獄中への手紙
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著者名:宮本百合子 

 一月八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 第二信 きょうは風がきついけれどもいい天気。二三日あっちこっちしていて、こうやって机に向ってゆっくりこれを書くのがいい心持です。きのうはあれから気分でもわるくなりませんでしたか? 熱が出たりしなかったでしょうか。割合いい顔つきをしていらしたので安心です。
 きのうお話した生活の変化のこと[自注1]について、もうすこしくわしく私のプランを申します。二日に書いた手紙には、びっくりした気持がきっとつよく出ているでしょう。フームと、びっくりしないで、びっくりしたから。
 経済の方面では、大体御承知のとおりです。補充の方も何とか工夫がつくでしょう。書くものが変っても、随筆でもなんでも名を別にしても同一人であってはいけず、「情を知ってのせたものは」云々とあるから、文筆上の仕事では不可能ですが。家もおひささんも当分このままです。お話した店の方が形つくと[自注2]、それによって私も戸塚辺へうつるかもしれない。二人の子供たちと七十八のお婆さんときりで、親たちが店へかかりっきれば、店へ通うとして余り頼りないから近くにいてくれたら安心だとおっかさんが云っており、私は又精神的健康法の上からどこまでも扶(たす)けて扶けられてゆくつもりです。私はプランにしたがって一層充実した勉強をしつつ、そういういろんな点で勤労に近くいて暮します。これは今の事情の下では大変いい暮し方で、それを思いついて私たちはうれしい。その意味では張り切っております。どうか、ですから御安心下さい。生活力はいろいろの形をとって発露するものね。あなたがきのうこの話をきいて賛成していらしったし、笑っていらしったし、それもずいぶんいい気持です。私たちらしいでしょう。褒(ほ)めていただいていいと思う。資金の方はまだよくわかりませんが、知人に専門家がいて肩を入れていてくれる由故いいでしょう。私たちのところにはまだ九〇〇ありますから、そのうちから光井へお送りした位まで私は投資するのよ。大した資本家でしょう。(これはうまくやりくりますから、あなたの方の御配慮は無用)正月のはじめは、そういうプランを立てるのにつぶしたからそろそろ又落付いて勉強をはじめます。夜更しが今度こそやまるでしょう。朝から午(ひる)すこし過までにかけてみっちり毎日勉強し、基本的な勉強の本もよくよみ、やっぱりこの中にも愉しさはある。人間の生活は全く面白い。『婦人公論』の正月号にね、近角常観という坊さんが(禅)「一心正念にして直に来れ。我能(よ)く汝を護らん。衆(す)べて水火の二河に堕せんことを畏れざれ」という文句の解説をやって時局的な意味をつけていたが、洒落れた字のつかいかたを昔の人はやっております。人間が成熟してゆくいろんな段階というものを含味してみると複雑なものですね。でも本当にきのうはお目にかかってあなたの笑い顔と真直な明るく暖い眼差しとをみてスーッとした。かえり道に歩きながら、その眼で私をみて下さい、とリズミカルに、うたのように思いながら勢よく軽く歩きました。
 夕方島田の方へ手紙をかきお話した件について、主としてあなたの御意見として申しあげました。その方が御諒解になりやすいでしょうから。どうかそのおつもりで。
 私の机の上はこの頃あなたのまだ御存じないものが一つふえました。それは花瓶です。この頃インベやきの紅茶セットなどよく出はじめたが、その焼で水差しの形で七八寸の高さ。これは珍しいでしょう? 音楽評論社で原稿料の代りにくれたの。たくさん水仙をいけてあります。私のさし当って一番おしまいの稿料がこういう形でのこされたのは興味があります。それにこの位大きい瓶がほしくていたところだからなお更気に入って大よろこびです。昔、私は小さい花を一二輪机の上におくのがすきであったが、この頃は花の蔭という風に左手の机の奥に房々とたっぷり花のあるのが好き。私の贅沢(ぜいたく)。風呂と花とたまの音楽会。二十三日にはゆくつもりだったら日曜日ですね。今年は。それなら二十日にゆこうかしら。
 どうかお元気に。乾くから喉をわるくなさらないように。おなかはもう痛まないのでしょうか。では又。皆からよろしく。

[自注1]生活の変化のこと――この年一月から翌年の夏頃まで内務省検閲課の干渉によって中野重治・百合子の作品発表が禁止された。
[自注2]店の方が形つくと――窪川夫妻がコーヒーの店を出そうとしていて、百合子もその仲間に入っているつもりでいた。

 一月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(中村研一筆「朝」の絵はがき)〕

 一月十二日、岩波の『六法全書』本年(昭一二)版は皆うり切れてしまい、新しい法規を入れたのはもう二三ヵ月後に出ますそうです。どうせ新しいのならその方がよいと思いお待ち願います。『二葉亭四迷全集』の一二は、創作です。待っているのは五六七八になりましょう。これもまだすこし間がある。一筆そのおしらせを。
 一応うまいのは分るが、という絵が何と多いのでしょうね。うまさに於てこれも場中に光っていた方の部です。

 一月二十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(山と水辺と村の風景の絵はがき)〕

 一月二十二日、あしたは日曜日でこの天気では雪になるでしょうか、雪は可愛いから降ってもいいことね。月のない代りに雪の夜にでもなったら、又異った眺めでうれしいと思います。あしたは防空演習だけれども午後は神田へ行って、およろこびのしるしとしていいものを買って頂きます。その中にはドンキホーテもプルタークもある国民文庫刊行会のシリーズです。夢二のこの絵はどこか瀬戸内海らしくて島田のどこかに似ているようです。

 一月二十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 稲ちゃんのところへ、ひさが手つだいに行っていて、ひっそりとした午後三時。右手の薄青い紗のカーテンを透して午後の斜光が明るくさしている。机の上へ父の元買った小さいマジョリカの花瓶(中世には薬瓶としてつかわれたもの)をおいて、黄色いバラを二輪活けて、これを書いて居ます。きょうはすこしゼイタクをしてバラの花を二輪ぐらい買ったってよい。日曜日だけれどもラジオもやかましくなくていい。本当にこの辺はピアノもラジオもやかましくなくてその点では助ります。今の時刻、あなたもきっとこの午後の光線を仮令(たと)えば霜柱の立った土の上に眺めていらっしゃるのではないかしら。或は冬らしくすこし曇りを帯びた空を眺めていらっしゃる?
 私は独りで明るさと静かさとあなたの傍にいる感情の中で、一寸した道楽をやって居ります。それは一つの算術です。日記の一番終りをあけて見る。1938 年の十二月三十一日は土曜日です。本年の元旦は土曜日であった。すると来年の元旦は日曜日で来年の一月二十三日は月曜日ということになる。ハハ。これはよろしい。では二十三日に出かけられる。ここで一日ずつあとへくって見ると、六年前のきょうは月曜日だったことが思い出されます。そして来年は七年目で又月曜日。つまらない、しかし私には一寸面白い算術。

 一月二十五日の午後。
 きょうも又晴れている。非常におだやかな天気。おとといのバラは八分開いて微かによい匂いを放っている。本を送る包みを二ヶこしらえて上へあがってこの手紙をつづけます。きのうは体の工合のよさそうなお顔付を見て本当にうれしくいい心持でした。便通は腹の調子を告げるばかりでなく全身の工合を語るから、それが苦情すくなければ何よりです。
 きのうは割合いろいろ聞いて頂けて、さっぱりした安心した気持です。あれから真直家へかえって、すっかりおなかをすかして、おそばをたべて一休みしに二階へあがろうとしたら、ひとが来て五時すぎてしまった。そのうち、ひさ、戸塚へゆく時間で出かけいよいよ二階へ上ったら到頭十時まで一息に眠ってしまいました。ひさがかえる音で下へおりて、三十分ばかりいて、又あがって、二三時間おきていて又眠りつづけました。きょう、おだやかな天気を沁々[#「しみじみ」に傍点]感じる道理です。あああ眠ったと云う心持。この間うち体がこわばったりしていたのが大分ましになりました。
 きのうも簡単にお話したとおり、私は当分このままの生活をつづけます。今家賃は33[#「33」は縦中横]円です。がやはりこの周囲でももすこしやすい家でもあれば代ってもよい位の考えです。家賃だけを切りはなして考えても交通が不便では私の生活に全く無意味だから。この頃のタクシーの価はあなたの御存じの時分より倍は高くなりました。銀座から目白まで雨だと一円以下では来ません。夜淋しすぎるところに住んだり林町のように億劫(おっくう)なところに居ると忽ち車代がびっくりするようになる。林町には空気全体がいやです。Sの、チェホフの小説の中にでも出て来るような人生の目的なさそのもののようなピアノの断片をしかも永い間聞くだけでも辛棒出来そうもないから。この二十八日には、父の胸像を(北村西望氏作)建築学会の中條精一郎君記念事業委員会から私達への贈呈式があります。この記念事業には中條文庫も出来ます。造形美術と建築の研究を主とした文庫です。私は文庫ときくと冷淡でいられなくていつかもし可能であったら、何かいい本を父の名によるこの文庫に寄附したいと考えます。この頃私は自分の性格にこういう一種独特のたちを与えて、いろんないやなことや苦しいことを、やはり失われない快活さと希望とで堪えてゆく気質に生んでくれた父の気質というものを、心からありがたいと感じている。益□このありがたさは痛切であって、恐らく私が年をとり生活の波浪を凌(しの)ぐこと深ければ深いほど、いやまさる感謝と思われます。そして、そのような私の気質のねうちを充分に知っていて、又その光りを暖くてりかえしはげまし、人間らしい強靭さに導いて行ってくれる人のいること。それら全体の諸関係をひっくるめて友情につつんでいてくれる決して尠(すくな)くない友人たちのいるということ。なかなか私は幸福者です。だからよく私は、これらのねうちを活かすのこそ自分の人間及び芸術家としての責任であると感じ、まことに人生というものに対して畏れつつしんだ気持になります。女の生活で、心のたよりになる二三人の女の友達をもっているということさえ、現代の現実ではなみなみならぬこととしなければならないのですものね。
 明日あたりお話した籍のことについてもうすこしとりまとまったことを調べて手続をすすめましょう。そして、来月には、はっきりとした私の勉強のプランについてきいて頂きましょう。よくプランを立てて一年に五百枚ぐらい――一冊の本の分量だけの仕事は必ずやってゆく決心です。どんな時でもそのときにしておくべき仕事というものは文学の上に必ず在るのですから。断片的でない勉強をまとめます。これまでは仕事即ち職業としての外との相互関係から比較的短かったから。暮に書いた「今日の文学の展望」百枚はこの種のものとして一番長かったが、どういうことになるか。ゲラのままです、目下のところ。これももっと手を入れたい。散漫なような手紙ですが、これで。猶々お大切に。おひささんがおかかをえらい音を出してかいている。では又

 一月三十一日夕 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 きょうはすこし気分をかえるためにこんな紙に書きます。半ペラはいつもこの色をつかうので。
 ロンドンから雑誌のようなものは二十日ほどで来ます。あなたのお手紙が十七日にかかれていても ここへつくのは二十八日。何と面白いでしょう。
 二十八日には建築士会の中條精一郎君記念事業会から、父の肖像(薄肉彫・ブロンズ直径三尺近いもの北村四海氏作)をおくられました。建築士会へは中條文庫資金一万二千三百円也が寄附されました。全額は一万五千円ばかり集った由です。
 三十日は二年目の父の命日で、雨のなかを青山墓地へゆき、花のどっさり飾られているお墓に参りました。この前の手紙で書いたように、私はこの頃いやまして父が困難に対して快活な精神を失わなかった資質の価値を尊敬している心持なので、お墓詣りも特別な心持で行ったのですけれども、石に中條家之墓と書いてあるのを見ると、父によりそっていろいろと喋ったり、肩を叩いて笑いあったりするような気持も違ったものになってしまいます。父の墓というものが欲しい。そういう気がしました。かえりに太郎も加えて同勢五人、銀座の松喜という牛肉をたべさせる家で夕飯をたべました。この店にしたのにも曰くがあるのでね、父がここの肉を美味(おい)しがって百合子に食べさせてやりたい、いつか行こう、ね、ぜひ行こうと云っていたっきり、私はまだ一遍も行かなかったので、特にそこにきめたわけ。バタ焼にしてどっさりたべました。そしたら雪になって来て、寿江と私とだけ日比谷で車を降りて二人で雪の中の公園をあっちこっち歩き、非常にいい心持でした。鶴の青銅の噴水のある池の畔(ほとり)の亭(ちん)にかけて降る雪を眺めていたら、雪は薄く街の灯をてりかえしていて白雪紛々。紅梅の枝に柔かくつもってまるで紅梅が咲いているような匂わしい優美さでした。雪はすきだから思わず気がたかぶって犬の仔のようになる。父のなくなった一昨年の二月二日に、葬式をすませて戻るときも、私の髪に白い雪がふりかかっていた。つづいて、あの近年珍しい大雪になりました。それに父の記念日と雪とは似合います。雪のもつ豊饒な感じが美しさの大きい要素で、そういう豊饒さと活気とが父に似合わしいのですね。
 あなたも雪はお好きでしょう? けさはね、雪がすっかり消えてしまわないうちにと、家を出て裏の上(あが)り屋敷の駅から所沢まで武蔵電車で行って、バスで国分寺へ出て(この間はなかなかよい、大雪だったらさぞ美しいでしょう、黄色いナラの林があって)省線で目白へかえって来ました。すこし乗物ばかりで残念ですが、やっぱりよかった。
 今、パール・バックの「母の肖像」というのをよんで居ります。そしていろいろバックの心持(書いている)を考えます。心持の性質について考えます。訳者の筆致の影響もあるが、バックの表情にあってかたまっているものが、やはり作者としての感情の底にがっちり構えているという感じ。そしてしたしめないところが生じている。それにしてもこのバックやスメドレイや、アンナ・ストロングなどは其々(それぞれ)に合衆国の生んだ現代の婦人の一タイプです。マドリードの「パッショナリア」という名を得ている婦人と共に。これはラテン人であるが。
 私は又伝記の仕事を継続し、語学を役に立て、小説をつづけ、段々勉強に順がついて来ましたからどうか御安心下さい。非常にいそがしくやっていたのが、急にそういういそがしさはなくなったので、神経が新しい事情のテムポに適応するために時間がかかりました。いろいろの気持も。内外ともなかなか複雑ですからね何しろ。
 一月二日に第一信。八日に第二。十二日第三。十六日第四。二十五日第五、そしてきょうの第六信。一月二日には、私が錬金術師でいやなことからも、金(キン)をねり出すということを書いたのでした。二月十三日の私の誕生日には新しい人たちに何を御馳走しましょう。その前にお目にかかりますが、あなたは私に何を祝って下さいますか? 何をやろうと考えていて下さるでしょう。二つばかりのものは私にもうわかって居るけれども。どうか益□お大切に。木綿の晒(さらし)にもSFが入るので、あなたの肌襦袢(はだじゅばん)のために大なる買占めをして一反サラシを買いました(!)では又。かぜを引かないで下さい。

 二月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 伊豆熱川温泉つちやより(つちや旅館の絵はがき)〕

 二月十日 九日の午前九時五十二分で立ち午後の二時すぎこっちへ着きました。網代からバスで伊東まで、そこで又のりかえてバスがいかにも伊豆らしい柔かい枯草山や海やを左手に眺めて海岸の上を走り、二時間ばかりで温泉につきます。ごろた石の坂道で歩くのには工合よろしくないが部屋からすぐ海上に大島が見え温く、昨夜は十時前からけさ十時まで眠ってしまいました。大いに眠ってかえるつもりです。粉雪がちらついている。寿江子がわきでタバコをのんでいる。お大切に。
 この写真はこの家のよさがわかりません。私たちのいるのは正面玄関の向って左手の二階。手拭のかかっている室の右どなりです。左の別棟がお湯。小さい仕切った室があって大助りです。山のダイダイの木に黄色い実がなっていて、光井の村の景色を思い出します。梅は末(スエ)です。紅梅も末。雪益□。

 二月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 熱川温泉つちや別館より(封書)〕

 二月十二日 晴 第七信
 この手紙は、伊豆の東海岸のいかにも晴れた日光を受けながら、つちやという宿の八畳の室のカリンのテーブルの上で書いて居ます。
 八日には、元気そうにしていらしったので安心でした。あの風邪流行の中で鼻かぜですませたのはお手柄お手柄。あのときお話の大島の着物、インバネスのこと。あなた何か混同していらっしゃるのではないかしら記憶の中で。もう一度前後のことをよく思い合わせて思い出して御覧なさいませ。ひさのお使いは無駄足だったのですから。
 ところで、二月二日に書いて下すった第三信、九日の朝立つときに着いたというのは実に大出来です。昨年のうちに、やはりこの位の日数でついてうれしかったことがあったけれども。あけてよんで、国府津などにも持って行った例のベルリン製の紙トランクに入れて又こっち迄持って来、今はやはりこの紙の左において書いている。
 本の御注文のこと、これはお話でも分ったからかえったらお送りいたします。二葉亭は私が特に入用でもないから、やっぱり来た毎にお送りしましょう。中村光夫も二葉亭論のときはいくらか見られたが昨今はどうも。書き下し長篇小説も実際には従来の意味での通俗小説めいたものになってしまっています。阿部さんの幸福もその一つであるが、作者は漱石を狙って「それから」や「こゝろ」を念頭において公荘(くじょう)という人物を一ヶの媒介体として現実諸相を反映させようとしているが、「心」の「先生」や「それから」の代助が文化人として、人間として習俗に対して求めて居り主張していたものが何であったかを理解しているものには、今日の公荘が只のガラスでものをあれこれうつす(判断せずに)ものとしてだけ出ているのが、つよい時代的な特色として見えます。インテリジェンスが只ものわかりよさ、あれもこれもさもありなん式の傍観性としてだけしか物の役に立たないでいるところ。文学が豊饒になるためには実に広い大きい幾多のものが必要であると痛感します。長い小説は決して安易にやっているのではないのです。「伸子」などでも本にしたときすっかり通して手を入れ、完成させた、そのような程度のことを云っているのです。すっかり書き直すなどということは実際には不可能ですもの。
 こっちの暮しはきょうであしかけ四日目。九日にはね、午後〇時何分かに網代について、すぐそこからバスで伊東下田行が出かかっているのだが熱川の宿はどこがよいのか知らない。赤帽にきいたら福島屋が一番いい、電話をかけといて上げましょう、電話料二十銭。二十銭わたしてバスにのったら、伊東まで相当ある。伊東は乾いたようなあまりに風趣のない町に見えた。伊東から又下田行で熱川まで一時間余。すっかりで二時間余です。山の間の坂道の左手に熱川温泉入口とアーチが出来ているところを、ハイヤーでぽんぽんはずみ乍ら七八丁下った狭苦しいところに福島屋あり、途中番頭曰ク生憎満員でお部屋がありませんがともかくお迎えして云々。上って見ると夜具部屋のようなところしかない。そこで宿に電話で交渉させて、坂の途中にあったつちや別館の九号という室におさまったわけです。海からはすこしはなれているが、大島が目の前に見え、左右は山の岬が出ていて、畑の真中の木の櫓から下の宿の温泉が噴き出して夜も昼も白い煙を濠々(ごうごう)立てている。その煙とはるか海の彼方の三原山の噴火の煙とが同じ一直線の上に在るように、ここからは眺められます。宿の入口の垣のところに白梅紅梅が咲いていて、もう末です。伊豆椿が咲いている。しかし散歩にはごろた石が多く坂が急で不向。月は夜うしろの山からのぼります。温泉の白い湯気と海とが輝かされる。月の姿は見えないの。大島の左手の端に低いが目立つ燈台があって明滅する。
 私は海の上に島を眺めていたことがないから一日のうち、時間と雲の工合によって遠くの大島が模糊と水色に横わって居たり、急に夕日で紫色に浮立って見ているうちに、右手のところに断崖があらわれ、やがて島の埠頭らしいところが一点水際でキラキラ光り出したりする光景のうつりかわりが面白い。夕刻は、今そうやって細かい家並まで目に入っていた島が、自動車を一二台見送って再びそっちを見ると、もうすっかり霞(かす)んでしまっていたりして変化きわまりない。空気がよい。塩類の湯も体に合います。一日に一遍ゆっくり入ってバラ色になって眠る。一日に何度か、ああこの空気を、とか、ああこの日光を、とか思う。おなかの右側全部(肝臓や盲腸)ぎごちなくつれたりひっぱられたりするのがましになりました。私たちは十五日ごろにかえるでしょう。一九三一年の二月ごろ湯河原に一ヵ月ばかりいたことがある。肝臓のために。大宅さんだの隆二さんだのが遊びに来て一緒に湯河原の小山にのぼったことがある。こっちの方が海気があるから一層心持がようございます。寿江子をつれて来てよかった。寿江子の体にもよいらしいけれども、それより私がぼんやりするためには独りよりずっとよかった。独りだと私の頭が休まない。すこし疲れが直ればすぐ働き出して、休んでいられない気になってしまうから。
 きのうはバスで二時間ばかりかかって下田へ行って見ました。実のお吉で食っている。吉田松陰先生の住んでいた家というのは蓮台寺温泉の中の狭い小路の横です。普通の田舎家の土間のある家でごく小さい。子弟をあつめて講義したという、ベン天島というのも小さい。下田の町からはずれた柿崎というところ。ハリスのいた寺、お吉がカゴで通った玉泉寺という寺へあがる海岸です。黒船が二つの島の間に碇泊して天地を驚倒させたという二つの島のへだたりを見ると、当時の黒船の小ささがわかって実に面白かった。バスの女車掌さんが皆説明して呉れる。伊豆が金山で有名で幕府(徳川)の経済をまかなっていたとか、運上山というのが見えたりして。伊豆はなかなか幕末の舞台でしたから。曾我兄弟の父河津氏の所領がその名をもっていたりする。
 寿江子は今散歩に出かけました。私はきのうごろた石坂でせっかく買った新しい下駄をわってしまって困った。きのうは相当にゆすぶられましたからきょうは一日しずかにしているつもりです。今大島の真上に一つの雲のかたまりが止っていて、三原山の煙が一寸ねじくれ乍ら真直のぼって、その雲との間に柱のように見えます。私がこうしていてもあなたがかぜも引いていらっしゃらないと思うと本当に気が楽です。

 二月十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 二月十七日  第八信
 これはもう東京。ひどい風が雨を吹きつけていて、ガラスのところから眺めると、目白の表通りにある三本の大きい欅(けやき)の木が揺れる房のように見えている。ガタガタ家じゅうが鳴りわたっている。何ていろいろな音がしているのでしょう、風の唸りに混って。
 私たちは十五日の午後に熱川を立って夕方東京にかえりました。十三日の私の誕生日はよい天気で、寿江子はスケッチに出かけ、私は宿でゆっくり本をよみ。次の日は矢張りひどい雨ふりで、いかにも暖い海岸での春のはじまりの雨というたっぷりした降りかたでした。寿江子は私のわきでスケッチをして居り、鼻歌まじりで一心に集注した可愛い顔つきで雨にぬれて色あざやかな外の風景を描いて居り、私はドーデエの『月曜物語』を、特別な興味と関心とで読んで居り、午後じゅう、ほんの一寸しか互に喋らず、しかも静かに充実した精神の活動が室に満ちて居り、本当に本当にいい心持でした。十三日とこの日とで私はすっかり疲れがぬけたようになり、もみくしゃな顔がしっとりとしたようになりました。其故、きょうこんな荒々しい天候でも私は休まった神経のおだやかさ、きめの濃やかさというようなものを感じ、気持よい活気を感じて居ります。
 本当にありがとう。私は誕生日へのあなたからのおくりものとして、この休みを休んで来たから、その甲斐があってうれしいと思います。
 お体の方はずっと順調ですか。きょう、夏ごろ南江堂の書棚を苦しい切迫した気持でさがしてお送りした本どもがかえって来たのを見て、私は思わず、ああ、これは大事にとっとかなけりゃ、と云いました。全くそうでしょう、ねえ。それから一つ私は悟りをひらいて来たことをお話ししましょう。この前熱川で書いた手紙にも其について書いたが、私はこれまでの何年かの間、自分が何かをああ美味しい! とたべた刹那(せつな)、又ああいい空気だと感じた瞬間、すぐその下から、忽ちいろいろと苦しい心持を感じて来ている。一昨年上林(かんばやし)へ行ったときだってそれがあって、勉強勉強と考え、折角行ったのに十分効果をあげられなかった。熱川の三四日もそうであったが、不図考えてね、あなたも折角行っておいでと云って下さったのに、其をたっぷり休めないなんて、何というけちさと考え、心持のよい空気も海もあなたが皆私へ下さるものという気になったらやっと安楽になりました。小乗的で滑稽だが、でも、この気持の中には私としては本当のものがあるのです。どうかお笑い下さい。
 十六日には新響の定期演奏会をききました。朝吹という若い夫人(テニスの朝吹の一族)ピアノを弾き、なかなかよかった。女のひとでこの位量感があり、変化もある演奏をするのは珍しい。熱心に聴いていい心持につかれました。林町では咲枝が風邪で臥てしまっているので、きのうは午後から太郎をつれ戸塚へまわって達坊とおかあさんとを誘い、家で七時まで遊んでそれから私は音楽をききに出かけたわけ。
 留守の間おひささんは戸塚へ手つだいに行っていて、一日に一遍ずつ見まわりに来て居ました。
 ドウデエは昔「サフォ」がはじめで、いくつかの作品をよんだが、『月曜物語』は短篇集として様々の感想をおこさせる作品集です。短篇というものについてもメリメと比較し、モウパッサンと比較し、チェホフに比べたりすると、例えばモウパッサンの「脂肪の塊」などとドウデエの短篇とでは、同じ時期の人生の断面を其々にとらえていても捉えかたがいかにもちがう。ドウデエの思い出に、原稿が一枚かけると、小さい男の児がそれをチョコチョコととなりの部屋にいるお母さんのところへ運ぶ(浄書に)光景があり、そんな風にものを書くということを昔私はびっくりして覚えています。深刻な矛盾の中に当人が楽しそうにしている姿というものは独特の見ものですね。この小さい男の児が、今はもういい爺さんでクロア・ド・フューの仲間で活躍しているのだから面白い。父ドウデエの作品がこのように一家の歴史のすすむ酵母を既に語っている、そこが又面白く思われる。
 一緒に送りかえされて来た購求の書下し長篇小説の一冊を眺め、私は胸の中に迸(ほとばし)る苦さを抑えかねました。その作者に好意をもつ義務を感じられない、そういう苦々しさです。
 雨が上りかけて、空の西の方が光って来ました。それでも寒いこと。手が大層つめたくて、変な字になる。近日お目にかかりに行きますが、どうか風邪を呉々おひきにならないように。

 二月二十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 二月二十七日  第九信
 きょうは第四信をありがとう。この位こまやかな手紙を書いて下さるのであったら、体の工合もずっと順調でいらっしゃるにちがいないと安心です。
 私の誕生日について本当にありがとう。十三日をどう暮したかということは熱川からの手紙或はかえってから差上げた手紙でもうおわかりになって居ますでしょう。別に何というお祝ではなかったが、十三日はたっぷりとしたそして落着きのあるいい日でした。暮から私はやはり随分揉(も)まれた、渦の真中に落ちた一つの小桶のように、ちゃんと底は下にして位置を保ってはいるのだが、随分キリキリまわされた、そういう風に十三日ごろ熱川で感じました。そう感じるだけ落着いて来たのでした。二十日に二月二十日ですし、私の誕生日をやっていつもの親密な顔ぶれで御飯をたべました。俊一さんはこの頃勤め人で朗かになっていた。鶴さんから呉れた春らしい菜の花(はタンスの上)と、桜草は机の上のこれをかいているむこうに咲いている。稲ちゃんは私が一昨年久しぶりで自分のお茶碗をつかえるようになったとき、さっぱりした藍で花を描いた茶碗とお湯呑(ゆのみ)をくれましたが、二十日もこんどは白いところに清々しくはあるが赤や金の入った蘭の花のお茶碗と、肥って丸い唐子(からこ)が子をとろ遊びをしている模様のお汁碗をくれました。そしたら栄さんがやっぱり唐子のついたお茶々わんをくれて、おまけにどうでしょう、私のふだん羽織の裏にやっぱり唐子がいっぱい遊んでいるの。尤もこの方は何年も前のではあるが。大笑いをしてしまった、何か私と連想があるのでしょう。だから来年はくりくりした這い這い人形によだれかけでも呉れるのかもしれないと笑いました。
 いつかあなたが、私におくりものとしての言葉をやろうと思うが、豊富すぎて表現しにくいという意味を云っていらしたことがあった。私は私の希望するものをみんなあなたから頂くよろこびと、絶えず其等を貰っていて私がたっぷりしているというみのった感じと、事々に生活の感動をそこへ響き合わしてゆく心持とでは、充分に充分に輝やかしい迄に慾張りです。この点での私たちの慾張りは一つの人間的美にまで近づいている。こまかいものから大きく深いものに到る迄、私はあなたからとっている。この間もね、隆二さんにあなたから誕生日のおくりものとして熱川への小休みを貰ったと云ってやったら、本当にいいおくりものを貰ってよかったとよろこんでくれました。
 ところできのうは本当に悲観してね。何しろ私が帰ったのは十六日で、二十日がすんだらお目にかかりに出かけようと思っていた。そうしたら二十一日に関鑑子さんのお父さんが亡くなられたことを知り、二十四日の御葬式の日までお通夜その他で暮しました。如来(ニョライ)氏は古い美術記者で、昔は林町の家の前の坂の中途に住んで居り私はユリちゃんと呼ばれている縁がある。中風に急な老衰でした。七十三歳。一葉だの紅葉だのというと明治文学史の頁の中でしか親しみのない存在であるが、如来さんと云えば鑑子さんの幸・不幸の密接な存在で、一つぐれると明日演奏会に着て出る長襦袢まで質へぶちこんで呑んでしまったりするが、又娘を愛し、誇り、娘の生き方を肯定しようとすることでも第一の人でしたからごく近くて人間ぽい。この如来さんのことを一葉が日記の中に書いている。素(す)っぽこ袷(あわせ)に袴だけはつけていて気焔万丈だとか、よい女房を世話してくれと云ったとか。又『紅葉随筆集』に如来の美術批評集(五色? の酒)の序が入っている。それらの本の頁に大きい紙を挾んで一つ一つ見せてくれ、しかし著作の方は一つもない、ということで極めてよく表象されている一生でした。父はよく如来さんのものを買ったりしたらしい。
 さて、二十四日にその葬儀が終り、二十五日は疲れ休みで、丸善へジョーンズの発音辞典を買いがてら許可をとりにゆき、きのう二十六日に行くつもりだったらほんの一寸のことでおくれて、到頭あした迄のびてしまいました。ああ悲観した、フウ! と云っていたところ今朝お手紙で、随分うれしかった。
 葬式が団子坂のお寺だったので、かえりに林町へよったら、国男へ本を送って下すったのが丁度届きました。テーブルのあのひとの席にちゃんと飾っておいて、わきから首をのばして開けるのを待って見たら、あれはいい本です。欲しいと思っていたし、国男の常識をひろくするによい本だから、およみなさい、きっとおよみなさいと申しました。この著者の『数学教育史』も面白いでしょう。寿江子についてもありがとう。私はこの子をすこしたすけてやって音楽史の仕事をまとめさせてやろうという計画があります。音楽史らしいものは殆どないのだから。島田へ送る本のこと、承知いたしました。
 住居のことなど、なかなか動けません。栄さんと共同にやることは不可能ときまりましたし林町の裏は、私として、寿江子の家を無いようにして自分が住むということは出来ませんし。格別な智慧も出て居りません。
 この頃の暮しを利用して体を丈夫にしようとしてお客でもないときは必ず十二時前に寝るようにして居ります。朝もしたがって早く徹夜は今こそ全廃です。熱川からかえってから皆元気そうになったとほめてくれます。大家(オーヤ)さんが垣根と門の腐ったのを修繕させている、大工の音。あした、ではお目にかかって、又いろいろ。よく風邪をおひきになりませんでしたね

 三月一日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 三月一日  第十信。
 きのうも今日も夕方から風が出たが、いかにも春めいた日でした。うちのひさはすっかり上気(のぼ)せて、それも何だか春めいて見えました。
 きのうは久しぶりでお会いして、あなたの着物の召しようがくつろいでいたのが目についた。三月に入ると火の気のないところの大気は本当にちがってきますね。やがて夕暮が美しい薄明になって来る、そしてエハガキの色どりが奇妙に鮮やかに活々(いきいき)として来る。今年は季節のうつりかわりが沁々感じられて、ああ春になったとよく思います。
 きのうは、うちの話が中途でポツンときれてしまいましたから、先ずそれをつづけましょう。前便で大抵書いたと思いますが、家はなかなか簡単にかわれません。アパートなども一応考えるが、謂わば往来を区切ったようなものでね、ドアをあける。それっきりではこまります。雑多な人間のいることも種々不便です。アパートは考えられず、林町の離れは前の手紙に書いたようなわけ。夏まではともかくここに居ます。交通のことやいろいろの点を考えるとなかなか動けません。それに、この頃の生活は沈潜して勉強出来るし又するべきときだから、毎日を変に落付きのわるいものにしてしまうことは本質的に非能率ですから。それに私はやっぱりこの辺を大変愛しているのだと思います、ちっともうつりたくない。ですから家のことは当分御心配なさらないで下さい。依然として、この小さいながらもわれらの窓に灯火は輝きつづけてゆくから。
 これから当分南風が吹く日が多いが、皮膚のゆるみで風邪をおひきにならないで下さい。寿江子はこの三四日風邪で臥(ふせ)って居ます。どうも大分見舞に来て欲しいらしいが私はすこしつめてやっていることがあるので、机にとりついてつい出かけない。三月三日のお雛様には達(たあ)ちゃんが女主人でうちの太郎まで御招待です。本間さんの一家がこの節は戸塚ですから子供の日で私は大いにたのしみです。この間は健造に将棋を一寸おそわりました。コマの名と動きとだけ。達坊は半年ばかり高田せい子さんのところで舞踊をやっていて、子供は語学と同じに、物まねから、いつの間にか体をリズミカルに動かすことを覚えていていかにも七歳の娘の子で面白い。健造はすっかり少年です。私もすこしはなぐさみというものがあってもいいから、健造先生に将棋でもならい、あなたから御指南いただきましょうか。偶然だの、単なる筋肉的なスピードだので競争するのはちっとも好きでないが、こういうものは面白そうに思う。十六七歳のころ私は五目をやってつよかった。何かの可能性を、これは語るものでしょうか。(笑声を書くということは小説の中でむずかしいと同様に、手紙の中でもむずかしい)
 私は誕生日のおくりものに頂いた小旅行のおかげで、本当にこのごろは工合よくなり、無駄のない日を暮して居ります。だが、私はどうも一日に二つの仕事をふりわけにやってゆくことは出来ないたちだから、一二ヵ月何か生活のためにしなければならないことをやって、あと二三ヵ月は別のものにうちこむという風にやって行ったら、工合よく行きそうです。そういう風にゆけたら、そとからこまごまと切られないで、十分気を入れてやれて、随分うれしい。
 きょうの手紙はどっちかというとゆったりした気持のものだからついでに書きますが、あなたは眼というものの微妙さをおどろき直すような感動でお感じになったことがあるでしょうか。私はきのう深く其を感じて来ました。こんな小さい瞳の中にあなた全体が入るのですもの。瞳から入って心にそっくり活きている。何というおどろくべき仕組みでしょう。眼ほど謂わば宇宙的な部分は人間の体のどの部分にもないと思う。眼のむさぼり、眼の食慾、眼のよろこび 眼から眼へ流れるものは無辺際(むへんさい)的なニュアンスと複雑さと簡明さをもっている。私はよくよくそばによって、あなたの眼の裡(うち)にうつっている自分を見たい。私がそうやってよくよく見ているとき、その私の眼の中に近く近くあなたがすっかりうつっている。何というおもしろさでしょう。見ることのよろこびが余り大きいと、びっくりして私は見得る機能に対してまで新しい珍しさを感じます。
 すこし又熱ぽいかもしれないが時候が今ですから気になさらず、どうか呉々お大事に。

 三月八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 三月八日  第十一信
 この間三四日何と暖たかだったでしょう。東中野のところに在る三越の青年寮の大きい桜は、八重だのにもう七分通り咲いてしまいましたって。それが又きのうきょうの陽気で、さぞ途方にくれていることでしょう。机の上に、三日のおひな様のとき戸塚の花やで買って来た見事なアネモネがさしてあって、それは一昨日あたり今にも紫の粉を撒(ま)いて散りそうに開いていたのが、きょうあたりは花弁をすぼめておつぼの形です。ずっとお体は大丈夫でしょうか。熱はどうなったでしょう。すこしだるいようでしょう? 今は誰でもそういう疲労感があります。
 私はずっと工合よく保っていて、しかも相当うれしいことには、きのう歯の医者へ行ってしらべて貰ったら比較的良質の歯だそうです。いろいろ大した手当は不用で、左の下の奥が親知らずを入れて二本だめになっている、それを多分抜くでしょう。あと一つ右の上に過敏になっている箇所があって、それを手入れするぎり。お茶の水の文部省附属の方へ行きました。父もよく通っていた。そこはどんな人でも一度ずつ手当の費用を払い、すべての専門部があって安心です。世にも歯の手入れは辛いから、フーフー思っていて、きのうは大決心で行って、却って大安心しました。どうか御安心下さい。私がこんなに丸っこくて、頭脳的にやや酷使の気味で、それで糖尿的でもないし、齦(はぐき)も健康だというのは全くうれしい。益□夜ねる前に歯をみがくことの効果を信じる次第です。
 この頃は一日に八時間位の労働です。いろいろ視力をつからさないように注意をして。(春は目がつかれる)面白いことに出会いました。それはイギリスの中世の伝説の一つですが、或時、アーサ王が悪者の魔法をつかう騎士につかまってしまった。その悪者はアーサに謎を出した。すべての女が最も望むものは何か。その本当の返答が出来なければ国土を皆とってしまうという。アーサは苦労したがこれぞと思う答がないとき、或森の中で、醜さきわまりない女に出逢うと、それが答えを教えて呉れた。曰ク、すべての女の最も望むことは自分の意志を持つということですよ。
 その答えでアーサは悪い騎士に勝ち、そのみっともない女は、その礼に美しい騎士を良人としてアーサから獲る。するとそれでその女にかけられていた魔法の半分がとけて、女は可愛らしい若い婦人の姿のままで一日の半分は居られる。良人である騎士に、夜美しい方がよいか、昼間うつくしい方がよいか、ときくと、騎士は初め、夜の間美しい方がいいという。でも、女としては昼間きれいで皆の間にいられる方がたのしいのだというと、男はその女の望みを叶えてやって、夜こわい方でもよいということにすると、それが最後の鍵で、女はすっかり魔法から解かれ、美しいまま生涯を暮せた、という話。
 私は大変面白く思いました。七世紀から十一世紀位までの社会でつくられた物語の中で、人間力以上の人物であるアーサが解けない謎が、女の真の心持の要求しているものであるという点、しかもおそろしい魔力が、女に対する男の真の親切な思いやりでのみ、終に解けるとされているところ、大変に面白い。その頃の婦人の生活一般、男の理想と現実の両面が象徴されていて、いかにも面白く思いました。こういう物語は、今の世の中の少年少女にも教訓になるようなものですね。国男などには大いに有益です、ひとつきかしてやろうかしら。
 この間うち隆二さんしきりによき結婚生活、特に芸術家の結婚生活について書いてよこします。貧乏だもので、おでことおでこをつき合わしているような夫婦が多すぎると。そして、真の夫婦というものは互により高い一人を求め合う面で結ばれているものだし、又一人で歩いてゆかねばならぬ、まじり合ってしまってはいけないとしきりに云って居る。何で感じたのでしょう。清少納言や何かひとりで暮していたことを書いて、ローマン的心持らしい。いろいろと微笑されます。勿論いい夫婦というに足りる夫婦は大変に尠い。それだけ互を人間として尊重し評価し愛して同体となっているのは尠いけれども、このひとにはまだ多くの、而も最も人間感情の微妙端巌なところが実感されていない。同時に、私はこの頃、深く深く、人間が一生のうちに、そういうところに近づき触れてゆける結び合いにめぐり合えるということの稀有さを、ひろい背景と考え合わせて感じ極まっているので、何だか無理もないようにも思えます。
 それにしても生活というものは何とリズミカルで、変化するに応じてそれぞれの味い、豊富なものでしょう。あなたはいつか栄さんの良人に、いやな勤めの味を自分も知っていると云っていらっしゃいましたね。この頃私には其がわかります。いろいろ事情も条件もちがうけれども、感情においては判ります。私としては新しい境遇によって得た新しい収穫です。なかなかためになります。益□根が深くなる。この人生に於て愛するに足るあらゆるものを愛す心がいよいよ鋭く水々しくされる。この三四年の間に、私が経て来た生活とその収穫の経緯は一本の道の上ではあるが、芸術家の生涯にとっては重大で、現在の事情も或意味ではこれまでの様々な経験が与えたと違った一つの意味ふかいものを私に与えるらしい様子です。
 生活の全面的な関係だけが可能にする発育のモメントというものがある。正直に生きてそれにぶつかり得ることが既に一つの幸福であり、そこから何かましなものを学べることは、何という滋味でしょう。私は一箇の人間として、所謂(いわゆる)幸福と才能とのキラキラしたところを突破し得る何かが与えられていることを、心から謙遜になって有難いと思って居ります。俗人的でない生活力がみがき出されてゆくということは、真面目にありがたいことです。では又。これは地味な手紙だけれども、丁度この頃の土のように底に暖みを感じているよろこびの手紙なのです。翔(と)ぶような歓び、又こうやって地べたを眺めるような欣(よろこ)び。いろいろね。丁重な挨拶をもって

 三月十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 三月十一日夜  第十二信
 三月三日の、丁度私たちが戸塚のうちで盛(さかん)にお雛様を眺めていた時分書いて下すったお手紙、珍しく早くつきました。その返事を書こうとして机に向ったらこの近所にまあ珍しい三味線の音がして雨が降り出した。私は小さな薬局がひっくりかえったような臭いの口をして居ります。奥歯を二本抜いて来たので。どれの根にも膿の嚢(ふくろ)がついて居ました。レントゲンにうつっていた。よい工合にあとも痛まず出血もしません。ただかえり路はすこし体がフーとなったような塩梅であったが。
 火曜日から三日ばかり(きのう迄)風邪になって床につきましたが、雪を見たら却ってさっぱりしてしまった。何にしろ不順ですね。ずっと同じ御工合でしょうか。
 さて、私が小説について苦々しさがほとばしるといきなり書いて、本当にあれは唐突でした。何にしろ生き方のからくりの悪臭で皆相当当っているものだから。何を書くかより以前に何者であるかということ、について貴方もいつか被云(おっしゃ)っていらした。あの点です、私がああいう爆発を示したのは。相対的にましなものということは認めざるを得ない、それを十分自分から計量して、今時それ以上何がいるというのだという風に居直って、一般感覚で感じないところを、少数の人間が何と感じて居ようと平然と無視した振舞いかたで現実生活をあやつって居られると、芸術の本質から、一応ましみたいであることの悪質を痛感するわけなのです。抽象的な云いかたしか出来ないけれども。一からげは大丈夫です。私もこの頃は大分目も指もこまかく働くようになっていて、これは松茸(まつたけ)か松だけそっくりだがそうではないとか、大分わかります。
 あの小説とは別のこととして、勉強ぶりについていろいろ楽しい期待をもって下さること、よくわかりますし、私も実にその点では云いようのない位、自分にもたのしみです。そのことでは私は自分の最大の貪慾と勤勉とを発露させます。そして長年の友達たちというものもありがたい、誰も皆そういうたのしみは持っていて様々の形で期待して呉れます。私にとって一番こわいのは自分が、わるい作家になるということです。窮局(ママ)に於て、それよりこわいということは存在しない、と思う。私は作家としての生涯の豊饒なるべき時期にめぐりあった新しい条件を、真の豊饒さのために底の底まで活かすつもりです。充実した時間を送って居ります。きのうからきょう、きょうから明日と、長い見とおしと計画とによって充実した力のむらのない日を送り迎えることはなかなかつくし難い味です。
 健ちゃんがそろそろ語学をはじめるらしいが本当にいいことです。語学の実力は小さいときからやったものにはかなわない。いざとなると私の英語がいきかえって来るのを見ても。達ちゃんの舞踊の如きも同じで、歯の手入れ、音楽、語学は子供からです。
 鶴さん又盲腸で臥ている由。清三郎さん大元気です。おひさ君本当にやがて一年東京に暮すことになります。早いものね。さち子さんがお手紙をもって来て見せてくれました。桜草がきれいらしいこと。十五日にはてっちゃん御夫妻が初見参です。あなたのところへ二人で行ったかえりによってくれたのだそうですが、その日は私が留守でしたから。お手紙がついたとの話でした。地図と本つきましたか? 近々『六法』その他お送りします。又月曜日位にお目にかかりにゆきますが呉々お大切に。どてらとネマキの小包はつきました。あれも歯医者のように匂いますね。では又。
 歯をぬいたせいかしら、いやにふわりとした腕の工合で妙です。

 三月十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 三月十七日  第十三信
 十四日には元気そうな御様子でいい心持でした。庭へ出られるようにおなりになったのは何とうれしいでしょう。往来から見ると壁のあたりに樹も見えないが、花なんかやっぱりあるのでしょうね。ヨーロッパと東京にこの頃肺気腫の患者が殖えて来る傾向なのでしらべたら、アスファルトの微細な粉がいつか肺を刺戟して、そういう病にかかりやすくなるのだそうです。一日に地べたを踏むことがない人、いつもアスファルト道しか歩かない人は、一生のうちよほど体を参らすらしい。ひどいものですね。郊外に住むということが益□贅沢の一種になるわけです。
 先ずお父さんの御様子から。昨日お母さんからお手紙が来ました。実にいいあんばいに熱もすっかりなく、医者(秋本ですが)も大丈夫と云ってびっくりしている由。食事は朝牛乳一合、おひるおかゆ一杯お汁、おろし大根とさしみ。夕略(ほぼ)同じ。衰弱もお回復で「血色もまことによくなりましたから決して御心配下さいますな」そして食事の外は「いつもおとなしく休んでおります」「顕治にも心配せぬようお伝え下さい」とのことです。
 島田の方はお医者様が何人か出征して、五ヵ村に秋本さん一人です。その医者で御なおりになったのですから、実に万歳ですね。私は殆どびっくりするほどであるし又しんから嬉しい。あなた方の体質はこういう型なのですね。私の方は父ゆずりで溌溂(はつらつ)としているがしんが脆(もろ)い(生理的に)。
 あちらでも遠いところをと云って居らっしゃるしするから、急に行くことはやめます。そして四月になって一段落をつけて、一寸御様子を見て来るかもしれません。野原の方も冨美ちゃんが三月二十七・八日頃女学校の入学試験です。入ったら本を二三冊と万年筆をお祝いにやろうと思って居ります。あちらももう一周忌です。何かお供えの品をお送りしようと考え中です。
 一昨夜やっと大観堂へ出かけました、宿題を果すために。そしたら、お金をお送りになっているのが一寸見当らず。ともかく『真実一路』と本庄氏の『日本社会史』を店からお送りします。土屋氏の本は手元になく、本庄氏の『農村社会史』という方は大観堂目録にない様子です。近日中に行ってもう一度しらべます。
 丸善の方もちゃんと命じました。松山高校へも出しました。私のやりかたは可笑(おか)しくてすぐやってしまう分はいつもちゃんちゃん行って、一遍落すとなかなか落しっぱなしになってしまう。そちらでは、落された部分が却っていつも気になるのが自分の経験でわかっているのに。あなたの忍耐を、私までためさないでいいのに、御免なさい。毛布と着物と二包みにして送り出しました。着物はすこし寸法が短い目に仕立ててあります。でもあれは私たちのお気に入りの紺の方ではないから、まああれで一通り召して下さい。毛布はすこし毛のうすくなっているところもあるが。
 今村さんの亡くなったことはいつか一寸お話ししたと思いますが覚えちがいであったかしら。友達たちはあのひとのために実によくつくしてやりました。それから九州の兄の家へかえってそこでも自分が思っていたよりはよく扱われていたが、遂に亡くなりました。詩は集に入っているののほか、雑誌にのったのも、大体はわかっているし、とってあるようです。今野さんの詩もやはりまとめてとってあります。あのひとは兄さんの家庭があるだけで、あのひとのあとで困っている家族はないのです。
 エドガア・スノウの本[自注3]が半年かかって到着しました。見せてあげたいと思います。きょうの手紙は大変家事むきのものになりました。これから二三時間仕事をして、それからもらった切符で前進座を見ます。皆ここのひとは上手(うま)くなりました。山岸しづ江さんなども。阿部一族(鴎外)の映画は好評です。今日は江戸城明渡し(藤森)です。では又。どうかそのお元気で。

[自注3]エドガア・スノウの本――エドガー・スノウ『中国の赤い星』。

 三月二十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 三月二十日  第十四信。
 今夜は何という春めいた晩でしょう。
 この頃は、昼間は落付かない風が吹いていやだが、夜になるといかにも和らいだ空気ですね。灯をうけて紙に向ってさっきから仕事をしている。紙の上にペンの音が響き、ずっと遠いところを電車の音もしているが、人声はどこにも聞えず、大変心持がよい。明るさの中に何か微粒子が動いているようで、手紙を書かずに居られません。一寸ペンをもったまま傍をふり向き、この夜とこの一種の静かさの裡で顔を見たい。見えてはいるのですけれどもね。そこに在るのだが、私が顔をもってゆくと空気が動いて、心が自分の優しさに困惑する。
 これからこういう夜がつづいて、ますますいろいろ勉強したり、考えたり、書いたりしたくなることでしょう。本当に静か。きのうの晩、栄さん夫妻あてのお手紙をみせてくれました。相変らずピーピー暮しだろうとは図星故、大いに笑いました。でもあすこは栄さんがああいう生活的な人柄だし、ピーピーながらも抑揚をもって毎日をすごして居ります。
 話が唐突に飛ぶけれども、しゃべりつづけていなければならないというのは、何といやでしょうね。何もしゃべらず、ただ見ていたい、見て、見て、見ていたい。そう思う。尤も昏倒(こんとう)してしまうかもしれないけれども。
 明日あたり『六法全書』『国勢図会』などお送りしましょう。ああ、こんなにしてあれこれといってみて、いいたいことはこのどれでもないというようなのは、おかしい。そして、苦しい。
 自分ごとみんなまるめて、一つの黒子(ほくろ)にしてそこへつけて、眺めて、さて、この下じきになっている紙に向って又仕事をつづけましょう。

 きょうは三月二十三日の午すこし過です。雨上りの曇天であるが、窓をあけていると盛にどこからか雀の囀(さえず)りがきこえてきて朝のようです。昨夜は新響の定期演奏会でマーラーの第三交響楽でした。ひどい雨降りのところをあまり机にへばりついているので、意を決して出かけ面白かった、いろいろ。女声のアルト独唱や子供の(といっても若い女学生をつかった)合唱のついたもので、独唱の歌詞はニーチェの詩ですが、音楽でも神秘くさいものをほんとに幽玄にはなかなかやれないものね、すごむばかりで。それにつづく光明的な楽章に子供が合唱するのですが、それは教会のベルや神の栄光がうたわれる。ヨーロッパ人の感情の型づけが、あまり定型的に出ていて、ベートーヴェンはこういう型にしたがわず、もっと人間感情を生粋(きっすい)のまま、全く音楽的に様々の情熱を表現しているだけでもやはり偉いと思いました。人間生活の諸相につき入ること、それ以外に芸術はない。その諸相をより全体的にとらえ得るためへの努力以外に努力はないと今更の如く感じます。
 きのうは又、知っている人に割引で岩波の斎藤の『中辞典』を買って届けて貰い、うれしかった。なかなかいい字引です。活字が第一やたらに小さくなくていい。そして豊富にあつめてあって、こんなのと、オックスフォードと、市河の古語があれば、まあ大抵の役には立つのでしょう。非常な勢でやっています、早くすきなことがやりたいから。
 それから、かねがねの宿題の返事がやっときました。松山高校内菊池用達組販売部という紫のゴム印をおして。鉛筆をなめなめ書いた字で、先ず「お葉書正に拝見いたしました」云々と、女の字で書いている。今も菊池の由です。「以前の帳簿は保存してありますけれども本店主人及店員の主なる人は、目下戦地へ行って居ります為、金額は不分明に御座います。それで宮本顕治様のお名前はよく覚えて居ります。お払未納の分をお心にかけられお申越しでありますが」何程でもよろしいと申すわけです。いくら位だったか覚えていらっしゃらないでしょうね。よほど前には三円いくらといっていらしたが。五円位やっておきましょうか? 越智という人のあとは四人目でお上(かみ)さんの住所は分りかねるそうです。松山の学校は指田町というところにあるのですかしら。あさってあたりおめにかかりにゆきます。繁治さんの詩を一つ『文芸』にやりました。
 私は林町のうしろなどへ行かないでよかった。実によかった。よろこんでいます。ここにこうしていてこそ新しい事情の新しい収穫がくっきりと身につくのです。それをひしひしと感じて居ります。
 沈丁花という花の薫り、そこにも匂いますか? この辺は夜など静かな往来いっぱいに漂っています。では又。春先の風邪を御用心。

 三月二十九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 三月二十九日  第十五信。
 午前九時前の朝の光をうけて、あなたに手紙を書くというのは、大変珍らしいことでしょう。昨晩は十一時頃床(とこ)に入って、非常にぐっすり眠って、けさはおひさ公と一緒におきてパンをたべて上って来たところです。
 あなたのところでは、今朝はどんなお目醒(めざめ)でしたか。やっぱり気分がよかったかしら。そして、永い間横になって目を開けて、朝の目醒のいろいろな情景を思い起していらしたかしら。
 金曜日は、出かけにうすら寒かったので、ああやってお目にかかったときはコートを着ていたが、ずっと広っぱの水たまり道を歩いているうちにすっかり暖くなってしまって、鋪道へ出たら、街路樹の支柱へハンドバッグなどのせて、コートを脱ぎたたんで持ってかえりました。そしたら、女学校の上級生であった時分、女子大へ一寸通っていた時分のことをはっきり思い出した、朝雨がふってかえりに晴れている。すると、私共はその頃和服で袴の上にバンドをつけて通っていたから、合羽(かっぱ)をたたんで、お包みの下へもって、傘をもって、袴に靴という姿で、大いに気取って歩いたものでした。その時分は、森鴎外も、私が肴町へ出る時刻、馬にのって、立派な顔立ちでよく通りました。
 土曜日は茂輔氏の『あらがね』(小山出版)の会でいろんな人の顔といろんなテーブルスピーチをききました。高見順君「テーブルスピーチというものをやります」という冒頭。
 日曜日には、わが家として特筆大書すべきことがありました。子供たちが皆一年だけ進級したので(達枝は来年だが)そのお祝いをしてやることにしてあった。子供は大楽しみをするからあまり前もって云って、何かさしつかえると実に相すまないから前晩までふせておいて、日曜日は栄さん、本間さんの細君、ひさ、私もちょいちょい手伝って、お釜二つに五目ずしをつくりました。細長い台を二つタテに並べたところへ、高女四、高等二年六年三年三年と並んで、賑やかに食べること、食べること。私は前掛をかけて首をまげて見物していて、「一寸ゆっくり、沢山たべなけりゃだめだよ」とか「お腹ギューギューならバンドおゆるめ」とか云っている。「もうさっきゆるめちゃいました」健造は総代だったって。新しい服がすこし大きいので首が細く見えるのもいかにも進級風景です。健造新らしい服のせいか膝にハンカチをひろげて食べている。別に何とも私は云わなかったが、この子の性質が出ている。ハンケチなんかかけないでいいし、思いつきもしない方がいい。年よりがいるとちがうのかしらなどと思って眺めました。女の子二人はもう大きくもあるのだが、男の児等とちがっている。稲ちゃんも私も女びいきのくせに男の児の方がすきで、面白い。男の児みたいに面白い女の児がざらにいるようにならなければ嘘だと沁々思います。男の児はどれも、どんぐりでも、何かくっきりした輪廓(りんかく)をもっている。粒々がある。だから面白い。
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