今日の日本の文化問題
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著者名:宮本百合子 

  序論 三つの段階
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      序論 三つの段階

 一九四五年八月十五日から今日まで二年数ヵ月の間に、日本が経験した社会生活と文化の変化は、歴史に未曾有なものであった。今日の日本の文化を語る時、私達はこの二年数ヵ月の間に経験された日本民主化のいくつかの段階の推移と、その推移の間に現われた極めて日本らしい特徴をもったそれぞれのニュアンスについての理解を必要とする。
第一期 一九四五年八月十五日――一九四六年三月頃まで。
第二期 一九四六年四月――一九四七年三月まで。
第三期 一九四七年四月――一九四八年三月頃まで。

 第一期[#「第一期」はゴシック体] 日本の絶対主義的軍事政府が、根本的敗北を認め、ポツダム宣言を受諾した後に引続き、日本全土に起った混乱の時期であった。同時に極めて活溌な日本民主化の端緒があらわれた時期である。一九四五年十月「政治信教ならびに民権の自由に対する制限の撤廃」に関する連合軍からの覚書が発表されたことは、過去三十年近く日本の全人民の良心と言論・出版の自由を抑圧していた悪法、治安維持法の撤廃をもたらした。治安維持法の撤廃によって共産党員をはじめとする民主的進歩主義者および真面目なキリスト教徒に至るまで何万人かの罪人が解放された。日本における治安維持法の撤廃は、ヨーロッパ諸国の文化人が想像もできないほど日本の民主化と平和的再建のために決定的な意味をもっている。何故ならば、日本の絶対主義的な天皇制と侵略的な軍事権力とは過去二十六年間この治安維持法によって日本のあらゆる民主的、平和的発言とそのための運動とを弾圧してきたのであるから。彼等が満州侵略を拡大して中国に及び、遂に太平洋戦争にまで日本人民を駆りたて、今日の破滅に導くことができたのは、天皇制と治安維持法のおかげであった。
 第一の時期に行われた主要な日本の民主化のための努力は左のようである。
1 治安維持法の撤廃および陸海軍刑法の撤廃。戦時特別法の撤廃。2 主要戦犯容疑者の大量逮捕。3 憲法改正。4 民法改正。5 刑法改正。6 選挙法改正。7 宗教団体法廃止。8 全外交機関の引渡し。9 財閥解体。10 農民の徹底解放指令。11 神道と国家権力との分離。12 ラジオ、映画、演劇、新聞、郵便通信、宗教、教育等の戦時的統制からの解放。13 軍国主義的教育の禁止と軍国主義的教育者の追放。軍国主義的修身・地理・歴史教育の禁止。軍事教練の廃止。軍国主義的体育(柔道、剣道)の正科禁止。
 第二期[#「第二期」はゴシック体] 一九四六年一月一日に天皇が「元旦詔書」を発表して、天皇自身従来絶対主権者として己れに附されていた神性を否定し、所謂シムボルとしての天皇の性格を明らかにした。このことは、日本の民主化の発展にとって旧権力が発明した一つの狡猾な政治的ゼスチュアであった。ポツダム宣言受諾以来、日本国内および国外で天皇の戦争責任の有無と天皇制存続の可否論は重大な関心をもって討議されつつあった。国内の民主的見解は、天皇が戦争の責任を問われるべきものと判断した。宣戦の詔勅に署名したのはほかならぬ天皇であり、天皇の名においてすべての軍事行動はなされたのであった。
 絶対主義的な天皇制の教育による社会慣習のために従来の日本人民は、人民を隷従させる諸命令、諸法律を無条件に受け入れてきた。天皇制が封建制と近代資本主義的帝国主義の悪質な統一においてファシズム化し、絶対権力をもっているからこそ、長年の戦争行為を行いえたのである。ポツダム宣言の正直な履行、日本の民主化と平和のために、反動の伝統的温床となる天皇制は廃止さるべきであるという見解は、強力な国内の民主的輿論の一面であった。
 第一期を通じて国民的討論の中心におかれた天皇制問題は、天皇および旧支配階級に深い脅威となっていた。そこで彼等は人民の社会的感覚があまり民主化されないうちに、すなわち人民の人間的権利についての自覚は目覚めつつあるが、習慣に根ざした隷属性や迷信が、あまり見事に払拭されてしまわないうちに、天皇および天皇制を妥協的な形で再確立するのが賢明であると考えた。「元旦詔書」はその手はじめとして決して不成功ではなかった。一月三日の夜、NHKの報道放送で文学博士和辻哲郎は、天皇制護持の哲学上の基礎づけを行った。文相安倍能成は二月十一日、日本の建国記念日とされている日に、大和民族の優秀性を意味し天皇制の伝説の発祥である建国神話の再認識を求めた。岩波書店出版の雑誌『世界』三・四月号に文学博士津田左右吉の天皇制護持の立場からする皇室論があらわれた。当時の教育局長田中耕太郎は教育勅語を自然法的なものとして、この勅語が国民教育の基準となり得ることを主張した。戦時中は中立的立場に立っていた学者、または津田左右吉のように日本歴史の解釈において治安維持法に触れそうになり著書の発売を禁止されていたような学者が、天皇制護持のための活動を行ったことは、天皇制に対する意見の動揺している一般市民、学生、知識人にとって、その判断のはかりを天皇制承認に傾かせるおもりとなった。
 政府はこのようにして準備した社会的雰囲気の中でとり急ぎ第一次憲法草案を発表した。この憲法草案の特徴は依然として天皇の特権を主張しているところにあった。
 畸型的な民主化憲法が草案として討論されている間に、天皇は自身と旧勢力のための選挙運動をはじめた。東京都下その他各地方への巡幸がはじまった。これまでの神としての天皇から人間天皇への困難な転換をおかしながら。
 この期間もっとも進歩的な民主的見解を代表する日本共産党は、天皇制の廃止を主張した。しかし天皇およびその一族の処置の問題は今後の全日本人民の意嚮によるものとした。ポツダム宣言受諾後最初に行われた四月初旬の総選挙に当って保守的政党のすべてが団体の大小を問わず、その政策として主食の配給改善とインフレーション防止と天皇制護持とを掲げた。日本社会党も即時社会主義実現と並行して天皇制護持を綱領とした。はじめて政治の舞台に登場しようとする婦人代議士立候補者たちも婦人の問題は婦人の手でというスローガンとともに天皇制を護持した。日本中に数百万の未亡人を出し、孤児を出し、家庭を崩壊させたのが天皇の宣戦詔勅であったのに。
 このようにしてきわめて短期間に、日本の民主化の純粋性は失われはじめた。本質的に保守と反動の政策が民主化の道へ大幅に流れ出したのはどういう原因からであったろうか。このことはもちろん国内の根強い封建的伝統を決定的な理由としている。同時に金の匙から食べていた者は何時になっても彼等の金の匙を捨てようとは欲しない。これは世界共通の現象である。その上、七十年以上封建的な絶対主義と軍国主義に馴致され、最近数年は半狂乱の戦争熱であおられていた日本の人民にポツダム宣言を受け入れさせ、軍隊を解散し、敗戦を認めさせるためにはその半封建制そのものに利用価値があると考えられたのであろう。天皇がラジオを通じて敗戦を認めポツダム宣言受諾を宣言したことは、その一つのあらわれであった。一九四五年八月以後の混乱期に東久邇宮を内閣の首班としたのもこの方法の一つであったろう。日本の民主化と国際平和のために、日本における天皇制の利用がなお真実な価値をもっているであろうか。このことは、今日において、世界の良心的なすべての民主主義者にとって正しく判断されるべき課題である。民主的な占領政策の実現と日本の民主化を実現するために天皇制が最後の奉仕を行い得る限界はすでにすぎている。日本国内の旧支配権力は天皇に対する連合国側のこの利用的譲歩の技術に乗じて全くそれを悪用している。彼等は一九四五年八月以来、公職から追放された政治的・軍事的有力者の利害を結集して裏面に反動的支配勢力を組織した。
 人民の眼からかくされている上層部の裏面的な政治勢力は、内閣および議会をかいらいとして表面上は財閥解体令を受け入れながら緊急金融措置令によって新円切換えを行い、さらに半年のうちに第二回の金融措置(一般に預金封鎖とよばれた)を行って特権的階級に手厚い保護を与えた。財産税の処理方法は多額納入者により便宜な支払方法を決められた。その上、財産税の用途には軍需生産業者の損失に対する国家の補償が含められた。
 一九四六年三月以降第一回金融措置令以後インフレーションは急に上昇した。物価は目立って高くなった。税率が引き上げられた。これらすべての事情は、戦争によって経済的支柱を失った多くの家庭をはじめとして全人口がそれぞれの角度から戦災者である勤労階級の生活をますます急迫させた。一九四六年から四七年の二月に至るまでの時期、日本全国に待遇改善、賃金値上げ、職場の民主化等を主眼とする労働争議が続発した。その中心に合法的な活動を認められるようになった労働組合が立った。人民の創意から食糧事情の改善を政府に要求する大示威運動も行われた。
 吉田内閣は人民が生活危機によって激昂している時局を収拾するために、GHQのあっせんによってアメリカからの食糧輸入を求めた。同時に社会秩序保持の声明を行った。読売新聞社の争議が社長馬場恒吾と政府との協定によって弾圧され、食糧メーデーの時使用されたプラカードの天皇諷刺の字句を理由として、それを書いた労働者が不敬罪で起訴された。当時吉田首相が一記者に語った言葉は深刻に日本の民主化の逆流現象を反映している。彼はインターヴィウにおいて、次のように語った。「占領第一年を回顧するときわれわれ老保守主義者は民主主義の一大進歩を認める。余は昨秋外相に就任した際は連合軍の政策に対しある程度の疑念を抱いていたが、現在ではわれわれは民主主義を当時より安易な気持で受入れることが出来る」(『日本経済新聞』九月七日号)
 労働法における勤労階級の権利を、資本家とその権力の利害と妥協させる一機関として中央労働委員会が組織された。労働者の争議に対して経済者は暴力団を使用した。表面上解体された特高警察はより陰険な謀諜網をもって秘密に再組織されている。GHQの三字は支配階級によって自身の官僚主義を拡大強化する便宜に使われている。
 一九四七年二月一日を期して行われようとした全官公労働組合中心のゼネストは、その現実的原因を生み出した日本の支配者の失政をより少く追求ししつつ勤労者の労働運動の自由の範囲を縮少して限定した声明によって抑えられた。敗戦国である日本において労働運動の自由が認められて一年半を経過したとき、労働者のゼネスト権が否定されたことは国内および国際的に資本主義の経済事情が急速に危機に向っていることを証明している。
 この間に、議会では憲法改正案の審議を進めつつあった。一方に天皇制を護持しつつ、民主的憲法を制定するという矛盾した仕事のために、様々の紛糾を重ねた。衆議院では、この憲法改正案審議について、滑稽な幕間劇が行われた。日本社会党は、社会主義とともに天皇制護持を強調して来ていたところ、思いがけなく、改正憲法の基本的性格として「主権在民」の規定をするべきことを、保守党である進歩党によって提案された。社会党は、不意うちをうけた。「主権在民」を基本的性格とする憲法改正案は、このような幕間劇をもって十月貴族院本会議を通過し、翌十一月三日公布、一九四七年五月三日に施行されることになった。「主権在民」の新憲法は、日本にはじめて基本的人権の確立に関する諸項をもってあらわれた。男女平等も承認され、良心の自由も明記されている。しかしながら、この「主権在民」には余りに日本的特徴がつよくあらわれていて、国内の民主的な有識人および国外の有識人をおどろかした。それは、この改正憲法中になお天皇に関する特別な数箇条がふくまれていることである。その数箇条において天皇の世襲的な地位、それによってもたらされる身分の差・経済基礎が確保されており、少くない命令、決定の権利が天皇に掌握されている。一定の国の人民が天皇によって召集される議会をもつ、ということは、議会へ天皇も出席するということとは、本質的に別のことである。一九四六年に日本の人民は、このようにして換骨脱胎させられた「主権在民」憲法をもつに至った。

 第三期[#「第三期」はゴシック体] この時期の特徴はインフレーションの進行につれて生計費の高騰のために、人民が一層の生活困難におちいった事実である。一九四七年四月に行われた第二回総選挙の結果、社会党が第一党となった。社会党首班の内閣を組織するについては保守政党との間に幾多の紆余曲折があった。日本における大財閥を背景とする自由党は社会党が総選挙で勝利したことを日本における勤労大衆の急進勢力の進出であるとみて、吉田自由党総裁は選挙直後、組閣行き悩みの際に公然と反共声明を行った。前項に引用した記者との会見談の内容をみれば、自由党が日本の民主化の停頓や逸脱を決して悲しんでいないことは明瞭である。自由党のこの反共声明は社会党左派といわれていた同党内のより少い反動主義者のグループの一部のものに極めて注目すべき喜劇を演じさせた。内閣の椅子を占めることに対して情熱を感じた左派のグループ中、加藤勘十と鈴木茂三郎等が中心となって外国記者団を引見し、社会党左派が共産党に接触を保ってきたのは、勤労大衆を同党の組合総同盟に獲得するためであった。今日この目的はほぼ達せられたから今後共産党とは絶縁するという意味の声明を行った。この声明はただちに日本国内にも反映し、社会党左派の一部がとったその態度は保守的政党の嘲笑を買ったばかりでなく、社会党左派そのものの内部から激しい批判を受けた。
 片山哲を首班とする三党連立内閣はこのような悲喜劇のうちに成立した。自由党は野党になった。彼等の目的は野党として大衆の間の保守勢力を拡大するところにある。
 日本の民主化の現実の過程では人民的な基礎に立つ民主戦線の結成を拒否し勤労大衆の急進化を恐れつつ、その反面には自党の政策として社会主義的建設をかかげている片山内閣が、吉田内閣の悪政の結果、山積している重大課題をどう解決したろうか。
 日本ではじめてクリスチャンであることを政治家の人間的プラスの面としておしだしたのは片山首相であり、その何人かの閣僚たちであった。クリスチャン首相が第一声としてインフレーションに苦しむ勤労大衆に要求したのは耐乏生活であった。つづいて六月十一日に八項目から成る「経済緊急対策」を発表、同十九日に業種別平均賃銀千八百円ベースを公表した。森戸文相と笹森国務相によってとり急ぎ「新日本建設国民運動要領案」が発表され民間各方面の代表者に協力を求めた。七月には経済安定本部の「経済実相報告書」を発表した。引き続き生活必需品の流通を適正化するために公定価格の引きあげが行われた。
 千八百円ベースは四・二人世帯の家族を基準としてすべてを公定価格で算出した数字である。現実に公定価格の配給食料で生命が保てるのは辛じて三分の一ヵ月である。しかも日常消耗品のすべては配給では間に合わない。せっけん、紙に至るまで。配給を円滑にするためとして行われた公定価格つり上げは、日常生活に大きい部分を占めているヤミ物価の上昇をもたらした。千八百円ベースというものがインフレーションの現実の中でどんなに非実際的な数字であるかということは一九四六年六月頃までの世界の生計費指数の統計をみても分る。

 世界生計費指数[#「世界生計費指数」はゴシック体](国際連合調)一九三九・一―六=一〇〇
[#ここから表罫囲み]
[#行項目名のタイトル]年月
[#列項目名は2段組、1段目]アメリカ イタリー 日本 フランス
[#列項目名2段目は1段目をそれぞれ2分割]綜合 食糧 綜合 食糧 綜合 食糧 綜合 食糧
[#1行目]一九三八年平均 一〇二 一〇三 一〇〇 一〇〇 一一一 一一一 …… 九三
[#2行目]一九四一年平均 一一八 一三一 …… …… 一五二 一五七 …… 一三九
[#3行目]一九四五年平均 一三〇 一四七 …… …… …… …… …… 三五一
[#4行目]一九四六年三月 一三一 一四八 二、三〇六 三、二四七 三、五九〇 四、五〇〇 …… 四四八
[#5行目]     六月 一三五 一五四 二、三二四 三、三三七 四、〇〇〇 五、一三〇 …… 五三八
[#底本ではリーダー(……)はダッシュ(――)]
[#ここで表罫囲み終わり]

 東京の自由およびヤミ物価指数を調べてみると次表の通りになる。

 東京物価指数[#「東京物価指数」はゴシック体](東京商工会議所調)
       昭和二〇年一一月六日=一〇〇
[#ここから表罫囲み]
[#項目名] 食糧 衣料および日用品
[#1行目]一九四五・一二月 九八・二 九七・六
[#2行目]一九四六・七月 一六五・二 一三七・八
[#3行目]一九四七・六月 三四八・七 三二五・四
[#ここで表罫囲み終わり]

 ナチスの侵略によって民族生活を破壊されたフランスにおいてさえ一九四六年の六月の食料品指数は六倍弱の高騰であり、ファシズムの犠牲となったイタリーにおいて食料は三〇倍弱であるのに、日本は五〇倍弱に騰(あが)っている。以来今日まで日本の物価指数は三つ四つの段階を経てとびあがりつづけている。
 一九四七年九月の予定的な計算でも千八百円基準の生計費は一ヵ月の公定価格による支出一、三五一円九八銭、自由購入による支出一、六八一円一二銭となって合計三、〇三三円一〇銭となる。したがって家計失調は日本において全般的な状態で、この事情は業種別勤労者賃銀表と見くらべると深刻な日本の全人民層の生活難を語っている。一九四七年七月統計局調査によればもっとも収入の高い軌道労務者男子一ヵ月三、七二六円五、婦人一、九七八円であり、婦人勤労者のもっとも多い紡績工業においては男子労務者一ヵ月一、四五五円六、婦人六〇九円である。職員は待遇が差別されていて幾分か増額されているけれども男子労務者と婦人労務者との間にある殆ど二対一のひらきは総(あら)ゆる生産場面の男女差別待遇としてあらわれている。日本では戦争によって全人口中三百万人の女子人口過剰を来している。過去のあらゆる時代に経験されなかったほど婦人の経済的独立の必要はつよく一家の経済的責任の負担が増大されている。改正憲法の上で男女平等がいわれ、平等の選挙権を持ち、半封建的な民法が改正されたとしても、社会生活の基礎である勤労とその経済関係で婦人が男子の二分の一の待遇におかれている事実は注目すべき社会現象である。労働省の中に婦人局が設けられた。これはアメリカの“Woman's Bureau”を模倣したものであるが、日本の官僚主義は婦人局の活動第一歩において婦人局長たちに、予算の不足をすべての不活動の理由とさせている。
 片山内閣が七月初旬に経済安定本部から発表した「経済実相報告書」は明からさまに日本の国民経済の破滅を告白したものであった。この報告は「経済白書」とよばれた。「白書」は一方に外資導入について、それがさけがたいというおおざっぱな諦めを持たせ、中小工業の破産を止むを得ざる事態と認めさせ、公定価格つりあげの基盤としても役立てられた。閣議によって全国の飲食店営業停止を行い、ヤミ市をとり締り、各駅でヤミ買いの厳重な監視が行われた。しかし「白書」は物価騰貴の顕著な一つのスプリング・ボードであった。新聞の多くの漫画は小さなヤミ買出し人が背中の荷物で警官にきびしく調べられている横を隠退蔵物資のトラックが堂々と走って行く光景を諷刺した。運輸大臣であった苫米地は地方にいる息子から不正な大量物資輸送を受けて辞職し、息子は収監された。世情を騒がし全国的な連累関係をもっている「世耕事件」が起った。この軍需品払下問題にからむ大規模な詐欺横領事件は経済問題から保守政党の党費にからむ政治問題になった。宇都宮の「狸御殿」事件も大規模な詐欺横領であった。食糧買出しに狂奔する婦人がさまざまのヤミ取引の間に道徳的堕落に誘われたばかりでなく「小平事件」のように米をきっかけに若い娘に対する殺人事件もあらわれた。
 犯罪数の増加と方法の残酷さとは市民生活を絶えず不安におとしいれているし、「夜の女」と浮浪児の生活救済について政府は全く無力である。それどころか一九四七年の夏には浮浪児収容所の監督者が逃亡しようとした少年を拷問虐殺した事件も起った。
 片山内閣は思いがけないエネルギーを発揮して、日本の半封建的社会の伝統として存在していた博徒の大親分関東尾津組の親分をはじめとして大小の親分を検挙した。ヤミ市の元締であり新興マーケットの元締であり恐喝常習の暴力団であるこれらの徒党の検挙と団体の解散は、一般市民に好感をもってみられた。関根親分の検挙にからんで元行刑局長正木亮がその法律顧問をしていたことが明らかとなった。また篠原組親分の実質的協力者は塩野前司法大臣であったこともしられた。或る者は皇族の一家と関係をもっており、或る者は自由党に関係があった。輿論は自由党の経済的毛細管であり、動員網であるヤミ市の繩張り顔役の勢力に、社会党が一撃を加えたものと認めた。
 同時に一般市民は片山内閣そのものの腐敗した構成にも驚かされた。苫米地の事件をはじめとして平野元農相の資格失墜問題、西尾官房長官の資格についての疑点等が党内の勢力争いとともに公表された。
 片山内閣のこのような弱点に人民の不信頼が向けられるようになったのは、経済再建に示された無力さと同時に前年以来日本の国内にきわめて確実に拡がってきた軍国主義的反民主的底潮に対する警戒からである。戦争責任の追求は政府によって実に申訳的に行われている。パージからのがれるためにさまざまの手段が用いられ、その効力があるような余地が残されている。急進的な勤労人民の民主化を防ぐため、いわゆる力の均衡を保つため秘密のうちに旧陸軍将校、憲兵、ファシストを中心とする反動勢力が培養されている。一九四七年の秋一斉に新聞に特ダネを与えた「地下政府」の存在を片山首相は否定したけれども諸外国はその実在を知っている。日本を愛し民族の自立を期待し徹底的な日本の民主化によって世界の平和的な再建に参与したいと希望している真面目な日本人は、反動勢力の意識的な培養について心痛している。印度においてもアラビヤにおいても培養された反動勢力は、その国の平和的民主化をかきみだす役目につかわれている。その民族を衰退させるための出血に役立てられている。そして、それはとりも直さず世界平和の不安定をもたらしている。東條を中心とする戦争犯罪者の公判のために前年から開かれている東京裁判の陳述を見ると、被告の殆ど全部が侵略戦争に対する人道上の責任を自覚していない。その上被告のための日本側弁護人法学博士清瀬一郎は被告たちの無良心を彼の厚かましい弁舌によって世界の正義からいいくるめようとした。戦時中戦争協力者であった清瀬一郎弁護士が日本側弁護人首席として登場したことに日本の民主的市民は驚いたのであった。元元老たち、その中には米内元海軍大将を含む四人が、シャンパンの盃をあげている写真が新聞に出た意味も、それが民主化とどう関係するのか理解しがたかった。日本のファシストとして大活躍をした反動者を含む二十人の戦犯人がA級戦犯被告としてとりのぞかれた事実も耳目をあつめた。特に、このグループの間に安倍源基のいることは、日本の治安維持法がどんな惨虐を行ったかを知っているすべての人々の注目の的である。安倍源基は、一九二八年以来、日本の人民の良心を奪い自由を抑圧して来た治安維持法そのものの、人格化された存在であるとさえいい得る。彼は、警視庁特高部長、警保局長、警視総監、という着実な一歩一歩を、自身の経歴に重ねた。安倍源基の閲歴そのものが、日本のファシズム強化の具体的表現であり、戦争拡大の地図である。彼の一歩一歩の立身は、彼の指揮する弾圧によって殺された人々の血にみたされている。そしてこれは決して誇張ではない。日本の治安維持法は十万――人の犠牲者を出しているのである。
 日本に治安維持法があったということと、その法の適用にあたってあらゆる残虐・虐殺が行われてもよかった、ということとは別である。もしこの二つの別なことが一つのこととして理解されてよいならば、現在東京裁判が、捕虜に対する残虐行為者を公判していることはその人道上のモラルを失うだろう。
 日本の人民の悲劇のなかにファシストと治安維持法の演じた役割は中世的流血をもって彩られている。今日、日本の誰が、ファシストを必要としているのであるか、今日、誰が、治安維持法の改悪の諸段階を一身の閲歴としている人物を必要としているのであるか。
 日本民主化は四七年度において欺瞞の度を強めた。反動と保守が政府の政策のたて糸であった。一九四七年末から四八年初頭にかけてすべての日本人民は巨額な納税の負担に苦しんでいる。インフレーションはとめどがない。千八百円ベースは保ちきれなくなって、二千四百円ベース案を政府は提出しているが、勤労人民は、それをうけ入れかねている。千八百円ベースに、家族手当や残業手当その他の給与を加えて、今日どうやら実収二千円以上に近い程度の大多数の勤労者は、二千四百円ベースになると、却って実収は現在より減少する。勤労所得税がより高率にかけられることと二千四百円ベースには今日の諸手当が全部合算されてしまうからである。勤労人民が生活安定を求めて団結する力を扱いやすい形に分裂させるため、組合民主化運動と称する分裂運動が盛に行われている。この運動は、その本質にふさわしく買収の方法もとっている。一般市民の過重な課税に対する抗議と官公庁勤務者たちの生活安定のためのたたかいとは互に共通な生活擁護の必然を理解しあっている。
 片山内閣は難航の末、一九四八年二月十日総辞職をした。すべてのジャーナリズムを動員して吉田の自由党支持の世論をまとめようとした。しかし一ヵ月後に辛うじて形成されたのは芦田内閣である。芦田内閣は、その第一歩において二千四百円ベースの問題で波瀾に面し、その反面では、西ヨーロッパにおけると同様に日本に対する集中排除法の緩和に関するドレーパー次官との折衝に尽力している。
 日本政府は追放に関する諸機関の任務が遂行されたものとして一九四八年五月十日までに審議終了、廃止することを公表した。一九四六年一月の追放令発表以来、今日まで審査件数約百万。追放該当者二十万人であった。
 日本の社会および文化問題として、この追放該当者の行方が問題である。日本の民主化に関係をもって、日本の「民間人」の素質を検討することがきわめて重大な課題である。元陸海軍軍人の上級者が軍需物資を持参金として民間会社社長その他に転化した事実について知らないものはない。追放に該当したファシストたちが、「民間の塾」を開いたり、「民間のジャーナリスト」になったり、開拓者になったりしている例は少くない。一九四七年の夏、軍事的半封建的なシステムをもって運営されていた町会が解散されたと同時に、各町会役員の変形した活動舞台である「文化会」がその町の顔役やボスによって組織された。日本の「民間的」諸企画は周密にその本質をしらべられる必要がある。
 一九四八年三月に、右翼反動団体の財産否定に関する指令と、農場開拓に関する制限の指令がGHQから出されたことは日本の現実における「民間」の複雑性に対応する処置であると認められる。
 日本の人民にとってこの世紀の基本的課題は、真に民主的な本質における民主主義によって徹底した社会を確立することである。文化の全問題はこの基本的な課題の線にそって検討されるものである。


[#改頁]



      □ 新聞・通信・ラジオ 出版 雑誌 書籍

        1 新聞・通信・ラジオ

          A 新聞[#「A 新聞」はゴシック体]
 戦争中日本人民は正確な言葉の意味においては「新聞」をもたなかった。あらゆる日本の新聞は戦争遂行のための宣伝機関紙であった。国民は毎日二頁の軍事官報を読まされていた。一九四五年八月十五日以後に全人民はこれまでよまされていた大本営発表がほとんどすべて虚偽であったことを知って驚いた。

 第一期[#「第一期」はゴシック体] 治安維持法をはじめ言論・出版の自由を抑圧していた法令が撤廃されると同時に、新聞民主化の動きは経営者側からというよりもむしろ読者と編集者たちとの間からたかまった。読者のための新聞、日本の民主化にふさわしい新聞の編集という要求によって紙面の刷新が行われた。社説は輿論の中心題目であった天皇制の問題、農地改革と日本の農村民主化の問題、労働人権擁護問題、憲法改正問題、総選挙について活溌にとりあげた。封建性に対する批判、官僚主義の批判、金融財閥に対する批判、戦争責任追求についても積極的であった。各新聞が投書欄を拡大し調査機関を再建した。新聞が勤労階級の民主化に助力する可能を多くするために漢字制限を行った。戦時中日本全国に日刊新聞社五十四社があって、大体一県一紙主義で統制されていた。そして数年来新聞の共同販売制が実行されていたため各社間の競争がなくなり、読者は受身に配給される新聞にあまんじた。各紙とも低調におちいった。一九四五年以後言論の自由と出版の自由とのために全国に日刊紙が続々と発刊されはじめた。そして一年後に、新しく生れた新聞社は百数十社を数える。
 各政党は何らかの形で自党の新聞発刊を計画した。日本共産党は機関紙として『アカハタ』を発刊した。日本社会党は『社会新聞』を発行している。自由党、民主党その他の政党は自由党が読売新聞を操縦しているようにそれぞれの新聞との間に経済的政治的関係を保っている。

 第二期[#「第二期」はゴシック体] 新聞が軍事的官報でなくなることを強力に宣伝することが戦後の新聞経営者の繁栄のために必要な仕事であった。第一期間、経営者が新聞の自主的な民主化や従業員の組合活動の自由を受け入れていたのはこの理由によった。第二期においては経営者のおそれた新聞経営事業の前途は比較的安全であるという見通しがついた。新聞関係の戦争責任追及も彼等が心配したほど徹底的には行われなかった。用紙不足は全国的現象であるが割当は紙の全消費量の八〇パーセントを与えられている。同時に吉田内閣の反民主的政策の現れとして全般的に勤労者の自主的民主化運動への反撃が開始されたために、紙面が沈滞の傾向をたどり、経営者が発言権を回復した。読売新聞社の第二次の争議勃発とその結末とはこの時期の新聞界の波のさしひきを代表的に示している。特筆すべきことはこの期間に各種労働組合の機関紙が発刊されはじめたことである。
 これまでの日本にはなかった文化新聞も発刊されはじめた。日本民主主義文化連盟発行の『文化タイムズ』、人民新聞社『人民しんぶん』、青年新聞社『青年新聞』、YWCAの機関紙『女性新聞』。
 婦人のための新聞が発行されはじめたことは婦人の参政権獲得と婦人の生活の民主化のために注目されなければならない。やや保守的な傾向のもとに編集されている『日本婦人新聞』のほか日本の民主化にひろく貢献するために発行されている『婦人民主新聞』がある。
 盲人のための点字新聞は戦盲者のために重要な必要があるが、これは毎日新聞社発行の一種類しかない。
 子供のための新聞は『子ども朝日』、『学童新聞』、『こどもの声』『少年少女新聞』等が発行されている。
 グラフィックが流行していることも注目される。『サン・ニュース』はその一つである。

 第三期[#「第三期」はゴシック体] 各新聞社は確実な営利事業である経済的利益を守るために、第一期の活溌な民主化への協力的態度をすてて意識的に保守勢力に追随し後退した。一九四五年九月に発表された日本への「新聞紙法」―プレス・コードは日本のすべての新聞に報道の真実を守り民主的な新聞の責任を示した十箇条から成りたっていた。第三期に入ってからプレス・コードは日本政府の微妙な形での統制と、その時どきの政権にとって有利の方向へ輿論をおしながしてゆく便宜のために利用される傾きが明らかに見られるようになった。各新聞は、国際政経記事において貧弱である。諸外国の新聞の報道に遅れていることはもとより、報道そのものが往々「報道の真実」である客観的な国際現実をゆがめていることもある。戦争中の御用新聞であったときの習慣である卑屈さと、半封建的な権力への屈従の因習が清算されていない。そのために、民主国の大統領の写真や言説が、最近まで天皇を扱ったような時代錯誤的な取扱いをされたり、日本における連合軍の首脳者が、天皇のような半封建的空気につつまれて新聞紙上に扱われたりする場合もある。このような現象は、日本の新聞人の神経が外国の新聞読者にみられない屈従の習慣をもっていることを示すと同時に、その対象となる個人の社会的利益のために少くないマイナスであると思われる。何故ならば、一人の民主的な社会活動家が、進駐先の諸新聞に半封建的な権威をもって扱われているのをみれば、本国の民主的有識者はそのような状況に対して批評なしにはいられないであろうから。日本の新聞人は、世界の新聞人の精神的確固性にまで解放される必要がある。
 今日の日本人民は英字新聞『ニッポン・タイムズ』や、もし事情が許すならば『スターズ・アンド・ストライプス』などを併読しなければ自分の国の事情についても充分に知ることは出来ない。しかし人口の過半数は英語のよめない人々である。日本の民主化の困難はここにもある。
 労働組合が組合新聞を発行するようになったことも日本では新しい民主的な現象である。産別機関紙『労働戦線』、総同盟機関紙『労働』その他多くが発刊されている。
 従来日本の専門学校および大学で新聞学科の学生が中心となって編集した新聞を発行し、それは学内ばかりでなく一般に読まれていた。『帝大新聞』、『三田新聞』、『法政大学新聞』、『関西学院新聞』、商大の『一橋新聞』等は代表的なものであった。ところが戦争がすすむにつれ若い有識人を戦争に対する非協力な精神状態から極力戦争へ動員するために、また残酷な学徒動員のシステムを青春のヒロイズムにすりかえるために大学新聞は次第に官報的統制におかれた。学生新聞として本質的な理性の声が封じられた。そして太平洋戦争に入る頃から学生新聞は全般的に廃刊された。
 一九四六年の中頃から学生新聞の再刊に着手された。今日では従来代表的であった諸新聞のほかに他の学校でも用紙の許すかぎり自分達の学生新聞を発刊しつつある。
 児童のための新聞として次のようなものがある。日本教員組合が発行している『こどもの声』のほか『学童新聞』、『少年少女新聞』、中等学校初級向きの『ジュニア・タイムス』その他がある。
 現在日本で発行されている外国人経営の新聞は左の通りである。
『スターズ・アンド・ストライプス』(GHQ)、『ビーコン』(英連邦占領軍)、『中華日報』(中国人経営日本語版)、『国際タイムス』(朝鮮人経営日本語版)、(朝鮮人経営朝鮮語版)、『国際新聞』(中国人経営)、『自由日報』(同上)
 在日特派員クラブは現在六十一名の会員をもっている。
 新聞用紙不足は一九四七年に入ってますます悪化した。各社は二月から五月までの間に二十四回タブロイド版の新聞を発行した。
 新聞の定価は次のように高くなった。
四六年八月(一ヵ月)八円
四七年五月(一ヵ月)十二円五十銭
四七年十月(一ヵ月)二十円
 ヤミ新聞 新聞用紙の正当な割当配給を受けないで発行されているヤミ新聞は大体八七三紙に及んでいる。各紙とも一部一円または二円で売られ、最大発行部数が週五、〇〇〇部位である。ヤミ新聞は多く強制的な広告集めや寄附強要などによって経営され反民主的な政争にきたない役割をもっている。一九四七年八月十一日民間情報教育局新聞課長インボデン少佐の名によって絶滅の方向が示された。

          B 通信[#「B 通信」はゴシック体]

 新聞を軍事的官報とした旧支配者は日本にただ一つ官製の通信社として同盟通信社の存在を許していた。同盟通信社はそういう本質からきわめて積極的に戦争協力をせざるをえなかった。一九四五年八月以後同盟通信社の再編成が試みられ、同盟通信の業務を二分して共同通信と時事通信の二つの社に分れた。共同通信社は東京および地方の有力紙十四社が設立に参加した。この社は同盟通信社の純通信事務を受け継いだ。時事通信社は同盟通信社時代の全職員を株主として合作社の組織をもった。時事通信社は新聞社以外の個人・団体を目標とする日刊新聞社である。この再編成は一九四五年十一月に行われた。
 一年のちには社会通信社、労農通信社その他合計十二の通信社がつくられた。
 新聞の活動が第三期に入ってからは、各種通信社の自然淘汰が見られ始めた。

          C ラジオ[#「C ラジオ」はゴシック体]

 一九四五年三月日本全国のラジオ聴取者は七、四七三、六八八戸あった。四七年七月には五、八六一、六三四戸(内無料九五、〇九六)に減少している。戦災が彼らの家とともに受信機を焼いた。ラジオ機械の生産能率はまだ非常に低い。二百万台の受信機の生産と二百万台の修理をしなければ七百万人の聴取者の要求を満しえない。ラジオ受信機の価格は現在一台戦前の四十倍になっている。
 聴取料は四六年四月の二円五〇銭が四六年九月には五円、四七年九月には十七円五〇銭と上っている。
 日本の放送事業は財団法人日本放送協会の独占的事業である。半官半民の形態はとっていても、本質的には逓信省の古い官僚の溜り場である日本放送協会は戦前既にプログラムの低調なことで非難を受けていた。戦時中日本の放送は、新聞よりも一層直接な戦争煽動と宣伝の役割を果した。戦争の数年間にラジオが放送した唯一の真実のことは一九四五年八月十五日降伏の宣言であった。すべて虚偽の大本営発表によって日本人民はたぶらかされてきた。
 一九四五年八月以後、日本におけるラジオの民主化の問題はきわめて重大な意味をもった。一九四六年一月、GHQはラジオ民主化のために特別な覚書をもって、民間の進歩的学識専門家十数名からなる放送委員会の設立を助けた。放送委員会は日本放送協会から独立した存在である。委員会は官僚的な独占事業である放送事業を民主化するために、第一に必要な機構改革に着手し、従来の戦犯の会長と旧首脳部が退陣したのちに、新しい会長高野岩三郎博士を選んだ。高野博士は、もと東大教授であり、大原社会問題研究所の所長であり、共和主義者と信じられていた。
 放送委員会は、新会長の選出にひきつづきプログラム編成上の改善、放送技術の向上および協会内に巣喰う情実のくもの巣をはらって、放送現状の各機構が民主化されることを希望したが、協会内の旧勢力は、表面上退陣したのちもさまざまな形に変ってその影響を新首脳部の日和見的な打算と結合させた。放送委員会は、新会長までがあらゆる場合に民主的な判断とそれに従う行動とをとらないことを遺憾とした。
 NHKは力をつくして変らないことのために努力しつづけてきている。この事実は、目下審議中の放送事業法案の草案作製の過程にもあらわれている。この法案の草案は、放送委員会案、従業員組合案、逓信省案、放送協会案、以上四通りの草案が審議されつつある。協会案は実質上の現状維持を主張している。放送委員会案は、日本の放送事業が官僚統制と無良心な商業主義の支配からまもられるために、民間の専門学識者による委員会によって管理されることを主要な論点としている。そして日本の民主化と世界の平和のために、特定のあらゆる権力に従えさせられることのない公器としてのラジオ放送事業をのぞんでいる。他の二つの案も、ある点ではこの委員会案に一致している。しかし放送協会は猛烈な舞台裏工作を行って、現状維持に努めている。適当な時期にこの法案に関する公聴会がもたれることが適切であろう。
 放送プログラムは四五年八月以後、軍国主義的宣伝を根絶するとともに民主化の方向へ急速に動いた。出演者の顔ぶれも範囲を広められ、放送内容もある程度までは民主的になった。日常のプログラムでは社会層別のプログラムまたは職場向きのプログラムが新しく考慮されるようになった。婦人、子供、学校、教師、学生のための時間および勤労者、農民、炭礦および引揚者の時間があり、東京裁判録音は裁判の開始と同時に放送されている。
 NHK(日本放送協会)では、一九四七年四月の地方長官選挙にはじまる各種の選挙に対して全国四五局のマイクを解放して前年の総選挙同様各候補者の政見発表を放送した。全立候補者の四四・一%が放送し、これに九一八時間三五分三〇秒が使用された。
 ラジオの民主化の段階も新聞とともにはっきり日本の民主化の三つの段階を反映している。一九四六年の総選挙のとき、明らかな積極性をもって日本の最初の民主的選挙に協力した放送協会は四七年度の選挙においてはラジオの公器性の必要とする範囲に活動を消極化した。さらに、四八年に入ってから地方の補欠選挙において地方放送局のある所では、民主的立候補者のために不利な差別的扱いをした例がある。こういうような場合、日本の保守的な官僚は必ずその責任をその土地の軍政部の責任に転嫁する。この日本官僚の悪習は、いたるところにあらゆる形でみられる。電力飢饉に関連して、いわゆる「進駐軍の命令」が悪用された例をみてもわかる。
 プログラムの新企画として、「先週の国会から」、「放送討論会」、「街頭録音」、「ラジオ探訪」などが行われている。
 街頭録音は一般人に自分の思っていることを発表する習慣をつけるために、民主的な発言の習慣をつけるために役立ちつつある。マイクが近寄ると逃げていた人々が自分からマイクに向って話すことをのぞむ率が増えた。年寄と若い婦人がより多く発言するようになったことは注目されている。しかし街頭録音はアナウンサーの指導や暗示や整理によって発言の総和が特定の方向にまとめられる弊害が顕著である。放送委員会はこの点に注目して世論委員会を設け、輿論がつくられることを防ぐ責任を明らかにした。街頭録音の場合アナウンサーが自分の見解によって発言者の言葉を中断したり、カットしたり、モンタージュしたりすることは事実上一種の言論統制であるとして注意を促した。
 放送討論会は第一回総選挙を機会として開始された。五大政党の政策についての討論から始められ次第にテーマを拡大した。婦人代議士はじめ各界の婦人も登場した。これも昨今は、はじめの素朴さを失った。特に供出に関する討論会などは、自然で単純な大衆的ディスカッションではなかった。地方で行われた供出に関する討論会は、政府の強制供出方針の宣伝的討論であった。最近行われた日本の新しい祭日を決める討論会においては、衆議院議員馬場秀雄、民主的な立場をもつ歴史家羽仁五郎と、シントーイストであって出雲大社東京分祠長千家尊宜等が登壇し、大衆の中に少くない数の学生が見られた。この学生たちは、千家尊宜が軍国的建国記念日としての伝統をもっている日本の紀元節を国祭日として主張するとき拍手を送った。彼等は羽仁五郎が日本紀元は歴史上の正確さを欠いているという議論をしたとき、やかましくヤジをとばした。この討論会においてアナウンサーが自分の感情と見解から思いついた質問を羽仁五郎に向って与え、アナウンサーとしての義務の範囲を超えた態度を示したことも注目された。
 娯楽放送は、一方において急速にアメリカの娯楽放送プログラムを模倣している。「二十の扉」のように好評をうけているものもある。しかし音楽放送における軽音楽、流行歌等のプログラムは相変らず大衆の趣味の最低水準に追随する傾向がある。映画会社とレコード会社の影響から自由になって、軍歌ばかりをつぎこまれていた日本人の歌のこころに、新しい瑞々しい歌と舞踊のメロディーが送られることを、一般聴取者は希望している。「名曲鑑賞」は、レコードを焼失した日本の洋楽愛好家にとって愛されているプログラムの一つである。
 勤労者および農村に送るプログラムは、昨今質の低下に苦しんでいる。一九四六年に、農村むけ放送プログラム編成のために民主的な農業問題専門家による小委員会がつくられていた。ところが政府の農業政策が、農村の現実と齟齬(そご)する程度が増すにつれてこの委員会の活動は不活溌にされ、現在は解体している。勤労者の生活不安が切迫しており、勤労者の自主的な生産復興が阻害されているとき、真面目な勤労者は彼等の努力と現実にふれない空虚なプログラムを愛しにくいことは自然である。
 日本人民は戦争中短波放送の受信を禁止された。短波受信機は警察によって調査され使用している者は罰せられた。一九四五年八月以後この禁止は解かれた。日本には一台でも多くの短波受信機が増えなければならない。そして日本人は世界における日本のあり方について現実的な認識をもたなければならない。
 テレビジョンの研究は非常に遅れている。戦争中中絶されていたこの研究は四六年五月戦争目的以外の研究は許可されることになって再出発をした。日本放送協会技術研究所および浜松市の高等工業学校でテレビジョンの研究がつづけられている。
 諸外国の日本向け日本語放送は、「ヴォイス・オブ・アメリカ」にせよ、ハバロフスク中継のモスクワ放送にせよ、短波受信機でなくても中波程度の受信機で割合容易に聴けるが、世界の動きに特に関心をもつ人々以外は一般に余り注意されていない現状である。戦争中軍部のために短波受信をしていた人々が、戦後は外国の放送を受信して通信を発行している例もある。

        2 出版

 戦争中日本の出版界は情報局によって徹底的な軍事統制を行われていた。編集の自由は失われ執筆者の選択は軍事目的に従えられた。情報局は日本出版文化協会および日本出版会によって統制を行い、書籍発行の許可制を実施した。三、八八六の業者は三四三に淘汰され軍事的反動出版ばかりが横行した。四五年八月十五日は出版界のこの状態を一変させた。日本政府による検閲制度の廃止(九月二十四日)、言論に関する戦時取締法規の廃止(九月二十九日)、検閲取締機関の全廃(十月四日)、出版会の解散(十月十日)、日本出版文化協会による用紙統制の撤廃(十月二十七日)、情報局の廃止(十二月三十一日)等が実施された。そして新しく民間団体として出版業者の日本出版協会が発足した(十月十日)。
 日本出版協会はその機構の内部に戦時の日本出版文化協会および日本出版会の役員を包括している上に、出版業者中に講談社、主婦之友社その他もっとも活溌に戦争協力をした出版社がそのまま巨大な資力をもって参加していた。陸海軍が蓄積していた用紙が不正に旧軍御用出版社に分与された事実もあった。民主的な出版事業の確立という点から民主的な出版業者から出版業界の民主化運動が起った。四五年十二月民主主義出版同志会が結成された。この運動は四六年一月にひらかれた日本出版協会臨時総会に反映して協会内に出版粛正委員会が設けられた。粛正委員会は第一次に粛正されるべき出版社として講談社、第一公論社、主婦之友社、旺文社、家の光協会、日本社、山海堂の七社を指名し、社内民主化への条件を示し謹慎の条項が示された。第二次に他の十二社が審議されていた時に講談社、主婦之友社、旺文社、博文館が中心になって日本自由出版協会を組織した。顕著な戦犯出版業者をかりあつめ、従って巨大な資本をもつ自由出版協会は、次第に深刻になる用紙不足の事情に対して金に物をいわせた用紙獲得を行った。同時に旧情報局関係者、内務省関係者の協力を得て出版の民主化阻止の方向に活躍した。これらの行動は日本の出版民主化への方向と対立し、その後用紙融通の魅力によって八十数社を加えている。この自由出版協会が組織され主な戦犯出版社が金力をもってその中心勢力となっていることは日本民主化の途上における一大注目事である。四六年十一月に発表された言論界追放B項該当者および四七年六月に指名をされた二二五社の中に多くの自由出版協会のメムバーをもっている。形式的な責任者の追放や機構の改正などが行われたにしろ、本質的な傾向において民主的になっていない出版社の方が多い。
 例えば日本の代表的な綜合雑誌の一つとして数えられるある社では、編集者が社内の民主化と編集の改善を要求したとき、社長は経営者である自身に編集権があるということを主張して編集者の権能を制限した。ところがその社長が言論界追放の該当者に指名されたとき、社長はその編集上の責任を回避して会計関係の責任者をもって身代りにした事実がある。その社長は経営者に編集権があるということを主張する場合には、インボデン少佐の解釈によるものだということを自分の主張につけ加えるのを忘れなかった。
 用紙の不足は四六年下半期において割当用紙さえも配給難におちいった。用紙のヤミ取引は公然化した。講談社を含む一部の出版業者は石炭その他の生産資材を製紙業者に提供して用紙を買う物交手段に訴えるようになった。この方法は無制限に紙のヤミ値をつりあげ、非民主的な出版を拡大することになって各方面からきびしく批判されはじめた。極端な物交によって用紙配給のシステムを乱した出版社からは刑事上の責任者を出した。
 用紙の危機は、用紙割当の業務を、従来の担当者であった商工省から内閣に移管するモメントとしてとらえられた。その理由は、用紙を生産品としてだけみて商工省に割当をまかせることは不適当である、用紙は文化資材であるから内閣が直接割当てるべきであるという見解である。用紙割当の内閣移管についても旧情報局関係者の活動があった。自由出版協会も積極的であった。長年の言論出版統制に苦しんできた日本の各界は、用紙割当の内閣移管は、政府の言論出版統制に具体的根拠を与えるものとしてつよく反対した。けれども一九四六年にこの提案は実現した。出版協会の公的存在を認めることと、言論出版の自由を認めることを条件としている。この結果出版社のあるものは、内閣用紙割当委員会にだけ割当申請を出している。内閣の用紙割当委員会が最近の選挙において、過去の業績において文化的価値の認められにくい出版社の多くを委員としたことは、将来内閣がどの程度まで出版の自由に関する公約を実現しうるかという観点から注目されている。
 一九四七年二月用紙入手のための物交が禁止されてから雑誌の大多数が休刊した。用紙割当委員会はこの状況を改善するために次のような声明を発表した。(一)割当外の用紙使用禁止。(二)割当は文化的価値判断を基礎として厳選による。(三)新しい雑誌の創刊および全集や講義録のような長期出版物への割当中止。
 各雑誌が一様に六十四頁に限定された。しかし書籍出版の部面では粗悪な仙花紙の使用がますます多くなっている。仙花紙は統制外品である。
 日本の出版業は一つの特徴をもっている。それは、極めて小資本の出版社が群立していることである。この現象は日本の資本主義経済の弱体を反映している。出版は自身の設備を所有しないでよいこと、使用人を多く必要としないことなどによって、軍需産業で小資本家となった連中が出版事業に流れこんだ。彼等は文化的責任を知らない。民衆の文化水準の低さと文筆家のインフレーションによる生活苦との間に、ブローカー的に存在して彼等の利潤を追っている。日本の小銀行の多かったこと、小新聞の多いこと、小売商の多すぎることなどと共通の現象である。

        3 雑誌

 用紙の最悪な事情にかかわらず一九四六年以来雑誌の企画申請は増大する一方であり、一九四七年末には三、〇〇〇種となっている。実際に割当をうけるものは一、八〇〇種に抑えられている。これに対して三百万ポンドが配給されている。しかし売れ行の多い雑誌社では仙花紙を使って発行部数の不足を補っている。
 定価 印刷費、用紙の値上げその他物価の高騰につれて雑誌の定価も上昇をつづけた。一九四六年九月五円程度のものが四七年五月頃には十五円から二十五円になった。定価は大たいここでおさまっている。しかし六四頁といううすさを考えれば日本の雑誌の実価は非常に高い。
 傾向 一九四五年八月以後戦時中緘口令をしかれていた綜合雑誌が急速に創刊、再刊された。民主的立場を明らかにした諸雑誌の他に共産党は理論機関紙として『前衛』を創刊し、社会党は『社会思潮』を発刊した。
『新生』という雑誌がもっとも早く創刊されたが、この雑誌の特徴は評論面においてはにわかに忙しくなった民主主義の諸問題について編集しながら、文芸欄では永井荷風などの作品をのせ、伝統的な老大家の名声とその作品の万人向きなエロティシズムで広汎な読者を誘い寄せた。このような編集ぶりはその後一年以上つづいて営利的な雑誌業者の利用するところであった。同時に娯楽雑誌という名目で卑猥な内容を中心とする赤本雑誌が横行した。戦争中あまり人間性を否定された反動として出版物に現われた官能的な娯楽への傾向は、高まるインフレーションと生活不安と戦争による家庭崩壊とによって、ヤミ屋と街の女と浮浪児とが増大する率に正比例した。
 綜合雑誌は日本の民主化の複雑な曲折につれて、次第に自由活溌な政治、経済、国際問題のとりあつかいをせばめられてきている。それに比べて娯楽、婦人、文芸雑誌は多すぎる。太平洋戦争中その雑誌の一頁毎に「米鬼を殺せ」と印刷していた『主婦之友』が今日でも婦人雑誌の第一位を占めている。『働く婦人』、『婦人』、『女性改造』などはそれぞれ特色をもった進歩的編集をしているが、他のどっさりの婦人雑誌はどれもこれも似たような内容である。言い合せたように現実には用布もなければそれを着こなす肉体も場面もないような外国のモードをのせている。
 出版協会の文化委員会および有識人の多くはこのような婦人雑誌の氾濫を婦人に対する悪資本の文化的搾取とみている。
 学術雑誌は営利を目的としないために用紙面でつねに困難に面している。数も少く発行部数も少く発行もおくれがちである。
 技術指導雑誌は有益なものは『科学と技術』そのほか一、二種にすぎない。農村のために直接役立つ雑誌も少い。戦争に協力した「家の光」社がこの隙間を縫って三種類の雑誌をだしている。講談社が従来通り幾種類もの低級な大衆、婦人、子供の雑誌を出しつづけていることも日本の民主化の欺瞞性を表している。最近では一応民主的らしい編集をしながらトップの記事に天皇や皇太子の日常生活を大きく取扱って、戦時中の「国体護持精神」のヴァリエイションを流布させている『民衆大学』や『世界少年』のような雑誌もある。『民衆大学』は、ある種の編集方法において一つの典型を示している。この編集者は非常に多くリーダーズ・ダイジェストから学ぼうとしているらしく見受けられる。この雑誌は、四七年十一月号ではエマソンの自由と独立に関する言葉を巻頭言にひいて、民主主義を題目として編集をしている。翌月号は「天皇陛下の御日常」というトップ記事をのせ、その次の号には、三笠宮崇仁親王と閑院春仁氏の対談「皇室と国民を語る」をのせている。同時に、この号にはローザ・アイケルバーガーの『人民が、人民による、人民のために』という著書からの抜萃をのせている。
 少年少女のための雑誌としては概して、幼年向きのものの方が、幾分注意ぶかく編輯されているが、初等中学程度の少年雑誌はおどろくようにその場かぎりの編輯が多い。全般からみて大人の雑誌がそうであるように子供の雑誌も日本の民主化の方向と保守的・封建的な要素とが一冊の雑誌の中でかち合っている。近代の軍事的物語はのせられないでも、日本の「武士」の物語がルパンばりの探偵小説や無意味な漫画といりまじっている。子供のための科学雑誌には『子供の科学』などがある。
 雑誌の輸出 日本からホノルル、ソルト・レークなどにいる在米邦人を対象として十九点約五千冊の輸出が正式許可された。十九点のうち『主婦之友』や『婦人倶楽部』、『苦楽』、『キング』等のもと戦犯出版社であり現在保守的編集方向をもっている雑誌が多く選ばれていることは在米邦人の文化水準を示すものとして注目されている。
 日本で発行されている外国雑誌は大体次の通りである。
 タイム(極東海外版――英語)、ニューズ・ウイーク(パシフィック・エディション――英語)、ライフ、リーダーズ・ダイジェスト(日本語版)、ポピュラー・サイエンス(日本語版)、民主朝鮮(日本語)

        4 書籍

 一九四五年以後、言論と出版に対する制限の緩和によって書籍出版はおびただしい数にのぼった。四六年一年間の書籍出版用紙割当は一千九百万ポンドであったが、実際に使用された出版用紙は一億三千万ポンドにのぼっている。インフレーションのために起った異常な購買力がこれらの書籍を消化したのであったが、四七年夏千八百円ベース決定以後購買力は著しく低下した。一九四八年に入ってはますます悪化する経済事情とともに書籍の消費量は減り、出版社の淘汰と書籍の淘汰とが起っている。
 現在日本がおかれている国際的・国内的事情の厳粛さを思う人は日本の書籍出版において文芸ものが第一位を占めていることについて関心をひかれている。文芸ものも、すでに一定の読者を獲得している大家の作品集や戦災で紙型の焼けなかったドストエフスキイやジイド、ツルゲーネフなどの翻訳が重版されていることに注目される。さもなければ戦後の社会的疾病としてあらわれたエロティシズムの作品などが多くの部数を発行されている。書籍出版のこのような不健全な状態は識者の間に問題となっていたが、一九四七年毎日新聞社主催で出版向上のための出版文化賞の選定がされた。一九四七年度毎日文化賞として左の書籍の著者及び出版社が受賞した。

 受賞図書     著者       出版元[#「受賞図書」「著者」「出版元」はゴシック体]
入会の研究     戒能通孝     日本評論社
近代欧洲経済史序説 大塚久雄     日本評論社
懺悔道としての哲学 田辺元      岩波書店
気胸と成形     宮本忍      真善美社
           (ゴム弾性)
          久保亮五
           (液体理論)
物理学集書     戸田盛和     河出書房

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