夢殿
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著者名:楠山正雄 

     一

 むかし日本(にほん)の国(くに)に、はじめて仏(ほとけ)さまのお教(おし)えが、外国(がいこく)から伝(つた)わって来(き)た時分(じぶん)のお話(はなし)でございます。
 第(だい)三十一代(だい)の天子(てんし)さまを用明天皇(ようめいてんのう)と申(もう)し上(あ)げました。この天皇(てんのう)がまだ皇太子(こうたいし)でおいでになった時分(じぶん)、お妃(きさき)の穴太部(あなとべ)の真人(まひと)の皇女(おうじょ)という方(かた)が、ある晩(ばん)御覧(ごらん)になったお夢(ゆめ)に、体(からだ)じゅうからきらきら金色(こんじき)の光(ひかり)を放(はな)って、なんともいえない貴(とうと)い様子(ようす)をした坊(ぼう)さんが現(あらわ)れて、お妃(きさき)に向(む)かい、
「わたしは人間(にんげん)の苦(くる)しみを救(すく)って、この世(よ)の中を善(よ)くしてやりたいと思(おも)って、はるばる西(にし)の方(ほう)からやって来(き)た者(もの)です。しばらくの間(あいだ)あなたのおなかを借(か)りたいと思(おも)う。」
 といいました。
 お妃(きさき)はびっくりなすって、
「そういう貴(とうと)いお方(かた)が、どうしてわたくしのむさくるしいおなかの中などへお入(はい)りになれましょう。」
 とおっしゃいますと、その坊(ぼう)さんは、
「いや、けっしてその気(き)づかいには及(およ)ばない。」
 と言(い)うが早(はや)いか踊(おど)り上(あ)がって、お妃(きさき)の思(おも)わず開(あ)けた口の中へぽんと跳(と)び込(こ)んでしまったと思(おも)うとお夢(ゆめ)はさめました。
 目(め)がさめて後(のち)お妃(きさき)は、喉(のど)の中に何(なに)か固(かた)くしこるような、玉(たま)でもくくんでいるような、妙(みょう)なお気持(きも)ちでしたが、やがてお身重(みおも)におなりになりました。
 さて翌年(よくねん)の正月元日(しょうがつがんじつ)の朝(あさ)、お妃(きさき)はいつものように御殿(ごてん)の中を歩(ある)きながら、お厩(うまや)の戸口(とぐち)までいらっしゃいますと、にわかにお産気(さんけ)がついて、そこへ安々(やすやす)と美(うつく)しい男(おとこ)の御子(みこ)をお生(う)みおとしになりました。召使(めしつか)いの女官(じょかん)たちは大(おお)さわぎをして、赤(あか)さんの皇子(おうじ)を抱(だ)いて御産屋(おうぶや)へお連(つ)れしますと、御殿(ごてん)の中は急(きゅう)に金色(こんじき)の光(ひかり)でかっと明(あか)るくなりました。そして皇子(おうじ)のお体(からだ)からは、それはそれは不思議(ふしぎ)なかんばしい香(かお)りがぷんぷん立(た)ちました。
 お厩(うまや)の戸(と)の前(まえ)でお生(う)まれになったというので、皇子(おうじ)のお名(な)を厩戸皇子(うまやどのおうじ)と申(もう)し上(あ)げました。後(のち)に皇太子(こうたいし)にお立(た)ちになって、聖徳太子(しょうとくたいし)と申(もう)し上(あ)げるのはこの皇子(おうじ)のことでございます。

     二

 さて太子(たいし)はお生(う)まれになって四月(よつき)めには、もうずんずんお口をお利(き)きになりました。明(あ)くる年(とし)の二月(がつ)十五日(にち)は、お釈迦(しゃか)さまのお亡(な)くなりになった御涅槃(ごねはん)の日でしたが、二歳(さい)になったばかりの太子(たいし)は、かわいらしい両手(りょうて)をお合(あ)わせになり、西(にし)の方(ほう)の空(そら)に向(む)かって、
「南無釈迦仏(なむしゃかぶつ)。」
 とお唱(とな)えになったので、おつきの人たちはみんなびっくりしてしまいました。
 太子(たいし)が六歳(さい)の時(とき)でした。はじめて朝鮮(ちょうせん)の国(くに)から、仏(ほとけ)さまのお経(きょう)をたくさん献上(けんじょう)してまいりました。するとある日(ひ)太子(たいし)は、天子(てんし)さまのお前(まえ)へ出て、
「外国(がいこく)からお経(きょう)がまいったそうでございます。わたくしに読(よ)ませて頂(いただ)きとうございます。」
 とお申(もう)し上(あ)げになりました。
 天皇(てんのう)はびっくりなすって、
「どうしてお前(まえ)にお経(きょう)が分(わ)かるだろう。」
 とおっしゃいますと、太子(たいし)は、
「わたくしはむかしシナの南岳(なんがく)という山に住(す)んでいて、長年(ながねん)仏(ほとけ)の道(みち)を修行(しゅぎょう)いたしました。こんど日本(にほん)の国(くに)に生(う)まれて来(く)ることになりましたから、むかしの通(とお)りまたお経(きょう)を読(よ)んでみたいと思(おも)います。」
 とお答(こた)えになりました。
 天皇(てんのう)ははじめて、なるほど太子(たいし)はそういう貴(とうと)い人の生(う)まれかわりであったのかとお悟(さと)りになって、お経(きょう)を太子(たいし)に下(くだ)さいました。
 太子(たいし)が八歳(さい)の年(とし)でした。新羅(しらぎ)の国(くに)から仏(ほとけ)さまのお姿(すがた)を刻(きざ)んだ像(ぞう)を献上(けんじょう)いたしました。その使者(ししゃ)たちが旅館(りょかん)に泊(とま)っている様子(ようす)を見(み)ようとお思(おも)いになって、太子(たいし)はわざと貧乏人(びんぼうにん)の子供(こども)のようなぼろぼろなお姿(すがた)で、町(まち)の子供(こども)たちの中に交じってお行きになりました。すると新羅(しらぎ)の使者(ししゃ)の中に日羅(にちら)という貴(とうと)い坊(ぼう)さんがおりましたが、きたない童(わらべ)たちの中に太子(たいし)のおいでになるのを目ざとく見付(みつ)けて、
「神(かみ)の子がおいでになる。」
 といって、太子(たいし)に近(ちか)づこうといたしました。太子(たいし)はびっくりして逃(に)げて行こうとなさいました。日羅(にちら)はあわてて履(くつ)もはかず駆(か)け出(だ)してお後(あと)を追(お)いかけました。そして太子(たいし)の前(まえ)の地(じ)びたにぺったりひざをついたままうやうやしく、
「敬礼救世(きょうらいぐぜ)観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)。妙教流通(みょうきょうるづう)東方日本国(とうほうにっぽんこく)。」
 と申(もう)しますと、日羅(にちら)の体(からだ)から光明(こうみょう)がかっと射(さ)しました。そして太子(たいし)の額(ひたい)からは白(しろ)い光(ひかり)がきらりと射(さ)しました。日羅(にちら)の言(い)った言葉(ことば)は、人間(にんげん)の世(よ)の苦(くる)しみを救(すく)って下(くだ)さる観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)に、そしてこの度(たび)東(ひがし)の果(は)ての日本(にほん)の国(くに)の王(おう)さまに生(う)まれて、仏(ほとけ)の教(おし)えをひろめて下(くだ)さるお方(かた)に、つつしんでごあいさつを申(もう)し上(あ)げますという意味(いみ)でございます。
 大きくおなりになると、太子(たいし)は日羅(にちら)の申(もう)し上(あ)げたように、仏(ほとけ)の教(おし)えを日本(にほん)の国中(くにじゅう)におひろめになりました。はじめ外国(がいこく)の教(おし)えだといってきらっていた者(もの)も、太子(たいし)がねっしんに因果応報(いんがおうほう)ということのわけを説(と)いて、
「人間(にんげん)のいのちは一代(だい)だけで終(おわ)るものではない。前(まえ)の世(よ)とこの世(よ)と後(のち)の世(よ)と、三代(だい)もつづいている。だから前(まえ)の世(よ)で悪(わる)いことをすれば、この世(よ)でその報(むく)いがくる。けれどこの世(よ)でいいことをしてその罪(つみ)を償(つぐな)えば、後(のち)の世(よ)にはきっと幸福(こうふく)が報(むく)ってくる。だからだれも仏(ほとけ)さまを信(しん)じて、この世(よ)に生(い)きている間(あいだ)たくさんいいことをしておかなければならない。」
 こうおさとしになりますと、みんな涙(なみだ)をこぼして、太子(たいし)とごいっしょに仏(ほとけ)さまをおがみました。けれど中でわがままな、がんこな人たちがどうしても太子(たいし)のお諭(さと)しに従(したが)おうとしないで、お寺(てら)を焼(や)いたり、仏像(ぶつぞう)をこわしたり、坊(ぼう)さんや尼(あま)さんをぶちたたいてひどいめにあわせたり、いろいろな乱暴(らんぼう)をはたらきました。太子(たいし)はその人たちのすることを見(み)て、深(ふか)いため息(いき)をおつきになりながら、
「しかたがない、悪魔(あくま)を滅(ほろ)ぼす剣(つるぎ)をつかう時(とき)が来(き)た。」
 とおっしゃって、弓矢(ゆみや)と太刀(たち)をお取(と)りになり、身方(みかた)の軍勢(ぐんぜい)のまっ先(さき)に立(た)って勇(いさ)ましく戦(たたか)って、仏(ほとけ)さまの敵(てき)を残(のこ)らず攻(せ)め滅(ほろ)ぼしておしまいになりました。
 こうしてこの太子(たいし)のお力(ちから)で、いろいろの邪魔(じゃま)を払(はら)って、仏(ほとけ)さまのお教(おし)えがずんずんひろまるようになりました。摂津(せっつ)の大阪(おおさか)にある四天王寺(してんのうじ)、大和(やまと)の奈良(なら)に近(ちか)い法隆寺(ほうりゅうじ)などは、みな太子(たいし)のお建(た)てになった古(ふる)い古(ふる)いお寺(てら)でございます。

     三

 太子(たいし)のお徳(とく)がだんだん高(たか)くなるにつれて、いろいろ不思議(ふしぎ)な事(こと)がありました。ある時(とき)甲斐(かい)の国(くに)から四足(そく)の白(しろ)い、真(ま)っ黒(くろ)な小馬(こうま)を一匹(ぴき)朝廷(ちょうてい)に献上(けんじょう)いたしました。太子(たいし)はこの馬(うま)を御覧(ごらん)になると、たいそうお喜(よろこ)びになって、
「この馬(うま)に乗(の)って国中(くにじゅう)を一(ひと)めぐりして来(こ)よう。」
 とおっしゃって、調使丸(ちょうしまる)という召使(めしつか)いの小舎人(ことねり)をくらの後(うし)ろに乗(の)せたまま、馬(うま)の背(せ)に乗(の)って、そのまますうっと空(そら)の上へ飛(と)んでお行(い)きになりました。下界(げかい)では、
「あれ、あれ。」
 といって騒(さわ)いでいるうちに、太子(たいし)はもう大和(やまと)の国原(くにばら)をはるか後(あと)に残(のこ)して、信濃(しなの)の国(くに)から越(こし)の国(くに)へ、越(こし)の国(くに)からさらに東(ひがし)の国々(くにぐに)をすっかりお回(まわ)りになって、三日(みっか)の後(のち)にまた大和(やまと)へお帰(かえ)りになりました。この時(とき)太子(たいし)のお歩(ある)きになった馬(うま)の蹄(ひづめ)の跡(あと)が、国々(くにぐに)の高(たか)い山に今(いま)でも残(のこ)っているのでございます。
 またある時(とき)、太子(たいし)は天子(てんし)さまの御前(ごぜん)で、勝鬘経(しょうまんきょう)というお経(きょう)の講釈(こうしゃく)をおはじめになって、ちょうど三日(みっか)めにお経(きょう)がすむと、空(そら)の上から三尺(じゃく)も幅(はば)のあるきれいな蓮花(れんげ)が降(ふ)って来(き)て、やがて地(ち)の上に四尺(しゃく)も高(たか)く積(つも)りました。その蓮花(れんげ)を明(あ)くる朝(あさ)天子(てんし)さまが御覧(ごらん)になって、そこに橘寺(たちばなでら)というお寺(てら)をお立(た)てになりました。
 またある時(とき)、日本(にほん)の国(くに)からシナの国(くに)へ、小野妹子(おののいもこ)という人をお使(つか)いにやることになりました。その時(とき)太子(たいし)は妹子(いもこ)に向(む)かい、
「シナの衡山(こうざん)という山の上のお寺(てら)は、むかしわたしが住(す)んでいた所(ところ)だ。その時分(じぶん)いっしょにいた僧(そう)たちはたいてい死(し)んだが、まだ三人(にん)は残(のこ)っているはずだから、そこへ行って、むかしわたしが始終(しじゅう)つかっていた法華経(ほけきょう)の本(ほん)をさがして持(も)って来(き)ておくれ。」
 とおっしゃいました。
 妹子(いもこ)はおいいつけの通(とお)り、シナへ渡(わた)るとさっそく、衡山(こうざん)という所(ところ)へたずねて行きました。そしてその山の上のお寺(てら)へ行くと、門(もん)に一人(ひとり)の小坊主(こぼうず)が立(た)っていました。妹子(いもこ)がこうこういう者(もの)だといって案内(あんない)をたのみますと、小坊主(こぼうず)はもう前(まえ)から知(し)っているといったように、
「和尚(おしょう)さん、和尚(おしょう)さん、思禅法師(しぜんほうし)のお使(つか)いがおいでになりましたよ。」
 といいました。するとお寺(てら)の中から腰(こし)の曲(ま)がったおじいさんの坊(ぼう)さんが三人(にん)、ことこと杖(つえ)をつきながら、さもうれしそうにやって来(き)て、太子(たいし)の御様子(ごようす)をたずねるやら、昔話(むかしばなし)をするやらしたあとで、妹子(いもこ)のいうままに、一巻(かん)の古(ふる)い法華経(ほけきょう)を出(だ)して渡(わた)しました。妹子(いもこ)はそれを持(も)って、日本(にほん)へ帰(かえ)ったということです。

     四

 太子(たいし)のお住(す)まいになっていたお宮(みや)は大和(やまと)の斑鳩(いかるが)といって、今(いま)の法隆寺(ほうりゅうじ)のある所(ところ)にありましたが、そこの母屋(おもや)のわきに、太子(たいし)は夢殿(ゆめどの)という小(ちい)さいお堂(どう)をおこしらえになりました。そして一月(ひとつき)に三度(ど)ずつ、お湯(ゆ)に入(はい)って体(からだ)を浄(きよ)めて、そこへお籠(こも)りになり、仏(ほとけ)の道(みち)の修行(しゅぎょう)をなさいました。
 ある時(とき)太子(たいし)はこの夢殿(ゆめどの)にお籠(こも)りになって、七日七夜(なのかななよ)もまるで外(そと)へお出にならないことがありました。いつもは一晩(ひとばん)ぐらいお籠(こも)りになっても、明日(あす)の朝(あさ)はきっとお出(で)ましになって、みんなにいろいろと尊(とうと)いお話(はなし)をなさるのに、今日(きょう)はどうしたものだろうと思(おも)って、お妃(きさき)はじめおそばの人たちが心配(しんぱい)しますと、高麗(こま)の国(くに)から来(き)た恵慈(えじ)という坊(ぼう)さんが、これは三昧(さんまい)の定(じょう)に入(い)るといって、一心(いっしん)に仏(ほとけ)を祈(いの)っておいでになるのだろうから、おじゃまをしないほうがいいといって止(と)めました。
 するとちょうど八日(ようか)めの朝(あさ)、太子(たいし)は夢殿(ゆめどの)からお出(で)ましになって、
「先(せん)だって小野妹子(おののいもこ)の取(と)って来(き)てくれた法華経(ほけきょう)は、衡山(こうざん)の坊(ぼう)さんがぼけていたと見(み)えて、わたしの持(も)っていたのでないのをまちがえてよこしたから、魂(たましい)をシナまでやって取(と)って来(き)たよ。」
 とおっしゃいました。
 その後(のち)また小野妹子(おののいもこ)が二度(ど)めにシナへ渡(わた)った時(とき)、衡山(こうざん)のお寺(てら)を訪(たず)ねると、前(まえ)にいた三人(にん)の坊(ぼう)さんの二人(ふたり)までは死(し)んでしまって、一人(ひとり)だけ生(い)き残(のこ)っておりましたが、その坊(ぼう)さんの話(はなし)に、
「先年(せんねん)あなたのお国(くに)の太子(たいし)が青(あお)い龍(りゅう)の車(くるま)に乗(の)って、五百人(にん)の家来(けらい)を従(したが)えて、はるばる東(ひがし)の方(ほう)から雲(くも)の上を走(はし)っておいでになって、古(ふる)い法華経(ほけきょう)の一巻(かん)を取(と)っておいでになりました。」
 と言(い)ったそうでございます。

     五

 太子(たいし)のお妃(きさき)は膳臣(かしわで)の君(きみ)といって、それはたいそう賢(かしこ)くてお美(うつく)しい方(かた)でしたから、御夫婦(ごふうふ)のお仲(なか)もおむつましゅうございました。ある時(とき)ふと太子(たいし)はお妃(きさき)に向(む)かって、
「お前(まえ)とは長年(ながねん)いっしょにくらして来(き)たが、お前(まえ)はただの一言(ひとこと)もわたしの言葉(ことば)に背(そむ)かなかった。わたしたちはしあわせであったと思(おも)う。生(い)きているうちそうであったから、死(し)んでからも同(おな)じ日に、同(おな)じお墓(はか)の中に葬(ほうむ)られたいものだ。」
 とおっしゃいました。お妃(きさき)は涙(なみだ)をお流(なが)しになりながら、
「どうしてそんな悲(かな)しいことをおっしゃるのでございますか。このさき百年(ねん)も千年(ねん)も生(い)きていて、おそばに仕(つか)えたいと、わたくしは思(おも)っているのでございますのに。」
 とおっしゃいました。けれども太子(たいし)は首(くび)をおふりになって、
「いやいや、初(はじ)めがあれば終(おわ)りのあるものだ。生(う)まれたものは必(かなら)ず死(し)ぬに極(き)まったものだ。これは人間(にんげん)の定(さだ)まった道(みち)でしかたがない。わたしもこれまでいろいろのものに姿(すがた)をかえ、度々(たびたび)人間(にんげん)の世(よ)に生(う)まれ変(か)わって来(き)て、仏(ほとけ)の道(みち)をひろめた。とうとうおしまいにこの日本国(にほんこく)の皇子(おうじ)に生(う)まれて来(き)て、仏(ほとけ)の道(みち)の跡方(あとかた)もない所(ところ)に法華(ほっけ)の種(たね)を蒔(ま)いた。わたしの仕事(しごと)もこれで出来上(できあ)がったのだから、この上永(なが)く、むさくるしい人間(にんげん)の世(よ)の中に住(す)んでいようとは思(おも)わない。」
 としみじみとお話(はなし)をなさいました。お妃(きさき)はなおなお悲(かな)しくおなりになって、とめ度(ど)なく涙(なみだ)がこぼれて来(き)ました。
 ちょうどそのころでした。太子(たいし)は摂津(せっつ)の国(くに)の難波(なにわ)のお宮(みや)へおいでになって、それから大和(やまと)の京(きょう)へお帰(かえ)りになるので、黒馬(くろうま)に乗(の)って片岡山(かたおかやま)という所(ところ)までおいでになりますと、山の陰(かげ)に一人(ひとり)物(もの)も食(た)べないとみえて、見(み)るかげもなく、痩(や)せ衰(おとろ)えたこじきが、虫(むし)のように寝(ね)ていました。お供(とも)の人たちは、太子(たいし)のお馬先(うまさき)に見苦(みぐる)しいと思(おも)って、あわてて追(お)いたてようとしますと、太子(たいし)はやさしくお止(と)めになって、食(た)べ物(もの)をおやりになり、情(なさ)けぶかいお言葉(ことば)をおかけになりました。そして帰(かえ)りしなに、
「寒(さむ)いだろうから、これをお着(き)。」
 とおっしゃって、召(め)していた紫色(むらさきいろ)の御袍(おうわぎ)をぬいで、お手(て)ずからこじきの体(からだ)にかけておやりになりました。その時(とき)、
「しなてるや
片岡山(かたおかやま)に
飯(いい)に飢(う)えて
臥(ふ)せる旅(たび)びと
あわれ親無(おやな)し。」
 という和歌(わか)をお詠(よ)みになりました。
「しなてるや」というのは、片岡山(かたおかやま)という言葉(ことば)に冠(かぶ)せた飾(かざ)りの枕言葉(まくらことば)で、歌(うた)の意味(いみ)は、片岡山(かたおかやま)の上に御飯(ごはん)も食(た)べずに飢(う)えて寝(ね)ている旅(たび)の男(おとこ)があるが、かわいそうに、親(おや)も兄弟(きょうだい)もない、かなしい身(み)の上(うえ)なのであろうかというのです。
 するとその時(とき)、寝(ね)ていたこじきが、むくむくと頭(あたま)をあげて、
「斑鳩(いかるが)や
富(とみ)の小川(おがわ)の
絶(た)えばこそ
我(わ)が大君(おおきみ)の
御名(みな)を忘(わす)れめ。」
 と御返歌(ごへんか)を申(もう)し上(あ)げたといいます。
 歌(うた)の中にある「斑鳩(いかるが)」だの、「富(とみ)の小川(おがわ)」だのというのは、いずれも太子(たいし)のお住(す)まいになっていた大和(やまと)の国(くに)の奈良(なら)に近(ちか)い所(ところ)の名(な)で、その富(とみ)の小川(おがわ)の流(なが)れの絶(た)えてしまうことはあろうとも、太子(たいし)さまの今日(きょう)のお情(なさ)けをけっして忘(わす)れる時(とき)はございませんというのでございます。
 さて太子(たいし)は奈良(なら)の京(きょう)へお帰(かえ)りになりましたが、その後(あと)で片岡山(かたおかやま)のこじきは、とうとう死(し)んでしまいました。太子(たいし)はそれをお聞(き)きになって、たいそうお嘆(なげ)きになり、手(て)あつく葬(ほうむ)っておやりになりました。それを聞(き)いた七人(にん)の大臣(だいじん)が、太子(たいし)さまともあるものがそんな軽々(かるがる)しい事(こと)をなさるとはといって、やかましく小言(こごと)を申(もう)しました。太子(たいし)はその話(はなし)をお聞(き)きになると、七人(にん)の大臣(だいじん)を呼(よ)び出(だ)して、
「お前(まえ)たちはそんなむずかしいことをいっていないで、まあ片岡山(かたおかやま)へ行ってごらん。」
 とおっしゃいました。
 大臣(だいじん)たちはぶつぶつ言(い)いながら、ともかくも片岡山(かたおかやま)へ行ってみますと、どうでしょう、こじきのなきがらを収(おさ)めた棺(ひつぎ)の中は、いつか空(から)になっていて、中からはぷんとかんばしい香(かお)りが立(た)ちました。大臣(だいじん)たちはみんな驚(おどろ)いて、太子(たいし)も、このこじきも、みんなただの人ではない、慈悲(じひ)の功徳(くどく)を世(よ)の中の人たちにあまねく知(し)らせるために、尊(とうと)い菩薩(ぼさつ)たちがかりにお姿(すがた)をあらわしたものだろうと思(おも)うようになりました。

     六

 さてこのことがあってから後(のち)間(ま)もなく、太子(たいし)はある日(ひ)お妃(きさき)に向(む)かい、
「いよいよ、いつぞやの約束(やくそく)を果(は)たす日が来(き)た。わたしたちは今夜限(こんやかぎ)りこの世(よ)を去(さ)ろうと思(おも)う。」
 とお言(い)いになりました。
 そして太子(たいし)とお妃(きさき)とはその日お湯(ゆ)を召(め)し、新(あたら)しい白衣(びゃくえ)にお着替(きか)えになって、お二人(ふたり)で夢殿(ゆめどの)にお入(はい)りになりました。
 明(あ)くる日(ひ)の朝(あさ)、いつまでもお二人(ふたり)ともお目(め)ざめにならないので、おそばの人たちが不思議(ふしぎ)に思(おも)って、そっと御堂(おどう)の中(なか)に入(はい)ってみますと、お二人(ふたり)はまくらを並(なら)べたまま、それはそれは安(やす)らかに、まるでいつもすやすやお休(やす)みになっているような御様子(ごようす)で、息(いき)を引(ひ)き取(と)っておいでになりました。お体(からだ)からはぷんと高(たか)く、かんばしいにおいが立(た)ちました。太子(たいし)のお年(とし)は、四十九歳(さい)でございました。
 太子(たいし)のおかくれになった日、シナの衡山(こうざん)からとっておいでになった古(ふる)い法華経(ほけきょう)も、ふと見(み)えなくなりました。それもいっしょに持(も)っておいでになったのだろうということです。




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