古傷
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著者名:蘭郁二郎 

 ――私は自分の弱い心を誤魔化す為に、先刻(さっき)から飲めもしない酒を飲み続けていた。
 第三高調波(サードハーモニックス)を描く放送音楽(ラジオミウジック)……
 蓄電器(コンデンサアー)のように白々(しらじら)しく対立した感情……
 溷濁(こんだく)した恋情と、ねばねばする空気……
『なに考えてんだィ、さあもう一杯』
 内田君は、兎もすれば沈み勝ちの私を、とろんとした眼で見据えながら、ビールのコップを取上げた。
『うーん』
 私は熱っぽい目を擦りながら、手を出し
(あッ……)
 ドキン、胸の中で音がした。
 突出されたコップの中には黄金色の液体を透して、内田君の右頬の小さな古傷が、恰度(ちょうど)レンズを透かして見た時のように、尨大にコップ一杯に拡がって浮出していた。
 而もその上、その傷は私が一時の興奮から殺(や)ってしまったあの迪子(みちこ)の傷とソックリで、捻れたような赤い肉の隆起が、蚯蚓(みみず)のように匍廻(はいまわ)っていた。
(……迪子ダ……)
 内田君がもぐもぐと口を听(き)く度に、沸々と泡立つコップの中で、その迪子がニタニタと頽(くずお)れるように嗤うのである。
『バカ』
 力一杯コップを叩き落した。コップは石畳(たたき)に砕け、細片はギラギラと鋭角的な光を投げて転がった。……ころんころんころんと部屋の隅まで転がって行く破片(かけら)のシツッコさ……
『なんでェ、俺よか、酔ってやがる』
 内田君は熱っぽい顔をして床を睨んだ。
 その右頬に小っぽけな古傷が、「知らん顔」してくっついていた。




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