舌打する
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著者名:蘭郁二郎 

 チェッ、と野村は舌打をすることがよくあった。彼は遠い昔の恥かしかった事や、口惜(くや)しかったことを、フト、なんの連絡もなしに偲い出しては、チェッと舌打するのである。
(あの時、俺はナゼ気がつかなかったんか、も少し俺に決断があったら……)
 彼はよくそう思うのであった。けれど夢の中で饒舌であるように、現実では饒舌ではなかった。女の人に対しても口では下手なので、手紙をよく書いた。けれど矢っ張り妙な恥かしさから、彼の書いた手紙には、裏の裏にやっと遣る瀬なさを密(ひそ)めたが、忙しい世の中では表てだけ読んで、ぽんと丸められて仕舞った。
 又女の人と一緒に歩いても、前の日に一生懸命考えた華やかな会話は毛程も使われなかった。そして、彼はただ頷くだけの自分を発見して淋しかった。然しその時は、ただ一緒に歩くだけで充分幸福であるのだが、あとで独りになると、チェッと舌打するのである。
 小学校三年の時、一級上の女生徒と、なぜか一緒に遊びたかったけれど、言い出す元気もなく、その子の家の『小田』と書かれた表札を何度も読みながら、[#「、」は底本では「、、」]わざと傍目(わきめ)も振らず行ったり来たりして、疲れて家に帰った――そんな遠い遠い昔の事を不図(ふと)偲い出して、又チェッと舌打するのである。
 ……といって、野村は、爪を截りながら、私の顔を覗きこんだ。私は一寸、いやあな気持がして、
『誰でもさ……』
 とタバコの煙りと一緒に吐出した。




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