八幡太郎
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著者名:楠山正雄 

     一

 日本(にほん)のむかしの武士(ぶし)で一番(ばん)強(つよ)かったのは源氏(げんじ)の武士(ぶし)でございます。その源氏(げんじ)の先祖(せんぞ)で、一番(ばん)えらい大将(たいしょう)といえば八幡太郎(はちまんたろう)でございます。むかし源氏(げんじ)の武士(ぶし)は戦(いくさ)に出る時(とき)、氏神(うじがみ)さまの八幡大神(はちまんだいじん)のお名(な)を唱(とな)えるといっしょに、きっと先祖(せんぞ)の八幡太郎(はちまんたろう)を思(おも)い出(だ)して、いつも自分(じぶん)の向(む)かって行く先々(さきざき)には、八幡太郎(はちまんたろう)の霊(れい)が守(まも)っていてくれると思(おも)って、戦(いくさ)に励(はげ)んだものでした。
 八幡太郎(はちまんたろう)は源頼義(みなもとのよりよし)という大将(たいしょう)の長男(ちょうなん)で、おとうさんの頼義(よりよし)が、ある晩(ばん)八幡大神(はちまんだいじん)からりっぱな宝剣(ほうけん)を頂(いただ)いたという夢(ゆめ)を見(み)ると、間(ま)もなく八幡太郎(はちまんたろう)が生(う)まれました。七つの年(とし)に石清水(いわしみず)八幡(はちまん)のお宮(みや)で元服(げんぷく)して、八幡太郎(はちまんたろう)義家(よしいえ)と名(な)のりました。
 義家(よしいえ)は子供(こども)の時(とき)から弓(ゆみ)がうまくって、もう十二、三という年(とし)にはたいていの武士(ぶし)の引(ひ)けないような上手(じょうず)な弓(ゆみ)を引(ひ)いて、射(い)れば必(かなら)ず当(あ)たるという不思議(ふしぎ)なわざをもっていました。
 ある時(とき)清原武則(きよはらたけのり)というこれも弓(ゆみ)の名人(めいじん)で名高(なだか)かった人が、義家(よしいえ)のほんとうの弓勢(ゆんぜい)を知(し)りたがって、丈夫(じょうぶ)な鎧(よろい)を三重(みかさ)ねまで木の上にかけて、義家(よしいえ)に射(い)させました。義家(よしいえ)はそこらにある弓(ゆみ)に矢(や)をつがえて、無造作(むぞうさ)に放(はな)しますと、鎧(よろい)を三枚(まい)とおして、後(うし)ろに五寸(すん)も鏃(やじり)が出ていました。

     二

 大きくなって、義家(よしいえ)はおとうさんの頼義(よりよし)について、奥州(おうしゅう)の安倍貞任(あべのさだとう)、宗任(むねとう)という兄弟(きょうだい)の荒(あら)えびすを征伐(せいばつ)に行きました。その戦(いくさ)は九年(ねん)もつづいて、その間(あいだ)にはずいぶんはげしい大雪(おおゆき)に悩(なや)んだり、兵糧(ひょうろう)がなくなって危(あや)うく餓(う)え死(じ)にをしかけたり、一時(じ)は敵(てき)の勢(いきお)いがたいそう強(つよ)くって、味方(みかた)は残(のこ)らず討(う)ち死(じ)にと覚悟(かくご)をきめたりしたこともありましたが、その度(たび)ごとにいつも義家(よしいえ)が、不思議(ふしぎ)な智恵(ちえ)と勇気(ゆうき)と、それから神様(かみさま)のような弓矢(ゆみや)の技(わざ)で敵(てき)を退(しりぞ)けて、九分九厘(くぶくりん)まで負(ま)け戦(いくさ)にきまったものを、もり返(かえ)して味方(みかた)の勝利(しょうり)にしました。
 それで戦(たたか)えば戦(たたか)うたんびに八幡太郎(はちまんたろう)の名(な)が高(たか)くなりました。さすがの荒(あら)えびすもふるえ上(あ)がって、しまいには八幡太郎(はちまんたろう)の名(な)を聞(き)いただけで逃(に)げ出(だ)すようになりました。
 けれども、強(つよ)いばかりが武士(ぶし)ではありません。八幡太郎(はちまんたろう)が心(こころ)のやさしい、神様(かみさま)のように情(なさ)けの深(ふか)い人だということは、敵(てき)すらも感(かん)じて、慕(した)わしく思(おも)うようになりました。
 それはもう長(なが)い長(なが)い九年(ねん)の戦(たたか)いもそろそろおしまいになろうという時分(じぶん)のことでした。ある日はげしい戦(いくさ)のあとで、義家(よしいえ)は敵(てき)の大将(たいしょう)の貞任(さだとう)とただ二人(ふたり)、一騎(き)打(う)ちの勝負(しょうぶ)をいたしました。そのうちとうとう貞任(さだとう)がかなわなくなって、馬(うま)の首(くび)を向(む)けかえして、逃(に)げて行こうとしますと、義家(よしいえ)は後(うし)ろから大きな声(こえ)で、
「衣(ころも)のたては
ほころびにけり。」
 と和歌(わか)の下(しも)の句(く)をうたいかけました。すると貞任(さだとう)も逃(に)げながら振(ふ)り向(む)いて、
「年(とし)を経(へ)し
糸(いと)の乱(みだ)れの
苦(くる)しさに。」
 とすぐに上(かみ)の句(く)をつけました。これは戦(いくさ)の場所(ばしょ)がちょうど衣川(ころもがわ)のそばの「衣(ころも)の館(たて)」という所(ところ)でしたから、義家(よしいえ)が貞任(さだとう)に、
「お前(まえ)の衣(ころも)ももうほころびた。お前(まえ)の運(うん)ももう末(すえ)だ。」
 とあざけったのでございます。すると貞任(さだとう)も負(ま)けずに、
「それはなにしろ長年(ながねん)の戦(いくさ)で、衣(ころも)の糸(いと)もばらばらにほごれてきたからしかたがない。」
 とよみかえしたのでした。
 これで義家(よしいえ)もいかにも貞任(さだとう)がかわいそうになって、その日はそのまま見逃(みのが)してかえしてやりました。
 けれども一度(ど)は逃(に)がしてやっても、いったい運(うん)の尽(つ)きたものはどうにもならないので、間(ま)もなく貞任(さだとう)は殺(ころ)され、弟(おとうと)の宗任(むねとう)も生(い)け捕(ど)りになって、奥州(おうしゅう)の荒(あら)えびすは残(のこ)らず滅(ほろ)びてしまいました。そこで頼義(よりよし)と義家(よしいえ)の二人(ふたり)は九年(ねん)の苦(くる)しい戦(いくさ)の後(のち)、生(い)け捕(ど)りの敵(てき)を引(ひ)き連(つ)れて、めでたく京都(きょうと)へ凱旋(がいせん)いたしました。

     三

 京都(きょうと)へ帰(かえ)って後(のち)、敵(てき)の大将(たいしょう)の宗任(むねとう)はすぐに首(くび)を切(き)られるはずでしたけれど、義家(よしいえ)は、
「戦(いくさ)がすんでしまえば、もう敵(てき)も味方(みかた)もない。むだに人の命(いのち)を絶(た)つには及(およ)ばない。」
 と思(おも)いました。そこで天子(てんし)さまに願(ねが)って、自分(じぶん)が御褒美(ごほうび)を頂(いただ)く代(か)わりに、宗任(むねとう)はじめ敵(てき)のとりこを残(のこ)らず許(ゆる)してやりました。その中で宗任(むねとう)はそのまま都(みやこ)に止(とど)まって、義家(よしいえ)の家来(けらい)になりたいというので、そばに置(お)いて使(つか)うことにしました。
 宗任(むねとう)はいったん義家(よしいえ)に命(いのち)を助(たす)けてもらったので、たいそうありがたいと思って、義家(よしいえ)の徳(とく)になつくようになったのですが、元々(もともと)人を恨(うら)む心(こころ)の深(ふか)い荒(あら)えびすのことですから、自分(じぶん)の一家(いっか)を滅(ほろ)ぼした義家(よしいえ)をやはり憎(にく)らしく思(おも)う心(こころ)がぬけません。それでいつか折(おり)があったら、殺(ころ)して敵(かたき)を討(う)ってやろうとねらっておりました。けれども義家(よしいえ)の方(ほう)はいっこう平気(へいき)で、昔(むかし)から使(つか)いなれた家来(けらい)同様(どうよう)宗任(むねとう)をかわいがって、どこへ行(い)くにも、「宗任(むねとう)、宗任(むねとう)。」とお供(とも)につれて歩(ある)いていました。
 するとある晩(ばん)のことでした。義家(よしいえ)はたった一人(ひとり)宗任(むねとう)をお供(とも)につれて、ある人の家(いえ)をたずねに行(い)って、夜(よる)おそく帰(かえ)って来(き)ました。宗任(むねとう)は牛車(うしぐるま)を追(お)いながら、今夜(こんや)こそ義家(よしいえ)を殺(ころ)してやろうと思(おも)いました。そこで懐(ふところ)からそろそろ刀(かたな)を抜(ぬ)きかけて、そっと車(くるま)の中をのぞきますと、中では義家(よしいえ)がなんにも胸(むね)にわだかまりのない顔(かお)をして、すやすや眠(ねむ)っていました。宗任(むねとう)はその時(とき)、
「敵(てき)のわたしにただ一人(ひとり)供(とも)をさせて、少しも疑(うたが)う気色(けしき)も見(み)せない。どこまで心(こころ)のひろい、りっぱな人だろう。」
 と感心(かんしん)して、抜(ぬ)きかけた刀(かたな)を引(ひ)っこめてしまいました。そしてそれからはまったく義家(よしいえ)になついて、一生(いっしょう)そむきませんでした。
 それからまたある時(とき)、義家(よしいえ)はいつものとおり宗任(むねとう)を一人(ひとり)お供(とも)につれて、大臣(だいじん)の藤原頼通(ふじわらのよりみち)という人のお屋敷(やしき)へよばれて行ったことがありました。頼通(よりみち)は義家(よしいえ)にくわしく奥州(おうしゅう)の戦争(せんそう)の話(はなし)をさせて聞(き)きながら、おもしろいので夜(よ)の更(ふ)けるのも忘(わす)れていました。ちょうどその時(とき)、このお屋敷(やしき)にその時分(じぶん)学者(がくしゃ)で名高(なだか)かった大江匡房(おおえのまさふさ)という人が来合(きあ)わせていて、やはり感心(かんしん)して聞(き)いていましたが、帰(かえ)りがけに一言(ひとこと)、
「あの義家(よしいえ)はりっぱな大将(たいしょう)だが、惜(お)しいことに戦(いくさ)の学問(がくもん)ができていない。」
 とひとり言(ごと)のようにいいました。するとそれを玄関先(げんかんさき)で待(ま)っていた宗任(むねとう)が小耳(こみみ)にはさんで、後(あと)で義家(よしいえ)に、
「匡房(まさふさ)がこんなことをいっていました。何(なに)もわからない学者(がくしゃ)のくせに、生意気(なまいき)ではありませんか。」
 といって、怒(おこ)っていました。けれども、義家(よしいえ)は笑(わら)って、
「いや、それはあの人のいう方(ほう)がほんとうだ。」
 といって、そのあくる日改(あらた)めて匡房(まさふさ)のところへ出かけて行って、ていねいにたのんで、戦(いくさ)の学問(がくもん)を教(おし)えてもらうことにしました。

     四

 するうちまた奥州(おうしゅう)に戦争(せんそう)がはじまりました。それは義家(よしいえ)が鎮守府(ちんじゅふ)将軍(しょうぐん)になって奥州(おうしゅう)に下(くだ)って居(お)りますと、清原真衡(きよはらのさねひら)、家衡(いえひら)という荒(あら)えびすの兄弟(きょうだい)の内輪(うちわ)けんかからはじまって、しまいには、家衡(いえひら)がおじの武衡(たけひら)を語(かた)らって、義家(よしいえ)に向(む)かって来(き)たのでした。
 そこで義家(よしいえ)は身方(みかた)の軍勢(ぐんぜい)を率(ひき)いて、こんども餓(う)えと寒(さむ)さになやみながら、三年(ねん)の間(あいだ)わき目(め)もふらずに戦(たたか)いました。
 この戦(いくさ)の間(あいだ)のことでした。ある日(ひ)義家(よしいえ)が何気(なにげ)なく野原(のはら)を通(とお)って行きますと、草(くさ)の深(ふか)く茂(しげ)った中から、出(だ)し抜(ぬ)けにばらばらとがんがたくさん飛(と)び立(た)ちました。義家(よしいえ)はこれを見(み)てしばらく考(かんが)えていましたが、
「野(の)にがんが乱(みだ)れて立(た)ったところをみると、きっと伏兵(ふくへい)があるのだ。それ、こちらから先(さき)へかかれ。」
 といいつけて、そこらの野原(のはら)を狩(か)りたてますと、案(あん)の定(じょう)たくさんの伏兵(ふくへい)が草(くさ)の中にかくれていました。そしてみんなみつかって殺(ころ)されてしまいました。その時(とき)義家(よしいえ)は家来(けらい)たちに向(む)かって、
「がんの乱(みだ)れて立(た)つ時(とき)は伏兵(ふくへい)があるしるしだということは、匡房(まさふさ)の卿(きょう)から教(おそ)わった兵学(へいがく)の本(ほん)にあることだ。お陰(かげ)で危(あぶ)ないところを助(たす)かった。だから学問(がくもん)はしなければならないものだ。」
 といいました。
 こんどの戦(いくさ)は前(まえ)の時(とき)に劣(おと)らず随分(ずいぶん)苦(くる)しい戦争(せんそう)でしたけれど、三年(ねん)めにはすっかり片付(かたづ)いてしまって、義家(よしいえ)はまた久(ひさ)し振(ぶ)りで都(みやこ)へ帰(かえ)ることになりました。ちょうど春(はる)のことで、奥州(おうしゅう)を出て海(うみ)伝(づた)いに常陸(ひたち)の国(くに)へ入(はい)ろうとして、国境(くにざかい)の勿来(なこそ)の関(せき)にかかりますと、みごとな山桜(やまざくら)がいっぱい咲(さ)いて、風(かぜ)も吹(ふ)かないのにはらはらと鎧(よろい)の袖(そで)にちりかかりました。義家(よしいえ)はその時(とき)馬(うま)の上でふり返(かえ)って桜(さくら)の花(はな)を仰(あお)ぎながら、
「吹(ふ)く風(かぜ)を
なこその関(そき)と
思(おも)えども
道(みち)も狭(せ)に散(ち)る
山桜(やまざくら)かな。」
 という歌(うた)を詠(よ)みました。
 これは「風(かぜ)が中へ吹(ふ)きこんで来(き)てはいけないぞといって立(た)てた関所(せきしょ)であるはずなのに、どうしてこんなに通(とお)り道(みち)もふさがるほど、山桜(やまざくら)の花(はな)がたくさん散(ち)りかかるのであろう。」といって、桜(さくら)の散(ち)るのを惜(お)しんだのです。

     五

 八幡太郎(はちまんたろう)の名(な)はその後(のち)ますます高(たか)くなって、しまいには鳥(とり)けだものまでその名(な)を聞(き)いて恐(おそ)れたといわれるほどになりました。
 ある時(とき)、天子(てんし)さまの御所(ごしょ)に毎晩(まいばん)不思議(ふしぎ)な魔物(まもの)が現(あらわ)れて、その現(あらわ)れる時刻(じこく)になると、天子(てんし)さまは急(きゅう)にお熱(ねつ)が出て、おこりというはげしい病(やまい)をお病(や)みになりました。そこで、八幡太郎(はちまんたろう)においいつけになって、御所(ごしょ)の警固(けいご)をさせることになりました。義家(よしいえ)は仰(おお)せをうけると、すぐ鎧(よろい)直垂(ひたたれ)に身(み)を固(かた)めて、弓矢(ゆみや)をもって御所(ごしょ)のお庭(にわ)のまん中に立(た)って見張(みは)りをしていました。真夜中(まよなか)すぎになって、いつものとおり天子(てんし)さまがおこりをお病(や)みになる刻限(こくげん)になりました。義家(よしいえ)はまっくらなお庭(にわ)の上につっ立(た)って、魔物(まもの)の来(く)ると思(おも)われる方角(ほうがく)をきっとにらみつけながら、弓絃(ゆみづる)をぴん、ぴん、ぴんと三度(ど)まで鳴(な)らしました。そして、
「八幡太郎(はちまんたろう)義家(よしいえ)。」
 と大きな声(こえ)で名(な)のりました。するとそれなりすっと魔物(まもの)は消(き)えて、天子(てんし)さまの御病気(ごびょうき)はきれいになおってしまいました。
 またある時(とき)野原(のはら)へ狩(かり)に出かけますと、向(む)こうからきつねが一匹(ぴき)出て来(き)ました。義家(よしいえ)はそれを見(み)て、あんな小(ちい)さなけものに矢(や)をあてるのもむごたらしい、おどしてやろうと思(おも)って、弓(ゆみ)に矢(や)をつがえて、わざときつねの目の前(まえ)の地(じ)びたに向(む)けて放(はな)しますと、矢(や)は絃(つる)をはなれて、やがてきつねのまん前(まえ)にひょいと立(た)ちました。するときつねはそれだけでもう目をまわして、くるりとひっくりかえると思(おも)うと、そのまま倒(たお)れて死(し)んでしまいました。
 またある時(とき)義家(よしいえ)が時(とき)の大臣(だいじん)の御堂殿(みどうどの)のお屋敷(やしき)へよばれて行きますと、ちょうどそこには解脱寺(げだつじ)の観修(かんしゅう)というえらい坊(ぼう)さんや、安倍晴明(あべのせいめい)という名高(なだか)い陰陽師(おんみょうじ)や、忠明(ただあきら)という名人(めいじん)の医者(いしゃ)が来合(きあ)わせていました。その時(とき)ちょうど奈良(なら)から初(はつ)もののうりを献上(けんじょう)して来(き)ました。珍(めずら)しい大きなうりだからというので、そのままお盆(ぼん)にのせて四人(にん)のお客(きゃく)の前(まえ)に出(だ)しました。するとまず安倍晴明(あべのせいめい)がそのうりを手にのせて、
「ほう、これは珍(めずら)しいうりだ。」
 といって、眺(なが)めていました。そして、
「しかしどうも、この中には悪(わる)いものが入(はい)っているようです。」
 といいました。すると御堂殿(みどうどの)は解脱寺(げだつじ)の坊(ぼう)さんに向(む)かって、
「ではお上人(しょうにん)、一つ加持(かじ)をしてみて下(くだ)さい。」
 といいました。坊(ぼう)さんが承知(しょうち)して珠数(じゅず)をつまぐりながら、何(なに)か祈(いの)りはじめますと、不思議(ふしぎ)にもうりがむくむくと動(うご)き出(だ)しました。さてこそ怪(あや)しいうりだというので、お医者(いしゃ)の忠明(ただあきら)が針療治(はりりょうじ)に使(つか)う針(はり)を出(だ)して、
「どれ、わたしが止(と)めてやりましょう。」
 といいながら、うりの胴中(どうなか)に二所(ふたところ)まで針(はり)を打(う)ちますと、なるほどそのままうりは動(うご)かなくなってしまいました。そこで一ばんおしまいに義家(よしいえ)が、短刀(たんとう)をぬいて、
「ではわたしが割(わ)って見(み)ましょう。」
 といいながらうりを割(わ)りますと、中には案(あん)の定(じょう)小蛇(こへび)が一匹(ぴき)入(はい)っていました。見(み)ると忠明(ただあきら)のうった針(はり)が、ちゃんと両方(りょうほう)の目にささっていました。
 そして義家(よしいえ)がつい無造作(むぞうさ)に切(き)り込(こ)んだ短刀(たんとう)は、りっぱに蛇(へび)の首(くび)と胴(どう)を切(き)り離(はな)していました。
 御堂殿(みどうどの)は感心(かんしん)して、
「なるほどその道(みち)に名高(なだか)い名人(めいじん)たちのすることは、さすがに違(ちが)ったものだ。」
 といいました。

     六

 八幡太郎(はちまんたろう)は七十近(ちか)くまで長生(ながい)きをして、六、七代(だい)の天子(てんし)さまにお仕(つか)え申(もう)し上(あ)げました。ですからその一代(だい)の間(あいだ)には、りっぱな武勇(ぶゆう)の話(はなし)は数(かず)しれずあって、それがみんな後(のち)の武士(ぶし)たちのお手本(てほん)になったのでした。




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