未開の花
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著者名:宮本百合子 

 家中寝鎮まったものと思って足音を忍ばせ、そーッと階下へおりて行ったら、茶の間に灯がついていて、そこに従弟が一人中腰で茶を飲んでいた。どうしたの今時分まで、というと、鼠退治さ。栗のいがってどこにあるんだい。さア、私も知らないけど。そう答える私は元禄袖のどてら姿、従弟はその辺にあった膝掛けを洋服の上から羽織った恰好で、お茶を注ぎ、寝ようよ寝ようよと云いながらつい話が弾んで明方近くになってしまった。
 若いサラリーマンである従弟の話の中に、この頃の若い女のひとで結婚はしたくないが子供だけは欲しいって云うのが随分あるねということがあった。或る気質の女のひとが男などと話しているときの一つの姿態としてそういう表現でものを云うようなことも少なくはないであろう。女のそういう時の本当の心持、うその心持の綯(な)い交る状態を寧ろ面白く思ってきいたのであった。
 そのことはそれきり忘れていて、先晩、ある会で婦人の評論家にあった。中心の話題は文学のことであったが、偶然向い合わせに坐ったそのひとは、ねえ、あなたはどう思いますと、若い女のひとの中に結婚はいやだが子供は欲しいと云う人があることについて話すのであった。その席では、まわりとの関係でそのまま発展されずに終ったが、私の心の中に言葉は活々とのこされた。何故なら、私は前にも自分が同じことを従弟からきいたことを鮮明に思い出したから、そして、探究心を刺戟されることを感じた。
 日本の若い女のひとの間にあるその心持というのは、本気かしら。本気ならば、何故彼女たちの感情はそういう形をもって女の新しい生活への要求を表現するのであろうか。そこには様々のものが錯綜している、そう感じられるのであった。
 ロマン・ローランは有名な「ジャン・クリストフ」の中で実によく女の多様なタイプを描いている。それぞれに異った性格、生きかたをするそれぞれの女が驚くばかりの瑞々しさで極めて感覚的に、肉体と精神とで活かされている。「魅せられた魂」という長篇を、同じこの作家が書いた。アンネットという教養のある、深い心持をもった若い女が中心の人物となって、展開するのであるが、アンネットが自分の女性完成のために選んだ路は独特なものであった。アンネットは婚約の青年をもっていたのであるが、彼女は従来の仕来りどおりの結婚生活の中で二つの人間的な要素、個性的な特色が互に減殺しあうこと、愛情が見せかけの仕草や慣習の一つに堕すことなどを嫌って、通常の結婚生活に入ることを拒む。けれども、アンネットは女性としての完成、そのたっぷりした成熟をねがう心は切である。謂わばそのために却って昔からの偽善的な夫婦生活の惰力を厭っているのである。アンネットは決心をして、婚約の青年と或る期間生活を共にした。母になる可能性を信じるようになって、その青年とは訣(わか)れてしまった。
 これは作品の第一巻の部分をなしている。生れた男の子によって、アンネットの母としての生活が更にどのように進展するか、生まれた息子自身は自分の出生に際してとった母の態度をどう見るか。それらのことは巻を追うて描かれてゆくのであるが、私の心に、ほんの一部分しかまだ読んでいない物語の冒頭が思い浮んだのには、理由がある。バルザックが彼の太く膏(あぶら)ぎったペンで、結婚の儀式のかげにかくされている金銭取引の憎むべき社会悪を摘発してから、フランスの社会は多くの推移を経験した。それにもかかわらず、結婚生活というものはその形式の本質の中に、アンネットの要求を必然ならしめるような社会的羈絆を女の肉体と精神との上になげかけることに於ては今日もまだ変っていない。その苦痛と抗議とには、言葉と身ぶりが違っていてもやはり日本のすべての女の感情が共に鳴っていると思われるからである。
 アンドレ・ジイドは、ロマン・ローランと大変ちがった描きぶりで女を描写する作家である。ロマン・ローランの描く女は、まざまざと感覚に迫る肉体をもっている。乱れたり、調えられたりする各々の息づかいと髪とをもっているのであるがジイドの作品の中で、女は余りはっきり体を見せず、多く内的過程によって描かれている。二つの作家は、二様の美と、卓抜を示しているのである。ジイドの描いたジュネヴィエヴという十八歳の娘は、(未完の告白)平俗偽善な小市民的父親の「良俗」に反抗し、抗議せずにいられない情熱から、自分の独立を、自分の不服従を、女性だけがなし得る出産という行為で、明らかにする欲求から結婚もせず、恋愛からでもなく、子供を持とうとする。母の親友であるマルシャル国手をジュネヴィエヴは自分を母にしてくれる人として選ぶのである。マルシャルはその申出を拒む。何故ならマルシャルは妻を愛しているから、と。後に、ジュネヴィエヴは母にそのことを話し、はじめて、母がマルシャルに或る期間心をひかれていたことがあったと知った。マルシャルが彼女を拒んだ心持の微妙なニュアンスを、ジュネヴィエヴは理解することが出来たのである。
 アンネットとジュネヴィエヴとの間には、共通なものと全く別のものとがある。旧来の結婚の形式が偽善と心ならぬ犠牲、真実の愛の感情さえ殺すような重しを女にかけることに抗議する心持の上で、この二人は全く同腹の姉妹である。けれども年上であり、成熟した女性であるアンネットの肉体と精神との中には、既に感覚として、自覚される欲望として異性を愛し、抱擁しようとする熱情があるのであるが、若いジュネヴィエヴはこの点ですっかり違う。「私の肉体は少しも私の精神の脱線を諾(うけが)わなかったのです」そして、彼女はそういう自分の肉体の行儀よさに立腹したりした。現実の感覚を知らぬジュネヴィエヴは、非常に率直に、具体的な言葉で問題を出すが、情熱がさめているアンネットの方は、すべてをもっと抽象的に話す。これも、作者の洞察の二様の鋭さであって深い興味を呼びおこす点である。
 近頃日本でも一部の若い女のひとが結婚はせず母にはなりたいという、その言葉の中に、どれだけの現実性があるのだろうか。又どれだけの部分が文学的な表現であり、更に下っては誠意のない一つの嬌態なのであろうか。
 女がその生涯の終りに、自分が女であることの歓喜に包まれて死ねるように生きたいと希う心は激しくつよいのであるが、女としてのよろこび、悲しみの自覚のむこう側にはいつも分担者としての男がなければならず、更に大きい背景として当代の男女を活かし殺す時代というものの歴史性の強い作用がある。現代が、女としてのぞましい結婚のむずかしい時代であること、のぞましい結合に障害と破壊との加えられ易い時代であることは明らかなことである。けれども、子供はもってよいというひとが、どうして、その前の、男女の結合の形態を、社会常識の上でもっと広やかで自然な、人間的な、相互交流の形に高めようとする情熱を感じないのであろう。その情熱ぬきに、子供の側から見れば、それが多くの場合歴史的な桎梏となっている今日の親子関係の旧套を、そのまま肯定しようとするのであれば、その間には腑に落ちかねる飛躍があると思う。貞操の観念に対して女は久しく受動的であり、無智であったことから悲劇をくりかえしているのであるが、母性の神秘化、抽象化にもおそろしいものがかくされている。「未完の告白」を作者はジュネヴィエヴの人間性のどのような発展において大きい社会的意義のある彼女の抗議を完結させるのであろうか。〔一九三七年一月〕



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