前進的な勢力の結集
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著者名:宮本百合子 

 一九四五年の八月以来、日本のすべての生活は驚く程のテンポで推移している。日本の民主化がいわれ、やっと私たちの生命が私たちのものに戻された時、日本のインテリゲンチャは「自分」を取り返す為に熱中と混乱とを示した。何しろ戦争が強行された十数年間日本のすべての理性と人間らしい一人一人の「自分」は殺されていたのだから。そしてその十数年間に生長してきた人々の青春は、青春というのも恐ろしい程人間の自然な開花から遠いものであった。明治以来の思想史の中で、近代的な市民生活の感覚と自分というものとを確立することの出来なかった日本の伝統は、一九三六年にファシズムに対する人民戦線運動が起った時にも、本当の生活感情から精神の自由と人間の基本的権利を守る為には、一つの政治的な行動――つまり社会的な表現を通らねばならないということを理解しなかった。当時の日本の治安維持法は、自然な生活感覚から此の事実を理解している人々をも、まるで文化の人民性、歴史性、その階級性を理解しないように行動させた。この事実は、戦争の間私どもが置かれていた「馬よりも安い人間一匹の命」の状態をかえりみればはっきりわかる。
 この悲惨な経験を生き抜き、「自分」を取り戻そうとしはじめてわずか三年たつかたたないのに、日本の理性は再び戦争の挑発と、根の深い日本のファシズムと権力の屈従的なショーヴィニズムとによって危機にさらされようとしている。私たちはやっと芽をふいたばかりの、日本の人間らしさをどうやって守ってゆこう。今日ではすべての人が、自分の運命が日本人民全体の運命の帰趨にかかっていることを発見している。一つの孤立した才能がそれ一つだけではどんなに萎靡するものであるかということは、最近の志賀直哉の文学的態度を見てもわかる。彼は日本のブルジョアリアリズムの限界を殆ど悲劇的に示している。志賀直哉に向って、日本の知性を押し潰そうとしている力に左袒(さたん)しているといったならば、彼はどんなに意外に思うであろう。そして、そういう人を憎むだろう。しかし、事実を蔽うことは出来ない。近代的文学を中心として自我の探求にあの道この道を迷った人たちも、今日では個別的な自我そのものがそれだけではファシズムの轍にひしがれることを十分知っている。政治の表現は複雑であり多様であって、人民的政治の表現というものを決して今日まだある社会行動の型にはめきる必要はない。文学者は文学者の道を通って、科学者は科学者の道を通って、人間の理性の到達点に合流して世界平和に対する大課題に協力することが出来る。「専門」ということをいいたてて、それぞれの小道の中に引っ込んでいることは、客観的にはその人自身さえも望んでいない力に協力することになってしまう。
 日本ではデモクラシーの道幅が如何にもせまい。それをひろげる為に、日本にはよその国と違った強い強い前進的な勢力の結集が必要である。それは民主的な人を民主的に生かす為ばかりでなく、ファシストになりたくない人をファシズムから守る為にも必要である。すべての人は生きる権利がある。このことは、すべての人が人間として生きる権利があることにほかならない。そして人間として生きる権利を守ろうとする時、これまでの文化人と勤労者の間に偏見的に置かれた差別は当然消えてしまう。どんな文化人が物価七割の値上げから自由であろう。専門で分れ、文化面、生産面という活動場面で細分されている人民層である間は、抑圧とすべての形での非人間的圧迫に堪える力が弱い。このことは、人民よりも支配者たちがよく知っている。現に労働法の改悪は、日本の労働組合の分裂作業が効果を現わしてからでなければ、とりあげない方がよいと日本の役人が言明している。
 文化の為にでも他の生産の為にでも、働いているものは人間的な働きの条件を求める心から、社会が合理的に発展してゆくことを現実的に要求している。戦争で最も大きい傷をうけた日本のすべての女性、職場と家庭の間でますます苦しい立場にいるすべてのまじめな婦人は、世界のどの国の婦人に劣らず、燃える思いを心の中に持っている。そして、一寸見ると近代的に分化しているようでも実は封建的なギルドに陥り、ファシズムに対する抵抗力の弱められている自分たちの状態をそれらの人は急速に克服しようとしている。〔一九四八年七月〕



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