ジャーナリズムの航路
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著者名:宮本百合子 

 新聞週間がはじまって、しばらくしたら「新聞のゆくところ自由あり」という標語があらわれた。これには英語で Where news paper goes, there is freedom. と書き添えられていた。新聞のゆくところ自由あり――幾里も彼方に浮んだ山の輪廓のように何となし心をひかれるようだが、実はつかみどころのない言葉。――自由がある。これさえめずらしいのに、その自由が、新聞のゆくところにあるとすれば、大新聞は幾百万と印刷され、朝ごとに日本全地方に配達されている。
 日本のいたるところにそれほど自由があって、自由な人々の戸口の前に自由な新聞がくばられてでもいるような思いちがいをおこさせる。購読者がこんにちの新聞からうけている感情の一面をあるとおりに云いあらわせば、新聞のゆくところ自由があるという言葉は、どこやら大新聞まかり通る、というようにもきこえる。その新聞が官報であろうと、植民地版であろうと、中傷的なにせ写真をのせていようと、大新聞のゆくところ自由あり、と。すさまじいようだと云えないこともない。
 小新聞の、大新聞への独占吸集が成功してから、大新聞の質は低下した。誰の目にも民主的と云えない政治的なかげをこくした。その政治性も、黄色新聞の性格である。自分の紙面に挑発や真実でない記事、事実をはっきりつきつめないで平気で社会に向ってものをいうような人々の一定の政治的傾向からの発言などがのることを、恥しいこととして感じる感覚を失わせられている。新聞週間がはじまったときの街頭録音で、発言した人々の圧倒的な希望は、新聞の公器性を自覚してほしいこと、正確な事実に立つ報道をしてもらいたいことだった。これは、全購読者の希望である。
 新聞と異常で衝撃的なニュースとを結びつけて期待しているような不幸な近代の都会神経を、購読者の側からも自省しなければならないと云われたのもあたっている。それにつられて御丁寧にも金権政治工作に毎日を買いわたしてしまっているのは、ほかならぬ購読者なのであるから。
 こんにち、ジャーナリズムの功罪は、ひとごとでなくなった。どうせジャーナリズムはますます大資本の独占的企業になりつつあるのだから、と素朴に反発するだけではすまされない。なぜなら日本のわたしたち全人民の生活は大資本の国際的な企業のあみめにはいっていて、八千万人の従順な奴隷と外国人から率直な現実指摘をうけている。外国人は日本の現実についてあるとおりに見ることができ、語ることができ、書くこともできる。当然であるその条件を、日本の人民自身が日本について語る場合、自分たちの運命について主張する場合にも持ってゆくためにこそ、ジャーナリズムは、ある甲斐のあるものでなければなるまい。ジャーナリスト自身とくに日本のジャーナリストとしてこの点にどんな熱意がもたれているだろうか。わたしは、この点についてほんとに知りたい。わたしたちの未来への設計としてそのところが知りたい。

 出版危機という表現で出版界の再編成、より大きくつよい企業へのふるいわけがはじまってから、雑誌は、大部分、編集の上にそれぞれ販売面からのもがきを示した。テラス、ロマンス類が、もとの軍情報部に働いていた人をやとい入れて、戦時秘史だの反民主的な雰囲気を匂わせはじめると、その風潮は無差別にぱっとひろがって二・二六事件記事の合理化された更生から文学にまで波及し「軍艦大和」のように問題となる作品をうんだりした。
 時期をひとしくして、天皇の一族とその宮中生活について、あれやこれやの記事がはやりはじめた。天皇が若い皇太子としてフランスに行っていたころの平民的な思い出話。高松宮が大阪で社会見学をした――と云ってもキャバレーやバーめぐりであるが、どたばたキャーキャーの記事。こういう記事は、いまのジャーナリズムで新版水戸黄門膝くり毛めいた効果をもっている。日本の人々の心に過去の幻のかげとしてのこっている天皇や宮さまというものの権威、しかもそれが、ふーんなるほど、ああいう人たちというのはそういうものなのかねえ、とつぶやかせるように、自分たちにとっての日常茶飯事において一種の型やぶり、おうようなまぬけの行為者として出現して来ているところに、こんにちのアロハシャツ的封建性への効果がとらえられている。
 乃木大将の程度のものでさえ、田舎おやじの風体で微行して、その土地の関係者が彼を発見したときの恐縮や一変した待遇をエンジョイしたことは有名である。きょうの宮さまとよばれる有閑な中年の男性たちが、あたりまえの一市民のようであって決してそうでないさかさ成金のスリルを愉しむのは、むしろあたりまえであろう。人間の笑いの中には一般人にとってあたり前のことが、どのようにあたりまえでなく行われるかというそのさまを見て、ついふきだす場合がある。そこに近親感もある。日本の伝統的な皇族への感情の習慣は、ナンセンスそのものを通じて、偶像を否定しきっていない心理を温存させてゆく。笑いや優越感をとおって屈従に近づけられてゆくのである。
 ヴァイニング夫人の「皇太子の教育」と題される文章が「皇太子殿下の御教育」と日本化された翻訳で『文芸春秋』に発表されている。このなかに彼にとって、日本にとって悲劇的な一節がある。皇太子が、教室で、将来何になりたいかという質問に答えて「私は天皇になる」と答えたという前後のくだりである。私は天皇になる――十五歳の少年にとって、これは何と自働的で無人間・無社会的、そして無歴史的な固定観念だろう。天皇というものの内容・機能の現実については何も知らされていない少年が空虚な絶対性をもって鋳出されて来ている。ヴァイニング夫人の筆致にも抑えられたおどろきがある。この悲しいあき壜のような絶対感、責任感が、どんな社会的実体でつめられてゆくか。ジャーナリズムが無関係だとは云えまい。風よけの大名屏風のように、そのときどきの折りたたみ工合でもち出されるものをただ手つだってかつぐだけでジャーナリズムの任務が果されているとは考えられない。
 雑誌の企画にあんまり雷同性がつよい。これは、多くの人を不安にしている。真の原因として何があるのだろうか。日本の民主化を鼻であしらっていない編集者たちは、一冊の雑誌に右と左とをバランスさせて、さしひきゼロ、功罪なしと採料して貰うために苦心しているように見える。これは、ひとごととして見てすぎられるようなことではない。

 昨今はいよいよ、事実を語る勇気と理性を求める意識が、せせらぎのように日本の人々の心に鳴って流れている。ジャーナリズムは金攻めの岩、自由攻め岩、民主攻めの岩々をよけながら難破しないで前進してゆかなければならない。ジャーナリストの眼には、ちらちら横に動くはやさのほかに、遠くのものを見とおせる航海者の視力と、ローリング・ピッチングにたえる脚の力がもとめられて来た。
〔一九四九年十月〕



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