私たちの建設
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:宮本百合子 

        封建の世界

 言葉に云いつくされないほどの犠牲を通して、日本に初めて、人民が自分の幸福の建設のために、自分達で判断し行動することの出来る時代が到達した。そして全人民の半数を占める日本の婦人も、過去の重い軛(くびき)から解放されて、明るい希望のある社会建設のために、これまでかくされていた自分たちの力を発揮することの出来る時代になって来た。それにつけても、今日私達が残念に思うことは、わたしたちが勇気をもって明日へ歩み出すために是非必要な日本の社会の歴史及びその歴史の中で、女性が負うていた役割について、事実を語っている歴史がほとんどないことである。これまでの歴史がどんなに歪められ、真実を蔽われていたかということは周知のとおりである。日本の社会を自分達の勤労によって育て上げ、その発展を担って来た人民である男も女も、自分達の祖先がどのようにして生きたか、社会はどういう筋道を辿って今日迄来たか、随(したが)って、未来はどう発展するのが合理的であるかということについての見透しは、これまでちっとも与えられなかった。
 長い旅行に出発する前には、誰でも地図を調べる。それと同じように、私達が偉大な建設の道に発とうとする時、過去の歴史を正しく明瞭に理解し、自分達の実力を知ることは極めて意義深いと思う。
 日本の女性の歴史は、先ず神話の中に現われている。天照大神という名は、後代の支配者たちが政治的に利用して、宗教的崇拝の中心に置いたが、現実に歴史をさぐれば、天照大神は古代日本の社会において、一人の女酋長であった。日本の石器時代の氏族社会は、まだ総ての生産手段とその収穫とを共有していた時代で、氏族の中では男も女も平等の権利を持っていた。つまり男も女も等しい選挙権と被選挙権とを持っていたし、女の酋長というものも、文献の中に多勢現われている。この時代は母系の制度が行われていた。一つの氏族内の母方の子供は、先任の酋長が男であろうと女であろうと選挙されればその地位を継承する権利を持っていた。このことは、もうその頃から女の力が、産業と毎日を生きてゆく家事との上で、どれ程大切な役目を持っていたかということを証明している。神話に、天照大神が機を織っていたらば、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が暴れ込んで、馬の生皮を投げ込んで機を滅茶滅茶にしてしまったという插話がある。女酋長である天照大神はそれを憤って、おそらくその頃の住居でもあった岩屋にとじ籠って戸をしめてしまった。神々は閉口した。そこでその岩屋の前で集会を開いて、何とかして女酋長の機嫌を直そうとした。その時に、氏族中の一人の女であった鈿女命(うずめのみこと)が頓智を出して、極めて陽気な「たたら舞」をした。それをとりまいて見物している神々が笑いどよめいた声に誘われて、好奇心を動かされた女酋長がちょいと岩戸を隙(す)かしたところを、手力男命(たじからおのみこと)が岩を取り除けて連れ出したという物語である。これは天照大神が女の酋長であったと同時に、その氏族の中では機も織り、恐らくは野に食物をあさりもした実際の働き手であったことを物語っている。鈿女命の踊りは、氏族に重大な問題が起った時に、後世のような偏見は持たれず、女がその解決のために自由な創意を働かすことが出来たという当時の社会の事実をも語っている。
 こういう原始社会の生産が次第に進んで、日本民族は次第に一定の土地に一定の方法で行う耕作を憶え、鉄器が輸入され、氏族間の闘いで、より強い氏族が弱い氏族を奴隷として自分に従え、労働させるようになった。それにつれて、個人の富というものが段々増大し、固定して来た。婦人の地位というものはいつか変化して来た。太古のあどけない平等は失われ、財産の主人である男の父権が確立して女子はそれに従属するものとなりはじめた。奴隷としてつれて来られた他氏族の者の中には勿論女も交っていて、それは女奴隷として労働させられ、男の所有ともなされた。この時代から女性は男子の権力に服するものとしての、社会的な在り方が根をおろしはじめ、歴史と共に極めて多様な形で変化しながら、殆んど今日まで、なお本質は継続して来ているのである。
 藤原時代(西暦十一世紀)は、日本の文化史の中で、最も女性の文化が昂揚した時代といわれている。世界に誇る日本の古典文学といえば、それがたった一つしかないようにいつもとり出されている源氏物語にしろ、枕草子、栄華物語、その他総てこの時代の婦人たちの作品である。けれども、これらの卓抜な文学的収穫を残した婦人達が、当時の社会でどういう風に生きていたかといえば、それはまことに儚(はかな)い一生であった。どんな文学史を探しても、紫式部の名前は分らない。藤原某の娘であったということが分るだけで、彼女の本名は何子であったのか、何姫であったのか、決して記録されていない。あのような天才を持っていた清少納言にしてもそれは同じである。この時代の歴史の上に父の姓とともに固有の名を記されているのは、極く少数の、藤原氏直系の娘たちだけで、いずれも皇后、妃、中宮などになった人達ばかりである。
 藤原氏は、宮廷内のあらゆる隅々まで一族の権力を伸張させるために、抑々(そもそも)藤原鎌足の時代から、自分の娘たちを天皇の母親としようと努力して来た。皇后にするか、さもなければ中宮として、血をとおして一家の権力を扶植して来た。その必要から、自分の娘たちの身辺を飾り宮廷社会の陰険な競争に対してよく備え暗黙の外交的影響と文化の力で、娘の勢力を確保するために才智の優れた、性格にも特色のある婦人達を官女として集め、宮中の人気を集注し、社交的なあらゆる場面で勝利を占めようとして来た。源氏物語を読めば、当時の宮廷内の無為と遊楽と権力争いの事情が実に細かく色彩ゆたかに描写されている。そして、紫式部という官女名をもった一人の優れた真面目な心の婦人作家は、当時の社会に生きる女の一生が、どんなに頼りない気の毒なものであるかということを痛感している。藤原氏専横の当時、中流の女性が、父親の家にあって経済的な基礎もなく社会的背景も権利も無いままに、どんな不安な身のゆく末を思い煩わなければならなかったか、又そこから脱出しようとして、それぞれの才智に応じて、いろいろと進歩の機会を捉える工面をして、せめてその関係に安定のある配偶を見つけようとし、或は宮廷に入ろうと努力した姿は、源氏物語の「雨夜のしなさだめ」にも窺われる。
 藤原時代は、支配階級の経済の基礎は、荘園制度であった。藤原氏は今日いう不在地主で、各地の大荘園は、その土地に住む管理者によって管理されていた。が藤原末期になるにつれて荘園の管理者が収穫をごまかしたり、農民の疲弊が甚しくなったりして財源は不確定になって来た。男子の任官というものも、全く藤原氏の権力者のお手盛りであったから、下級官吏達の生涯は、始めから終りまで不安定で、一旦藤原氏の機嫌をそこねたら、任官も覚束ない者が多かった。一年の始めに、任官発表がある毎に其々の一家の婦人達は喜び、歎きした。沢山の歌や日記の中に、そのときの思いが語られている。
 荘園には、少女から老婆までの女がどっさり奴隷として働かされていた。藤原氏の貴婦人達が着ていた七重八重の唐衣、藤原氏の紳士達がたいへん温いものだと珍重して着た綿衣、それらは、皆荘園の女奴隷達の指先から生み出されたものなのであった。
 藤原氏一族の貴女の生活は、そのように不安定な土台の上に絢爛と咲いていたが、当時の日本全国、或は京都の一般の庶民の女の生活というものはどんなであったのだろうか。第一、絵巻を見ても分るように、庶民の女は髪を藁□(わらしべ)や紙で結え、染色を使わない着物を着て、殆んど裸足で働いて暮した。そして京都の辻には行倒れが絶えず、女乞食が宮廷の庭へまで入って来るような極端な貧しさの中で文盲であった。紫式部達が物語を書き、支那の詩を扇にかいてさざめいていた時、これらの謙遜であるとも知らぬほど謙遜で勤勉な庶民の女達は、自分の名も知らず、自分達の働きの意義も知らず、今昔物語に現われているように沢山の迷信や鬼の話や、人攫(ひとさら)いの話などのうちに耕作し、紡ぎ、織り、炊(かし)ぎして生活した。
 藤原時代は武家政治の時代に移った。政治の主権は藤原氏から足利に移りやがて織田信長の時代になって(西暦十六世紀)日本では、封建社会が確立される一歩をしるした。
 豊臣秀吉を経て、徳川家康から家光の時代に、日本の封建制度は全く動かないものとなり、明治に至ったのであった。
 武家時代、婦人の生活は全くその父兄達の、戦略の便宜に支配された。結婚はすっかり政略結婚になって、夫婦の情愛とか、母子の愛情は無慙(むざん)に蹂み躙(にじ)られた。兄や父親の政治的な利害に従って、いじらしい婦人達は、あの城主からこの城主へと、夫を換えさせられることが屡々(しばしば)珍しくなかったし、愛する男の子は敵方の血すじを保っているからと棄てさせられて、自分だけが実家の軍勢に囲まれた城から、甲斐なくも救い出されるという悲劇も頻出した。
 武家時代に完成された文学の一つの形に謡曲がある。謡曲文学の中には、何と生きるよろこびが反映していないだろう。無限の女性の歎きと怨みとが、響いている。物狂(ものぐるい)の女主人公達は、総て何かの意味で挫折した愛情の故に狂う哀れな女人であるし、幽霊となって現われる女達は、みんなこの世では果されなかった衷心の希望に惹かれて、再びこの世にそれを訴えようとして現われた人達である。
 面白いのは、この時代の貴族的な文学であった謡曲に対して、もっと庶民的な源泉をもって創られた狂言の存在していることである。狂言は、日本のユーモアの健全さ、大らかさ、生活力を示す貴重なものである。これらの狂言の中に出現する女は、謡曲の女主人公達の悲劇的な亡霊的存在と較べて、その感性、行動がいかにも現世的であり、腕白であり、時には晴れ晴れと亭主を尻にも敷いている。狂言の行中には、いつも少し魯鈍でお人よしな殿と、頓智と狡さと精力に満ちた太郎冠者と、相当やきもちの強い、時には腕力をも揮う殿の妻君とが現われて、短い、簡明な筋の運びのうちに腹からの笑いを誘い出している。
 武家貴族の生活が婦人を愉しく又苦しい勤労から全く引き離して、しかも完全に政略の犠牲としていたのに反して、より政略の桎梏(しっこく)の少い下級武士や庶民生活の中では、女性の生活が、文盲ながら幾らか明るさ、健全さを持っていたことを、狂言は語っている。同時に当時の社会のいわゆる下層者には、支配階級に対して皮肉な大笑いをしている感情もあったという事実を示している。太郎冠者はそのチャンピオンとして登場しているのであった。
 戦国時代にこうして一旦崩れ分散した支配権力は、信長によって、或る程度まとめられた。織田信長は当時の群雄たちの中では、誰よりも早く新らしい戦術を輸入した。種子島へ来た鉄砲をどっさり買い込んで、自分の歩兵を武装させ機動的な戦争の方法を組織したのは信長であった。信長が、分裂していた支配権力を一応自分に集中することが出来たのは、彼の賢によってであった。彼がポルトガルから渡来した近代武器の威力を理解したからであった。そしてその統一に、一つの有利な条件をつけるために、京都において政権を喪い、窮乏していた天皇の一族に経済的援助を与え、旧藤原一族の権謀慾をしずめようとした。
 これは秀吉の時代にも自己の権力の利益を護るために踏襲された方法であった。政治の実権――主権を武家に確保するために、公家と武器と領地と領地の農民を背景とした僧侶の反抗の口実を防ぐために、天皇一族に対する給与ということが考えられていたのであった。
 秀吉といえば、桃山時代(西暦十六世紀)という独特な時期を文化史の上につくり出した規模壮大な一人の英雄である。そして、その感情生活も性格から来る不羈奔放さとともに、専制的な君主らしく一人よがりで気ままであったこと、伝説化されている淀君のような存在もあり、一方には千利休の娘に対する醜聞なども伝えられている。
 当時の社会では、征服した者が権力を以て征服された城主の婦人達を意の儘にするということが寧ろ当然の慣(ならわ)しであった。日本の女性史の中で淀君は我儘者の見本のように語られている。しかし、この半ば誇張された伝記の中にも、案外私共の注意すべき点がひそんでいるのではなかろうか。淀君の母親は、秀吉に敗けた柴田勝家の妻であった。お茶々と呼ばれた少女の淀君は、美貌の母と共に秀吉の捕虜となって育った。彼女の美しさは、昔秀吉が恋着した母の美しさを匂うばかりの若さのうちに髣髴(ほうふつ)させた。年齢の相異や境遇の微妙さはふきとばして、彼女を寵愛した。錦に包まれて暮しながら、お茶々といった稚い時代から、彼女の心に根強く植付けられていた「猿面」秀吉に対する軽蔑は、根深いものがあったろう。その秀吉の愛情を独占するということは、とりも直さず女性としては一つの復讐であった。淀君は殆んど分別なく我意を揮った。豊臣家の存亡ということについて、責任を負う気持がなかったのも当然である。
 悲劇と喜劇とが錯綜して、日夜運行していた大坂城の中にお菊という一人の老女があった。余程永年、豊臣家に仕えていたものらしい。ところが、このお菊がどんな生活をしていたかといえば、冬でも僅かに麻衣を重ねていたに過ぎないということが、竹越与三郎氏の日本経済史の中に一つの插話として書かれている。そうして見れば、当時最も華美とされた城の中でさえも、女主人公と使われる女達との間には、着るものから食べるもの、あらゆることに恐ろしい懸隔があったことが分る。
 徳川時代に入って封建制は確められ、士農工商の身分的区別も確立した。徳川氏の権力維持の努力とそれを繞(めぐ)る野心ある諸家の闘いは、やはり女性をさまざまの形でその仲介物とした。稗史の中でも徳川の大奥というものは伏魔殿とされた。沢山の隠れた罪悪と御殿女中の不自然な生活から来る破廉恥な行為とは、画家英一蝶に一枚の諷刺画を描かせ、彼はそのために遠島の刑にあった。徳川時代の婦人達はやはり権謀術数の手段として、人間の女性としての本性を踏み躙った性的関係に置かれたのであった。
 ここでヨーロッパの封建時代の男女関係と、日本の封建時代のそれとを比較して見ることは興味があると思う。ヨーロッパの封建諸王の時代は中世の伝説に現われている通り、アーサー王やランスロットの物語によって伝えられているような騎士気質が支配していた。騎士時代のヨーロッパ女性の生活は、本質においてはやっぱり無権力なもので、夫や兄の命令は絶対であった。そこから美しい悲しいロマンスが生れている。女の自主性というものがどんなに無視され、また警戒されていたかということは次の興味ある物語でも知られる。
 騎士の一人にガラハートという勇士があった。或る時森で悪魔的な巨人に出合った。そして難題をかけられた。その難題というのは「女が一番この世で欲しがっているものは何か」ということで、その答を日限までに持って来なければ果し合いをするという条件であった。ガラハートは当惑してあちらこちらと彷徨(さまよ)った。女が一番欲しいというのは何であろう。大金持の夫であろうか。それとも無類に美しい容貌の夫であろうか。或はやさしく真実な騎士の愛情であろうか。とつおいつしながらまた別の森に来かかった。すると樹の間から赤い着物を着て、恐ろしい顔をした一人の女が出て来た。そしてガラハートに呼びかけた。
「ガラハートよ。あなたはなぜそんなに沈んだ顔をしていますか、日頃の雄々しいあなたにも似合わない」
 ガラハートは親切な言葉を感謝して、自分のぶつかっている困難を打ち明けた。
「どうも困りました。いくら考えても私には見当がつかない。若しお智慧を拝借出来たら大変仕合せです」
 すると、赤い着物の恐ろしい女は答えた。
「心配なさらないでようございますよガラハート、私はあなたの武勇を崇拝しているから、答を与えて上げましょう。女がこの世で一番欲しいと思っているものは『独立』です」
 そういって女の姿は消えた。
 日限が来た時ガラハートは勇んで例の森へ出かけた。巨人は恐ろしい武器をひっさげて待ち構えている。破鐘のような声を出して呼びかけた。
「やい、ガラハート、難題はどうした。とても返事は出来なかろう。お前の命も今日きりだぞ」
 ガラハートは落着いて「まあまあ急ぐな」といった。
「返事は用意してある」
「言って見ろ」
「女がこの世で一番欲しているものは『独立』だ」
 すると巨人の顔色が変った。
「畜生、とうとうお前は本当のことをいい当てた。しかし、人間の男に、その答えが分る筈はない。誰かがきっとお前に智慧を貸したに違いない。言え」
 ガラハートは清廉潔白な騎士であるから、森の中で、赤い着物を着た恐ろしい女に出合って、その女が智慧を貸してくれたことを告げた。巨人はさも残念そうに自分の腿をなぐった。「ああ、あの畜生、それは私の妹だ。何年か前あの女をひどい目に遭わせて追放した。その怨みを今日晴らしたんだ」非常に落胆して、すごすご武器を引きずって森の奥へ退いて行った。
 これは中世の騎士伝説の中で圧巻的なエピソードだと思う。騎士達は礼儀正しく貴婦人達の前に跪き、その手に接吻し、その人の身に着いたものをマスコットとして試合に立ち向った。そして彼女達のために音楽を奏し、狩猟のお供をし、奪掠者から彼女達を護った。今日でも婦人に対して、礼儀と節度のある行為を、騎士的なという表現で言われている。けれども、婦人の社会におかれた地位の本質は、このガラハートの諷刺的な物語が示すようなものであったことは疑いない。
 ヨーロッパ中世における婦人は、飾りない言葉でいえば男子の闘争の鹵獲品(ろかくひん)として存在したのであった。それは武力的な闘争の賭物とされたばかりでなく、道徳的な闘争の賭物ともされたのであった。騎士物語の中には、夫である一人の騎士が、友達との張合いから、妻の貞操を賭物として、破廉恥な友人の道徳的なテストに可憐な妻をさらす物語が少くない。中世の女性達は女としての奇智の限りを尽して、非道な奪掠者と闘った。そして自分の愛の純潔と夫への忠実を守った。
 このようないきさつは、日本の中世の武家社会にやはり少くなかった。例えば袈裟御前の物語がある。一人の武家の婦人が生命を賭さなければ、自分の貞潔を守れなかった当時の男の暴力を物語っている。
 徳川の中葉から日本では町人階級が勃興して、身分制度においては一番低いものとされている商人が巨大な富を蓄積しはじめた。大坂がその中心地となった。大阪商人の富は、封建領主達が領地の農民から取立てていた米を廻漕し、その収穫と収穫との間に金銭の立替をして利をとりやがて集めた米を土台に相場をして、政治的には支配者であった武士の経済を本質的に大坂の商人が掌握しはじめたことで増大して行った。
 農民というものは、この長い歴史の間に殆んど変化のない程原始的な耕具と、最大限な肉体的労働とで働き続けて来ていた。徳川の標語は「殺すな、生かすな」という一貫した主張をもっており、その主意によって統治を受けた。やっと生活出来る程度の収入だけを残して、あとは皆地頭、領主に取られて来た。農民の女性の生活というものは、全く物を言う家畜という有様であった。しかしこの時代の彼女達の生活が文化の上に残した各地方の労働歌――紡ぎ唄、田植唄、粉挽の時に歌う唄、茶つみ唄、年に一度の盆踊りに歌う唄などは、素朴な言葉の間に脈々とした訴えと憧れとをふくめている。
 万葉集には、名もない防人の歌、防人の妻や母、遊行婦女の歌なども、有名な乞食の歌などと共に集録されて今日に伝えられている。けれども、藤原氏以後、上層の支配者の文化は、すっかり一般人民の内面生活から遊離して、文学的な集というようなものには、庶民の婦人の生活の苦しさやひそかな歓喜の思いを反映する歌も物語も残していない。そのことは、支配者の文化がどんなに崩れやすい社会的基盤に立っていたかということを、その反面に証拠だてているのである。
 商人の擡頭につれて、商人の婦女達の生活程度というものは、物質的に大変化して来た。西鶴の短篇小説の中には、大坂や江戸の大商人の妻や娘が、どんなに贅を極めた服装をし、帯に珊瑚をつけ、珍らしい舶来の呉絽服綸の丸帯をつくり、高価な頭飾りをつくったかということが、こまごまと書かれている。金銭出納細目帳のようにまで書かれている。
 徳川の政府はたびたび贅沢禁止の命令を発したが、命令は実行されなかった。それは当然であったと思う。社会的に最も身分の低いものとされ、斬り捨て御免の立場に置かれ、しかも経済の中枢では権力者の咽喉元を握っていた商人達は、自分の意思、自分の権力を、ほかのどこに示すことが出来たろう。結局物質的な実力を誇るしかなかったし、その一つの示威運動として妻や娘を飾り立てずにはおられなかったろうし、妻達もいわゆる大名方の夫人達に対抗して、庶民であるが故に大袈裟な物見遊山の行列もつくれるし、芝居見物も出来るし、贔屓(ひいき)役者と遊ぶことも出来るし、贅を尽した身装を競争することも出来るという特権を味ったのであった。
 こういう物質的な女性生活の富貴は、しかし立入って見れば彼女達の曇りない幸福を証明するものではなかった。この時代に日本の一般社会には女性に対する支那伝来の厳しい女訓が流布して、貝原益軒の女大学などが出た時期であった。どんなに美事に着飾ろうとも、女は三界に家なきものとされた。娘の時は父の家。嫁しては夫の家。老いては子の家。それらの家に属する女として存在するばかりで、彼女自身の家というものは認められなかった。しかも、その彼女たちのものならぬ「家」の経営のために、三界に家なき女の一生は、益軒が女大学の中でいかめしく規定しているような辛い条件で過されたのであった。
 益軒の女大学の主張しているところは、誇張でなく奴隷としての女のモラルである。女は男よりも遅く寝て、男よりも早く起きなければならない。益軒は主張している。結婚して三年経って子供を持たない女は離婚してもよいと。一方においてこの益軒は『養生訓』という有名な本を書いた。この本の中で益軒は智慧をつくして、男が長生きをする養生の方法を研究しているのである。熱い風呂に入るなということから、性生活にわたるまでを丁寧に教えている。そうして見れば、当時の標準で、いくらかは医学の知識も学んでいたのだろう。それにもかかわらず、女に向うと益軒は、女が男よりも弱い体を持っているということさえも無視している。子供を持つためには、女の生理的ないろいろの条件が、十分守られ保護されなければならないという事実さえも無視している。そして睡眠不足、粗食が守るべき女の規則として提出されている。今日、少し常識あるものは不姙が女だけの責任でないことを理解している。益軒の、性生活に対する注意事項を見ればその間の消息に通じない男でもなかったらしい。しかし、封建的な家というものに女を隷属させて、家を継承する男の子を生む者としてだけ女を計算した封建家族制度の立場は、男のそういう目的に反する全責任を、女に投げかけているのである。
 女大学が繰返えし読まれたのは、中流の武家階級であったろう。貴族と町人とはそれぞれの社会的な理由から、現実に益軒のモラルは蹴飛ばして生きていただろうと思う。
 徳川の末、日本文学は興味ある変化を示した。その一つに、近松門左衛門の文学がある。彼の作品は、浄瑠璃として作られた。日本文学史の中で、近松の作品が持っている最も本質的な価値は、この封建の社会の中にあって封建のしきたり、道徳観、身分制などというものと、むき出しの人間性、ヒューマニティーというものがどのように葛藤し、□(もが)き、悲劇的な終結を持たなければならなかったかということを、曲節をつくし、雄弁に物語っている点にある。
 当時近松の題材となったような相対死(心中)が非常に現われた。又、いわゆる不義とされた男女関係の悲劇も多く現われた。近松は、この世の義理に苦しみ、社会の制裁に怯える男女の歎きと愛着とを、七五調の極めて情緒的な、感性的な文章で愬(うった)えて、当時のあらゆる人の心を魅した。社会の身分の差別はどうあろうとも、偶然の機会から相寄った一組の男女が、自然のままに自分達の感情を伝え合わずにはいられないということを、一応は肯定するところまで、当時の人間性の本能的な理解が拡がって来ており、しかも、その愛情の貫徹のために、社会の枠を自分達の力で破壊して行く努力、そのような建設的な恋愛というものは、まだ自覚されていなかった。憐れな二人は最後には死ぬことで、この世で実現されなかった互いの結合を全くしようとしているのである。
 近松は、文学者として女主人公達と共に、その生き方の限界に自分を止めた。近松には、主人公達の苦悩と死に方とを、もう一歩生きる方へと導いて行くだけの社会的覚醒と自立性とがなかった。このことは近松の生れた元禄の時代が町人の擡頭と武士階級の崩壊時代ではあってもまだ身分の差別はきびしくて、封建の外郭は堅かったことを反映している。どんな卓抜な文学的天才でも、その人の生きる時代の歴史的な重みというものから、その個人だけで完全に解放され切らないということを証明している。
 当時の婦人達は、浄瑠璃として又は芝居として、近松の描き出す哀感に満ちた世界を、自分達の感情の奥底にある響きとして聞きもし、見もした。婦人はこのようにして男子の作家によって描かれ、そして謳われた。しかし、当時の婦人の文化的な能力は、日常の帖つけ、手紙をかくに不自由しない読み書き算盤の低い範囲に止められていたから、その複雑な時代に生きる自分たち女性自身の描き手としての婦人作家は、一人も出ていない。武家時代から徳川の全時代を通じて、日本には婦人作家というほどのものが出なかった。元禄時代には、辛うじて俳句の世界で加賀の千代、その他数名の優れた女性達が現われた。けれども、小説というような、社会に対する客観的な眼、自分の生活に対する省察と洞察とを要求されるような精神上の労作は、封建の数百年間、日本婦人の可能から、奪われていたのであった。
 徳川の政権は次第次第に揺ぎ出した。遂に黒船に脅かされ最後の崩壊の兆を示した(一八五三)。日本の歴史を見て、深い驚きにうたれることは、ヨーロッパにおいて人文復興のルネッサンスが起り、近代に向う豊富な社会生活と文化とが発生しはじめた丁度その頃に、徳川の完全な鎖国政策がはじまったことである。ヨーロッパが、まだ蒙昧な、半ば野蛮時代の生活をしていた十一、二世紀に、日本は既に藤原時代の社会生活と文化とを持っていた。従って、当時の世界で、日本は確かに支那に次ぐ文化の先進性を持っていたのであった。ところが、肝腎の近代の黎明であるルネッサンス前後に(十六世紀)日本の支配層が小さく安全に自分の権力を確保しようとして、厳しい鎖国政策を執ったために、ヨーロッパがその後急速に近代化した三、四世紀の間を、日本は全く孤立して、独善的に生産も経済も全くおくれた土台のまま封建社会の生活に過して来たのであった。
 徳川中葉以後、町人階級が勃興したといっても、それは先ず、イタリーを中心としたヨーロッパの重商主義的な商業の大発達、ハンザ同盟、諸大学の設立、部分的ではあるが婦人の向学心も承認されて、スペインのコルド□大学には数人の婦人学者も生れた事情とは全く無縁であった。封建日本の知識人たちは一部の勇敢な人たちだけが、徳川の禁止に脅かされつつオランダ貿易を通じてチラリ、チラリと覗(うかが)われるようになった近代欧州の知識に関心をよせ、そのためには生命を失いさえしなければならなかった。国内の社会事情の矛盾から、文学上には、一種の無常観、俳句において代表されている「さび」の感覚などのうちに退嬰(たいえい)し、徳川末期に到っては身分制に属しながら実力はそれを凌駕している町人階級の文学としてそこでだけは武士の力がものをいわぬ遊里、花柳界遊蕩の文学が発生したのであった。この種の文学の世界では近松の作品にあっては人間性の悲劇の女主人公として見られた女性も、当然あそびの対手としてしか、美も情感も認められ得なかったのであった。

        明治開化の明暗

 明治は、日本が新しい誕生を以て近代世界の中に歩み出そうとする激しい希望を以て始められた。明治の初期における社会の革新的な動き方は、日本の歴史に未曾有のものであった。当時の進歩的な人々が、腐れ果てた封建の殼から脱け出して、新しい日本人として発展しようとした欲望には、真実が籠っていた。例えば今日常に保守的或は反動的な役割を持っている文部省でさえも創設されたばかりには、本当に日本の人民の間に文字を普及させ、常識を広め、輿論の担い手となり得る人民の文化を導き出そうという熱心な意図をもっていて、先ず『言海』という字引を出したりした。文部大臣であった森有礼は、一人の進歩主義者、或は合理主義者であった。彼は伊勢の神宮へ行って、伝統的な迷信の中心である伊勢の神宮に、真に尊敬すべき何の実体も蔵されていないことを証明するために、御簾をステッキの先で上げて天罰というものの存在しないことを証明した。彼は進歩性の故に暗殺されなければならなかった。なぜならば、当時の日本の支配権力は憲法発布と同時に、はっきりと反動的な政権として国家を統一する方向に向ったからである。
 憲法発布以前、封建の重荷を脱して新しい日本の社会を作ろうとする気運が純粋に高まっていた時代、その先頭に立ったのは板垣退助を首領として自由民権を唱え、一八八一年(明治十四年)に結成された自由党の人々であった。自由民権というとき、当時の日本人は必ず男女平等を考えた。政治上における男女平等の権利及び義務の観念に立った自由民権時代の政治運動は、たくさんの婦人政治家を、その活動に吸収した。例えば有名な中島湘煙(岸田俊子)、福田英子などという当時二十歳前後であった婦人政治家たちが、男女平等を唱えて日本全国を遊説した。大阪などでは少女が、政壇演説に出席したという話さえも伝っている。岡山には女子親睦会という政治結社が出来てあったし、仙台には女子自由党というのが組織されていた。その指導者は成田梅子という人であった。
 これと略(ほぼ)同じ時代、一方に婦人の政治活動が盛んであったと共に、女子教育もアメリカの宣教師たちの指導によって、やはり男女平等を水準として開始された。京都の同志社、東京の明治女学校そのほか仙台、横浜、などに、進んだ女学校が開設された。それらの女学校では全く男の学生と同じに直接英語の教科書を使って、英語、数学、地理、歴史、などの勉強をした。後に津田英学塾を設立した津田梅子が、六つの歳に岩倉具視の一行とアメリカへ留学(明治四年)したり上流婦人でも男に劣らない一般教育の基礎を持つ時代があった。今日、明治の先覚的な婦人として我々に伝えられているキリスト教関係の多くの活動的な婦人は、殆ど皆この前後、いわゆる明治の開化期に、進歩的な教育を受けた人々なのであった。若し日本が、そのようにして歩み出した男女平等の道を、正直に今日まで歩み続けることが出来たならば、日本における婦人の諸問題は、どんなに変った現われをもって、今日の私たちの前にあっただろう。もし、その道が可能であったのなら日本人民全体が決して今日の困難を見ないで、民主化されていたに相違ない。
 日本の明治維新というものはその革命としての歴史的な性格の中に極めて強く、大きい割合で過去の封建的なものをそのままで持ちこした。一応は、封建より近代生産経済にうつるブルジョア革命のようであったが、その最も根柢をなす農業と土地の問題、生産経済の基礎などは、封建時代の制度のままその上へ近代国家としての日本が、おかぐらの二階建として据えられた。例えば土地の問題を見る。日本は封建時代より大地主たる大名があって、その土地は、それぞれの小さい区分に分けられて、名主が管理して、領主に毎年年貢を現物で納めた。つまり米、麦、その他直接生産物で納めた。明治になって廃藩置県が行われた。名主はなくなって村長となり、藩はなくなって県郡となった。けれども、それぞれの土地に居ついて来た農民は、どういう関係で日本の新しい経済機構に結ばれたかといえば、大部分はやはり昔ながらの小作百姓で、耕作の方法も、年貢を現物で払うということも、一家族がすべての労力を狭く小さい土地に注ぎ込む過小農業であるということも、ちっとも変りなかった。年貢の率が、地主と農民と六分四分という点も。土地問題は、今日まで、その封建的のままに来ていて、益々日本の進歩を阻む困難と紛糾の種となっている。生産増強のための大きな桎梏となっているのである。大体、明治維新そのものが、崩壊する武士階級の下級者と幕府より目の届きかねる遠い薩長で経済力を膨脹させて来た大名たちとが、利害を一にして、近代資本家貴族に転身しようとした動きであった。土地問題の近代にふさわしい処理の出来なかったのは、とりも直さず日本の新しい資本主義経済の支配者たちが、同時に封建地主でもあったという事実、利害の打算より来ている。資本家、地主を一身にかねて登場して来たのであった。それとともに、工業はおくれていて、資本主義国家となるためには、辛うじて、繊維軽工業にたよるしかなかった。天然資源にも乏しい。明治政府の本質というものは封建的な地主と軽工業に基礎を置いた非常に薄弱な資本家とによって組立てられていたものであって、この薄弱な基礎を護って権力を強化して行こうとするために、大名と武士から成る支配者たちは、誕生第一日から侵略的な意図を持った。西郷隆盛の政治的破局の原因となった征韓論は、その一つのはっきりした現われであった。
 維新当時、それらの基礎薄弱な資本と地主の支配者たちが、外交関係において、一つの新しい権威を賦与するために、何かの形で主権者を必要とした。その主権者として、封建時代の数百年小大名より僅かな扶持を幕府から支給されて生活して来た京都の天皇一家を招待して来た。明治支配者の利害を共にするために天皇の一家も大地主となり、大財閥に勝るとも劣らない大資本家となった。所有土地百三十五万町歩、有価証券現金三億三千六百万円以上、そして一致した利害に立って、新しい日本の支配権を握るようになったのであった。
 極めて特徴的な明治維新のこういう性格は、初期の動乱時代を過ぎるにつれて、支配方針の確立を求めるに当って、保守的な性質を帯びることは当然であった。自由民権の思想は一八八九年(明治二十二年)憲法が発布されると同時に弾圧を被って、自由党は解散した。憲法発布の翌年、大井幸子という婦人が自由党に加盟しようとした時、それは警察によって禁止された。「集会政社法」というものが出来て、婦人が政治演説を傍聴することを禁じた。
 ここで私共は、一つの驚きを以て顧みる。日本の憲法というものは、何と外国の憲法と性質の異ったものであるかということである。憲法というものは、何処の国でも、支配者の大権と共に人民の権利をも規定したものであり、民主主義の発達した国であればある程、人民の権利に対する規定は全面的で詳細を極めている。男女にかかわらず人民が、その国の社会に幸福に生きるために必要な諸権利と義務については、人民として自主的に積極的に明確にしている。けれども明治二十二年に出来て最近まで伝えられた日本の欽定憲法は人民によって作成され、決定されたものではなかった。支配権力が自身の権力の擁護のためにつくった傾きがつよいから、人民の諸問題よりも大権を絶対のものとして明記してあることに注意が集注されている。人民の諸権利についての具体的条項は、漠然としてしか扱われていない。ましてや、この特異な日本憲法において、全人口の半ばを占める女子の社会的地位を、男女平等の人民として規定しているような条項は、一つもないのである。それは、明治というものの本質から結果された。先に触れたように、明治の支配者が社会に対して抱いた観念は、何処までも彼等の利害を主眼とした富国強兵を主題としていた。農民と土地との関係が、昔ながらの地主と小作の形のまま伝えられたと同じように、「家」というものと婦人との関係、男子に従属するものとしての女子の関係は、殆ど近代化されず封建的のまま踏襲した。
 この深刻な日本婦人の運命に重大な関係をもった明治の特徴は、一八九九年(明治三十二年)女学校令というものが発布された、その内容に、まざまざと反映されている。
 明治の開化期の先進部分の人々には女も男と等しく智慧を明るく、弁説も爽かに、肉体も強く、一人の社会人として美しくたのもしく育ち上らなければならないという颯爽たる理想が抱かれていた。けれども、女学校令の中では、その悠々としてつよい展望は惨めに萎縮させられた。文部省は、女子の社会的存在意味を男のための内助者としての範囲に止めて、教育制度も限定した。それらの保守的な人々は考えた。家庭を円満に治めるためにも、男子の手足まといになりすぎる程物の道理が判らなくても困るが、余りはっきりしすぎて男が煙たいほどでも亦困る、と。その基準で、いわゆる家事科目を中心とした、女子教育の基準が決定されたのであった。これが今日まで女子教育方針の根柢をなしている。そのために外形上、女子大学、専門学校等が出来、何人かの婦人弁護士と、より多数の女医、沢山の女教師が出ている今日でも、その人々の専門家としての力量、社会人としての智力能力は遺憾ながら、大体同じ専門教育を受けた男子と等しくないという悲しい結果を齎しているのである。
 一九〇〇年(明治三十三年)には治安警察法第五条が制定されて女子の政治運動を禁止した。一九〇三年(明治三十六年)堺利彦等によって平民新聞が発刊されたとき、この治安警察法第五条を撤廃させようとして、堺ため子が議会に請願書を出した。第一次大戦終了後の大正年代に、新婦人協会など同じ目的のためにさまざまに努力したけれども、今回第二次世界大戦敗北による、ポツダム宣言によって治安維持法を初め沢山の悪法が撤廃される時まで、婦人独自の力で、この悪法を打破ることは遂に出来なかった。日本では、婦人が地方自治体の政治に干与するための公民権さえも持たなかった。つい先頃一九三〇年(昭和五年)全国町村長会議は、婦人の公民権案に反対を表明している。翌一九三一年満州に対する日本の侵略戦争が始まった。それからというものは、誰も知る通り、日本における婦人参政権運動或は憲法撤廃に対する婦人の活動は全く終熄させられた。婦人参政権の活動家たちは、精神総動員を初めあらゆる戦時総動員に狩り出されて、戦債の買込遊説だの、貯金の勧誘だの、全く軍事協力者として動員されてしまったのであった。最近の十四年間に、日本の婦人の解放運動は、辛じて母子保護法を通過させただけであった。
 さて、明治初期の明るい、しかし未熟の男女平等の社会観念は、このようにして重く暗い日本の封建の土の上に根を下して、世界各国とは全く違った畸形な実を実らし始めたのであったが、この過程に民法と刑法とは、どんな工合に、婦人というものを扱っただろうか。
 民法は一八九六年(明治二十九年)四月、日清戦争後一年に制定された。刑法は一九〇七―一九一二年(明治四十年―四十五年)の間に、日露戦争後二年から着手された。
 民法における婦人の立場というものは、はっきりと文部省の教育方針を照り合せ、しかも最もその消極的な害悪の多い面を照返している。例えば第十四条から第十九条に至る妻の無能力ということに関する条項、第八百一条から第八百四条に至る財産に対する妻の無権利、第八百十三条の離婚についての不平等な規定、第八百八十六条から第八百八十七条に至る親権において母の権利の制限されていること、第九百七十条その他相続或は遺産に対する婦人の差別的な規定、或は結婚届の規定の中にある婦人に不利な内縁関係の規定など、今日婦人の社会的不便を来している幾多の条項がある。婦人は、未成年時代には勿論、総てのことを親の権利によって支配されている。法律上の成年(二十歳)になって、やっと婦人も民法上一人前の能力者になる。と思うと、現在のような結婚難の時代でなければ、それらの若い婦人達は、あらましその前後の年齢で結婚して家庭に入る。妻となった若い婦人たちは、忽ち民法上能力を喪失し、人妻の「無能力」に陥ってしまう。そして、何か女性にとって不幸なめぐり合せが起るとそのことごとに結婚の条項において民法が規定している総ての不合理と片手おちとに苦しまなければならない。夫婦の愛にかかわる貞操の責任に関してさえ、妻は夫とちがった扱いに立たされている。夫に死に別れた時、戸主となるものは自分の息子であるか或は養子であるか、いずれにせよ、その時婦人は相続者の支配の下に置かれる立場になっている。徳川時代女は三界に家なしといわれた。それは、果敢(はか)ない女の一生の姿として今日考えられている。けれども、現在行われている民法の実質は、結局において今日なお女子を三界に家なき者として規定している。それぞれの婦人たちの生涯の努力と実力如何にかかわらず社会的に能力なき者と見なしているのである。
 今日民法における女子の不平等な地位を改善したいという激しい要求が現われているのは、全く自然なことであると思う。何年か前穂積重遠博士が民法改正委員会を組織して、『民法読本』という本も著し、民法における婦人の地位の改善のための努力を試みたが、明治以来の保守的な日本の支配権力は、この委員会の仕事を、蝸牛の這うようなテンポで引っぱった。
 第二次大戦の間に民法における私生子の区別が撤廃された。なぜ沢山矛盾を持った民法の中で、特にこの条項だけがその忙しい時期に取上げられたのであろうか。私たちの常識は、一考して深く頷くところがある。日本の家族制度、財産の相続を眼目にした親子関係の見方においては、嫡出子と庶子、私生子の区別は非常に厳重で、生まれた子供は天下の子供であるという人間らしい自由さを欠いている。けれども、戦争が進行して総ての若者を動員し、彼等の命を犠牲として要求した時に、権力は相続者としての子供を奪われる点を考える親の思惑を憚って嫡出子と私生子の区別をかたくしては不便至極となった。又私生子が民法的の区別のために、彼等の少年時代から受けて来た暗黙の苦痛、その苦痛から出発している社会の不合理に対する洞察力というものを、権力の命のままに生命をすてさせるについて一種の精神的抵抗と感じた。それ故に、死なすという単一な軍事目的のためには嫡出子も私生子も区別はないという根拠から私生子の差別を削除したのであった。公文書その他に、士族、平民と書くことを廃止にした。この理由も同じ由来をもっている。
 これは民法における女子の不平等の問題が、どうして女子の犠牲の多かったこの戦時中に改善され得なかったかという問題を、裏から説明している。忘れるにかたい日本の婦人全般の戦時中の犠牲は、その時こそ、男に優る女の力として、国を背負って起つ女子として、激励され、鼓舞され、全面的に動員された。けれども、動員した権力者は戦争が無限に続くものでないことを十分知っていた。戦争が終った後、職業戦線におこるべき複雑な問題、経済問題、食糧事情等が、どんなに大問題となって、権力者たちの真に人民の政治家としての能力を試すものであるかということは、おぼろげながらも知っていた。それ故、民法における女子の無能力を改正してしまったらば、今日臆面もなく失業させた女子に、家庭に帰れと命じているその口実の最も薄弱な口実のよりどころさえも失われてしまったであろう。この事実を私共は単なる一つの辛辣な観察としてではなく、真面目に深く理解しなければならないのである。
 一八九九年(明治三十二年)福沢諭吉が『新女大学』という本を著わした。貝原益軒の「女大学」が封建社会において婦人を家庭奴隷とするために、女奴隷のためのモラルとして書かれたものであることは前に触れた。福沢諭吉は「学問のすゝめ」を見てもわかる通り、明治開化期における最も活動的な啓蒙家の一人であった。彼は明治になっても華族、士族、平民という身分制が残っていることを不満として、常に自分の著者に東京平民福沢諭吉と署名したくらい気概ある学者であった。この福沢諭吉が益軒の「女大学」を読んだのは、彼の二十代まだ明治以前のことであった。人間らしくない女性に対する態度に憤然として、彼は、長年に亙って極めて詳細な「女大学」反駁論を準備した。そして明治三十二年つまり日本に女学校令というものが出来た年になって、社会一般が婦人問題について漸く受容れる気風が出来たと認めて、始めて「新女大学」を発表した。
「新女大学」の中で、今日もなお注目されるべきことは、著者が、婦人を男子と等しい社会的成員として見てそのために婦人は法律上の知識、経済上の能力、科学的な物の見方というものを身に付けなければならないということを熱心に説いていることである。明治二十九年に制定された民法の女子に関する差別条項を恐らく福沢諭吉は深い感慨を以て見たことであろう。婦人は、法律に関する知識を持たなければ不幸であるということを強調しているのは、民法における婦人の地位がどんなものであるかということを婦人自身が全く知らずにいて、その結果としての悲劇ばかりを生涯の上に負わなければならないことを福沢諭吉は憐れにも思い、はがゆくも思ったからであろう。経済上の知識ということも福沢諭吉の論じている範囲では、あまりに婦人が深窓に育ち世事にうとく、次第に複雑化して来る近代社会の経済関係の中で、常に騙され損失を蒙る可哀そうな立場にあることを見て、婦人もやはり社会の経済に関する理解を持たなければ、家庭の安全と幸福さえも保てないと力説している。この賢明な助力者である福沢諭吉が、婦人の職業的経済的自立の問題に触れていないことは注目される。「新女大学」は、戸主が婦人の社会的地域に十分の同情と理解とを持って、財産相続或は分配の場合に、ヨーロッパ諸国のように、女子にも適当な経済上の保護、分配を与えるべきである、と主張している。日本の家族制度では、相続権は長男にある。同じ子供でも、女子は権利を持っていないことになっている。そのために能力の弱い婦人が、社会的に悲境に陥りがちなことを諭吉は憐んで、女子に対する経済的の保護ということを言っているのである。福沢諭吉が女子の経済的自立をとりあげず、戸主との分配権をとりあげたのは、全く、資本主義国日本としての、ブルジョア民主化の先鞭をつけたものであった。日本の権力は、一方資本主義化の諸悪を社会に発生させつつ、資本主義国の進歩的な面は、最少にしか実現して来なかったのである。今日この点を改めてとり上げてみるならば、第一日本の総人口の九割迄の人々は、一生を働き通して、しかも伝えるものとては借金以外に極く僅かの財産しか持たず、況(ま)してそれを何人かの子供に平等に分配するという程の富を蓄積し得ない人民の経済生活である。従って、第一次大戦後の大正年間に、婦人の経済的独立という問題が社会の各方面から叫ばれたのは当然である。
 大正年代には婦人参政権運動の一群の進歩的な婦人たちと並んで、労農党の一翼として、婦人同盟という進歩的な婦人の団体があった。この団体は、婦人の政治上の権利の平等を主張すると共に、婦人に経済的独立の可能を与えよと熱心に提唱して、女性が社会的発展を遂げる根本条件を確保しようと努力した。しかしこの努力も第一次大戦後の経済破綻、それに伴っての大失業、より多くの女子の失業等の大波に攫われて、まだ人民のものとしての広い活動を展開していなかった。明治開化期以来、日本の民主主義の伝統とその指導力は根本から婦人の社会的地位を向上させるという大事業に成功し得ないまま絶えざる封建性との闘いのうちに今日まで来たのであった。
 明治開化期以後の婦人の文学的作品を見ると、その頃の婦人作家というものがどのように女の生活を見ていたかが非常によく分る。明治二十年代に三宅花圃が「藪の鶯」という小説を書いた。坪内逍遙が「当世書生気質」を発表した頃で、それに刺戟され、それを摸倣して書いた小説であり、当時流行の夜会や、アメリカ人や洋装をした紳士令嬢などが登場人物となっている。十八九歳だったこの才媛は、既に反動期に入った日本としての、女権拡張の立場に立って婦人問題を述べている。花圃の小説中最も愛らしく聰明な婦人と思われている女主人公は、日本の富国強兵の伴侶として、その内助者としての女性の生活を最も名誉あるものと結論しているのである。後年花圃の良人三宅雪嶺とその婿である中野正剛等が日本の文化における反動的な一つの元老として存在したことと考え併せると、極めて興味がある。
 樋口一葉の小説は、今なお多くの人々に愛せられているし、明治文学を眺め渡した時、婦人作家として彼女くらい完成した技術を持っていた人はなかった。しかし日清戦争前後に生活した一葉が描いている婦人の世界というものはどういうものであったろう。有名な「たけくらべ」は詩情に溢れた作品である。主人公達、少年少女としての朧ろな情感の境地は叙情的に、繊細に美しく描かれていて、独自な味いの作品である。そこに一貫しているものは稚い恋心と下町の情緒、吉原界隈の日常生活中の風情、その現実と夢とを綯(な)い合わせた風情である。
「にごりえ」の女主人公であるお力は酌婦である。けれども、生れは士族である。そのことを心の秘かな誇りとしている女である。が、男とのいきさつの痴情的な結末は、いわゆる士族という特権的な身分を自負する女性も酌婦に転落しなければならない社会であり、しかもその中で自分の運命を積極的に展開する能力をもたなくて、僅に勝気なお力であるに止り、遂に人の刃に命を落す物語が書かれている。一葉が、若い時代の藤村、その他『文学界』の同人達の間に移入されていた、ヨーロッパ風のロマンチシズムの雰囲気に刺戟されたことは、彼女の傑作「たけくらべ」を生む、つよい精神的モメントになった。彼女自身の持っている古風な封建風な潔癖さとも非常によく調和させ、「たけくらべ」という一つの珠玉が生れた。作品でない日記をよむと、一葉が生活と苦闘して、女が社会からうけている扱い、又女同士の間、文学の仲間たちにさえある貧富の懸隔とその心理などについてどんなに鋭く感じ、疑い、悩んでいるかがよくわかる。しかし、当時の彼女の「文学」という観念は、それらの人生課題をじかにとり上げさせず、作品として出たものは封建と新社会との敷居の上にたゆたって、定め難い薄明りの故にこそ一つの美しさを保っているという性質のものであった。
 平塚雷鳥を主唱者とした「青鞜社」の運動は、日本にイブセンとかエレン・ケイとか、婦人の解放を観念の面から取扱った思想が文芸運動として輸入された一九〇八年頃(明治四十一、二年)結成された。『青鞜』は文化運動としての女性の天才の発揮、限りない知的能力の発露ということを目標とした。けれども、根深い婦人の文化運動として永続することは不可能であった。青鞜社の人々の多くは、文化がどのような関係で経済的な社会上の基礎の上に発生するものであるかを知らなかった。経済的に自立する丈の能力を持たず、さりとて、社会的な勤労に従事したこともなかったそれらの婦人達が集まって、文化文学についての情熱を吐露し合ったとしても社会生活における根のなさ、経済的親がかりの事情は、彼女たちの現実の能力を制約した。観念の上で、どんなに純粋に天才を叫んでも、彼女達の現実はやはり紡績工場の女工のハナ子、トメ子が縛られていると全く同じ家族制度と、民法と刑法の中に棲息していた限り、彼女達の飛び立とうとした翼は歴史の中で十分に伸ばし得なかったのであった。
 この時代に『白樺』の人道主義運動も起った。『白樺』は人間の尊重、芸術の尊重、人間精神の尊重を主張した。『白樺』によって紹介されたヨーロッパの芸術家達、例えばトルストイ、ロダン、ロマン・ローラン、ホイットマンなどは何(いず)れも日本の文化に新しい息吹を吹込んだ。白樺運動の、当時まだ若かった武者小路実篤その他の人々は日本にとって一つの新しい魅するところある新鮮な力であった。けれども、そののち何年かを生き古した武者小路実篤が、今回の戦争中、どれ程無智な一人よがりの気持で戦争に協力したかということを見れば、社会的観察力の欠けた人道主義やその感激というものが、歴史変化に伴ってどんなに堕落し、いつともしらず全く非人間らしいものになるかということの、恐ろしい例を見ることが出来る。日本の人道主義者であった武者小路実篤が、今日そのように堕落したという悲劇は、彼が要するに華族の息子で、社会の現実の機構、そこにしっかりと結びついている人間の働き、それの客観的な意義を全然知らないで、曾て彼が書いた作品の題のように、「わしも知らない」ままに、文化的にも拭うことの出来ない人間的罪悪を犯した。私たち婦人は、悪よりも悪い無智というものを生活から追放しなければならない。沁々とそれを思わずにいられない。

        戦争の犠牲

 軍事的な日本の権力が満州を侵略し、中国を侵略し、大規模の侵略戦争を開始したのはいまから十四年前であった。一九四一年十二月、真珠湾の不意打攻撃を以て太平洋戦争に突入した。そして、一九四五年八月十五日無条件降伏を以てこの惨劇を終った。特に太平洋戦争が始まってから、我々日本の人民は、その戦争を大東亜戦争という名で呼ばされた。且つ「聖戦」と言い聞かされた。ところが敗戦してポツダム宣言を受諾した時、日本は連合諸国から戦争犯罪国として、対等の国際的自立性を奪われた。私達祖国を愛する者は、この戦争の結果を悲しい心で受取った。そして、或る人々はきっと思ったに違いない。昔から喧嘩両成敗という言葉がある。国際間の戦争にしても必ず相手はあるものを、なぜ日本にばかりに戦争犯罪国の責任が負わされるのであろうか。それは日本が敗けたから、勝った側から、勝った勢いでそのような道徳責任までを負わされるのではあるまいか、と。私達は自分たちが、自信をもって生き、明るい日本建設のために、新しい民主日本を形づくってゆくために、この疑問の感情を究明し、国際間における日本の戦争責任の意味を十分理解しなければならないと思う。さもなければ、誤った狭い民族意識に捉われ、その民族意識は反動者に巧に利用され、結果としては、私たちの手がやっと端緒についたばかりの民主政治を再びまき上げられてしまうことにもなりかねない。私たちはわが祖国を愛し守ることにおいて、聰明でなければならない。
 なぜ日本は第二次ヨーロッパ大戦において侵略戦争の責任者と判断されているだろうか。遡って考えると、二十八年前(一九一四―一九一八)の第一次ヨーロッパ大戦において、ヨーロッパ諸国及びアメリカは深刻極まる戦争の惨禍を経験している。ヨーロッパ資本主義間の利害の矛盾が、第一次大戦を起したことは誰の眼にも明瞭である。同時に、あれ程多くの血を流し、あれ程多くの人々の命を失い、国民生活を互に破滅させ合いながら、その結果としての国際連盟や軍備縮小会議などは平和建設の上に極めて薄弱な力しか持ち得ないことも、ヨーロッパの人々は発見していた。国際連盟が出来たと同時に、既に第二次世界戦争の危険は、総ての人に警戒されていたのであった。ヨーロッパの第一次大戦において経験された破壊を心から嘆き、戦争が非人道的な所業であることを心から恥じているヨーロッパの多くの進歩的な人々は、真面目に第二次大戦を防ごうとしていたし、あらゆる形、あらゆる会議、あらゆる力の均衡を発見する方法をつくして、危機に迫って来る第二次戦争を防ごうとしていた。その時に、ドイツのナチスとイタリーのファッシストと日本の侵略的支配者はヨーロッパのその矛盾、ヨーロッパ内部のその苦悩に乗じて、折あらばと漁夫の利を求めて、第一次大戦時代からちっとも本質の進歩していない侵略戦争を計画した。
 日本が満州に侵略を開始したのは、ヨーロッパが戦争を避けようとしてあらゆる努力を尽している、その忙しさの隙に乗じた仕事であった。ナチスがヒットラーの性格異常者的な独裁力によって国民に犠牲を払わせ、いわゆる電撃的侵略を開始し、イタリーもその驥尾に附した。平和に対する世界の努力を、暴力的に破壊させる切掛(きっかけ)を合図し合うための同盟を結んだ三国は、西に東に兇暴な力を揮い始めた。そしてヨーロッパが戦禍に陥った機会に乗じ、日本は更に手を伸ばして真珠湾、南洋諸島、東亜諸国に侵略を始めた。
 人が重い病気に罹った時、それを癒すために協力するのが人間らしい仕業であろう。或は、その病気を一層重くさせ一層余病を併発させ、命を危くさせようとあらゆる手段を尽すのが、人道の行為であろうか。これに対する答えは子供でも知っている。日本その他二つの同盟国が、国際間に取った所業は、真剣な平和建設の努力を横紙破りの暴力で破壊し、世界を混乱に導いたという意味で決して正義の行動ではなかった。道徳的責任を十分に問われるべき立場にある。日本が戦争侵略責任国として国際的処罰を受けるのは避け難いことである。それというのは、第一次ヨーロッパ大戦において、日本の財閥と軍閥とは儲けこそしたが痛手というような痛切な経験は一つもしていない。折を見て、連合国側にちょいと参加して、南洋の旧ドイツ領の委任統治地を稼いだし、青島に日本名で町名をつけることに成功したりした。人民の生命に責任を感じない彼等は近代戦争の惨劇というものを根柢から理解していなかった。三十年四十年と後れた平面的な戦争技術と戦術と生産能力への無智、世界情勢への無判断のまま、この大戦争に突入した。世界的な理解を持っているために戦争参加を危うがった政治家、銀行家、その他は二・二六事件という暗殺事件によって、生命を奪われているのである。
 ところで、この頃よく、日本は強盗戦争をした、といわれる。それをきいたとき、私たちの心もちは、どうしてもそれをうけ入れかねる。自分たちは、一つも強盗戦争なんかしなかった、という反対の心持がする。ここが、非常に重大なところだと思う。本当に、私たち七千万人の日本の人民は「いくさ」をした者であったのだろうか。私共総てが、愧(は)ずべき戦争犯罪者であるのだろうか。この点は十分考えてみなければならない。なぜかといえば、これ程大きな犠牲と、これ程大きな社会生活の破壊を齎した戦争を、いざ始めるという時、私達人民は当時の政府から民族の信仰的よりどころといわれる天皇から、どんな相談を受けただろう。どこに、どんな人民の大会が持たれたか。どの新聞が、世間の輿論を尋ねたか。真珠湾の攻撃が、十二月八日の朝突然発表されて、人々は驚いてアメリカとの戦争が始まったことを知った。全く不意打であった。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:107 KB

担当:undef