塵埃、空、花
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著者名:宮本百合子 

 今日などはもう随分暖い。昨夜一晩のうちに机の上のチューリップがすっかり咲き切って、白い木蓮かなどのように見える花弁の上に、黄色い花粉を沢山こぼしている。太い雌芯の先に濃くその花粉がついて、自然の営みをしているが、剪られた花故実を結ぶこともならない。空しき過剰という心持がしなくもなく、さしずめ悩ましき春らしい一つの眺めとも云うべきか、今頃から桜が散るまで私は毎年余り愉快に暮すことが出来ない。
 春の東京を一帯に曇らす砂塵が堪らないのが第一の原因だ。花曇りなどと云う美的感情に発足したあれは胡麻化しで、実は塵埃(ほこり)が空を覆うのに違いない。一時間も外を歩くと歯の中までじゃりじゃりになるようだ。その心持も厭だし、春は我々こそと云うように、派手な色彩をまとった婦人達が、吹き捲る埃風に髪を乱し、白粉を汚し、支離滅裂な足許で街頭を横切る姿を見るのも楽でないことだ。京都など、そのように不作法な風が吹かないしほこりは立たないし――高台寺あたりのしっとりした木下路を想うと、すがすがしさが鼻翼をうつようだ。とかく白濁りの空の下に、白っぽくよごれた桜が咲いている光景、爛漫としているだけ憂鬱の度が強い。
 けれども、今年は綺麗な桜が見られるだろうと楽しみにしている。私は或る郊外住宅地の住人となっているのだが、そこに見事な桜並木が数丁続いている。秋、落葉の頃もよい眺望であったが、花が咲いた暁、或は月のある深夜、人気なく花をいただいて歩いたら、さぞ興深いことであろうと思う。日本の春の美の一部がさっと本来の情趣をもって私の心を魅するであろう。
〔一九二七年五月〕



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