まちがい
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著者名:宮本百合子 

 夜の八時ごろ、お隣の女中さんが柿の木の彼方から、お電話ですと呼んでくれた。出てみたら弟の家内で、いそがしいところ呼び立てて御免なさいね、百合ちゃん、四谷旭町――旭は九に日をのせた旭ね、そこの大久保ってところ知っていて? と訊くのであった。さア、大久保――何なの? すると、きっとわきに六つの甥がいでもするのだろう。セブンなんだけれど、ということである。そこからハガキが来てね、上落合へ一遍行って回送されて来ているんだけれど、お召の著物が一枚五円で入っているのが明日限りで流れるって知らして来たんだけれど。――上落合に住んでいたこともあり、そういうところに縁もなくはないから、あした流れるという言葉に慌てさせる実感があって、私は受話器を耳に当てたままいそがしく記憶の裡をかきさがした。それでハガキにはそれだけ書いてあるっきりなの? ええ。名がちがうんだけれど、中條進方、相川栄様とあるの。栄さんと云えば壺井の栄さんしかない。その栄さんが又互の生活のなかでは、そういう場面に登場するので愈々現実の条件がそろい、じゃ、いつかから見えないって云っていた縞の、ね、あれかもしれない、と私は電話口でその時分の人出入りも激しかった暮しの姿を思いおこした。その頃なら私が知らないその旭町とかに私の著物が運ばれてゆくこともあり得たのであった。でも、利子どの位なの? 七十五銭て書いてあるわ。七十五銭? たった? じゃ変だわ。上落合にいたのは四年も前よ、だもの――変だ、四年にそれだけってことはないし……段々正気づいて来て私は、それは人ちがいに相異ない、と初めて確りした声を出した。四年の間待っているというようなことはあり得ないのだからね。と断言した。それにしても滅多にない姓が同じで、栄さんという名まで添っているというのは何と珍しいことだろう。じゃそこに電話あるんでしょう? 一寸かけてね、間違って回送されて来たから、明日は待って上げてくれ、と云っておいてお上げなさいよ。ええそうしましょう、でも、何て妙なんでしょう。いかにも妙な気がするらしく、ぼんやりとひっぱって云って、じゃ、さようならとそれで電話はきれた。
 裏の小道を生垣沿いにかえりながら、私は何となしひとり笑えて来た。咄嗟(とっさ)に、自分のことにひきつけてあわてたような気持になったのが如何にも女房くさくて我ながら滑稽なのであった。
 三四日してから、或る友達のところへ行ったら、主人は留守で子供もいず、がらんとした茶の間に栄さんがそこの七十のお婆さんと坐っていた。両方から、おや、と云い、ここで会おうとは思わなかったでしょう、と云った。それから二人でおばあさんにお辞儀をしてそこを出て、古本屋によったりしてバスまでぶらぶら歩きながら、私はふっと夜の電話の件を思い出して話した。すると栄さんはそういうときの癖で、一寸足を止めるようにして片方の手のひらをひろげ空をうつような恰好をしながら、在りますよ、ホラ、お寺へ出る迄に蕎麦屋があったでしょう、と私よりは永く住っていたその界隈を説明した。あすこの右側だったかでそういう表札を見かけたことがありますよ。でも、栄さんまでいるとはおどろいたわねえ。一体その栄さんて、どんな栄さんなんだろ、と栄さんが云うにつれて、私たちは思わず大きな体を折りまげてふき出した。どっちもまん丸な私たち二人には、どんな栄さんなんだろと云った途端、どんなことしても自分たちより大きい栄さんがあろうとは思えず、二人ながら何となく、それは小さい栄さんとうたの文句のような調子で感じ、それが又互に通じあったところに独特なおかしさがあり、歩きながらも猶笑えるのであった。
〔一九三九年十二月〕



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