蚊遣り
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著者名:宮本百合子 

 丘をはさんで点綴するくさぶき屋の低い軒端から、森かげや小川の岸に小さく長閑(のどか)に立っている百姓小舎のくすぶった破風から晴れた星空に立ちのぼってゆく蚊やりの煙はいかにも遠い昔の大和民族の生活を偲ばせるようで床しいものです。此の夏は福島のふるさとに帰って祖母達と久しぶりで此の俳味に富んだ何とも云われぬ古風な懐しい情景に親しむことができました。夕方お星様がチラチラまたたく頃になると何(ど)の家でも生のままの杉の葉をいぶしてその紫の煙で蚊を追いやるのです。そして人々は煙を団扇で追いながら、とりとめもなく夏の夜を話し更かすのです。何か怪談のような話題でも出ますと、つい杉葉のきれたのも忘れてしまって、攻め寄せてくる蚊軍に驚いて「どうだいちっとくべようじゃないか」と云う風にまたくべ出したりするようなこともあります。風のない夜は紫の煙が真直に空にのぼってゆきますけれど、少し風の強いときは軒端にまつわりついて、薄い絹紗で柔らかに包んだように何をも彼をも美しくすることがあります。こう云う蚊やりは田舎でなくてはみられませんが、都会でも風流な蚊やり器に匂いのいい香を焚いて蚊を追うのは夏の夜のなつかしいことの一つです。
〔一九二〇年八月〕



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