結集
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著者名:宮本百合子 

 これまで私たちは云いたいことを云えなかったし、聞きたい話もきかれなかった。この頃になって、ぼつりぼつりと印象の深い話が耳に入るようになって来た。東京の郊外に武蔵野の雑木林にかこまれた、一つの女子専門学校がある。英語を専門に教える学校である。
 戦争がはじまって暫くすると、そこへ軍隊が駐屯して来た。静かな欅の梢の間に、ラッパの音が響き、銃剣が閃くようになった。学校の女生徒たちは、学徒動員で働きに出て行かなければならないが、寄宿舎はやはり営まれていて、皆がそこに暮していた。
 ところが駐屯して来た軍隊は、その学校の表門にかけてある看板が、生意気だ、今頃英学塾というような敵性語を教える看板を麗々しくかけておくのは国賊だと、その看板をはずして前の溝川へ投げ込んでしまった。そしてそのあとへ何々部隊と、番号の長い板をかけた。

 女生徒たちは、自分達の教室や校庭を、軍隊に荒らされることは辛く思いながら辛棒していたのに、乱暴にも学生にとって誇りと愛とのしるしである校標を溝へ投げこまれたことについて深い憤りを感じた。みんなの心がそのことを腹立たしく思う気持で結ばれた。ふと気がついて、軍隊はおどろいた。自分たちが学校の看板をとって投げすてたその溝川へ、あろうことかA部隊と大書した板が投げこまれているではないか。娘ども、と思っていた女生徒たち以外にそんなことを敢えてする者は、その雑木林の町にはいない。問題となって、そこの女生徒全部を軍法会議にまわすと云って脅かした。学校当局はあわてて生徒たちに謝らせようとした。
 けれども、生徒たちは、皆で軍法会議にまわされるならば、それは仕方がない。軍法会議の席で、初めに乱暴をしたのは誰であるかということを明かにして、裁判して貰う意見にまとまった。そして、その意見を守って、譲らなかった。大分いろいろと揉めて、女生徒たちはあれこれと脅かされたが、遂に譲らないので、さすがに軍法会議へまわすことも出来ず結着がついた。

 そういう短い話を、間接にきいた。細かいことはもしかしたら事実と違っているかもしれない。けれどもあの戦争中学者だの大臣だのがみな軍部の力に圧されて、こびることしかしなかったとき、また一般の人々が軍隊のすることは何でも無理を通していた時代に、若い女学生たちが、真直なこころで正しくないと思ったことを、どこまでも正しくないこととして、こわくなくはない軍隊の力に抵抗したということは私の心に深く残った。今まで決して外部に向って話されたこともないような、いろいろの小さいがその価値は決して低くない正義心からの行動が、あの時代に、あちこちの学校や工場などの中にあったのではなかろうか。
 平手うちを一つ受けても倒れるようなかよわい少女たちが、武力と脅威に向って、正しいと思うところを主張しとおしたのも、彼女たちが一人でなかったからであった。一人でない力の強さを、おのずからはっきり知って行動したからであった。
 ある季節になると、朝鮮海峡をわたって、美しい数万の蝶々が移動するときの話をきいた。翅の薄い、体の軟い弱い蝶々は幾万とかたまって空を覆って飛び、疲れると波の上にみんなで浮いて休み、また飛び立って旅をつづけ、よく統制がとれて殆ど落伍するものなく移動を成就するのだそうである。歴史の一こまを前進させるという人類の最も高貴な事業が、人間の勇気と理智との大結集なしに成就したことは、ただの一度もなかったのである。
〔一九四六年四月〕



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