ボン・ボヤージ!
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著者名:宮本百合子 

 古橋広之進君をはじめ五名の水泳代表選手が、来る十一日のパンアメリカ号で渡米する。全米水上選手権大会へ、これらの日本の若い精鋭が出場するようになったことは全日本の明るい関心をあつめている。合宿先である福田屋旅館の板前さんまでただごとならぬはりきりかたで、選手のかたは一日一里以上も泳ぐのですから、食事についても十分気をつけてと、もの惜しみしない談話が新聞にのっている。その記事を四、五人の男が珍しそうに大切そうに顔をさしのばしてとりかこんでいる写真がある。そのまんなかで古橋君は若者らしく笑っている。
 この写真を眺めて、わたしはいつか偶然N・H・Kのスタディオで同席した古橋君の笑い顔を思い出した。そのとき、幾人かの人々は、一つテーブルをかこんでかけて、ひまな時間を、低声に雑談していたのだった。古橋君が、世界記録を破った一九四七年の暮のことで、N・H・Kは戦後日本の空を世界に向って明るく開いてくれた古橋君として登場させるわけだった。
 練習のはげしい水泳選手として、寮生活の食事では無理だけれども、大体それでやっていると、古橋君はあっさりした話しぶりだった。日大は、古橋さんというポスターのおかげで、大分便宜を得ているのだし、同窓生たちにとっては、われらの青春のチャンピオンであるわけだから、みんなが協力して、せめて消耗にふさわしい食事ぐらい何とか工夫はできないものかしら、というわたしの言葉に、古橋君は、さあ、とただ笑っていた。
 その後、しばらくして各大学における運動部の内情が、具体的に描き出された雑誌記事があった。私立大のスポーツ・ボスが従来どんなにチームをくって来たか。そのために選手たちのスポーツマン・シップは危機にさらされがちであること、及び、各大学の運動部は、その学校の精神水準としては、社会的認識についても素朴な低い面を代表しがちな傾向について書かれていた。
 またしばらくすると、経済逼迫のために、古橋その他の有名選手たちが夏休みのアルバイトとして、銀座辺で漬物屋の店をひらくとか、そういう店に働くとかいうニュースがでた。そのときとられた写真の中でも、古橋君たちはやっぱり、はっきりとこだわりのない笑顔をしていた。わたしたちは、世界に選手権をあらそう若者たちに、漬物屋をさせる日本であるか、と痛切に感じた。まだ封建の気分がのこっている日本は、若人に対してほんとの人間愛に不足している。青年の新鮮な能力に負わすところは大きいくせに、ふだんの社会生活の感情のなかではその人たちの市民的生活の幸福について関心し、能力を温くはぐくむヒューマニティにかけている。時の花形になったとき、英雄に仕立てあげたときだけ、さわぐ。
 八月七日の時事新聞に「渡米選手晴れの壮行会」の写真が出ていた。ひとめ見て、何となしはっとした。村山主将が立ってマイクの前であいさつしている。左側に古橋、橋爪その他の選手たちが並んでかけているのだが、その五人はいっせいに頭を下げ視線をおとし、悲壮めいた緊張につつまれている。快活な、スポーティな雰囲気よりも、かたい決意のみなぎるこの写真の空気は、わたしに複雑な思いをいだかせた。選手諸君よ、スポーツは全く平和の事業であることを忘れないでほしい。「戦後日本青年の態度を示す」ということは、かつてベルリン・オリンピックのとき、軍国主義日本が示した国威発揚的示威に正しい批判をもつこんにちの日本青年は、世界平和のためにこそ、平和日本のためにこそ、世界の民主的青年とともに競技するものであるという態度を明確にする以外にないことを銘記してほしい。〔一九四九年八月〕



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