私の青春時代
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著者名:宮本百合子 

 わたしの青春について語るとき、そこには所謂階級的なヒロイズムもないし、勤労者的な自誇もない。そこにあるのは一九一四、五年から二三、四年にかけての日本の中流的な家庭のなかで、一人の少女が次第に人間としてめざめてゆく物語があるだけである。それから、一人の少女が若い女となってゆく過程で日本の当時の自由主義がどうその成長に影響し、またつよくのこっている封建性が、どう反作用を加えたかという物語である。
 いまから三十年もむかし、中流の家庭では一人二人の家事手伝いの女をもっているのが普通であった。私の育ったうちにも一人二人のそういう女中さんがいた。その頃、さんづけでよばれることはなく女中とよびすてられた。
 その女中と、中流の子供たちの生活は、親が知っているよりも遙に互に近くむすばれていて、ある意味では主人と親とに対して、共通の秘密をもっていた。上流の子供には、教育ということをわきまえたおつきがつくが、中流の家庭で、女中を一人おくぐらいの経済事情のところでは地方の――福島や茨城、千葉などから働きに出て来た娘たちと、その家の子供の生活とが絡み合ってゆくのであった。
 その娘たちは粗野であり、子供たちに対して自然だった。というのは、腹が立てば箒をふりまわして追っかけたし、きげんがよくて、自分もおなかがすいているときは、おはちから御飯を出して握りめしをこしらえてくれ、水がめからひしゃくで水をのむことを教えた。手ばなをかんでみせた。そして、動物の生殖について、野卑な説明を与え、むきだしに自分たちの興味を示した。書生がいるとき、子供によくわからないけれども何かを意味するいろいろの話が、子供のいるときでもされた。留守番をするながい時間、子供はそういう荒っぽい空気のなかにいる。よごされもせず、わいせつな話の意味を知らず、すがすがしく笑いながら、裏へ出て繩とびなどもしながら。
 なかのいい女中が、母から叱られるということは、一つの事件であった。必ず、わきに立ち傍聴し、前かけをひねくって、時には涙をおとしている女中に同情した。十一二歳になった少女には、稚い正義感が芽生えてそういうとき段々女中の弁護者となって行った。子供は実証主義者だから、母が主人という立場から、かくかくにするべきもの、という論点は分らず、女中がしたことがわるかったか、よかったかということを、めのこで主張し弁護するのであった。「お前はだまっているもんです、子供のくせに!」そう言われるようになった。
 建築技師であった父は明治初年の寛闊な空気のなかに青年時代をすごして、死ぬまで一種の自由主義者であった。母も、女だから、という社会の習慣的なひけめには、観念的であり矛盾ももちながら抵抗しつづけたひとであった。そのために、わたしが十三となり十四五となるにつれ、家庭の重みよりもむしろ通っていた官立の女学校の教師からうける言うに言えない圧迫を実に苦しんだ。女学校の教師は、自分の家にないお嬢さんの型、女だからという型、女のくせに、という型、それらのすべてで、性格の角々を削って、標準の中流若夫人をこしらえるのが眼目であったから。女学校の三年ごろを思い出すと、わたしの二十四時間には、それからあとに出来た不良少女というものになってゆくモメントが一つ二つではすまないほどどっさりあった。学校の空気と学課が、自分をしっかりと掴えない。苦しく無意味に思える。そこで、上野の図書館へ行ってしまう。女学校の四年生になって、学校の比較的豊富な図書館がつかえるようになるまで、わたしの知識慾は、惨めな状態におかれた。図書館と、うちで買う文学の本をよむこと。わたしの少女期の危機は、それをよすがにして、辛うじてまともにすごされたのであった。四年生になって、本当に文学がすきときまってから、あぶなっかしさはよっぽど減った。自分の熱中し、うちこむ目標がきまったから。
 わたしが、初めて作品を発表したのは十八歳の時であった。女学校を卒業したばかりの少女が、作品を発表されたということは、ほんとうに複雑な人間テストであったと思う。こういう早く咲いた花のような立場はそれからのちのほとんど十年間を自分のぐるりをとりかこむ環境とのたたかいにすごすことになった。自分に小説をかかしたその家庭の積極の面とともに作用する消極の面――わかい天才主義、独善の傾向、型にはまりやすさとたたかうと同時に、一定の仕事を生涯の仕事ときめた若い女のもつ、結婚、家庭生活と仕事との間の板ばさみの苦しさを経なければならなかった。そしてそれは一九三〇年に、プロレタリア文学運動に参加するようになって自分の矛盾の本質がわかり、そこからある程度解放されるまで続いたのであった。
〔一九四七年六月〕



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