\の事で、「而して主は復活し給ふべし、敵を折伏し給ふべし」と唱へた。地獄から現れた悪霊を払ひ除けようと思つたのである。
「わたくしは悪魔なんぞではございません。只あたりまへの罪の深い女でございます。あたりまへの意味で申しても、又形容して申しても、道に踏み迷つた女でございます。」初め言ひ出した時から、なんだかその詞を出す唇は笑つてゐるらしかつたが、とう/\こゝまで言つて噴き出した。それからかう云つた。
「わたくしは寒くて凍えさうになつてゐますのですよ。どうぞあなたの所にお入れなすつて下さいまし。」
 セルギウスは顔を窓硝子(まどガラス)に当てた。併し室内の燈火(ともしび)の光が強く反射してゐて、外は少しも見えなかつた。そこで両手で目を囲つて覗いて見た。外は霧と闇と森とである。少し右の方を見ると、成程女が立つてゐる。女は毛の長い、白い毛皮を着て、頭には鳥打帽子のやうな帽子を被つてゐる。その下から見えてゐる顔は非常に可哀らしい、人の好さゝうな、物に驚いてゐるやうな顔である。それがずつと窓の近くへ寄つて首を屈(かが)めて乗り出して来た。二人は目を見合せた。そして互に認識した。これは昔見た事のある人だと云ふのではない。二人はこれまで一度も逢つた事がないのである。併し目を見交(みかは)した所で、互に相手の心が知れたのである。殊にセルギウスの方で女の心が知れた。只一目見たばかりで、悪魔ではないかと云ふ疑は晴れた。只の、人の好い、可哀らしい、臆病な女だと云ふことが知れた。
「あなたはどなたですか。なんの御用ですか。」セルギウスが問うた。
 女は我儘らしい口吻(こうふん)で答へた。「兎に角戸を開けて下さいましな。わたくしは凍えてゐるのでございますよ。道に迷つたのだと云ふことは、さつき云つたぢやありませんか。」
「でもわたしは僧侶です。こゝに世を遁れて住んでゐるのです。」
「だつて好いぢやありませんか。開けて下さいましよ。それともわたくしがあなたの庵(いほり)の窓の外で、あなたが御祈祷をして入らつしやる最中に、凍え死んでも宜しいのですか。」
「併しこゝへ這入つてどうしようと。」
「わたくしあなたに食ひ付きはいたしません。どうぞお開けなすつて。凍え死ぬかも知れませんよ。」段々物を言つてゐるうちに、女は実際気味が悪くなつたと見えて、しまひは殆ど泣声になつてゐる。
 セルギウスは窓から引つ込んだ。そして荊(いばら)の冠(かんむり)を戴いてゐるクリストの肖像を見上げた。「主よ。お助け下さい。主よ。お助け下さい。」かう云つて指で十字を切つて額を土に付けた。それから前房に出る戸を開けた。そこで手探に鉤(かぎ)のある所を捜して鉤をいぢつてゐた。
 その時外に足音が聞えた。女が窓から戸口の方へ来たのである。突然女が「あれ」と叫んだ。
 セルギウスは女が檐下(のきした)の雨落(あまおち)に足を踏み込んだと云ふ事を知つた。手に握つてゐる戸の鉤を撥ね上げようとする手先が震えた。
「なぜそんなにお手間が取れますの。入れて下すつたつても好いぢやありませんか。わたくしはぐつしより濡れて、凍えさうになつてゐます。あなたが御自分の霊の助かる事ばかり考へて入らつしやるうちに、わたくしはこゝで凍え死ぬかも知れませんよ。」
 セルギウスは扉を自分の方へうんと引いて、鉤を撥ね上げた。それから戸を少し開けると、覚えずその戸で女の体を衝いた。「あ。御免なさいよ。」これは昔貴夫人を叮嚀に取扱つた時の呼吸が計らず出たのであつた。
 女は此詞を聞いて微笑(ほゝゑ)んだ。「これは思つたよりは話せる人らしい」と心の中(うち)に思つたのである。「ようございますよ。ようございますよ。」かう云ひながら、女はセルギウスの側を摩(す)り抜けるやうにして中に這入つた。「あなたには誠に済みません。こんな事を思ひ切つていたす筈ではないのですが、実は意外な目に逢ひましたので。」
「どうぞ」とセルギウスは女を通らせながら云つた。暫く嗅いだ事のない上等の香水の匂が鼻をくすぐつた。
 女は前房を通り抜けて、庵室に這入つた。
 セルギウスは外の扉を締めて鉤を卸さずに、女の跡から帰つて来た。「イエス・クリストよ、神の子よ、不便(ふびん)なる罪人(つみびと)に赦し給へ。主よ不便なる罪人に赦し給へ。」こんな唱事(となへごと)を続け様(さま)にしてゐる。心の中(うち)でしてゐるばかりでなく、唇まで動いてゐる。それから「どうぞ」と女に言つた。
 女は室の真ん中に立つてゐる。着物から水が点滴(あまだれ)のやうに垂れる。それでも女の目は庵主の姿を見て、目の中(うち)に笑を見せてゐる。「御免なさいよ。あなたのかうして行ひ澄ましてお出なさる所へお邪魔に来まして済みませんね。でも御覧のやうな目に逢ひましたのですから、為方(しかた)がございません。実は町から橇に乗つて遊山に出ましたの。そのうちわたくし皆と賭をして、ヲロビエフスカから町まで歩いて帰ることになりましたの。ところが道に迷つてしまひましてね。わたくし若しあなたの御庵室の前に出て来なかつたら、それこそどうなりましたか。」女はこんな□(うそ)を衝いてゐる。饒舌(しやべ)りながらセルギウスの顔を見てゐるうちに、間が悪くなつて黙つてしまつた。女はセルギウスと云ふ僧を心にゑがいてゐたが、実物は大分違つてゐる。予期した程の美男ではない。併し矢張立派な男には相違ない。頒白(はんぱく)の髪の毛と頬髯とが綺麗に波を打つてゐる。鼻は正しい恰好をして、美しい曲線をゑがいてゐる。目は、真つ直に前を見てゐる時、おこつた炭火のやうに赫いてゐる。兎に角全体が強烈な印象を与へるのである。
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