映画女優の知性
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著者名:宮本百合子 

 映画女優のあたまのよさが、一つの快適な美しさ、あるいは深い心と肉体の動きの感銘として作品のなかに十分活かされている場合をみると、大抵のとき、それは製作の方向、監督のみちびきかたと密接な関係をもっているように思える。したがって、映画女優のあたまのよさは一方に瑞々しい適応性や柔軟性をもっていなければならず、シルビア・シドニイというような女優は学問をやったという意味での頭脳はあるかもしれないが、例えば、カザリン・ヘッバーンの持っている感性としての溌剌としたあたまのよさのようなものは、もっていないのではないだろうか。
「大地」で阿蘭をやったときルイズ・レイナーは随分本気でとりくんでいたし、彼女の持っている聰明さ、内面の奥ゆきというようなものが省略された動作のかげに声をのんだ声として多くのものを語る力となっていた。同じこのひとが、「グレイト・ワルツ」のシュトラウス夫人では、阿蘭とはちがった、小川のような女心の可憐なかしこさ、しおらしい忍耐の閃く姿を描き出そうとしているのだが、その際、自分の持っている情感の深さの底をついた演技の力で、そういう人柄の味を出そうとせず、その手前で、いって見ればうわ声で、性格の特徴をあらわそうとしているために、出しおしみされているところから来る弱さと、どっと迸ったようなところとむらがあって、何かみていて引き入れられきれないものがある。こうしてみると、あたまのよさにもまた、おのずから沢山の性格と結びついたニュアンスがあって、面白いものだと思う。「青髯八人目の妻」でコルベールがいう一寸した科白を、ある日本の作家が女性の洗練された話術の感覚の見本としてほめていたが、果してそれをすぐコルベールの身についたものということが出来るだろうか。有名だった「夢見る唇」の中でベルクナアが妻を演じて、苦しいその心のありさまを病む良人のベッドのよこでの何ともいえないとんぼがえりで表現した、あの表現と同様、どうも女優そのものの体からひとりでに出たものとは思われない。寧ろ監督の腕と思う。勿論、そのなかにも女優が自分のものを活かすか、活かせないかという点でのあたまのよさ、わるさはいわれるけれども。
 ベッティ・デヴィスの「黒蘭の女」というのはどんなものだろう。ポーラ・ネグリという女優のあたまのよさは生活力でねりあげ鍛えられていて、つよい印象である。このごろ初恋につれて新しい興味をもたれているデイアナ・ダーヴィン、この女優はその歌にほんとうの濃やかな味わいがないとおりに、修業や世俗の悧巧さでおおいきれない素質としての平凡さ、詰らなさがあるように感じられる。
 日本の映画女優で、頭のいい人といえば飯田蝶子の名を誰しも思い出すようだが、森律子と似ていて、そのかしこさがやや日常性により多く立っているように考えられる。山田五十鈴、入江たか子、それぞれ自分の容姿をある持ち味で活かす頭はもっているといえようが、日本の映画は歴史が若くて映画としての世界が狭かったためか、女優のあたまにしろ感情にしろ、まだ奥が浅いと思う。このことには、日本の女の生活全体の歴史も反映しているのであるから。いかにもくっきりと、よかれあしかれ特徴を押し出して銀幕の上に自身を活かし切るようなひとは、これからにその出現を期待すべきことであろうと思う。
〔一九三九年七月〕



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